【天候】曇りのち晴れ
【宿場】日本橋 ⇒ (01)品川宿 ⇒ (02)川崎宿

【行程】歩行距離=19.72㎞ 総距離=19.72㎞  
基点・日本橋 ⇒ (8.445㎞) ⇒ 002品川一里塚 ⇒ (5.335㎞) ⇒ 003大森一里塚 ⇒ (3.944㎞) ⇒
004六郷一里塚 ⇒ (2.0㎞)⇒ 川崎・砂子交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第1回旅の宿場)
11 1回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間)
全体ルート(第1回)
 ↓
第1回旅のルート
 
(日本橋・国道元標前 
⇒ 川崎駅・砂子交差点)
第1回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪し補完しました。
  〔※①〕=平成27(2015)年11月26日
  〔※②〕=令和 3(2021)年 2月28日

【旧東海道の旅】
《序章》
我が家にとって大イベントである「旧東海道夫婦二人旅」の出発が近づくにつれ、スタートしたら途中で止めたくないと思う反面、意味性認知症を発症しているYumiさんが最後まで歩けるだろうかなど、不安感に包まれて出発する日を迎えました。
また出発する日は東日本大震災が発生してから1年目に当たり、意識してこの日に合せたわけではなかったのですが、偶然に一致しました。
さて旅の準備ですが、前日までに山行で使用しているチェックリストを基に、持ち物や衣服などを整えて出発の朝を迎えました。
スタートとなる第一目は『品川駅から大森海岸駅まで』を考えていたのですが、箱根峠までの距離を考え少しきつい距離になりますが、川崎駅の「砂子交差点」まで歩くことにしました。
また日本橋駅は通勤で使っている駅で起点となる日本橋は毎日歩いている橋なので、緊張することなく基点に立ち旅の第一歩を記しました。
【=旅=】
07時56分、日本橋(出発地)

01 日本橋元標
※①=道路元標(右側)
001 道路元標
 ※里程標(右側)
03 日本橋からの里程表
 ※日本橋・親柱(右側)
04 日本橋基点
「いざ出発」ということで周りを見渡すと、他に誰もいない静かな旅立ちです。
私とYumiさんが今日、旧東海道の旅に出立することを知っている人は、居ないので当然ですね
さて今日の行程は川崎駅の「砂子交差点」までの約20㎞という長丁場なので、早々に出発の儀式を行い、道路元標レプリカの前を川崎を目指して旧東海道の旅に出立しました。
道路元標レプリカから約45m歩いた日本橋中央部の道路に、道路元標が埋め込まれていました。
※①=道路元標(道路中央)
003 埋設されている元標
※①=道路元標(道路中央に埋め込まれている原版)
002 道路に埋設の元標
日曜日の朝で歩いている人が少ない日本橋を渡ると、右側に日本橋由来碑が建っていました。
※①=日本橋由来碑(右側)

004 日本橋由来碑
004-1 日本橋由来碑・解説
日本橋由来碑から約130m先の日本橋交差点を渡り、さらに約350歩くと東京駅八重洲中央口に通じている日本橋3丁目交差点があり、道路中央の分離帯の東京駅寄り(右側)に「八重洲」の語源になったヤン・ヨーステン碑が建っていました。

