【天候】曇り一時晴れ
【宿場】(53)大津宿⇒三条大橋

【行程】歩行距離=10.75㎞ 総距離=493.27㎞
大津駅・御幸町交差点⇒(2.20㎞)⇒119走井一里塚⇒(4.45㎞)⇒120御陵一里塚⇒(4.10㎞)⇒京都
・三条大橋(ゴール)

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第37回旅の宿場)
17 37回宿場
  ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第37回
  ↓第37回の旅ルート
  
(J
R大津駅・御幸町交差点 ⇒ 京都・三条大橋(ゴール)
第37回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
05時30分、起床
さあ、東海道夫婦二人旅の最後の日を迎え、身支度を整え、二人分のザックを整理し、全ての旅支度を終えました。
7時からホテル提供の朝食を食べ、Nさんとの待ち合わせがあるのと、最後の旅なので少し時間的ゆとりを持ちたいと考え、予定より
30分早くホテルを出発することにし、Nさんに「12時頃の到着を目指して出発します」とメールを送信しました。
《移動》
07時32分、ホテル発

006 ホテル前
天気は曇り空ですが、雨の心配はしないでよさそうなので、雨に降られずに三条大橋に着きたいと思いながらホテルを出発しました。
ホテルを出て最初の京町一丁目南交差点を進行左側に渡り、約80m歩くと京阪電鉄が西近江路から右に分岐します。
 京阪電鉄の分岐(直進)
008 京阪電鉄の分岐
京阪電鉄はこの後、御幸町交差点の近くに行った時に走ってきましたが、自然の流れの中なので、残念とは思いましたがタイミングが合わなかったので致し方ありません。
分岐付近から約120m歩いた地点が今日の出発地であり、東海道夫婦二人旅の最後の出発です。
今までと同じように出発地を記した看板を掲げ、写真を撮る出発式を行いました。
【=旅=】
07時38分、御幸町交差点(出発地)

009 御幸町交差点(出発地点)
さあ、最後の東海道五十三次大津宿から三条大橋への旅が始まりました。
出発地の御幸町交差点付近は八町通り(宿場通)と云われ、上関寺から札の辻まで距離が八町(872m)あったからと云われ、大名の宿泊施設である本陣や庶民の宿である旅籠屋が並んで、大変賑わっていたそうですが、今は閑散としていて寂しい限りです。
 旧八丁通り
011 八丁通り
春日町交差点で道路の反対側に渡り、左に約30m歩くと右側に昨日の御幸湯とおなじように銭湯「小町湯」がありました。
何とも風情を感じさせる建物で、開店していて一人だったら入浴して行きたい気分になりました。
07時42分、小町湯(右側)
012 小町湯
小町湯から約90m歩くと右側に、東海道本線と京阪電鉄が交差していました。
 
東海道本線(下)と京阪電鉄(上)の交差=右側
014 東海道線と京阪電鉄の交差
JR東海道本線の跨線橋の上を京阪電鉄が東海道本線を横切る形で走っていました。
この付近の東海道本線は複々線になっていますが、南側(奥)の二線はレンガ造り、北側(手前)の二線はコンクリート造りになっているので、北側が後で造られたと一目で分かります。
ここは通称「蝉丸跨線橋」(プレートは上関寺となっている)と云われ、レンガ造りの方は大正10年に竣工し、トンネル方式で掘られたようです。
そして跨線橋から約100m歩くと、右側に關蝉丸神社下社があり、参拝に立ち寄りました。
07時45分、關蝉丸神社・下社
017 關蝉丸神社下社
神社の入口にある「關蝉丸神社」と「音曲芸道祖神」の石碑は、先人のHPに埋もれて上部だけしか石碑が出ていないと記されていましたが、今は全部見れるようになっていました。
07時46分、關蝉丸神社(右側)
019 参道入口
参道を入ると直ぐに踏切(京阪電鉄)があり、渡った先に鳥居があり、その先が境内、社殿になっており、静岡県興津の清見寺と同じように参道の途中を電車が走っておりました。
踏切に警報機が付いていますが、左右を確認して踏切を渡り、鳥居を潜って境内に入りました。
關蝉丸神社は、琵琶の名手蝉丸を祀る神社で、旧東海道沿いに三社あり、今いるところが下社です。
平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、名前が記されるなど古くから歌謡音曲の神として知られているそうで、芸能関係する人は参拝に訪れているのかなと思いました。
私とYumiさんは、まず本殿に行き、お賽銭をご奉納し、声を出してYumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
 
