【天候】曇りのち雨
【宿場】(46)亀山宿⇒(47)関宿

【行程】歩行距離=7.25㎞ 総距離=416.06㎞
亀山・亀山宿碑前⇒(1.45㎞)⇒101野村一里塚⇒(3.75㎞)
⇒102関一里塚⇒(2.05㎞)⇒関ロッジ入口(新所町信号先)

【ルート図】

  ↓宿場(黒囲みが第30回旅の宿場)

19 30回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (〇30=今回の旅区間/〇29まで=完歩区間)
全体 第30回
  ↓第30回の旅ルート
  (亀山宿・亀山宿碑 ⇒ 関宿・新所町信号先
第30回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
出発地に向かうルートは前回の帰りと同じ(下車駅はひと駅先の亀山)で変更はなかったのですが、帰りのルートは切符を買ったルート(水口石橋⇒彦根⇒米原)より早く米原に出られるルート(水口石橋⇒貴生川⇒草津⇒米原)が分かったため、切符を変更しました。
さて、旅の準備は、史跡の場所を持参する旧東海道の地図に書き込むため、街道の各自治体または観光協会にお願いし資料を送付して頂きました。
また、インターネットや先人のHPなどから情報を収集し、史跡の場所を特定して書き込むのですが、史跡を確認する時、一番苦労するのが街道のどちら側(右・左)にあるかです。
狭い道でも探すことがあるため、片側二車線で分離帯があったら諦めて通り過ぎるしかないので、慎重に調べるようにしています。
調べると同じ史跡の場所が記す人によって左・右が違っていたり、自治体や観光協会から頂いたパンフレットに記されている場所も「?」のところがあるので、どれが本当なのか判断付かず、現地で確認する時もあります。
その他に、工事で場所が移動していたりしているので、近くの人に確認する場合もあります(近所の人でも街道の史跡に興味がないと、聞いても分からない方が多いです)。
このようにして史跡を地図に書き込んだ後、ブログに宿場やルートの掲載準備をしました。
《移動》
04時30分、起床
朝食は新幹線の中で食べることにし、急がないで身支度出来るように、前回に引き続き早い時間に目覚ましをセットして就寝し、目覚ましの音楽で目を覚ましました。
身支度、ザックの荷造りを行い、
朝食の入った手提げ袋を持ち、少し肌寒くなってきた朝の冷たい風を受けながら、最寄り駅に向かいました。
最寄り駅から電車に乗り、東京駅に7時06分に着き、新幹線ホームに行く前にトイレに寄り、スッキリしてからホームに上ると、程なく新幹線が入線し4号車に乗りました。
座席に座り、持参した朝食(菓子パン・ジュース)を食べていると、定刻どおりに新幹線は出発しました。
003 新幹線車内(東京駅)
07時33分、東京駅発(ひかり503号)
乗車率は30%程度と、かなり空いた状態で、4号車は品川で数人、新横浜で50%、小田原でほぼ満席になりました。
小田原辺りまでは曇り空で、富士山は眺められないかなと思っていたのですが、三島に来ると頂上付近に少し雲がある程度で、眺められました。

005 富士山
早速、今日から1泊2日で東海道東下りの旅(新蒲原⇒三島)をしているNさんに携帯メールで、富士山眺望の情報を連絡しました。
Nさんから「関西の人は富士山を眺めることを楽しみにしているので、眺められると喜ぶと思います」と返信があり、良い情報を連絡できたと思いました。
09時19分、名古屋駅着
新幹線は定刻通りに名古屋駅に到着し、ここで関西線に乗り換えるのですが、約45分の待ち合わせがあるためトイレに行こうと階段を下りながら後ろを振り返ると、Yumiさんの姿がありません。
《Yumiさんは何処?》
ホームに降りたことは確認しているので、直ぐにホームに戻りYumiさんを探すと、ホームでウロウロしているのを見付け「ホッ」としました。
Yumiさんに「真っ直ぐ前を向いて歩いてよ」と注意し、在来線のトイレに行った後、衣服調整(Y=アウタージャケットをチョッキに、E=アウタジャケットを脱ぐ)をしてから、関西線のホームに移動しました。
ホームのベンチに座り人が増えてきた時点で扉付近に並び、時間待ちして関西線に乗りました。

