【天候】晴れ
【宿場】(50)水口宿⇒(51)石部宿

【行程】歩行距離=5.65㎞ 総距離=448.67㎞
水口石橋駅・駅入口⇒(1.30㎞)⇒109林口一里塚⇒(3.20㎞)⇒110泉一里塚⇒(1.15㎞)⇒三雲駅・野村薬品店前

【ルート図】
  宿場(黒囲みが第33回旅の宿場)

17 33回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
   (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第33回
  第33回の旅ルート
   (近江鉄道・水口石橋駅入口 ⇒ 三雲駅・野村薬品店前)

第33回ルート
【序章】
旅の準備は、自治体や観光協会から頂いた資料、先人のブログを参考に、持参する旧東海道の地図に史跡場所を書き込み準備を整えました。
また、旅の支度は14日(木)から二人の持参する荷物と着ていくものを準備し、前日に再度着て行くものと持参するものを点検及び出発日の朝食、貴重品類、血圧計(手首式)などをチェックリストを基に整えました。
着る物及び着替えは、日本気象協会の予想気温を参考に用意し、寒さ対策を考え雨着兼用のゴアテックスジャケットを着て行くことにしました。

【朝】
04時30分、起床
朝食は新幹線の中で食べることにし、せかせかしないで身支度出来るように、前回と同じように早く起床するようにし、目覚ましの音楽で目を覚まし、「Yumiさん、旅に出掛けるよ」と声を掛け、ベットを出ました。
今日のYumiさんの血流はあまり良い状態ではなく、
《体重測定》
体重のみ記入し、体脂肪の数値は記憶できず、体脂肪と内臓脂肪は記入しませんでした。
《洗顔
「何するんだっけ」と少し考えてから動き出し、洗顔クリームを使って洗顔しました。
《整髪》
洗顔が終わったら洗面所から出て行こうとするので、「頭は?」と云うとクルクルドライヤーとブラシを取り出しましたが、ヘアーミストを忘れたので「これも」と教えました。
Yumiさんは、ブラッシングした後にクルクルドライヤーで整髪し始めたのですが、私が洗面所を出て足のケアを始めてもまだ続いているので、「まだ終わらないの」と聞くと、やっと整髪が終わりました。
《血圧測定》
身支度を整える前に、血圧測定を行いました。
寒い部屋が影響しているのか170台の高い数値となり、10分後にザックから手首式の測定器を取り出して測りましたが、結果は大差ありませんでした。
エアコンの消し忘れのため点けていないことや、起床後15分後くらいの測定が早いのか、いろいろと高くなる原因があるので、少し様子をみようと思います。
《身支度》
下着を着替えてもらい、
①Yumiさんを椅子に座わらせ、両足(膝・すね・ふくろはぎ)に軟膏を塗る
②両足の膝の両側にシップ薬を貼る
③CWXタイツを穿く
CWXは、足全体をサポートするスポーツタイツのため健常者の人でも穿くのが大変なので、認知症のYumiさんが穿く時は私が手助けして二人がかりで穿きます。
その後の着替えも順番に着るものを用意しておいても、確認を求めてきたり、順番に関係なく着込んでしまったりするので、私の着替えを中止して見守る必要があります。
今日は、Yumiさんが着替えを始める前に足のケア(Yumiさんの①と同じこと)を済ませていたので、CWXを穿くところから身支度を整え、私の身支度が整ったところで、コソプト配合目薬の点眼を行い、旅先で使う血圧計を再度ザックに入れ直して出発前の準備が終わり、旅に出発しました。

朝の冷たい風を受けながら自転車を走らせ最寄り駅から電車に乗り、東京駅に向かいました。
東京駅に着き、新幹線ホームに行く前にトイレに立ち寄ってからホームに上り、列に並ぶ(4番目)と間もなく新幹線が入線し(7時15分)、4号車に乗りました。
車両中程の座席に座り、持参した朝食(菓子パン・ジュース)を食べ終わったところでペットボトルを忘れたことに気が付き、急いで(発車2分前)ホームの自販機で購入しました。
07時33分、東京駅発(ひかり503号)

003 新幹線車内
新幹線は定刻に出発し、乗車率は約30%程度と、かなり空いた状態で、4号車は品川と新横浜で60%、小田原でほぼ満席と、前回の旅の時と同じような乗車率の感じでした。
東京を出発した時、晴れていたので「富士山が眺められたらいいね」とYumiさんと話して待っていると、期待どおりに綺麗な富士山眺められました。
  ↓富士山(三島~新富士辺り)