08時10分、ヤン・ヨーステン碑(右側)
06 ヤンヨーステン記念碑
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷辺りに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といい、のちに「八重洲」と書かれ明治5年に町名となったそうで、平成2年(1989年)に日蘭修好380周年を記念して碑が建てられました。
碑のところで左右を見ると車が走ってこないので、そのまま道路を横切り日本橋3丁目交差点に戻り交差点を渡って進行方向左側に移りました。
交差点から約350m歩くと、日本橋まで1㎞の距離標(右側を歩いていたため)が建っていました。
※①=1㎞距離標(右側)
005 国道1号1㎞距離標
距離標からそのまま右側を約200m歩くと、高架の高速道路手前の下に江戸歌舞伎発祥の地碑と京橋大根河岸青物市場跡碑が建っていました。
※①=江戸歌舞伎発祥の地(右側)
006 江戸歌舞伎発祥の地碑
※①=京橋大根河岸青物市場跡(右側)
007 京橋大根河岸青物市場跡
道路反対側の警察博物館前の交差点を進行左側に渡り、高速道路高架手前の左側に京橋擬宝珠の親柱が保存されていました、
08時17分、京橋の親柱碑(左側)
08 京橋の碑
そして高速道路高架を潜った左側に、「煉瓦銀座の碑」と「煉瓦とガス燈」が建っていました。
※①=煉瓦銀座の碑・煉瓦とガス燈(左側)
009 煉瓦銀座の碑・煉瓦とガス燈
煉瓦銀座の碑から約250m歩くとティファニーの前で、旅に出て最初のつまづきをしました。
資料でティファニーの前に「銀座発祥の地碑」があると記してあったのですが、碑がどこにあるのか分からずティファニーと隣りの文具の伊東屋本店の辺りをウロウロ探し回り清掃していた人(女性)に尋ねると、「その辺りにあるのでは」とつれない返事。

それならと目をもう一度見開いて周りを見渡すと、目の前にありました。

失礼致しました。

08時27分、銀座発祥の地碑(左側)
10 銀座発祥の地碑
約250m先の銀座4丁目の交差点を渡って約170m歩くと5丁目交差点で、交差点を渡ると、元松坂屋デパートの前に現一橋大学の前身である「商法講習所跡」があり跡碑が建っていました。
※①=商法講習所跡(左側)
012 商法講習所跡(現一橋大学)
そして銀座6丁目交差点、銀座7丁目交差点をそれぞれ渡ると、その先の銀座8丁目交差点に架かる首都高速を潜った先の左側に「新橋の碑」があり、その隣りに「銀座の柳の碑」が建っていました。
08時41分、新橋の碑(左側)

13 新橋の地碑
 ※銀座の柳の碑(左側)
14 銀座の柳の碑
出発して約2.2㎞歩いて時間が9時近くなり体が温まって汗をかき始めてきたので、衣服を調整するためダウンジャケットの下に着ていたセーターを脱ぎました。
すると直ぐに「寒い、寒い」とYumiさんお得意の言葉が発せられ少し角(つの)が出てきましたが、汗をかいて風邪を引くよりも良いと考え「寒くなったらまた着るから」と説得し、我慢して脱いでもらいました。
衣服調整と休憩を終え気分も新たに出発し、新橋駅前交差点を渡りJRのガードを潜った先の左側(銀座柳の碑から約550m)に、赤い鳥居の日比谷神社が祀られていました。
※①=日比谷神社(左側)
015 日比谷神社
地下を都営浅草線が走る国道15号(第一京浜国道)を歩きながらYumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」と云うので、街道を外れて都営浅草線大門駅に立ち寄ることにしました。
09時02分~09時07分、大門駅(トイレ休憩)
大門駅で駅員に「トイレを貸して頂きたいのですが」とお願いすると、「どうぞ」と気持ち良く拝借させて下さいました。
トイレを済ませてスッキリして約400m歩くと金杉橋があり、この辺りが日本橋から約4㎞地点となり、最初の一里塚があったのではないかと記されていましたが、最初から一里塚はなかったという説もあり、どちらが正しいのか分かりませんが、私は高輪大木戸の内側になるので、最初から設置されなかったのではないかと思います。 
※001金杉橋一里塚(標示なく確認できず)

