【天候】晴れ・風強し
【宿場】(19)府中宿⇒(20)丸子宿⇒(21)岡部宿
【行程】歩行距離=13.97㎞ 総距離=195.00㎞

静岡・江川町交差点⇒(1.68㎞)⇒043府中一里塚⇒(3.78㎞)⇒044鞠子一里塚⇒(3.015㎞)⇒
045宇津ノ谷一里塚⇒(3.895㎞)⇒046岡部一里塚⇒(1.60㎞)⇒岡部支所前交差点
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第12回旅の宿場)

12 12回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第12回)
 第12回の旅のルート
 (静岡・江川町交差点⇒岡部支所前交差点)
第12回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日
  〔※②〕=平成26(2014)年 9月13日
【旧東海道の旅】

《移動》
04時30分、起床

身支度を整え、ザックの荷物を再確認の上、
朝食、トイレなどを済ませて家を出発し、まだ氷点下の厳しい寒さの中、自転車で最寄り駅に行き、電車を乗り継いで東京駅に移動しました。
07時22分、東京駅着
01 東京駅新幹線ホーム
東京駅は大勢の人が行き交っていて、さすが東京駅だなと思いながら人とぶつからないように歩き、新幹線の改札口に行きました。
ところが新幹線の改札に切符をいれると「ピンポーン」と警告音が鳴り、駅員が切符を見て「東海道新幹線は向こうです」と注意されてしまいました。
東北新幹線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海と別れているのですが、田舎から出てきた者にはどの改札も同じだろうと切符を投入した時は思っていました。
「不便だな」と不便さを感じながら東海道新幹線の改札を通ってホームに行きました。
ホームに着いた時は発車の30分以上前と早かったため、自由席(1~5号車)の乗り口に並んでいたのは数人だけでしたので、Yumiさんを連れてトイレに行きました。
発車10分くらい前に乗車するひかり号が入線してきましたが、乗車前に並んだのは15人程度だけだったので、時期によって差はあるのでしょうが、最寄り駅で乗る電車の時間をもう少し遅くらせても大丈夫のようです。
今日はひかり自由席の乗車状況が分からなかったので、少し早くに家を出発していました。
また、車内でYumiさんと交互に写真を撮っていると、通路反対側の方が「シャッター押しましょう」と云って二人の写真を撮って下さいました。
 ※新幹線車内
03 新幹線車内
08時03分、東京駅発
乗車した車両の乗車率は60%くらいで、停車した品川駅と新横浜駅で乗車してきて90%くらいの乗車率になりました。
今日は天気が良いので、車窓から富士山が眺められるかなと期待感をもって乗っていると、期待どおり小田原に近づくと富士山が大きく見えるようになり、三島~新富士の間はさらに大きく眺めることができました。
 ※新幹線車窓からの富士山
06 車窓からの富士山
急いでカメラを用意してャッターを押しましたが、新幹線のスピードが速く、電線や建物等々が入ってしまうなど、思うような写真が撮れませんでした。
また、実際に見えた富士山はもっと大きかったのですが、写真になると小さくなっていて残念です。
09時06分、静岡駅着
東京駅を発車して約1時間、下車駅の静岡駅に到着しました。
ここから出発地の江川町交差点に移動するのですが、地下街から地下通路を通って行きます。
前回の帰りに道案内を記しておいたのですが不安になり、途中で道を尋ねると斜め左の方に行ってしまうところだったので、教えて頂いて助かりました。
地下通路から地上の御幸通りに出てそのまま直進し、今日の出発地である江川町交差点に着きました。
【=旅=】

