【天候】晴れ
【宿場】(07)平塚宿⇒(08)大磯宿
【行程】歩行距離=15.37㎞ 総距離=73.94㎞
014茅ヶ崎一里塚⇒(4.50㎞)⇒015馬入一里塚⇒(4.19㎞)⇒016大磯一里塚⇒(4.33㎞)⇒017
国府本郷一里塚⇒(2.35㎞)⇒JR二宮駅入口交差点
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第4回旅の宿場)
001 4回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第4回)
 第4回の旅ルート
 
(J
R茅ヶ崎駅・茅ヶ崎一里塚交差点 ⇒ 二宮駅・駅入口交差点)
001 第4回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
前日に装備チェックリスト(忘れ物の忘備のため)で持ち物や着る物の準備を行い当日の朝を迎えました。
04時25分、起床
目覚ましの音楽で目を覚まし、直ぐに寝室の窓を開けて天気の確認を行うと、心配無用の好天でホッとしました(これは毎回同じです)。

山行と街道旅に出掛ける時の朝の支度は同じで、起床⇒体重測定⇒洗面⇒Yumiさんの両足ケア(塗り薬を塗布)⇒着替えを行い、Yumiさんが着替えをしている時、それを横に見ながら自分の足ケアの薬塗布⇒着替え⇒持ち物の再確認を行います。
そして先に着替えたYumiさんが朝食の支度をします。
私は山行や街道旅の時は、腹持ちの良いお餅を所望するのですが、お餅が好きでないYumiさんに拒否されてパン食になります。
認知症を発症してから料理のレパートリーが少なくなったり、作る速度が遅くなるなど、私が手伝うことが増えてきています。
Yumiさんが用意した朝食を食べ、トイレなどを済ませて出発しました。
《移動》
05時50分、自宅発
東海道の旅のために購入したウォーキングシューズを履いて家を出発し、自転車で最寄り駅に向かいました。
樹木に覆われた公園の中を、早朝の冷たい空気を受けながら走るのは実に気持ち良く、同年輩以上の方々が思い思いに走ったり、歩いたりしてしている姿を眺めながら最寄り駅に着きました。
最寄り駅で電車に乗り、途中で電車を乗り継いで出発地の茅ヶ崎に向かいましたが、乗り換え駅で電車を待つ時間を利用して、ICカードにチャージしホームのベンチに座って電車を待っていました。
 ※乗り換え駅のホーム
03 小田急多摩センター駅ホーム
《忘れ物》
電車が入線してきたので乗る準備を始めると、地図や行程等の旅の資料を綴ったバインダーがありません。
「どこに置いてきた」と動いたところを思い出し、先ほどICカードにチャージした時と思い、チャージ機のところに急ぎ戻りました。
Yumiさんには「すぐ戻るから」言って動いたのですが、一人になると不安になるのか、何が起きたのか理解できないまま、私の後を追いかけてきました。
幸い、地図などの資料一式を綴ったバインダーは、そのままの状態で置かれており事なきを得ましたが、予定していた時間の電車に乗れなくなったため、出発地の茅ヶ崎駅には予定していた時間より約25分遅れて到着しました。
08時26分、茅ヶ崎駅着
【=旅=】
下車した茅ヶ崎駅でトイレを済ませ、出発地の茅ヶ崎一里塚交差点に向かい、出発地を記したパネルをYumiさんに掲げてもらい、第4回の出発式を行いました。
08時37分、014茅ヶ崎一里塚跡(出発地)=左側
07 出発地(茅ヶ崎一里塚)
今日も暑い日になりそうな感じがする中、まだ朝の涼しい爽やかな時に出発しました。
国道1号の茅ヶ崎警察署前信号、南湖入口信号を通り一里塚跡から約1.7㎞歩くと、安藤広重の東海道五十三次の風景版画にも描かれた「南胡の松原左冨士」で有名な、千川に架かる鳥井戸橋がありました。
09時03分、南胡の左富士(左側)
08 南胡の左富士=鳥井戸橋
天気は晴れて青空なのですが、山並みは積乱雲に覆われて富士山にはご対面できませんでした。
東海道のうちで京に向かって左手に富士山を見ることができる場所は、ここ(茅ヶ崎・南湖)と吉原(静岡)の二か所が有名で、茅ヶ崎の名所となっていたので残念でした。
鳥井戸橋を渡り約600m歩くと、国道1号に交差して新湘南バイパスの下を流れる小出川がながれ、橋の手前の茅ヶ崎西インター信号の左側に旧相模川橋脚が保存されている池がありました。
09時14分、旧相模川橋脚(左側)
13 旧相模川橋脚
大正12年(1923)9月と13年1月の大地震で7本の橋脚が地上に露出し、その後地下に埋もれていた3本が発見されました。
相模川は鎌倉時代にはこの辺りを流れていましたが、川筋の変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま約700年を経て、再び地上に露出しました。
橋長は少なくとも7m(4間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられています。
小出川に架かる橋を渡り約1.1㎞歩くと、新田入口信号があり、信号のところに茅ヶ崎市から平塚市に入る市境標識が建っていました。
09時33分、市境標識(茅ヶ崎市⇒平塚市)=左側
15 平塚市境標識
市境から約100歩く相模川(馬入川)に架かる馬入橋となり、右手に大山、左手に相模湾の河口が見えました。
馬入橋を渡って真ん中辺りに来ると、日本橋から62㎞の距離標が建っていました。
09時38分、62㎞距離標(左側)