007
  ↓浜名湖(良い写真が撮れませんでした)
009 浜名湖
今日は新聞朝刊を持参したので、外を眺めたり、新聞を読んだりして時間を潰し、Yumiさんはコックリ、コックリと寝ていました。
豊橋駅を通過する時、
E=ここの駅で泊まったんだよ
Y=覚えてない
と、つれない返事が返ってきました。
新幹線は名古屋で多くの人を降ろしましたが、同じくらいの人が乗車してきてほぼ100%の乗車率で出発しました。
Yumiさんにトイレのことを聞くと「嫌」と云うので、列車内でのトイレを止め米原駅でトイレに行くことにし、私だけゴミを捨てに行った時にトイレを済ませました。
09時45分、新幹線米原駅着
ここでびわこ線に乗り換えるのですが、まずYumiさんをトイレに連れていき、15分後の電車に乗ることにしました。
10時00分、びわこ線米原駅発

010 琵琶湖線車内
途中、進行右側の高台に建っている彦根城があり、車中から写真を撮ろうとしたのですが、手前の家が邪魔になり写真は撮れませんでした(残念!!)。
10時44分、びわこ線草津駅着

015 10時57分柘植行き
10時57分、草津線草津駅発
016 草津線草津駅ホーム
018 草津線車内
草津線は、今日から旅をする街道の近くを走るので景色を眺めたかったのですが、陽射しが眩しくシャッターを下ろしていたので、反対側の車窓から景色を眺めていました。
11時21分、草津線貴生川駅着
近江鉄道に乗り換えるため改札で切符を購入し、4両編成の電車に乗りました。
11時30分、近江鉄道貴生川駅発

021
定刻どおりに出発し、2駅目の水口石橋駅に着く前に、車内放送で「無人駅のため、切符は1両目の運転手に渡して下さい」とアナンスがあり、1両目に移動して運転手に切符を渡して下車しました。
11時36分、近江鉄道水口石橋駅着

024 水口石橋駅改札
水口石橋駅を出て今日の出発地を一度通り過ぎ゛、自販機でペットボトルを2本買ってから昼食を食べに前回の旅の帰りに立ち寄った「スナック・ポエム」に入りました。
11時38分~12時25分、昼食(カフェポエム)

025 スナックポエム前
店内には2組の先客がおりましたが、前回の旅の時に座った席が空いていたので同じ席に座りました。
  ↓店内

027 ポエム店内
店内に入ると店主は私達のことを記憶していて、温かく迎えて下さり、生姜焼き定食(@800円)を注文しました。
料理が出てくる前にトイレに行っておこうとYumiさんに聞くと、「どうしようかな」と云うので、「行った方がいいよ」とトイレを済ませました。
料理は、なかなか出てこなくて、12時過ぎてからやっと出てきました。
Yumiさんが出る前にトイレに行ったので、精算を済ませると、
店主=今日はどちらまで行かれるのですか
E=今日は三雲までで、明日は手原駅まで歩きます
店主=あー、そうですか
E=今日は、また「あや乃旅館」に泊まります
店主=気を付けて歩いて下さい
E=ありがとうございます
と、店主と話しをして店を出ようとしたら、奥で調理中の奥さんが調理場から顔を出して見送って下さいました。
温かいご夫婦の見送りを受けて、旅に出発しました。
店の横の踏切を渡り、今日の出発地である「水口石橋駅入口」で、出発式を行いました。
12時30分、水口石橋駅入口(出発地)
030
出発地を出て直ぐの右側に山蔵がありましたが、改修中でした。
12時32分、天王町山蔵(山車の倉庫)
032 山車の山蔵
江戸時代、水口は東海道の宿場町で、加藤氏二万五千石の城下町として政治、経済、文化の忠臣として栄えました。曳山祭りはこの町に住む町衆の力によって、享保2年(1,725)に登場し、最初は9基の巡行から始まりその後、町ごとに曳山が建造され30基あまりになりました。曳山は「二層露天式人形屋台」構造で、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾り、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物を乗せて巡行します。また、山車の構造から組み上がった状態で山蔵に収納されている。
山蔵から約40m先の右側に、甲賀市水口地域市民センターがあり、その中に甲賀市ひとまち街道交流館がありました。
12時35分、甲賀市ひとまち街道交流館

