【天候】⇒晴れ
【宿場】(39)知立宿⇒(40)鳴海宿⇒(41)宮宿
【行程】歩行距離=16.57㎞ 総距離=369.43㎞
富士松・岡田燃料店角⇒(2.57㎞)⇒081阿野一里塚⇒(4.30㎞)⇒082有松一里塚⇒(4.60㎞)⇒083笠寺一里塚⇒(4.10㎞)⇒084伝馬一里塚⇒(1.10㎞)⇒宮宿・七里の渡し跡

※桶狭間古戦場公園を見学
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第25回旅の宿場)
16 25回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第25回
 第25回の旅ルート
  
(富士松・岡田燃料店角 ⇒ 宮・七里の渡し

第25回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成27(2015)年10月24日
  〔※②〕=平成27(2015)年10月25日

【旧東海道の旅】
《ホテル》
Yumiさん恒例の早朝のトイレ通いは、夜中から始まり何回行ったか分かりません。
私はあまりの回数の多さに「何とかならない」と、我慢できずに云わせてもらい、ウトウト状態で目覚ましの音を聞きました。

05時30分、起床
ホテルの支度は家の支度と同じなのですが、覚えていることがなく、全て私が介護する状態です。
私が云えば素直に聞くので楽な面はありますが、何回も同じことを云わないと理解できない状況に、云ってもしょうがないと分かっていても、イラついてくることは多々あります。
Yumiさんの支度を整えてから私の支度となり、ザックの整理を終わったら、6時30分を過ぎていました。
今日の天気予報は、気温が30℃を越す蒸し暑さで、雨の心配はないとのこと。
暑さ対策を考え、Yumiさんは半袖のTシャツに薄地の長袖シャツで、今日は旅してもらうことにしました。
ザックの荷物を整理しながら忘れ物がないか点検し、部屋に戻らないでチェックアウトの手続きをしてから朝食を摂ることにしました。
《朝食》
朝食は7時からと聞いていたのですが、少し早い6時50分に2階のフロント前の会場に行くと、会場にはまだ宿泊客は一人もおらず、従業員(男のアルバイト学生の感じ)の方に確認すると「構いません」と云われたので、最初にチェックアウトの手続きを行ってから、バイキング形式の朝食(パン)を頂きました。
《移動》
07時08分、ホテル発
001 ホテル(アイリスイン知立)
朝食後、そのままホテルを出発し、最寄り駅(知立駅)に向かいました。
時刻表は乗ろうと考えていた電車(7時36分発)しか調べてなかったので、知立駅に着いて時刻表を確認すると、数分後に発車する電車があることが分かり、初めての駅構内をキョロキョロしながらホームに向かいましたが、認知症のYumiさんは何のことか理解できず、私の急かせる声に促されて動いていました。
07時19分、知立駅発
003 名鉄・知立駅
知立駅から約4分で昨日の到着地である富士松駅に到着し、地下道を潜って反対ホーム側の改札通って駅を出ると、正面のロータリーに立派な松が植えられていました。
07時27分、お富士の松
011 富士松駅・お富士松
お冨士の松は、桶狭間の戦いで敗れた今川勢が退却した後、旅人がここを通ったときに今川勢は相手のまわしものだと思い、この旅人を誤って殺してしまった。それを見た住民は旅人を哀れに思い、葬った後にその場所へ1本の松を植えました。松は成長しお冨士の松と呼ばれるようになったと言われており、富士松は「お富士の松」に由来しています。木は伊勢湾台風で枯死してしまい二代目が富士松駅近くに植えられた。しかしこれも枯死してしまったため、三代目(現在)が富士松駅近くに植えられています。
昨日は、落としたカメラの修復に気をとられてしまい、見落としていました。
約50m先の岡田燃料店角に立ち、今日の出発
式を行いました。
【=旅=】
07時30分、富士松・岡田燃料店角(出発式)
015 富士松・岡田燃料店(出発地)
天気は快晴で、朝から梅雨のムシムシ状態です。
そのため、Yumiさんの相方の私は、この時点でタオルで顔の汗を拭いています。
少しでも涼しいうちに旅をしようと、出発式の後、すぐに旅立ちました。
約90m歩くと県道282号にぶつかり、今川歩道橋を渡らないと真っ直ぐ進めないようになっていました。
今川歩道橋を渡り、約130m歩いた左側に自販機があり二人ともペットボトルに残量がありましたが、ペットボトル(2本)を購入し、旅に出てわずかな時間ですが、立ちながら水分補給をしました。
07時36分~07時38分、立ち休憩(1回目)
街道は約250m先で国道1号の今川町交差点となりました。
この交差点は信号があるのですが、横断歩道がないため、国道1号の信号が赤になったら渡るので、気を付ける必要があります。
旧街道は、今川町交差点を横切り、そのまま右に分岐して進みます。
約300m歩くと左にヘルスセンターとKYORAKUの大きな建物があり、さらに約150m先に境川に架かる境橋がありました。
07時49分、境橋
018 境橋
境橋は、慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が設けられてから尾張と三河の立会いで橋が架けられました。この橋は、中程から尾張側(西)が木橋、三河側(東)が土橋で、中間で継ぎ合わされた継橋だったため、度々の洪水に流され修復されました。やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。
橋の中程で国境だった昔を思いながら、雲一つない晴天の中を歩きました。
ムシムシとした暑さなのですが、Yumiさんは暑いと云わないので、そのままにして先に進みました。
橋を渡り、左のパシフィック生コンを眺めながら、伊勢湾岸道の高架下を潜りましたが、高架下は涼しく生き返るようでした。
少し元気になり高架を潜ると、国道1号と合流し、豊明駅東交差点の次に豊明駅に入る交差点がありました。
07時57分、豊明駅前交差点
021 豊明駅前交差点
旧街道はこの先で左に分岐するため、渡るのは早い方が良いと考え、この交差点で進行左側に渡りました。
右の前原外科から約150m歩いた左に、日本橋から345㎞の距離標が建っていました。
08時03分、345㎞距離標(左側)
023 345㌔ポスト
陽が高くなるごとに暑くなる感じの中、約30分歩きましたが日陰になる休憩向きの場所がないため、次の一里塚まで頑張って歩くことにしました。
距離標から約50mで正戸橋(正戸川)を渡り、さらに250m歩いた左側のホンダ販売店に沿って国道1号から左に分岐しました。
分岐して約80m歩くと県道57号の高架下となり、先ほどと同じように陽射しがなくなり、風が流れ、「あー、涼しい」と声を出すと、Yumiさんは「寒い」と正反対の反応に、「この暑いのに、寒い?」とあまりの落差にガックリです。
涼しいので高架下で休もうかと思いましたが、一里塚が目の前なので頑張って先に進むと、高架下を過ぎて約150m歩くと公園のようになったところに、日本橋から81番目の一里塚があり、塚跡に標柱が建っていました。
08時10分~08時15分、081阿野一里塚=休憩(2回目)
 ※阿野一里塚(左塚)
025 081阿野一里塚(左)
 ※阿野一里塚(右塚)
029 阿野一里塚(右)
阿野一里塚は、往時は東海道交通上の目安となっていましたが、明治維新以後は次第にその価値を失いました。右塚と左塚の両塚が現存する例は珍しく、昭和11(1936)年に国の史跡に指定されました。
有難いことに一里塚の涼しいところにベンチがあり、ザックを降ろし、水分を補給しました。
休憩しながら、暑いので熱中症にならないよう、休憩を多く取って歩くことにしました。
5分ほど休憩し、出発しましたが、
ここから、前後駅までなだらかな上り坂なっており、その先から次の中京競馬場前駅付近までは、なだらかな下り坂です。
また、この間は史跡もなく、ただ歩くだけのつらい酷暑行軍になりました。
Yumiさんは何を考えながら歩いたのか分かりませんが、私は、
豊明小学校の真ん前にまんが絵入り看板のスナックがあり、
 ●何で小学校の真ん前に出来たんだろう?
 ●顧客は誰だろう(先生?、PTA?、はたまた両方?)
などと勝手な想像を巡らしたり、前後駅前に大手都市銀行の三菱UFJ東京銀行があり、地方都市にほとんどない支店があったので驚きながら歩きました。
08時26分、前後駅前交差点(駅は三菱東京UFJ銀行の裏です)
031 前後駅前交差点
旧街道は、進行方向右側の国道1号、左側の名鉄線の間を通っています。
歩くのは日陰になる右側を歩きましたが、とどまることなく流れる汗を拭きながら前後駅前交差点に着き、信号待ちを利用して、一服休憩を取りました。
ここから約900m歩いたところに、新栄町交差点がありました。
08時38分、新栄町交差点
旧街道は交差点を真っ直ぐ通り抜け、さらに600m歩いた右側の歩道に桶狭間の戦いをモチーフにした豊明市の汚水蓋がありました。
08時45分、汚水マンホール蓋
034 汚水蓋(桶狭間の戦い)
マンホールから約50~60m歩くと国道1号に合流し、左方向に進むため、合流する前に道路を横切り左側に移りました。
国道1号に合流し、道なりに左に約100m歩いて、名鉄線のガード下を通り抜けます。
そして約80m先の愛知信用金庫を左に見て、さらに70m先のT字路の信号(左前方に高徳院案内の看板がある)があります。
旧街道はこのまま直進するのですが、この信号を左折すると桶狭間古戦場跡があるので、旧街道を離れました。
08時51分、旧街道から分岐(左折)
035 高徳院曲がり角
T字路交差点から約90m先の最初の道路を越えた左に、桶狭間古戦場跡がありました。
08時52分~09:00、桶狭間古戦場跡(史跡公園)=休憩(3回目)
  ※桶狭間古戦場跡碑(左側)
036 桶狭間古戦場跡碑
  今川義元最期の地碑
040 今川義元最期の地
桶狭間の戦いは、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦いです。

