【天候】曇り一時雨
【宿場】(53)大津宿

【行程】歩行距離=10.15㎞ 総距離=482.52㎞
瀬田駅
・一里山二丁目北交差点⇒(4.15㎞)⇒117粟津一里塚⇒(4.50㎞)⇒118石場一里塚⇒(1.50㎞)⇒大津駅・御幸町交差点
【ルート図】

  ↓宿場(黒囲みが第36回旅の宿場)
08 36回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第36回
  
第36回の旅ルート
  
(JR瀬田駅・一里山二丁目北交差点 ⇒ JR大津駅・御幸町交差点)
第36回ルート
【再訪】
 中山道旅で瀬田~大津を旅し、夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を補完しました。
  
〔※①〕=平成30(2018)年10月15日
  〔※②〕=平成30(2018)年11月 4日
【旧東海道の旅】
《トイレ通い》
05時35分、起床
トイレの他に目薬の後遺症で、目の周りに薬が付くことや、目やにで瞼が開きづらくなるなどで、目の周りを洗うために起きていました。
何回もトイレに行っているのですが、ダイレフトにトイレの扉を開けることはなく、出入り口の扉を開けるので、椅子やウォーキングシューズを置いて違うことを明示しました。
すると「トイレは何処?」という状態になるなど、最後までトイレの扉を覚えられませんでした。
《洗顔&身支度》
前日のホテルと同じように歯磨き、洗顔、整髪は、一つひとつ指示するか、準備しないとできない状態でした。
ただ、一つが終わると出て行こうとした前日と違い、歯磨き⇒洗顔⇒整髪を行いました。
身支度は、Yumiさんの足ケアーから始めシャツを着る前に、血圧を測定(手首式)、コソプド点眼液を点眼、少ししてそしてアイファガン点眼液を点眼しました。
これ以降はYumiさん一人で着てもらい、身支度が終わったところでザックの荷造りを行い、出発する準備を整えました。
《朝食》
06時30分~06時53分、朝食
朝食は6時30分からなので、それに合わせて食事会場に行きました。
朝食会場はバイキング形式で、私が二人分(Yumiさんは私の後ろに容器を持って付いてきます)の食材を容器に取りテーブルに着き、その他に服薬とサプリメントの水を用意します。
私は給仕役です。
 ↓お腹が満たされてご満悦です
001 朝食(レイアホテル大津石山)
朝食は6時30分からバイキング形式で、私が二人分(Yumiさんは私の後ろに容器を持っている)の食材を容器に取りテーブルに着き、その他に服用薬やサプリメントのため水やお茶を用意するお給仕役です。

07時12分、ホテル発
朝食を食べた後、部屋に戻り、トイレを済ませてからタッチ式カードの鍵をフロントの置いてあるBOXに入れ、ホテルを出ました。
005 ホテル玄関
朝の冷たい空気を浴びながら駅に向かい、パスモを使って改札を通りホームに降りました。
 ↓石山駅ホーム

010 石山駅ホーム
瀬田方面に向かうホームに降りると、日曜日の早朝ということなのか、ホームにはほとんど人がいませんでした。
07時31分、石山駅発
電車は、石山駅を出ると直ぐに瀬田川を渡ります。
瀬田川に架かる橋は、今日旅する瀬田の唐橋なので、行く時に電車から見たいと思っていました。
唐橋は、国道1号線の先に架かっているのが見え、「これから歩くんだな」と思いながら見ていました。
また、Yumiさんは1駅だけの乗車なのでザックを降ろす必要もないのですが、時間の長短に関係なくザックを降ろします。
ザックを降ろすのは良いのですが、ザックを背負う時に締めた腰ベルトを外すのに手間取るため、またたく間に瀬田駅に着いてしまいました。
07時33分、瀬田駅着

ここから昨日終了した一里山二丁目北交差点まで歩きました。
交差点での出発式は、昨日到着式を行った場所から交差点を渡った場所に変更し、出発地が書かれた看板をYumiさんに掲げてもらい、出発式(出発の看板を掲げて写真撮影)を行い出発しました。
【=旅=】
07時42分、一里山二丁目北交差点(出発式)