金杉橋付近の写真を撮ろうと思っていたのですが、すっかり忘れてしまい気が付いたのが約500m先になってからだったので、そのまま先に進みました。
※①=金杉橋付近
017 1里塚跡(金杉橋付近)
金杉橋から約1㎞歩いたJR田町駅手前の左側に三菱自動車ビルがあり、ビルの前に西郷隆盛と勝海舟が会見した跡碑が建っていました。
09時23分、西郷・勝会見の地碑(左側)
15 西郷・勝会見の地碑
会見が行われた場所は、明治維新前夜の慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁の勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「西郷・勝会談」の行われた薩摩屋敷があった場所です。
会見の碑からそのまま真っ直ぐに約450m歩くと(途中、左側に田町駅あり)札の辻交差点があり、第一京浜国道(国道15号)に沿って歩道橋を渡りす。
※①=札の辻
100 札の辻
札の辻は江戸時代の高札場跡で、三辻(三差路)の一角を利用して高札が掲示されていました。
また、札の辻は江戸時代初期の元和2(1616)年に芝口門が設けられ、江戸正面入口としての形式が整えられた処ですが、宝永7(1710)年に江戸入口と高札場は高輪大木戸に移されました。
札の辻の歩道橋を渡り、約650m歩くと左側の高輪センタービル(日本トムソン本社の先隣り)があり、その前に大木戸跡碑が建っていました。
09時40分、高輪大木戸跡(左側)
17 高輪大木戸跡
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源で、享保9年(1724)に現在の地に移されました。江戸の南入口として道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉門して通行止めして治安の維持と交通規制を行っていた。
碑は国道に向いて建っているため、国道からは垣根があって読めません。
では道側から見ようとすると裏面になり、何とも不親切な建て方の碑で、
何故この向きなのか不思議です?

 大木戸跡から約230m歩くと泉岳寺交差点(地下は都営浅草線・泉岳寺駅)で、交差点を渡って赤穂義士のお墓が祀られている泉岳寺があり参拝に立ち寄りました。
9時48分~10時05分、泉岳寺(右側)
20 泉岳寺正門
参拝者は途切れることなく続き私は線香(100円)を購入してお供えしましたが、
Yumiさんの記憶から赤穂浪士のことは消えていました(寂しいですね)。

※①=泉岳寺・本堂
024 泉岳寺・本堂
※①=泉岳寺・首洗井戸
025 泉岳寺・首洗い井戸
※①=泉岳寺・浅野長矩(白囲み)の墓
028 浅野長矩の墓
※①=泉岳寺・大石内蔵助の墓
029 大石内蔵助の墓
※①=泉岳寺・赤穂義士の墓所図
030 泉岳寺・墓地配置図
境内をとおり赤穂義士の墓所を見に行くと、Yumiさんはお線香の匂いが嫌いなので、何回も「早く行こう」と急かされましたが、ひと通り墓前で参拝しながらひと回りしました。
泉岳寺を出て交差点にもどり、交差点を左折し約1.1㎞歩くと左側にJR品川駅前がありました(歩行は途中の交差点で進行左側に移動)。
10時17分、JR品川駅(左側)
22 品川駅
駅前から約300m歩くと上り坂となり、上ったところに新八ツ山橋交差点があり、ここで国道15号(第一京浜)から別れ左折し真ん中の道を進むのですが、踏切もない路面の線路をそのまま渡るのに抵抗がありましたが、旧道ではないので急ぎ路面の線路を渡って旧道に入りました。
旧道に入ると解説の看板が立っていて、説明を受けているグループがありましたが、そのまま先に進みました。
10時26分、品川宿ガイド絵図(左側)
23 品川宿ガイド
品川宿の入口に、「右 品川宿」碑が建っていました。
※品川宿碑(左側)
25 品川宿入口の碑
品川宿は、江戸4宿の一つで、東海道五十三次の最初の宿駅として発達しました。
品川宿に入ると直ぐの右側に「お休み処」があり、「東海道品川宿 まち歩きマップ」(@50円)を売っていたので購入するとともに、街道スタンプを押印しました。

購入した宿場案内図は詳細に記してあるので、とても参考になりご推奨です

25-1 まちあるきマップ
品川宿に入って直ぐのお休み処は土・日のみ開店で、平日の場合は品川宿交流館で販売されています(H27.12.06の情報=表紙の色は青になっています)。
お休み処を出て直ぐの左側に北品川どうぶつ病院があり、角に問答河岸の碑が建っていました。
※①=問答河岸の碑(左側)
034 問答河岸跡
かって河岸先に波止場があり、3代将軍徳川家光が東海寺に入る時、沢庵和尚が出迎えて問答をした故事にちなみ建てられたそうです。
 将軍=海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に
 和尚=大軍を率いても将(小)軍と云うが如し
問答河岸の碑から約60m先のマンション「ロイヤルガーデン品川」の処に土蔵相模跡がありました。
※①=土蔵相模跡碑(左側)

