【天候】晴れ
【宿場】(33)二川宿⇒(34)吉田宿
⇒(35)御油宿
【行程】歩行距離=12.51㎞ 総距離=306.80㎞
JR二川駅前交差点⇒(3.378㎞)⇒069飯村一里塚⇒(3.847㎞)⇒豊橋・きく宗前⇒(1.70㎞)⇒
070下地一里塚⇒(3.578㎞)⇒名鉄伊奈・駅入口T字路
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第20回旅の宿場)
15 20回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第20回
 第20回の旅ルート
  
(二川駅前交差点
 ⇒ 名鉄伊奈・駅入口T字路)
第20回ルート
【旧東海道の旅】
《トイレ通い》
4時頃に目が覚めてトイレに行くと、今度はYumiさんがトイレに行くのを待っていたかのように、朝のトイレ通いが始まりました。
トイレに行く間隔は、普通で15分間隔、早いと5分で行きます。
Yumiさんは静かに歩いてトイレに行くのですが、扉を開閉する音やトイレの洗浄水でとても寝ていられません。
しかし、頻繁にトイレに行くからと云って怒ることはできませんが、行く頻度が激しい時は、
 E=何とかならない
 Y=ごめんなさい
の会話になります。
自宅でも同じ状態なのですが、ホテルに泊まった時は見覚えのないトイレなので、不安感が増し回数が多くなるのではないかと思います。
《身支度》
モーニングコールをセットしているので、Yumiさんのトイレ通いで目は覚めているのですが、モーニングコールが掛かってきてから起きようとベッドに横たわっていました。
5時30分、起床
モーニングコールでベッドを起き、カーテンを開けて天気の確認をすると、天気は曇りですが雨は大丈夫のようです。
まず、Yumiさんを洗面所に連れて行き、歯磨きができるようにしてからYumiさんに手渡しました。
使い方を教えてあげればよいのにとか、世話のやき過ぎと思うかもしれませんが、これが認知症なのです。
洗面所はトイレと同じところにあるので、入室してから何回も見ているのですが、何をする場所なのか分からないようで、「顔を洗うよ」と云っても場所が何処で洗うのか分かりません。
また、歯磨きも、袋から歯ブラシと磨き粉を出して使えばよいのですが、この旅で10回以上ホテルに泊まっているのですが、覚えられません。
洗顔も同じで、ホテルで頂いた洗顔用シャンプーや乳液等も、一つ一つ開封して渡さないと使えないので、Yumiさんの介護をしながら自分の髭剃り、歯磨き、洗顔をするので、私ものんびりとはしていられません。
そのため、Yumiさんを先に終わせて、部屋の椅子に座って待っているように話し、私の洗面を終わらせます。
次に、両足膝の両サイドにシップ薬を貼り、脚部に塗り薬を塗って足のケアーを行ってから着替えをします。
着替えは、着るもの、はくものをそれぞれ順番に重ねておかないと、あるものをめちゃくちゃに着てしまいますので、順番にしておかなければなりません。
私はYumiさんの着替えを見ながら、自分の足のケアを行い、Yumiさんの支度が終わる頃から自分の着替えをします。
そして、Yumiさんは私の着替えをしている時に、お化粧をします。
これらの支度が終わってから、朝の血圧測定と目薬の点眼を行うので、今朝は6時05分に血圧の測定をしました。
朝の血圧測定と目薬の点眼を行い、朝食まで時間の余裕があったので、携帯三脚を使いセルフタイマーで記念に撮りました。
  
ホテルの部屋
001 ホテルの室内
《朝食》
ホテルの朝食は、バイキング形式で、朝7時からと聞いていたので、7時少し前に会場に行きました。
タイミング良く丁度、朝食のバイキングが始まったところで、混雑しないところで、Yumiさんの手助けをしながら食べるものをお皿に盛り付けることができました。
無料で、温かいご飯、味噌汁、おかずを食べれるので、助かります。