013 一里山二丁目交差点(出発地)
出発式を行った場所に、三条大橋5里、日本橋まで120里と記された道標が建っていて、「ゴールまであと20㎞のところまで来たか」と思いながら曇り空の中を出発しました。
道標から約300m歩くと大江四丁目交差点があり、交差点の先から緩やかな上り坂となり、約160m歩くと左側に大江の千里の史蹟案内の看板が建っていました。
 ※①=史蹟案内(左側)
098 史跡案内看板
大江の千里の史蹟案内から約90m歩くと、右側に「落し物です」と書かれた紙が紐を通して木にぶら下がっていました。
東京ではこのように外の道路沿いで落し物探しをしていることを見たことがないので、この地域の治安の良さを感じました。
 落し物探し(白丸のところに鍵が付いている)

016 垣根に落し物の鍵
街道は、落し物が吊るしてあった処から少し歩くと、雨が降り出してきました。
雨は小降りですが、ザックから折畳み傘を取り出し傘を差しながら下り坂を歩くと、一灯式信号の十字路があり、左折して進みました(対面右角に東海道案内パネルが取付られていました)。
08時00分、一灯式信号のある十字路(左折)

017 分岐(左折)100 東海道案内パネル
分岐を左折して約110m歩くと、左側の川沿いに地蔵祠が祀られていました。
 ※①=地蔵祠(左側)
101 地蔵祠
地蔵祠の先、左側の小さい川沿いに約120mに渡って桜並木(左側)があり、桜並木が終わった辺りになると、傘がなくても大丈夫な状態になったので、傘を畳み手で持って歩きました。
 ※①=桜並木(左側)
102 桜並木
街道は、桜並木が終わった辺りから約220m歩いた三叉路(分岐手前の左側の初田仏具店の看板が目印)を右折して進みます。
08時06分、分岐(三叉路を右折)
※写真左=夫婦二人旅 写真右=中山道旅(右折=街道・直進=国庁跡)

018 分岐(右折)103 分岐(右折)
《近江国庁跡》
〔夫婦二人旅の時〕
右折する右側のカーブミラーの近くに案内看板があり、「近江国庁跡まで100m」と記されていたので、立ち寄ろうと思い御霊神社の近くまで行きましたが、案内の標示もなく、場所も分からないためYumiさんに「早く戻りましょう」と急かされて三叉路まで戻りました。
10分程前に傘を畳んだのですが、また雨が降り出してきたので、再び傘を差して歩きました。
019 傘を差して旅歩き
〔中山道旅の時〕
今回は場所を見つけたいと考え、再度チャレンジしました。
分岐を直進(白矢印)し、約110m先のT字路を右折してクランク形に進むと、
104 国府跡分岐
(写真左)国庁跡のような平らな草原となり、(写真中)草原を進むと段差があり、(写真右)草原の先に国庁跡標石(黄丸)が建っていました。
105 国府跡105-2 国府跡(一番後方の樹)105-3 国府跡標石
前回は左折して探しましたが見つからなかったのですが、今回やっと史蹟を確認することができました。
街道の分岐に戻り約70m歩くと、右側に道祖神が祀られていました。
 ※①=道祖神(右側)
106 道祖神
なだらかな上り坂を約50m歩くと左折道路の分岐付近から下り坂となり、右側の増田産婦人科入口の屋根を利用させて頂き衣服調整(二人ともチョッキを脱ぐ)しました。
増田産婦人科から約350m歩くとT字路(右角=大谷米穀店、対面=初田仏壇店)となり左折しましたが、T字路に着く少し手前で天気が回復したので傘を畳みました。
08時23分、分岐(左折)
020 分岐(左折)
左折すると道路真向かいの進行右側に内田組(建設会社)があり、道路に面した敷地内に地蔵祠と狸像が並んで建っていました。
 ※①=地蔵祠・狸像(右側)
108 地蔵祠
進行右側から左側に戻ると、高橋川に架かる赤い欄干の和田1号橋(分岐左折から約50m)があり、渡って進みました。
 ※①=和田1号橋(赤い欄干):直進
109 和田一号橋(赤い欄干)
和田一号橋を渡り、約90m歩くと左側の建部児童公園の中に檜山神社が祀られていました。
参拝は階段の往復を考え、鳥居の前の一礼で失礼しました。
08時26分、檜山神社・鳥居