033 土蔵相模跡
土蔵相模跡は、高杉晋作、伊藤博文など、幕末の志士たちが密議をした高級大妓楼として知られた相模屋の跡で、その後「さがみホテル」となり現在はマンションになっています。
また、名前
の由来は、ナマコ壁を持つ土蔵づくりから「土蔵相模」と通称されていたそうです。
東海道品川宿は町づくりに力を入れており、電線を地中線化して電線が見えないようにしたり、街道沿いに造られた公園には東海道各地の松を植えるなど、旧東海道を町興しにしようとする意気込みが伝わってきました。

※品川宿の町並み
26 品川宿の町並み
※星野金物店(右側)=善福寺入口手前
101 星野金物店
土蔵相模跡から約250m歩くと台場横丁があり、その先の左側に品川宿の松と一緒に、日本橋から2番目の一里塚跡碑が建っていました。
10時39分、002品川一里塚(左側)

28 品川宿(一番宿)
一里塚碑から約230m歩くと左側奥に聖蹟公園があり、公園の入口に本陣跡碑が建っており、公園内には明治天皇が行幸した記念として聖蹟碑と本陣跡のパネルが建てられていました。
10時46分、品川宿本陣跡碑(左側)
32 品川宿本陣跡
本陣跡は、品川三宿の中央に位置し、東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、外国使節などの宿泊、休憩所として大いに賑わったところです。明治3年(1870)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用されましたが、明治13年(1880)に明治天皇の行幸の時の行在所となったため、聖蹟公園として跡地は命名されている。
※①=聖蹟公園内の碑
037 品川宿本陣跡
本陣跡(聖蹟公園入口)から約40m先の山手通りを渡り、さらに約60m歩くと左側に品川宿交流館が建っており、観光物産とともに東海道品川宿「まち歩きマップ」が販売されています。
※①=品川宿交流館
039 品川宿お休み処
交流館から約50m歩くと黒川が流れる品川橋が架かっており、橋を渡って約140m進むと右側に品川宿の街道松として浜松市の方から寄贈された樹齢80~90年のクロマツが「浜松宿の松」として植樹されていました。
※①=街道松・浜松の松(右側)
042 街道松の広場
浜松の松から約160m歩くと右側に「三島宿の松」が植樹された小公園があり、公園で休憩しました。
10時57分、街道松・三島宿の松(右側)
043 街道松の広場
10時57分~11時03分、三島の松公園(休憩・トイレ)
公園内のベンチに座り、水分補給とお菓子(スポーツ羊羹)を食べ、英気を養って公園を出発しました。
そして公園から約270m歩くと右側に、松岡畳店がありました。
松岡畳店は創業が安永8(1,779)年で、現在の家屋は大正4(1915)年に建て替えられたものだそうです。
※①=松岡畳店(右側)
044 松岡畳店
松岡畳店からジュネーブ平和通り(プラタナスの並木)を横切るなど、250m歩いた右側に品川寺(ほんせんじ)があり立ち寄りました。
11時09分、品川寺(右側)
35 品川寺正門
品川寺には、品川区の天然記念物である幹周5.35m、樹高約25m、推定樹齢約600年という巨木(イチョウ)がありましたが、写真を撮るのを忘れて通り過ぎてしまいました。
※①=大いちょう(境内右側)
048 大いちょう048-1 解説
※品川寺・本堂
049 品川寺・本堂
品川寺を出て京急の鮫洲駅を過ぎ、約600m歩くと昼食を食べようとしていた「そば処吉田」が右側にありました。
私の地図の見方の見誤りが原因で、今日2回目のウロウロをしてしまい、ここでも目と鼻の先のところで場所を聞いてしまいました。
お恥ずかしい次第です。
11時32分~11時52分、昼食(そば処吉田)=右側
37 そば処 吉田家
お店は11時30分を過ぎたところだったので空いており、私は天ざる、Yumiさんは天ぷらそばと、好きなものを食べるのが一番!!と思い注文しました。
 ※天ざる・天ぷらそば=各1,800円
店のご主人に「旧東海道の旅に今日出発しました」と話したら、「頑張って」と激励して下さり店前でシャッターを押して下さいました。