東海道に君臨した今川氏はこの戦いを契機に没落しますが、勝利した織田氏はこれ以降、畿内の制圧に向かって急成長し、戦国時代の重要な転機となる合戦でした。
私は、若い頃に読んだ織田信長を思い出すとともに、天が定めた歴史の流れを感じましたが、大きく歴史が動いた古戦場のわりには、ひっそりとした小さな公園に少しガッカリしました。
史跡公園は樹木と座れる場所があり、木陰に入ると涼しく、ザックを降ろして水分を補給しました。
休憩の後、道路の反対側にある高徳院の境内にある今川義元本陣跡に行きました。
09時04分、今川義元本陣跡(右側)
048 今川義元本陣跡
高徳院は、弘仁元年(810年)開創以来高野山上にあり、明治27年(1884年)桶狭間古戦場に移転しましたので、合戦があった時はここには建立されていません。また、古戦場跡よりも高い場所に寺社があり、合戦をした場所として何となく違和感を感じ、史跡公園が伝説桶狭間古戦場跡となっているように、東海道を歩く人達のために作られた史跡のように感じました。
そう感じるとぜひ桶狭間古戦場公園を見てみたいという気持ちになり、時計を見るとまだ早い時間のため、本陣跡を見た後、旧街道に戻る左ではなく、右折して古戦場公園に向かいました。
古戦場公園には行くかもしれないと地図は準備してきたのですが、見事に間違えました。
〔以下は私が歩いた道です〕
 ①.高徳院を出て、右にきた最初の分岐を右に進む
050 古戦場公園案内①
 ②.真ん中に理容店の看板の分岐を正しくは右側で(白点線)、私は間違って左側に進んでしまい
   ました。正確な道は、左にカーブミラーがある処まで上りが続きます