19-2 相模川橋=62㎞ポイント
Yumiさんと交代で写真を撮っていると、一度通り過ぎた自転車の男性が戻ってきて、「シャッター押してやるよ」と云ってYumiさんと二人の写真を撮って下さいました。
旧東海道の旅に出て今日で4日目ですが、始めて声を掛けて頂きました。
馬入橋を渡り、工業団地入口信号を過ぎると次の馬入交差点で旧東海道と国道1号が分岐し、分岐したところの左側に、日本橋から15番目の一里塚跡の石碑が建っていました。
09時48分、015馬入一里塚跡(左側)
20 馬入一里塚
一里塚跡で、帽子を脱いでバンダナに変えるとともに、約5分休憩し、平塚駅近くの紅谷町公園の中に祀られているお菊塚を目指しました。
1.0㎞先の平塚駅前交差点を過ぎ、そこから約200m歩いた右側の三井住友銀行の次の十字路を左折し、2本目の十字路右折、最初の左に入る路地を進むと紅谷町公園があり、公園の中にお菊塚碑が建っていました。
10時12分、お菊塚碑(左側)
23 お菊の碑
伝承によると、お菊は平塚宿役人真鍋源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあり切り殺したと伝えられている。
一説によると、旗本青山主膳の家来がお菊を見染めたが、お菊が云うことを聞かないので、その家来が憎しみのあまり家宝の皿を隠し、主人にお菊が紛失したと告げたため、お菊は元文5年(1740)に手討ちにされてしまいましたが、お皿は後日発見され、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったそうです。
お菊塚から旧東海道に戻り市民プラザ前信号から約170m歩いた平塚市民センター手前右側の駐車場入口に、江戸見附跡碑が建っていました。
10時19分、平塚宿江戸見附跡(右側)

