【天候】 快晴
【宿場】 (43)四日市宿

【行程】 歩行距離=9.66㎞ 総距離=389.21㎞
近鉄富田・寺村薬局前⇒(3.63㎞)⇒095三ツ谷一里塚⇒(4.53㎞)⇒096日永一里塚⇒(1.50㎞)⇒
近鉄追分・駅入口
【ルート図】
  ↓
宿場(黒囲みが第27回旅の宿場)
21 27回宿場
  ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (〇27=今回の旅区間/〇26まで=完歩区間)
全体 第27回
  ↓第27回の旅ルート 
  (寺村薬局前 ⇒ 追分駅入口)
第27回ルート
【旧東海道の旅】
《日程の変更》
当初は8月31日㊏~9月2日㊊の二泊三日で街道旅を行う予定でいたのですが、旧東海道を歩いた知人から「体力の消耗を考えてもう少し涼しくなってからにしたらどうか」との助言があり、三週間延期して本日を迎えました。
日本橋を出発して約380㎞を歩き、七里の渡しも過ぎ、だんだんと三条大橋が近づいてきたことを強く感じるようになり、一日一日の旅を大切にして運に恵まれた旅ができたらと願っています。
先週の三連休は台風18号の影響で山行が中止になったりしましたが、今週の三連休は何とか天候にも恵まれそうです。

《Nさんの東海道東下り》
京都三条大橋をH24年1月に出発したNさんの東下りは、この三連休に島田市の六合駅から新蒲原駅まで歩く予定のようなので、新幹線の中からメールすると、三島付近にいると返信がありました。
京都三条大橋に向けて歩く私達と、お江戸日本橋に向けて歩くNさんが、逆方向ですが同じ日に旅することになり、何とも心強い日になりました

【旅の朝】
04時30分、起床
朝食は新幹線の中で食べることにし、急がないで身支度出来るように、前回に引き続き早く起床しました。
目覚ましの音楽で目を覚まし、「Yumiさん、歩きに出掛けるよ」と声を掛け、ベットを出ました。
今日のYumiさんの血流は良いようで、
 ●体重測定=全て記入
 ●歯磨き・洗顔・整髪=全て順調
と、嬉しくなってきました。
《身支度》
下着を着替えてもらい、
 ①.Yumiさんを椅子に座わらせ、両足(膝・すね・ふくろはぎ)に軟膏を塗る
 ②.両足の膝の両側にシップ薬を貼る
 ③.CWXタイツを穿く
を行う中で、CWXは足全体をサポートするスポーツタイツのため、健常者の人でも穿くのが大変なことから認知症のYumiさんが穿く時はもっと大変です。
私が手助けして二人がかりで、「痛い、痛い」などと云いながら穿きます。
その後の着替えもほとんど付きっきりで行い、Yumiさんの身支度が整ったところで、私の身支度を始めます。
私の身支度が整ったところで、トルソプト目薬の点眼と血圧測定を行い、旅先で使うため血圧計をザックに入れ荷物の準備を終わり、家を出発しました。

《移動》
東京駅に着き新幹線ホームに行くと、直ぐに新幹線が入線し、4号車に乗りました。
座席を確保して時間を見ると10分程度時間があるので、直ぐにYumiさんを連れてトイレに行きました。
トイレから戻り、持参した朝食(菓子パン・ジュース)を食べ始めると、定刻どおりに出発しました。
  ↓新幹線で朝食
003 新幹線車内(東京駅)
07時33分、東京駅発

