【天候】曇りのち晴れ、風強し
【宿場】(29)浜松宿
⇒(30)舞阪宿⇒(31)新居宿
【行程】歩行距離=16.20㎞ 総距離=278.94㎞

浜松・伝馬町交差点⇒(2.42㎞)⇒062若林一里塚⇒(4.35㎞)⇒063篠原一里塚⇒(1.70㎞)⇒
坪井町北交差点
⇒(3.19㎞)⇒
064舞阪一里塚⇒(4.54㎞)⇒新居町・駅前地下道横断歩道信号
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第18回旅の宿場)
10 18回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第18回
 第18回の旅ルート
 
(浜松・伝馬町交差点⇒新居町・駅前地下道横断歩道信号)

第18回ルート
【旧東海道の旅】

《トイレ》
朝、4時頃に目を覚ましトイレに行くと、入れ替わりにYumiさんがトイレに行きました。
Yumiさんのトイレ通いは、前回の旅の時ほどではありませんが、起きるまでに何回か通いました。
自宅でもトイレ通いはありますが、知らない場所だと不安なのか、通う回数が普通ではありません。
《身支度》
5時30分、起床
Yumiさんのトイレ通いで目を覚まし、うとうと状態でホテルのモーニングコールの音が鳴り、ベッドから出て朝の支度に取り掛かりました。
Yumiさんは、トイレに行った時に、併設されている洗面場を見ているのですが、洗面場がどのようなところなのか分からなくなっており、
 E=顔を洗いに行くよ
 Y=何処に?
 E=こっち
とトイレと併設している洗面場に連れて行き、歯ブラシに歯磨き粉を付けて渡しました。
歯ブラシに歯磨き粉を付けるのは、Yumiさんにやらせたらと思うのですが、やり方を教えても記憶できないので、私が介護します。
Yumiさんが歯磨きをしている間、私は髭剃り(電動髭剃りを持参)をしていました。
洗顔後、昨日の朝と同じように、膝痛対策のケア(シップ薬と塗り薬)を行い、寝る前に用意しておいた服に着替えましたが、下着と靴下(2重の内側)のみ新しいものに替え、それ以外は前日のものを今日も着ることにしました。
朝の支度を整え、ザックの荷造りを行い出発できる状態にして、朝食を食べに1階の会場に行きました。

《朝食》
朝食は7時からと聞いていましたが、少し早い時間から食べさせている処もあるので行ってみると、既に7~8人の人が待機していたので、Yumiさんと空いている席に座り開始を待ちました。
7時にバイキング方式の食事となり食べ始めると、同じテーブルに福島県から来たというご婦人が座り、少し話しをしました。
ご婦人は、東日本大震災で一時避難したこと、多くの方々に支援頂いたことを話しておられましたが、私は今日の旅のことを考えながら話しをしていたので、どのような話しをしたのかよく覚えていませんでした。
また、Yumiさんは「大変でしたね」を何回も連発して相槌を打っていたので、後で「どんな話しだった」と聞くとまったく覚えていませんでした(大笑い)。
食後、福島のご婦人に挨拶し、部屋に戻ってトイレを済ませ、フロントでチェックアウトしてホテルを出ました。
《移動》
07時33分、ホテル発
001 ホテル正面玄関
ホテルを出て今日の出発地に向かったのですが、道を間違えて浜松駅の方に向ってしまい、地図を確認して伝馬町交差点(今日の出発地)に行く道に戻り、迷路の地下道を潜って出発地に立ちました。
【=旅=】
07時44分、浜松・伝馬町交差点(出発地)
003 伝馬町交差点(出発地)
出発地で、出発の儀式(出発地を記した看板を持ったYumiさんを撮影)を行い、旅を出発しました。
今日の旅は、浜松の神社の総社となっている松尾神社に参拝したいと考えていたので、まず松尾神社に向かいました。
松尾神社は伝馬町交差点から約260m先の松尾小路に入った右側にあり、境内奥の左側に本殿が建っており、お賽銭を奉納(投げ入れない)しYumiさんと一緒に、「Yumiさんの病気完治と旅のご加護」をご祈願しました。
07時47分、松尾神社(本殿は奥のお宮の左側)=右側

005 松尾神社・入口
参拝後、旧東海道に戻り約170m先の横島ロープを過ぎた右側に、東海道の雰囲気を漂わす理髪店がありました。
07時54分、かみゆい伽羅(右側)

010 かみゆい伽羅
開店していたら店の中を見たかったのですが、時間が早くてまだ開いていませんでした。