09時16分、江川町交差点(出発地)
07 静岡・江川町交差点(出発式)
交差点付近は、店舗がまだ開店時間前だったため、人通りはほとんどありません。
江川町交差点でいつものとおりYumiさんに看板を掲げてもらい出発式を行い、出発しました。
江川町交差点を出発し約170m歩いた呉服町交差点を右折した時、静岡駅でトイレに立ち寄らなかったことを思い出し、交差点から160m先の左側にコンビニ(セブンイレブン)があり、Yumiさんを連れて店内に入りトイレをお借りしました。
トイレに入ってスッキリした気分となって約140m歩くと、伊勢丹がありその角に札の辻跡碑が建っていました。
09時27分、府中宿・札の辻碑(左側)
09 府中宿・札の辻跡
伊勢丹を右に見て左折し、七間町通りを進む頃になると温かくなってきたので、Yumiさんはアウタージャケット、私はフリースを脱いで衣服調整しましたが、Yumiさんからは特に不満の声は出ませんでした。
静岡市内の旧街道は、伊勢丹の角から約450m先の、昭和通りの七間町交差点を過ぎてから2つ目の十字路(クチーナの前)を右折し、約210m先の新通りを左折(左角・疋野商店)して安倍川方向にジクザクして歩きます。
これは、駿府城を守る防御のためにクランク形に作ったのでしょう。
新通りを安倍川橋に約500m歩くと本通り「本通八丁目交差点」に出る十字路があり、ここを右折して旧東海道から一時離れ本通りの「本通り八丁目交差点」を渡り、渡ったところを左方向(安倍川橋方向)に約50m歩くと、左側に日本橋から43番目の一里塚跡に標板が建っていました。
09時45分、043府中一里塚跡(左側)
10 府中一里塚跡(043)
跡碑は、道路に面しているため、「一里塚」を写真に入れるために、車が通る間隙をぬって車道に出てシャッターを切りました。
碑面が歩道向きになっていれば、危険を冒して車の間隙をぬいながら写真を撮らなくてもよいので、自治体には考えてほしいと思います。
私とYumiさんは、一里塚碑の処を直進して「本通九丁目交差点」を旧東海道に向かって左に渡り新通りに戻りました。
本通り九丁目交差点から新通りに戻った十字路から約500m歩くと、弥勒交番があり交番の横に安倍川の川会所跡碑と安倍川架橋の碑があり、交番先先隣りの弥勒公園の中に由比正雪の墓碑、明治天皇小休止跡碑が建っていました。
09時54分、川会所跡(右側)
12 川会所跡(安倍川)
  安倍川架橋の碑(右側)
13 安倍川架橋の碑
09時57分、由比正雪の墓(右側)
14 由比正雪の墓
  明治天皇小休止跡(右側)
16 明治天皇小休所跡
この弥勒公園で、女性4人組の街道ウォーカに出会いましたが、お互いに顔を見合わせただけで特に言葉を交わすことなくそれぞれの動きを続けましたが、考えて動くことは同じで、石部屋でまた一緒になりました。
09時59分~10時09分、休憩(石部屋)=左側・・・写真右は※①に撮影