051 古戦場公園案内②
 ③.左の平野工業の前を右折
052 古戦場公園案内③
 ④.坂を道なりに下って来ると、右側に桶狭間古戦場公園
053 古戦場公園案内④
平野工業が地図に出ていないので、散歩中の男の人に地図を見せて、行き方を聞くと②の処で間違えていることを教えられ、これから古戦場公園まで行くので案内してあげましょうと一緒に歩いて下さいました。
 男=歴史探訪ですか?
 E=旧東海道の旅をしています
 男=史跡公園は見てきましたか
 E=はい
 男=古戦場公園が史実の場所と云うが、史跡公園が本当の戦いの跡なんだよ
 E=そうなんですか
などと話しをしながら公園まで案内して下さいました。
また、散歩中の男性は近くの史跡の場所を案内下さいましたが、予定があるので丁重にお礼を云って別れました。
09時26分~09時37分、桶狭間古戦場公園=休憩(4回目)
054 桶狭間古戦場跡
  左=織田信長像・右=今川義元像  
057 左:織田信長・右=今川義元
  公園碑からの景色
060 石碑
公園一帯は、桶狭間の戦いの中心地で、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地と言われています。地元では、田楽坪とも呼び、今は合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化し、中央には織田信長と今川義元の銅像を配した桶狭間古戦場公園として、合戦から450年目の平成22年(2010年)に整備されました。園内には、他に、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑、合戦の解説板などあり、全国から歴史愛好家など多くの人が訪れる桶狭間古戦場の中心的な史跡です。
これからは桶狭間の戦いが放送されたり、映画で見たりする時は、今日見た二つの史跡のことを思い出す事でしょう。
少し遠回りしましたが、両方を見て良かったと思いました。
公園では史跡を見たり、ザックを降ろして、水分を補給したり、Yumiさんがトイレに行ったりして休憩しました。
トイレ脇から公園を出て、右のユーホーム、左の中京銀行の幕山交差点を右折し、地蔵堂池の脇(桜が植樹)を歩きました。
09時44分、地蔵池畔(右側)
068 地蔵池畔
池の終わりのバス停から約150m先の左にファミリーマートがあり、隣接して自販機がありぺットボトル(1本=3本目)を買いました。
旧街道に向かって真っすぐ約450m歩くと桶狭間交差点を渡り、右角が有松郵便局のT字路に突き当り、旧街道に戻ってきました。
09時56分、有松郵便局角(右側)
070 有松郵便局
T字路を左折して約90m先の右に山車会館がありました。
10時00分、山車会館(右側)
074
会館に入ると山車が展示してあり、有料(@200円)ですが見るだけならタダでいいよと入れて下さり、写真まで撮って下さいました。
展示してある山車は、明治24年(1891)に名古屋袋町の古道具屋で売られていたのを、東町の有志が1,300円の寄付を募り買い取ったものといわれており、「布袋車」と呼ばれています。
この山車は、名古屋城下の若宮祭の祭車で、延宝2年(1674)創建と伝えられ、この山車は明和5年(1768)に下玉屋町(現名古屋市中区栄3)で作られた由緒ある山車を見ることができました。
会館の隣りが寿限無茶屋で、昼食にと考えていたのですが、11時の開店まで時間があるため、素通りしました。
 ※寿限無茶屋(右側)=開店前の掃除をしていました
075 無限茶屋
茶屋から約50m先の左に有松鳴海絞会館があるので、Yumiさんに「見て行く?」と聞くと、興味を示すことなく「行かない」と云うので、会館の裏にある開祖の竹田庄九郎碑だけを見て後にしました。
着物が人一倍好きで、長年着物に関わってきましたが、病気で一変してしまい、まったく興味を示さなくなりました。
10時11分、中濱商店(有松絞りの店)=右側