006 名古屋駅・関西線ホーム
10時05分、名古屋駅発
桑名駅から先は旅で歩いたところなので、Yumiさんに「ここ歩いたんだよ、覚えている?」と感傷的に聞くと「記憶にない」との返事に、相方と旅の思い出を語り合えない寂しさを感じながら、一人で旅の思い出を振り返りながら車窓からの景色を眺めていました。
11時07分、亀山駅着
定刻どおり亀山駅に到着し、改札を出る前にトイレに立ち寄り、スッキリしてから外に出ました。
11時14分、亀山駅前発

008 亀山駅
天気予報どおり曇り空ですが、比較的明るいので、雨が降らないことを祈りながら亀山駅を出発しました。
出発地は、駅から少し離れていますが、前回の旅で一度歩いているので、何の不安もなく出発地に向かい、四辻のお城見公園の一角に設けられた亀山宿碑に着きました。
【=旅=】
11時20分、亀山宿碑前(出発地)

011 亀山宿碑(出発地)
宿碑の前で、恒例の儀式である出発式(日付・場所を記したパネルを持って写真を撮る)を行い、出発しました。
出発式の写真は、記録の残すため必ず2~3枚撮影します。
出発地前のカラー舗装を20m位歩いた(宿碑の後ろ)左に入った処に、問屋場跡がありました。
11時22分、西町問屋場跡(左側)

014 西町問屋場跡
問屋場は、江戸時代の各宿において主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立ての外、一般の商品物資などの継ぎ立て業務を行うための施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持っていたそうです。
亀山宿は代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が10日~20日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当していたそうである。
次は、街道から外れた加藤家屋敷跡(亀山藩の家老)を見るため街道を左に行かないで、逆に右に進み出発地を右に見て県道302号を左折し、亀山城址方向に約40m歩き、分岐を左に進むと前方右側に屋敷の塀が見えてきました。
11時26分、加藤家屋敷跡(右側)

016 加藤家屋敷跡
亀山城主石川家の家老職を務めた加藤内膳家の屋敷跡で、ナマコ壁の土蔵と門、長屋が残っており、江戸時代後期のものといわれ、武家屋敷の建築様式の貴重な資料です。
加藤家は、延亨元年(1744)石川総慶(ふさよし)の備中松山(現岡山県高梁市)から伊勢亀山への移封に従い、現在地(亀山城南三の丸)に屋敷を構えました。屋敷は文化9年(1812)に藩主御殿が焼失した際、仮御殿に使用されたほどの屋敷で、明治以降は母屋の建造物の大半が他所へ移築されましたが、長屋門、土塀、土蔵は保存されてきました。
  ※加藤家長屋門
018 加藤家長屋門
ナマコ壁の土蔵先の十字路を左折し、道なりに左折、右折とクランク形に進む道の、右折する左角に青木門跡がありました。
11時29分、青木門跡(左側)

022 青木門跡
元和元年(1615)4月16日徳川家康が大阪へ出陣の時、伊勢路に入って亀山に宿泊した時、出征中の城主松平忠明の留守を守る家臣が接待にあたりました。翌17日、亀山城三の丸より西町に出る搦手門より出立の時、付近に繁茂した青木を見て「おお、青木」と賞賛したので、この周辺の土地を青木と称し、門を「青木門」と呼んで家康を敬慕したと伝えられています。
青木門跡碑の前をそのまま直進し、約60m先の十字路の角に道標が建っていました。
11時30分、道標=街道の右・左
  ※道標(右=左東海道・右郡役所
024 道標(右側)
道標の左側は「左停車場 右東海道」、右側は「左東海道 右郡役所」と書かれており、亀山製絲の創業者である田中音吉氏が大正3年に建てたものだそうです。

