【天候】晴れのち曇り
【宿場】(02)川崎宿 ⇒ (03)神奈川宿 ⇒ (04)保土ヶ谷宿 ⇒ (05)戸塚宿
【行程】歩行距離=18.54㎞ 総距離=38.26㎞  

川崎・砂子交差点 ⇒ (2.1㎞) ⇒ 005市場一里塚 ⇒(4.255㎞) ⇒ 006東子安一里塚 ⇒ (3.860㎞) ⇒
007神奈川一里塚 ⇒ (4.822㎞) ⇒ 008保土ヶ谷一里塚 ⇒ (3.207㎞) ⇒ 009品濃一里塚 ⇒ (0.3㎞)
⇒ 東戸塚・福寿歩道橋入り口
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第2回旅の宿場)
07 2回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第2回)
 ↓
第2回旅のルート
 
(J
R川崎駅・砂子交差点 ⇒ JR東戸塚駅・福寿歩道橋入口)
第2回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  
〔※①〕=令和03(2021)年 2月28日
【旧東海道の旅】

《序章》
当初、3月31日(土)で計画していたのですが、天気予報が雨模様とのことだったので急遽、今日に順延すると旅
日和の天候に恵まれました。
《移動》
セットした目覚まし時計の音楽で起床し、いつもと同じように出掛ける支度を進め、Yumiさんに声を掛けて家を出発しました。
07時19分、JR川崎駅着
JR川崎駅に着くとYumiさんが”トイレに行きたい”というので、駅のトイレを探したのですが見付からず京急川崎駅のトイレを借りることにして、京急川崎駅の駅員さんにトイレ使用をお願いすると快諾下さり、トイレの場所を教えて下さったり、改札内に入れて下さいました。
トイレを済ませスッキリした二人は、親切な駅員さんにお礼を云って、前回ゴール地点の砂子交差点に向かいました。
出発地の砂子交差点に立ち出発式(出発の看板を掲げて写真撮影)を行いたかったのですが、なかなか良いシャッターチャンスがなく、撮れたのは構えてから3分後でした。
【=旅=】
07時34分、川崎駅・砂子交差点(出発式)
01 川崎宿 砂子交差点 出発記録
出発式の後、砂子交差点を渡.ると「旧東海道 いさご通り 川崎宿」の看板が建っていました。
 ※①=旧東海道 いさご通り看板(左側)
005 現在いさご通り
いさご通りを進むと左側に東海道と大師道案内図が建てられていました。
 ※①=東海道・大師道案内図(左側)
006 東海道と大師道案内図
案内図から約30m歩くと右側にコンビニ(セブンイレブン)があり、店内ガラス面に佐藤本陣があったことを記した標板が掲げられていました。
 ※①=佐藤本陣跡(右側)
007 佐藤本陣跡
《佐藤本陣》
川崎宿にあった3つの本陣(大名や公家専用の大旅館)の一つで、別名を惣左衛門本陣と云われ、門構え、玄関付き、181坪の建物だったそうです。幕末には14代将軍家茂が、京に上る祭に宿泊したことで知られています。平成19年(2007)に説明板が設置されました。
佐藤本陣跡標板から約20m進むと左側に川崎信用金庫本店があり、十字路左角に佐藤惣之助の記念碑が建っていました。
07時38分 川崎信金・佐藤惣之助生誕の地碑(左側)
03 佐藤本陣跡? 佐藤惣之助レリーフ
佐藤惣之助は大正時代に活躍した詩人で歌謡曲の作詞家として有名で、代々本陣職を務めてきた佐藤家の生まれで、昭和54年(1979)に生誕地に建てられました。
川崎信金本店前の佐藤惣之助碑から交差点を渡ると左側に川崎市消防団第二分団の車庫があり、車庫の手前の歩道沿いに旧橘郡役所跡があり、記念碑が建っていました。
 ※①=旧橘郡役所跡(左側)
009 旧橘郡役所跡
橘郡役所跡から約170m歩くと小土呂橋交差点で、交差点を真っ直ぐに渡った右角に小土呂橋跡があり、親柱が2本残されていました。
 ※①=小土呂橋跡(右側)
010 小土呂橋跡(親柱)
小土呂橋跡から約350m歩くと信号の有る三叉路で、右側の駐車場角に京口土居(見附)跡があり、解説板が建っていました。
 ※①=京口土居(見附)跡=右側
011-2 跡碑011 京口土居跡
京口土居から川崎警察署東側入口交差点を過ぎるなど、約400m歩くと左側に芭蕉ポケットパークが設けられていました。
 ※①=芭蕉ポケットパーク(左側)
013 芭蕉ポケットパーク
芭蕉ポケットパークから約180m歩くと、京急本線に突き当たる手前右側に芭蕉句碑が建っていました。
07時59分、芭蕉句碑(右側)
05 松尾芭蕉句碑014-2 解説
芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵を立ち、郷里の伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」に託しました。
芭蕉は同年10月、大坂で「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句を残し、51歳の生涯を閉じました。
芭蕉句碑から約10m進むと、右側に地蔵尊が祀られていました。
 ※①=地蔵尊(右側)
015 地蔵尊
地蔵尊から右方向に約90m歩くと京急本線の踏切があり、左に側の八丁畷駅改札を見ながら踏切を渡り、駅に沿って約40m歩くと左側に無縁仏を祀った人骨供養塔がありました。
016 分岐(八丁畷駅)
 
※①=人骨供養塔(左側)
017 無縁塚
人骨供養塔から約300m歩くと市場上町交差点があり、交差点手前が川崎市と横浜市の市境ですが、市境を表示する標識は見当たりませんでした。
 ※①=市境(川崎市と横浜市)
018 川崎市と横浜市の市境
市場上町交差点を真っ直ぐに渡り約300m進むと右側に熊野神社が祀られており、注連縄が七五三縄と云うので見ようと思いましたが、見当たりませんでした。
 ※①=熊野神社(右側)
019 熊野神社 019-2 本殿
熊野神社から約290m歩くと左側に市場橋バス停があり、その少し先に日本橋から5番目の一里塚跡碑が建っており、奥の段上に稲荷社が祀られた市場一里塚跡がありました。
08時16分、005市場一里塚跡碑(左側)
08 市場一里塚
市場一里塚は、江戸より5里目の塚で、明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ左側の塚が現存し、昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたそうです。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」の碑が建立され、平成元年(1989)に横浜市地域文化財として登録されました。
一里塚から約180m歩くと右側に庚申堂が祀られており、約20m先に下町稲荷が祀られていました。
 ※①=庚申堂(右側)
021 庚申堂
 ※①=下町稲荷(右側)
022 下町稲荷
下町稲荷から約170m歩くと鶴見川に近代的な鶴見川橋が架かり、たもとに桜が咲いていましたので、水分補給を兼ねて小休憩を取りました。
08時25分、鶴見川橋
13 鶴見橋手前 023 鶴見川橋
鶴見川橋は、徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)頃に架けられたと云われており、東海道とほぼ同じ歴史があります。大正末期頃までは鶴見橋の名前で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋(六郷橋が架かる多摩川は元禄元年の大洪水以降は渡し船)で、長さ25間、幅3間と云われていました。
鶴見川橋を渡り約20m進むと、左側に石造のベンチがあり、その後方に鶴見橋関門旧跡碑が建っていました。
08時32分、鶴見橋関門旧跡碑(左側)
15 鶴見橋関門旧跡 024 鶴見川橋関門旧蹟碑
鶴見橋関門は、安政6年(1859)6月、横浜開港とともに外国人に危害が及ばないようにするため、横浜への主要道路筋の要所に、開門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まるため、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅4間(約7m)を除き左右に杉角材を立て、大貫を通し、黒渋で塗られていました。
鶴見橋関門から約130m歩くと信号のある交差点で、交差点を渡った右側の鯉ケ淵公園の前に寺尾稲荷道の複製道標(本物は鶴見神社の境内にある)が建っていました。
 ※①=寺尾稲荷道道標(複製)=右側
025 寺尾稲荷道道標(複製)
寺尾道道標から約60m歩くと右側に鶴見図書館があり、図書館の前に東海道分間延絵図がありました。
 ※①=東海道分間延絵図(右側)
東海道分間延絵図から約180m歩くと区役所前通りの十字路で、真っ直ぐに渡って最初の十字路を右折すると約50m先に鶴見神社があり、参拝と本物の寺尾道道標があるので立ち寄りました。
神社の境内を進み本殿に参拝し、本殿右側に祀られている諸神社の間に寺尾道道標が建っていました。
 ※①=鶴見神社・本殿         (写真右)=境内に祀られている諸神社
