【天候】晴れのち曇り
【宿場】(02)川崎宿⇒(03)神奈川宿⇒(04)保土ヶ谷宿⇒(05)戸塚宿
【行程】歩行距離=18.54㎞ 総距離=38.26㎞  

川崎・砂子交差点⇒(2.1㎞)⇒005市場一里塚⇒(4.255㎞)⇒006東子安一里塚⇒
(3.860㎞)⇒007神奈川一里塚⇒(4.822㎞)⇒008保土ヶ谷一里塚⇒(3.207㎞)⇒
009品濃一里塚⇒(0.3㎞)⇒東戸塚・福寿歩道橋入り口
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第2回旅の宿場)
07 2回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第2回)
 ↓
第2回旅のルート
 
(J
R川崎駅・砂子交差点 ⇒ JR東戸塚駅・福寿歩道橋入口)
第2回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
当初、3月31日(土)で計画していたのですが、天気予報が雨模様とのことだったので急遽、今日に順延しました。
幸運にも
本日の天候は、旅日和です。
《移動》
04時15分、起床
セットした目覚まし時計の音楽で起床し、いつもと同じ動きで出掛ける準備を進め、Yumiさんに声を掛けて家を出発しました。
05時45分、自宅出発
自転車で公園内を横切り、最寄り駅に行き、乗り換えをしながら
今日の出発地である川崎に向かいました。
07時19分、JR川崎駅着
川崎駅に着くとYumiさんがトイレに行きたいというので、駅のトイレを探しましたが分からないので、京急川崎駅のトイレを借りることにして、京急川崎駅の駅員さんにトイレ使用をお願いすると、気持ち良く快諾下さり、トイレの場所を教えて下さったり、改札内に入れて下さいました。
トイレも終わりスッキリした二人は、親切な駅員さんにお礼を云って、前回ゴール地点の砂子交差点に向かいました。
出発地の砂子交差点に立ち出発式(出発の看板を掲げて写真撮影)を行いたかったのですが、なかなか良いシャッターチャンスがなく、撮れたのは構えてから3分後でした。
【=旅=】
07時34分、川崎駅・砂子交差点(出発式)
01 川崎宿 砂子交差点 出発記録
出発式の後、砂子交差点を渡った左側に川崎信用金庫本店があり、佐藤惣之助の記念碑が建っていました。
07時38分 川崎信金・佐藤惣之助生誕の地碑(左側)
03 佐藤本陣跡? 佐藤惣之助レリーフ
佐藤惣之助は大正時代に活躍した詩人で歌謡曲の作詞家として有名で、代々本陣職を務めてきた佐藤家の生まれで、昭和54年(1979)に生誕地に建てられました。
私はここが佐藤本陣と思っていたのですが、本陣跡は川崎信金の向かい側で、現在はコンビニが入っているビルの窓ガラス内に説明板があるとのことです。
《佐藤本陣》
川崎宿にあった3つの本陣(大名や公家専用の大旅館)の一つで、別名を惣左衛門本陣と云われ、門構え、玄関付き、181坪の建物だったそうです。幕末には14代将軍家茂が、京に上る祭に宿泊したことで知られています。平成19年(2007)に説明板が設置されました。
川崎信金本店前から約1.2㎞歩くと、京急本線の踏切に出る手前右側に芭蕉句碑が建っていました。
07時59分、芭蕉句碑(右側)
05 松尾芭蕉句碑
芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵を立ち、郷里の伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」に託しました。
芭蕉は同年10月、大坂で「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句を残し、51歳の生涯を閉じました。
句碑の先の京急の踏切を渡り左に八丁畷駅を見ながら西口前を通り、南武線のガードを潜り約900m歩いた処に市場橋バス停があり、その近くに日本橋から5番目の一里塚跡碑が左側に建っていました。
08時16分、005市場一里塚跡碑(左側)
08 市場一里塚
市場一里塚は、江戸より5里目の塚で、明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ左側の塚が現存し、昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたそうです。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」の碑が建立され、平成元年(1989)に横浜市地域文化財として登録されました。
