【天候】晴れ⇒雨⇒晴れ
【宿場】(09)小田原宿⇒(10)箱根宿
【行程】歩行距離=12.91㎞ 総距離=101.82㎞
箱根登山鉄道・入生田駅入口⇒(2.80㎞)⇒022湯本茶屋一里塚⇒(4.39㎞)⇒
023畑宿一里塚⇒(4.42㎞)⇒024箱根一里塚⇒(1.30㎞)⇒箱根町バス停
【ルート図】
↓宿場(黒囲みが第6回旅の宿場)
↓旧東海道の旅・進捗状況
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
↓第6回の旅ルート
(箱根登山鉄道・入生田駅 ⇒ 箱根宿・箱根町バス停)
【再訪】
夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
〔※①〕=平成26(2014)年 9月11日
〔※②〕=令和02(2020)年10月13日
〔※③〕=令和02(2020)年11月 4日
【旧東海道の旅】
《序章》
6月30日に旅した後の7月中旬に白内障の手術を受けたり、山荘で私の左足親指を骨折(7月中旬)することが重なり、当初計画していた9月1日の旅を9月16日に2週間延期しました。
《準備》
骨折したことで、約2カ月半、養生のためほとんど歩いていなかったので、不安感を抱きながら少し早い12日から荷造りを始めました。
ザックや服装は、この時期のスズメ蜂の動きを考え、蜂が好む黒を除くことを第一に考え、私は青色のDeuter製30㍑、Yumiさんは雨の時のことを考え、ザックカバーが備え付けられている私がいつも使っている水色のモンベル製30㍑にしました。
ザックに入れる荷物は、チェックリストを元に1から準備しました。
また、今回の東海道の旅は標高差約600mの箱根東坂の上り坂を歩く難度としては山行と同じため、万一の事故に備えヘッドランプ、非常食、医薬品、ストック、雨具(ゴアテック合羽上下・折り畳み傘)、昼食などを用意しました。
貴重品類は、前日の15日昼間に準備し、寝る前に再度、全部の持ち物について再点検し、朝4時に目覚ましをセットしてベツドに入りました。
04時20分、起床
いままでの5回の旅で権太坂、大坂、化粧坂など勾配のきつい坂がありましたが、今回の箱根東坂の上りは旧東海道の中で一番の難所と云われているところなので、緊張感をもって当日の朝を迎えました。
起きた時はまだ日の出前なのため、暗くて天気の状況は分かりません。
前日の天気予報どおりの天気を祈りながら、いつもと同じ段取りで朝の身支度を整え(違うのは、両足のつり防止の手入れが追加)、朝食は前日買い置きした「あんまん・肉まん」を電子レンジで温めて食べました。
また、飲み物は500mlスポーツドリンク2本(1本は冷凍)と麦茶を用意しました。
《移動》
いままでの5回の旅は、権太坂、大坂、化粧坂などの坂がありましたが、今回の箱根東坂の上りは旧東海道の中で一番の難所と云われているところなので、緊張感をもって当日を迎えました。
起きた時はまだ日の出前のため、天気の状況は暗くて分かりませんが、前日の定期予報を信頼して旅に出る準備を始めました。
靴はウォーキングシューズからトレッキングシューズに替え、少し肌寒さを感じる朝の空気を浴びながら、最寄り駅に向けて自転車を走らせました。
最寄り駅を定刻に出発し、電車を乗り継いで、小田原で箱根登山鉄道に乗り換え出発地の入生田駅に到着し、駅構内でトイレを済ませ、前回撮影を持ち越した駅の改札口を記録に残しました。
08時02分、入生田駅着
入生田駅では旅に出発する前、先人のHPに掲載されていた丸い石を確認しようと地元の方に聞くと、「その石ならすでに撤去されていて、今はないですよ」と云いながら親切に家まで教えて下さいました。
私は、丸い石の写真を撮って、Subu君に送りたいと思っていたので、とても残念です。
また、撤去された後の写真を撮っておこうかなと考えましたが、思い出をそのまま残しておいてあげようと思い撮るのはやめました。
写真を撮ろうと探していた家は、出発地点となる入生田駅入口の前の造園屋さんでした。
【=旅=】
08時13分、入生田駅入口(出発地)
出発地に立ち、Yumiさんに出発地を記した看板を掲げた写真を撮る出発式を行い、芦ノ湖に向けて出発しました。
歩き始めると約100m先に踏切があり、丁度遮断機が降りて小田原行きの電車が走ってくるので、急いでシャッターを押しました。
※小田原方向に走る箱根登山鉄道
