【天候】曇り⇒晴れ
【宿場】(38)岡崎宿~(39)知立宿
【行程】歩行距離=10.04㎞ 総距離=342.86㎞
東岡崎・岡崎サンホテル前⇒(3.45㎞)⇒077矢作一里塚⇒(4.09㎞)⇒078尾崎一里塚⇒(2.50㎞)⇒新安城・里町4丁目西交差点

【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第23回旅の宿場)

20 23回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第23回
 第23回の旅ルート
  
(東岡崎・岡崎サンホテル前 ⇒ 新安城・里町4丁目西交差点

第23回ルート
【旧東海道の旅】
《身支度》
05時30分、起床

昨日の午後から降り出した雨が気になり、起きて直ぐ窓を開けて雨の状況を確認すると、車はワイパーを使い、歩く人も傘を差しています。
天候予報では回復方向にあるので、旅の途中で晴れることを願って身支度に取り掛かりました。
歯磨き・洗顔のパフォーマンスは昨日と同じなのですが、昨日使い方を説明したことはまったく覚えていないので、全て最初から介助が必要となりました。
着替えは下着を含めて全て新しいものにし、スポーツタイツは私も手伝って何とか穿き全ての身支度を整えました。
私は自分の身支度を整えた後、二人のザックの荷物を点検し、直ぐに出掛けられるようにして食事に行きました。
《朝食》
ホテル1階の食事会場に行き、バイキング形式で食べるものを取り皿に移し、テーブルに運び食べました。
食事するところには他に誰もいなかったので、周りの人に気兼ねすることなくYumiさんも一人で取り皿に移すことができましたが、取るものは私と同じものでした。 
朝食はパンが多い我が家では、久し振りのご飯と味噌汁で、残すことなく完食しましたが、宿泊料金の割りには今いちの内容で、次回泊まるかと聞かれたら「NO」と答えるような内容でした。
部屋に戻ってトイレを済ませチェックアウトし、旅に出発しました。
001 朝食
【=旅=】
起床した時に降っていた雨は、ホテルの外に出ると止んでおり、「ラッキー」と自然に顔がほころんできました。
そして、いつもの通りにYumiさんに出発の看板を持ってもらい今日の出発式を行い、23日目の旅に出発しました。

07時31分、岡崎サンホテル前(出発地)=右側
005 岡崎サンホテル前(出発地)
出発しようと目の前を見ると、ホテルの前に三度飛脚の石像があり、記録に残しました。
※三度飛脚像(右側)
008 石像・三度飛脚
史料では、ホテルの隣りのあいおいニッセイ同和損保の前あたりに、岡崎一里塚があったという情報があり、私の勝手な判断で一里塚として記録しました。
07時32分、岡崎一里塚跡(右側)