034 甲賀市ひとまち街道交流館
施設は、特産品等の紹介や講演会の開催などや宿場を散策される方の憩いの場としてできたようで、トイレがあるなど旅人には有難い施設です。
私とYumiさんは、トイレを済ませて出発したばかりのため、立ち寄らずに入口で失礼しました。
門を出て約160m先の左側に湖東信用金庫があり、その前を右折するのですが、曲がる右角に水口城天王口御門跡碑が建っていました。
  ※分岐(右折)

037 分岐(湖東信金前を右折)
12時40分、水口城天王口御門跡碑
038 水口城天王口跡碑
水口城天王口は、江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれていた。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻るように出来ていました。また、天王口の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。
右折して約140m先の突き当りに、文字抜け看板の店がありました。
12時44分、花(喜)米穀(店
040 文字ぬけ看板
文字抜け看板の店の前を左折し、約150m歩いた左側に心光寺があり、その境内に大きな木があるというので立ち寄ろうとすると、Yumiさんが「行きたくない」と云うので、少し左に入った処から写真を撮ることにしました。
12時45分、心光寺の樹
041 心光寺の大きな木
街道に戻り、約100m先の十字路を左折して水口城資料館に向かいましたが、十字路を左折して約60m先の左側に、巌谷一六先生旧居宅跡碑が建っていました。
12時47分、巌谷一六先生旧居宅跡
042 巌谷一六先生旧居跡碑
巌谷一六は、明治時代に貴族院議員になった人で、書家としても有名だったらしい。
この先(約90m)の交差点で道路の右側に渡り、約180m先の右側に水口城の櫓が見えました。
道路の反対側は、県立水口高校です。
道路を右に入って約50m歩くと左側に水口城跡の碑が建っており、碑に沿って左に入ると木造橋が架かっていて、渡った左側に資料館の入口がありました。
12時52分~13時01分、水口城資料館

046 水口城址・入口

水口城は、寛永9年~11年(1632~1634)に、徳川三代将軍家光の宿所(御茶屋御殿)として作られたのが始まりで、幕府は城番を置いて管理していました。天和2年(1682)に加藤明友(加藤嘉明の孫)が2万石の大名として入城し、水口藩が成立しますが、将軍宿所として作られた豪壮な殿舎を、居所や藩庁として使うのは抵抗があったのか、本丸の外に二の丸を築き、そこに藩庁や武家屋敷を建てたそうです。
資料館は有料(@100円)ですが、今日は無料開放ということで、無料で館内を見学させて頂きました。
048 水口城資料館内
  ↓城郭の模型
050 水口城模型
館内ではVTRが放映され4~5人の人が見ており、資料を見ているのは私とYumiさんだけでした。
係員の人からいろいろと勧められるのですが、ここでゆっくりしていられないのと、Yumiさんがまったく興味を示さないで先に行きたがるため、約10分程で失礼することになりました。
資料館を出て元の街道に戻り、再スタートをしました。
13時06分、街道旅再スタート
約120m歩くとT字路となり、ここを左折して直ぐ(約30m)の左側に白い壁の連子格子の家がありました。

052 昔ながらの住居
格子戸のある家から約70m先の三叉路を右折するのですが、右角に力石がありました。

053 分岐(右折)
13時09分、水口石
054 水口石
水口石は、東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石で、「力石」とも呼ばれている。
江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。
この辺りは水口藩の藩庁にも近く、長大な百間御長屋や小坂町御門など城下のたたずまいが濃かったところです。
水口石を右折して約120m歩いた左側の小公園の前に、百軒長屋跡がありました。
13時13分、百軒長屋跡
056 百軒長屋跡
目印は、右隣りに黄色の鳥居が数個立っています。
百軒長屋は、
水口城の西北に位置し、東海道に面して存在した東西に延びる長大な長屋で、「百間長屋」と称した。百間(約180m)の棟割長屋には主に足軽や下級武士が住んでいた。南側が郭内という武家地で玄関があり、東海道に面した北側は裏になり、武家地と町場とは自由に往来できなかった。往来に向かって小さな窓があり、ここから東海道を往来する物売りから者を買った。現在はその数戸分が残存している。水口藩成立後の建築で、南側に藩庁などの重要な施設があったことから、その防御的機能を果たしていました。
百軒長屋跡から約40m先の右側に、真徳寺があり寺院の山門に藩士の長屋門が移築されているというので、立ち寄りました。
13時15分、武家屋敷門(真徳寺)
059 武家屋敷門(真徳寺)
徳寺の表門は、水口藩士の邸の長屋門を移転したものです。石高70石程度の中級藩士の長屋門で、改造は著しいが旧藩時代の家臣屋敷に関する唯一の現存建物である。
境内墓地には同藩出身で、明治時代の代表的な書家である巌谷一六家の墓所ほか、旧藩士の墓が多く残っている。