17 石部屋113 石部屋
弥勒公園の左斜め前に、安倍川もちの元祖である石部屋があり、開店したところで今日の一番客になり、先ほど出会った女性4人組も続いて入ってきました。
店に入ったところで女性4人組の話しを聞くと、3人は東京からこだまで来たようで、今日は岡部まで歩いて東京に帰るとのことでした。
石部屋には、安倍川もち(あんこ・きなこ各5個=@600円)とからみもち(わさび醤油で食べる=@600円)がありましたが、Yumiさんと二人なので、安倍川もちだけにしました。
人数が3~4人以上いたら両方を注文して、食することができると思います。
私とYumiさんは、安倍川もち1皿を注文し、昔の人もこのようにして食べたのかなと思いながら、老舗のもちを味わいました。
  ※安倍川餅
19 安倍川もち(一つ食べました)
※①=安倍川餅(右)・からみ餅(左)
114 安倍川餅とからみ餅
からみ餅はわさび醤油を付けて食べるのですが、Yumiさんは2つぐらい食べたらいらないと云い出し、私がほとんど一人で食べました。
石部屋を出ると、直ぐ左脇に安倍川義夫の碑が建っていました。
※①=安倍川の義夫の碑(左側)
115 安倍川の義夫の碑
安倍川の義夫の碑は、安部川に橋がなく、川を渡るには人夫を雇うのが一般的であった1738年(天文3年)、江戸へ出稼ぎに出ていた漁夫が紀州(現和歌山県)へ戻る途中、自力で安部川を渡った際に仲間と稼いだ150両の大金を落としてしまいました。 たまたま居合わせた人夫が財布を拾い、漁夫を追いかけ、財布を届けてくれたので、お礼を漁夫が人夫に渡そうとしても頑なに受け取りません。 困った漁夫が奉行所から渡してもらうよう取り計らっても受けとらない。 とうとう奉行所は漁夫にお礼を戻し、人夫に報奨金を渡したそうです。
この美談を後世に伝えようと 昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志によって碑が建てられたと記されていました。
そして義夫碑から約70m歩くと、全長490mの安倍川橋が架かっていました。
10時11分、安倍川橋
21 安倍川橋(東側)
歩・車が分離した舗道を歩きながら川の上流方向、下流方向を、キョロキョロと眺めて歩き、天気が良いので橋を渡った所で後ろを振り返ってみると、美しい富士山を眺望することができました。
  ※安倍川橋西交差点の左脇からの富士山(白丸)
23 富士山の眺望(安倍川橋西側)
旧街道は県道を安倍川橋西交差点を真っ直ぐ進み、ここから約1.1㎞歩くと手越原交差点があり、ここで1号線に合流しますが、約240m先の佐渡交差点でまた1号線から分岐して左に進み、交差点から約70m歩くと右側に佐渡地蔵堂が建っていました。
10時36分、佐渡地蔵堂(右側)
25 佐渡地蔵堂
地蔵堂の直ぐ隣りに無人販売所があり安価だったのですが、荷物になるので眺めるだけで通り過ぎました。
  ※無人販売所(全品100円です)
27 無人販売所
地蔵堂から約400m歩くと丸子交番のある交差点があり、右側の丸子交番に沿って(道路の反対側の左側は静岡銀行)歩き、静岡丸子郵便局、そして道路反対側の左側の長田西小学校を通り過ぎた先の信号を真っ直ぐ渡った先の右側に道標が建っていました。
10時50分、丸子宿道標(右側)
28 丸子宿道標
そして、そこから約60m先の右側の道路沿いに、日本橋から44番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
10時52分、044丸子一里塚跡(右側)

29 丸子一里塚(044)
一里塚跡碑は、交通量の多い狭い道路の道路沿いに建っているため、一里塚跡碑の写真を撮るのは危険な場所でした。
そして、一里塚跡から約200m歩いた右側の丸子幼稚園と元丸子簡易郵便局の間に、丸子宿・江戸方見付跡に碑が建っていました。
10時56分、東見付跡(右側)
32 丸子宿江戸方見付跡
見付跡から約240m歩くと、左側に歴史を感じる「しらい酒店」がありました。
11時03分、しらい酒店(左側)
34 しらい酒店
しらい酒店は立ち寄らなかったので、店の内部などのことは分かりませんが、外観は年代を感じさせるものがありました。
このしらい酒店を過ぎると、丸子宿の中心部となり、約200m先の左側に脇本陣跡
11時06分、脇本陣跡(左側)
35 丸子宿・脇本陣跡(進行左)
脇本陣の直ぐ先の右側に、問屋場跡と丸子宿・本陣跡があり、
11時07分、問屋場跡(右側)

36 丸子宿・問屋場跡
11時08分、丸子宿・本陣跡(右側)

37 丸子宿・本陣跡
本陣跡からさらに約100m歩くと、右側に丸子宿・脇本陣跡と明治天皇小休止跡があり、
11時10分、脇本陣跡・明治天皇小休止跡(右側)

39 丸子宿・脇本陣(進行右)
脇本陣跡の道路を渡った反対側に鞠児学校跡
11時11分、鞠児学校跡(左側)

41 鞠児学校跡(明治)
そして、学校跡から道路を反対側に戻ったところにお七里役所跡の跡碑と、連続して跡碑が建っていました。
11時12分、お七里役所跡(右側)