009 岡崎一里塚
011 一里塚・解説
岡崎の手前の一里塚は3.06㎞手前の大平一里塚で、次の一里塚は3.45㎞先の矢作一里塚で、塚間が6.51㎞と他の一里塚に比べて1.5倍の間隔になっています。
そのため、中間点になっている東岡崎にあっても不思議ではありません。
一里塚の石像と標板から2軒先に、薬で有名な大黒屋跡がありました。
07時33分、大黒屋屋敷跡(右側)
012 薬局・大黒屋
大黒屋から次の交差点(伝馬町1丁目)までの約50mの間に、以下の石像が立っていました。
  ※あわ雪茶屋の石像(右側)
014 石像・あわ雪茶屋
  27曲りの石像(右側)
015 石像・27曲り
  本陣・脇本陣の石像(右側)
016 石像・本陣・脇本陣碑
伝馬通1丁目交差点の手前にコンビニ・ミニストップがあり、店の前に西本陣跡がありました。
07時36分、西本陣跡(右側)
019 西本陣跡
伝馬の本陣は正徳3年(1712)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒であったが、後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の3軒が本陣、脇本陣は鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒と推移したそうです。
西本陣跡碑の数m先の伝馬通1丁目交差点を左折して渡った左角に27曲りの道標が立っていました。
07時37分、27曲り(ほ)=06 左
021 27曲り-06
渡ってきた交差点から約60m直進した次の十字路右角に、27曲りの道標が立っていました。
07時38分、27曲り(へ)=07 右
023 27曲り-07
道標に沿って右折して数m程歩いた左に吉良道の道標が立っていました。
07時40分、吉良道道標(左側)
027 吉良道道標
道標から約80m歩くと、右角に岡崎信金の資料館が建っていました。
07時41分、岡崎信用金庫資料館(右側)
029 旧商工会議所
岡崎信用金庫資料館は、昭和57年に開館した赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を組み合わせた特色ある建物で、本格的なルネッサンス様式を取り入れた建築として、大正6年に旧岡崎銀行本店として建造されたそうです。
資料館を過ぎた右に公園があり、その入り口に籠田総門跡がありました。
07時44分、籠田惣門跡(右)
032 籠田惣門跡
籠田惣門跡は、岡崎城の東の境、いわば城下町と宿場町の境で、東の玄関であった処です。
田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われ、惣門は現在の西岸寺辺りがあったといわれ、このお寺は徳川四天王のひとり、本多忠勝の菩提寺。門の前には外堀があり、そこから西が岡崎城内となります。
お城に入る玄関口と云われる場所ですが、碑の目の前はゴミ置き場となっていて、ゴミの山でした。
山積みになったゴミ袋を記録に残したくなかったので、入らないようにして撮影しました。
〔街道を間違える〕
27曲りはここで右折して籠田公園の中を通り、籠田公園北西交差点を左折するのですが、何を勘違いしたのかここで右折しないで、一本先の十字路を右折してしまいました。
そして康生通りを横切り、籠田公園北西交差点を左折して最初の十字路の連尺通りに出ました。
ここで正規の街道に合流し、約200m先の本町3丁目交差点を横切り、約80m先の右側に27曲りの道標が立っていました。
07時53分、27曲り(と)=08 右
035 27曲り-11
街道は道標の先を右折し、約80m先の清水歯科医院(左)の角に27曲りの道標が立っていました。
07時56分、27曲り(ち)=09 左

037 27曲り-12
27曲り道標(ち)の道路を渡った反対側に、木戸前の石柱がありました。
07時57分、材木町口木戸前
039 材木町口木戸前
木戸前から約100m先の材木町1丁目交差点の角に、27曲りの道標が立っていました。
07時59分、27曲り(り)=10 右

043 27曲り-12
材木町1丁目交差点を右折すると、歩道面に27曲りのモニュメントタイルが埋め込んでありました。
044 27曲り本町通り
モニュメントのタイルを見ながら約150m先の二つ目の十字路の左角に、27曲りの道標が立っていました。
08時01分、27曲り(ぬ)=11 左

045 27曲り-14
道標の処を左折し、道路の右側を歩き、材木町3丁目交差点を越し、伊賀川の手前右側に連子格子の家があり、軒先に唐弦の看板が掲げられていました。
08時10分、唐弦の看板(右側)
048 唐弦の看板
伊賀川に架かる柿田橋西の手前左角に27曲りの道標が立っていました。
08時12分、27曲り(る)=12 左
050 27曲り-15
持参したマップは柿田橋を渡った処を左折となっているのですが、道標の前に掲げられている案内板はここを左折するように記されていたので、案内板に従って左折しました。
川沿いを歩き、次の橋の右角に27曲り案内石標が立っていました。
08時15分、27曲り石標=13 右
052 27曲り-16
石標に沿って右折し、さんせい橋を渡った先の左に27曲りの道標が立っていました。
08時17分、27曲り(を)=14 左
左側の階段道か、歩道を下ります。
※階段道
054 27曲り-17
※歩道
056 道案内(左の道を下る)
27曲り案内看板=15 左
  ※下った左側に案内看板が立っています
057 27曲り-18
道案内看板に従って左折し、次の曲り角に進む途中に、下水道のマンホール蓋があり、記録に残しました。
058 マンホール蓋
道は国道1号線に突き当り、直進できないため右折して八帖歩道橋を渡るか、龍城橋西交差点を渡ります。 
08時21分、27曲り国道1号に突き当たった処=16