※本殿
026 本殿
境内には、芸能の碑、重要文化財になっている「蝉丸型」という「時雨燈籠」、現在は枯渇してしまった「関の清水」があり、本殿右横の坂を上った処に、小野小町の「小町塚」がありました。
 
能の碑=本殿左
024 芸能碑
 時雨燈籠(重要文化財)=境内左
028 時雨燈籠
 
小野小町の小町塚=本殿横の坂を上がった処
032 小町碑
 関の清水(跡)=境内入口右
034 関の清水
境内で史跡を見学していると警報機がなるので、踏切を見ると京阪電車が走ってきました。
このような光景はなかなか巡りあわないので、急いでシャッターを押しました。

 神社参道を横切る京阪電車
022 鳥居前の踏切(京阪電鉄)
神社の参拝を終わり、踏切を渡って旧東海道に戻り、右折して約190m歩くと京阪線の上関寺国道踏切があり、踏切を渡って約40m進むと、右側に安養寺があり山門入口の右脇に石碑が建っていました。
08時01分、逢坂の碑(右側)
036 逢坂の碑
逢坂は、日本書紀によると、神功(しんぐう)皇后の将軍・武内宿禰(たけのうちすくね)がこの地で忍能王(おしくまおう)とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る關蝉丸神社や關寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られていました。
国道161号(西近江路)は、この先170m先の逢坂一丁目交差点で国道一号と合流し、私達もこのまま交通量の多い国道(歩道が交差点の先でなくなる)の右側を歩くのは危険なため、国道と京阪電車の間の歩道を歩くことにしました。
08時05分、分岐(逢坂一丁目交差点)
039 逢坂一丁目交差点
 国道と京阪電車の間の歩道
040 道路と電車に挟まれて
Yumiさんの左隣りに電車が、右の国道に大型貨物車が同時に走ってきたら、怖いのではないかなと思わせる歩道でした。
線路と国道に挟まれた歩道を歩くと486kの距離標が建っていました。

08時08分、486k距離標(左側)
042 486㎞ポイント
だんだんとゴールが近づいてきた、距離表示になりました。
距離標の先に名神高速の高架アーチ橋が架かっており、高架橋を潜ったところが今日の1㎞地点です。
時速2.5㎞を予定速度として設定したのですが、關蝉丸神社に立ち寄ったりしたので、23分のところを35分くらい要してしまいました。
高架橋を潜って約60m歩くと、道路反対の右側に關蝉丸神社上社がありました。
08時11分、關蝉丸神社・上社(右側)
044 關蝉丸神社・上社
狭い歩道の中で写真を撮るので、Yumiの立つ位置を言葉では伝わらないため、両手で位置を動かしてシャッターを切るので大変です。
私の時は、
①撮影するカメラの画面を決める
②Yumiさんにカメラを持たせて、画面を見ながらカメラの位置を決める
③私が立つ
④シャッターを押す
⑤画像を確認
ダメだと、②から⑤をもう一度やり直す
ので、人の二倍、三倍の時間が掛かります。
神社の参拝は、時間がないのと、横断歩道がないため、目礼だけして失礼しました。
神社から約100m歩くと道路反対の右側に弘法太子堂があり、その入口左側に寛政6年(1629年)11月建立の逢坂常夜燈が建っていました。

08時19分、逢坂常夜燈=右側(道路反対側から望遠撮影)

050 逢坂常夜燈
この辺りは、逢坂一丁目交差点から上り坂になっており、この先も上りになっているため、私もYumiさんもダウンジャケットを脱ぎました。
Yumiさんは「寒い」といつもと同じように不満がでましたが、首のところを触ると汗ばんでいたので、「また寒くなったら着るから」と話し、納得してもらいました。
常夜燈から約110m歩くと左側の壁面に、車石のプレートが埋め込まれていました。
08時22分、車石壁面プレート(白丸印)=左側
051 車石・壁面プレート
遅れ気味になっているので、少しスピードアップしようとYumiさんに「少し早く歩くよ」と促しましたが、お鼻のお手入れが忙しいのか、速度は上がりません。
車石プレートを過ぎ、右カーブの上り坂を歩くと頭上に架かっている歩道橋(逢坂山歩道橋)があり、その下を通った交差点が国道の峠で、交差点の先から下り坂となり、反対側(右)に逢坂常夜燈と逢坂山関跡碑が建っていました。