これから長距離を歩くので、腹七分目のところで止め、部屋に戻りました。
《移動》
ザックは朝食を食べに行く前に整えておいたので、トイレを済ませ、フロントでチェックアウトしてホテルを後にしました。
豊橋駅は通勤・通学客で賑わっており、平日の通勤時間帯にこのような旅姿でいる自分を「自由人になったんだ」と改めて認識させられました。
07時48分、豊橋駅発
002 豊橋駅(在来線)
電車は折り返しの始発電車で、座席は特急列車と同じ椅子のボックス席になっていました。
一駅で降りるので、扉に近いところに座り、座席の向きを反対にするとYumiさんから「外が見えない」と苦情が発生し、後ろの席に移動しました。
豊橋から一駅目の二川で降りる人が沢山いたので、初めての私には驚きでした。
07時53分、二川駅着
改札を出て、昨日の到着地である時計台に行きました。
【=旅=】
07時57分、二川駅前交差点(出発地)=左側
004 出発式(二川駅前)
出発地で、今日の出発式を行い、少しでも良い画像の写真を撮りたいと思い少し待ったのですが、諦めてシャッターを押し、旅をスタートしました。
二川駅ロータリーの緑地帯に、道標が立っていました。
08時00分、岩屋八丁道標(左側)
006 岩屋八丁道標
道標は、石碑に「是より岩屋江八丁 ・・・」と記され、弘化4年(1847年)に建立された道標です。
ロータリーを出て街道を約270m歩くと左側にヤマモトスポーツ店があり、店舗の横に石碑が立っていました。
08時04分、渥美郡奥郡道標(左側)
008 渥美郡奥道標
石碑の一面に「伊良胡阿志両神社道」、もう一面に「右 東海道 豊橋一里半」と刻まれていました。
今日は温度が上がっていたため、Yumiさんもすでに汗ばみ始めていたので、私がチョッキ、Yumiさんが薄フリースを脱いで衣服調整をしました。
Yumiさんは少し不満そうでしたが、今回は夫婦の小争いにはなりませんでした。
街道は約30m先の三叉路を右に進み、約170m歩いた火打坂交差点を真っ直ぐに渡った辺りから上り坂になり、約200m先の左側に豊橋市視聴覚教育センターがあり、その入口に顔像が並んでいました。
08時13分、豊橋市視聴覚教育センター入口(左側)
010 顔の像
顔像が並んだ入口から約110m先の左側に、美容院「ヘアースペース?」がありました。
「?」はどのような意味なのか、こちらが「?」です。
  ヘアースペース?(左側)
012 美容室・ヘアースペース
帰ってきてから調べてみたら、「ヘアスペースクエスチョン」という店名だそうで、「?」が付いていた意味が分かりましたが、おもしろい店の名前ですね。
ヘアスペースクエスチョンから約150m進んだ火打坂の上りが終わった辺りの左側の道路歩道部分に、手筒花火絵の消火栓蓋があり記録に残しました。
08時18分、消火栓蓋(左側)
013 消火栓蓋
街道をそのまま進むと左側に「ガーデンガーデン」という造園屋があり、信号のある変則十字路をガーデンガーデンに沿って左折(交差点)し、道なりに真っ直ぐ歩きます。
そして約350m歩くと、右側の「カイロプラスチックゆいまーる」の斜め前にバス乗り場とトイレがあり、さらに約170m先の信号を越えた処に、同じ絵柄で色が少し違ううず巻消火栓蓋があり、記録に残しました。
08時28分、うず巻消火栓蓋(左側)
014 うず巻消火栓蓋
消火栓は、消火するために設けられた水栓で、バルブとホース接続口で構成され、接続口の口径は消防ホースに合わせ65mmに統一されています。
うず巻き形はフランジ接続部への通水部構造がうず巻形状になっている水栓ですが、どのように違うのか良く分かりません。色を変えて形状名を記す必要があるのでしょう。
私は暇つぶしに消火栓の写真などを撮って気分転換しながら歩いていましたが、Yumiさんは私の後ろ5mくらいのところを黙々と歩いています。
  黙々と歩くYumiさん

015 歩くYumiさん