059 27曲り-19
私達は、八帖歩道橋を渡り、八帖交差点と逆方向(左)に進むと、曲り角に石標が立っていました。
  ※八帖歩道橋
061 8帖歩道橋
08時26分、27曲り石標=17 右
062 27曲り-20
石標の処を右折しました。
27曲りから離れて岡崎城を見学するため、150m先の十字路(左側の路地で3本目)を左折し、岡崎城に向かいました。
08時32分、坂谷橋(岡崎城公園入口)
064 坂谷橋
平日の開城前の時間帯だったので、歩いている人は一人だけの雨上がりの橋を渡り、公園に入りお城を見に行きました。
岡崎城の見学受付は9時からで、職員の人が階段を清掃したりしていました。
お城の中も見たかったのですが、先の予定があるため天守閣の見える場所で写真だけ撮ることにしました。
08時36分、岡崎城
065 岡崎城
岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、徳川家康の生地です。別名を龍城と云い、戦国時代から安土桃山時代には徳川氏の持ち城となり(一時、豊臣秀吉の持ち城になった)、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。
岡崎城を見たので、27曲りに戻ろうとすると、Yumiさんが左足の裏が痛いとSOSが発せられました。
公園のベンチに腰掛け、足裏を見ると赤く腫れていたので、ゲンタシン軟膏を持参した洗浄綿に塗り、綿をバンドエイドで止める応急処置を施しました。
靴を履いて歩いてみると「大丈夫」の返事に、そのまま旅を続けましたが、我慢していたと思います。
さて、岡崎城から街道に戻るために竹千代橋を渡りました。
08時49分、竹千代橋
071 竹千代橋
竹千代橋から150m(ビジネス旅館友栄の先、板屋稲荷神社の手前)先の十字路を右折します。
私が持参した地図に竹千代橋から先の部分が印刷されていなかったため、勘で距離を測り、曲がるところにいた地元の方々に27曲りの場所を確認して街道に戻りました。
27曲りは、右折した十字路から約60m歩いた三叉路の右角に27曲り「よ」の道標と板屋町角の石標があり、斜め向かいの角にカットハウスキトウがありました。
08時53分、27曲り(よ)=18 左:正規進行方向から
072 27曲り-21
27曲りの道標が、(を)の次に(よ)が出てきましたが、正しいルートを歩いているので、見落としたのかもしれません。
カットハウスキトウを右に見て約100m歩き国道248号の中岡崎町交差点を渡り、さらに約200m先の愛知環状鉄道の高架下を潜ったところを右折して街道から別れ、約100mの処に八丁味噌のカクキューがありました。
09時00分、八丁味噌=カクキュー(右側)
074 八丁味噌
八丁味噌は、徳川家康に代表される三河武士も兵糧として持ち歩いた、固くて色の黒い濃厚な豆味噌です。
その名は、岡崎城から西へ向かって八丁(約870m)の処の、矢作川と東海道が交差する八丁村で盛んに造られたことが起源だそうです。『カクキュー八丁味噌』は、今からおよそ360年前の正保2年(1645年)に創業した、八丁味噌の老舗です。
登録文化財に指定されている蔵など「八丁味噌の郷」は見学することが出来るとのことなので、受付に行ったところ、「工場見学は10時からで、それ以外は入場できません」と、受付女性に優しさのない言葉で云われ、そのまま何も買わずにカクキューを出て、Yumiさんと顔を見合わせてしまいました。
八丁味噌の建物や八丁通りを歩き、歴史のある味噌の町の雰囲気を味わいました。
  ※八丁味噌の建物
078 連子格子の家
  ※八丁通り
081 八丁味噌通り
八丁通りから街道に戻り、約100m歩いたT字路の対面に石標が立っており、ここを右折します。
Yumiさんと交替に写真を撮っていると、車が来たので脇に寄って通りすぎるのを待っていると、とおり過ぎた処で車を停め、助手席から女性が降りてきて「シャッターを押しましょう」と云って、二人が並んだ写真を撮って下さいました。
「有難うございます」とお礼の言葉を云うと、「どうも」と云って車は走って行きました。
09時13分、27曲り石標=19 右
086 27曲り-22
街道は、T字路を右折し約100m先の国道1号線に突き当り、ここを右折して矢作橋を渡ります。
国道1号は中央分離帯で左右が分離された片側二車線の道路で、両側に歩道がありますが、矢作橋を渡ったところで右折します。
矢作橋を渡ったところがどのような構造になっているのか分からないため、Yumiさんに無理を云って中央分離帯を跨いで渡たることにしました。
国道1号は、交通量が多く、中央分離帯のところで車の通過を待って渡り進行右側の歩道に出ましたが、Yumiさんから睨まれてしまいました。
087 道路を横断
09時18分、矢作橋
088 矢作川
矢作橋は、岡崎市を流れる矢作川にかかる橋で、橋上を通るのは東海道(国道1号)です。そして、古来から交通の要衝でありました。

矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきました。架橋がみだりにできなかった江戸時代は、日本最長の大橋だったそうです。
現在の矢作橋は、昔の東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置しています。
  ※矢作橋を渡るYumiさん
091 矢作橋②
矢作橋を渡って、道路の構造が分かりました。
進行左側の歩道を歩いても、橋を渡ったところに橋の下を潜る道が出来ており、交差点しか渡る場所はないと思っていた私の考え違いでした。
いままでの道路は、迂回することが多かった学習効果が影響しました。
矢作橋を渡ったところに出会いの碑(蜂須賀小六と日吉丸)があると史跡資料に記されていたので、探しましたが見つかりませんでした。
矢作橋を渡ったところで右折した道は、Uターンする感じでこの場所にきますので、ここを右折します。
09時26分、矢作一里塚跡付近(史跡が分かるものは何もありません)
094 077矢作一里塚跡(?)
この隣りが勝蓮寺で、門前に矢作一里塚があったとされていますが、名残りは何もありませんでした。
勝蓮寺の前を過ぎ、約130m歩いた左側に、菓子近江屋本舗がありました。
09時30分~09時41分、近江屋本舗(左側)=休憩
096 菓子処・近江屋本舗
約1時間歩いたので、休憩した時に食べるお菓子を買いに立ち寄りました。
Yumiさんに「食べたいものは?」と聞いても、今のYumiさんは自分で希望を云うことが出来なくなっているので、私が柏餅(@150円)を選んで注文しました。
097 近江屋・柏餅
女将さん=食べて行かれますか?
E=(店内のベンチを確認し)はい
女将さんに勧められてベンチに座って食べ始めると、お茶を運んできて下さいました。
E=矢作橋のたもとに出会いの像があると聞いてきたのですが、見付けられませんでした
女将さん=矢作橋の掛け替え工事で、他の場所に移動(平成18年2月)しており、まだ暫くは帰ってこないようです
E=あー、そうですか
など、街道の話しをし、お礼の言葉を云って店を後にしました。
店を出て約150m歩いた右側のモリヤ鈴木酒店の数軒先隣りに、仏壇を洗浄する店がありました。
  ※お仏壇洗浄屋(右側)