25 江戸口見付跡碑
慶長6年(1601)幕府は東海道に宿駅の制を布き、平塚宿はその当時から宿駅となり、入口に見附と称する塚を築き、城門に擬して石垣を積み、上に芝を張り、大きさは縦2m、横2.5m、高さ1.5m程で、街道を挟み北側と南側にあり、宿の東端であったことから江戸方見附と云われました。また、見つけの外を棒端といい、「従是西 江川太郎左衛門 御代官所 東海道平塚宿」と書かれた標柱などが建っていたそうです。
江戸方見附跡から約350m歩くと、右側に茅本酒店があり店の前の道路脇に脇本陣跡の石柱と解説パネルが建っていました。
10時26分、平塚宿脇本陣跡(右側)
28 平塚宿脇本陣跡
脇本陣は、享和年間(1801~1803)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830~1844)には24軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
そして、脇本陣碑から約100m歩くと右側に山口屋茶舗があり、店の前の道路脇に高札場跡の石柱と解説パネルが並ぶように建っていました。
10時27分、高札場跡(右側)
29 平塚宿高札場跡
高札とは、幕府や領主の法令や通達を書き記した木札で、その木札を掲示する場所として各宿場や村々に設置されていました。通常、土台部分は石垣固め、その上を柵で囲こみ、高札を掲げる部分には屋根が付いていたそうです。
高札場は24軒町のこの地に建っていて、長さ二間半(約5m)、横一間(約1.8m)、高さ一丈一尺(約3m)で、この高札場には、平塚宿から藤沢宿か大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
高札場跡碑が建っていた道路の反対側に東問屋場跡碑が建っていたので、Yumiさんに待っていてもらい車の合間をぬって道路を横切り写真を撮って記録に残しました。
10時28分、東問屋場跡(左側)
30 平塚宿東組問屋場跡
中央の白丸=道路の反対側で待つYumiさん
右の白丸=高札場跡碑
慶長6年(1601)、東海道の交通を円滑にするため伝馬制度が布かれ、伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋主人・名主・年寄・年寄見習い・帳附・帳附見習い・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人などが10余人以上が勤務していました。
平塚宿でも問屋場が置かれましたが、寛永3年(1635)に参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量が激増し伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出、慶安4年(1651)に許可され問屋場を新設しました。
従来からの問屋場を「西組問屋場」、八幡新宿の問屋場を「東組問屋場」といい、両問屋場は10日目交替で執務したそうです。
東問屋場跡碑の写真を撮り、Yumiさんの待つ道路の反対側に戻り先に進みました。
そして、約50m歩くと
3年前に東海道の旅で平塚宿を通った親子のことをHPで知り、平塚宿に来た時に同じ写真を撮って三年後の写真を送信したいと思っていました(帰宅後、写真を送信させて頂きました)。
看板は、三年の間、厳しい風雨にあったようで、かなり傷んでいました。
さぶちゃん
居酒屋から約60m歩くと右側に神奈川相互銀行平塚支店があり、入口手前に加藤本陣の石碑が建っていました。
10時32分、加藤本陣跡(右側)
31 平塚宿・加藤本陣跡碑
平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、現在の場所に間口約30m、奥行約68mの規模で建っていました。東に門と玄関があり、天皇や将軍大名などの御在所は上段の間でした。
記録によると、14代将軍家茂は文久3年2月と元冶2年5月の二回ここで休憩し、明治元年10月と2年3月の二回、明治天皇が東京行幸と遷都の時に、ここで小休止されたと残っている。
本陣跡から約160m歩くと分岐となり、西中町交番の右側の細い道を進むのですが、分岐になる処の右側に消防団の建物があり、その右角に西組問屋場跡の石柱が建っていました。
10時35分、西組問屋場跡(右側)

34 平塚宿西組問屋場跡
解説は「東組問屋場跡」を参照
西組問屋場跡碑がの近くの消防団の脇を右折して約130m歩くと、左側に要法寺があり、寺院の右側の公園のような敷地の中に、石柱で囲まれて「平塚の碑」が建っていました。
10時41分、平塚の碑(右奥)
38 平塚の塚碑
江戸時代の天保11年に幕府によって編さんされた「新編相模国風土記稿」に里人の云い伝えとして記されました「桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした天安元年(857)2月、この地で逝去したため柩をここに埋葬し、墓として塚が築かれました。その後、築いた塚の上が平になったので、里人はそれを「ひらつか」と呼んだとことが「平塚」という地名の起源となっているそうです。
平塚の碑から消防団のところまで戻り、消防団の建物に沿って分岐を右に進み、約350m先で国道1号に合流しました。
合流したところを左折し約90m歩くと古花水橋交差点があり、先ほど分岐した道路を渡ったところに上方見附跡の標柱が建っていました。
しかし、私とYumiさんは交差点を渡ってしまってから標柱を確認したため、写真を撮らずに通り過ぎてしまいました。
国道1号の進行右側を約300m歩くと、花水橋東信号があり橋の手前右側の階段を上がったところに平成の一里塚碑が建っていました。
10時53分、平成の一里塚碑(右側)
39 平成の一里塚
平成の一里塚は、江戸時代の道標となった一里塚を現代に蘇らせようと作られたもので、東海道の新しい道標として、また歩行者の休憩場所として整備されたそうです。
平成の一里塚の隣りが花水橋東交差点で、ここから右前方にお椀を伏せたような高麗山が見えました。
10時54分、高麗山(花水橋からの眺め)=右側
41 高麗山(後方)
高麗山は、平塚市と大磯町に跨る大磯丘陵の東端にある標高168mの山で、広葉樹の自然林が残り、21世紀に残したい日本の自然100選に選ばれています。
そしてもっと有名なのが、安藤広重の東海道五十三次の「平塚宿・縄手道」で、高麗山の姿が描かれていることです。
高麗山を右手に眺めながら花水川に架かる花水橋を渡り、花水橋信号から約150m歩いた次の高麗信号を越えた右側の道路脇に、茅葺屋根に連子格子と年代を感じさせる家が建っていました。
10時59分、茅葺屋根と格子戸の古民家(右側)
43 かやぶきの家(66㎞ポイント)
H26.09.11 再訪=茅葺屋根と格子戸の古民家
016 古民家(車内から)
茅葺屋根の古民家は日本橋から66㎞地点で、道路の反対側(進行左側)に66㎞の距離標が建っていました。
古民家から約180m歩くと右側に高来神社に通じる道がありましたが、立ち寄るのが億劫になりそのまま素通りし、約270m歩いて化粧(けわい)坂が始まる化粧坂信号に着きました。
街道はここで国道1号は左に、旧東海道は右側を進みます。
そして、化粧坂信号を過ぎて直ぐの右側に、そば処「車屋」があり、昼食に立ち寄りました。
11時05分~11時32分、昼食(車屋)=右側
45 そば処・車屋
少し早いかなと思いながら入りましたが、これが大成功で、入った時は好きな場所に坐れたのですが、少しすると続々お客がと入店してきて、私達が食べる時にはほぼ満席になっていました。
蕎麦屋さんですが、海老天が2本入っているというので、天丼(海老天が2本=@1,100円)を注文しました。
Yumiさんは大好物の海老天が入っていたので、ニッコリと満面の笑み。
天丼は揚げたてのカラッとしたエビ天で美味しかったのですが、蕎麦屋さんなので、次回来た時は天ざるを食べたいと思います。
店を出て直ぐの左側に黄色壁の民家があり、入口のところに虎御前の化粧井戸がありました。
11時32分、虎御前の化粧井戸(左側)