今日は良く晴れているので富士山が見れればとYumiさんと外を見ていると、三島付近から夏姿の富士山が眺められました。
 ↓富士山(通路側から横になって撮影したので傾いています)
008 富士山(新富士付近)
新幹線から富士山が眺められると心が安らぐので、幸先の良いスタートになりました。
新富士を過ぎ右手に見える景色を眺めながら、旅で歩いた時を思い出したり、Nさんがこの辺りを旅するんだなと思いながら、ぼんやりとして過ごしていました。
Yumiさんに「この辺り、歩いたんだよ」と云っても、「ふーん」と全然興味を示さず会話になりません。
忘れてしまっているので致し方ないのですが、思い出話もできないとは寂しいもので、一人で思い出しながら車窓を眺めて時を過ごし、下車駅の名古屋に到着しました。
09時19分、名古屋駅着
ここで近鉄線に乗り換えです。
改札を通り、乗車する前にトイレに行きその後、私が長袖シャツ、Yumiさんが長袖パーカーを脱いだのですがYumiiさん得意の「寒い、寒い」が始まりましたが、周りの人達の姿を見せると納得し、その後は何も云いませんでした。
入線していた電車を見ると既に満席に近い状態でしたが、通路をはさんで座席を確保することができホッとしました。
少し乗り換えをのんびりし過ぎて、ホームに来るのが遅れたようです。
09時41分、近鉄名古屋駅発
快適に電車は走り、木曽川、長良川を渡り、定刻通りに下車駅の近鉄富田に着きました。
  ↓近鉄車内
009 近鉄車内(名古屋駅)
10時09分、近鉄富田駅着
010 近鉄富田駅・改札
改札を出て、今日の出発地である寺村薬局に向かいましたが、快晴の天気で太陽がサンサンと輝いているので、暑くなりそうな感じです。
【=旅=】
10時16分、寺村薬局前(出発式)
013 出発式(寺村薬局角)
出発式の写真を撮ろうとすると、近鉄の踏切で待たされた車が次々とくるため、なかなか撮れません。
取り合えず車が無くなるのを待って、Yumiさんに出発式の看板を掲げてもらい、ハイ・パチリの出発式を行いました。
さあ、3カ月振りの旅のスタートです。
スタートして80m、書き込みに使う赤ボールペン(持ってくるのを忘れた)を買うため「かご庄商店」に入り、3回大きな声で店の方を呼びましたが誰も出てこないので、値札の80円とメモ書きを置いて店をでました。
016 文具店(赤ボールペン買った店)
どうしても赤ボールペンが必要だったので、お店の方、お許し下さい。
店を出て直ぐの富田小学校入口脇に明治天皇の碑が建っていました。
10時23分、明治天皇駐箪跡
017 明治天皇駐箪跡
跡碑から約150m歩くと十四橋があり、海抜が2.9mと表示があり、そんな低いところを歩いているんだと認識させられました。
019 十四橋
橋を渡り、約20m先の十字路右側に常夜燈が建っていました。
10時28分、富田常夜燈(右側)
020 天保の常夜燈
町の中や街道にある常夜燈はそれぞれ意味をもって設置されていて、桑名川口より伊勢までは神宮への道先案内の役目を果たしていたそうです。小さな明かりが夜の街道を照らすさまは、今の旅人には感じることはできません。表には常夜燈と刻まれ、その下に氏子中とある。裏には天保十已亥年(1839年)と刻まれている。
常夜燈を過ぎた先の右側の家は、昔ながらの連子格子の家があり、旧街道の名残りを感じます

023 連子格子の家
連子格子の家から約80m歩いた右側に薬師寺がありました
10時30分、薬師寺(右側)
024 薬師寺入口
薬師寺は、51代平城天皇の大同年間(806~910年)の頃、このあたりで疫病が流行して人々は大変苦しんでいたのを旅の途中で知った弘法大師が、ここで足をとめて薬師如来像を彫り開眼すると、たちまち人々の難病は平癒したので、人々は弘法大師に感謝しお堂を建てて薬師如来像を祀ったそうです。その如来像は現存し、秘仏として扉をあけることはないという。また、この薬師寺はこの地域、唯一の尼寺だそうです。