021 檜山神社・鳥居
鳥居から約270m歩くと、左側にオムライスの店、Y字路分岐(分岐点=山村石材店)があり、左の細い道に進みました。
※分岐(Y字路)=左方向
023 分岐(左折)
Y字路分岐から約40m歩くと、T字路となり、街道は右折(黄矢印)して進みました。
※分岐(T字路)=黄矢印:街道、白矢印:建部神社
112 分岐(右折)
私達は、T字路を逆の左に進み、建部神社の参道入口の石碑を記録に収めました。
08時33分、建部神社・参道入口

026 建部大社・入口
《建部神社》 ※①=中山道旅
Yumiさんと歩いた時、立ち寄れなかったため、T字路分岐を左折(白矢印)して立ち寄りました。
分岐から約60m歩くと神社の社標が建っており、その先に鳥居が建っていました。
神社の鳥居を潜り、参道を約160m歩くと境内に入る鳥居があり、潜って進みました。
 ※①=参道・鳥居
113-4 参詣鳥居
境内を歩き一番奥の本殿に進み、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
 ※①=本殿
113-5 本殿113-6 本殿
参拝を終え、元来た道を帰り、T字路分岐に戻りました。
建部神社は少し歩かないと参拝できないため、瀬田名物の「たにし飴」を買っていこうと近くにいた方に聞くと、直ぐ近くの神領交差点のところにある辻末製菓舗を教えて下さいました。
建部神社石碑を後に街道に戻り、約30m歩くと神領交差点となり、交差点右手にたにし飴を販売している辻末製菓舗がありました。
たにし飴は、にっきの飴で、形が琵琶湖のたにしに似ていたことから瀬田川名物として、おみやげに親しまれ、
「神さまの食すもの」という説もあるそうです。
お店は時間が早く開店していなかったので、買えませんでした。
H30.10.15に再訪した時も定休日で買えませんでしたので、どうもご縁がないようです。
 たにし飴の辻末製菓舗

028 たにし飴(辻末製菓)
神領交差点から約90m歩くと、左側に愛宕神社と地蔵祠が並んで祀られていました。
 ※①=愛宕神社・地蔵祠(左側)
115 愛宕神社・地蔵祠
愛宕神社と地蔵祠から県道16号の左側を約60m歩くと、左側に旧代官屋敷跡がありました。
08時40分、旧代官屋敷跡(左側)

029 旧代官屋敷跡
代官屋敷跡から約60m先の左側に、大津町家物件があり改修工事をしていました。
邪魔にならないようにしてYumiさんの写真を撮っていると、「見れますので、どうぞ」と案内され、中に入らせて頂きました。
08時42分、大津町家物件(左側)・・・(写真右)※①で撮影

031 大津町家物件116 大津町家物件
 ※大津町家物件・内部
033 大津街家物件・屋内
大津町町家物件から約40m先の唐橋東詰交差点の左角に、田上太神山不動寺道標が建っていました。
08時45分、田上太神山不動寺道標(左側)
034 道標
そして、交差点を渡った橋のたもと左側に、石柱常夜燈と歌碑が、その直ぐ脇に道標と地蔵堂が建っていました。
08時47分、常夜燈・歌碑(左側)・・・写真右の道標と地蔵堂は※①で撮影

036 常夜燈・歌碑119 道標・地蔵堂
地蔵堂から約50m川沿いに進むと右側にこれから渡る瀬田の唐橋、左側に川守地蔵が祀られていました。
 ※①=川守地蔵(左側)
120 川守地蔵
今朝、電車の中から見た「瀬田の唐橋」です。
常夜燈と歌碑などを写真に収め、左を見ると唐橋の石碑が建っていました。
08時48分、瀬田の唐橋碑(左側)

038 瀬田の唐橋碑121-2 瀬田の唐橋
瀬田の唐橋は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋で、全長260m。勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも云われている。
宇治橋、山崎橋と並んで日本三名橋・日本三古橋の一つとされ、日本の道100選にも選ばれている。琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、京都防衛上の重要地であったことから、古来より唐橋を制する者は天下を制すと云われた。
本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。
夕陽の時の景色が良いみたいですが、そういうわけにもいかないので、先に進みました。
08時51分、瀬田の唐橋(親柱)
042 瀬田の唐橋・親柱
この辺りのYumiさんの血流の状態は悪く、私の云うことがほとんど理解できない(写真を撮るためにYumiさんが立つ場所が分からない)のと、私が云ったことに対して反発してくるなどで、二人ともプリプリしながらの唐橋渡りになってしまいました。
08時53分、瀬田の唐橋(欄干)