かみゆい店から約170m歩くと瀧口歯科医院があり、その手前の右側に、浜松名物の浜納豆の店がありました。
08時00分、浜納豆(右側)
013 浜納豆・店内
時間が早かったので、閉まっているだろうと思っていたら、開店していました。
 E=時間が早かったので、閉まっていると思っていました
 店主=7時30分頃には、店を開けているんですよ
 E=買いたかったので、助かりました
浜納豆は、納豆の一種で、煮た大豆に麹・小麦粉をまぶして発酵させ、塩汁に漬けたのち乾燥して山椒・生姜などの香料を加えたもので、お茶漬けなどに合いそうで、食べたことがない私は、ぜひ買いたいと思っていました。
店主に「お土産には小さいのか、少し量の多いのが良いですよ」と勧められたので、少し量の多い方(610円)を買いました。
お店の商品は、写真の通り、往時のままの陳列棚に並んでいました。
落ち着いた、風情のある陳列を見て、子供の頃を懐かしく思い出しました。
浜納豆の店の直ぐ隣が瀧口歯科医院で、医院の前に文字が消された標柱が建っていました。
何故消したのかわかりませんが、調べた資料には「西番所跡」と記されていたので、西番所跡だと思ういます。
08時03分、西番所跡(右側)
015 西番所跡
文字を消した理由はいろいろあるのでしょうが、早く明示してほしいと思います。
旧東海道は、直ぐ目の前の成子交差点を渡って左折し雄踏街道に入り、約180m先の菅原町交差点を左折します。
菅原交差点を左折する角にレストランデニーズがあり、左側に子育て地蔵尊が建っていました。
08時07分、子育て地蔵尊(左側)
017 子育て地蔵尊
この地蔵尊は、長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれ、戦前は今はありませんが地蔵堂に集まり、7月24日には地蔵盆を盛大に催していたそうです。
地蔵尊の角を左折して約270m歩くと大久保消化器病院があり、その先を左に入った処に「堀留ポッポ公園」があり立ち寄りました。
08時12分、堀留ポッポ公園(右側)
019 堀留ポッポ公園
公園は旧国鉄の引き込み線の跡で、レールをイメージしたタイル歩道を歩くと、蒸気機関車が展示されていました。
 ※蒸気機関車
020 堀留ポッポ公園
私とYumiさんは入ってきた旧街道には戻らないで、蒸気機関車の横を通り、その先の交差点を渡った処を左折し、JR東海道線のガードを潜り西浅田北交差点で旧街道に合流しました。
西浅田北交差点で国道257号線に入り約260m歩くと新幹線のガードがあり、ガードを潜って森田町交差点を過ぎると左側に大きな建物があり目に留まりました。
08時25分、ABC浜松ルーナ店・ソーレ店(右側)
022 ABC浜松(パチスロ)
この店は、パチンコ・スロットの店で、大駐車場を完備してドデーンと建っていました。
新潟に単身赴任した時、パチンコにはまり、パチンコのチン、ジャラを聞くと、自然とパチンコ店に足が向いてしまって素通りできないほどのやみつき状態となり、パチンコ麻薬を抜くためにチン・ジャラの音を聞かないように、遠回りして帰ったことを思い出しながら歩きました。
パチンコやスロットルは、負けが込んで来た時の引き際が大切で、大やけどしない程度にパチ・スロを楽しんでもらいたいと思います。
パチンコ店の前から約300m歩くと道路の反対側の静岡トヨペットを過ぎた先に小さな橋が架かっており、この橋が鎧橋で左側の橋のたもとに史跡の碑が建っていました。
08時29分、鎧橋碑(左側)
023 鎧橋
橋名の由来は、平安時代の頃、比叡山の僧兵が鴨江寺(現浜松)を攻めたとき、鴨江寺側の軍兵はこの辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦い、その後鎧橋と称するようになったと伝えられているそうです。
鎧橋を渡り約330m歩くと左側に、日本橋から62番目の一里塚跡があり、跡碑が建っていました。
08時32分、062若林一里塚跡(左側)
026 若林一里塚跡
日本橋から62番目の一里塚跡は、石碑と解説パネルが建っていました。
一里塚から約70m先に東若林交差点があり、交差点を過ぎた処に北堂(右側)と南堂(左側)の二つお堂がありました。
08時36分、二つお堂
 ※北堂=阿弥陀如来が祀られている(右側)
033 二つ御堂
右側の北堂は、奥州平泉の藤原秀衡が京で病に倒れたと聞いた愛妾が、都に駆けつける途中この地で秀衡死去の知らせを聞き、菩提を弔うために建てたというお堂です。