086 中濱商店
それでも何とか興味を引こうと、有松絞りでお土産を買おうと入ったのですが、これにも興味を示すことなく「いらない」と云われてしまいました。
しかたないので、有松に残る連子格子の街並みを眺めながら歩きました。
史跡の住宅は、寿限無茶屋の隣りに服部家住宅(右側)、その隣りに井桁屋(有松絞りの店)、斜め前に駄菓子きょうか、約50m先の右に中濱商店(右)、約150m先の左に竹田家住宅、その先約80~100mの間隔で、岡家住宅、小塚家住宅がありました。
  竹田家住宅(左側)
089 竹田家住宅
  小塚家住宅(左側)
095 小塚家住宅
小塚家住宅の斜め前の左側に梅村鶴寿碑があり写真を撮って先に進むと、名古屋第二環状道路の高架手前に日本橋から82番目の一里塚があり、石碑が建てられていました。
10時22分、082有松一里塚跡碑(右側)
105 有松一里塚
有松一里塚は、この先の踏切を渡った鎌研橋の辺りに大正時代まで現存したそうですが、平成24年3月に名古屋第二環状自動車道(名二環)の高架橋下の空き地に、90年ぶりに復元されました。
現代の構造物の中に江戸時代の史跡で、保存や跡碑がない他地区もあることを考えると、作り方に違和感を感じますが、後世に残すものとして良いことだと思います。
一里塚の横は高速道路、それに交差する形で名鉄線が走っていて、高架の下に踏切がありました。
休憩しようかと考えたのですが、高架下は座る場所がなく、また踏切にも近いので、休憩できる場所を探そうと歩き始めました。
高架下で踏切を渡ると、直ぐ手越川の鎌研橋(一里塚があった辺り)を渡り約600m歩くと、名鉄・左京山駅に行く四本木交差点があり、さらに100m先の神明社参道の石柱の前に数本だけの左京山松並木(勝手な命名)があり、日陰けになっているベンチがあり休憩することにしました。
10時34分~10時40分、左京山松並木(左側)=休憩(5回目)
106 左京山松並木
朝食を食べてから3~4時間経ち、行動食を食べようと持参した「スポーツ羊羹」を食べました。
スポーツ羊羹は軽量、コンパクトで持ち運びが便利で、山行や旧東海道の旅では重宝しています。
涼しい場所で休憩し、栄養補給と水分補給で少し元気が出てきたので、次に向けて出発しました。
出発して約80mの左に名鉄整備があり、その前の右側に自販機があり、ペットボトル(2本=5本目)を買いました。
自販機から約230m歩いた平部北交差点を渡った左に、常夜燈が立っていました。
10時46分、平部町常夜燈(左側)
108 平部町常夜燈
平部町常夜燈は、鳴海宿の東の入口で、平部町に建てられたものです。表に「秋葉大権現」、右に「宿中為安全」、左に「永代常夜燈」、裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれています。常夜燈は、文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願しました。
大きく華麗な常夜燈であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影を偲ぶことができます。
平部北交差点から扇川に架かる中島橋までの約500mは、カラー舗装されていました。
10時53分、中島橋
《中島砦跡への順路》
 ①.中島橋の手前を左折
112 カラー舗装(終り)・道案内
 ②.約70m進み扇川の支流の手前を左折
113 道案内②
 ③.約70m進むとフェンスに標板
114 道案内③
10時55分、中島砦跡(左側)

115 中島砦跡
中島砦跡は、旧街道から外れ、扇川の支流沿いの民家の敷地(フェンスで囲まれている)にありました。
砦跡から旧街道の中島橋に戻り、中島橋を渡って約220m歩くと、クランク形に曲った曲尺手(かねんて)がありました。
11時00分、鳴海宿・曲尺手(かねんて)
118 曲手(カネンテ)
曲尺手の出口にレストランが見えたので、食べられる時に食べようと昼には少し早い時間でしたが、昼食にしました。
11時02分~11時34分、キッチン米常(昼食)=休憩(6回目)

120 キッチン米常
店内は開店したばかりですが、炎天下を歩いてきた私達には天国のように涼しく、椅子に腰掛けてため息がでました。
Yumiさんは汗をびっしょりとかいているので、濡れている薄地のシャツ脱いでと乾いている長袖のパーカーに着替えるとご満足でした。
食事はいろいろなメニューがあったのですが、刺身定食(@900円)を注文し、目薬を点眼するなどして待っていると運ばれてきした。
  ※刺身定食
122 刺身定食
お客は時間とともに入店してきましたが、広い店内だったので、静かな雰囲気の中で食事をすることができました。
約30分の食事時間でしたが、エネルギーの補給ができたので、元気に店を後にしました。
店の前は緑生涯学習センターで鳴海宿の東問屋場があった処だそうですが、跡碑がないということなので、学習センターを写真に撮りました。
11時35分、問屋場跡(現=緑生涯学習センター)=左側
124 東問屋場跡(緑生涯学習センター)
問屋場跡の碑がないので、あった辺りをバックに写真だけ撮って、次に向かいました。
約150m先の本町交差点を右折し、左側の鳴海交番の先の三菱UFJ東京銀行の前に復元高札場が立っていました。
11時38分、復元高札場跡(左側)

125 高札場跡
復元された高札場の道路反対側(左側)の塀に、庚申坂のプレートが埋め込まれていました。
プレートの前の坂が庚申坂です。
 ※庚申坂碑(左側)
127 庚申坂碑
本町交差点に戻り、右折して約80m歩いた左の「ばんの家電」の手前、右の大名茶屋の斜め手前に本陣跡パネルが立っていました。
11時44分、鳴海宿・本陣跡(左側)
128 鳴海宿・本陣跡
パネルは写真のとおり家の外壁に平行に立っているので、ばんの家電に着く前に左側を振り返ると良いと思います。
旧街道は、約110m先の作町交差点で大きく右に曲がり、交差点から約200m歩いた左側に、Yumiさん馴染の名前(Yumiさんの旧姓)の表札があり
 E=Yumiさん、分かる
 Y=(にっこり)分かります
と、顔を見合わせて二人でニッコリして通り過ぎましたが、知らない人が見たら「頭、大丈夫?」と云われそうです。
ここから約350m歩いた左側に鳴海ミシン商会があり、その約50m先の左側角に常夜燈が立っていました。
11時55分、丹下町常夜燈(左側)
131 丹下町常夜燈
丹下町常夜燈は、鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜灯で、表に「秋葉大権現」、右に「寛政四年一一」、左に「新馬中」、裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたもので、旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
常夜燈までの街道も炎天下でしたが、この先も日陰のない道を淡々と約500m歩いた右の斜面に貝塚の標板が立っていました。
12時02分、鉾ノ木貝塚(右側)
133 鉾ノ木貝塚