一里塚から約350m歩くと鶴見川に近代的な鶴見川橋が架かり、たもとに桜が咲いていましたので、水分補給を兼ねて小休憩を取りました。
08時25分、鶴見川橋
13 鶴見橋手前
鶴見川橋は、徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)頃に架けられたと云われており、東海道とほぼ同じ歴史があります。大正末期頃までは鶴見橋の名前で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋(六郷橋が架かる多摩川は元禄元年の大洪水以降は渡し船)で、長さ25間、幅3間と云われていました。
鶴見川橋を渡ると、直ぐ左側に鶴見橋関門旧跡碑が建っていました。
08時32分、鶴見橋関門旧跡碑(左側)
15 鶴見橋関門旧跡
鶴見橋関門は、安政6年(1859)6月、横浜開港とともに外国人に危害が及ばないようにするため、横浜への主要道路筋の要所に、開門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まるため、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅4間(約7m)を除き左右に杉角材を立て、大貫を通し、黒渋で塗られていました。
東海道は、鶴見川橋を渡った跡、鶴見駅東口入口交差点を直進し、その先のT字路分岐を左に道なりに進み、右に鶴見駅前郵便局を見て、鶴見駅に行く交差点を直進すると京急鶴見駅(西口)に出るので、そのまま駅下を真っ直ぐに進み東口に出て、さらに道なりにそのまま真っ直ぐ進みます。
そして約600m先の第一京浜国道の下野谷町交差点を渡り、約160m歩くと鶴見線の国道駅のガードを潜ります。
国道駅のガードを過ぎると、道の両側には鮮魚・海産物店が立ち並び市場のような感じで、キョロキョロと
店舗を眺めながら歩きました。
住んでいる処にはない景観で旅に出て知ることができたので、機会があったら、また来たいと思いました。
魚市場を過ぎると、右側の民家の塀(下がブロックの塀)に「生麦事件発生現場標板」が掲げられていました。
09時08分、生麦事件発生現場標板(右側)
19 生麦事件発生現場
この辺りは進行左側にはキリンビール横浜工場となっており、第一京浜国道に合流する生麦一丁目交差点の約200m手前の右側に生麦事件碑が、新しい社の中に祀られていました。
09時16分、生麦事件碑(右側)
20 生麦事件碑
生麦事件は、文久2年(1862)8月21日午後2時、薩摩藩の島津久光が護衛として同行する江戸に赴く大原勅使一行の行列を横切ろうとしたイギリス人一行を生麦で殺傷した事件で、薩英戦争の契機になりました。
明治16年、鶴見の黒川荘三が遭難の碑を私費で建立しました。
生麦事件碑を過ぎ、生麦一丁目交差点で第一京浜国道に合流し、ここからしばらく国道を歩きます。
約500m歩くと子安通り交差点があり、この辺りに日本橋から6番目の一里塚があったと云われていますが、確認できませんでした。

09時35分 006東子安一里塚(標示なく確認できず)
川崎を出発してから2時間、トイレ休憩を取っていないので、Yumiさんに声を掛け日石G/Sでトイレをお借りしました。
トイレを貸して頂こうと店舗に入りましたが、給油などが忙しそうだったので、そのままトイレをお借りしました。
ガソリンスタンドを出て国道に戻り道路沿いに建ち並ぶマンション群を眺めながら国道の左側を約2㎞歩くと出田町交差点があり、ここで進行方向右側に渡りました。
交差点を渡り、オランダ領事館跡碑が建っているという神奈川通り東公園を探しましたが、公園の場所が分からなかったので、そのまま先に進み神奈川地区センターを目指しました。
神奈川地区センターは交差点から約850m先の左側にあるベンツ販売店を手前を右折し、約90m先の2本目の十字路の左側にあり、神奈川宿の模型が展示されていました。
10時15分、横浜神奈川地区センター(神奈川宿の模型)=右側
22 神奈川宿模型
地区センターは土足禁止のため入口で靴を脱ぎ、入場者名簿に記帳をして中に入ると、窓際にケースに入った模型が展示されていました。
私は、ここに神奈川宿に関する資料が数多く展示されているのだろうと思い込んでいたので、いささか肩透かしをくった感じになり、早々に失礼しました。
街道に戻り、約300m歩くと川幅の狭い滝の橋があり、橋を渡ったところを右折した伊豆屋材木店があり、店舗の前に本陣跡の標板が建っていました。
10時30分 神奈川宿青木本陣跡碑(右側)
24 青木本陣跡標板
第一京浜に戻り、中央市場入口信号を過ぎ、右側の幸ケ谷小学校に沿って約110m歩くと、宮前商店街入口のアーチがあり右折します。