Yumiさんは寺院のお参りが嫌いなので、山門入口でパチリだけして失礼しました。
薬師寺から約280m歩いたT字路の突き当りに力石がありました。

10時34分、力石
027 力石
力石は、
明治の中頃、この村の二ヶ寺のお堂を再建するにあたり、各所から土台石の奉納があり、その折、土台石の中からこの石を選び、休憩時に体力を試すため持ち上げを競いあったそうで、大きい石は120㎏、小さい石は19㎏だそうです。
炎天下の陽射しは強く、水分補給と体を休めようと日陰のある場所を探し、休憩しました。
小休止の後、街道に戻り歩き始めると所どころに残っている連子格子の旧家を眺めながら約450m歩くと近鉄名古屋線、さらに約350m先のT字路、力石のT字路を左折し、その先を右折するクランク形の曲手(かねんて)を通り最初の右に入る道の角に、右いかるが、左よっかいちと刻まれた道標が建っていました。
10時36分、道標(右)

031 道標(右いかるが・左四日市)
道標から約100m歩いたまえかわ橋を渡り、さらに約50m歩いた右側に神社の参道入口がありました。
10時40分、茂福神社参道入口
033 茂福神社参道入り口
茂福(もちぶく)神社は、永禄10(1567)年には創建されていたそうで、最初は天王社と呼ばれていましたが、明治28(1895)年4月に茂福神社と改称されたそうです。境内には鳥居・石灯篭・狛犬・太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。古くは寛文十二年(1672)を始めとして明治・大正・昭和と時を追って奉納されていて、この地の人々の信仰の厚さを偲ばせています。
今朝は神社に参拝していないので立ち寄りたかったのですが、入口から社殿まで離れているので、そのまま失礼しました。
Yumiさんに空腹具合を聞くと、空いていないというので、そのまま旅を続けることにしました。
参道入口から約200m歩いた冨田山城有料道路の下を潜った辺りで、陽差しが強いため、日陰になる道の左側を歩くようにしました。
そして有料道路から約400m歩いた右側の四日市自動車検査所を過ぎる角、米洗川(よないがわ)手前の右側に常夜燈が建っていました。
10時49分、八田常夜燈(私の命名)
035 富田常夜燈
常夜燈には、「南大神宮」と刻まれていましたが、名前は分かりませんので、私は地名から「八田常夜燈」と命名しました。
また、この常夜燈は、現在でも点灯されているようです。
常夜燈から約100m先の右側に牛乳店(?)がありましたが、何処が店舗なのか不明のお店と、看板が気に入り記録に残しました。
037 牛乳販売店
牛乳屋さんから約450m歩いた先の山田歯科医院(左側)の隣りに松が一本立っていました。
10時58分、かわらずの松
038 かわらずの松
かわらずの松が立っている羽津地区は、昭和40年代になっても多くの松が立ち並んでいたそうです。

地元の名士の方が、羽津の松並木は全国的にも貴重だから文化財として保護してほしいと奔走したこともあったそうですが、運悪く松くい虫が流行し残り僅かだったほかの松も次々に枯死してしまい、ついにこの1本だけが残ったそうです。そして、松の名前は、川原須(かわらず)という地名と「変わらず」を掛けて付けられたようです。
松の先の堀切橋を渡り、約200m先の右に「魚為」という魚屋があり賑わっていました。
041 繁盛の魚屋
魚為から約100m歩いた右に志氐神社の鳥居が建っており、その脇に夫婦岩(縄が付いている)がありました。
  ↓志氐神社参道入口
042 志氐神社参道入口
11時04分、夫婦岩
044 夫婦岩
夫婦岩は、なでると良縁が成就するというのですが、眺めるだけで失礼しました。