真徳寺の参道に入る左角に、お目出度い鬼瓦がありました。
  ↓宝船の鬼瓦

062 宝船の鬼瓦
真徳寺参道入口から約230m歩いた右側に五十鈴神社があり、神社の右角に日本橋から109番目の林口一里塚があり、塚跡に石碑が建っていました。
13時20分、109林口一里塚跡

063 109林口一里塚碑
林口一里塚は、現在のⅰりやや南方にありましたが、水口城の郭内の整備にともない東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移りました。
一里塚跡を確認した後、五十鈴神社に参拝しました。
13時21分、五十鈴神社
065 五十鈴神社・鳥居
鳥居を潜り境内に入ると、右にヒノキ、左に杉大木があり、境内の奥に本殿のお社が建っていました。
Yumiさんと二人でお賽銭をご奉納し、
・Yumiさんの認知症と緑内障の完治
・東海道の旅のご加護
を声を出して(Yumiさんが分かるように)ご祈願しました。
街道は、一里塚跡碑の処が突き当りになっているので、T字路を左に曲がり、さらに約60m先の十字路(信号有り)を右折しました。
  ↓分岐(十字路交差点を右折)

071 分岐(右折)
右折する角にひまわり薬局があり、交差点の辺りが「西見附跡」だったようですが、史跡は確認できませんでした。
交差点から約200m歩いた左側に、美冨久酒造があり立ち寄りました。
13時29分、美冨久酒造
073 美富久酒造
酒造は、東海道の街道沿いにある、創業約100年の蔵元です。美しく冨くよかな人生を幾久しく続けたいという願いを込めて、『美冨久』という銘柄を醸しています。昔ながらの”山廃仕込”による酒造りを中心とした酒造りを行い、お酒の多くをこの”山廃仕込”で醸しています。
私はビールか焼酎を主に飲み、日本酒はあまり飲まないのですが、宿泊するあや乃旅館に到着地まで迎えに来て頂くので、お礼に何かお酒を買っていこうと考えていました。
この先、手に提げて歩くので、なるべく負担にならないものと考えていると、店の方がこれはどうですかと勧められた地元の土山茶を使った「茶の酒」を購入することにしました

075 茶の酒
※店の中に地図や資料を綴じたバインダーを置き忘れて出発すると、店の方が走って届けて下さいました。
酒造を出発し、街道を約250m歩いた左側に、北脇畷と松並木の碑が建っていました。
13時39分、北脇畷と松並木
080 北脇畷松並木
北脇畷と松並木は、
東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれていました。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としてことにちなむと考えられます。
また、江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があり、街道は近隣の村々に清掃場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれています。
北脇畷の道路は一直線で、左側に6本の松並木になっていました。
畷の看板から約350m先の右側に、五体屋根付き地蔵尊がありました。
13時45分、五体屋根付き地蔵尊

082 五体屋根付きお地蔵様
お地蔵様から数mの左側に、小さい祠のお社が祀られていました。
084 小さなお社
お社から約180m先の左側に北脇バス停があり、どのくらいの頻度でバスが走っているのかと思いました。
085 北脇バス停・時刻表
時刻表を見たら、今日の到着地であるJR三雲駅に行くのは夜に2本、市役所に行くのは午後4本と、本数の少なさに驚きました。
北脇バス停から約400m歩いた右側に甲賀市柏木地域市民センターがあり、JA寄りの街道沿いに「時の鐘モニュメント矢倉」がありました。
13時54分、時の鐘モニュメント矢倉

086 時の鐘モニュメント櫓
モニュメントの側面には、広重の水口宿の浮世絵等が描かれており、側面扉を開けて楼内を覗くと、広重の「東海道五十三次」、水口宿の屋外で干瓢(かんぴょう)を干す農民達を描いた浮世絵を、人形を使って立体化したジオラマがあり、そのさまを筆でスケッチする広重本人の人形も一緒にジオラマの中にありました。
  ↓動く人形(ガラスが反射して見えないのが残念です)