箱根登山鉄道は単線のため、入生田駅を見ると箱根湯本行きの電車が走ってくるところだったので、Yumiさんを踏切の近くに立たせてシャッターを押しました。
08時16分、箱根湯本方向に走る箱根登山鉄道
この旅で、このような機会は二度と無いので、良い記念になりました。
天気は青空で、日差しの強さとじめーとした湿度から、歩き始めたばかりですが、汗が噴き出てきてYumiさんも汗を拭いています。
踏切から約220m歩くと国道1号に合流するところの階段を降り、国道脇の道を約110m歩くとまた階段を上り、約550m進むと左側の箱根レッカー店の先で、1号線に合流します。
合流する右側に「山崎の古戦場跡」の石碑が建っていると史料に記されていましたが、工事中で見つけることができませんでした。
1号線の道路沿いを歩いて湯本横断歩道橋を使って反対側に渡らなければいけないのですが、面倒で車の通行を確認すると丁度信号で途切れた時だったので、横断歩道橋を割愛して道路を横切り、反対側に渡って約300m歩くと、早川に架かる三枚橋の三枚橋交差点があり左折しました。
08時37分、三枚橋・・・写真右の三枚橋の全景は※③の時に撮影
三枚橋のたもとで記念写真を撮り、沖縄地方に超大型の台風が接近している影響で、天候不順になる予報が出ていたので先を急ぎました。
【東坂の上り】
三枚橋を渡ると街道は上り坂となり箱根東坂に入ります。
三枚橋を渡って約80m歩くと、右側に村境の湯本道祖神が祀られていました。
※3=湯本道祖神(右側)
湯本道祖神から約160m歩くと、左側にコンビニのセブンイレブンがあり、昼食(おにぎりとジュース)を仕入れるために立ち寄りました。
※②=コンビニ(セブンイレブン)=左側
昼食を仕入れ、約400m歩くと(手前の右側に湯本小学校がある)左側に温泉の守護神を祀っている白山神社がありましたが、参道入口で一礼しただけで失礼いたしました。。
※②=白山神社(左側)
白山神社から約50m歩くと、右側に北条文化の遺産が残る早雲寺があり立ち寄りました。
08時53分、早雲寺(右側)
早雲寺は小田原北条氏の菩提寺で、大永元(1521)年、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により北条宇治綱が創建した臨済宗大徳寺派の寺院だそうです。
境内が涼しそうだったので立ち寄りましたが、Yumiさんはまったく興味がなく写真だけ撮りましたが、境内の木々はまだ緑濃く朝の陽射しを浴びてとても綺麗でした。
※早雲寺境内
本堂の左側奥に北条氏五代の墓所がありました。
※②=北条五代の墓所(境内左奥)
写真左=墓所入口 、写真右=墓所(白枠が北条早雲)
街道は早雲寺を過ぎたあたりから、登りの勾配が一段ときつくなってきて、この先の厳しい上りを示唆するようでした。
早雲寺から約350m歩くと、左側に正眼禅寺があり、少しだけ立ち寄りました。
09時03分、正眼禅寺(左側)
正眼禅寺は、曽我兄弟の菩薩供養されているのですが、境内を簡単に一巡しただけで失礼しました。
曽我堂の階段脇に五郎の槍突き岩があり、本堂前の境内に芭蕉句碑が建っていました。
※②=槍突き岩(写真左)槍突き岩 ・ (写真右)芭蕉句碑
正眼禅寺の先で勾配が少しきつくなるなど約190m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
※②=道祖神(右側)
道祖神から右カーブを曲がり、次の左カーブの途中(道祖神から約50m)の左側に、男女双体道祖神が祀られていました。
※②=男女双体道祖神(左側)
男女双体道祖神から約70m歩くと右側に静観荘があり、手前右側に日本橋から22番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
09時12分、022湯本茶屋一里塚(右側)
この場所には寄木細工の木象嵌技法を普及させた白川洗石の生家があったところで、一里塚碑の右側に標板が建っていました。
※②=白川洗石生家跡
一里塚碑から約140m歩くと新茶屋があり、その前に分岐があり、右側に進みました。
分岐の先は下り坂で、少し歩くと石畳道になりました。
日本橋からここまでの道は、100%舗装道路だったのですが、初めて旧東海道を偲ばせる道になり、旅の雰囲気が出てきました。
※石畳道
石畳道を下ると須雲川に架かる猿橋があり、渡って進みました。
※②=(写真左)猿橋 ・ (写真右)左方向の眺め