鉾ノ木貝塚は、上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている縄文時代早期から前期の貝塚で、貝層はハイガイが主です。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器が、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しています。
街道は、この先約100mで三王山交差点となり、交差点を渡り道なりに斜め左方向に進みます。
三王山交差点から約400m左側を歩くと大一食品浦里センターがあり、その前の歩道に「弥次さん・喜多さんモチーフのタイル」が埋め込まれていました。
12時10分、弥次さん・喜多さんモチーフタイル(左側)
136 東海道タイル
ここから約50m歩くと天白川に架かる天白橋がありました。
12時11分、天白橋(東詰)=右側
137 天白橋(始め)
12時12分、天白川・天白橋(中詰)
139 天白橋
午前中に比べると雲が出てきましたが、蒸し暑さは強くなっているように感じます。
橋の上は風が通るので涼しいかと思いましたが、残念ながら涼しさは感じませんでした。
 天白橋(西詰)
140 天白橋(終り)
天白橋を渡り約350m先の赤坪町交差点を過ぎ、さらに約150m歩くと右斜め方向に進む四差路となります。
この四差路の少し手前の左側に、東海道のレリーフがありました。
12時20分、東海道レリーフ(左側)
141 東海道53次レリーフ
レリーフは3~4m程もある立派なものでした。
この四差路を約60m進むとY字路となり、分岐の処に「笠寺一里塚」の信号がありました。
12時22分~12時28分、083笠寺一里塚跡=休憩(7回目)
143 笠寺一里塚全景
笠寺一里塚は、名古屋市唯一残っている一里塚で、直径10m・高さ3mの円丘上に、幹の傷(いた)みにもめげず大き なエノキが立っています。
旧街道は左側を進むのですが、昼食から約1時間歩いたので、エノキの木蔭で休憩しました。
 E=暑いね
 Y=寒い
 E=こんなに暑いのに、寒いの?
 Y=寒いんです
 E=暑いのでは
 Y=・・・・・
大人がバカバカしい会話をしながら、水分補給をして休憩したのですが、体を休める方に気がいって、一里塚を見ることを忘れてしまいました。
一服して少し元気になったので、一里塚跡を出発して約450m歩くと、右側に笠寺観音があり参拝に寄りました。
12時33分~12時38分、笠寺観音(右側)

148 笠寺観音境内
日曜日ということもあり、多くの参拝者がいて、少し混雑していました。
私とYumiさんは、本堂でお賽銭をご奉納し、心の中でYumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
境内は屋台が沢山立ち並んでいましたが、おやつやお土産向きのものがなかったため、何も買わずに後にしました。
参道に出ると菓子店があるので、休憩の時に食べようと、水餅(@120円)を買いました。
12時43分、菓子・松風堂(左側)
150 菓子・松風堂
菓子店を出て約60m先の環状線道路の笠寺西門交差点を横切り、約150m歩くと名鉄本笠寺駅近くの踏切を渡ります。
旧街道は、約60m先の十字路を右折して、再び名鉄に平行して歩きます。名鉄本線は、豊橋駅からずっと平行して走り何度も交差してきましたが、これが最後の交差となりました。
名鉄と平行する道を約400m歩くと、旧街道を横切る塩付街道の道標が立ったいました。
12時52分、塩付街道・東海道道標(右側)
151 東海道・塩付街道道標
江戸時代の中頃まで、南区本星崎町一帯では盛んに塩が作られていて、ここで採れた塩が千種区古出来町あたりに集荷され、遠く信州(現在の長野県)まで、俵に詰め運ばれたといわれています。本星崎町から古出来町までの約10kmが塩付街道です。 俵に詰めて塩を馬で運んだ「中馬(ちゅうま)」といわれる運送業者が往来していたそうです。
道標から約100m先の左側に富部神社があり、境内入口脇に東海道碑が立っていましたので、碑の処で休憩を取りました。
12時55分~13時00分、東海道碑(富部神社)=休憩(8回目)
154 東海道碑
道路脇に設置された東海道碑は、木蔭で涼しく、碑の台は座るのに丁度良い高さと奥行があり、失礼かと思いましたが座らせて頂きました。
笠寺参道の菓子店で買った水餅を食べ、水分補給をしました。
休憩を終え、また炎天下の中を歩き始め、約300m先の呼続小学校前交差点を横切り、さらに約150m進むと道標が立っていました。
13時05分、鎌倉街道・東海道道標
157 鎌倉街道・道標
クランク形の道の角に道標が立っていました。
ここから約250m先の左側に熊野神社があり、神社の入口の鳥居の前に東海道碑が立っていました。
13時10分、東海道碑(熊野神社の鳥居前)=左側

160 東海道石碑
熊野神社は、鳥居から本殿までは距離はなかったのですが、炎天下の中の旅で寄り道をしたくないという気持ちが強く、東海道碑の前で写真を撮っただけで、クスノキの巨木は遠目で眺めながら通り過ぎました。
熊野神社から約450m歩くと山崎川に架かる山崎橋があり、そこからさらに約600m歩くと高速3号大高線と国道1号が合流する松田橋交差点がありました。
13時22分、松田橋交差点
名所・旧跡があればその場で少し立ち休みができるのですが、まったくない炎天下の街道歩きとなり、つらい行軍となりました。
こうゆう時はYumiさんに話し掛けるなどして、気分だけでも和らげれば気分的に違うのでしょうが、精神的なゆとりがなく二人とも無言状態で黙々と旅歩きしました。
松田橋交差点は歩道橋で渡るのですが、事前準備で右側の歩道橋を渡って八丁畷公園の中に残っている旧松田橋を見る予定にしていました。
ところが左側の歩道橋を渡ってしまったため、旧松田橋を見ることができなくなってしまいました。
道路の反対側からわずかに見える旧松田橋を眺めながら、先に進みました。
交差点から約150m歩くと、左側に日本橋から357㎞の距離標柱が建っていました。
13時27分、357㎞距離標(左側)
162 357㎞ポスト
距離標から約450m、国道1号沿いを歩くのですが、国道1号は東海道線と新掘川を渡るため高架になり、旧街道は側道を真っ直ぐ進み踏切を渡ります。
JR東海道線の踏切の手前左に、地蔵堂がありました。
13時32分、地蔵堂(左側)
164 地蔵堂
JRに踏切を渡り、道なりに進むと新掘川に架かる熱田橋があり、橋を渡って約150m先の名鉄線のガードを潜った右側の小公園に、日本橋から84番目の一里塚跡があり、宮地区の案内看板が建っていました。
13時38分~13時42分、084伝馬町一里塚(右側)=休憩(9回目)