044 瀬田の唐橋・欄干121-4 眺め(右)
しかし中瀬の近くになると(数分後ですが)二人の沸騰も治まり、また和やかな歩きになっていました。
唐橋は、途中の中瀬で第一橋と第二橋に分かれていました。
08時55分、二つ目の親柱
048 二つ目の親柱122 第二唐橋
唐橋(第二橋)を渡ると唐橋西詰交差点ですが、交差点の手前左側に料理旅館・唐橋の前に、橋姫竜神の祠が祀られていました。
08時58分、橋姫竜神の祠(左側)
050 橋姫竜神の祠
橋姫竜神の祠から唐橋西詰交差点を渡ると、左側にベンガラ塗りの油屋が建っていました。
 ※①=ベンガル塗りの油屋(左側)
124-2 看板
油屋から約70m歩くと、左側に虫籠窓の家が建っていました。
 ※①=虫籠窓の家(左側)
125 虫籠窓の家
虫籠窓の家から約60m歩くと京阪電鉄石山坂本線の唐橋駅前踏切があり、踏切の左側に唐橋前駅がありました。
09時01分、唐橋前駅(左側)
054 京阪石山坂本線・唐橋前駅126 唐橋前駅
踏切を渡り約40m歩くと左側に、近江牛老舗の「松喜屋」がありました。
09時03分、松喜屋(近江牛の老舗)=左側
052 近江牛・松喜屋128 近江牛・松喜屋
松喜屋から約50m歩くと鳥居川交差点があり、真っ直ぐ渡った左側に長徳寺があり、門前に蓮如上人が休息した跡に石碑が建っていました。
 ※①=蓮如上人休息所跡碑(左側)
129 蓮如上人休息所跡
街道は鳥居川交差点を右折して進みました。
 ↓分岐(右折)

055 分岐(右折)
跡碑から鳥居川交差点を右折して再度交差点を渡ると、左側に明治天皇が明治11(1878)年の行幸の時休息した旅籠松屋跡に黒門と明治天皇鳥居川御小休所跡碑が建っているとのことでしたが、見つけることができませんでした。
また来る機会があったら探したいと思います。
鳥居川交差点から約450m歩くと、先ほど渡った京阪鉄道石山坂本線の踏切があり、渡って進みました。
 ※①=京阪鉄道石山坂本線松原踏切
京阪電鉄の踏切を渡り、そこから約90m歩くと松原町西交差点に着きました。
天気はクルクルと変わり、交差点に着くとまたポツリ、ポツリと雨が降ってきましたが、まだ傘を差すほどでもなかったので、二人とも傘は差さずに歩きました。
《石山駅コンコース》
街道は松原町西交差点を渡り、右折してJR石山駅に向かいました。
※街道は松原町西交差点を真っ直ぐに渡ってJRのガードを潜って進むと思いますが、入手した資料に従って石山駅コンコースを通るルートで歩きました。
石山駅コンコースルートは松原町西交差点の先のJRガードがない時に迂回路として設定されてのではないかと推察されます。
09時15分、松原町西交差点(交差点を渡って右折)

056 分岐(渡って左折)
①約80m先をバスロータリーに沿って右折
057 分岐(バスに沿って右折)
②バスロータリーに沿って歩き、正面のエスカレータで階上
058 分岐(真っ直ぐエスカレータ)
③階上を右折してコンコースを歩く(途中の左に改札口)
059 分岐(右からコンコースへ)
④コンコース突き当り手前の階段を下りる
061 分岐(右折)
⑤階段下をロータリーに沿って歩き、左方向に向かう
062 分岐(左折)
コンコースから階段を降りてロータリーに出ると、雨の降りが強くなってきたので、傘を差して歩き始めました。
ロータリーを出た処から約150m歩くと、T字路となり左折しました。
T字路の突き当たった道が松原町西交差点から真っ直ぐにJRのガードを潜ってきた道です。
 分岐(左折)