40 お七里役所跡
お七里役所跡を過ぎ、右にカーブした先の右側に、芭蕉句碑と十返舎一九の東海道膝栗毛碑が並ぶように建っていました。
11時14分、芭蕉句碑(右側)

42 芭蕉の句碑
11時14分、十返舎一九 膝栗毛碑(右側)
43 十返舎一九の碑
2つの碑の隣に、とろろ汁で有名な丁子屋がありました。
《昼食》
11時14分、丁子屋着(右側)
44 丁子屋
障子戸を開けて中に入り、店の人に奥の座敷間を案内されましたが、靴を脱ぎたくなかったので、入口脇のテーブル席にしてもらいました。
食事を注文し、配膳を待つ間にYumiさんをトイレに連れて行きながら、その帰りに店内に展示されている400年の歴史を物語る品々を見て回りました。
そして、席に戻ると、注文したとろろ汁(丸子定食)が並べられていました。
  ※丸子定食
46 丸子定食
Yumiさんはとろろ汁が好物ですが、私は生タマゴととろろが大の苦手なのです。
そのため丁子屋に来るまでどうしようか考えていたのですが、ここに来る人はとろろ汁を食べに来るので、私も食べてみることにしました。
麦入りのご飯にとろろ汁をかけて食べてみると、思いのほか食べ易く、味も良く、残さずに全部食べてしまい、美味しいものを食べると、自分の食わず嫌いが恥ずかしくなります。
勿論、Yumiさんも残さずに全部食べました。
11時44分、丁子屋発
店を出ると、道路を渡った右側に丸子川の碑があり、丸子川に架かる丸子橋を渡った右側に、京方見付跡碑と高札場跡碑が建っていました。
11時45分、丸子川の碑(右側)
48 丸子川の碑
11時46分、京方見付跡・高札場跡(右側)
49 丸子宿・京方見付跡・高札場跡
丁子屋に着く前から風は吹いていたのですが、店を出る頃からは一段と強くなり帽子が飛びそうなので、耳当ての部分を出して飛ばないようにして約1㎞歩くと国道1号に合流し(赤目ケ谷交差点)、交差点の手前に188㎞の距離標識が建っていました。
12時00分、188㎞ポイント(左側)
51 188㎞ポイント
この距離表示は、日本橋からの国道1号線の距離ではなく、旧東海道の距離なのです。
交差点から旧街道は標識の先を左に入り約250m歩いた左側に、日本紅茶発祥の地(丸子紅茶)の看板が、水車の脇に掲げられていました。
12時04分、日本紅茶発祥の地(左側)

53 日本紅茶発祥の地案内
日本紅茶の発祥の地を聞いて、答えられる人は何人いるかな?
一つ知識を得ることができました。

54 丸子紅茶
旧街道は国道1号と並行し、約450m先の右側にレストラン東海道が両方の街道の間にあることが地図に記されていましたが、倒産したのか建物はありませんでした。
そして取り壊された建物付近から約50m歩くと、岡部町に残る「三本の名残りの松」のうちの一本が立っていました。
12時11分、名残りの松(左側)
56 名残りの松
  ※名残りの松・解説
55 名残りの松碑
名残りの松の先に「あかめがやおはやしほどうきょう」があり、この先の歩く方向を考えこの歩道橋で1号線の反対側(進行右側)に渡りました。
歩道橋を渡ったところで名残りの松の方を見ると、父親と男の子の2人が歩いているのが見えましたが、親子連れは歩道橋を渡らずにそのまま真っ直ぐ歩き、宇津ノ谷歩道橋を渡ってきました。
私とYumiさんは歩道橋を渡ったところで国道1号と別れて川沿いの側道を歩いていると、Yumiさんが寒いというので脱いでいたアウタージャケットをザックから出して着せて、約300m歩くとまた国道1号に合流し、そこから約800m歩くと宇津ノ谷歩道橋があり、先ほどの親子連れが渡ってきました。
〔045宇津ノ谷一里塚〕=跡碑確認できず
宇津ノ谷歩道橋の辺りが「045宇津ノ谷一里塚」のあった場所と史跡の資料に書かれていたので、
 E=一里塚碑はありませんでしたか?
 男=何もなかったですよ
と、一里塚跡は確認できませんでした。
宇津ノ谷歩道橋から約300m歩くと、「道の駅・宇津ノ谷峠」がありましたが、親子連れは立ち寄らずにそのまま先に行き、私とYumiさんはこの先の道の駅でトイレ休憩を取ることにしました。
この親子とは、この先で出会うことはありませんでした。
12時36分~12時39分、休憩(上り線道の駅宇津ノ谷峠)
※①=道の駅「宇津ノ谷峠」(左側)