 ※南堂=薬師如来が祀られている(左側)
030 二つ御堂
左側の南堂は、秀衡死去の知らせは誤報で、病癒えて帰国する途中、愛妾への感謝をこめて、秀衡が建てたお堂である。
そして、北堂の隣りに高札場跡があり、その隣りに馬頭観音がありました。
08時38分、高札場跡(右側)
035 高札場跡
 ※馬頭観音(高札場の隣り)=右側
037 馬頭観音
馬頭観音から約150m先と約250m先の左側に点在する形で、東若林松並木(私が勝手に命名)があり、東海道の名残りを残していました。
08時43分、東若林松並木
038 東若林松並木
  ↑約250m先の松並木=通り過ぎる辺りで、振り返って撮りました
松並木を過ぎた先の交差点(左側に静岡銀行可美支店)から約140m歩いた左側の南部保健福祉センターの前に、可美小学校跡の碑があり、碑のところに植樹された桜が開花していました。
08時50分、可美小学校跡&開花した桜
044 可美小学校跡
 ※開花した桜
046 桜の開花
東京はまだ開花していないので、浜松の方が温かくて早いのでしょう。
桜の開花はまだだろうと思っていたので、思わぬプレゼントを頂いたようで嬉しくなり心が和みました。
Yumiさんに「桜が咲いたよ」と話したのですが、少しだけだったのか「あー、そう」との返事に、拍子抜けしました。
また、約300m先の広隆寺(右側)に入って行く道の角の民家の庭に、夏みかんが沢山の実を付けていました。
08時56分、夏みかん(右側の民家)
047 夏みかん
夏みかんの味は分かりませんが、美味しそうにぶら下がっていたので、Yumiさんの反応は、桜より夏みかんの方が良かったように感じました。
夏みかんが実っていた家から約300m歩くと可美小学校東交差点があり、交差点をそのまま通り過ぎ約150m歩くと本田鉄工所があり、その先の右側に「洋品のワタナベ」がありました。
ここには、東海道53次の手ぬぐい・タオルが売られているらしいというので立ち寄りましたが、品切れで現在は扱っていないとの返事にガッカリしました。
地図と睨めっこをしながら店を探し当てたのに、残念でした。
洋品のワタナベから約170m歩くと、右側に諏訪神社があり参拝に立ち寄りました。
09時06分、諏訪神社(右側)
049 諏訪神社
諏訪神社は、Yumiさんの母親の生まれ故郷が下諏訪の諏訪大社秋宮の直ぐ近くなので、Yumiさんと結婚してから毎年参拝しており、他の神社にはない親しみがあります。
そのため、こちらの諏訪神社も朝の松尾神社と同じように、お賽銭を奉納し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
神社から約100m歩くと右側に増楽郵便局があり、消印のスタンプを押印しようとしましたが、「今日は日曜日だ」と休店のため消印スタンプの押印は出来ませんでした。
今度は、平日に来て、押印したいと思います。
増楽郵便局を過ぎ、約270m歩くと熊野神社参道入口があり、入口を過ぎた右側に高札場跡がありました。
09時12分、高札場跡(右側)
051 高札場跡
右側の可美中学校、その先右側の浜松信用金庫先を過ぎた右側(高札場跡から約350m)に、領界碑が建っていました。
09時18分、堀江領界石碑(右側)
053 堀江領境界石碑
境界石碑から約80m歩いた先の単身者用アパートの前に、高札場跡と秋葉常夜燈跡の標柱が建っていました。
09時23分、高札場跡&秋葉燈籠跡(右側)
055 高札場&秋葉燈籠跡
今日の旅歩きは、ホテルを出発してから約2時間近く経過するので、Yumiさんに「休憩できる場所があったら休もう」と話しながら歩いていると、バス停(高塚)のベンチが目に入り、誰もいないので借用させて頂いて座りました。
09時29分~09時35分、休憩(バス停ベンチ)=右側
ザックからお菓子とペットボトルを出し、食べながらひと休みしました。
休憩しているとバスが走って来るのが見えたので、手で☓印を示して乗らない意思表示をすると、バスは停車しないでそのまま通り過ぎていきました。
Y=そんなこと(私が手で☓印をしたこと)したら怒られるよ
E=乗らないでベンチを使っているのだから、バスに教えてあげた方がいいんだよ
と話しましたが、理解できたかどうかは分かりません。
短い時間ですが、ひと休みして元気になったので、出発です。
高塚駅入口交差点の手前の歩道に、あまり見たことがない鉄蓋がありました。