063 分岐(左折)
この分岐の辺りが日本橋から117番目の「粟津一里塚」があったと推定されているのですが、何も標示されていませんでした。
自治体の方がこのブログをご覧になりましたら、ぜひ一里塚跡碑の設置をご検討下さいますようお願いします。
東海道を旅してきて感じるのは、街道を旅するほとんどの人が一里塚跡碑を記録に残しています。
一里塚の史跡は、他の史跡とは別格のなのです。
09時24分、117粟津一里塚跡(?)付近

064 117粟津一里塚跡付近?003 121鳥居川一里塚跡付近
分岐から約250m歩くとルネサスエレクトロニクスの工場前から右折する道路の角に、農業試験発祥地の碑が建っていました。
09時29分、農業試験発祥地の碑(右側)

066 農業試験発祥地碑
この辺りでは傘がないとかなり濡れるくらい雨が降っていたのですが、私達を追い越していった男性2人組は、傘なしで歩いていました。
ほとんどの旅人は、私が出会った人だけですが、史跡を記録に残すことなく通り過ぎていくので、史跡ごとに記録に残すために立ち止まる私達は追い抜かれることはあっても、追い越すことは99%ありません。
農業試験発祥の地碑から約210m歩くと、左側に松が植生されており、この辺りが木曽義仲が討死にした粟津ケ原の松原で、近江八景のひとつである晴嵐松ということですが、資料に記されていた場所には標識が建っていないので場所を識別することができませんでした。
 ※②=晴嵐松付近(右側)
005 晴嵐松付近
晴嵐松と思われる場所(左側に松が植生されている)から約130m先の晴嵐信号を越え、さらに約190m歩くと右側に森本宅があり、玄関前に膳所城勢多口総門跡の標石が建っていました。
また、標石の先隣に道祖神が祀られていました。
09時37分、膳所城勢多口総門跡・道祖神(右側)

068 膳所城勢多口総門跡
森本宅から約60m歩いた左側に、連子格子の家が建っていました。
 ※連子格子の家(左側)

070 連子格子の家
街道は、森本宅付近から枡形道となり、連子格子の家の先で街道は右に曲がり、さらに約30mで左に曲がる曲尺手になっていました。
008 桝形道
曲尺手(かねんて)とは、旧城下町に見られる街の作りで、敵が一気に攻め込めないようにクラング方や、カギの形状になっている道で枡形ともいいます。
曲尺手を出て約100mで先の京阪電鉄石山坂本線の踏切を渡ると、直ぐ左側に地蔵尊が祠に祀られていました。
 ※②=地蔵祠(左側)
010 地蔵祠
地蔵祠から約50m歩くと右側に若宮八幡神社があり、参拝に立ち寄りました。
09時41分~09時45分、若宮神社・鳥居(右側)

071 若宮神社
 ↓若宮神社・本殿
073 若宮神社・本殿
今日は旅を始めてから神社に参拝していなかったので、お賽銭をご奉納し参拝しました。
神社には誰もいなかったので、小さい声を出してYumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
参拝が終わり境内の外に出て、約30m歩いた左側の奥村食料品店の前を右折しました。
09時47分、分岐(右折)

075 分岐(右折)
分岐を右折して約140m歩くと京阪電鉄瓦ケ浜駅の踏切があり、タイミング良く電車が来て遮断機が下りたところだったので、京阪電鉄石山坂本線の電車を記録に残しました。
09時49分、京阪電鉄石山坂本線・瓦ケ浜駅踏切

076 京阪電鉄・石山坂本線013-2 瓦ケ原駅
踏切に着くと、農業試験発祥地の碑のところで追い越していった男性二人が此処にいたので、「え、何でここにいるの?」と思いましたが、特に挨拶することなく遮断機が上がると先に歩いて行き、この先で出会うことはありませんでした。
踏切を渡って少しすると雨が止み傘を折り畳んで歩くと、左側にベンガラ色に塗った虫籠窓と格子戸のある旧家が建っていました。
 ※②=ベンガラ塗りの虫籠窓と格子戸の家(左側)
014 ベンガラ塗り・連子格子・虫籠窓の家
ベンガラ(弁柄)塗りは、ベンガラの語源はインドのベンガル地方で産出されたことに由来しており、滋賀県の湖東地方に多くみうけられ、防腐のために塗られているとも伝えられている
ベンガラ塗りの家から約90m歩くと、左側に膳所城の北大手門が移築された山門の篠津神社がありました。
09時53分、篠津神社・鳥居=左側