夫婦岩は、最初50m程通り過ぎてしまい地元の方に聞いて戻ってきましたが、1つだけしか確認できませんでした(もう一つは鳥居の裏にあるそうです)。
夫婦岩から約300m歩くと街道は左折し、約100m先で国道1号線に合流したところを右折して約300m先の、金場町交差点手前の右三叉路角に道標が建っていました。
11時20分、道標
046 道標
道標には右桑名、左四日市と彫られていました。
金場町交差点で進行左側に渡り、前方を見ると大きなラーメン店の看板が建っていたので、Yumiさんに「昼食を食べて行こう」と話し、ラーメン店に立ち寄りました。
11時30分~11時55分、昼食(伝丸四日市三ツ谷店)
048 ラーメン・伝丸
カンカン照りの外から、冷房の効いた店内に入ると思わず「ふー」とため息が出ました。
Yumiさんは餃子がすきなので、まず決定。
次に私はご飯が食べたくて「炒飯」、Yumiさんは自分で「これ」と醤油ラーメンを選びました。
Yumiさんは、注文した醤油ラーメンが、美味しい、美味しいと云って全部食べ切りました。
  ↓店内
050 伝丸店内
  ↓注文した食事
052 炒飯・餃子・醤油ラーメン
外に出る前にトイレを済ませておこうと、トイレに連れていったのですが、トイレを施錠した後、開錠できるか心配です。
駅のトイレの鍵はどこも同じように出来ているのですが、民間の場合は施錠方法が異なるため、対応できるか戻ってくるまでいつもヒヤヒヤしています。
Yumiさんは何事もなかったように、すっきりした顔になって戻ってきたので、後半の旅に出発しました。
精算を済ませ、外に出ると隣りに多度神社があり、参拝に立ち寄りました。
11時56分、多度神社
053 多度神社
神社に参拝されている方がいなかったので、お賽銭をご奉納(投げ入れない)し、
 ●Yumiさんの認知症と緑内障の完治
 ●東海道夫婦二人旅のご加護
を声を出して言上し、ご祈願しました。
街道は神社の右側の道を約100m進むと、海蔵川の土手の手前に突き当り、一里塚跡碑が建っていました。
12時00分、095三ツ谷一里塚跡
056 095三ツ谷一里塚跡碑
三ツ谷一里塚は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された時、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3年<1690年>)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されていたので、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることになりました。

一里塚の前を右折し約30mで国道1号線となり、国道1号の海蔵橋(海蔵川)を渡り、渡った処を左折します。
  ↓海蔵橋(入り側)
060 海蔵橋
左折して直ぐの二又を右に100m進むと、右側に「加藤輪業」がありました。
加藤輪業は、四日市の町かど博物館で、「スバル450」が展示してあると知り、昔懐かしい車を見たいと思い立ち寄りました。
12時06分、加藤輪業(町かど博物館)
063 展示のスバル450
スバル450は、昭和35年(1960年)10月に発売され、“スバル・マイア”の名で輸出もされたスバルの小型車版(423cc、23ps)で、この年に発売された三菱500とともに、後に来る700cc級大衆車(トヨタパブリカなど)の先駆となりました。
店主にお断りして記念写真を撮らせて頂きました。
加藤輪業を後にして約600m歩くと三滝川に架かる三滝橋に着きました。
12時17分、三滝橋(入り側)
065 三滝橋
三滝橋は、四日市市街の中央部を東流する三滝川にかかる橋で、江戸期は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架けて替えられ、さらに大正13年6月に鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改修されました。近世まで何世紀にもわたり市の文化や生活の中心地でだったところです。

橋の袂に壁画がありましたが、暑さと疲れで往復する気にならず、橋上から写真を撮ることにしました。
067 河川敷の絵
 ↓橋の中央から遠く工業地帯の煙突が見えます
069 三滝橋からの眺望
三滝橋を渡り、約120m先の右に笹井本店がありました。
12時22分、笹井屋本店(なが餅)
071 なが餅(笹井屋)
  ↓なが餅
073 なが餅
今日の旅の出発の時から「なが餅」を買って、おやつに食べようと考えていたので、歩いてくる途中にあった三ツ谷支店には寄らないで、本店で買いました。
天文19年(1550年)戦国時代の頃、街道をにぎわす評判の銘菓がありました。「永餅」と呼ばれるその名物餅は、初代彦兵衛氏がここ勢州日永の里に因んで創りました。三十六万石の太守、藤堂高虎も足軽の頃、永餅の美味しさに感動し、武運のながき餅を食うは幸先よしと大いに喜びました。名称も日永の餅、長餅、笹餅、牛の舌などと称せられ、「なが餅」の今日に至っています。さらりとした小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼き上げました。