09時38分、消防車の消火栓蓋(右側)
057 消火栓蓋
旧東海道は高塚駅入口の交差点を過ぎ、その先の広い交差点を渡り約350m歩くと分岐しており、分岐のところに道標が建っていて、右に進みました。
09時44分、東海道・篠原道標(分岐点)
058 東海道篠原道標
分岐して約160m先の左側にローソンがあったので、トイレを借用し、おやつのお菓子を買いました。
09時47分~09時52分、休憩(ローソン)=左側
ローソンを出て、真っ直ぐに伸びた旧東海道を約220m歩くと、左側に立場跡の標板が建っていました。
09時57分、立場本陣跡(左側)
060 立場本陣跡
立場は、慶長6年(1601)に徳川家康が東海道に伝馬制を定めたことにより出来た宿場と宿場の間の休憩所です。ここの篠原立場は通称「本陣」と呼ばれ、大名や公家などが休憩する「本陣」的な役割を果たしたようで、時には宿泊もあったようです。
当時の建物は二階建てであったが、「安政の大地震」(1854)で破損したため、平屋建てに造りかえられたので、その昔、ここにも大地震の被害が及んでいたことがわかようです。
立場本陣から約140m歩くと右側に東神明宮があり、さらに約220m歩いた右側の小野田さん宅の庭先に、日本橋から数えて63番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
10時03分、063篠原一里塚跡(右側)
064 篠原一里塚跡
一里塚跡から約160m歩いた先の左側に、昔の土蔵のある家がありました。
10時06分、土蔵のある家(左側)
066 土蔵のある家
土蔵は年代を感じさせ、今はどのように使われているのか分かりませんが、大変貴重な建物なので、Yumiさんに土蔵の近くに行ってもらい写真を撮りました。
土蔵から約450m程歩いた左側に、袋井宿の澤野医院を思い出させる古い医院の建物がありました。
10時13分、柳本診療所(左側)
067 柳本診療所
医院は、日曜日でお休みなのか、医院の看板がないので営業しているかどうかも不明ですが、史跡指定されても良いような雰囲気のある建物でした。
柳本診療所から約300m歩くと篠原小学校が左側にあり、校門からさらに約600m歩くと、右側に愛宕神社があり参拝に立ち寄りました。
10時23分、愛宕神社(右側)
069 愛宕神社
愛宕神社もお賽銭を奉納し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
神社を出て、旧街道を真っ直ぐに約500m進むと、道幅の広い交差点に着きました。
10時31分、坪井町北交差点着
071 坪井町北交差点
この交差点が今日の旅の半分のところで、
これから舞阪の松並木、浜名湖を渡り静岡県と愛知県の県境にある湖西市に入ります。
私の花粉症は、昨日と同じように鼻水がダラダラ、くしゃみの連発、目のかゆみの三重苦で、最悪の状態が続いています。
Yumiさんは、多少花粉症の症状が出ていますが、私と比較したらかなり良い状態で、助かっています。
二人が私と同じ状態だったら、旅どころではなくなっているからです。
この時間になると、気温もかなり上昇しており、Yumiさんの状態を見ると汗はかいていないようですが、汗をかく前に衣服調整することにしました。
10時36分~10時38分、衣服調整
坪井町北交差点から約250m歩くと右側に稲荷神社の参道があり、衣服調整を兼ねて休憩に立ち寄りました。
稲荷神社の処で、私がチョッキを、Yumiさんがフリースを脱ぎ、併せて水分補給し、ひと息ついてまた旅に出発しました。
稲荷神社から約300m歩くと道路の反対側の理容きいがあり、さらに約100m歩いた右側に、秋葉山常夜燈がありました。
10時43分、秋葉山常夜燈(右側)
073 秋葉山常夜燈
常夜燈の石燈籠は、建屋の中にあり、灯りがともるのですが、現代はしめ縄の上に取り付けられた蛍光灯がともるようです。
常夜燈から舞阪の松並木までの間は、見学したいと思うような史跡がなかったので、周りをきょろきょろしながの旅となり、約750m歩くと右側に東本徳寺がありました。
10時52分、東本徳寺前(右側)
日蓮宗の寺院で、本徳寺時代の泉光坊が改称され東本徳寺となった寺院です。
東本徳寺から約130m歩くと、西本徳寺がありました。
10時54分、西本徳寺前(右側)
永徳元年(1381)開創の日蓮宗の寺院で、本徳寺時代の大泉坊が改称され西本徳寺となった寺院です。