077 篠津神社
 篠津神社・山門(膳所城の北大手門を移築したもの)
079 篠津神社・表門(膳所城北大門)
神社から約60m歩くと突き当りに奥村歯科診療所のT字路となり、分岐の突き当り右側に晴好雨竒亭跡があり、標石が建っていました。
09時55分、晴好雨竒亭跡碑(右側)
017 分岐(左折)
082 晴好雨竒亭跡
晴好雨碕亭は、膳所の名工・初代菅次が金銀銅鉄器類を製作したとだそうです。
碑が建っている奥村歯科医院の前を道なりに左折し、約170m歩いた一灯式信号のある十字路を右折しました。
 分岐(一灯式信号の十字路を右折)

085 分岐む(右折)
《不親切な駅員①=京阪電鉄・中ノ庄駅》
私達は、Yumiさんがトイレに行きたいと云うので、右折する十字路を直進し、約40mさきにある京阪電鉄・中ノ庄駅に行き「トイレを貸して下さい」と云うと、「駅にはトイレがありません」と断られてしまいました。
小さい駅ですが、「トイレはありません」と断った駅員は、トイレに行かないのでしょうか?
今まで約500㎞歩いてくる途中で、公共交通機関の駅のトイレを利用させて頂きました。
その中で、唯一中ノ庄駅で断られました。
何と不親切な駅なんだろうと思いながら、先に進みました。
Yumiさんに「少し待っていて」と話し、街道に戻りトイレがある膳所城址公園に行くことにしました。
十字路分岐を右折して約120m歩くと左側に歴史を感じる建物のヤマギシクリーニングと亀屋広房菓子店が建っていました。
 ※②=歴史を感じる建物:左側=(写真左)ヤマギシクリーニング・(写真右)亀屋広房菓子店
019 歴史建造物020 歴史建造物
亀屋広房菓子店から約120m歩くと、同じように歴史を感じる建物の澤常商店と澤善米穀店が並んで建っていました。
 ※②=澤常商店と澤善米穀店(左側)
021 虫籠窓の家
澤善米穀店から約100m歩くと、左側に高禄の武家屋敷の長屋門が移築された大養寺があり、膳所六長屋門の一つです。
10時07分、大養寺・長屋門(左側)

086 大養寺(長屋門)
大養寺から約60m歩くと、信号十字路があり、街道は直進、右折すると膳所城址、左折すると膳所神社があります。
 ※分岐(十字路)
023 分岐(直進)
分岐(十字路)を右折し、街道を離れて膳所城址公園に行きました。
十字路から約220m歩いた本丸町交差点を渡り城址公園入口でYumiさんの写真を撮っていると、公園から出て来られた男の人が「撮りましょうか」と声を掛けて下さったので、お言葉に甘えお願いし膳所城復元城門を背景に撮ってもらいました。
10時13分、膳所城址公園入口(復元城門)

090 膳所城址公園入口
写真を撮って頂いた後、男性の膳所城址公園の講釈が始まりました。
写真を撮って頂いたので少し話しを聞いていましたが、Yumiさんともどもトイレに行きたいので、話しの途中でしたが「すいません。トイレに行かせて下さい」と云って話しを打ち切りYumiさんの荷物を預かり、トイレに行かせスッキリしてもらいました。
 ※琵琶湖に架かる近江大橋(後方)

091 膳所城址公園
 ※膳所城址碑
093 膳所城址碑
 ※城址公園(門からの眺め)
095 膳所城址公園・風景
城址公園を出て街道に戻るため本丸町交差点を渡って左側の建物を見たら、お城風の屋根になっていました。
10時24分、大津市市民センター(右側)
096 大津市市民センター
〔左折〕=膳所神社
右折した十字路を横切り約80m歩くと、正面に膳所神社があります。
 ※②=膳所神社(左側)
026 膳所神社026-2 本殿
神社は膳所の鎮守で、表門は膳所城の二の丸から本丸への入り口にあった城門を移築したもので、国の重要文化財に指定されています。
また、裏門も膳所六門の一つだそうです。
 ※②=膳所神社・裏門と石碑
027 膳所城門(膳所神社)027-2 城門碑
街道に戻ると十字路左角に、膳所城中大手門跡碑が建っていました。
10時27分、膳所城中大手門跡碑(左角)