記録に残した渦巻き消火栓から約190m歩くと、左側にコインランドリーがあり、さらに約190m進むと左側に名残りのくろ松跡の石碑(右側のホワイト急便(高師原口店)の斜め手前左側)が建っていました。
08時33分、名残りのくろ松跡(左側)
016 名残りの松
街道は約110m歩くと国道1号との接続道路に合流し、国道1号と並行して歩きます。
08時38分、飯村南二丁目交差点
交差点から右側の悟慶院などを眺めながら約1㎞歩くと、殿田橋の手前左側に藤の花が咲いていました。
08時49分、藤の花(左側)
018 民家の藤花(殿田橋手前)
直ぐ先の殿田橋を渡り、国道1号に合流する直前手前の左側(右側はビデオ店・アメリカ)に、日本橋から69番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
08時51分、069飯村一里塚跡(左側)
020 飯村一里塚跡
一里塚碑の先で国道1号に合流し、ここから東八町交差点までの約2.5㎞歩きます。
合流した処で時計を見ると9時近くになっており、歩き始めて一時間を経過することから約70m先のかっぱ寿司豊橋飯村店(右側)の角の積ブロックに腰掛けて休憩することにしました。
08時55分~09時00分、休憩(かっぱ寿司豊橋飯村店の角)
ここで水分補給し、持参したチョコ菓子を食べ、私は帽子からバンダナに替え頭に巻きました。
休憩を終え約450m先の山中橋を渡り、約200m先の三ノ輪町交差点、さらに約400m先の伝馬町交差点を通り過ぎ、右側角にエネオスGSがある円六橋交差点を渡った右側に「すし龍」があり、店の前に大たぬき像が飾られていました。
09時15分、すし龍のたぬき像(右側)
025 すし龍・たぬき像
すし龍から約300m歩くと瓦町交差点の手前右側に寿泉禅寺があり、アーチ形の山門を潜った境内に三重塔がありました。
09時20分、寿泉禅寺(三重塔)=右側
027 三重塔(寿泉禅寺)
  積ブロックのアーチ形の山門
029 寿泉禅寺・入口
この先の史跡の場所や歩きを考えて,瓦町交差点で歩く側を右側から左側に変えました。
また、瓦町交差点は、起点の日本橋から294.8㎞地点で距離標が建っていました。
瓦町交差点から左側を歩き始め、約240m歩いた3本目の路地の手前左側に高木建具店があり、正月のしめ飾りが飾ったままになっていました。
商売をしている所で、謹賀新年と入ったしめ飾りをこの時期までそのまま付けているのを見たのは初めてで、何か縁起をかついでいるのでしょうか。
09時26分、高木建具店(しめ飾り)=左側
030 しめ飾り(まだ正月)
高木建具店から約110m先の東新町交差点の角に設置されていた自販機でペットボトルを買い、冷たいお茶で咽喉を潤しました。
また、この辺りは花粉が多く漂っているのか、朝から出なかった花粉症の症状が出て、5連発のくしゃみと鼻水に泣かされました。
そして、自販機から約350m歩いた西新町交差点付近の道路両側に設置されているガード柵を見て、良いアイデアだなと思いました。
  ガード柵の両側は透視性が確保
031 ガード柵
西新町交差点の次の東八町交差点は、五差路になっている大きな交差点のため、歩道橋での交差になっていました。
09時37分、東八町交差点
034 東八町交差点
この交差点には、文化2年(1805年)に本坂道入口に建立されたもので、高さ約5m、花崗岩で出来ている新町の大燈籠として吉田宿の名物になっていた秋葉山常夜燈が立っているのですが、一番行きにくい場所にあるため、望遠で写真を撮り見に行きませんでした。
※東八町交差点の秋葉山常夜燈(右側)
033 秋葉山常夜燈
秋葉山常夜燈は、明治以降、地震による倒壊や戦火に遭い長く放置されていたものを、現在の地に復興されたそうです。
東八町交差点を歩道橋で真っ直ぐに渡り、階段を降りて左側に少し歩いた処に、吉田宿の東番所である東惣門跡がありました。
09時40分、東惣門(東番所)=左側
037 東惣門