西本徳寺から馬郡跨線橋南交差点を過ぎた左側に、春日神社がありました。
10時56分、春日神社前(左側)
永徳元年(1381)秋に、甲斐国の沙門が神仏の深理を人々に悟し、人々が一社の建立を願い、応永2年(1395年)に開かれたようです。
《舞阪の松並木》
春日神社から約140m先の舞阪駅南入口を過ぎ、野寄工業所の前に舞阪松並木の道標があり、ここから舞阪の松並木が始まりました。
11時01分、東海道・舞阪松並木道標(右側)
078 東海道・舞阪道標
松並木は、全長約700mの間に、約340本の松が左右に植樹されており、進行方向左側に五十三次の銅版が石碑に埋め込まれ、右側(Yumiさんが立っている側)に12干支の石像の碑があります。
五十三次の碑と12干支の両方を見て歩くことは、車が頻繁に走る道路を何度も横切って往復しなければならず、とても両方を見ることは難しいので、五十三次の碑を眺めながら歩くことにし、Yumiさんと私の干支の碑だけ見ることにしました。
 ※松並木の始まり
075 舞阪松並木
  ※舞阪の松並木
080 東海道・舞阪松並木
《五十三次の碑》
五十三次の碑の中で、
 ①.東海道の東の起点となる日本橋
 ②.現在いる舞阪宿
 ③.西の起点となる京都三条
の三箇所を写真に残しました。
  ※①.日本橋(東海道の東の起点)
077 松並木・日本橋碑
  ※②.舞阪(江戸から30番目の宿場)
083 松並木・舞阪
  ※③.京都・三条(東海道の西の起点)
085 松並木・京都三条
《干支の碑》
12支の碑は、二人の干支だけを写真に残しました。
  ※Yumiさんの干支
082 干支の碑:虎年
  ※Eiさんの干支
090 干支の碑・亥年
東海道の名残りを残している全長700mの舞阪松並木の終わりに、トイレがあったのでYumiさんに聞くと「寄らなくてもいい」と云うので、そのまま立ち寄らずに通り過ぎました。
浪小僧の像は、舞阪松並木の終わりに、53次碑(京都・三条)の直ぐ先に建っていました。
11時15分、浪小僧の像(左側)
087 浪小僧像
浪小僧は、妖怪で、ある漁師が遠州灘で漁をしていると、網に奇妙な生き物が引っ掛かってきた。それは浪小僧であった。漁師はこれを殺そうとしたが、浪小僧は「命を助けてくれたならば、お礼に雨や嵐の時にお知らせします」と願い出た。漁師はそれを聞いて、海に帰してやった。それ以来、浪小僧が海鳴りで天候を知らせるようになったと伝えられている。
松並木が終わった先の新町交差点で国道1号線が斜めに交差していましたが、旧街道は新町交差点を真っ直ぐ渡ります。
なお、松並木が終了する辺りの史跡は、
 1.五十三次京都三条(左)
 2.浪小僧(左)
 3.12支(亥)・(右)
の順に建っていますが、史跡を整理して掲載するため、見た順序を変更していますので、ご注意下さい。
新町交差点から約110m歩くと、見付石垣が道路の両側に残っていました。
11時22分、見付石垣(両側)
091 見付石垣
見付石垣は、
舞阪宿の東はずれに位置しており、石垣の起源の詳細は明かでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。ここは見張所にあたり、大名が通行の時などには、六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所だそうです。 
見付石垣の直ぐ先の左側にホワイト急便があり、その隣に新町常夜燈と日本橋から64番目の一里塚跡がありました。
11時24分、新町常夜燈(左側)
099 新町秋葉常夜燈(左)
浜松宿内の常夜燈は、石燈籠が建屋の中にありましたが、宿が舞阪宿になると建屋がなくなり石燈籠の常夜燈になりました。
そして、新町常夜燈の直ぐ隣りに日本橋から64番目の一里塚跡があり、石柱が左右に建てられていました。
11時25分、舞阪一里塚跡(左側)
095 舞阪一里塚跡(左)
11時26分、舞阪一里塚跡(右側)

097 舞阪一里塚(右)
一里塚跡から約110m歩くと平野生花店をがあり、生花店を過ぎた路地の左側に仲町常夜燈が建っていました。
11時33分、仲町常夜燈(左側)
101 新町常夜燈(右)
仲町常夜燈は、文化6年(1809年)に舞阪宿の大半を焼き尽くす大火があり、火防の山、秋葉信仰の高まりと、仲町の願いにより4年後の文化10年5月に建立され、高さは台座ともで2.7mだそうです。
仲町常夜燈から約100m先の右側に、宮崎本陣跡がありました。