097 膳所城中大手門跡
跡碑から約20m歩くと、左側にベンガラ塗り・虫籠窓・連子格子の家が建っていました。
 ※②=ベンガラ塗り・虫籠窓・連子格子の家(左側)
029 ベンガラ塗り・連子格子・虫籠窓の家
ベンガラ塗りの家から約150m歩くと、左側に膳所城主本多氏の菩提寺である縁心寺がありましたが、参道口から記録だけ残して先に進みました。
 ※②=縁心寺(左側)
030 縁心寺
縁心寺から約160m歩くと、左側に白鳳4(657)年創建で、本殿が国の重要文化財に指定されている和田神社が祀られており、立ち寄りました。
 ※②=和田神社(左側)
031 和田神社031-2 本殿
境内には樹齢約650年の銀杏の木が生育されていました。
 ※②=銀杏の木
031-3 いちょうの木
和田神社から約50m歩くとY字路分岐となり、左方向に進みました。
 ※分岐(Y字路):左方向
099 分岐(左折)
三叉路から約220m歩くと、T字路となり(突き当りは響忍寺)右折し、さらに約90m歩くと左折できる道があり、左折してその道を進みます。
 ※分岐(左折

100 分岐(左折)
Y字路分岐から約220m歩くとT字路分岐となり、T字路の突き当りに元膳所藩家老の村松屋敷跡で現響忍寺があり、膳所六門の1つである武家屋敷長屋門がありました。
 ※②=村松屋敷跡(現響忍寺):左側
033 武家屋敷長屋門(響忍寺)
響忍寺を左側に見ながら約90m歩くとY字路分岐となり、左方向に進みました。
 ※②=分岐(Y字路)=左折
034 分岐(左)
Y字路を左方向に弧を描くように桝形状に約100m歩くと橋があり、橋を渡ってスーパー「フレンドマート」に沿って左に進み、真っ直ぐに約50m歩くと右折する曲尺手を進みました。
 ※分岐(フレンドマートの左側を進む)

101 分岐(斜め左)
曲尺手を右に約70m歩くと、左側に石坐(いわい)神社があり、境内で一服休憩することにしました。
10時40分~10時52分、石坐神社(左側)・・・(写真右)本殿=※②で撮影

102 石坐神社035-2 本殿
境内では新年に向けて氏子の男の人(10人くらい)がしめ縄(?)の準備をしており、雰囲気的に参拝する状態でなかったため、境内隅の石に坐って水分補給と持参したスポーツ羊羹を食し、休憩しました。
104 石坐神社境内で休憩035-3 エノキ
石に座って休憩していると、宮司さんらしき人(白装束)から「どこからきたんですか?」と聞かれ「瀬田からです」と答えると、「今日は瀬田からの人が多いね」と云われ、私達の前に歩いた人もここで休憩したのかなと思いました。
休憩を終わり神社を後に約130m歩くと、左側の法傳寺の敷地に天智天皇の碑が建っていました。
10時54分、天智天皇御尊碑(左側)

106 天智天皇御尊碑
天智天皇御尊碑奉安碑から約200m歩くと右⇒左に歩く桝形道です。
 ※②=桝形道
037 桝形道
桝形道が終わる右側(十字路分岐の約10m手前)の笹川宅の塀際に、膳所城北総門跡の標石が建っていました。
10時58分、膳所城大津口(北)総門跡碑(右側)

108 膳所城大津口総門跡
膳所城北総門跡から約400m歩くと膳所駅入口(左方向=白矢印)の十字路分岐があり、真っ直ぐ(黄矢印)に進みました。
 ※②=十字路分岐(膳所駅入口:左方向)
039 膳所駅方向
膳所駅入口の十字路分岐から約60m歩くと、左側に木曽義仲を葬った墓石がある義仲寺がありました。
11時06分~11時17分、義仲寺(ぎちゅうじ)=左側
110 義仲寺・山門040 義仲寺
山門を潜ると右側に受付があり、入場料(@300円)を支払らい寺院を見学しました。
義仲寺は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(1154-84)をここに葬ったことに由来し、近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。
江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。
境内には、芭蕉の辞世の句である「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑が立ち、偉大な俳跡として多くの人が訪れます。