088 モニュメントの中のからくり人形
※時の鐘モニュメントは分かりやすい場所に建っているので、ご覧になることをお勧めします。
モニュメントの先隣りにJA支所があり、その前の道路反対側に建屋式のバス停があり、休憩しました。
13時56分~14時02分、休憩(JAこうか柏木支所前バス停)

089 JA前バス停
建屋のバス停は、雨避け、風除け、体力の回復に助けられており、大変ありがたく思っています。
維持管理は大変かと思いますが、長く存続してほしいと思います。、
ザックを背負い直して約350m歩くと信号のある柏貴農道があり、さらに約200m歩いた右側に真っ黒な壁の家が畑の中にポツンと建っていて、少し異様な感じがしました。
14時08分、畑の中の黒い家

090 黒壁の家
黒い家の前から約200m先の右側(木島宅)の屋根に、カエルを連想させる鬼瓦が目に入りました。
14時13分、鬼瓦(カエル?)
091 鬼瓦(カエル?)
鬼瓦から約40m先の右行き道路の右角バス停脇に、道標が建っていました。
14時15分、山村天神道道標
092 山科天神道道標
道標から約450m歩いた右側のフクイ理容店の手前に、田代章鯉があり屋根に鯉の鬼瓦が飾られていました。
14時22分、鬼瓦(鯉)
094 鬼瓦(鯉)
鬼瓦部分に鯉が二匹。
火事除けの御守りで水に関する魚となったのかな?
今日は、いろいろな鬼瓦を見る一日になりました。
ここから約180m歩くと、左側に松並木があり勝手に泉一里塚の近くだったので「泉松並木」と命名しました。

14時26分、泉松並木(勝手な命名)
098 泉松並木(勝手に命名)
本数は少ない泉松並木(約100m)ですが、東海道には松が似合いますね。
松並木の途中には、ベンチがあり休憩できるようになっていましたが、少し前に休憩したばかりなので、素通りしました。
道は松並木の先でY字路となり、左に進み泉川に架かる舞込橋を渡りますが、渡る手前左側に東海道の道標が建っていました。

100 分岐(左)
14時29分、東海道道標
101 東海道道標
舞込橋を渡った処から約70m先の右側に、日本橋から110番目の泉一里塚があり、塚跡にモニュメントの塚が出来ていました。
14時31分、110泉一里塚跡
102 110泉一里塚跡
105 110泉一里塚
本町域では泉・林口・今在家(今郷)に一里塚がありました。塚上には榎などを植えて旅人の目印し、道中奉行の管轄下に維持管理されました。当時の一里塚は現在地よりやや野洲川寄りにありましたが、これはそのモニュメントとして整備されたものです。

一里塚跡から約160m先のT字路突き当り(道路を渡った先)に、東海道13渡しの一つである「横田の渡し跡」がありました。
14時34分~14時43分、横田の渡し跡
  ↓横田渡し跡・全景

107 横田渡し跡
 《横田渡し跡》
108 横田渡し跡・入口
横田渡しは、鈴鹿山脈に源を発する野洲川がこのあたりで横田川となり、江戸時代に入って東海道が整備されると、東海道十三渡しのひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、三月から九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。

 《横田常夜燈》
111 横田常夜燈
横田橋常夜燈は、文化初年より村人が義金を募り文政5年(1822年)、近在の石工にこの燈篭を造らせ燈台の役目を果すようになってから、東海道を往来する人が迷うことがなくなりました。この燈篭は、高さ10.5m、笠石2.7m四方で、周りは7.3mの玉垣を築いており、本郡石造品では最大のもの。

 《横田橋跡》
115 横田橋跡
横田の渡し跡には、東屋の休憩所と簡易トイレが設置されていたので、Yumiさんはトイレを借用しました。
渡し跡を出て左に進むと(渡しに立ち寄らない場合は、突き当りの道路を渡って右に進む)、約400mで1号線と合流する泉西交差点があり、道なりに道路の左側をそのままさらに約400m歩くと「あさくにおうだんほどうきょう」がありました