116 道の駅・宇津ノ谷峠116-2 道の駅・案内板
街道はこの先で右折して上り坂を道なりに進むと、道が分岐する江戸・大正の分岐点に着き案内板が建っていました。
12時46分、江戸・大正の道分岐(右側)
58 江戸・大正の分岐
私達は、集落を通って宇津ノ谷峠の登山道に入り、出世街道から坂下地蔵堂に出る道を旅します。
また、風が強いため、この分岐のところで帽子の止め具を取り付けました。
この集落には、豊臣秀吉から羽織を贈られたことから名付けられた御羽織屋があり、この地方の名産品である「十団子」が売られているというので、立ち寄りました。
御羽織屋の前で写真を撮っていると、一人旅の男性が「写真を撮りましょう」と声を掛けて下さったので、お願いしました(この後、私がこの方を撮ってあげました)。
12時50分、御羽織屋(右側)
60 御羽織屋
一人旅の男性と別れ店内に入り十団子を買うと、応対したおばあさんが、お土産にみかんを2つ下さいました。
豊臣秀吉から贈られた羽織や、徳川家康から拝領した茶碗を見せてもらおうかと思いましたが、この先の宇津ノ谷峠道の方が気になり、また改めて見に来ようと思い云わずに店を後にしました。
※H26.09.12 再訪=御羽織屋(右側)
118 御羽織屋・入口
歩き旅と違う入口から奥に入ると戸が閉まっていたので「見れないのかな」と思っていると、家の中に人がいる気配がしたので閉まっている戸を開けると、説明するおばあさんが座っていました。
「入ってもいいですか?」と聞くと、「どうぞ」と云われ、靴を脱いで座敷に上がり、入場料の@200円を置いてある箱に入れ、「陣羽織」にまつわる伝記や陣羽織を修繕した話しを聞かせて下さいました。
ひと通り話しを聞き、おばあさんの了承を頂いて写真を撮らせてもらいました。
  解説のおばあさん
119 説明するおばあさん
※①=(写真左)羽柴秀吉陣羽織、(写真左)家康拝領の茶碗:台左・15代慶喜拝領の茶碗:台右
120-2 秀吉拝領の陣羽織120 展示品120-3 徳川家康拝領の器
集落の道は、私とYumiさん、それと一人旅の男性の三人だけしかおらず、シーンと静まりかえっていました。
  宇津ノ谷集落の通り
62 宇津ノ谷集落(後方・丸子川橋)
御羽織屋を出て峠に向かう道は、階段状の上り坂になっており、最初の分岐を左に上ると道標が建っており、道標に明治のトンネルまで300mと比較的近かったので、見に行くことにしT字路を左方向に上りました。
121 宇津ノ谷峠への登り階段122 分岐
12時58分、明治トンネル入口(この時はトンネルの入口で戻りました)