099 お仏壇洗浄屋
仏壇を洗浄する店は初めてなので、店の人が居たら立ち寄ってみたいと思ったのですが、扉から中を見たら誰もいないので、そのまま立ち去りました。
そこから100m先の右側に弥五謄神社があり、参拝に立ち寄りました。
09時46分~09時50分、弥五謄神社(右側)
101 弥五謄神社・本殿
神社は静寂の中にあり、Yumiさんと二人並んで、お賽銭をご奉納し参拝しました。
神社での参拝は、恒例となってきた声を出してご祈願する参拝方法で、祈願している願いが叶うまで続けて行きたいと考えています。
神社を出ると、浄瑠璃姫の墓があるという誓願寺まで約200m。
入口を見逃さないように歩くと、幼稚園の園庭になっていて、寺院には別の道から入るため、本堂には立ち寄りませんでしたが、道路沿いに立っていた誓願寺十王堂に立ち寄りました。
09時53分、誓願寺十王堂(右側)
103 誓願寺十王堂
十王堂の解説板には、「長徳3年3月(997年)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。
時代は下り、寿永2年(1183年)3月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。〜以下略〜」と、記されていました。
ここから約600m歩いて、国道一号の安城街道入口交差点に合流しました。
10時02分、安城街道入口交差点
106 安城街道入口交差点
交差点に合流し、国道をそのまま右側の歩道を歩き、次の矢作町猫田交差点から約100m歩いた処で、国道の反対側(左側)の歩道沿いに距離ポストの標識が立っているのが目に入り、折角の機会と思い来た道を引き返し矢作町猫田交差点に戻りました。
交差点を渡り、左側の歩道を約100m歩いた名古屋トヨペットを過ぎる手前の国道沿いに330㎞の標識が立っていました。
10時10分、330㎞距離標
108 330㎞ポスト
街道は、この先で右に分岐するため、次の東大友町並木側交差点で進行方向右側に渡りました。
天気はすっかり回復し、気温も上昇し、汗を拭きながら炎天下の国道沿いの旅となりました。
国道沿いの旅は、アスファルトの照り返しを受けるながらの旅になるため、上り坂に次いで辛い歩きになります。
約350m歩いた暮戸交差点を過ぎると、自動車ディラーが連なり平日の午前中ですが、商談なのか、他の事かわかりませんが、全てのショールームにお客がいたことは驚きでした。
名鉄宇頭駅の入口になる宇頭町交差点を過ぎ、約300m歩いた尾崎東交差点の少し手前の反対側(左側)歩道沿いに、安城市境の標柱が立っていました。
10時34分、安城市境標柱(左側)
111 岡崎市・安城市境
岡崎市から安城市に入った印象は、天気が良くなり一段と暑さが厳しくなってきたことです。
尾崎東交差点で国道1号と分岐し、右に進路を取ります。
歩いて直ぐ、松並木があり、尾崎松並木と勝手に命名させて頂きました。
10時37分、尾崎松並木

113 尾崎松並木
松並木は約100m続き、その先を約700m歩いた右側に「予科練の碑」が立っており、その隣りに熊野神社の鳥居と参道があり、鳥居を過ぎた右側に日本橋から78番目の一里塚があり、石碑が建てられていました。
  ※熊野神社鳥居・参道(右側)
117 熊野神社
10時50分、078尾崎一里塚跡(右側)
119 078尾崎一里塚跡
一里塚跡の裏に、簡易トイレと石のベンチがあり、一服休憩しました。
10時51分~10時56分、一服休憩
121 一里塚裏の休憩ベンチ
Yumiさんとトイレを済ませたのですが、Yumiさんがトイレに行く時はYumiさんのショルダーバックとザックを預かるので、自分のトイレの時は大変です。
Yumiさんを一人にすると私を探しに動いてしまうため、Yumiさんがトイレに入った時に合せてトイレを済ませます。
そのため、Yumiさんがトイレから出て来る前にショルダーバックとザックを持ちながらのトイレを終わらせなければいけないので、いやはや大変です。
しかし、Yumiさんが荷物をトイレの中に置き忘れられたら、その方がもっと大変な結果になったことを経験しているので、病気と諦めています。
休憩場所は、涼しい場所だったので、気持ち良く休憩することができ、また元気になりました。
一里塚跡を過ぎた辺りに「夫婦松」があると史料に載っていたのですが、一里塚跡の辺りにあった松だったのか、一里塚を過ぎた先にはそれらしき松を見つけることは出来ませんでした。
一里塚から約1㎞歩いた右側に永安寺があり、愛知県指定の天然記念物の松がありました。
11時11分、雲竜の松(永安寺)=右側
122 雲龍の松(永安寺)
雲龍の松は、樹高4.5m、根囲3.9m、幹周(1m高さ)3.7m、枝張り東西17m 、南北24mの1本松です。
松の種名はクロマツで、一般に主幹は直上して伸びるのに対し、この松は横に伸びて広がる形状を持っている。
主幹は、高さ1.5mのところから真横に、北西・南及び東の3方向に伸びている。各枝の長さは北で10m、南13m、東7mに及び、たなびく雲のようであり、また臥せる竜のようでもあるため、「雲竜」の名称がついている松です。
永安寺を出て、約200m先の明治川神社交差点を渡った左に神社があり、木立の中の参道が涼しそうだったので、参拝することにしました。
Yumiさんは参拝より、昼食の方がお望みだったと思うのですが、「食べられる処があったら食べるからね」と話し、納得してもらいました。
11時15分~11時20分、明治川神社(左側)
  ※明治川神社・参道
125 明治川神社・参道
  明治川神社・本殿
127 明治川神社・本殿
木立の中の参道を通り、境内に出るとパッと景色が開け、立派な社殿が目に入りました。
神社の本殿に進み、弥五謄神社の時と同じようにして、お賽銭をご奉納し、声を出してYumiさんの認知症と緑内障の病気平癒をご祈願し参拝しました。
すっきりした気持ちになって神社から街道に戻り、約150m歩くと松並木が始まりました。
この松並木は、今日の旅の終わりまで断続的に続いていたので、地域名を入れた名前を勝手に命名しました。
11時24分、新安城・屋敷山松並木
129 安城松並木①
11時35分、新安城・野池田松並木
139 安城松並木③
昼食が食べれる店をキョロキョロと左右を見ながら歩いていると、里町4丁目東交差点を過ぎた右側にレストランの看板が目に入り、昼食を食べることにしました。
11時38分~12時14分、昼食(レストランろくえん北部店)
140 レストランろくえん
扉を開けて中に入ると、数組のお客が入っており、「空いている処にどうぞ」と声を掛けられ、窓に近い場所に座り、ランチを注文しました。
Yumiさんの目薬の点眼を行い配膳を待っていると、ランチが運ばれてきました。