119 朝国横断歩道橋上り
歩道は、写真の看板のとおり行き止まりになっているので、朝国交差点に架かっている横断歩道橋で1号線を渡りました。
120 朝国横断歩道橋下り
クランク形になった歩道橋を通り、下りた処を左折して横断歩道を渡り、渡った処を左折し野洲川に架かる横田橋の歩道専用橋を渡ります。
14時58分、横田橋
122 横田橋
野洲川には、9月に襲来した18号台風の跡が残されており、それを横に眺めながら橋を渡りました。
123 分岐(下りて左折)
横田橋を渡ると階段となり、階段を下った左側のトンネルを潜ると、約70mでJR三雲駅前の十字路があり、右折した右側に今日の到着地がありました。
133 分岐(左折)
15時01分、三雲駅・野村薬品店前(到着地)
124 野村薬品店前(到着地)
到着地とした野村薬品店は、見た感じ廃業しているようでした。
Yumiさんに到着式の看板を掲げてもらい、到着の写真を撮って到着式を行いました。
【旅館】
《史跡散策》

事前に宿泊するあや乃旅館に、迎えをお願いする場所と凡その時間を連絡していたので、到着式の後、あや乃旅館に迎え依頼の電話をしました。
車が到着するまでに、三雲駅と三雲側に残されている横田常夜燈を見ることにしました。
15時06分、JR三雲駅
128 JR三雲駅(草津線)
駅前の十字路に戻り、十字路を右折して約200m先の左側(右側は踏切)に、常夜燈が建っていました。
15時09分、横田常夜燈
130 横田常夜燈(三雲側)
横田常夜燈は、東海道十三の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場、湖南市側に建立されている。安永8年(1774)に東講中によって建てられた火袋付きの常夜燈です。高さ4.85m、5段の石積みの上に建っている。水口側の常夜燈より、50年以上前に建てられていた。建立された時は、現在地より約200m上流にあったが、何時の時代からか現在地に移転していた。
常夜燈を見た後、滋賀タクシーの処に戻り迎えを待ちましたが、駅の方が車を停めるのに便利かと考え、三雲駅脇のブロックに腰掛けて待つことにしました。
のんびりと待っていると、送迎用のワゴン車が停まり、旅館ご主人のお父さんが迎えに来て下さいました。
15時25分、三雲駅前発
先月、宿泊した時も道の駅・あいの土山まで迎えに来て下さっているので、顔見知りのご挨拶をして乗車させて頂きました。
旅館に着くまでの間、拡幅工事中の道路のこと、あや乃旅館の名前の由来などについて話しを聞かせて頂きました。
15時43分、あや乃旅館着
134 宿泊・あや乃旅館
旅館に着くと女将さんの出迎えがあり、部屋はYumiさんの病気を配慮して前回と同じ部屋にして下さいました。
前回(10月)は雨中の旅だったので、着ていた衣類を乾燥させるため部屋一杯に干しものが並びましたが、今回は天気も良く干た衣類が並ぶことはありませんでした。
あや乃旅館の良さは家族風呂で使えることで、二人でゆったりと入浴することができました。
そして、18時から楽しみな夕食。

140 旅館の夕食
ビールで乾杯し、配膳されたのを食べながら、前回と同じようにご主人のお母さんが美声を聞かせて下さり、旅の疲れを癒して下さいました。
  ↓お母さんの美声
144 美声
今日は一人で東海道を歩かれている男性が一緒で、昨晩は関ロッジに泊まったとのこと。
先月の私達と同じところに宿泊したようですが、私達が2日で歩いた関宿~土山宿~水口宿を、1日で歩いてきたことを聞き健脚ぶりに感服いたしました。
また、前月宿泊した時に撮った写真が掲示されていました。
  ↓掲示されていた写真

142 旅館内に貼り出された写真
お母さんの美声を聞いたり、同じ東海道の旅をしている方と話したりと、楽しい食事の時間を過ごすことができました。
Yumiさんに「終わりにしよう」と云われ部屋に戻る時、記念に女将さんとお嬢さんの写真を撮らせて頂きました。
145 親子
部屋に戻り、血圧を測定し、明日の着替えを再確認し、Yumiさんをトイレに連れて行き、明日の旅を考えて早い時間に布団を敷いて寝ました。
お休みなさい。
【あや乃旅館情報
〒528-0032 滋賀県甲賀市水口町八坂3-41
 TEL=0748-62-0998 FAX=0748-63-3338
  
 http://www.ayano-ryokan.com/i/

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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https://michinoku-trail.blog.jp/