48 虎御前の化粧井戸
虎御前は平塚の黒部丘にあった遊女宿で生まれ、大磯の長者の家で遊女になりました(室町時代の遊女は芸達者でかなりの知識人として教養を身につけた女性で、売春婦的なものではなかったそうです)。
虎御前に恋した曽我の仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎で、若い頃から父の仇討ちを考え妻を持たずに虎御前に恋をしました。17才で十郎と一緒になり、19才の時に時十郎が仇討ちに行き、その場で切り殺され帰らぬ
人となりました。虎御前は箱根で出家し、高麗山の北麓に今でもある荘厳寺で供養を重ね、53年の人生を送ったと云われています。
その虎御前が、この井戸から水を汲んで顔を洗ったことから、虎御前の井戸と云われています。
虎御前の化粧井戸は、車屋から少し歩くのかと思っていたのですが、黄色壁の建物と頭にあったので、店を出て直ぐでしたが見逃さないですみました。
化粧井戸から約170m歩くと、右側に日本橋から16番目となる一里塚跡があり、標板が建っていました。
11時35分、016化粧坂一里塚跡(右側)

49 化粧坂一里塚
一里塚跡から約180m歩くと東海道線の脇に出て、そのまま線路沿いに進む道と、下って線路を潜る道に分岐します。
旧東海道は下って、竹縄架道橋と書かれた地下道潜って線路の反対側に出ました。
地下道のトンネルを抜けると今までの景色がガラッと変わり、松並木になっているのですが、大きな松の木がいまにも倒れそうな状態で道の上を覆っていました。
11時42分、斜め松(左側)
51 化粧坂の斜め松
写真の倒れそうになっている松の反対側(右側)に、大磯宿江戸方見附跡の標板が建っていました。
11時43分、大磯宿・江戸方見附跡(右側)