142 昼食(ランチ)
ランチ(@700)は、弁当形式の容器にアジフライ、その他の食材が入っており、豪華ではありませんが、値段に相応したもので、食後のコーヒーが付いていました。
30~40分の昼食でしたが、ひと息ついて元気が出てきました。
外に出ると歯抜けのような感じですが、松並木が続いていました。
144 安城松並木④
里町4丁目交差点を過ぎた右側に、お相撲さんの浜碇の石像が立っていました。
12時17分、浜碇の石像(右側)
146 相撲浜碇の碑
石像は、「濱碇」(はまいかり)の化粧回しをしたお相撲さんで、明治時代、浅井万金膏【黒い温めて使う膏薬(こうやく)・効能は打撲、捻挫(ねんざ)等】で有名な浅井森医院の七代目森林平(もりりんぺい)氏が、、大の相撲好きでお相撲さんには無料で治療したそうです。その中で濱碇(はまいかり)というお相撲さんが、廃業後、森氏の後押しを受けて薬の行商をはじめ、三河地区の浅井万金膏の独占販売権を得たそうです。慰霊碑は、治療に来ていて不幸にも亡くなった力士を慰めるために、濱碇(はまいかり)さんが建てられたそうです。
ここから約100m歩くと交差点があり、今日の到着地の里町4丁目西交差点(旧名東栄町)でした。
グーグル地図では「東栄町」ですが、「里町4丁目西」に変更になっていました。
交差点の角の建物を確認すると、
・左角=碧海信用金庫今村支店
・交差点渡った右角=星煌学院新4安城校
と間違いがなかったので、交差点名が変更になっていることが分かりました。
12時20分、名鉄新安城駅・里町4丁目西交差点(到着地)
149 新安城・里町4丁目西交差点(到着地)
交差点の名称が変わっているとは知らなかったので、到着式の看板は旧名の東栄町のままですが、致し方ありません。
次回の出発式の時から変更することにします。
【到着地からの帰宅】
到着式を終わり、自宅に帰るため名鉄・新安城駅に向かいました。
交差点から新安城駅まで約500mと炎天下だったので、遠いなと思っていたのですが、それ程の距離を感じないで歩くことができました。
12時29分、名鉄・新安城駅北口着
153 新安城駅前
駅員の人に豊橋まで行く最短の乗り継ぎ方法を聞き、ホームに行くと東岡崎行の電車が停まっていましたが、駅員に教えられた電車と違うため、教えられた電車がくるまでホームのベンチに座って待っていました。
12時46分、名鉄・新安城駅発
155 新安城駅ホーム
13時18分、豊橋駅着
豊橋に停車する新幹線「ひかり」は14時45分と1時間30分も先のため、こだまに乗車することにしました。
13時33分、豊橋駅発
こだまの4号車に乗りましたが、好きなところにどうぞという感じで空いており、真ん中辺りの2人掛けに座りました。
新幹線が静岡を過ぎる頃、新安城の天気とは反対に雲が多くなってきて、楽しみにしていた富士山を眺めることは出来ませんでした。
  ※新富士付近