 分岐(交差点を渡る)=白丸印が常夜燈
054 分岐(横断)・常夜燈

08時24分、逢坂常夜燈と逢坂山関跡碑(右側)
055 逢坂常夜燈・逢坂山関跡
常夜燈と石碑を交差点を渡った右に見て、街道を左に進むと、直ぐ右側に逢坂の関記念公園があり、木門が建っていました。
08時25分、逢坂の関記念公園(右側)
057 逢坂の関跡
逢坂の関は、大化2年(646年)に設けられたと云われており、歌枕にも詠まれた場所だそうです。
旧東海道は、公園のところで国道1号と分岐して、歩道をそのまま右に進みますと、うなぎで有名な「かねよ」の店舗が道の両側に軒を連ねてありました。
 
ウナギ・かねよ=左側
060 うなぎ・かねよ
かねよから約40m先の右側に、3つ目の關蝉丸神社があり、神社に上る階段の手前右側に「一等水準点」が、その横に車石が保存されていました。
08時31分、
一等水準点(右側)
063 一等水準点
 
車石(白丸印)=右側
066 車石
車石は、大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも年間15,894輌の通行があり、この区間は大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805年)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用道路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを「車石」と呼んだそうです。
08時33分、關蝉丸神社(右側)

068 蝉丸神社
關蝉丸神社は天慶9(946)年蝉丸を主神として創建され、蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され当宮の免許により興業したものである。その後、万治3(1660)年に現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豊玉姫命を合祀してお祀りしてあります。
神社から約30m歩くと、左側の京阪線大谷駅入口角に元祖走井餅本家の石碑が建っていました。
08時34分、元祖走井餅本家跡(左側)
070 走井餅碑
走井餅は江戸時代に売っていた名物餅だったそうです。
そして、石碑に沿って左折すると京阪線の大谷駅で、計画変更しなければ先月はここまで歩いてくる予定だったのかと、幻となった到着&出発場所(大谷駅入口)で写真を撮りました。
 
大谷駅入口(幻の到着&出発の地)=左側
073 京阪電鉄・大谷駅前
大谷駅前から約70m歩くと、左側に歩道橋の階段があり、階段を通って道路の反対側に渡りました。
歩道橋階段の右側を直進すると、国道に出るのですが、信号も横断歩道もありません。
 
歩道橋から京都方面の眺め
075 歩道橋からの眺め
 
歩道橋の下り
076 分岐(歩道橋②)
歩道橋を渡りそのまま約150m歩いたところが、今日の2㎞地点で、出発から約1時間が経過しました。
そして、2㎞地点から約170m歩いた左側に、大津算盤の始祖の碑が建っていました。
08時43分、大津算盤の始祖・片岡庄兵衛の碑(左側)
078 大津算盤始祖の碑

江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612年)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝えられています。片岡家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったそうです。碑の場所には、昭和の初期まで同家の子孫が住まわれていたそうです。 石碑から数軒先に、「走井」と書かれた行灯看板が架けられていました。
ここは月心寺で、第13代成務天皇の産湯に用いられたという名水「走井の井戸」があり、見学しようとしたら戸が閉まっていたので諦めて歩き始めると、管理人が走ってきたので「見せてもらえるのかな」と思ったら「予約がないと開けられません」といって、塀の外から説明を始めましたが、写真だけ撮って一礼して失礼しました。
規則は規則ですが、何とも不親切な人でした。

塀の外からの寺院の中(Yumiさんは背が低いため見れません)