東惣門は、東海道にまたがり設置され、番所と駒寄場が有り、朝6時から夜10時迄開かれていて、それ以外は通行が禁止だったそうです。 
東惣門から約100m歩いた鍛冶町交差点を右折し、約60m歩くと右側に竹細工のタケ空間工房がありました。
09時43分、竹細工の店(右側)
040 竹細工店
竹細工の店は少なくなっており、昔ながらの作品を見ると心が和んできます。
竹細工の店から信号の先にある鍋屋辻村金物店を左側に見て、約350m歩いた2つ目の交差点の中央分離帯を右側に入った処に、曲尺手門の石碑が立っていました。
09時48分、曲尺手(かねんて)門跡=右側
041 曲尺手跡
石碑のある場所は中央分離帯の中にあるため、車のないことを確認して車道を横切ろうとしたら、横切る反対側の道路をパトカーが走っていましたが、そのまま道路を横切らせてもらいました。
曲尺手になった街道は、曲尺手門碑のある交差点を真っ直ぐ渡り、約150m先の次の十字路(左角に嶋田屋本店)を左折し、約50m先の十字路を右折して進みます。
しかし、私達は曲尺手門碑のある交差点を真っ直ぐ渡り、約150m先の次の十字路の左角にある嶋田屋本店を左に見てそのまま直進し、日本郵便豊橋市役所前局が左側にある交差点を少し直進した右側に大手門跡の標柱が建っていました。

09時34分、吉田城大手門跡(右側)
043 吉田城大手門跡
この後、十字路に戻り右側に郵便局を見て、呉服町の交差点で街道に戻るため右折しました。
そして、右折して約70m先の国道1号に出る手前の右側のNTT西日本の前に、問屋場跡がありました。
09時58分、吉田宿問屋場跡(右側)
046 吉田宿問屋場跡
問屋場は, 道中奉行所支配のもと 各宿駅におかれ、人馬継立を円滑に行い,旅客貨物などを 目的地に送る役目を果たしていました。
そして、国道1号の交差点を真っ直ぐ渡った先の右側にうなぎ屋があり、店の前に本陣跡が建っていました。
10時00分、吉田宿本陣跡(右側)
049 吉田宿本陣跡
札木町一帯が吉田宿の中心で、享和2年(1802年)の頃、清須屋与右衛門と江戸屋新右衛門の2軒の本陣と、脇本陣1軒、問屋場1ヶ所、旅籠(はたご)60数軒が軒を連ねていたそうです。
本陣跡碑の反対側(左側)の数軒先に、脇本陣跡の石碑が立っていました。
10時04分、吉田宿脇本陣跡(左側)
051 吉田宿脇本陣跡
脇本陣跡の先の左側に、菓子の若松屋がありました。
10時07分、菓子・若松屋(左側)
053 菓子・若松園
若松園は、創業が江戸時代の菓子の老舗で、豊橋銘菓「ゆたかおこし」で知られています。

おやつにと考え立ち寄ったのですが、先客の対応が忙しいのか私達に声を掛ける人がいないので、縁がないのだろうと思い買わないで店を後にしました。
若松園を出て、交差点を渡った左側に菜飯田楽の老舗がありました。
10時08分、豊橋・きく宗前着(左側)
054 きく宗(菜飯田楽)
きく宗は、創業が文政年間で、江戸時代から約200年続いている老舗の菜めし田楽の店です。
菜飯田楽は、こんがりと焼いた自家製豆腐に秘伝の味噌をぬった田楽と、細かくきざんだ大根の葉を混ぜ合わせた"菜めしを組み合わせたものです。
また、田楽は豊作を祈って田の神に奉納した田楽舞のその姿が豆腐を串に刺し、味噌をつけた料理によく似ているため、田楽と名づけられたと云われます
私は、旅の思い出に食べたいと考えていたのですが、開店が11時と1時間も先のため諦めて店の前を通り過ぎました。
きく宗は、東海道思い出旅の時に、立ち寄りたいと思います。
きく宗から約100m先の十字路を通り過ぎ、次の十字路である上伝馬交差点を渡った左側の松葉公園の入口に、吉田宿の石碑が立っていました。
10時11分、東海道 吉田宿碑(左側)
056 吉田宿碑
吉田宿は、江戸時代に設定された東海道五十三次の江戸側から数えて34番目の宿場で、現在の愛知県豊橋市中心部になっています。