027 鶴見神社 027-2 境内に祀られている神社
 ※①=寺尾稲荷道道標(右側)
028 寺尾稲荷道道標(本物)
鶴見神社を出て歩いて来た道を戻らずに分岐を右方向に約90m歩き、街道に合流しました。
合流した処の左側に鶴見村で最も大きな茶屋で江戸名所図会にも描かれている信楽茶屋跡(現在は同じ名前のラーメン店になっています)ありました。
 ※①=信楽茶屋跡(右側)
029 信楽茶屋跡
街道に合流した右側に、身禄道碑が建っていました。
 ※①=身禄道碑(右側)
030 身禄道碑
身禄道碑から約120m歩くと右側にマンション(ネオマイム鶴見)があり、建物の前に鶴見村の名主だった佐久間家跡がありました。
 ※①=佐久間家跡(右側)
031 名佐久間家跡碑 031-2 名主佐久間家跡
佐久間家跡の道路反対側に咳の特効薬「苦楽丸」で知られた鶴居堂跡(現ナイス住まいの情報館前)があり、跡碑が建っていました。
 ※①=鶴居堂跡(左側)
032 鶴居堂跡
鶴居堂の名前は、丹頂鶴が庭内に舞い降りたところから屋号としたそうです。
鶴居堂跡から約110m歩くと県道104号の東口中央通りの京急鶴見駅(西口)前の交差点となり、
 ①.交差点を渡る
 ②.渡った処を左折
 ③.京急線を潜り高架駅に沿って右折し、ベルロード鶴見商店街に入る
 ④.京急鶴見駅東口を右に見て(京急線の左側)進む
と、③.のベルロード鶴見商店街に入るところを右折して約80m歩くと、右側にパン工房・エスプランの前にさぼてん茶屋跡の石碑が建っていました。
 ※①=さぼてん茶屋跡(右側)
034 さぼてん茶屋跡
さぼてん茶屋跡から約550m歩くと第一京浜国道の下野谷町交差点(五差路)があり、第一京浜国道を斜めに横切りました。
そして第一京浜国道を渡った処から約180m歩くと鶴見線のガードがあり、潜って進むのですが、ガード下に高架駅になっている国道駅の入口がありました。
 ※①=鶴見線のガード          ※①=ガード下の国道駅入口(右側)
035 JR国道駅ガード 035-2 国道駅入口
国道駅のガードを過ぎると、道の両側には鮮魚・海産物店が立ち並び市場のような感じで、キョロキョロと
店舗を眺めながら歩きました。
 ※①=生麦魚河岸通り
036 生麦魚河岸し
住んでいる処にはない景観で旅に出て知ることが出来たので、機会があったらまた来たいと思いました。
そして再訪で光景を眺めることを楽しみにしていたのですが、店舗の休日だったようで楽しみにしていた魚河岸の賑やかさを味わうことは出来ませんでした。
JR鶴見線国道駅のガードを過ぎた処から約190m歩くと、右側に慶岸寺があり、参道口に子育地蔵尊が祀られていました。
 ※①=子育地蔵尊(右側)
037 子育地蔵尊
子育地蔵尊から約600m歩くと、右側の民家(池谷家)のブロックの塀に「生麦事件発生現場標板」が掲げられていました。
09時08分、生麦事件発生現場標板(右側)
19 生麦事件発生現場
この辺りは進行左側にはキリンビール横浜工場となっており、第一京浜国道に合流する生麦一丁目交差点(第一京浜国道に合流点)の左側にキリン横浜ビアビレッジの入口が出来ていました。
 ※①=キリン横浜ビアビレッジ入口(左側)
039 キリン横浜工場入口
キリン横浜ビアビレッジ入口を通り過ぎた先の左側に、生麦事件ゆかりの井戸跡があり保存されていました。
 ※①=生麦事件ゆかりの井戸跡(左側)
040 生麦事件ゆかりの井戸跡
井戸跡の約20~30m先の左側に、一時生麦一丁目交差点の手前右側に移動していた「生麦事件碑」が、元の場所に祀られていました。
09時16分、生麦事件碑(右側) ➡ 写真右側=※①に移動を確認
20 生麦事件碑 041 生麦事件碑
生麦事件は、文久2年(1862)8月21日午後2時、薩摩藩の島津久光が護衛として同行する江戸に赴く大原勅使一行の行列を横切ろうとしたイギリス人一行を生麦で殺傷した事件で、薩英戦争の契機になりました。
明治16年、鶴見の黒川荘三が遭難の碑を私費で建立しました。
生麦事件碑の直ぐ先の右側にキリンビールの工場見学と試飲させて頂けるキリンビアビレッジの入口がありましたが、コロナ禍の影響で閉門されていました。
 ※①=キリンビアビレッジ入口(左側)
042 キリンビアビレッジ入口
キリンビアビレッジから第一京浜国道の左側を約210m歩くと滝坂踏切入口交差点があり、先々の史蹟は右側にあるため、進行右側に渡りました。