085 月心寺・寺院内
月心寺を過ぎ、約40m歩いた左側に道標らしき石碑が建っており、書かれている右一里丁から一里塚跡付近ではないかと思いました。
08時46分、119走井一里塚跡付近(左側)
086 大谷一里塚付近
大津市は史跡保存に熱意がないようで、市内の一里塚跡にパネル等の標示もありません。
標示板を建てたりするのはいろいろと大変でしょうが、他府県から沢山の人が街道旅で通るので、旅人に優しい街であって欲しいと思いました。
一里塚付近を通り約90m歩くと、左側に村松石材商会があり、大きな切断機が目に止まり記録に残しました。
 
村松石材商会(左側)の切断機
088 石材店の切断機
石材店から約550m歩くとY字路の分岐があり、右に進み名神高速の下を潜ります。
 
分岐(右に進む)
089 分岐(右)
そして、名神高速道路の高架下を潜ったところが、今日の3㎞地点です。
3㎞地点から約50m先の左側に「KOBAN」と書かれた建物、正面の「追分歩道橋」の手前を左折しました。
08時57分、分岐(左折)
090 分岐(左)
分岐から右の仏立寺を眺めながら約400m歩くと、Y字路分岐の髭茶屋追分がありました。
09時02分、髭茶屋追分(道標は壊れて撤去)=左側
091 髭茶屋追分・分岐を右
東海道は追分を右手方向に真っ直ぐ進み、京街道は左手に進みます。
京街道は東海道とも云えるようで、西国の大名等は京を通らずここから左方向へと進んだようで、大坂(現在の大阪)へと向かい、高麗橋まで続いていました。
この街道は「伏見街道」とも呼ばれていたらしく、道標が2つ建っていました。一つは「みきハ京ミち」「ひたりハふしミみみち」「柳緑花紅」と書かれていて、もう一つには「蓮如上人」「是より十丁」とあった。ちなみに前者の道標は複製品で、本物は大津市の琵琶湖文化館近くに移された後、現在は滋賀県の安土町にある「滋賀県立安土城考古博物館」にあるそうです
※追分碑がない
追分なので、分岐の道標があるかと思い探しましたが、ありません。
近くにいた地元の方に聞くと、「以前は2つ石碑が建っていたが、かなり前に1本が車がぶつかって折れてしまい、もう1本も車がぶつかって折れ、昨日撤去されたんですよ。そして追分の道標なので、役所に復旧を陳情しているところです」と詳しく説明して下さいました。
と、云うことで、追分の道標は1月16日に、無くなってしまいました。
追分の分岐から約80m歩いた右側に閑栖寺があり、入口右側に東海道道標と車石が置かれていました。
09時07分、東海道道標・車石(右側)
092 東海道碑・車石碑
車石は、東海道五十三次、大津八丁(札の辻)から京三条大橋までの約3里の間、物資輸送する牛馬車の通行を楽にするため、花崗岩に溝を刻んで切石を敷き詰めた。文化2年(1802年)心理学者脇坂義堂が発案し、近江商人中井源左衛門が財を投じたと伝えられています。
この付近は、車道と人道に別れていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道であったと伝えられています。
寺院から約170m歩くと分岐があり、直進しました。
 分岐(直進)
095 分岐(直進)
分岐から約80m歩くと、左側にベンガラ色の連子格子の家がありました。
09時11分、ベンガラ色の連子格子の家(上田家)=左側
096 連子格子の家(上田家)
上田家から約140m歩くと交差点に出る手前に歩道橋に上る階段があり、歩道橋を使って国道1号を渡ります。
 
分岐(右側の歩道橋の階段を上る)
098 分岐(右階段)
 
歩道橋からの京都方面の眺め
099 歩道橋からの眺め
 
歩道橋の下り
101 分岐(直進)
歩道橋を渡り、そのまま直進し、約80m歩くと分岐があり、右折して進みます。
 
分岐(右方向に進む)
102 分岐(右)
分岐を曲がった処の右川にある竹内医院が今日の4㎞地点だったので、Nさんに「今、4㎞地点を通過」と現在の位置をメール連絡しました。
09時17分、4㎞地点(竹内医院前)通過
N=12時過ぎですね
E=急ぎます
N=時間調整できるので、急がないで来て下さい
とやり取りをしながら進みました。
そして、竹内医院から約80m歩くと、右方向に入る道の先角に道標が建っていました。
09時18分、三井寺観音道道標(左側)
103 三井寺観音道
道標から約220m先の左側に、京都市市境の標識が建っていました。
東京日本橋(中央区)を出発して37日目、最後の自治体である京都市に着きました。
Yumiさんは何にも分からなくなってしまいましたが、健常者だったら「やったね」と喜びあったかもしれません。
私は一人、心の中で、「とうとう、京都に着いた」と思い、市境の標識の写真を撮りました。