63 明治のトンネル入口

明治トンネルの中は、灯りが付いて明るくなっており、出口も見えました。
この道を通れば峠を通らずに早く、そして楽に岡部宿に行けるのですが、それは旅の目的ではないので、先ほどのT字路の道標の処に戻りました。
《明治のトンネル》
御羽織屋のおばあさんに明治のトンネルを見学してくる間の駐車(御羽織屋の隣りの駐車場)の了解を頂き、御羽織屋から5~6分の明治のトンネルに行きました。
 ※①=明治のトンネル入口(丸子宿側)
123 明治トンネル入口
 ※①=トンネルの内部
125 トンネル内⑤
 ※①=トンネルの出口(岡部宿側)
124 トンネル出口側
13時01分、宇津ノ谷峠登り口(左側)
65 宇津ノ谷峠登り口
  宇津ノ谷峠の登り道
67 峠道
峠道は竹が茂った坂道ですが、約200m進むと先ほど見に行った明治トンネルや、宇津ノ谷集落を眼下に見下ろす展望台に出ました。
13時05分、宇津ノ谷峠展望台
69 展望台
碑の後ろは崖になっており、Yumiさんに「これ以上行ったら落ちます」と怒られながら写真を撮りました。
 明治のトンネル入口付近(峠道からの眺め
70 明治のトンネル入口の眺め
坂道はさらに続き、峠の地蔵堂跡の石垣を右に見ながらさらに登って宇津ノ谷峠に着きました。
13時11分、峠の地蔵堂跡の石垣(右側)
71 峠の地蔵堂跡
峠を越すと、反対側から登ってきた4~5人の人と交差しながら滑らないように下っていくと、舗装路に出ました。
後で分かったものですが、この舗装路は明治のトンネルに繋がっている道でした。
《道を間違える》
しかし、この時は間違えることがないようなところで、何を考えたのか舗装路に出た処をそのまま真っ直ぐに下らずに、右に入れる狭い道をみかん畑の方に下ってしまいました。
道を少し下ると、道が無くなり急斜面になったので、間違えたと思いYumiさんを助けしながら元の道に戻りましたが、バカみたいなことをしてしまいました。
元の道に戻ると道の案内図があり、舗装路をそのまま下って行けば良かったので、良く確認すればと反省しました。
舗装路を下って行くと、左に砂利の小道のある分岐があり砂利道の方に行くと、髭題目碑を見ながらさらに下ると、つたの細道との合流点に着きました。
13時27分、髭題目碑の下(左側)
73 髭題目碑(後方)
  宇津ノ谷峠の下り
75 宇津ノ谷峠の下り
13時31分、旧東海道・つたの細道合流点

76 道標(左=旧街道・右=つたの細道)
矢印の道が旧東海道で、矢印の方向に下り、つたの細道は写真右下の道。
旧東海道とつたの細道の合流点から約60m歩くと右側に、坂下地蔵堂がありました。
13時32分、坂下地蔵堂(右側)