  ※道標(左=停車場 右=東海道
026 道標(左側)
そして、道標と道標の間の街道に東海道のタイルが埋め込まれていました。
028 旧東海道タイル(道路中央)
写真の上部矢印方向に街道を歩き始めると、直ぐ左側に飯沼慾斉の生家がありました。
11時33分、飯沼慾斉生家跡(左側)
029 飯沼慾斉生家跡
飯沼慾斉は、天明2年(1,782年)6月10日~慶応元年(1,865年)5月5日。幕末の植物学者で、日本で最初の近代科学的植物図鑑「草木図説」をかきあげました。
生家跡から約50m歩いた左側に旧舘家住宅がありました。
11時35分、旧舘家住宅(屋号=枡屋)=左側
031 旧舘家住宅
舘家(枡屋)は幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は明治6年(1873)
に建てられたものです。亀山宿を代表する商家建築として平成19年に市指定文化財に指定されました。
見学に入りましたが、特に興味を引くものがなかったので、早々に失礼しました。
旧舘家の先は曲尺手(かねんて)という、敵の侵入を防ぐために設けられた宿場の出入り口などに設けられた直角にまげられた道になっていました。
曲尺手になった道を歩くと左側にナマコ壁風の塀の家がありました。
11時38分、屋号・わたうち屋(左側)
033 変わった塀(旧わたうち屋跡)
ナマコ壁風の家の数軒先の家の前に、屋号が沢山と記されている家がありました。
  ※沢山の屋号
034 屋号が建ち並ぶ家
屋号がこれだけあると、どのように建物が建っていたのか、タイムスリップして見てみたいと思いました。
街道はクランク形になっている曲尺手となっていて、隣りの家のところを左折します(現在はT字路になっている)。
T字路になっている突き当りの右側に掘跡がありました。
11時40分、亀山城西ノ丸外堀跡(右側)
035 亀山城西ノ丸外堀跡
外掘跡から約200m歩くと、右側の梅厳寺の前(京口坂橋の手前)に京口門跡がありました。
11時44分、京口門跡(右側)
038 京口門跡
京口門は、
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門で、『九々五集』によれと亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされています。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門と謡われるほどであった。
京口門跡の先にたつ川に架かる京口坂橋があり、旧街道はカラー舗装になっているので、道に迷うことがなく街道ウォーカには助かります。
  ※カラー舗装(歩いてきた方に向いて)
041 カラー舗装(歩いてきた道)
京口門跡から約170m先の左側に、国登録有形文化財「森家住宅主家」があり、現在は「森アンティーク」として骨董カフェを商っています。
店のことを観光協会に確認すると、昼食もあるとのことでしたので、ここで食べることにし立ち寄りました。