この先、食べる処がなく、ホテルで食べると、評判どおり、美味しい餅菓子でした。
この先に中部西小学校があり、ここに陣屋跡があったというのですが、丁度運動会か中に催し物があるのか、多数の父兄がいたので中に入らず、笹井屋の先、小学校の手前を左折し、街道を外れて建福寺に「泗水の井戸」があるというので、見に行きました。
12時30分、泗水の井戸(建福寺)
074 泗水の井戸碑
泗水の井戸は、解説のパネルが建っていましたが、井戸らしきものはありましたが、どれなのか分かりませんでした。
建福寺からまた街道に戻り、左に街道を進むと直ぐ右側に旧帯屋脇本陣跡(現近藤建材店)が、
12時32分、旧帯屋脇本陣跡(現近藤建材店)
076 帯屋脇本陣跡(現近藤建材店)
そして、その数軒先の右側に旧問屋場跡(現福生医院)が、
12時34分、旧問屋場跡(現福生医院)
077 問屋場跡(現福生医院)
さらに約130m先の右側に旧黒川本陣跡(現黒川農薬商会)がありました。
12時38分、旧黒川本陣跡(現黒川農薬商会)
079 黒川本陣跡(現黒川農薬商会)
この先の小さい十字路を過ぎた左の民家の格子に、東海道の道案内板が掲げられていました。
街道ウォーカにとって大変ありがたい、小さい心遣いに感謝するとともに、旧東海道の史跡保存を無視している四日市市にもこのような方がおられるのかと、心温かく感じながら通り過ぎました。
081 東海道の道しるべ
旧街道はこの先の国道164号線を横切り、最初の十字路の仏具店の処に道標が建っていました。

12時39分、道標
084 右伊勢道・左東海道
写真正面の石碑が道標で、右が伊勢道、左(矢印方向)が東海道を示しており、石碑の裏側には方向を示す手指しが彫られていました。
道標から2つ目の十字路(約140m)を街道は右折するのですが、逆の左折して約15m先の左側に「弥な屋」があり立ち寄りました。
12時45分、弥な屋(町かど博物館)
086
弥な家は、神輿、浮世絵、版画、短冊など、お祭りに関係したものが展示されており、お店の方に断って店内で写真を撮らせてもらいました。
弥な屋を出て街道に戻り、諏訪町北交差点を渡り、諏訪神社に立ち寄りました。
12時49分、諏訪神社
088 諏訪神社
諏訪神社は諏訪に縁のあるYumiさんなので、寄れる場所にある時は必ず参拝します。
今日もYumiさんと二人でお賽銭をご奉納し、
 ●Yumiさんの認知症と緑内障の完治
 ●東海道夫婦二人旅のご加護
の所願成就をご祈願しました。
諏訪神社を出て街道に戻ると、アーケードの商店街になっていましたが、歩く人が少なく、シャッターの閉まっている店もあるなど、残念ながら活気は感じませんでした。
090 四日市のアーケード街
  ↓伸び縮みする首
092 動く首人形
「Yumiさんここに立って」と云うと、「何この首。気持ち悪いから嫌だ」と云われたのですが、何とか宥めすかして写真に納まってもらいました。
Yumiさんは写真を撮り終わると、人形には目もくれずスタスタと先に進みました。
街道はこの先で広い交差点を渡るのですが、交差点の直ぐ右側に今日宿泊するホテルが見えたので、「Yumiさん、あそこが今日泊まるホテルだよ」と話したのですが、意味は通じなかったようです。
分離帯のある道路を横切り、約140m歩くと右側の崇顕寺入口に丹羽文雄の石碑が建っていました。
13時00分、丹羽文雄生誕地碑