石畳の道は猿橋に向かって一度下り、橋を渡ったところから上り坂(観音坂)となるのですが、石畳の道は凹凸があり歩きづらい道だなという感じでした。
※②=観音坂
観音坂は上り2町(約220m)の坂で、観音堂があったことで名付けられたと云われており、観音坂を上ると右側に福寿院があり、
※②=福寿院(合流手前の右側)
その先で県道732号に合流し、右方向に進みました。
街道は歩道がない上、車がビュンビュンと走るので気を付けないと危険です。
私とYumiさんは汗でタオルはグッショリ状態になっていたため、南風荘入口のところで休憩を取り、新しいタオルに交換と水分補給を行う休憩を取りました。
※反省
一服休憩を取るとしたら南風荘を過ぎた先に湯場滝通りの入口があり、入口先の奥湯本入口バス停脇に四阿が建っているので、この場所が良いと思います(合流から約450m)。
09時35分、ホテル奥湯本の手前
四阿からホテル奥湯本の入口(約300m)を過ぎるなど約800m歩くと、右側に箱根大天狗山神社がありました。
※②=箱根大天狗山神社・山門(右側)
箱根大天狗山神社・山門前から約260m歩くと、須雲川インターチェンジがあり、真っ直ぐに進みました。
09時47分 須雲川インターチェンジ(箱根新道との合流地点で信号有り)
この辺りの道路は、右・左にカーブしているのに歩道がなく、視界の悪い地点も多々ありますが、車は人が歩いていると思わないで走ってくるので、気を付けないと大変危険な場所です。
須雲川ICから約200m歩くと、右側に初花の滝碑が建っていました。
※②=初花の滝碑(右側)
初花の滝碑から約300m歩くと、左側に青銅製鳥居が建っている駒形神社が祀られていました。
※②=駒形神社(左側)
駒形神社から約30m歩くと、左側に箱根霊験躄仇討ちの主人公である飯沼勝五郎・初花夫婦の墓所がある鎮雲禅寺がありました。
9時55分、鎮雲禅寺(左側)
鎮雲禅寺は、入口に石碑、その左側に霊泉の滝があり、清流が流れ独特の雰囲気をかもし出している寺院でしたが、階段の上り・下りはきついので境内には入らずに入口で失礼しました。
Yumiさんと立ち寄らなかったので、今回は立ち寄り墓前に手を合わせました。
※②=飯沼勝五郎・初花の墓所
鎖雲寺を出て約110m歩くと左側にクリーム色壁のトイレがありました。
※③=トイレ(左側)
トイレから約30m歩くと左折する須雲川自然探勝歩道がありますが、街道は直進して須雲川橋を渡って進みます。
※②=(写真左)分岐:橋を渡る ・ (写真右)須雲川橋から左方向の眺め
須雲川橋を渡り約20m歩くと、右側に岩のくぼみに溜まった水をイボに塗るとイボが取れると伝わっている弘法のいぼ取り水がありました。
※②=弘法のいぼ取り水(右側)
弘法のいぼ取り水から約90m歩くと、右側に箱根大天狗山神社の赤い大きな鳥居が建っていました。
※②=箱根大天狗山神社・鳥居(右側)
そして、この先の「女転し坂」から箱根の本格的な上り坂に入りましたが、この辺りから雨が降ってきたので、持参した折畳み傘を差して歩き始めました(これ以降、雨は降ったり、止んだりが繰り返されました)。
女転し坂は結構きつい上り坂で、街道の県道沿いを傘を差しながら、テクテクと歩きました。
箱根大天狗山神社の鳥居から約180m歩くと、左側に女転し坂碑が建っていました。
※②=女転し坂(写真左) 、坂碑(写真右):左側
女転り坂碑から約160m坂を上ると、右側の発電所前バス停の真向かい左側に箱根大天狗山神社の鳥居が建っていました。
※②=箱根大天狗山神社・鳥居(左側)
発電所前バス停の直ぐ先に左に下る分岐がありますが、発電所に行く道のため、街道は舗装路を真っ直ぐに進みました。
分岐から約40m進むと、右側に割石坂碑、自然探勝歩道標識などが建っている分岐があり、右折して石段を上りました。
10時13分、割石坂(右側)
割石坂は、県道732号線の「須雲川自然探勝歩道」の入り口から始まり、「曽我五郎が富士の裾野の仇討に向かう時、刀の切れ味を試すため、路傍の巨石を真っ二つに割り切った」ところから名付けられたようです。
一方、降り出した雨は断続的に降り続いていますが、木立の中ということと雨の勢いが強くないということで、歩くのには支障はありませんでしたが、石畳の道は滑り易く気を付けながらの歩きになりました。
※割石坂の石畳(写真右=R02.10.13再訪)
一方、樹林帯の中の石畳だったので、旧道の雰囲気を味わうこともできる道でした。