進行右側を約240m歩くと子安通り交差点があり、この辺りに日本橋から6番目の一里塚があったと云われていますが、標示が何もないので確認できませんが資料の情報を信じて交差点付近の写真を撮って記録に残しました。

09時35分 006東子安一里塚(標示なく確認できず)
043 東子安一里塚付近
〔※①の注記〕
Yumiさんと歩いた時は進行左側を歩きましたが、※①の再訪は進行右側を歩き街道から離れるなどして史蹟巡りしました。
〔Yumiさんと歩いた時〕
川崎を出発してから2時間、トイレ休憩を取っていないので、Yumiさんに声を掛け日石G/Sでトイレをお借りしました。
トイレを貸して頂こうと店舗に入りましたが、給油などが忙しそうだったので、そのままトイレをお借りしました。
ガソリンスタンドを出て国道に戻り道路沿いに建ち並ぶマンション群を眺めながら国道の左側を約2㎞歩くと出田町交差点があり、ここで進行方向右側に渡りました。
〔※①の史蹟巡り-そのⅠ〕
子安通り交差点から約40m歩くと遍照院の参道入口があり、参道の途中を京急が走っていました。
旧東海道の大津宿の關蝉丸神社と同じように、境内直前の場所を電車が走っているので、写真を撮りに立ち寄りました。
 ※①=遍照院参道の踏切(右側)
044 遍照院境内の踏切
遍照院参道入口から約500m歩くと新子安橋下交差点があり、交差点の先に日本橋から26㎞の距離標が建っていました。
 ※①=26㎞距離標(右側)
045 26㎞距離標
距離標から約450m歩くと、入江川に架かる入江橋があり、資料には橋の手前右側に庚申塔があると記されていましたが、見過ごしてしまいました。
 ※①=入江橋
046 入江橋
入江橋を渡り京急の京浜子安駅(右側)や子安通一丁目交差点などを通り過ぎるなど約750m歩くと、浦島町交差点があり、さらに交差点から約90m先の右側に特製もりそばで有名な大勝軒があり、店舗に沿って右折して約30m進むと左側に神奈川東通公園があり、公園入口にオランダ領事館跡碑が建っていました。
 ※①=オランダ領事館跡碑(右側)
048 オランダ領事館跡 048-2 オランダ領事館跡
〔Yumiさんと歩いた時〕
浦島町交差点の1つ先の出田町入口交差点を進行左側から右側に渡り、オランダ領事館跡碑が建っているという神奈川東通公園を探しましたが、公園の場所が分からなかったので、そのまま先に進み神奈川地区センターを目指しました。
〔※①の史蹟巡り-そのⅡ〕
神奈川東通公園のオランダ領事館跡碑を見た後、同じ道を街道に戻り、約600m歩くとマンション”クリオ東神奈川参番館”の先隣りを右折すると、約30m先に神奈川小学校の校壁があり、壁面に東海道神奈川宿のタイル画が描かれていました。
 ※①=東海道神奈川宿タイル画(右側)
049 神奈川宿タイル画
壁画から街道に戻り約220m歩くと神奈川二丁目交差点で、京急仲木戸駅に向かって右折し、2本目の路地(約80m先)を左折し左側の熊野神社と金蔵院の間を進み、左側に東神奈川公園を見ながら約220m真っ直ぐに歩くと神奈川地区センターがあり、地区センターの前に高札場跡の複製が飾られていました。
 ※①=高札場跡(神奈川地区センターの前)
050 高札場(複製)
〔Yumiさんと歩いた時〕
神奈川地区センターは出田町入口交差点から約850m先の左側にあるベンツ販売店を手前を右折し、約90m先の2本目の十字路の左側にあり、神奈川宿の模型が展示されていました。
10時15分、横浜神奈川地区センター(神奈川宿の模型)=右側 写真右=※①再訪時
22 神奈川宿模型 051 神奈川宿模型
地区センターは土足禁止のため入口で靴を脱ぎ、入場者名簿に記帳をして中に入ると、窓際にケースに入った模型が展示されていました。
私は、ここに神奈川宿に関する資料が数多く展示されているのだろうと思い込んでいたので、いささか肩透かしをくった感じになり、早々に失礼し街道に戻りました。
〔※①の史蹟巡り-そのⅡ〕
地区センターを出て右手方向に進み、地区センターに沿って右折し、最初の十字路を左折して成仏寺に行きました。
成仏寺は外国宣教師が宿舎にしたところで、門前左側に跡碑が建っていました。
 ※①=外国宣教師宿舎跡(成仏寺門前)
052 外国宣教師宿舎跡碑 053 成仏寺
跡碑から約100m歩くと滝の川に突き当るT字路となり、右折して約70m歩くと京急本線のガードで、ガードを潜った先の右側に浦島太郎が乙姫様から頂いたと云われる菩薩像があると伝わっている慶運寺があり、門前手前の右角にフランス領事館があったところで跡碑が建っていました。
 ※①=フランス領事館跡(慶運寺門前右側)
054 フランス領事館跡碑 054-2 場所確認用
 ※①=慶運寺・本堂