093 丹羽文雄生誕地碑
丹羽文雄は、明治37(1904)年に四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺(そうけんじ)に生まれ、宗教家として歩むはずでしたが、文学への志を断ちがたく、生母をモデルとした「鮎」の好評を機に昭和7(1932)年、家出のかたちで上京しました。昭和10年代に時代を代表する中堅作家としての地位を築き、その後、半世紀にわたって常に第一線の作家として活躍しました。特に、戦後は数多くの話題作を次々と発表しました。
一方、芥川賞をはじめとする各種文学賞の選考委員、日本文藝家協会理事長兼会長などを歴任し、文壇の発展のみならず、文学者のための社会保険制度の創設など社会的な面でも尽力したり、私費を投じて同人誌「文学者」を発行し、後進の育成にも努めていました。
陽射しが強く、水分を取りながら歩いていますが、少し休もうと日陰になる場所を探し、約100m歩いた右側の空き地に入りザックを外して休みました。
ひと休みしてまた街道に戻り、約350m先の近鉄名古屋線を越し、さらに350m歩くと左に曲がった道となるので、そのまま道なりに進み、そこから約100m先右側の今野商店隣りの連子格子の家の前に小さなお地蔵様の祠が建っていました。
13時17分、お地蔵様
095 お地蔵様の祠
祠の扉を開けてお地蔵様を見たいと思い、扉を置けようとしましたが、開きませんでした。
お地蔵様から約170m歩いた右側に、鈴木薬局がありましたが、今日は定休日なのか閉まっていました。
13時20分、鈴木薬局
097 鈴木製薬所
鈴木薬局は、膏薬の製薬を200年以上も営む旧家で、代々勘三郎の名を受け継いでいて、現在の当主鈴木友造勘三郎氏は、11代目です。格子の建物は東海道沿いの古い建物の中でも一際目立ってがっちりつくられていて、1852年(嘉永5年)に建てられたものだそうです。
また、膏薬を作った作業場や薬研など貴重な道具が保存されているというので、開いていたら見学したいと思っていたので、残念でした。

鈴木薬局を後に、途中の落合橋を渡って約350m歩くと鹿化橋に出ました。
13時25分、鹿化(かばけ)橋
101 鹿化橋
旧街道は狭い道なので歩道もなく、私は「何でこんな細い道を走るの」と思うくらい車が走ってきます。
この鹿化橋付近も同じで、往来が多く、事故に巻き込まれないように注意して歩きます。
鹿化橋を渡り、汗を拭きながら所どころにたっている連子格子の家を眺めながら、約450m歩いた右側のジュニア模型の看板の先に道標が建っていました。
13時34分、道標
105 水沢道標
資料には道標の手前にあるジュニア模型の前に回転式の鉄道信号機があると記されていましたが、ありませんでした。
道標から天白川に架かる天白橋を越し、さらに約230m歩いた信号のある交差点を渡り、左方向に約80m歩いた右側にシャディいなとう四日市本店があり、店内に町かど博物館があるというので、街道から外れて立ち寄りました。
13時50分~13時56分、シャディいなとう(日永うちわ)
113 店舗正面
「日永うちわ」は展示されていたのですが、「うちわ」を使う夏が終わり、展示も1階から2階の狭い場所に移っていました。
109 日永うちわ(稲藤)街角博物館
東海道をモチーフにしたうちわがあるかなと思いましたが、残念ながらありませんでした。
私の家には、安藤広重の絵を使ったうちわが何枚かあり、私は家の中で使いましたが、Yumiさんは渡した時だけ使い、ほとんど使うことはありませんでした。
2階に展示してある「うちわ」を見せて頂き、店の方にお礼を云って失礼しようかと思いましたら、「冷たいものでもどうぞ」と冷茶を出して下さいました。
112 おもてなし
折角のご厚意なので、Yumiさんとザックを外し、椅子に座って頂きました。
炎天下を歩いてきた街道ウォーカーには、なんとも有難い癒しになり、生き返りました。
ありがとうございました。
ご恩を忘れることなく、いつかご恩返ししたいと思います。
少し元気になり、また今日のゴールを目指して歩き始め、街道に戻りました。
街道に戻り約100m歩いた右側に伊勢七福神の一つである日永神社がありました。
13時58分、日永神社参道入口
114 日永神社参道
本殿まで少し距離があり、往復するエネルギーはこの先に使いたいと考え、参道入口で失礼しました。
神社の前から日永小学校を過ぎ、約300m歩いた十字路を過ぎた右側の民家と倉庫の間に一里塚の石碑が建っていました。
14時04分、096日永一里塚跡碑
116 096日永一里塚跡
資料に見落としし易いので要注意と記されていたので、注意しながら歩き、見落とすことなく確認することができました。
一里塚から約350m歩いた左側に一本の松が立っていました。
14時10分、名残りの松
118 名残りの一本松