右折して宮前商店街を約300m歩くと、鉄道(東海道線、横浜線、京急本線)と第二京浜国道を跨ぐ青木橋交差点に架かる歩道橋を渡たり、左の仁保ビルの手前を右折しました。
右折して約80m歩くと右側に大網金刀比羅神社があり、参道入口の鳥居前に日本橋から7番目の一里塚跡があり跡碑が建っていました。
10時46分、007神奈川一里塚跡碑(右側)
26 神奈川一里塚跡
Yumiさんに「お参りして行こう」と声を掛け、階段を上って本殿に向かいました。
 ↓大網金刀比羅神社・本殿(右側)
28 大網金刀比羅神社
一里塚から約290m歩いた上り坂を上りきった右側(マンション・グリーンテラス横浜の手前)に神奈川台関門跡碑が建っていました。
10時57分、神奈川台関門跡碑(右側)
30 神奈川台の関門跡
神奈川台の関門は、開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス 総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難しました。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化し、神奈川宿の東西にも関門が作られました。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門で、明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止されました。
季節は4月になりましたが、日陰に入ると風が冷たく感じられ、Yumiさんは着たり、脱いだり忙しく、
時間も11時頃で歩き始めて3時間30分経過するため、関門碑から約300m歩いた「かみだい橋」を渡ったところでザックを降ろし休憩しました。
11時03分~11時08分、休憩(かみだい橋)
ザックを担ぎ、約280m歩くと首都高速三ツ沢線西口ランプ入口があり、それを左に見ながらさらに約550m歩くと宮谷小学校入口交差点があり、交差点を渡って左に少し歩くとYNビルとK1ビルがあり、ビルの間の細い道を約60m歩るき分岐を右に進みました。
分岐から約750m歩くと賑やかな商店街となり、今までの静けさが嘘のような賑わいでした。
元気のない商店街が多くなっているなか、ここ「松原商店街」は別世界のような人出で、歩くのも大変です。
並んでいる商品を見ると、驚くような安さで、量もあり、人が集まる基本の形です。
買って帰りたかったのですが、荷物を持ってこの先歩くのは嫌だったので、キョロキョロと眺めるだけで通り過ぎたのですが、写真を撮っておけば良かったと思いました。
商店街を通り過ぎた松原商店街入口交差点に来ると、今までの喧噪が嘘のような静けさとなり、交差点を渡ったところでYumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」と云うので、相鉄天王町駅に向かいました。
相鉄線のガードを潜り、右側の天王町駅でトイレをお借りし、駅前の広場に出るとウォーク団体の人達が縁石に座って昼食を食べていました。
11時49分、
旧帷子橋跡レプリカ
31 旧帷子橋レプリカ
旧帷子橋は、安藤広重の版画(東海道五十三次)によって広く世に知られており、近年までこの場所に残存していましたが、帷子川改修および相模鉄道の立体化などによってその姿は消滅しました。そのため、冬至の面影を残すため記念碑がされました。
私とYumiさんは保土ヶ谷駅近くの「そば処桑名屋」で蕎麦を食べる予定のため、帷子橋のレプリカを写真に撮り先に進みました。
ここから環状1号の幅広の道を約800m歩くと、保土ヶ谷駅に向かう分岐があり街道は右の細い道を進みます。
そして約170m歩くと右側に横浜帷子郵便局があるので、手前左側のケントパレスを左折し、突き当りを右折すると桑名屋がありました。
12時06分~12時46分、昼食(そば処桑名屋)=左側
34 そば処 桑名屋
ここの店主は旧東海道に造詣が深く、食後に会う予定のYさんとは懇意の方だそうです。
店主に挨拶すると、2階に地元の中学生が作った保土ヶ谷宿の資料が展示してあるので見て下さいと紹介され、待つ間、2階の展示物を見せて頂きました。
 ↓保土ヶ谷宿①
36 保土ヶ谷宿展(桑名屋2階)
 ↓保土ヶ谷宿②
37 保土ヶ谷宿(桑名屋2階)
良く出来ていたのでゆっくりと見たかったのですが、この後にYさんと会う約束があるので、先を急がせて頂きました。
また、食べたお蕎麦は香ばしい香りのする美味しいお蕎麦でした。
〔帽子がない〕
桑名屋を後にして歩き始めると、Yumiさんの帽子がないことに気が付き
E=Yumiさん、帽子は?