慶長6年(1601)の伝馬朱印状があり、東海道ができた頃からの宿場で、日本橋から西方73里(約287km)に位置し、東の二川宿と1里20町(約6.1km)、西の御油宿と2里20町(約10.5km)離れており、町並は約2.6kmの長さがありました。老中・大坂城代・京都所司代格の大名の吉田藩の所領で、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠が65軒あり、戸数は約1,000軒で人口は5,000から7,000人ほどだったそうです。
宿碑の脇に植樹されていた八重桜が満開で、綺麗でした。
  
松葉公園の八重桜
058 松葉公園・八重桜
街道は松葉公園前の上伝馬交差点を右折するため、公園を出て真っ直ぐ西方向(豊川が流れている)に渡り道路の左側を歩き始めました。
ところが、西番所跡が道路の右側のあるため、「Yumiさん、渡るよ」と声を掛け、車の来ないことを確認して道路の右側に渡りました。
そして、国道23号を真っ直ぐ渡った右側に、西惣門が立っていました。
10時16分、西惣門(西番所)=右側
060 西惣門
西惣門は、江戸時代、東海道筋の坂下町と上伝馬町の間にあり、惣門の左側に2畳の上番所、8畳の下番所、4坪の勝手が、さらに駒寄せの空き地17坪があったそうです。
復元された西惣門は、湖西市鷲津の本興寺の惣門を参考にして作成されたそうです。
西惣門を出て約130mを歩き、次の信号のある交差点を左折すします。
そのため、交差点で2度道路を渡る必要があるため、交差点に行く間に車の往来を確認して道路左側に渡り、交差点(信号有り)では道路を渡って左折しました。
  横断歩道を渡り、東海道の標識に沿って左折
062 道案内・歩道渡り左折
街道は、約280m歩くと、右側の芭蕉の句碑が立っている湊町公園を過ぎた先の船町交差点となり、交差点を真っ直ぐ渡って右折します。
10時23分、船町交差点(右折)
063 船町交差点
船町交差点を上の写真のオートバイ側に渡り右折して約歩いていると、豊橋市の下水道蓋があり記録に残しました。
ここの絵柄は、二川で見た消火栓蓋とは少し違い、「手筒花火」と「吉田城」が描かれていました。
東海道の旅に出るまでは、マンホールの蓋に興味を持ったことはありませんでしたが、旅をしていると自治体によっていろいろと目を和ませる工夫をしていることが分かり、下を見る楽しみを知りました。
  豊橋市の下水道蓋
066 豊橋・下水道蓋
さて、船町交差点から約180m歩くととよかわ南詰交差点となり、交差点の先は豊川で豊橋(旧吉田大橋)が架かっていました。
私とYumiさんは、橋の手前のとよはし南詰交差点を左折して約50m歩くと左側に、旧とよはし跡が展示されている豊橋記念碑を見に行きました。
10時28分、豊橋記念碑(左側)
067 とよはし跡
鎌倉時代に豊川に架けられた橋は、今橋と呼ばれていましたが、江戸時代になって「吉田橋」と改名され、さらに明治に入ると「豊橋」と改名され、昭和に入ってから70m上流に移されたそうです。
記念碑を見た後、豊川を渡るため豊橋に戻り、橋の親柱を撮影することでYumiさんと小争いになりました。
10時33分、とよはし南詰(左側)
069 とよしは(南詰)
《夫婦の小争い》
私は橋の写真を撮る時は、橋の感じがでるように欄干・通路(床板)が入るようにするのですが、Yumiさんは私が真ん中に入っていればよいので、欄干や通路が写ろうと写るまいと関係ありません。
撮る前に参考の画像を見せるのですが、直ぐに忘れてしまい再撮影が頻繁に生じるため、分かっていても強い口調で「見せたでしょう」と云ってしまいます。
今回も同じで、一枚の写真を撮るのに2~3分も掛かってしまいました。
また、小争いの直後だったので、豊川を橋の真ん中で撮ることを忘れて、橋を渡ってしまいました。
笑顔を忘れると、物忘れはするし、楽しくないなど、良いことは何もありません。
あー、怒るのはやめよう。
10時35分、豊橋北詰(左側)