名残りの松は、江戸時代にこのあたりの両側に低い土手が築かれ、その上が松並木になっていて、その名残りの一本の松ということで、今日も四日市の中心部を過ぎてから唯一見ることができた松でした。
一本松から約450m先の泊町北交差点、さらに交差点から約350m先の国道1号線の合流、そして約180m歩いた追分信号の分岐の真ん中に日永の追分がありました。
14時22分、日永の追分
121 日永の追分
日永の追分は、京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあり、桑名の一の鳥居に対する二の鳥居が建てられました。鳥居は、安永3年(1774年)に奉献され、その後たびたび建替えが行われ、現在のものは昭和48年(1973)の伊勢神宮式年遷宮の際に、伊雑宮(いぞうぐう)の鳥居を移建(昭和50年)したもので九代目になる。当初は伊勢街道をまたぐように立っていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横に新しくできたため、鳥居を くぐらずに進めるようになり、先の移建時に周りが公園化されました。
  ↓日永の道標
124 道標
現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。道標は、明暦二年(1656)に建てられたものが、嘉永二年(1849)に新たな道標を建てた際、追分神明社に移り、さらに明治の神社合祀にともない、合祀先である日永神社に移されました。それには「京」「山田」「南無阿弥陀仏 恵心」「明暦二丙申三月吉日」とあり、現存する日永の追分に関わるものとしてはもっとも古いものです。
日永の追分は、四日市宿と石薬師宿の間に立つことから間の宿とよばれ、周辺には多くの旅籠や茶店などが並んでいました。浮世絵にも饅頭屋が描かれています。
今日は、鳥居祭りが行われていて15時まで入れため、常夜燈、清めの手水所は見れませんで、追分の碑と道標だけ見ることができました。
また、同じ時に、数十人という大人数の団体と遭遇し、写真を撮るのが大変でした。
到着地は直ぐ先なのですが、ここで水分補給とザックを降ろして少し休憩を取りました。
追分から約200m歩いた先に近鉄内部線の踏切があり、踏切を渡った左側に追分駅があり、駅の入口で今日の旅を終了し、Yumiさんに到着の看板を持ってもらい到着式を行いました。
14時30分、追分駅入口(到着地)
128 到着式(追分駅入口)
近鉄内部線は1時間に1本のダイヤのため、急いで駅の時刻表を見ると14時38分と、数分の待ちで乗れることが分かり、幸運でした。
【帰路】
《近鉄内部(うつべ)線》