11時41分、宮崎本陣(宮崎伝左衛門)跡(右側)
104 舞阪宿・本陣跡
舞阪宿には、本陣(宮崎伝左衛門)、本陣の2軒先に相本陣(源間徳右衛門)があり、相本陣の向側に脇本陣(茗荷屋、堀江清兵衛)がありました。
宮崎本陣跡には石碑が建っていましたが、源間本陣跡は何もありませんでした。
宮崎本陣の斜め向かい側に、脇本陣の復元建物がありましたが、昼食後に見ることにして食事をする「魚あら」に向かいました。
《昼食》
11時46分~12時30分、昼食(魚あら)=左側
109 魚あら
この店は、この界隈では有名な店で、休日の昼ということもあり既に満席になっていました。
名前を書いて待っていると、名前を呼ばれ湖が見える窓際の良い席に案内されました。
食事は、いけすで直前まで生きていた海老を使う「活天丼」を注文しました。
112 魚あら・活天丼
活天丼は、海老の他に魚や野菜の天ぷらがのっており、小鉢の岩のりは久し振りに食べたのですが、とても美味しかったです。
二人とも残すことなく綺麗に食べ切り、満腹になって店を出ました。
店を出て、昼食の前に立ち寄らなかった脇本陣に戻りました。
12時32分~12時47分、脇本陣(茗荷屋、堀江清兵衛)=左側
106 舞阪宿・脇本陣
本陣は大名・公家・幕府役人などが宿泊したり、休憩するための施設で、脇本陣は本陣の補助的旅舎で、副本陣にあたります。平常は、旅籠屋を営んでいるが、大通行のときなど、本陣の利用が重なった場合には本陣の代わりをつとめました。脇本陣は、本陣と同じく宿場の有力者が選ばれ、江戸時代中期以降に出現しました。
天保9年(1838年)建築の旧脇本陣「茗荷屋」(みょうがや)の上段の間があった書院棟が残されていた、旧東海道では唯一の脇本陣の遺構なので、この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物が復元されたそうです。
旅の中でもなかなか見学ができない施設なので、ぜひ見たいと思ってここに来ました。
遺構として残っていた書院棟の上段の間は、仕切りもなく座布団が敷いてあり座っても良いみたいなので、交代で座りました。
 ※お殿様が座った上段の間
114 脇本陣・床の間
最初「ダメなのよ」と云ってYumiさんが座らなかったのですが、私が「仕切りもなく、座布団が敷いてあるのだから座ってごらん。怒られたら謝ればいいよ」と云うと、やっと納得して上の写真のとおりに座ってくれました。
脇本陣の建物をひと通り見学し、入口に置いてあった街道スタンプを押印するなど、短い時間でしたが、のんびりとした気分で過ごしました。
ところが、見学を終えて入口で靴を履き直し外に出ると、風が一段と強くなっていました。
昼食を食べた「魚あら」に行く交差点の左角に西町常夜燈が、西町常夜燈の斜め向かいの交差点の反対側に本雁木跡がありました。
12時48分、西町常夜燈(左側)
121 西町常夜燈
12時50分、渡船場・本雁木跡(左側)
124 渡船場・本雁木跡
雁木とは階段状になっている船着場のことで、舞阪では「がんげ」と昔から云っている。
舞坂宿には三ヶ所の渡船場があったが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場(とうかば)、真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木(ほんがんげ)と呼ばれている。
交差点を「魚あら」と反対の右方向に曲がり、約80m歩いた左側に北雁木跡がありました。
12時53分、北雁木跡(左側)
127 渡船場・北雁木跡碑
北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられた浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場後で、明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築され、江戸時代には災害で幾度か修復されたそうです。
北雁木跡の辺りは風が強く、帽子が飛ばされそうなので、Yumiさんも帽子を取って歩きました。
北雁木跡から約170m歩いた右側に舞阪文化センターがあり、ここに街道スタンプが置いてあると調べた資料に記されていたので、立ち寄りましたが「そんなものはありません」とあっさり云われてしまいました。