158 富士山は雲の中(新富士付近)
《冷や汗》
掛川駅に停まった時、数分の停車があると思ってホームの自販機にペットボトルを買いに行きました。
ところが買っている時に発車の案内があり、ペットボトルを出してあわてて新幹線に乗り込みました。
Yumiさんを一人乗せて私が乗り遅れたら大変なことになっていたと、ホッとしました。
その後の車内放送を聞いていたら、数分停車の時は必ず放送があることが分かり、今後の反省材料にしました。
また、Yumiさんにトイレのことを聞くと、7割くらいの確率で行くと云うので、新幹線の中では本人が云うまで私から聞くことはしないようにしています。
今回も同じで、品川に着くまで云いませんでした。
15時39分、品川駅着
新幹線の中でトイレに行かなかったので、駅に降りるとYumiさんがトイレに行きたいようなジェスチャーをするので、トイレに連れて行きました。
平日の山の手ホームは人で溢れ返っており、ホームを歩くのも大変な状態でした。

15時46分、品川駅発
山の手線に乗り自宅に帰りましたが、その途中、最寄り駅の一つ手前で降り、今回の旅の無事を祝し、ビールで乾杯しました。
  ※旅の無事を祝して乾杯
159 ななかまど東大和
新安城を出発する時は、炎天下の天気でしたが、だんだんと天気は悪くなり、旅の無事を祝して乾杯と夕食で立ち寄った店を出る時は雨が降っており、ザックカバーを掛け傘を差して帰りました。
そして、家に帰り、荷物の片付けは後回しにして、お風呂を用意し汗を流しました。
【終わりに】
今回の旅は、二泊三日の行程と雨模様の天気予報の中で実施しましたが、食事に行く時に傘を差すだけで、道中で雨に降られることもなく旅ができました。
天気はその時の自然現象なので、どうすることもできませんが、天候に恵まれて旅をすることができたのは、幸運だったと素直に喜びたいと思います。
また、今回の旅で岡崎の27曲りを歩きましたが、掛川の七曲りのように曲り角の数ではなく、また通りの数でもないため、少し調べたところ「スタートは冠木門に始まり、赤い石碑(二十七曲の曲がり角に設置)を数えると
19(A〜R)だけで、今はそれ以上確認できない。江戸時代に本当に27あったかは確認できない」ようです。
江戸時代の岡崎に残る資料からは27曲りのことを記した資料はなく、他地区の書物には記されているので、岡崎以外から入ってきて云われるようになったようです。
私も一部間違って歩きましたが、持参した地図は正確なものでしたので、完歩したと考えています。
初日に昼食を摂るのに困りましたが、その経験から翌日からはしっかりとした店舗で摂ることができました。
お腹が空くと、二人の空気が怪しくなってくるので、健全な旅にするようにこれからも気を付けて行きたいと思います。
【次回に向けて】
健脚の人は2日で歩く距離を3日掛けて歩くなど、無理をしないようにしています。
次回は、七里の渡しの宮宿と桑名宿を旅します。
佐屋街道を歩く方、電車で渡る方、チャータ船で渡る方など、いろいろ方法がありますが、私とYumiさんは文化の発展の象徴である電車で宮宿 ⇒ 桑名宿に渡ります。
本ブログの製作に時間を費やしてしまい準備の時間が少なくなりましたが、「なせば成る、成さねばならぬ何事も、成さぬは人が成さぬなりけり」の言葉を思いだして、人事を尽くして準備したいと思います。
Yumiさんの介護をしながらの旅で大変ですが、二人の人生の思い出にする旅なので、楽しみたいと思います。
ただ、残念なのは、Yumiさんの記憶回路が壊れているため、思い出話しができないことです。

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【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/