09時21分、京都市市境(左側)
105 京都市市境標柱
京都市に入り、約250m歩くと一灯式の信号がついた旧三条四ノ宮交差点(京阪・京津線の四ノ宮駅入口)がありました。
 
旧三条四ノ宮交差点
108 旧三条四ノ宮交差点
交差点から約100m歩いた左側に、ローソンがありトイレを使用させて頂きました。
コンビニでトイレを借りた時は、必ず何か購入するのですが、今日はトイレだけで失礼しましたので、この先、この道を通った時は必ずお礼の買い物をさせて頂くつもりです。
お許し下さい。
ローソンでトイレを済ませ街道を約100m歩くと、右側に六角堂が見え、徳林庵がありました。
09時33分、徳林庵(六角堂)=右側
109徳林庵・六角堂
徳林庵は山科廻地蔵が祀られ1550年に開創され、山科地蔵が祀られてから東海道の守護仏となっている名跡
ですが、街道から六角堂を見ただけで失礼しました。
徳林庵から約230m歩いた左側のコ-トtake優付近が、今日の5㎞地点です。
09時37分、5㎞地点通過
この1㎞は、史跡のないところはスピードアップした効果がでて、20分で歩るくことができ、平均の2.5㎞/hとなりました。
5㎞地点から約200m歩くと、モダンな山科駅前の交差点に出ました。
09時40分、山科駅(右側)前
115 山科駅前
交差点を渡った右側のホテルブライトンの建物脇の植え込みに旧東海道の石碑が、さらにその直ぐ先のに明治天皇御遺跡の石碑が同じように植え込みに建っていました。
09時42分、旧東海道道標(右側)
116 旧東海道碑
 明治天皇御遺跡
118 明治天皇御遺跡
明治元年9月、2年3月、11年10月の三回、古く戦国時代から東海道の茶店、宿場または本陣として洛東山科の名刹毘沙門堂御領地内にあった「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御駐輦されたことを記念して建立されたものです、
遺跡碑から約210m歩いた右側に入る道の角に、道標が建っていました。
09時46分、吉祥山安祥寺道標(右側)
119 吉祥山安祥寺道標
道標から約40m先の安祥寺川を渡り、220m歩くと左に入る道の左角に、五条別れの道標が建っていました。
09時50分、五条別れの道標(左側)
121 五条別れの道標
道標は、宝永4年(1707年)11月に建立された。
道標の一方は、「右ハ三条通り」とあり東海道を指している。もう一方は、「左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐまきよ水 道」と書いてあるようで、渋谷街道になっている。
道標から約190m歩くと、右側に静かな佇まいの黒塀の家が建っていました。
09時54分、黒塀の家(右側)
123 黒塀の家
この家の辺りが、今日の6㎞地点です。
ここから約160m歩くと県道143号(三条通り)と合流し、右に進みます。

 
分岐(右に進む)
124 分岐(右)
交差点を右折して約70m歩くと東海道線が走るガードがあり、ガードを潜って約130m歩くと、右に天智天皇陵があり、見学に行きました。
09時59分~10時11分、天智天皇陵(右側)
 
参道入口
126 天智天皇陵参道
 中間の参道仕切り
128 天智天皇陵・参道②
 
天智天皇陵
129 天智天皇陵
大正天皇と昭和天皇の武蔵野陵は、陵墓が見えるのですが、天智天皇陵は二重の柵で仕切られている上に、樹林で何も見えませんでした。
陵は見学する人とすれ違うことなく私とYumiさんの二人だけで、時間も少し歩き方が早かったのか、予定した時間(約30分)よりかなり早く見学が終わりました。
参道入口に戻り左に数メートル進むと、参道入口の脇に日時計が建っていました。
10時12分、日時計(右側)
131 日時計
時計は天智天皇が水時計を作ったので、昭和の初め頃、時計組合が造ったものらしい。時計は縦型で棒2本水平に突き出ている。そしてその2本の陰が交わるところが現在の時刻のようです。
陰を見ると10を過ぎたところと、12の近くにあり、概ね合っているようです。
日時計の処で踵を返し、天智天皇陵入口を通り過ぎ、山科警察御陵交番の斜め前の交差点まで戻り、交差点を渡りました。
交差点を渡ると「陵ケ丘みどりの径」石碑が建っており、その隣りに冠木門が建っていました