78 坂下地蔵堂
地蔵堂を過ぎて旧街道を進むと、静岡方面の標識に沿って国道1号の下を潜って道路の右側を歩くと、上り線の道の駅があり、休憩することにしました。
13時38分~13時48分、休憩(上り線の道の駅宇津ノ谷峠岡部)=右側
79 道の駅・宇津ノ谷峠
 ※①=道の駅・宇津ノ谷峠(右側)
116 道の駅・宇津ノ谷峠116-2 道の駅・案内板
道の駅には食事ができる場所があり、峠を越えてきた疲れを癒すため、水分補給と御羽織屋で買った十団子で英気を養うことにしました。
旧街道は、道の駅がある廻沢口交差点で、国道1号を右折して県道208号を進み岡部宿に向かいますが、強い風が依然として吹いていたので、Yumiさんの健康を考えマスクを付けてもらいました。
廻沢口交差点から約1.3㎞歩くと、左側に「東海道岡部宿案内板」が建っており、この辺りが一里塚があったと云われてる場所というので、記録に残しました。
14時08分、046岡部一里塚跡(左側)
80 岡部一里塚(碑はない)
岡部宿案内板(一里塚)から約50m歩くと、右側の階段を上ったところに十国坂観音堂がありましたが、立ち寄らずに通り過ぎました。
十国坂観音堂から約100m歩いた右側の道路沿いに、「枡形跡」の石碑が建っていました。
14時11分、枡形跡(右側)
82 枡形跡
枡形跡碑から約260m歩くと左側に那須野商店があり、ここで県道と分岐して右折し、約100m先の三叉路を左折、そして約100m先で再び県道に合流し、県道を渡って約50m歩いたところに史跡の旅籠がありました。
14時20分、大旅籠柏屋着(左側)
84 岡部宿大旅籠・柏屋
この旅に出る前に藤枝市に連絡し、入館割引券(20%引き)を頂いたので、使わせて頂きました。
旅籠の中は土間から見るのは見学無料なのですが、時間の余裕があったので、靴を脱いで施設の案内をして頂きました。
85 旅人気分
江戸時代に実際に使われた展示品は、昔の生活を偲ばせるものばかりで、大切に保存してほしいと思いました。
86 大広間
また、敷地内では踊りなどの催し物が行われていましたが、無料の甘酒だけ頂いて少し観させて頂きました。
14時40分、大旅籠柏屋発
大旅籠柏屋を出ると直ぐ隣りに岡部宿・内野本陣跡がありましたが、工事中で碑も建っておらず、ガードフェンスに本陣跡の看板が架かっているだけでした。
14時45分、内野本陣跡(左側)
88 岡部宿・内野本陣跡(工事中)
本陣跡地に併設されている岡部宿公園でトイレと水分補給を済まし、約170m歩くと左側に火の見やぐらが建っている消防団の車庫前を左折しました。
012 旧東海道
そして分岐から約60m歩くと、小野小町が自分の姿を映したと云われる橋がありました。
14時49分、小野小町姿見の橋
89 姿見の橋
姿見の橋から約120m歩くと右側に弘法大師堂が建っており、お堂の脇に高札場跡碑が建っていました。
※②=弘法大師堂(右側)
010 弘法大師堂
※②=高札場跡(右側)
007 高札場跡
弘法大師堂を過ぎると旧街道は県道208号に合流しそうになるのですが、県道に出ないで左に進むと左側に白壁に黒塗りの格子戸の立派な家が建っていました。
※②=ゴン中山さんの実家(左側)
この辺りでは異様に感じる建物があり写真に収めてから表札を見みると「中山儀助」。
ひょっとしたらと確認したらサッカーで有名なゴン・中山雅史さんの実家でした。
005 ゴン中山の実家
実家の脇には、ゴンプロジェクトと記された「ゴン企画」(白丸印)の建物が建っていました。
006 ゴン企画(有)事務所
そのまま歩くと、右側に三輪医院の駐車場、小林製畳店の真向いに、問屋場跡碑が建っていました。
15時01分、問屋場跡(左側)
91 問屋場跡
※②=ミニギャラリー(右側)
問屋場跡碑の斜め前の右側に、ミニギャラリーと記された屋台が設置されていました。
013 ミニギヤラリー
ミニギヤラリーから約250m歩いた今日の到着地である岡部支所前交差点に出る手前左側に、枡形跡の石碑が建っていました。
15時06分、枡形跡(左側)
93 枡形跡
旧街道の岡部の街並みを見ながら歩いてきましたが、枡形跡の直ぐ先で突き当りとなり右折したところに、岡部支所前の交差点があり、今日の旅の到着地に着きました。
※②=岡部支所前交差点手前分岐(右折➡左折の枡形)

014 旧東海道道案内
15時07分、岡部支所前交差点着(到着地)
96 右の車の道が旧街道
交差点の角でYumiさんに到着地を記した看板を掲げてもらい今日の到着式を行い、宿泊する場所に向かいました。
【宿泊】
《予約までの経緯》
当初は到着地からバスで藤枝まで行ってビジネスホテルに泊まる予定にして予約したのですが、FAXにYumiさんの状態を記して送信すると予約OKの回答があり、ビジネスホテルを解約して民宿に泊まることにしました。
ビジネスホテル以外のところに泊まるのは2年振りで、この2年間におけるYumiさんの認知症の進行状況を考えると、不安をかかえながらでの宿泊となりました。
15時12分、民宿着
民宿は普通の一軒屋で看板もなければ案内もなく、外からは分かりません。
駐車場の奥と聞いていたので、奥にある建物に行くと女将さんとバッタリと出会い、名前を告げるとニッコリと笑い「どうぞ」と案内して下さいました。
案内された部屋は16畳ほどの広さがあり、今日は私達だけの宿泊とのこと。
予約する時にYumiさんが要介護2の認知症ということを通知しておいた方が良いだろうと考えて知らせたので、女将さんが他の人を泊めない方が良いと判断したようで、申し訳ないことをしたとお詫びしました。
《入浴》