11時47分~12時25分、昼食(森アンティーク)
043 アンティーク森
  ※日替り定食(@1,000円)
045 日替わりランチ(他にごはん・デザート・コーヒー)
一般的な定食を考えていたのですが、出されたのは暖簾に書かれていた「伊勢うどん」、茶碗ごはん、小皿、お菓子、コーヒーでした。
048 店内
店の中はもう少し時代を感じられる作りになっているのかな思っていましたが、太い梁以外は昔の作りを感じることはありませんでした。
外に出て左を見ると史蹟の解説パネルが建っていました。
12時26分、森家住宅主家(左側)
049 森家住宅主屋
森家住宅は、東海道に面した木造の民家で、「おもや」の屋号を有する有力な家の住宅として建てられ、現在は飲食店として使われている。街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。また、街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。
森家住宅主家から約240m先の十字路を右折し、街道から約60m外れた右側のグランド入口に秀吉伊勢征伐陣地跡の標柱が建っていました。
12時30分、秀吉伊勢征伐陣地跡(白い丸)=右側
053 秀吉伊勢征伐陣地跡
街道の十字路に戻り約160m歩いた左側に、竹細工を飾られた家がありました。
12時34分、竹細工の家(街かど博物館)=左側
056 街角博物館(竹細工の店)
戸が閉まっていたので、外から眺めただけで通り過ぎました。
竹細工から2軒目の道の角に忍山神社山道碑が建っていました。
12時35分、天照皇大神御鎮座跡碑(忍山神社山道)
057 天照皇大神御鎮座跡碑
碑から約200m先の右側に大きなムクの木が立っており、その前に日本橋から101番目の一里塚碑跡があり、現存それていました。
12時38分、101野村一里塚跡(右側)
062 101野村一里塚・ムクの木
野村一里塚跡は三重県の旧東海道に沿って12ケ所に設置された一つで、唯一現存する一里塚です。もともとは道の両側にありましたが、現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。
一里塚から約600m歩くと左側(右斜め手前はマンション「ドウメゾン」)に、大庄屋の跡碑が建っていました。
12時47分、大庄屋・打田権四郎昌克宅跡碑(左側)
064 大庄屋邸宅跡
街道は約80m先で分岐し、右折(白線矢印方向)します。
066 分岐(右折)
約150m歩くと左側にこんもりとした木立に包まれた布気神社がありましたが、本殿まで遠く感じたため参道入口の鳥居の前から一礼して参拝の代わりにさせて頂きました。
12時51分、布気神社参道入口鳥居(左側)
067 布気神社参道入口
ここから約190m歩くと、左側に街かど博物館の古民家ギャラリーがありました。
12時56分、古民家ギャラリー(街かど博物館)=左側
069 街角博物館(古民家ギャラリー)
この建物は「小坂」家で、この辺りは小坂姓の家が街道の両側に連なっていました。
その中の一軒で、
E=小坂姓の家が多いのですね
男性=このあたりは「コサカ」が多い。何処から来た?
E=東京からです
男性=東海道を歩いているのか
E=そうです。今日は亀山から
男性=(関宿までの街道の道案内を始める)
E=有難うございました
とお礼を云って別れましたが、聞いていると旧東海道の街道ルートについてひと言云いたいような感じを受けました。
天気が良くて、時間があったら講釈にお付き合いしたのですが、今にも雨が降り出すような状況だったため、切りの良いところで御礼を云って失礼しました。
この直ぐ先(15m)の右の脇道角に、道標が建っていました。
13時01分、道標(右側)
071 道標
街道は、この先の分岐を左の下り坂を進み、
073 分岐(左の下り)
さらに下り坂の途中の分岐を左側(ほぼ真っ直ぐ)を進と、合流地点(街道の左)に常夜燈と道標がありました。
074 分岐(左方向)
13時06分、常夜燈
075 常夜燈
  ※道標(大正紀念道)=常夜燈の右側
076 道標(大正紀念道)
街道は、常夜燈と道標の合流点から約120m歩いた右側のカーブミラーのところを左折(カフェ&レストラン オスカーの手前)して進みます。
078 分岐(左折)
左折すると県道565号と関西本線に架かる陸橋が架かっており、陸橋を渡ってすすみます。
080 陸橋の下り
街道は、陸橋を下った処から左前方に一直線の桜並木となり、約450m先の右側(正門の手前)に大岡寺畷の標識が建っていました。
13時17分、大岡寺畷碑(歩いてきた方を向いて)
081 大岡寺畷
大岡寺畷は、東海道で最も長いと云われた畷(真っ直ぐに作られた道)で、かつては左右に松並木が続き、芭蕉一門の句集に「から風の大岡寺縄手ふき通し」と詠まれました。現在は桜が植えられ、春には鈴鹿川と調和した美しい風景が広がっています。
真っ直ぐに作られた大岡寺畷を歩いている途中、街道沿いの民家の女性に、
E=桜が咲いたら綺麗でしょうね
女性=ぜひ、桜を見にきて下さい
と云われ、桜が咲く頃に、桜に来たてみたいと思う桜並木でした。
大岡寺畷が終わる手前の名阪国道の高架下に、安藤広重の浮世絵が両側の壁に7枚(左側=4枚、右側=3枚)埋め込まれていました。
13時21分、広重浮世絵(左側)
084 壁画・左(名阪道高架下)
13時22分、広重浮世絵(右側)
087 壁画・右(名阪道高架下)
大岡寺畷は、高架下を流れる鈴鹿川の大岡寺畷橋の先まで続いていました。
大岡寺畷の左側を流れる鈴鹿川の土手は整地工事が行われており、畷からそれらを眺めながら歩いて行くと鈴鹿川河口からの距離標が建っていました。
13時30分、鈴鹿川距離標(歩いてきた方を向いて)
090 鈴鹿川河口からの距離標示
鈴鹿川沿いをそのまま歩き関西本線の踏切を渡った先で国道1号「小野川橋東詰」交差点で合流しました。
交差点は右側に設置された歩道橋で渡るのが原則ですが、歩道橋の上り・下りが億劫で、車と一緒に車道を横切って反対側に渡りました。
街道は、横切った処を左折し、小野川橋を渡り、国道1号を約170m歩き右側の関レミコン(生コン工場)の前を国道から分岐して左方向に進みました。
13時39分、分岐(左方向)
091 分岐(右方向)
分岐して約100m先の左側に小萬のもたれ松跡碑と小萬の碑が建っていました。
13時41分、小萬のもたれ松跡碑(左側)
092 小萬のもたれ松
小萬のもたれ松は、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになったそうです。
13時43分、小萬の碑(もたれ松碑の後ろ)=左側
095 小萬の碑
小萬は、江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して3年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができたそうです。
小萬のもたれ松碑の直ぐ先に、門柱のような石柱が両側に建っていて、関宿の入口の雰囲気を出していました。
  ※関宿の入口(石柱)
097 関宿の入口
石柱から約450m先の十字路の左側の手前角に、鳥居、標板、一段高いところに常夜燈が建っていました。
13時49分、伊勢神宮一の鳥居(左側)
098 伊勢神宮一の鳥居
伊勢神宮一の鳥居は、関西方面から東海道を利用し伊勢神宮の参拝に訪れた人達が関宿から伊勢別街道で伊勢を目指していたため、東追分に伊勢神宮の遥拝用の鳥居が設けられました。当初、鳥居は寄進により建て替えられていましたが、明治2年以降は伊勢神宮の式年遷宮(20年毎)の際に内宮宇治橋南詰の鳥居を移したものです。
13時50分、東の追分碑
100 関宿東追分跡
東の追分は、関宿の東の入口にあたり、東海道と伊勢別街道が分岐していました。
13時50分、関の常夜燈
101 関常夜燈
常夜燈は、おかげ参りや参勤交代で人々が行き交う関宿の道に灯していた常夜燈で、当時のまま残されています。
資料では追分説明板の奥に一里塚碑があると記されていたので、常夜燈の後ろに回り込んで一段高いところに上り草をかき分けて進んだ先に、日本橋から102番目の一里塚跡があり、石柱が建っていました。
13時51分、102関一里塚跡碑
102 102関一里塚
一の鳥居を過ぎると、関宿の街並みが始まりました。
104 関宿の町並み
14時00分、長谷屋跡(左側)
105 長谷屋跡
いっぷく亭木崎(左側)の斜め右側に油久・岩田油店本店
107 油久 岩田屋
この辺りから心配していた雨がポツリ、ポツリと落ちてきたので傘を差したり、閉じたりしながら旅を続けると、岩田油店の先の関神社に行く道の手前角に御馳走場跡がありました。
14時08分、御馳走場跡(右側)
109 御馳走場跡
《関宿の街並み》
14時10分、百五銀行関支店=左側