Y=ないの。何処にいったのか分からない
E=Yumiさん、何処に行ったのではなく、蕎麦屋に忘れたのではないの?
Y=???
はっきりと忘れた場所が分からないため、Yさんとの待ち合わせがあるため、新しい帽子を購入することでYumiさんも了承したので、そのまま進むことにしました。
街道に戻り、約200m先の東海道線を越えた先で国道1号に突き当り、信号を渡ったところに保土ヶ谷宿の軽部本陣跡がありました。
12時57分 保土ヶ谷宿・軽部本陣跡(左側)
38 保土ヶ谷宿・軽部本陣跡
軽部本陣は、初代苅部清兵衛がこの諸役を命じられ、代々清兵衛を名乗りました。苅部氏は小田原北条氏の臣苅部豊前守康則の子孫。三代吉重の室妙秀尼は樹源寺を開き、8代悦相は苅部姓と帯刀を永代許された。10代悦甫は横浜が開港されると町の責任者である総年寄りを命じられ、横浜町の発展に尽力しました。11代悦巽のとき明治3年に本陣が廃止され、軽部姓に変更しました。
本陣跡は、改修に向けた工事のためか、柵で仕切られていて見学することはできませんでした。
本陣から約100m歩くと左側に、旅籠・本金子屋跡がありました。
13時01分、旅籠・本金子屋跡(左側)
41 旅籠屋・本金子屋跡
この先の一里塚跡が、Yさんとの待ち合わせ場所です。
Yさんは旧東海道など五街道のマップをネットに公開しており、私はYさんが作成した旧東海道マップを旅で使うことから知り合い、一里塚のところで会うことになりました。
Yさんと会う時間が近付いてくると、ドキドキしながら歩くと、遠くにYさんの姿を確認しました。
13時06分、008保土ヶ谷一里塚跡碑・上方見附跡(左側)
43 保土ヶ谷一里塚
Yさんとは初対面でしたが、周りには人がいなかったのですぐ分かりました。
お互いに歩み寄り、挨拶をかわし、Yさんから保土ヶ谷一里塚の資料を頂いたり、説明を頂いたりと歓待して迎えて下さいました。
13時10分~13時25分、Yさんとの出会い
45 横溝さん(保土ヶ谷一里塚)
ところが、Yumiさんはまったく興味を示すことなく「早く行こう」と催促があり、この先に箱根駅伝で有名な権太坂(旧街道は駅伝とは違う道)が控えているので、15分程でYさんと別れました。
Yさんは、初めて会う私にいろいろとご心配やご配慮下さり、そのご厚意に甘えさせて頂きました。
Yさん、ありがとうございました。
さて、Yさんと別れ旧街道はこの先で右方向に進むため、サテンで右側に渡り保土ヶ谷二丁目信号で国道1号と分岐して右に進みました。
分岐から約750m歩くと元町ガードのT字路に突き当り、信号を渡ってから左に進み小さい川に架かる橋を渡って約80m歩くと右斜めに上っていく道があり、旧街道の権太坂になりました。
江戸時代の権太坂は、約1.5㎞続く箱根に次ぐ難所で行き倒れも多かったようですが、現在の権太坂はそれなりの傾斜はありましたが、イメージの方が強すぎたようです。
坂の途中の右側に光陵高校、左側の権太坂小学校を眺めながら権太坂を上りると、登り切った少し先を右折したところに「菓匠栗山」(横浜銀行境木支店の近く)があり、今日のおやつ用に「権太餅」と「団子」を購入しました。
資料で菓匠栗山から数分のところに「投げ込み塚」碑があるとのことで見に行ったのですが、ものの見事に見過ごしてしまい、かなり坂を下ったところで、「どうも見過ごしたようだね」と来た道を戻ると、
道の角から直ぐの左側に碑が建っていました。
14時09分、投げ込み塚(左側)
47 投げ込み塚碑
投げ込み塚は、権太坂を上り、突き当たった境木中学のところを左折して約50m先の左側にあり、新しい石碑が建っていました。
そして、権太坂の二番坂を上りきった横に、行き倒れなどで亡くなった死人を投げ込む井戸があったと伝えられており、井戸は今の塚があった辺りにあったそうで、昭和36年(1,961年)に発掘した時は多数の人骨が発見され、旅人の霊を慰めようと碑が祀られました。