52 大磯宿・江戸見付跡
見附跡がある道は、東海道線で遮断されているため、車の往来が少なくのんびりした気分で歩いていると、国道1号に合流しました。
合流したところから約350m歩いた左側に、虎御前ゆかりの虎御石などがある延台寺があり立ち寄りました。
11時55分、虎御前参拝の竜神様(延台寺)=左側
54 虎御前祈願の竜神様(延台寺)
 ※虎御石碑
55 虎御石碑(延台寺)
安元元年(1175)、大磯の山下長者に一人の娘が生まれ、虎池弁財天に願をかけて授かった子だったので、「虎」と名付けられました。この時、弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内に御堂を建て、虎御石と名付けて大切にお祀りしていると、不思議なことに虎女の成長とともに石が大きくなったそうです。虎女は舞の名手として広く天下に知られるほどに成長し、曽我兄弟の兄十郎と恋仲になりました。
十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のお蔭で命が助かったので、「身替りの石」ともいう。曽我兄弟は富士の裾野で父の仇(工藤祐経)を討ち本懐を遂げて死に、虎女は兄弟の最後の地を訪ね「露とのみ消えにしあとを来て見れば尾花がすえに秋風ぞ吹く」と読んで庵をむすんで兄弟の菩提を延台寺で弔ったそうです。
延台寺に来る時は交差点の信号で道路右側から左側に渡りましたが、延台寺を出て次の史跡に行く時は、交差点がなかったので「Yumiさん、渡るよ」と声を掛けて車の合間に横切りました。
延台寺から約110m歩くとそば処古伊勢屋の脇に本陣跡の標板が建っていました。
11時58分、小島本陣跡(右側)

56 大磯宿・小島本陣跡
大磯宿には小島本陣、尾上本陣、石井本陣と3つの本陣があり、各本陣とも建坪230~250坪で、南本町東側にあった石井本陣は早くに閉店しますが、尾上本陣と小島本陣は幕末まで続きました。
小島本陣は北本町に、尾上本陣は南本町地福寺入口付近にあったそうです。

小島本陣跡から約40m歩くと、大磯消防署前信号があり、交差点の右側に中南信用金庫本店があり、建物の脇に尾上本陣跡の石碑が建っていました。
私とYumiさんは中南信用金庫に沿って本陣跡碑を左に見て直進し、島崎藤村が永眠している約40m先の地福寺に立ち寄りました。
12時02分、島崎藤村の墓(地福寺)=右側奥

58 島崎藤村の墓
島崎藤村は、昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中に頭痛を訴えて倒れ、翌8月22日午前零時35分、「涼しい風だね」という言葉を残し、行年71才で永眠され、本人の希望でここに葬られたそうです。
島崎藤村のお墓は境内の左手にあり、隣りには妻の静子さんが永眠しています。
お墓をお参りし、旧東海道に戻る手前で、尾上本陣跡の石碑に立ち寄りました。
12時05分、尾上本陣跡(右側)
60 大磯宿・尾上本陣跡碑
本陣跡から約170m歩くと、右側に「新杵」という菓子屋があり、立ち寄りました。
12時08分、菓子処・新杵(右側)
62 菓子屋「新杵」
新杵は、明治24年創業、4代目を数える老舗の和菓子屋で、吉田茂元首相ご用達の店だったようです。初代が東京の新杵という菓子屋で修行を積み、暖簾分けしてこの地に支店して店を開いたそうで、虎子饅頭や西行饅頭が有名です。
おやつに食べようと虎子饅頭と西行饅頭を注文しましたが、虎子饅頭は売り切れて買えませんでした。
残念!!
しかたなく西行饅頭を買い、店を出て斜め左の照ケ先海岸入口信号を渡り、約250m離れた照ケ崎海岸に海を眺めに行きました。
12時18分、照ケ崎海岸(左側奥)
63 照ケ崎海岸
 ※照ケ崎海岸・砂浜
65 照ケ崎海岸の浜辺
照ケ崎海岸に出て、目の前に広がる海を眺めましたが、陽差しが強く、眩しくて目を開けてられません。
海の近くを歩いているのですが、なかなか立ち寄ることができなかったので、良い思い出を作ることができました。
海岸から元きた道を照ケ先海岸入口信号まで戻り、交差点を左折するのですが、旧東海道は国道1号ではなく直角に曲がり1号より細い方の道を進みました。
この道は、約60mで右に曲がると約70mで国道1号に合流しますので、旧東海道に拘らない人は国道1号を歩くようです。
国道1号と合流すると直ぐ左側に、蒲鉾で有名な「井上蒲鉾店」がありました。
井上蒲鉾店は明治11年創業の老舗の蒲鉾店で、鎌倉にも支店がある行列のできる店として有名です。
私も蒲鉾とさつま揚げを買って帰ろうとしたのですが、相方のYumiさんに「暑いからダメ」と拒否されてしまい、この暑さの中、まだ数㎞を荷物持って歩くのもは嫌だなということもあり、Yumiさんの云うことを素直に聞いて素通りしました。
井上蒲鉾店から国道1号を約130m歩くと、鴫立沢信号の手前左側に鴫立庵があり、立ち寄りました。
鴫立庵は樹木に囲まれた中にあり、その手前に細い川が流れる鴫立沢があり、炎天下からきた私達には清涼となりました。
12時31分、鴫立沢(左側)
70 鴫立沢
鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つで、敷地内に建てられた石碑に銘文「著盡湘南清絶地」から湘南発祥の地とも云われている。
寛文4年(1664)、小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ」(西行法師)
鴫立庵は鴫立沢の直ぐ先にあり、入場料(@100円)が必要なことと、Yumiさんがまったく興味を示さない、庵に入るには靴を脱ぐ必要があるなどから、中に入らずに受付の手前で引き返しました。
鴫立沢信号を渡り、進行方向右側を約210m歩くと島崎藤村邸への案内看板が建っており、そこを右折して向かいました。
右折して約30m先の三叉路を右に進み、約40m先の十字路を左折、約70m歩いた三叉路の右側角に竹柵に囲まれており、左側に休憩できる小さい公園がありました。
12時42分、島崎藤村邸(右側奥)
72 島崎藤村邸
邸は、「静の草屋」と呼ばれ、大正から昭和初期にもともと別荘等に使用する貸家として建築されたもので、昭和16年2月からこの家を借り受けましたが、大変気に入ってその後購入し、亡くなるまで(2年半)過ごしたそうです。
鴫立庵では庵の中を見学しなかったので、島崎藤村の家は、邸内に入りひと通り中を見学しました。
旧東海道に戻り、約90m歩いた大磯中学校前信号を進行方向左側に渡ると、松並木になっていました。
12時50分、東海道松並木(左側)
76 東海道の松並木
 