腹ごしらえしたので、さあ、再出発です。

そば処吉田から約300m歩くと京急・立会川駅に行く十字路があり、旧街道の十字路を右折して約70m先の右側に坂本龍馬像が北浜川児童公園の入口に建っていました。
※①=坂本龍馬像(右側)
051 坂本竜馬像
江戸時代、立会川駅近くの旧東海道浜川橋から海沿いの地域は、土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所で、土佐藩は黒船来航時、防衛のため屋敷内に砲台を築き、19才の龍馬が砲台要員として加わったという説が残っているそうです。
旧街道の十字路に戻り、右折して先に進むと、約20mでなみだ橋として有名な浜川橋が架かっていました。
11時55分、なみだ橋(浜川橋)
40 なみだ橋
浜川橋は、立会川が海に注ぐこの辺りの地名から名付けられましたが、別の名を「なみだ橋」といいます。
慶安4年(1651)に鈴ヶ森に刑場が設けられ、ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親戚の人達がひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから「なみだ橋」と呼ばれるようになったそうです。
12時06分 鈴ヶ森刑場遺跡跡(右側)

42 鈴ヶ森遺跡
刑場遺跡は何となく薄気味悪く、記念の写真を撮って早々に離れました。
102 鈴ヶ森刑場跡
この先から第一京浜を歩くのですが、時間とともに気温が上昇し、長袖シャツになって歩きましたが、暑いヨーの世界でした。
当初の終了予定地の大森海岸駅を横に見ながら通り過ぎ、約600m歩いた平和島口交差点の次の交差点を第一京浜から分岐して左側に進みました。
街道沿いの大森・美原通りは、旧東海道の道幅を比較的往時のまま残しており、町興しに向けてか史跡の標識や看板を作成するなど、旧街道の街並みを整備していました。
 
街道沿いに建てる看板を準備(大森・美原通り)
47 大森・美原通り
そして、環7を渡ったところから約400m歩いた左側に、日本橋から3番目の一里塚跡碑が新しい標板になって建っていました。

12時43分 003大森一里塚(右側)

49 003 大森一里塚
一里塚碑の先の大森警察署前交差点で第一京浜と合流し、再び国道沿いを歩きます。
第一京浜を約1.8㎞歩くと高架線に向けた工事中の京急蒲田駅が左側にあり、箱根駅伝で有名な蒲田の踏切も近いうちに様相が一変するでしょう。
13時11分、京急蒲田駅・踏切(右側)

52 京急蒲田駅の踏切
京急蒲田駅を過ぎた辺りが日本橋から16㎞地点で、道路脇に国道の管理区域仕切りの看板が掲げられていました。
 
 ※国道管理区域標識(左側)
53 道路管理区域区切り標
この辺りにきてYumiさんの足の具合が悪くなり、街道沿いの空き地に入って治療することにしました。

空き地に入り、T病院で処方して頂いた湿布薬を持参していたので、痛むところに貼り、足を動かすと何とか歩けそうなので先に進むことにしました。
今日は沢山歩いて来たので、この先の六郷神社の境内で休憩をしようと考え、街道沿いのセブンイレブンに立ち寄りおやつを仕入れました。
13時49分、六郷神社・本殿(左側)

56 六郷神社神殿
 六郷神社に入ると、境内には休憩できる場所がなく、しかたないので国道に面した鳥居の下で一服休憩をすることにしました。
13時51分~14時02分、休憩(六郷神社鳥居脇)
58 六郷神社入口
鳥居の縁石に腰掛け、コンビニで買ったお団子を食べると、休憩とお団子パワーでYumiさんも元気がでてきました。
また、足の具合も良さそうです。
ところが私が失態を演じてしまいました。
それは、鳥居の直ぐ隣りに建っていた一里塚碑を見落として出発してしったのです。
直ぐに地図に書き込んでおいた日本橋から4番目の一里塚跡に気が付き、慌てて戻り記録に残しました。
14時05分、004六郷一里塚跡碑(左側)