投げ込み塚から5分程歩くと、右側に「境木地蔵尊」があり、境内で菓匠栗山で買った権太餅と団子をおやつに食べましたが、普通の味でした(また買いますかと聞かれたら?です)。
14時14分~14時27分、休憩(境木地蔵尊)=右側
48 境木地蔵尊入口
地蔵尊を出た処が品濃坂のT字路となっている分岐で、信号を渡った右側に東海道の道標が建っていました。
14時28分、東海道道標(右側)
50 旧東海道道標
ここから戸塚方面に向けて細い下り坂になっていて約500m歩くと、昔の面影をそのまま残す品濃一里塚跡がありました。
14時34分、009品濃一里塚跡(左・右)
 ※進行左側の一里塚
53 品濃一里塚
 進行右側の一里塚
55 品濃一里塚
品濃一里塚は日本橋から9番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間にあります。塚は、旧東海道を挟んでほぼ東西に二つあり、地元では一里山と呼ばれていた。東の塚は平戸村内、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚には榎が植えられていたようです。
進行右側の塚は塚の手前を右に上ると全体を見ることができ、進行左側の塚は塚の先を左に入り裏に回り込むように歩くと全体を見ることができます。
このように当時の形で残っている一里塚は、県内ではここだけで、昭和41年に県の史跡に指定されました。
旅に出て、始めて旧街道の面影を残す一里塚に出会い、歴史を感じました。
《Yさん推奨の史跡》

保土ヶ谷一里塚で出会った時に、Yさんから推奨された史跡に立ち寄るのを忘れたことに気がつきました。
Yumiさんの疲れもあり、申し訳なく思いながら割愛して先に進むことにしました。
そして住宅地みたいな道を約300m歩くと、今日の到着地である東戸塚駅に通じる福寿歩道橋入口に到着しました。
14時44分、東戸塚駅・福寿歩道橋入口(到着地)
58 福寿歩道橋入口
【帰路】
Yさんから史跡の推奨と共に、福寿歩道橋入口からもう少し先に行くと桜の綺麗な場所があり、今朝は富士山も綺麗に見えていたとの情報を頂いていたのですが、歩道橋入口に着くのを待っていたかのようにポツリポツリと雨が降ってきました。
こうなるとYumiさんは帰りモード100%となり、急いで到着式(到着地で看板を持って写真を撮る)を行い東戸塚駅に向かいましたが、急いでいたので到着式の看板を掲げるのを忘れてしまいました。
 ※福寿歩道橋・後方が東戸塚駅
59 福寿歩道橋入口(終了地点)
福寿歩道橋から東戸塚駅に抜ける通路は、上がったり、下がったりして初めての人には分かりづらい通路だったので、次回のことを考え複数の店舗の方に、通路が開く時間と東戸塚駅から福寿歩道橋までの道順を聞きましたが、分かる人は居ませんでした。
地図とネットで、調べないとダメのようです。
14時55分、JR東戸塚駅着
15時03分、JR東戸塚駅発
東戸塚駅でトイレに入り、電車に乗ってからは今日歩いてきた方向を車窓から眺めながら私は乗っていましたが、Yumiさんは何を考えて乗っていたのかな・・・・・。
東戸塚から横浜経由武蔵小杉で南武線に乗り換え、自宅に帰りました。

明日は、山の会のお花見山行です。
【次回の予定】
次回(第3回)は4月28日(土)に「東戸塚・福寿歩道橋入口から茅ヶ崎一里塚跡までの20.31㎞」を旅する予定です。
茅ヶ崎には親戚の叔母が住んでおり、出来れば茅ヶ崎駅付近で逢えたらと思っています。

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  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/