立ち寄った舞阪文化センターから街道に戻り、浜名湖に架かる最初の橋(橋名は?)を渡る時は、さらに風が強く吹いており、15m以上ではないかと思うくらいでした。
私の花粉症は、台風の襲来のごとく鼻水はダラダラ、目はかゆかゆ状態で、早く旅を終わらせたいという気持ちに、東海道の旅に出て初めてなりました。
橋(橋名不明)を渡り、ホテル開春閣の手前の左側に、赤い社の弁天神社があったので立ち寄ると、境内の一角に正岡子規の句碑が建っていました。
13時06分、弁天神社(左側)
133 弁天神社
 ※正岡子規句碑
134 正岡子規句碑
東海道で、初めて正岡子規の句碑に出会いました。
神社を出た処で旧東海道は国道1号と合流し、信号の先のホテル開春閣を左に見ながら通り過ぎた右側に、弁天島駅がありました。
江戸時代はここから渡し舟で移動していたので、江戸時代の史跡は渡し船が着く新居町駅前までありません。
そのため、浜名湖を吹き抜ける強風にこの後も遭遇するのですが、早く旅を終わらせたいと思ったりしましたが、ここで旅を切り上げようという気持ちにはなりませんでした。
13時10分、弁天島駅前(右側)
137 弁天島駅
浜名湖で釣りをしている人は居るのですが、強風の影響なのか弁天島駅付近では、一人も人を見かけませんでした。
13時15分、中浜名橋手前
140 浜名湖(中浜名橋手前)
浜名湖をバックにした写真ですが、風が強いためマスクを外さないで撮りました。
橋の上は、風の通り道になるのか、強風の向かい風で、頭を下げないと歩けない状態でした。
橋を渡った新弁天の信号の手前に、浜松市と湖西市の市境標識柱が建っていました。
13時17分、湖西市境の標識
142 湖西市境界柱
静岡県最後の市となる湖西市に入りました。
第7回の旅で箱根峠を越えて静岡県に入ってから静岡県を横切る形で旅をしてきましたが、次回の旅で静岡県から愛知県に入りますが、静岡県は大きい県だと実感しました。
旧街道の両側には松が植樹されているのですが、街道から少し離れたところに立っているので、松並木という感じはしません。
新弁天の信号を過ぎた先の右側に新弁天神社がありました。
13時23分、新弁天神社(右側)
143 新弁天神社
新弁天神社は、直ぐ裏を東海道線の在来線と新幹線が走っている小さな神社でしたが、二人でお賽銭を奉納し、定番となった「Yumiさんの病気完治と旅のご加護」を祈願しました。
旧東海道の直ぐ近くを走る電車の本数は、在来線より新幹線の方が多く、猛スピードで走り抜けていきます。
浜名湖の上を走る新幹線の写真を撮ろうかと考えましたが、風が強いのと花粉症で、写真を撮ろうという気が失せていて写真は撮りませんでした。
13時30分、西浜名橋(出発)
145 西浜名橋
浜名湖に架かっている三本目の西浜名橋です。
写真では分かりませんが、湖の波はうねっており、魚釣りにきていた人も「この風ではダメだ」と云って、釣り場から引き揚げてきていました。
今のYumiさんは、撮るための位置を口で云っても、手で指示しても通用しなくなっているため、私が両手で直接Yumiさんの体を動かさないとダメな状態になっているので、傍目から見ると何やっているんだろうと思います。
そのため、この写真を撮る時も私が立つ位置を決めている時に、新幹線が後ろを走り抜けてしまいました。
次に来る新幹線の時間が分からないことと、強風の中で待つのが嫌だったので、新幹線が入った写真を撮ることはできませんでした。
結局、西浜名橋は、6分掛かって渡りました。
13時36分、西浜名橋(到着)
少し後ろを歩いているYumiさんを見ると、ザックに入っているはずのフリースを着ています。
浜名湖を渡っている時、強風から体感温度が下がり一人でザックからフリースを出して着たようです。
私は、そのままにして歩いていましたが、風は南風で北風のように寒くはないことと、温度が上昇しているので、汗をかかなければと思いながら歩いていました。
旧東海道は、弁天島駅前付近で国道1号と合流しましたが、国道の右側を歩いてきたので、距離標を確認することは出来ませんでした。
13時43分、新居弁天入口交差点
交差点に着き、今日の旅もあと約500mくらいの処に来ましたが、直線の先に見える到着地は何故か遠くに感じる今日でした。
ここでYumiさんの状況を確認すると、心配した汗をかいているので、再びフリースを脱いでもらいザックにしまいました。
そして、道路の反対側の湖西警察署の前のガソリンスタンドの前を過ぎ、今日の到着地である「新居町駅前」交差点に着きました。