また、手持ちの資料と地図が、汗と雨でフニャフニャになってきたので、保護しながらの歩きになりました。
そして背負っているザックが濡れ始めてきたので、割石坂の途中でザックカバーをセットしました。
Yumiさんのザックは、ザック備え付けのため簡単にセットすることができ、私のザックは外付けでしたが比較的簡単に取り付けることができました。
割石坂を約250m歩くと木製の小橋が掛かっており、そのまま真っ直ぐに約100m進むと右側に接待茶屋跡の標板が建っていました。
※②=木製小橋
➡ ➡
※②=接待茶屋跡(右側)
街道は接待茶屋跡の先で、県道に合流し右方向に進みました。
【旧道を間違える・PARTⅠ】
割石坂から国道に合流した先の千鳥橋下で、国道から左に分岐して歩くのですが、見落としてそのまま国道を歩いてしまい、「大沢坂」を歩かないで畑宿に着いてしまいました。
Yumiさんと歩いた時、分岐を見落として歩かなかった大沢坂は、合流した処から約170m歩くと、左側の白いガードルの間に石畳があり、入口左側に旧街道標柱が建っていました。
※②=大沢坂入口(左側)
大沢坂に入り約120m坂を下ると木製の小橋が架かっており、橋を渡ると上り坂になりました。
※②=(写真左)下り坂 ・ (写真中)木製小橋 ・ (写真右)上り坂
➡➡
大沢坂の上り坂を進むと右側に大沢坂碑がたっており、さらに数分歩くと斜めの排水路跡(黄色枠)があり、左側に解説標板が建っていました。
※②=大沢坂碑(左側)
※②=斜めの排水路
斜めの排水路は、石畳の上を流れてきた雨水を石畳から外に出すためのもので、上流側に小石、下流側に大石を斜めに敷く構造になっています。
斜めの排水路から約50m歩くと、左側に旧街道標石が建っていました。
※②=旧街道標石(左側)
旧街道標石から約50m歩くと階段があり、階段を上ったところの右側に道標が建っており、合流した県道を左折して進みました。
大沢坂を上った合流地点で、大沢坂を通らない歩いてしまったことに気が付きましたが、戻る気力もなく違う道でも歩いたということで良いことにし勝手に納得しました。
合流したところから約20m歩くと、左側に道祖神が祀られていました。
※②=道祖神(左側)
道祖神から約80m歩くと、右側に本陣跡の標板が建っていました。
10時30分、畑宿茗荷屋本陣碑(右側)・・・※②の時はありませんでした
茗荷屋本陣は江戸時代、参勤交代の大名や公家たちが使用した宿泊所で、幕末にはアメリカ総領事のハリスの通辞をしていたヒュースケンも利用したという記録が残っている。建物は大正元年(1912)に焼失しましたが、当時の趣きを残す小川や池がある庭園を見ることができる。明治時代に旧街道の杉並木から伐採し、真ん中をくり抜いた切り株があり、通り抜けると長寿をもたらすといわれているそうです。
しかし、今日は雨模様で、この辺りでは小雨になっていたため、雨の降っていない時に少しでも先に進もうと、立ち寄ることなく記録だけ残し先に進みました。
※②=(写真左)本陣茗荷屋跡:右側 ・ (写真右)庭園跡:建物裏
※②=(写真左)本陣解説標板 ・ (写真右)明治14年頃の写真
明治14年の写真は再訪した時、家族が写ってる子孫の方が見せて下さいました。
本陣近隣本陣跡から約20m進むと、右側に明治天皇碑が建っていました。
※②=明治天皇碑(右側)
明治天皇碑から約40m歩くと右側に駒形神社の参道入口があり、階段を上った奥に祀られていました。
※②=駒形神社(右側)
駒形神社参道入口から約150m歩くと分岐があり、左側の畑の茶屋と右側の箱根寄木細工のすぎやの間を進みました。
分岐を進むと分岐点に東海道碑が建っており、店舗(畑の茶屋)と碑の間を進みました。
10時33分、東海道碑(右側=分岐点)
東海道碑から約50m歩くと日本橋から23番目となる畑宿一里塚があり、復元された一里塚が左右に建っていました。
10時34分、023畑宿一里塚(左・右)
※畑宿一里塚=左側 (写真右=※②の時) ※黄矢印は街道
※畑宿一里塚=右側 (写真右=※②の時) ※黄矢印は街道
畑宿一里塚は江戸時代の一里塚の形態をとどめた立派な塚で、現在のものは発掘作業で確認できたものを復元したものだそうです。
※①=畑宿一里塚(右側)
街道旅の時は要介護1(認定調査を受けていないので推定)ですが、再訪のH26.09は要介護2の認定を受けています。
ご覧になった皆さん、認知症を発症していると思えますか?