10時14分、陵ケ丘みどりの径(左側)
134 陵ケ岡みどりの径碑
 冠木門
135 冠木門
ここは遊歩道で、京阪電鉄京津線の廃止跡だそうです。
現在の京阪電鉄京津線は、三条通りの反対側辺りから地下に潜り、京都市営地下鉄に乗れ入れているようです。
私は東海道をあるこうと遊歩道は歩かずに、交差点を渡って、左に石碑と冠木門を見て、約90m歩いた処を左折しました。
10時15分、
分岐(左折)
137 分岐(左)
左折する場所にあった建物は取り壊されて更地になっていましたが、工事が始まるようなので、シガドライ(白い吊り看板)の手前を左折すると覚えた方が現在は良いよいと思います。
左折して細い道を約50m歩くと左からの遊歩道と合流し、そのまま直進します。
 
遊歩道と合流
138 分岐(合流)
 分岐(小さいクランク形に進む)
139 分岐(直進)
上の写真の分岐から約150m歩いた付近が、史跡の表示はありませんが、一里塚跡ではなかったかと云われているところです。
10時19分、120御陵一里塚跡付近
141 御陵一里塚跡付近
右側は住宅、左側は田畑で、一里塚の「い」の字の跡形もないのは、何とも残念なことです。
一里塚跡付近から約120m歩いた所の十字路は直進。

143 分岐(直進)
途中の小さい川を渡った先の十字路も直進します。
144 分岐(直進)
この分岐の辺りが、今日の7㎞地点です。
10時24分、7㎞地点通過
この辺りから日ノ岡峠への、上り坂が始まりました。
坂道は一歩ごとに傾斜を強め、汗をかかないように少し歩く速度を緩め、Yumiさんが遅れないようにしました。
分岐から約160m、息を切らせながら歩いていると、左に入る道の角のブロックに囲まれるように、道標が建っていました。
10時27分、明見道道標(左側)
145 明見道道標
ここでひと休みして、上り坂をさらに歩くと、右側に鬼瓦を壁に飾った家がありました。
10時32分、鬼瓦(白丸印)を飾った家(右側)
148 鬼瓦の家
ここまで来て、亀の水不動尊を無意識に通り越したことに気が付きましたが、そのまま直進することにしました。
亀の水不動尊と亀の口から流れている亀の水は、次にこちらの方に来た時に、立ち寄りたいと思います。
鬼瓦の家の少し先が峠の頂上のようで、緩やかな下り坂となりました。
細い道なのですが、ひっきりなしに車が走ってきて、「プー、プー」と警笛を鳴らされながら歩いていると、
 
狭い道を走り去る車
149 峠道
県道143号が見える右側の民家敷地内に、旧東海道の石碑が建っていました。
10時37分、
旧東海道碑(右側)

150 旧東海道碑
碑からさらに下り坂を歩くと先ほど見えた県道143号(三条通り)に合流する交差点に出ました。
 分岐(直進)
152 分岐
街道は、交差点からまた上り坂になっている道をそのまま真っ直ぐ進むと、約50m先の左側に車石のモニュメントが建っていました。
10時40分、車石モニュメント(左側)
153 車石モニュメント
 