111 百五銀行
  ※山石(食事処)=右側(百五銀行の斜め左)
113食事処・山石
  ※街並みスケッチ隊(歩いてきた方に振り返って)
114 関宿町並み(絵画会の人達)
  ※桶屋(作業場)=左側
115 桶屋・仕事場
  ※関まちなみ資料館=左側
116 関まちなみ資料館
関まちなみ資料館の斜め前に問屋場跡がありました。
14時16分、問屋場跡=右側
118 問屋場跡
  ※百六里亭(眺関亭)=左側
120 百六里亭
戸を潜ると階段があり、2階に上がると屋上のようになっており、3人の男性が街並みスケッチをしていました。
私とYumiさんが写真を撮ろうとしていると、その中の方が「撮ってあげましょう」と云って、シャッターを押して下さいました。
  ※百六里亭(眺関亭)の屋上
124 関宿町並み眺望
14時23分、伊藤本陣跡(松井電気店前)=左側
126 伊藤本陣跡
  ※旅人宿・石垣屋=右側(伊藤本陣の斜め前)
129 旅人宿・石垣屋
Yumiさんと写真を撮り合っていると、女性が近づいてきて「シャッター押しましょう。その後アンケートに協力下さい」と云われ、断るわけにもいかずバーター取引が成立しました。
アンケートは、三重県が行っている「旅のアンケート」でしたが、東海道歩き旅には該当しない質問が多く、アルバイトの女性もどのように書いたらよいか考えながらだったので、「このへんでいいでしょう」とその場を後にしました。
東海道の保存に力を入れている関宿ですが、県全体となると街道ウォーカは考えに入っていないようです。
  ※旅籠玉屋歴史資料館=右側(石垣屋の隣り)
131 玉屋歴史資料館
旅籠とは、江戸時代、公用以外の武士や一般庶民が利用した旅の宿で、玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの関宿を代表する大旅籠の一つでした。現在は江戸時代の貴重な旅籠建築として修復され、亀山市文化財に指定されています。
内部には当時使われていた道具や庶民の旅に関係する歴史資料、歌川広重の浮世絵などが展示され、日本最初の旅籠資料館として歴史の町並みとともに訪れる人々を江戸時代の旅の世界へ案内してくれます。
しかし、見学するには入場料が必要な他に、靴を脱がなければいけないため、今度来た時には見学しようと割愛しました。
  ※銘菓「関の戸」本舗(深川屋)=左側(玉屋の斜め前)
134 関の戸本舗
関の戸は、おやつに食べてみたい思っていたので、立ち寄って購入(6個入り・500円)しました。
この時、関の戸本舗でパンも販売していると思っていたのですが、それは期間限定のもので売っていませんでした。
何故パンを買うかと云うと、明日の鈴鹿峠越えの坂下宿には昼食を売っているところがないため、軽量で運搬しやすいパンを用意しようとしたからです。
店の人に聞くと、この先に売っているところがあると教えて頂き、店を後にしました。
店を出て先に歩きながら左側を見ると、歴史を感じさせるお店があったので、記録に残しました。
  ※茶屋かねき=左側(関の戸本舗の隣り)
138 茶屋(かねき)
14時36分、高札場跡=右側(茶屋かねきの向かい側)
140 高札場跡
高札場跡から数軒先の右側に、森川菓子店があり立ち寄りました。
店内は昔を思い出させる品飾りだったのですが、賞味期限切れのパン(売っていた半分のパン)が平然と売られていたのには驚くとともに、食品管理はしっかりとしてほしいと思いました。
賞味期限を確認し、期限内のものを購入して店を後にしました。
  ※森川菓子店(右側)
142 森川菓子店
  ※ナガオ薬局看板=右側(森川菓子店の並び)
143 ナガヲ薬局・看板
ナガオ薬局の斜め前に、「志ら玉」で有名な前田製菓店があり立ち寄り、個数売りを4個(@85)買いました。
  ※前田製菓店=左側
145 前田屋製菓(志ら玉)
志ら玉は、江戸時代から旅人に愛された可愛い団子餅で、明日の昼に食べる予定なので楽しみです。
前田製菓店から4~5軒先の左側に案内人番所の「いっぷく亭」があり、トイレ休憩を取りました。
14時43分~14時51分、いっぷく亭(休憩)
147 いっぷく亭
トイレの後、舎内のベンチに座り、先ほど購入した「関の戸」を食べたり、水分補給をして一服休憩しました。
雨は降っているのですが、気にならない程度なので私は傘を差さず、Yumiさんは傘を差して歩き始めました。
いっぷく亭の左隣りの家の先に、道標が建っていました。
14時55分、道標(停車場道)=左側
151 停車場跡
道標の直ぐ横に地蔵院のお堂が建っており、お堂の脇に常夜燈が建っていました。
14時57分、地蔵院=左側
152 地蔵院
地蔵院の真向いに、会津屋があり、元は山田屋で、小萬が育ったところです。
  ※会津屋=右側
154 会津屋
会津屋脇の道は、今日宿泊する「関ロッジ」への近道ですが、チェックインは16時からで、その前に到着した時はロビーで待たされると聞いていたため、右折しないで直進しました。
  