055 慶運寺・本堂
慶運寺を出て京急本線のガードを潜り滝の川に沿って約180m歩くと、右側に滝の川に架かる土橋があり、土橋を渡りながら川面を見ると鴨の群れが泳いでいました。
 ※①=滝の川の鴨の群れ(土橋右側)
056 滝の川の鴨の群れ
土橋を渡り約10m先の分岐を右折すると約60m先に浄龍寺があり、江戸期~明治期にイギリス領事館があった場所で、門前左側にイギリス領事館跡碑が建っていました。
 ※①=イギリス領事館跡(浄龍寺・門前左側)
057 イギリス領事館跡碑
イギリス領事館跡碑から土橋を渡った橋のたもとに戻り、滝の川沿いに約70m歩くと、川沿いの左側に神奈川本陣跡があり、跡碑が建っていました。
一方、Yumiさんと歩いた時は、地区センターから街道に戻り(メルセデスベンツ横浜東と神奈川マツダの間)、右折して約190m先の滝の橋交差点先の滝の川を渡ったところを右折し、約40m先の右側(当時は材木店が左側にありましたが※①の再訪時には取り壊されていました)に本陣跡の標板が建っていました。
10時30分 写真左=神奈川本陣跡碑(右側)   写真右=※①再訪時
24 青木本陣跡標板 058 神奈川本陣跡
神奈川本陣跡碑前の路地を右折して約50m進むと右側に宗興寺があり、門前左側に開港当時アメリカ人宣教師で施療所を開いたヘボン博士の解説標板が建っていました。
 ※①=ヘボン博士解説標板(宗興寺・門前左側)
059 ヘボン博士碑 059-2 場所確認用
へボン博士解説標板から宗興寺に沿って約20m、左折して約30m進むと、左側に神奈川の大井戸跡があり、解説標板が建っていました。
◆ヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」で知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行い、明治学院を創設するなど我が国の教育に尽くしました。
 ※①=神奈川の大井戸跡(左側)
060 神奈川の大井戸跡
◆大井戸は徳川将軍や明治天皇も飲まれた水と云われ、水の量が増えると翌日の天気が良くなると云われ、街道を通る旅人は「お天気井戸」と呼んでいました。
神奈川の大井戸跡から神奈川本陣跡に戻り、滝の川に沿って約40m進むと街道の滝の橋です。
突き当たった街道を左折して滝の橋を渡った処の滝の橋交差点を右折(街道を領事館跡などを立ち寄らないで真っ直ぐに進んで来た時は滝の橋交差点を左折して渡る)して渡りました。
 ※①=分岐(滝の橋交差点を右折して渡る)
061 滝の橋交差点
滝の橋交差点を渡り、右折して滝の橋を渡り約70m進むと中央市場入口交差点があり、交差点手前の歩道橋階段の所を左折した左側角に「青木本陣跡」があり、跡碑が建っていました。
 ※①=分岐(滝の橋を渡り、歩道橋階段の所を左折)
062 滝の橋 063 歩道橋
 ※①=青木本陣跡碑(中央市場入口交差点・左角)
064 青木本陣跡
青木本陣跡碑から交差点に架かっている歩道橋を上り、街道の進行右側に渡りました。
歩道橋を下り約30m進むと右側に幸ケ谷小学校があり、学校の塀に創立80周年記念の卒業制作として”幸ケ谷夢の水族館 お魚フェスティバル”が描かれていました。
 ※①=幸ケ谷小学校の壁画(右側)
065 幸ケ谷小の壁画
壁画を右側に見ながら約50m歩くと、宮前商店街入口のアーチがあり右折しました。
 ※①=分岐(宮前商店街入口アーチ)=右折
066 分岐
右折して宮前商店街を約90m進むと右側に洲崎神社が祀られていました。
 ※①=洲崎神社(右側)
067 洲崎神社
洲崎神社から約210m歩くと右側に京急本線の神奈川駅があり、駅入口左側に、神奈川宿歴史の道碑が建っていました。
 ※①=京急本線・神奈川駅(右側)
068 京急神奈川駅 069 神奈川宿歴史の道碑
京急本線神奈川駅を過ぎると、鉄道(東海道線、京浜東北線、京急本線)を跨ぐ青木橋が架かっており、電車を見ながら青木橋を進み
070 青木橋071 青木橋からの眺め
第二京浜国道を渡り、渡った処を左折(写真左)し、約70m先の左側の仁保ビル手前の小路を右折して進みました。
 ※①=第二京浜国道を渡り左折    ※①=仁保ビル手前の小路を右折
072 青木橋の分岐073 分岐(右折)
右折して約80m歩くと右側に大網金毘羅神社があり、参道入口の鳥居を潜って階段を上り本殿に参拝し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
 ※①=大網金毘羅神社(右側) 
074 神奈川一里塚跡 28 大網金刀比羅神社