071 とよはし(北詰)
豊橋を渡るととよはし北交差点があり、交差点を左折し、県道367号を進みます。
左側には歩道がないので、右側の歩道を約200m歩くと祐泉寺があり、約90m先に聖眼寺(右側)があり、山門の横に松葉塚の石碑と解説パネルが建っていました。
10時40分、松葉塚跡(右側)
073 松葉塚
松葉塚は、1687年冬に松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄った時に詠んだ句碑だそうで、1754年に建立され、1769年に再建されたそうです。
松葉塚を後にして一里塚跡を目指しましたが、前日の豊橋一里塚に引き続いて
「一里塚(070下地一里塚)」・・・見落とし
してしまいました。
持参しているマップには、一里塚の場所を記しておいたのですが、ダメでした。
私はマップに下地交差点の手前に赤で記したのですが、その目印の処に貼付した写真入り資料の「下地交差点先250m」を信じて歩いてしまったため、下地交差点の手前右側にあった石碑を見逃してしまいました。
下地交差点を過ぎ、かなり歩いてきたと思った処の右側にサンクス(下地交差点から約300mの地点)があり、ここまで歩いて来ても一里塚跡碑がないのは見落としたと思いました。
しかし、戻るわけにもいかないため、見落としたものは諦めるしかないと自分に言い聞かせ、旅を続けました。
時計を見ると11時近くになっているので、Yumiさんに
 E=トイレは?
 Y=(少し考えて)大丈夫
 E=本当に
 Y=大丈夫
と云うので、そのまま先に進みました。
そしてサンクスから約550m先の横須賀町交差点を約70m過ぎた右側に、遺跡案内の標識が立っていたので、街道から外れますが、休憩を兼ねて見て行こうと思い案内標識にしたがって右折し、約120m歩いた左側に遺跡がありました。
11時03分、瓜郷遺跡(右側)
076 瓜郷遺跡
遺跡は、豊川下流の沖積地に立地する弥生時代中期~後期の遺跡で、遺跡の中でも低湿地遺跡として有名だそうで、石碑と弥生時代の平地式住居が復元されていました。
遺跡の入口に簡易トイレがあり、Yumiさんに行っておいでと促しトイレを済ませ、休息をとってから街道に戻りました。
街道に戻り約60m歩くと鹿菅橋、橋を渡って約60m行くと鹿菅橋北交差点があり、交差点を渡った約20m先の左側にコンビニ、右側に食堂が見えました。
 E=Yumiさん、この先で食べる処があったらお昼を食べよう
 Y=そうね
ということで、食堂を探しながら歩きました。
シャディサラダ館を右に眺めながら通り過ぎた先の左側に、豊橋魚市場が見えてきました。
豊橋魚市場は閑散としているので、どこか開いている所があるかなときょろきょろと辺りを見回しましたが、場内の店舗はシャッターが閉まっていて、開いている店はありませんでました。
目を前方に向けると右側に営業中の中華店があったので、「Yumiさん、ここで食べよう」と云って立ち寄りしました。
11時13分~11時42分、昼食(陽華樓飯店)=右側
081 陽華樓飯店
今日は、きく宗の菜飯田楽を食べる予定だったのですが、この店で食べることになりました。
理由は簡単で、
 ①.菜飯田楽老舗のきく宗の開店時間(11時)の一時間前の10時頃だった
 ②.この先に食堂があるのかどうか、分からなかった
からです。
Yumiさんに「何が食べたい」と聞いても、返ってくる答えは「・・・・・」なので、私がYumiさんの好きそうなものを考えて注文します。
今日は、Yumiさんも食べられるだろうと考え、ランチ定食を注文しました。
また、ご飯の盛り方はもっと多かったのですが、残してはいけないと思い私が30%(写真)、Yumiさんが50%くらい減らしてもらいました。
きっと、この店で食べる人は、魚市場で働いてお腹が減るのでしょう。
  今日の定食(@800円)
084 昼食
お店の人とは、
 店=今日は何処に行くのですか?