166 伝馬町一里塚跡
一里塚碑はありませんが、写真の案内板の中に、この場所が一里塚と記されているので、ここを一里塚としました。
《別の場所が一里塚説》=HP「宮(熱田)宿 街道の行く先へ」
これによると「ここが江戸日本橋から89里目(約350km)、京三条大橋からは29番目(実測で約152km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる伝馬町一里塚のあった場所とされるが、これは間違い。歩いている時には認識していなかったが、伝馬街園のある地点は連続する鉤の手の枡形道跡で、南東側に熱田神宮の築出鳥居が立てられていた。その北東側(現 名古屋市熱田区神宮4丁目辺り)が正林寺(現 名古屋市天白区土原1丁目)の旧地、そこから東海道を江戸方へ少し行った所に一里塚があり、その跡地は国道1号の新熱田橋西詰辺りと推定される。一里塚跡は宮宿東端の旧築出町にあたり、築出町一里塚と言った方が正しい」そうである。
日陰のアジサイの咲いている脇に座り、水分補給して休みました。
宮宿の七里の渡し跡は、残り約1㎞と目の前になってきました。
一里塚を出発して直ぐの左側に丸文食品があり、その隣りに史跡を祀った二階建の建物がありました。
13時44分、裁断橋址碑・都々逸発祥地之碑(左側)
  1階左=裁断橋址碑と復元旧裁断橋
168 裁断橋跡
  1階右=都々逸発祥之碑
171 都都逸発祥之碑
《裁断橋》
宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた精進川(現在は埋め立てられてない)に架かっていた橋で、1993年に修復されたましたが、都々逸とは 直接関係はないそうです。
「都々逸」は、七七七五を定型とする短詩で、五七七七五という形式をとることもあります。
元来は三味線を伴奏とする俗曲で、寄席や座敷などで唄われ男女の情愛を題材とした内容のものが多い。 江戸末期・天保年間に「都々逸坊扇歌」という人物が江戸の寄席で流行らせたと言われますが、 その起源は上方を中心に流行していた「よしこの節」に「名古屋節」の合の手 「どどいつどどいつ」を取入れ, 唄いやすいように改良したという説が有力とされています。ただ、この地がなぜ 発祥の地 とされたのかは、 資料乏しく不明とのこと。
建物の2階に姥堂が祀ってありましたが、参拝は割愛しました。
史跡を後にして進むと下調べでは、本陣、脇本陣、問屋場跡、高札場跡があると資料には記されていましたが、探し方が悪かったのか確認することはできませんでした。
その代りに、暑さにバテバテなのか、手と足を伸ばして寝ているネコちゃんがいました。
173 寝ている猫
Yumiさんは、寝ているネコを見て、「何、これ」とひと言。
再度、本陣、脇本陣、問屋場跡などについて調べると、標柱などは建っていないことが分かり、再訪で来たで建物があったと思われる現在の風景を記録に残すことにしました。
裁断橋址碑・都々逸発祥地之碑から約80m先の左側に、鈴之午前社が祀られていました。
 ※①=鈴之御前社(左側)
004 鈴之御前社
鈴之午前社から約30m先に菅沼歯科があり、その隣り当たりに白本陣(森田八郎右衛門家)があったようです。
 ※①=白本陣(森田八郎右衛門家)=左側
003 宮宿・本陣跡付近(標示なし)
白本陣跡付近から約30m先の十字路を左折すると、二つ目の十字路(約75m先)の右角にサンライフション伝馬があり、ここを左折して約20m進むと右側に徳川家康が幼児の頃幽閉されてい場所があり、標板が建っていました。
※①=徳川家康幼児幽居地
006 家康幽閉の地・加藤図書跡
《徳川家康幼児幽居地跡》
松平竹千代、のちの徳川家康が天文16(1547)年8月、6才の時、織田信秀(信長の父)のため人質となって、この地(熱田)の豪族であった加藤順盛の屋敷に幽閉された。また、この後、那古野城内天王坊にも幽閉されたと伝えられている。
家康は、天文18年11月、竹千代8才のとき一時、岡崎に戻ったが再び今川の人質として駿府に行ったそうです。
幽居地跡から来た道を旧街道の十字路に戻り、左折して約30m先の左側付近が脇本陣があった所のようです。
 ※①=脇本陣跡(左側)
002 宮宿・脇本陣跡付近(標示なし)
旧街道は、この先(約20m)で県道225号に突き当りますが、中央分離帯があって真っ直ぐに渡れないため、右折して伝馬町交差点を渡って迂回し、旧街道に戻りました。
そして旧街道を約80m先の左側付近に問屋場があったそうです。
 ※①=問屋場跡(左側)
009 宮宿・問屋場跡付近(表示なし)
問屋場跡から十字路を通り過ぎ、約30m先の右側に小出太兵衛家が勤めた脇本陣跡がありました。
 ※①=脇本陣跡(小出太兵衛家)=右側
010 宮宿・脇本陣跡付近
脇本陣跡から約70m歩くとT字路となり、突き当りにほうろく地蔵が、右角(左角から移転していました)に三叉の道標(追分)がありました。
13時55分、ほうろく地蔵(突き当り)
177 ほうろく地蔵
【ほうろく地蔵】
元三河国重原村にあり、野原の中に捨て石のような状態であった。そこに焙烙(ほうろく 土鍋のこと)を売る者が、この地蔵を荷物のバランスを取るために拾って、この地蔵を持って熱田までやってきて焙烙を売った。焙烙を売り尽くしたので、この地蔵も熱田の海辺の葦の草むらに捨てていった。地元の者が、捨ててあったこの地蔵を見つけ安置しようとしたが、動かなかったので、おかしいと思い地面を掘ってみると、この地蔵の台座と思われる石が見つかった。みんなが不思議な事もあると思い、その台座を掘り出して、そこにこの地蔵を安置したのが、この地蔵(ほうろく地蔵)だそうである。
13時55分、三叉の道標(東海道・美濃道・佐屋街道)=追分・・・左角