また、鳥居の前に日本橋から7番目の一里塚跡があり、跡地に解説標板が建っていました。
10時46分、007神奈川一里塚跡碑(右側)
26 神奈川一里塚跡
神奈川一里塚跡から約80m歩くと左側にグレーシアハイム横浜台町があり、仕切り塀に神奈川宿袖ヶ浦図が掲げられていました。
 ※①=神奈川宿袖ヶ浦図(左側) 
075 神奈川宿袖ヶ浦図 075-2 場所確認用
神奈川宿袖ヶ浦図から約40m歩くと、左側に文久3(1863)年創業の料亭・田中屋がありました。
 ※①=料亭・田中屋(左側) 
076 料亭・田中屋
ここは安藤広重が描いた”さくらや”を買い取った店舗で、明治7(1874)年に勝海舟の紹介で坂本龍馬の妻・おりょうが田中屋に勤めるようになり評判になったそうです。
田中屋から約170m歩くと、上り坂の右側(マンション・グリーンテラス横浜の手前)に神奈川台関門跡碑が建っていました。
10時57分、神奈川台関門跡碑(右側)
30 神奈川台の関門跡
神奈川台の関門は、開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス 総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難しました。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化し、神奈川宿の東西にも関門が作られました。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門で、明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止されました。
季節は4月になりましたが、日陰に入ると風が冷たく感じられ、Yumiさんは着たり、脱いだり忙しく、
時間も11時頃で歩き始めて3時間30分経過するため、関門碑から約280m歩いた「かみだい橋」を渡ったところでザックを降ろし休憩しました。
11時03分~11時08分、休憩(かみだい橋)=写真は※①の再訪時
078 上代橋
ザックを担ぎ、約270m歩くと首都高速三ツ沢線西口ランプ入口があり、分岐を道なりに右方向(真っ直ぐ)に進みました。
 ※①=分岐(西口ランプ入口交差点):右方向
079 分岐(右)
西口ランプを左に見ながら約
550m歩くとT字路に突き当り、
080 分岐(左)
 ①.左折して約20m進むと宮谷小学校入口交差点
 ②.右折して交差点を渡る
 ③.渡った処を左折し
 ④.約20m先の最初の右側の小路を右折
081 分岐
ビルの間の細い道を約60m歩くと分岐があり、斜め右方向に進みました。
分岐から約750m歩くと右方向に進む分岐(旧東海道と旧八王子道の分岐=芝生追分)があり、道標が建っていました。
 ※芝生追分(右側)  ※写真右=黄矢印:旧東海道、赤矢印:旧八王子道
082 芝生追分 082-2 芝生追分
芝生追分から約140m歩くと賑やかな商店街となり、今までの静けさが嘘のような賑わいでした。
元気のない商店街が多くなっているなか、ここ「松原商店街」は別世界のような人出で、歩くのも大変です。
 ※①=松原商店街
083 松原町商店街 083-2
店頭に並んでいる商品を見ると、驚くような安さで、量もあり、人が集まる基本の形です。
買って帰りたかったのですが、荷物を持ってこの先歩くのは嫌だったので、キョロキョロと眺めるだけで通り過ぎたのですが、写真を撮っておけば良かったと思いました。
商店街を通り過ぎた松原商店街入口交差点に来ると、今までの喧噪が嘘のような静けさとなり、交差点を渡って約80m歩いた処が江戸方見附跡と云うので、跡地付近に解説標板が建っていました。
 ※①=江戸方見附跡
084 江戸方見附跡 084-2 解説
松原商店街入口交差点を渡ったところで、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」と云うので、相鉄天王町駅に向かいました。
江戸方見附跡から約130m歩くと右側に橘樹神社が祀られており、境内に明治天皇碑が建っていました。
 ※①=(写真左)橘樹神社 ・ (写真右)明治天皇碑
085 橘樹神社 086 明治天皇碑
橘樹神社から約80m歩くと帷子川に架かる帷子橋があり、通りすがりに川面を見ると鯉が群れていました。
 ※①=(写真左)帷子橋 ・ (写真右)帷子川の鯉の群れ
087 帷子橋 088-2 鯉の群れ
鯉が群れているのは橋から餌を与えているからと思います。
一時の感情で餌を与えることは如何なものでしょうか?