認知症と診断されていても要介護2レベルは、Yumiさんと同じように外見だけでは分からない人が大勢います。
※畑宿一里塚・解説
左・右の塚写真を撮り、天気の状態も良くないので、甘酒茶屋を目指して先を急ぎました。
畑宿一里塚の右側には日蓮宗の守源寺がありましたが、参道入口から写真撮っただけで立ち寄りませんでした。
※②=守源寺(右側)
一里塚を過ぎても箱根東坂の上り坂が終わったわけでなく、雨模様が続くなか車が行き交う舗装路、東海道で有名な石畳の道、階段道などを歩きました。
左右の一里塚の間を進むと、直ぐに石畳道となり、樹林帯に入る左側に一里塚碑が建っていました。
※②=(写真左)石畳道 ・ (写真右)畑宿一里塚碑:左側
私たちの後から上ってきた親子連れ(3人)は、雨具を持っていなかったのでどうするのかと思っていたら、畑宿一里塚の先の西海子坂(さいかちざか)を上った国道との合流点で歩くのを止めたようで、国道を歩いていた私達を追い越したバスに乗っているのが見えたので、雨具なしで歩くのはすこし無謀だなと思っていたので、歩くのを止めたのは正解だったと思います。
西海子坂は約220mの上り坂で、石畳になっています。
※西海子坂の石畳道 (写真右=※②に撮影)
※石畳の構造
畑宿一里塚からゴツゴツとした歩きづらい石畳道を約100m歩くと、箱根新道に架かる橋があり渡って進みました。
※②=木橋
橋を渡り石畳道を上ると「斜めの排水路」(白線)があり、解説標板が建っていました。
※②=斜めの排水路
ゴツゴツして歩きづらい石畳道の西海子坂を進むと階段があり、階段の手前右側に西海子坂碑が建っていました。
※②=西海子坂碑(右側)
西海子坂碑脇の階段を上る(写真左)と県道732号と合流し(写真中)、左折して進み(写真右)ました。
➡➡
坂道の県道を約100m上ると、左側に階段があり(写真左)、階段を上り県道を短縮する形で再び県道に合流し、左折して(写真右)県道を進みました。
➡
合流した県道を左折し、九十九折の坂道を
①上り坂を約90m進むと箱根新道のガード、②上り坂を約130m進むと再び箱根新道のガード、③上り坂を約240m歩くと箱根新道の上を跨ぎました。
※②=箱根新道を2回潜り⇒1回跨ぐ
箱根新道を跨いで約70m上り坂を進むと左側に階段道の橿木坂があり、上り口左側に坂碑が建っていました。
※②=橿木坂(左側)
階段道を上る(写真左)、県道沿いに出て約30m進む(写真中)、左側の階段を上る(写真右)
➡➡
階段は勾配が緩やかなものもありますが、足腰の負担を増加させる勾配のきつい坂が多々あり、階段以外の道を歩きたいと思っても階段以外に道がないので致し方ありません。
そのため15段くらい上ってひと休みしてまた上ることを繰り返しながら延々と続く階段を上ると(写真左)、見晴茶屋分岐(写真中)があり、左折して見晴橋(写真右)を渡って進みました。
11時15分、見晴橋
見晴橋分岐で反対方向から歩いてきたご夫婦とすれ違いましたが、お互いに挨拶をすることなく行き違いました。
分岐を真っ直ぐに急階段を上ると見晴茶屋があるのですが、階段の往復を考えただけで気持ちが萎えてしまい行きませんでした。
見晴橋から約40m歩くと左側にベンチがある空き地がありました。
※②=休憩ベンチ(左側)
休憩ベンチから約1分歩くと木橋の山根橋が架かっており、手前右側に標柱が建っていました。
※②=山根橋
山根橋を渡り、石畳道(写真左)や階段道(写真中)など約5分歩くと左側に、「畑宿1.8㎞ 元箱根2.2㎞」と記された道標(写真右)が建っていました。
※②=道標(左側)
➡➡
道標を過ぎ階段を上ると甘酒橋(写真右)が架かっており、橋を渡った右側に標柱(写真左)が建っていました。
11時23分、甘酒橋
往時の甘酒橋は木橋でしたが、現在は木に似せたコンクリート橋でした。
甘酒橋を渡り苔むして雨に濡れて滑り易くなっている石畳の上り道や上り階段などを約9分歩くと、左側に猿滑坂碑と解説標板が建っていました。
11時34分、猿滑坂
猿滑坂碑から約1分歩くと上り階段(写真左)があり、猿滑坂の出口で県道に合流(写真右)し県道を横切りました。
➡
県道を横切り進行右側の階段を上り(写真左・中)、県道に沿って(写真右)約2分歩くと下り階段(写真下の左)があり、県道沿いに出ました。
➡➡➡
階段を下り県道沿いの道を約3分歩くと右側に道標と並んで追込坂碑が建っており、街道は右折して階段を上ります。
私の足は久しぶりの山道で、攣る一歩手前の状態になっていたので、歩きながらYumiさんにそのことを話すと、「私も同じなの」との返事があったので、「もう少しで着くから」とYumiさんを励まし休憩できる場所を目指しました。