 E=今日は伊奈駅まで歩いて東京に帰ります
 店=どこから歩いてきたのですか?
 E=二川駅から歩いてきました
 店=え!!そんな遠くから
 E=旧東海道を歩いています
 店=東京の高尾にお墓があるので、この連休で行くことになっているの
 E=あー、そうですか
 店=東京の何処ですか?
 E=(・・・)なので、高尾は近い処ですね
など、店の人と話しをしながら食べました。
若女将さんは東京に行くことを楽しみにしているようで、目が輝いていました。
Yumiさんはご飯を半分くらいに減らしてもらったのですが、それでも食べきれなくて残してしまいました。
昼食のひと休みをして、再び旅立ちました。
店を出て約260m歩くと豊川放水路があり、橋の手前左側に豊橋市から豊川市に入る市境の標識が立っていました。
11時43分、豊川市境標識(左側)
086 豊川市境標識
豊川市は、愛知県に入って2つ目の市です。
市境標識の直ぐ先に、豊川放水路が流れており、高橋が架かっていました。
11時26分、豊川放水路(高橋)=右側
088 豊川放水路
豊川放水路に架かる高橋は、橋の少し手前から歩道のない道となっているため、安全を考えて車を正面から見る右側を歩きました。
  豊川放水路の眺め
090 豊川放水路
豊川放水路は、昭和18年に本格的に着手し、戦争で一時中断しましたが、昭和28年に再開し、昭和40年に全長6.6㎞の放水路が完成し、洪水などの水害がなくなったそうです。
豊川放水路を渡り、歩道のない道が終わった約30m先の右側に、石碑が立っていました。
11時54分、子だか橋跡碑(右側)
092 子だか橋
橋の名前は、子だが橋とも云われ、明治時代は小田橋とも云われていたそうです。
約千年前、人身御供(ひとみごくう)があり、春の大祭の初日に、この街道を最初に通る若い女性を生け贄にする習慣があり、自分の子供がその対象になった時、「子だが止むを得」と生け贄にしたことから、この名が付いたとされています。
橋碑から約100m先の才ノ木南交差点、次の才ノ木交差点(約90m先)を通り過ぎると、住宅の瓦に水の文字が入った家が幾つか目に入りました。
また、その中の一軒の屋根の真ん中に、飾り物が付いていました。
  「水」文字の入った瓦
095 水入れの瓦
  屋根の真ん中の像

096
水の文字が入った瓦は鬼瓦の一種で、明治時代に火事から家を守るために入れられたそうで、今でも続いているのですね。
屋根の真ん中に付いていた飾り物の像は、遠くて何なのかは分かりませんでした。
左右をキョロキョロしながら屋根の瓦を眺めながら歩くとJR飯田線の踏切があり、たまたま遮断機が下りていたので、走ってくる列車を撮ろうと待ち構えました。
12時04分、JR飯田線・小坂井踏切
097 飯田線踏切
走ってきたのは電車ではなく、ディーゼル機関車に牽引された特急列車で、特急列車が牽引される光景は普段目にすることがないので良い記念になりました。
小坂井踏切を渡った最初の十字路(約90m先)を過ぎて約40m歩いた右側に秋葉神社にがあり、境内に秋葉山常夜燈が立っていました。
12時07分、秋葉山常夜燈(右側)
099 小坂井常夜燈
常夜燈から約300m歩くと県道と交差する宿西交差点があり、交差点を真っ直ぐに渡り約250m歩くと、右側に高齢者介護住宅のあんじゅ宿があり、その先に今日の到着地である伊奈駅入口のT字路に着きました。
12時18分、名鉄・伊奈駅入口・T字路(到着地)=右側
101 到着式(伊奈駅入口交差点)
今日の旅は、ここで終了しました。
【帰路】

終了式(到着地の撮影)を終え、約450m離れた名鉄・伊奈駅に向かいました。
12時30分、伊奈駅着
3月中旬からICカードの共通化が開始されたので、駅員に「パスモ」を見せて使用の可否を尋ねると、「使えます」との答えを聞き、便利になったと思いました。