帷子橋を渡り約60m歩くと高架になっている相鉄線の天王町の駅があり、ガードを潜って進みました。
 ※①=相鉄線・天王町駅
089 天王町駅
さて、ガードを潜り天王町駅でトイレをお借りし、駅前の広場に出るとウォーク団体の人達が縁石に
座って昼食を食べていました。
11時49分、
旧帷子橋跡レプリカ
31 旧帷子橋レプリカ090 旧帷子橋(モニュメント)
旧帷子橋は、安藤広重の版画(東海道五十三次)によって広く世に知られており、近年までこの場所に残存していましたが、帷子川改修および相模鉄道の立体化などによってその姿は消滅しました。そのため、冬至の面影を残すため記念碑がされました。
私とYumiさんは保土ヶ谷駅近くの「そば処桑名屋」で蕎麦を食べる予定のため、帷子橋のレプリカを写真に撮り先に進みました。
ここから環状1号の幅広の道を約800m歩くと、保土ヶ谷駅に向かう分岐があり街道は右の細い道を進みます。
そして約170m歩くと右側に横浜帷子郵便局があるので、手前左側のケントパレスを左折し、突き当りを右折すると桑名屋がありました。
12時06分~12時46分、昼食(そば処桑名屋)=左側
34 そば処 桑名屋
ここの店主は旧東海道に造詣が深く、食後に会う予定のYさんとは懇意の方だそうです。
店主に挨拶すると、2階に地元の中学生が作った保土ヶ谷宿の資料が展示してあるので見て下さいと紹介され、待つ間、2階の展示物を見せて頂きました。
 ↓保土ヶ谷宿①
36 保土ヶ谷宿展(桑名屋2階)
 ↓保土ヶ谷宿②
37 保土ヶ谷宿(桑名屋2階)
良く出来ていたのでゆっくりと見たかったのですが、この後にYさんと会う約束があるので、先を急がせて頂きました。
また、食べたお蕎麦は香ばしい香りのする美味しいお蕎麦でした。
私=鴨せいろそば大盛り、Yumiさん=天ぷらそばで、2,625円
〔帽子がない〕
桑名屋を後にして歩き始めると、Yumiさんの帽子がないことに気が付き
 E=Yumiさん、帽子は?
 Y=ないの。何処にいったのか分からない
 E=Yumiさん、何処に行ったのではなく、蕎麦屋に忘れたのではないの?
 Y=???
はっきりと忘れた場所が分からないため、Yさんとの待ち合わせがあるため、新しい帽子を購入することでYumiさんも了承したので、そのまま進むことにしました。
街道に戻り、約200m先の東海道線を越えた先で国道1号に突き当り、信号を渡ったところに保土ヶ谷宿の軽部本陣跡がありました。
12時57分 保土ヶ谷宿・軽部本陣跡(左側)
38 保土ヶ谷宿・軽部本陣跡
軽部本陣は、初代苅部清兵衛がこの諸役を命じられ、代々清兵衛を名乗りました。苅部氏は小田原北条氏の臣苅部豊前守康則の子孫。三代吉重の室妙秀尼は樹源寺を開き、8代悦相は苅部姓と帯刀を永代許された。10代悦甫は横浜が開港されると町の責任者である総年寄りを命じられ、横浜町の発展に尽力しました。11代悦巽のとき明治3年に本陣が廃止され、軽部姓に変更しました。
本陣跡は、改修に向けた工事のためか、柵で仕切られていて見学することはできませんでした。
本陣から約100m歩くと左側に、旅籠・本金子屋跡がありました。
13時01分、旅籠・本金子屋跡(左側)
41 旅籠屋・本金子屋跡
この先の一里塚跡が、Yさんとの待ち合わせ場所です。
Yさんは旧東海道など五街道のマップをネットに公開しており、私はYさんが作成した旧東海道マップを旅で使うことから知り合い、一里塚のところで会うことになりました。
Yさんと会う時間が近付いてくると、ドキドキしながら歩くと、遠くにYさんの姿を確認しました。
13時06分、008保土ヶ谷一里塚跡碑・上方見附跡(左側)
43 保土ヶ谷一里塚
Yさんとは初対面でしたが、周りには人がいなかったのですぐ分かりました。
お互いに歩み寄り、挨拶をかわし、Yさんから保土ヶ谷一里塚の資料を頂いたり、説明を頂いたりと歓待して迎えて下さいました。
13時10分~13時25分、Yさんとの出会い
45 横溝さん(保土ヶ谷一里塚)
ところが、Yumiさんはまったく興味を示すことなく「早く行こう」と催促があり、この先に箱根駅伝で有名な権太坂(旧街道は駅伝とは違う道)が控えているので、15分程でYさんと別れました。
Yさんは、初めて会う私にいろいろとご心配やご配慮下さり、そのご厚意に甘えさせて頂きました。
Yさん、ありがとうございました。
さて、Yさんと別れ旧街道はこの先で右方向に進むため、サテンで右側に渡り保土ヶ谷二丁目信号で国道1号と分岐して右に進みました。
分岐から約750m歩くと元町ガードのT字路に突き当り、信号を渡ってから左に進み小さい川に架かる橋を渡って約80m歩くと右斜めに上っていく道があり、旧街道の権太坂になりました。