車石モニュメント碑
155 車石モニュメント碑
ここは、京都市営地下鉄東西線開通に伴い廃線になった「京阪電鉄・京津線」の跡地に作られた広場です。
上りの坂道を約120m歩いたところが今日の8㎞地点で、そこから約200m歩いたところに九条山交差点があり、右側に交差点を渡りました。
10時44分、九条山交差点
159 九条山交差点
渡って左に進むと右に上る道がありますが、そのまま真っ直ぐ県道143号を歩きます。
 分岐(直進) 
160 分岐
分岐の先に陸橋があり、このあたりが坂の頂上で、ここから下り坂になり、陸橋から約350m歩くと蹴上浄水場前交差点となり、私とYumiさんはそのまま真っ直ぐに直進しました。
ところが、この後に分かったのですが、信号付近に右斜め方向に上って行く道を行くと、琵琶湖から鴨川までのインクライン(傾斜鉄道)の遺構のところにでたことが分かりました。
しかし、この時は、行こうかどうか迷ったのですが、目的の場所に辿りつくか不安だったので行きませんでした。
話しを戻すと、レンガ造りの蹴上浄水場の建物を左に見ながら約260m歩くと、左側に地下鉄蹴上駅入口があり、その少し先の右側にレンガ造りのトンネルがありました。
10時57分、ネジリマンボウ(右側)
162 ネジリマンボウ
 
ネジリマンボウの内部
164 ネジリマンボウの中
ネジリマンボウは、内部のレンガが斜めにねじって積まれていることから付いた名前のようで、この上に「琵琶湖疏水」のインクラインが敷かれています。
トンネルを抜けて、出口を右に進むと(上り道)先ほどのインクラインの遺構が広がっており、ここで蹴上浄水場前の交差点を右に進むと遺構のところに出たことが分かりました。
インクラインの遺構を見たいと思い、急傾斜の土手を上り、「ここを上がるの?」というYumiさんを引き上げて、インクラインの脇に立ちました。
10時59分、インクライン遺構(右側)
166 インクライン跡
インクラインの遺構には、線路がまだ敷かれていて、線路を歩いて下ってくる人もおりましたが、インクラインの遺構を見ることができたので良かったと思いました。
ちなみに琵琶湖疏水は、明治維新で東京に遷都したため、沈んだ京都を蘇らそうと府知事(北垣国道)が建設を指示し、琵琶湖から京都に水を引いたもので、インクラインはその琵琶湖疏水と高低差のある京都市内を舟で行き来するよう、レールを敷き舟を上げ下げしたものだそうです。
インクラインからネジリマンボウのトンネルに戻ろうとすると、九条山浄水場からの導水管が敷設されていました。
 九条山浄水場からの導水管
168 放水路
ネジリマンボウのトンネル辺りが、今日の9㎞地点で、ゴールまで1.75㎞です。
Nさんに「今、蹴上交差点。12時頃にゴールかな」とメール連絡すると、「あと30分くらいなので、急いで行かないと着いてしまうね」と返信があり、いよいよゴール間近を感じました。
11時04分、蹴上交差点
169 分岐(左)
交差点の横断歩道を左折すると、右側の一段低いところに歴史を感じさせるレンガ造り建物の関西電力蹴上発電所がありました。
11時06分、関西電力蹴上発電所(右側)
170 関西電力発電所
明治時代の建造物のようで、見学することができたら見てみたいと思います。
発電所から約50m歩くと、右側に昔の町屋をそのまま使った小さなお宿の「あずきや」があり、ウインドウに昔のタイプライターが展示されていました。
11時08分、お宿・あずきや(右側)
172 格子戸の家:あずきや
 
ショーウィンドウに昔のタイプライター
173 あずきや:昔のタイプライター
あずきやから約230m歩くと、右側の岡崎通りに入る手前角に道標が建っていました。
11時12分、三条通道標(右側)
174 三条通道標
道標のところで三条通りを渡り、進行方向左側に移りました。
道路反対側の京都三条広道局を過ぎた辺りを見ると、屋根が段違いに続いている家並みが建っていて、京都らしい感じがしてきました。
 段違い屋根の家並み(右側)
176 繋がっている屋根
三条神宮通交差点を渡り、約160m歩くと白川橋があり、橋のたもとに道標が建っていました。
11時18分、三条白川橋道標(左側)
177 白川橋
延宝6年(1678)に 建立され、道標に「是よりひだり ち於んゐんぎおんきよ水みち」と刻まれていました。
 
白川橋からの眺め
180 白川橋
川の両岸に柳の木が植樹され、風情を感じました。
そして、橋から約50mほどで今日の10㎞地点になり、予定より早く到着しそうなのでNさんに「今、白川橋を渡った。後、800mぐらいです。進行左側を歩いています」とメール連絡し、ゴールを目指しました。
10㎞地点から約90m先に地図が掲げられており、手の指で三条大橋が届くようなところにいることを確認し、写真を撮って記念にしました。