東海道松並木・解説
74 東海道の松並木碑
東海道松並木の標板には、
「江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました、松並木は、今から約400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主により保護され、約150年前ころからはきびしい管理のもとに立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられたものです。
この松並木はこのような歴史をもった貴重な文化遺産です」
と記されていました。
松並木は、約400m続き、松並木が終わった先の滄浪閣前信号の前に、明治の元勲、伊藤博文の公邸であった滄浪閣があったことを記した石碑が建っていました。
12時57分、滄浪閣跡(左側)
78 滄浪閣
明治の元勲の伊藤博文の邸宅であった滄浪閣が、倒産のため立ち入り禁止になっていたのは、時代の流れとはいえ寂しいものでした。
滄浪閣から約1.3㎞歩くと国道1号と分岐する城山公園前信号があり、国道1号から別れて右折しました。
分岐するところに来るまでは、吉田元首相の家へ見学に立ち寄る予定でいましたが、暑さに負けて疲労感強く、早く休憩したいと思いながらYumiさんに聞くと、「行きたくない」と反対の声が返ってきたので、すぐに同調し見に行くことを割愛してしまいました。
※そのため、東海道の旅を終えた後、車で吉田邸を訪問し、史蹟を見学しました。
H26.09.11 再訪=吉田邸(吉田茂像)=左側
104 吉田像
城山公園前信号を真っ直ぐ全通り過ぎ、数十m先の左側を入ったところにあり、邸内全体を整備中で母屋も取り壊されたままでした。
吉田邸の詳細は、「H26.09.11 番外編 戸塚宿~箱根宿」に掲載しています。
信号から約100m歩くと大磯城山公園の石碑が建っている入口があり、城山公園まで上らずに入口脇の涼しい場所に腰掛けて休憩のおやつタイムにしました。
13時16分~13時27分、休憩(城山公園入口)=右側
81 城山公園入口
照ケ崎海岸に行く前に立ち寄った和菓子の新杵で買った西行饅頭をYumiさんと食べ、水分補給して休憩しました。
西行饅頭は、美味しいお饅頭だったので、また機会があったら食べたいと思います。
休憩を終え、最後のひと踏ん張りとザックを背負い出発すると直ぐにY字路の分岐となり、Y字路の真ん中に時計が掲げられた柱が建っており、その時計柱の左側を進みました。
時計柱から約50m先の本郷橋を渡ると、旧東海道は弧を描くような道になっていて、「小島姓」の表札の家が多く立ち並んでしました。
本郷橋から約650m歩くと、国道1号が直ぐ脇に接近し、旧東海道と平行になった辺りの左側に、日本橋から17番目の一里塚跡があり、標柱とパネルが建っていました。
13時38分 017国府本郷一里塚跡(左側)
83 国府本郷一里塚
国府本郷一里塚は、約200m江戸寄りにあり塚の規模は不明ですが、塚は東海道を挟んで左右一対で、塚の上には榎が植えられていたようです。
現在の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造されたものです。
 ※一里塚付近(歩いてきた方向に向けて)