江戸時代の権太坂は、約1.5㎞続く箱根に次ぐ難所で行き倒れも多かったようですが、現在の権太坂はそれなりの傾斜はありましたが、イメージの方が強すぎたようです。
坂の途中の右側に光陵高校、左側の権太坂小学校を眺めながら権太坂を上りると、登り切った少し先を右折したところに「菓匠栗山」(横浜銀行境木支店の近く)があり、今日のおやつ用に「権太餅」と「団子」を購入しました。
資料で菓匠栗山から数分のところに「投げ込み塚」碑があるとのことで見に行ったのですが、ものの見事に見過ごしてしまい、かなり坂を下ったところで、「どうも見過ごしたようだね」と来た道を戻ると、
道の角から直ぐの左側に碑が建っていました。
14時09分、投げ込み塚(左側)
47 投げ込み塚碑
投げ込み塚は、権太坂を上り、突き当たった境木中学のところを左折して約50m先の左側にあり、新しい石碑が建っていました。
そして、権太坂の二番坂を上りきった横に、行き倒れなどで亡くなった死人を投げ込む井戸があったと伝えられており、井戸は今の塚があった辺りにあったそうで、昭和36年(1,961年)に発掘した時は多数の人骨が発見され、旅人の霊を慰めようと碑が祀られました。
投げ込み塚から5分程歩くと、右側に「境木地蔵尊」があり、境内で菓匠栗山で買った権太餅と団子をおやつに食べましたが、普通の味でした(また買いますかと聞かれたら?です)。
14時14分~14時27分、休憩(境木地蔵尊)=右側
48 境木地蔵尊入口
地蔵尊を出た処が品濃坂のT字路となっている分岐で、信号を渡った右側に東海道の道標が建っていました。
14時28分、東海道道標(右側)
50 旧東海道道標
ここから戸塚方面に向けて細い下り坂になっていて約500m歩くと、昔の面影をそのまま残す品濃一里塚跡がありました。
14時34分、009品濃一里塚跡(左・右)
 ※進行左側の一里塚
53 品濃一里塚
 進行右側の一里塚
55 品濃一里塚
品濃一里塚は日本橋から9番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間にあります。塚は、旧東海道を挟んでほぼ東西に二つあり、地元では一里山と呼ばれていた。東の塚は平戸村内、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚には榎が植えられていたようです。
進行右側の塚は塚の手前を右に上ると全体を見ることができ、進行左側の塚は塚の先を左に入り裏に回り込むように歩くと全体を見ることができます。
このように当時の形で残っている一里塚は、県内ではここだけで、昭和41年に県の史跡に指定されました。
旅に出て、始めて旧街道の面影を残す一里塚に出会い、歴史を感じました。
《Yさん推奨の史跡》

保土ヶ谷一里塚で出会った時に、Yさんから推奨された史跡に立ち寄るのを忘れたことに気がつきました。
Yumiさんの疲れもあり、申し訳なく思いながら割愛して先に進むことにしました。
そして住宅地みたいな道を約300m歩くと、今日の到着地である東戸塚駅に通じる福寿歩道橋入口に到着しました。
14時44分、東戸塚駅・福寿歩道橋入口(到着地)
58 福寿歩道橋入口
【帰路】
Yさんから史跡の推奨と共に、福寿歩道橋入口からもう少し先に行くと桜の綺麗な場所があり、今朝は富士山も綺麗に見えていたとの情報を頂いていたのですが、歩道橋入口に着くのを待っていたかのようにポツリポツリと雨が降ってきました。
こうなるとYumiさんは帰りモード100%となり、急いで到着式(到着地で看板を持って写真を撮る)を行い東戸塚駅に向かいましたが、急いでいたので到着式の看板を掲げるのを忘れてしまいました。
 ※福寿歩道橋・後方が東戸塚駅
59 福寿歩道橋入口(終了地点)
福寿歩道橋から東戸塚駅に抜ける通路は、上がったり、下がったりして初めての人には分かりづらい通路だったので、次回のことを考え複数の店舗の方に、通路が開く時間と東戸塚駅から福寿歩道橋までの道順を聞きましたが、教えてくれる人がおらず、地図とネットで調べないとダメのようです。
14時55分、JR東戸塚駅着
15時03分、JR東戸塚駅発
東戸塚駅でトイレに入り、電車に乗ってからは今日歩いてきた方向を車窓から眺めながら私は乗っていましたが、Yumiさんは何を考えて乗っていたのかな・・・・・。
明日は、山の会のお花見山行です。

【次回の予定】
次回(第3回)は4月28日㊏に『東戸塚・福寿歩道橋入口~茅ヶ崎一里塚跡』までの20.31㎞を旅する予定です。
茅ヶ崎には親戚の叔母が住んでおり、出来れば茅ヶ崎駅付近で逢えたらと思っています。

【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/