※関宿の街並み
156 関宿の町並み(火縄屋が多かった地区)
15時04分、田中屋(連子格子の家)=左側
158 田中屋
立派な佇まいだったので、中を覗きたかったのですが、表札が掲げられて戸が閉まっていたので、記録だけ残し通り過ぎました。
関宿も終わりに近づき、宿を歩いていて気が付いたものを写真に納めてきました(掲載は順不同)。
  ※漆喰彫刻
161 漆喰彫刻
  ※細工瓦
162 細工瓦
163 細工瓦
  ※欄間の彫刻
164 欄間彫刻
166 細工瓦(龍)細工瓦(龍)
165 関宿の郵便ポスト⇔関宿のポスト
右側の桜井家を過ぎ、約300m先の右側に道標が建っていました。
15時16分、道標(観音山公園道)=右側
167 道標(公園道)
道標から約200m先の左側に、西の追分跡がありました。
15時20分、西の追分跡=左側
169 西の追分跡
追分跡の直ぐ先の左側に新所町交差点があり、交差点から約200m歩いた観音山公園入口の案内板が建っている処を到着地とし、Yumiさんに到着の看板を掲げてもらい到着式を行いました。
15時25分、関ロッジ入口・新所町信号先(到着地)
171 観音山公園入口(到着地)
到着式が終わって宿泊する関ロッジに向かう頃から雨が少し強く降ってきたため、私も傘を差しました。
【帰路】
関宿の街並みは、少し雨は降っていましたが、ひと通り見て歩くことができましたが、天候が気になり急ぎ足での散策となり後で地図に書き込んである史跡を確認すると、幾つか見落としているところがあ、り改めてまた来ようと思いました。
到着地の右側にあるテニスコートで数人の人がプレーしていたことから、雨量は大したことはなかったのですが、到着地から関ロッジに向かって歩いている途中から降り方が強くなり、私も傘を差して標高の高い場所にある関ロッジ目指して、約600mの上り坂を歩きました。