60 004 六郷一里塚
六郷一里塚跡を出発すると直ぐ左に山田金作商店があり、店の前から国道と並行して歩く旧道が左に分岐しているので、左側の細い道を歩きます。
この六郷の細い道は、大森・美原通りとともに旧東海道の道幅を残す数少ない道だそうです。
国道に平行する旧街道は六郷土手交差点で国道と合流して、多摩川に架かる新六郷大橋を渡ります。
14時11分、新六郷大橋(東京側)=左側
62 六郷大橋(東京側)
六郷の渡しは、旧東海道における八幡塚村と川崎宿の間を結ぶ重要な渡船場でした。北条記に武田信玄の侵入を阻止するため六郷橋を焼き落としたと記述があり、慶長5年(1600)に家康が架橋し、慶長18年(1613)頃にも架け替え工事が行われました。しかし、貞享5年(1688)の洪水で流失してから架橋しなくなり、渡船が用いられるようになったそうです。
後ろに東京・大田区、前に神奈川・川崎の違う景観、河川敷からの歓声などを聞きながら、多摩川からのほどよい風を浴びて歩くのは、爽快です。
キョロキヨロとしながら橋を渡ると、右手歩道の橋柱に、渡し船の模型が飾ってありました。
14時21分 新六郷大橋(川崎側)=左側

65 六郷大橋(川崎側)
渡し船の模型を見ながら、江戸の頃はこのような舟で行き来していたのだろうなと、思いを巡らせました。
橋を渡ると川崎宿で、低い住宅が多かった東京側とは違い、高層マンションが立ち並ぶ街並みに一変しました。
橋を渡り第一京浜の下を潜り本町交差点方向に向かって街中を歩くと、本町一丁目の交差点を渡った先の左側に、川崎宿の田中本陣跡のパネルが建っていました。
14時29分、川崎宿・田中本陣跡(右側)

68 川崎宿(田中本陣跡)
歩道が1m位と狭いのと、多くの人が歩いているため、合間をぬって写真撮影しましたが、「スイマセン」と「ありがとうございました」を連発しながら無事完了しました。
本陣跡から約350m歩くと砂子一丁目交差点があり、交差点手前の右角に川崎宿解説板が建っていました。
 ※2=川崎宿解説板(右側)
001 川崎宿解説板
川崎宿解説板の数m先に中の本陣跡があり、説明標識が建っていました。
 ※=中の本陣跡(右側)
002 中の本陣跡
中の本陣跡の真向かいの交差点の手前左角に、問屋場跡があり説明標識が建っていました。
 ※2=問屋場跡(左側)
003 問屋場跡
砂子一丁目交差点から約100m歩くと砂子交差点で、手前左角の三井住友銀行の前に川崎宿と明治維新碑が建っていました。
 ※2=川崎宿と明治維新碑(左側)
004 川崎宿と明治維新碑
Yumiさんと京都三条大橋を目指して出発した第1回旅は、砂子交差点が今日の到着地です。
14時37分 砂子交差点到着
我が家にとって歴史的なゴールでしたが、人が多くてゆっくり感傷に浸っていることはできません。

また、人が多く、到着式の写真を撮ることがなんとなく恥ずかしく感じ、次回の出発式の時に撮影することにして、我が家にとって歴史的な旅の初日は終わりました。

 交差点からJR川崎に出て帰りの電車に乗ると、二人とも爆睡でした。

【次回旅の予告】
次回(第2回)は3月31日㊏に「川崎駅・砂子交差点から東戸塚・福寿歩道橋入口までの18.54㎞」を旅する予定です。


【街道旅のご案内】

※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/

※《街道旅-3》 旧中山道二人旅

旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/

※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅

H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 

※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅

江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  

【みちのく潮風トレイル】

環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間と男二人で80歳までの完歩を目指してR03(2021).10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイルを80歳までに完全踏破する予定でいました。
ところが相方が家庭の事情から外れることになり、私一人で歩くことになりました。
五街道のように多くのハイカーが歩いている道と違いほとんど歩いている人が居ないため、私に万一のことがあった時、誰も助けを求めることができません。
Yumiさんは特養でお世話頂いているとはいえ私に万一のことがあってはならない状況下にあるため、私の脚力などを考えながら安全なルートを虫食いになりますが、計画して歩きたいと思います。
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https://michinoku-trail.blog.jp/