13時53分、新居町駅前交差点着(到着地)
146 新居町駅前交差点
強風の中、花粉症に悩まされた今日の旅は終わり、Yumiさんに到着の看板を掲げてもらい、到着式の儀式(写真撮影)を行いました。
到着式を終わり駅舎に向かって駅前に出て見ると、次回の出発はもう少し先の「新居町駅前地下道横断歩道」信号の方が良いと判断し、到着地を急遽変更しました。
13時55分、新居町駅前・地下道横断歩道信号着(新到着地)
147 新居駅前(到着地)
変更した到着地の看板がないので、当初に計画した看板を掲げてもらい到着式を再度行いましたが、次回の出発の時に改めて到着式を行いたいと思います。
今日の旅は、16.2㎞を6時間20分(休憩・昼食含む)と、2.56㎞/時と少し早いペースでの旅となりました。
これは午後の浜名湖は江戸時代は水上移動で史跡が無いことと、強い風が吹いていたので、足早になっただと思います。
【帰路】
今日の旅の到着式を終え、新居町駅の駅舎に向かい、Yumiさんにジバングで購入した切符を渡し、改札を通りました。
浜松方面の電車の時刻を見ると14時発のため、「Yumiさん、急いで」と急かせてホームに行きましたが、時間になっても電車は来ません。
ホームで風を避けながら待っていると、Yumiさんが寒いと云うので、フリースをザックから出して着させました。
14時05分、新居町駅発
150 新居町駅ホーム
5分遅れて到着した電車は、二人並んで座ることができる程度の混み具合だったので、新幹線に乗る浜松駅までの間(約15分)のんびり過ごすことができました。
《帽子が見当たらない》
さて、隣りに座ったYumiさんが、ガサガサとザックの中の探し物をしているので、
 E=何をしているの?
 Y=ないの
 E=何が?
 Y=(帽子の仕草)これがないの
 E=ザックの中にないの?
 Y=ないの
 E=帽子は一番上に入れたよ
 Y=ないの
 E=さっきフリース(着ているフリースのことを教えて)を取り出した時に落としたのでは
 Y=分からない
 E=無いものは出てこないし、強い風が吹いているから、どこかに飛んで行ってしまったよ
 Y=ふーん
 E=明日、帽子を買いに行こう
と話して、終わりました。
Yumiさんが春から秋にかけて一番被っていた大好きな帽子だったのですが、探しに行けないので、諦めるしかありません。
電車は、4分遅れで浜松駅に到着し在来線から新幹線に移動しましたが、新幹線は出発した後で、ホームで約30分待つことになりました。
急いで新幹線のホーム行く必要がないため、Yumiさんをトイレに連れて行ってからホームに行きましたが、ホームには数人いるだけで閑散としていました。
ホームのベンチに座ると咽喉が渇いたというので、ペットボトルと暑かったのでアイスクリームを買い、乗車口の処にザックを置き、近くのベンチに座って咽喉を潤したり、アイスクリームを食べて待ちました。
 ※新幹線浜松駅ホーム
151 新幹線・浜松駅
14時50分、新幹線浜松駅発
乗車した新幹線「こだま」号は50%くらいの乗車率で空いていたので、二人掛けに座りましたが、停車駅ごとに乗客が増えだんだん混んできました。
帰りの新幹線の楽しみは、新富士付近の富士山を車窓から眺めることですが、今日の富士山は頂上付近に雲が掛かっていて、眺めは写真のとおり残念でした。
153 車窓からの富士山(三島)
新幹線は強風の中の走行でしたが、遅れることなく小田原駅に到着し、小田原から小田急線に乗り換え、自宅に帰ってきました。
帰る途中、家に帰って夕食を作るのは大変なので、途中の中華店に立ち寄り夕食を食べてから帰りました。
【次回の予定】

次回は、4月に
 ●1日目=自宅から移動し、新居町駅~二川駅
 ●2日目=二川駅~名鉄伊奈駅までの旅
 ●3日目=島田にある世界一の木橋・蓬莱橋を見学
の予定です。
また、二川駅~名鉄伊奈駅の旅の途中で、私達が東海道の旅を始めるきっかけとなった山の師匠であるNさんと出会う予定です。
また、お互いの宿泊が豊橋なので、出会いの乾杯が楽しみです。
この旅の目的の一つにしていたので、今から楽しみです。
これからいろいろな資料を調べて旅の準備を行い、旅に出たいと思います。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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