《ホテル》
今日の宿泊は、国民宿舎の関ロッジです。
東海道の街道ウォーカーに人気のある施設で、半年前にYumiさんのトイレを考え、室内にトイレのある特別室を予約しました(その後、日程変更で宿泊日を変更)。
健常者の二人でしたら予約した特別室でなくても良かったのですが、致し方ありません。
15時40分、関ロッジ着
チェックインは16時からと聞いていたのですが、16時前ですがOKとなりチェックインしました。
食事の時間は夕食は18時から、朝食は7時からと云われ、部屋に入りました。
部屋着に着替えた後、ザックから荷物を取り出し、着替え、服用薬・目薬の準備、機器の充電などを行い、部屋の風呂で入浴し、夕食を待ちました。
18時10分~19時00分、夕食
179 関ロッジ・夕食②
夕食は決して豪華ではありませんが、とても良い味で残すことなく全て食べ切りました。
また、Yumiさんと生ビールで乾杯しましたが、Yumiさんは食べる方が忙しくて、私が2杯目のジョッキーとYumiさんのジョッキーの生ビールを飲んでしまいました。
  夕食メニュー(この他に、ご飯とみそ汁があり)
180 関ロッジ・夕食③
食卓に着くと、東海道五十三次宿名と浮世絵が描かれたランチョンマット(和紙)が敷かれており、館員の方に話して亀山宿~大津宿のランチョンマットを頂きました。
  ※亀山宿
182 関ロッジ・東海道53次下敷き(亀山)
夕食後、朝が早かったので、20時前に就寝前の目薬の点眼と血圧測定を行い、目覚ましを5時30分にセットしてベッドに入りました。

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【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/