追込坂碑から約30m先(白矢印)の右側に、笈の平親鸞上人石碑が建っていました。
※②=追込坂碑・道標:右側
※②=笈の平親鸞上人石碑(右側)
追込坂入口に戻り階段を上った所を左折(写真左)して約150m歩く(写真右)と、左側に箱根旧街道休憩所があり立ち寄りました。
11時50分、昼食(箱根旧街道資料館)=右側
※②=箱根旧街道休憩所(左側)
Yumiさんと訪れた8年前と違う展示物になっていました。
※(写真左と写真中)展示物 ・ (写真右)展示室
休憩所は昼食が食べられる長椅子がいくつか用意されていたので、一角を借りて昼食を食べることにし、持参したおにぎりとジュースと質素なものでしたが、ゆっくり寛ぐことができました。
また、休憩所は入れ替わり人が入ってきますが、簡単に見学するだけで、ベンチに座って食事を食べているのは私達とYumiさんだけでした。
休憩所の隣りには有名な甘酒茶屋があるので、箱根に来ると立ち寄る人が多い人気スポットになっており、多くの人が来ていました。
私達は昼食を食べた後、甘酒茶屋に立ち寄り水分補給のペットボトル(500ml=2本)を買い、写真を撮って出発しました。
12時22分、甘酒茶屋発
甘酒茶屋は、箱根峠の旧街道沿いに佇む一軒の杉皮葺きの建物で、江戸時代初期に創業し、現在12代目だそうです。
旧道は甘酒茶屋の裏にある道で、街道に合流し左折して再スタートすると、箱根東坂の上りはまだ終わっておらず上り坂が続きました。
※(写真左)甘酒茶屋裏の分岐、 (写真右)上り坂
Yumiさんはストックを使用して歩いています。
ところがストックの音が聞こえなくなったので、後ろを振り返ると、少し離れて足を引きづって歩いていました。
前後に人のいないことを確認し、Yumiさんのズボンを膝まで捲り上げ、足攣りに効く薬を塗って再スタートしました。
甘酒茶屋の分岐から約8分上っていると、右側に於玉坂碑が建っていました。
12時32分、於玉坂碑(右側)
於玉坂は、関所破りで処刑されたお玉の名前がついたお玉ヶ池が有名ですが、この坂も同じように於玉の名前が付いています。
塗り薬を塗ると少しの間は良いのですが、少しすると今度は反対の足が攣った状態になるなど、権現坂を下った木製の歩道橋まで、右・左の太もも、ふくろはぎと、場所を変えて治療の連続でした。
Yumiさんの辛い状況も分かりますが、凡人の私の口から「何とかならないかね」とグチが出てしまいました。
Yumiさん、ゴメンネ。
※於玉坂
於玉坂碑から約1分歩くと県道に突き当り、県道を斜めに横切り石畳道に入りました。
※②=分岐(斜め横断)
石畳道に入ると、旧街道の道標が建っていました。
12時33分、箱根旧街道道標(左側)
※箱根旧街道道標
於玉坂から上り坂は石畳の白水坂と続きました。
※②=白水坂
➡
白水坂は上り12間(22m)の坂で、白き水が流れていたと云われており、文久3年(1863)に敷設された石畳が残っているそうです。また、石畳は皇女和宮が降嫁する際に改修されたそうです。
白水坂を過ぎると上り七間の天ケ石坂で、頂上手前の右曲がりの手前右側に天ケ石坂碑(写真中)が建っており、この付近が日本橋から約100㎞地点になるのではないかと思います。
天ケ石坂碑から約180m歩くと頂上付近(写真右)となり、
※②=天ケ石坂 (写真左)=上り、 (写真中)=天ケ石坂碑、 (写真右)=頂上付近
少し下り始めた左側に道標が建っていました。
天ケ石坂を下って行くと、右側に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われている箱根馬子唄の石碑が建っていました。
13時02分、箱根馬子唄の石碑(右側)
箱根馬子唄石碑から約4分坂を下ると、お玉観音堂のある分岐となり、道路を横断して真っ直ぐに進みました。
※分岐道標
※②=(写真左)お玉観音堂入口 ・ (写真右)分岐(横断)
朝から続いた上り坂は天ケ石坂の頂上で終わり、元箱根に向かって下り坂となり、お玉観音堂の先から傾斜のきつい権現坂に入ります。
お玉観音堂前の分岐(道路横断)から約80m歩くと(写真左)U字型分岐(写真中)があり、真ん中の権現坂(写真右)に進むと、直ぐの右側に神社が祀られており、分岐から約1分歩くと右側に権現坂碑が建っていました。
➡➡
※②=神社(右側)
13時21分、権現坂碑(右側)
私は昼食の休憩、ストレッチ、塩と水で足の状態は保たれましたが、Yumiさんにはきつい山道になりました。
足攣りに効く薬と、山の会で教えて頂いた足攣り対策の塩と水で、Yumiさんの足の状態は良くなりました。