174 道標
 ※①=三叉の道標(右角)
011 三叉の道標
《三叉の道標=追分》
道標は、寛政2年(1790年)建立で、位置もそのままだそうです。
東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点に当たる重要な三叉路で、寛政2年(1790年)に設置され、位置は当時のままです。
 東・・・北=さやつしま(佐屋津島)道  
    同=みのち(美濃路)道
 西・・・東=江戸かいとう(街道)
    北=なこやきそ道(名古屋木曽)
 南・・・寛政二庚戌年
 北・・・南=京いせ七里の渡し
    是より北あつた御本社貮丁
道標を確認し、約40m先に進むと国道247号に合流し、歩道橋で反対側に渡ります。
歩道橋を降り、右側のあつた蓬莱軒の建物の裏にある駐車場に沿って約30m進むと駐車場があり、左側の駐車場脇に赤本陣跡の標板が建っていました。
 ※①=赤本陣跡(左側)

015 宮宿・赤本陣跡
《赤本陣・解説》
宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本などの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。
本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で赤本陣は南部新五左衛門が務め、苗字帯刀が許されていました。
天保年間(1830~1844)の東海道宿村大概帳によると建坪236坪となっており、南部家の記録では間口約16間、奥行き21間と記されているが、戦災で本陣の遺構は消滅した。
歩道橋から下を見ると若い人が沢山群れているので、何だろうと思いながら歩道橋を下りて近付いてみると、右側に名古屋名物ひつまぶしの「あつた蓬莱軒」本店があり、若い人で行列になっていました。
14時01分、あつた蓬莱軒本店前(右側)
179 蓬莱陣屋の行列
この時点での待ち時間は、90分と掲示されていました。
旧街道は国道247号から分岐して右のあつた蓬莱軒の前を通って進みます。
 あつた蓬莱軒から約80m先左側の食事喫茶はまじまに沿って右折し、30m先の左に白鳥防災倉庫がありその脇に西御殿跡がありました。
14時03分、西浜御殿跡(右側)
180 西浜御殿跡
西御殿跡は、街道を往来する大名らを招待、供応するため、尾張藩が1624年(「厚覧草」によれば1634年)、七里の渡しの東側の海を埋め立てて東浜御殿を造り、1654年に七里の渡しの北西に西浜御殿を築きました。東浜御殿は桑名楼と寝覚楼を持つ城郭のような構えで、西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたということです。
旧街道に戻り、約90m歩くと宮の渡し公園となり、公園前の道路沿いに史跡の建物が建っていました。
 ※①=丹羽家住宅(右側)
幕末は脇本陣格の旅籠として栄えましたが、現在は住んでいる方の意向で、史跡解説などのパネル類は全て撤去されていました。
021 丹羽家住宅
丹羽家は、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠で、正面の破風付き玄関はかつての格式の高さを偲ばせ、西国各藩の名を記した提灯箱が残っているようで、和59年に市の有形文化財に指定されました。
 ※①=熱田荘
019 熱田荘
熱田荘は明治29(1896)年に魚半の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は三菱重工の社員寮として使われ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。建造は明治29年と比較的新しいが、近世の町家の様式を継承しており、名古屋市の有形文化財に指定されている、
そして、建物の前の道路を渡った処が宮の渡し公園で、渡し跡の史跡が残されていました。
公園の左側に時の鐘、その隣りに熱田常夜燈が立っていました。
14時09分、時の鐘(左側)
182 時の鐘
時の鐘は、延宝4年(1676年)尾張藩主徳川光友が熱田蔵福寺に設置され、正確な時刻を知らせる鐘として熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果していました。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失しましたが建物は復元され、鐘楼は損傷を受けないで、今も熱田蔵福寺に残っている。
時の鐘の隣りに 
当時、灯台として機能していた常夜燈がありました。
14時10分、熱田湊常夜燈(左側)
186 熱田常夜燈
熱田湊常夜燈は、寛永2年(1625年)、藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したもので、その後風害で破損したため、承応3年(1654年)に現在の位置に移り、神戸町の宝勝院に管理が委ねられた。現在の常夜燈は、名古屋市教育委員会=昭和30(1955)年、名古屋市=昭和58(1983)年に復元されたと記されており、どちらが正しいのか分かりません。
ブロックを越えた隣りに宮宿・七里の渡し跡(碑)があり、日本橋を出発して25日目に到着しました。
14時11分、七里の渡し(到着地)