駅は無人駅で、近くにいる人に聞くとパスモなどのICカードは使えないとのことで、切符を買って入場しました。
ホームでYumiさんの写真を撮っていると、電車の音がして入線してきました。
  ↓追分駅ホーム
130 追分駅ホーム
  ↓近鉄内部線
132 近鉄・内部線
14時38分、追分駅発
電車は、両側に人が座っているとつり革は2ありますが、とても通路に二人立つのは厳しい幅で、ワンマン電車などローカル線そのもので、とても親しみを感じる電車でした。
  ↓内部線電車の車内
133 内部線・車内
14時52分、近鉄四日市駅着
134 近鉄内部線・四日市駅改札
駅の改札機に切符を入れたら吸い込まずに出てきたので、切符を抜き取り駅員に渡しましたが、何故切符が出てきたのかわかりません。
本線の近鉄名古屋線の駅が少し離れているので、乗り換えのためなのかな?
今日、宿泊するホテル(新四日市ホテル)は駅から数分のところにあるので、駅の隣りにあったコンビニに寄ってからホテルに行きました。
15時00分、ホテル着
136 新四日市ホテル入口
ホテルに到着する時間が少し早かったのですが、チェックインすることができ予約した部屋に入りました。
部屋に入ってザックを外すと、Yumiさんのトイレ通いが始まり、
出てきたと思ったら、引き返してまた入るなど、尋常な通う回数ではありません。
私は、着替え、目薬、血圧計、洗面などこれから使うものなどをザックから出して準備したりして、Yumiさんのトイレ通いはそのまま放置しておきました。
ひと通り荷物の整理が終わったところで、旅の途中で買った笹井屋の「なが餅」を出し、Yumiさんと食べました。
なが餅は、さっぱりとしたアンコ味で、包んでいる餅も薄く伸ばしてあり、食べてみると評判どおり美味しく、ペロッと3つ食べてしまいました。

夕食までにはまだ時間があるので、ベッドに横になりテレビを見ながら体を休めました。
【夕食】
17時30分頃、四日市の町に出掛けましたが、初めての街で右も、左もわからないため、フロントの人に店を教えてもらった店に行ってみました。
飲食店が立ち並ぶ中にその店があり入ってみると、店の方から「予約されていますか?」と聞かれたり、何となく好みの雰囲気ではなかったので、直ぐに店を出て他の店を探すことにしました。
140 四日市アーケード繁華街
人通りは少なく、活気も今ひとつというアーケードの中を歩き「磯や」という店に入ると、17時30分を過ぎたばかりと時間が早かったので、私とYumiさんが最初の客だったようでした。
生ビールを注文し、メニューを見て、イカとキムチの海鮮キムチ、豚肉をタマゴで包み焼きした豚平焼き、磯焼きセットなどを追加しました。
139
Yumiさんと交互に写真を撮っていると、店の方が親切に「撮りましょう」と云って撮って下さり、入店して約1時間、お腹も膨らんできたので、精算して外に出ました。
ホテルに帰る前、昼間歩いた旧東海道のアーケードを見てみようと云ってみると、まだ19時頃ですが、シャッターが閉まり、人も歩いておらず、ひっそりとしていました。
143 昼間歩いた東海道
夜の近鉄四日市方面をバックに写真を撮り、ホテルに戻りました。
  ↓バックの光の部分が近鉄四日市駅
144 夜の四日市
19時頃に部屋に戻り、ホテルの寝着に着替えシャワーで汗を流し、服用薬、目薬の点眼、血圧測定などを済ませ、薄い方の靴下を洗濯し明日に備えました。
その後、足裏を見ると水膨れになりそうなので、山の会で「歩いた後、足裏に冷却シートを貼ると、熱を取るので足の回復に効果的」と、お教わったことを思い出し、Yumiさんの足裏に冷却シートを貼り、剥がれないように靴下を履かせました。
Yumiさんは、足裏にシップ薬が貼ってあると歩きずらいようで、靴下を脱いでしまい冷却シートは剥がれて効果はなかったようです。
また、Yumiさんのトイレ通いは寝るまで続きましたが、認知症の服用薬、寝る前の点眼、血圧測定を行ってベッドに入りました。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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