また、甘酒茶屋からの道中は、元箱根から上って来る人で行き交う人が増えましたが、「え!!、この靴で歩くの?」と思う人がいたのは困ったものです。
歩けないことはないでしょうが、ウォーキングシューズくらいは履いてもらいたいなと思います。
権現坂碑から急坂を約3分権現坂を下ると、左側に旧街道標石が建っていました。
※②=旧街道標石(左側)
旧街道標石から約2分歩くと、国道1号を跨ぐ木製の歩道橋が架かっており、渡って進みました。
13時25分、木製歩道橋
【旧道を間違える・PARTⅡ】
権現坂を下った木製の歩道橋の下でYumiさんの足の手当を行った後、道が左の国道に出る道と、真っ直ぐ進む旧道みたいの道があり、多くの人が旧道みたいな真っ直ぐの道から上ってくるので、てっきりこの道だと思って歩いて行くと、道が途中で途切れるようになってしまい、違う道を歩いてきたことに気が付きました。
ここも後戻りができないので、そのまま下って元箱根交差点付近に出ました。
今日、二度目の道間違いです。
〔街道案内〕
木製歩道橋を渡ると右側に街道案内図が建っていました。
※②=街道案内図(右側)
街道案内図から約1分進むと、右側に箱根の美しさを世界に紹介したケンペル・バーニー碑が建っていました。
※②=ケンペル・バーニー碑(右側)
ケンペル・バーニー碑(白囲み)と国道の間に下る階段道があるのですが、この道は街道ではないようで、その先の突き当たった舗装路(国道1号)を右折して進むのが街道です。
※③=分岐(T字路):右折
➡
突き当たった舗装路を約300m歩くと元箱根港のT字路分岐となり、分岐を左折して進みます。
※③=分岐(T字路):左折
➡
突き当たった国道1号を左折すると、分岐の左角に身代わり地蔵が祀られていました。
13時35分、身替り地蔵(左側)
身代わり地蔵は、鎌倉時代に頼朝の家来、梶原景季(かげすえ)が父の景時と見誤られて背後から斬りつけられた時、その身代わりになって景季を救った伝説が残されています。
身代わり地蔵はT字路分岐の左角ですが、T字路を右折した処に箱根神社の赤い大鳥居が建っていました。
※②=箱根神社大鳥居(右側)
さらに大鳥居を潜った左側に、地蔵信仰の霊場である賽の河原があり、石仏石塔群が祀られていましたが、明治の廃仏毀釈で多数の石仏が破壊されたそうです。
※②=賽の河原(左側)
身代わり地蔵まで戻り先に進むと、左側にセブンイレブンがあり立ち寄り、ペットボトル(2本)とおやつのアイスクリームを買いました。
アイスクリームはどれにするか迷いましたが、今日の努力を称え少し高価なハーゲンダッツを買い、店舗前の芦ノ湖湖畔に出て、湖畔の階段に腰掛け湖を見ながら仲良くアイスクリームを食べました。
13時40分~13時55分、休憩(芦ノ湖)
芦ノ湖は海賊遊覧船が到着する時で、Yumiさんは「あの船に乗ったことあるね」と、母親を伴って一緒に乗った時のことを思い出したようです。
休憩を終え、セブンイレブンから約170m歩くと、杉並木入口手前の左側に日本橋から24番目となる一里塚跡があり標石が建っていました。
14時00分、024箱根一里塚(左側)
一里塚から約20m歩くと正面に歩道橋が設けられており、歩道橋の手前に左方向に杉並木入口の分岐があり、左方向の土道に進みました。
※②=分岐(歩道橋手前)=左方向
※②=杉並木入口と標石
※杉並木
右側の国道1号は車が渋滞していましたが、遊歩道の杉並木を歩く人は少なくノンビリと歩くことが出来ました。
杉並木は約550m続き、再び国道1号に合流し、左方向に進みました。
※②=合流(左方向)
国道1号を約120m歩くと、右側に県立恩賜箱根公園駐車場の看板が建っている分岐があり、分岐を右折して進みました。
駐車場入口分岐を右折して約30m歩くと、右折=駐車場入口、直進=恩賜箱根公園、左折=箱根関所跡の十字路分岐があり、左折して進みました。
分岐を左折して約140m歩くと平成19年に復元された箱根関所跡の江戸口御門があり、門を潜って中に入りました。
※②=箱根関所跡・江戸口御門
復元された建物内の見学は有料で、通路からの見学は無料と云うので、通路から建物の外見を見ながら通り抜けました。
14時13分~14時27分、箱根関所跡(右側)
関所が設置されたのは、元和5年(1619)で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっていました。そして一般な関所は、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われているが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り調べを行っていたそうです。設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