189 宮宿・七里の渡し跡
 宮宿・七里の渡し跡(全景)
192 宮宿・七里の渡し全景
七里の渡しは、宿場の宮宿(現愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海上の渡しで、慶長6年(1601年)の東海道制定の時に定められた、東海道で唯一の海上路でした。この渡しの、宮宿側および桑名宿側の渡船場のみを指して「七里の渡し」と呼ばれています。七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来し、船によって移動し、所要時間は約4時間だったそうです。また、「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などとも言ったようで、天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つでした。そのため、海上を避ける迂回路として、脇往還の佐屋街道があり、陸路の街道を歩く人も多くいたそうです。
暫し、往時のことを頭に思い浮かべながら、風景を眺めました。
※到着式を忘れた!!
熱田神宮に着いた時、七里の渡し跡碑に到着した時の到着式を行っていないことを思い出しました。
しかし、熱田神宮から七里の渡しに戻ることは体力的に厳しいので、旧街道思い出の旅の時に到着式の写真を撮ろうと思い諦めました。
14時13分~14時20分、七里の渡し東屋=休憩(10回目)

七里の渡し跡碑の真向かい東屋があり、ベンチに座って休憩しました。
涼しい風が通る東屋は快適で、水分補給しようとしたらペットボトルの残量が少なく、
ペットボトル(2本=7本目)を買いました。
今日は、桶狭間古戦場公園に迂回したため、炎天下の中で真っ赤に日焼けする18㎞強の旅を、Yumiさんは弱音を吐かないで良く歩いたと、頑張りに頭が下がりました。
暫く休憩して、織田信長が桶狭間の戦いの戦勝祈願を行った熱田神宮に参拝するため、七里の渡し跡を出発しました。
14時20分、七里の渡し発

旅で歩いてきた道を戻り、ひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒」の処にくると、待ち時間がさらに延びて2時間になっていました。
凄い人気に驚くとともに、今度来た時は食べてみたいと思いました。
熱田神宮南交差点を歩道橋で熱田神宮側に渡り、神宮南門に着きました。
14時30分、熱田神宮南門

194 熱田神宮・鳥居
鳥居を潜り、参道に入ると日陰となり、旅が終わっているので、ひと息つきながらのんびりと歩くことができました。
 熱田神宮・参道
196 熱田神宮・参道
参道中程の左に大クスノキがあり、立ち寄りました。
14時36分、大クスノキ(左側)
197 大楠の木
大クスノキは、幹周7.7m、樹高20m、樹齢1,000年、弘法大師が手植えしたとのことで、御神木になっているため、保存樹にはなっていないそうです。
大クスノキには人が集まっており、手を合わせたり、お賽銭を上げている人もいましたが、写真だけ撮って後にしました。
熱田神宮の本宮に行き、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
 ※②=二十五丁橋(境内左側)
宮きしめんの店の横に、二十五丁橋が復元されていました。
008 二十五丁橋
〔解説〕
花崗岩の板石を並べた反り橋(中央が高く弓状に反っている)で、板石が25枚並んでいることが名前の由来。かつては熱田神宮を巡る堀に架けられていましたが、昭和11(1936)年に境内の拡張に際し解体され、昭和30(1955)年に現在の場所に復元されました。
14時40分、熱田神宮・本宮
200 熱田神宮・本殿
本宮に参拝し、社務所の前を通る時、
 E=おみくじ、引く?
 Y=どちらでもいい
 E=じゃー、引いてごらん
と云って、おみくじ(@200円)を引くのですが、番号札が書かれた棒が入っている筒の扱い方を忘れてしまっているため、Yumiさんに持たせながら何とか棒を引きました。
引いた棒に書いてあった「20番」のおみくじを受け取ると、「中吉」で病気は長くかかると書かれていました。
なお、おみくじは、境内の結び棒にくくり付けてきました。
東側の参道を歩くと、桶狭間で戦勝した謝礼として寄進した信長塀がありました。
14時47分、信長塀(熱田神宮)
202 信長塀
この後、参道のトイレを済ませてから熱田神宮を後にしました。
14時53分、熱田神宮出入口
信号を渡った処のコンビニ(セブンイレブン)に立ち寄り、休憩に食べるアイスクリームを買い、駅のベンチで食べようと神宮前駅に向かいました。
駅の改札を入った処に考えていたとおりベンチがあり、腰掛けてアイスクリームを食べました。
15時00分~15時11分、名鉄・神宮前駅=休憩(11回目)
15時13分、神宮前駅発
疲れを少し癒しホームに降りると、発車寸前の状態だったので、少し待ってもらい乗車しました。
電車は、5分程度の乗車でしたが、座れる座席があったので、ザックを降ろして腰掛け体を休めました。
15時20分、名鉄・名古屋駅着
《大都市で迷子》
名古屋駅に着いて、駅近くのホテルに向かいましたが、改札口で「南口」と聞いたのがそもそもの間違いで、名古屋駅前で迷子になってしまいました。
名古屋駅の周りを行ったり来たりしたようで、ホテルに電話して場所を伝えると、ホテルとは逆の方向にいることが分かり、名古屋駅を横切って反対側(太閤口)に出てやっとホテルの場所を確認しました。
駅に着いてから約40分、大都市の名古屋駅前で迷子になってしまいました。
【ホテル】
15時59分、ホテル着(東横イン)

205 東横イン
ホテルでチェックインし、指定された部屋(6階)に入り、風邪を引かないように濡れている洋服を脱ぎ、入浴前なので前日着たシャツですが、一時しのぎに着替えました。
その後、デジカメ・携帯の充電、Yumiさんの目薬・服用薬・血圧測定の準備、下着の準備、明日の服装の準備などを行い、夕食に行くまでベッドに横たわって体を休めました。
【夕食】
17時30分頃、名古屋駅の地下街に食事に行きましたが、明日の朝、迷子にならないように乗車口などを確認しました。
地下街でYumiさんも食べられる味噌かつが食べられる店に入りましたが、店名などを記録するのを忘れてしまいました。
Yumiさんと乾杯し、食事してホテルに帰り、シャワーを浴び、夜の点眼、血圧測定をしてベッドに入りました。

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※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
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旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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