昨年の9月に三島広小路駅から乗った時は、JR東日本とJR東海を跨いで使用することができなくて、民鉄の改札を出て、JRの切符を買って改札を通ったことを思い出します。
  名鉄・伊奈駅ホーム
105 名鉄伊奈駅ホーム

12時43分、伊奈駅発
今日の東海道の旅は終わり、1時間に2本しかない電車に乗って、豊橋に向かいました。
電車は、平日の昼ごろの時間帯だったので、乗客が少なくどこでも座れました。
12時48分、豊橋駅着

107 新幹線豊橋駅ホーム
名鉄豊橋駅から新幹線への接続利用方法(東京と同じ・JR切符投入⇒パスモタッチ)を教わり、新幹線ホームに移動しました。
13時02分、豊橋駅発(こだま652号)
自由席6号車に乗り、真ん中付近の2人掛け席に座りました。
時間的には昼食を食べてから1時間30分ほどしか経過していなかったのですが、ザックからスポーツ羊羹を取り出して、Yumiさんと食べました。
手前みそになりますが、スポーツ羊羹は山行やウォーキングの携帯食に良いと、良いものを買ったと自画自賛しています。
今日は晴天なので新富士と三島間の富士山はどうかな?と期待して待っていましたが、残念ながら頂上付近に雲が掛かっていて全景は見れませんでした。
  新富士~三島間からの富士山の眺め
109 車窓からの富士山・新富士附近
これからは暖かくなるごとに靄が出てくるので、綺麗な富士山を見るのは、夏過ぎまで待つことになるのかもしれません。
新幹線は駅ごとに乗車する人が増え、小田原を過ぎた頃は三人掛け席も含めて、ほとんど空席がない状態になりました。
今までは小田原で降りて、小田急線に乗り換えて帰ったのですが、ジバングを利用(30%割引)して品川経由で帰っても二人で300円くらいしか高くならないため、新幹線利用の方が時間短縮されてかなり早く家に着けるので、品川経由で帰ることにしました。
15時09分、品川駅着
品川駅に着くと、Yumiさんが珍しくトイレに行きたいと云うので、改札と反対方向にあるトイレに行きましたが、この時もYumiさんのザックとポシェットを預かったので、通りすがりの人にジロジロと眺められました。
15時18分、山の手線・品川駅発
平日の昼間でも混雑している山の手線に乗って、我が家に帰りました。
【総括】
今回の旅で、東海道京上りと東下りのNさんと「街道すれ違いの出会い」を実現することができました。
連絡を取り合わないで自然に出会えることが最高かもしれませんが、多くの東海道街道ウォーカーがいる中で、江戸・日本橋と京・三条大橋を別々に出発して、街道の途中で出会うことができたことは凄いと思うので、少しくらいの事前の打合せがあっても良いと思います。
私とYumiさんにとって、生涯の思い出を作ることができた「街道のすれ違いの出会い」は、至福の喜びです。
しかし、残念ながらYumiさんは認知症のため、Nさんと出会った記憶だけは少し残っているようですが、今回の出会いがどのようなものなのかは、まったく理解できていません。
しかし、二人の人生の記録は残せたので、子供に私たちの人生の記録を伝えることはできたと思っています。
Nさんの配慮に、ただ、ただ感謝の旅になりました。

【次回の予定】

次回は5月18日㊏~20日㊊の二泊三日で、名鉄・伊奈駅~名電長沢駅~東岡崎~名鉄・新安城の
37.5㎞を旅する予定です。
今回の旅では、二か所の一里塚(豊橋一里塚・下地一里塚)を見落としてしまいましたので、これからは確実に記録に残して行せるように、事前の準備をしっかりと整えて臨みたいと思います。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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https://michinoku-trail.blog.jp/