関所跡は以前に見学して知っているので、今日は史跡の見学を割愛して箱根関所跡の京口御門を潜り、関所跡の外に出ました。
※② 箱根関所跡・京口御門
折角観光地に来たので、京口御門を出た右側に立ち並ぶお土産物店に入り、Yumiさんに寄木細工の髪止めと楊枝入れを買いました。
Yumiさんは髪の毛を止めるものを探していたので、ニッコリして喜んでくれました。
京口御門から約120m歩くと、国道1に突き当たるT字路で、街道は右折して進むのですが、分岐の左角に箱根関所の標識が建っていました。
※箱根関所標識(左側)
※分岐(T字路)=右折
T字路分岐から約110m歩くと右側に箱根ホテルがあり、本陣はふや跡で、楓は当時のもので樹齢400年とのことです。
14時30分、箱根本陣はふや跡(現箱根ホテル)=右側・・・白い標板はR02.10.13確認できず
箱根ホテルから約80m歩くと、箱根町港のバス停があり、今日の旅を終えました。
14時32分、箱根町バス停着(到着地)=右側
※②=箱根町バス停(右側)
箱根新道経由の急行湯本・小田原行きのバス停には長い列ができていて、丁度乗り始めたところでしたので、到着式を行わないで列に並びました。
並んでいた数人は次のバスにするらしく新たに並び直していましたが、私とYumiさんは流れのまま乗り込んでしまいました。
座席は既に満席で、私とYumiさんが最後の乗車になり、バスはすぐ出発しました。
※Yumiさんと歩いた時はバス停の建屋はありませんでしたが、行先別に2つの建屋が出来ていました。
【帰路】
14時35分、箱根町バス停発
箱根湯本駅まで混雑しなければ、箱根新道をノンストップで走り25分で到着するとのこと。
乗りながら、到着式(バス停での撮影)や、乗っても座れないのなら次のバスでも良かったかなと思いましたが、早く帰れるので、これで良いと思うことにしました。
さて恒例の到着式は、次回(9月29日)の出発の前に行うことし、到着式の代わりに箱根湯本駅で写真を撮り、今日の閉めにしました。
15時04分、箱根湯本駅
15時過ぎに箱根湯本駅に着き、駅員にロマンスカーの予定を聞くと、M駅に停まる列車が発車するのは40分後と聞き、小田原まで登山鉄道の各停電車で行き、小田原で急行に乗り換えて帰ることにしました。
なかなかロマンスカーに乗る機会がないので、この先タイミングの良い機会があることを祈るのみです。
家に帰る途中で夕食を食べ18時30分すぎに家に帰ってきました。
一日、お疲れ様でした。
今日は、シャワーではなく久しぶりに湯船に浸かり疲れを取りました。
【総評】
今日の行程は、距離的には13㎞弱と少なかったのですが、久しぶり山歩きと厳しい上り坂で、Yumiさんは大変だったと思います。
旧東海道の旅で一番厳しい旅になるだろうと考えていた上に、出発する時は快晴だった天候が、数時間後には雨天になる天候の急変で、今までにない厳しい旅になりました。
そのため、旅の途中で何回も足の具合が悪くなり対策を講じた結果、幸いにも効果が発揮され、いつもだと駅の下り階段は大変だったのですが、今日は普通に歩いて降りることができました。
また、今日は汗もたくさんかき、ペットボトルを500ml=6本、350ml=1本飲み、タオルハンカチもEi=サイズ(大)を3枚、Yumiさん=サイズ(中)を3枚使いました。
帰りのバスは、立ち通しでしたが、渋滞もなく案内された時間どおり25分と短い時間だったので、助かりました。
と、いうことで2カ月半ぶりの旧東海道夫婦二人旅は、無事に終わりました。
【次回の予定】
次回(第7回)は、「箱根町バス停から三島広小路駅まで」の14.43㎞の箱根西坂の山下りを行う予定です。
箱根西坂の下り坂は、転倒事故に気を付けるため、今回と同じようにトレッキング用の靴で歩こうかなと思います。
また、次回の旅では、今回割愛してしまった箱根町バス停での到着式と、当日の出発式を行う予定です。
そして、三島広小路駅の手前にある「桜屋」で、うなぎを食べたいと思います。
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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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