11時23分、京三条付近地図(左側)
181 三条大橋付近図
東大路通の東山三条交差点を渡り、約400m歩くと左側に京都三条大橋局があり、風景入り消印スタンプを受けるため立ち寄りました。
大津駅近くの郵便局から何カ所かの郵便局に立ち寄り、風景入りの押印を受けようとしましたが、「置いてない」と云われてきたので、恐る恐る局員に聞くと、「あります。消印を押印しますので、切手を貼って出して下さい」と云われ、ホッとするとともに急いで80円の記念切手を1シート購入し、シートの一枚を持参した白紙の用紙に貼り、局員(女性)に押印頂きました。
 
日付・風景入り消印
196 記念の消印
三条大橋の図柄が入った、良いスタンプを押印できました。
郵便局を出て約90m歩いた三条大橋手前の左側に、高山彦九郎の大きな像が建っていました。
11時38分、高山彦九郎の像(左側)
184 高山彦九郎像
高山彦九郎は群馬県の出身で、18才の時以来5回上洛し、京都に出入りする時には銅像のように、京都御所に向かって拝礼したそうです。明治維新を成就した勤皇の志士は、この姿を心の鑑と仰いだと伝えられています。
銅像の先の三条大橋交差点を渡るとゴールの三条大橋です。
 三条大橋交差点
186 三条大橋交差点
赤信号で待つ間、「とうとう、ゴールだ」と思い、深呼吸してから交差点を渡り、三条大橋の東詰親柱の脇に立ちました。
11時39分、三条大橋東詰親柱
187 三条大橋入口
さあ、ゴールの三条大橋西詰まで、あと少しです。
橋の途中で、待ち合わせしている「弥次・喜多像」の方を見ると、Nさんが手を振っているます。

 手を振って出迎えて下さるNさん(白丸印)
189 出迎えの長島さん
E=Yumiさん、Nさんがいるよ
Y=え、ほんと。どこ
E=(指を差して)あそこだよ
Y=本当だ
と話しながら、Nさんに手を振りながら三条大橋を渡り、あと三歩、あと二歩、そしてゴールの三条大橋西詰親柱に到着しました。
11時42分、京都・三条大橋西詰親柱着(左側)
190 三条大橋・到着
到着した時に使う「祝 旧東海道完歩」と記した看板を掲げ、到着式を行いました。
するとNさんが、到着のお祝いにと到着看板を作ってきて下さり、「弥次さん・喜多さん像」のところで、到着記念のセレモニーを行いました。
11時43分、旧東海道踏破到着セレモニー(左側)
192 三条大橋・到着
思わぬNさんの祝福に心から感謝し、弥次さん・喜多さん像のところで、江戸・日本橋から京・三条大橋まで完全踏破した感激はありませんでしたが、37回の旅の思い出が走馬灯のように思い出されてきました。
弥次・喜多像の前の縁石に座り、Nさんと東海道の思い出話しをしながら到着した余韻を楽しんだ後、三条大橋を後にしました。
 
Nさんと談笑するYumiさん
194 弥次・喜多像
 到着した三条大橋(西詰からの眺め)
197 三条大橋(弥次喜多像から)
この後、先斗町で昼食している時、山の会でKYOの会を結成し懇意にしているYさんから祝福のメールが届きました。
【メール=絆】
「お江戸日本橋を出発したのが2年前の3月11日(東日本大震災の日)、京三条大橋に到着したのが1月17日(阪神淡路大震災の日)というのも奇遇です。
お二人が助け合い、また沿道の人々に助けられ、成就することができたのも「絆」、震災で人々が助け合い復興するのも「絆」、という縁でしょうか・・・・。」
と、温かい祝福メールを頂きました。
出発日も到着日も自然の流れの中で決めた日で、Yさんからのメールを噛みしめさせて頂くとともに、「絆」を大切にして行きたいと思います。

・・・昼食から夕食の祝杯までは、「番外編=京都・大阪(乾杯)」に掲載しています・・・
    お時間がございましたら、ご覧下さい。

お問い合わせやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールアドレスをコピーしてお使い下さい。
  (専用メール)  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/