85 一里塚附近
 国道1号と平行していた旧東海道が国道1号と合流する直前の左側に、大磯町から二宮町に入る町境標識が建っていました。
13時58分、二宮町境標識(大磯町から二宮町)
87 二宮町境標識
町境標識の直ぐ先の国府新宿信号で旧東海道は国道1号に合流し、ここから国道1号を歩くことになり、信号から約1.4㎞歩くと右側に二宮しおみクリニックがあり、その約60m先に塩海橋が架かり、右側の橋のたもとに塩海の名残りの碑が建っていました。
14時04分、塩海(しぼみ)の名残りの碑(右側)
88 塩海の名残り碑
塩海の名残りは、二宮は海に面した村のため、古くから海水による塩の精製が盛んだったことから、二宮町内の地名に塩海(しぼみ)が残っています。『新編武蔵風土記稿』によると「古この海浜にて鹽を精製す、依ってこの名あり」と記されています。
塩海橋から約450m歩くと、今日の旅の到着地になる二宮駅に入る二宮駅入口交差点に着き、交差点を渡ったところで今日の旅の到着の写真を撮り、到着式を行いました。

14時11分、二宮駅入口交差点(到着地)

89 二宮駅入口交差点
今日は、梅雨に入ったとのことでしたが、梅雨の晴れ間の青空に恵まれて旅することができましたが、とにかく暑くて私もYumiさんもバテバテ状態でした。

到着式を行った後、約100m離れた二宮駅に向かい、東海道線、小田急線を利用して、家に帰ってきました。
14時26分、二宮駅発
14時47分、藤沢駅着
15時04分、小田急藤沢駅発
【夫婦の小争い】
今日の道中で、Yumiさんと衣服調整をめぐって、何回か夫婦の小争いがありました。
《衣類の脱着》
薄地の長袖シャツに、長袖のポリエステルパーカー(ユニクロ)を着て歩いていたのですが、パーカーが汗ばんできたため脱ぐように話したのですが、「寒くて風邪を引く」とか、「私とお父さんは違うのだから」と拒絶反応。
今のYumiさんは寒暖機能が低下しているため、汗をかいても一人で衣服調整が出来なくなっているので、私が介助しているのです。
しかし、本人はいたって正常と思っているので、衣服調整ではほとんど意見が相違します。
そのため、私は少し強引ですが、「はい、脱いで」と云いながら脱いでもらいます。
Yumiさんからブーブー文句が出ること、出ること。
今日も、ブーブー文句がしばらく続いていましたが、段々と風が無くなって暑くなってきたので、寒いということがなくなり大人しくなりました。
なお、脱いだパーカーは帰りの二宮駅から藤沢駅に移動する車内で、バックから出して着ていました。
《史跡見学》
史跡などに立ち寄っても全然興味がなく、すぐ先に行こうとなり、パネルや石碑などは写真だけ撮って「はい、次」になります。
小争いになったのは、鴫立庵で靴を脱いで室内に入り、また靴を履くことに「ああ」とか、「こう」とか云って拒否反応を示しました。
私は「歩いているだけでは何の楽しみもないじゃない」と思うのですが、今のYumiさんに云ってもしょうがないと思いながら云ってしまいました。
ところが、云ったことが少し理解したような
反応は示してくれたので、救われました。
次回の旅から、Yumiさんに旅の概要を直前に話しみようかと思います。
結果はどうなるか、お楽しみです。
【次回の予定】
次回(第5回)は、6月30日(土)に「二宮駅入口交差点から入生田駅前までの14.97㎞」を旅する予定です。

梅雨の晴れ間を期待していますが、雨模様の場合は順延します。
どのような旅になるのか、楽しみです



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【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/

 

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURでご覧いただけます。
  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/