さて、民宿に着き、まずトイレの場所を教え、部屋でユカタに着替えていると、風呂の案内があり汗を流しに行きました。
風呂の大きさは我が家の風呂と同じ位の大きさで、浴槽に二人で入るのは無理そうなため、一人ずつ交代で入りますが、Yumiさんは一人では入浴できないため、
 ①.先に浴槽に入れ、その間に私が洗う
 ②.Yumiさんが出たら洗い布にシャンプーを付けて渡し、Yumiさんが洗っている間に私が浴槽に入る
 ③.Yumiさんの体のシャンプーを流す
 ④.Yumiさんの洗髪をする
 ⑤.Yumiさんを浴槽に入れ、その間に私の洗髪を行う
 ⑥.体は自分で拭きますが、どの順番で着たらよいのか分からないので、着る物を順番に渡す
の介助をして入浴を終えました。
なお、髪用のシャンフーとコンディショナーが切れていたので、ボディーシャンプーで洗髪をしました。
今日の汗を流し、部屋でホットカーペットに横になってテレビを見ていると、女将さんから夕食の案内があり食堂に行きました。
《夕食》 17時40分~19時30分
食堂に行って女将さんにビールを注文し、Yumiさんと乾杯。
食堂はリビングで食事しているのと同じで、配膳された料理をYumiさんもニコニコしながら食べ始めました。
特に、女将さんが作った野菜スープは抜群の味で、Yumiさんも美味しいを連発しながら食べていました。
私は野菜スープを食べる時、もう一度温めてもらえば良かったと後悔しました。
また、途中から女将さんも会話に加わり、楽しい時間を過ごすことができました。
《贈り物》
私がリビングに飾ってある切り絵を見ていると、
 女将=気に入ったものがありますか?
 E=Yumiさん、気に入ったものある?
 Y=水仙がいい
 女将=差し上げますので家に飾って下さい
 E=(辞退したのですが)家のリビングに飾らせて頂きます
 女将=明日、持ち帰れるようにして上げます
 E=ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます
と、考えてもいなかった贈り物を頂くことになり、長居した食事を終え部屋に戻りました。
《夜のトイレ》
部屋に戻り、Yumiさんの目薬の点眼と血圧測定を行い、トイレに行く時は起こすように話して、21時に床に着きました。
Yumiさんは、明け方になると必ずトイレに行くのですが、新しい所は行き方が分からなかったり、戻って来れなかったりするので、私を起こすように話したのですが、最初は私を起すことなく一人で行って戻ってきたようです。
一人で行けたんだと思っていると、次は一人では行けません。
二度目は私が後から付いていくと、トイレではなくリビングの方に行こうとするので行き方を教え、戻る時も部屋と反対の風呂の方に行こうとするので、声を掛けて部屋に連れ帰りました。
三度目も、ほぼ二度目と同じ状況と、私もゆっくり寝ていられません。
トイレに行く道順は、
 ①.部屋のふすまを開けると廊下で、左に2m歩き
 ②. 左折
 ③.2m先に横引き扉
 ④.2~3歩先に横引き扉 ⇒ トイレ
とすぐ近くなのですが、Yumiさんには遠い所なのか、行き方が覚えられないのです。
今回の経験で、ビジネスホテル以外は、宿泊できないことが分かりました。
また、女将さんの気配りには感謝のひと言です。
【次回の予定】
次回の第13回の旅は、1月13日㊐に「岡部支所前交差点~島田・本通り2丁目交差点」の15.69㎞を歩きます。
途中、著名な史跡はありませんが、チェックしてきた史跡は見落とさないように気を付けて旅をしたいと思います。
また、島田には旧東海道ではありませんが、ギネスに登録された木橋「蓬莱橋」があるので、行き方の下調べをする予定です。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/