 ※境内


113 境内
 ※本堂
114 朝日堂
 ※木曽義仲公墓所
115 木曽義仲の墓
 ※松尾芭蕉墓所
117 松尾芭蕉の墓
 ※巴塚(義仲の妻)
119 巴塚
 ※佐渡の赤石
122 佐渡の赤石
 ※義仲寺山門脇の碑
123 義仲寺・門前
義仲寺を出て約400m歩くと京阪電鉄石山坂本線の踏切があり、(写真左)踏切を渡って約10数m進むと(写真右)Y字路に似た分岐があり左方向に進みました。
041 石場踏切125 分岐(左)
分岐を左方向に進み約100m歩くと左に入る道があり、そこを左折して約60m進むと右側に、蹴鞠で有名な平野神社があり立ち寄りました。
043 分岐(平野神社入口)
11時25分~11時32分、平野神社

126 平野神社・鳥居
 ※平野神社・本殿
128 平野神社・本殿
平野神社の精大明神は蹴鞠の祖神のため、特に芸能に御利益があるとされ、現在でも8月9日の例祭には古式ゆかしい蹴鞠が奉納されているそうです。
平野神社の本殿でYumiさんと並んでお賽銭を奉納し、声を出してご祈願しました。
清々しい気分になり、街道に戻り旅を続けました。
街道に戻ると約20mで分岐となり、左方向に進みました。

 ※分岐(左方向)

131 分岐(左)
分岐から約50m~約150m付近が日本橋から118番目の石場一里塚があったと云われているのですが、117粟津一里塚と同じように跡碑がないので、場所が特定できません。
しかたがないので、この辺りの街並みを写真に収めることにしました

11時35分、118石場一里塚跡(?)付近

132 118大津一里塚跡付近(?)
大津一里塚跡付近から約200m歩くと、県道103号に合流する十字路となり、真っ直ぐに横断して進みました。
047 分岐(直進)
十字路の道路を横断して約230m歩くと、左側にコンクリート造りの建物の中に地蔵尊が祀られていました。
 ※②=地蔵尊(左側)
048 地蔵尊
地蔵尊から約30m歩くと十字路分岐があり、左側を見ると建造の歴史を感じる滋賀県庁の建物が見えました。
11時47分、滋賀県庁庁舎

135 滋賀県庁
ここから約300m歩くと(中央大通りを渡る)、左側に森野すだれ店がありました。
11時53分、森野すだれ店

137 森野すだれ店052 森野すだれ店
外から家屋をバックに写真を撮っただけのため、店内の様子は分かりません。
歴史を感じる店なので、今度来る機会がありましたら、立ち寄りたいと思います。
森野すだれ店から約110m歩いた十字路の左角(徳永洋品店の角)に、露国皇太子遭難地の碑が建っていました。

11時55分、露国皇太子遭難地の碑
139 露国皇太子遭難地碑
露国皇太子が遭難したのは、大津事件と云われ、明治24年(1891年)5月11日に、日本を訪問中のロシア帝国皇太子のニコライ(後のニコライ二世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件でです。
露国皇太子遭難之地碑から約30m先の中央二丁目南交差点を横断するなど約170m歩くと、左側に提灯を製造販売している柴山提灯店があり、日本の文化を伝えてほしいと願い記録に残しました。
 ※②=柴山提灯店(左側)
055 柴山提灯店
柴山提灯店から約100m歩くと国道161号の京町一丁目交差点があり、街道は交差点を左折して進みました。
 ※札の辻(京町一丁目交差点)=左折
142 分岐(左折)
この交差点は、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻である札の辻だったところで、交差点を渡った左角(信号機下)に札の辻の標示パネルと大津市道路元標が立っていました。
12時01分、札の辻標板(Yumiさんの右側)・大津市道路元標(Yumiさんの左側)
144 大津市道路元標
札の辻は現在も町名としてその名が残って名残りをとどめており、道路元標は静岡県内を旅している時、何か所かで記録したことを思い出しました。
京町一丁目交差点を渡ったところを左折し、西近江路を走る京阪電鉄京津線と平行に歩き、次の交差点(京町一丁目南)を渡り約70m進むと、国道161号を路面走行している京阪電鉄京津線の分岐があり、右方向を眺めながら先に進みました。
 ※②=分岐(京阪電鉄京津線):直進
059 分岐(直進)
京町一丁目南交差点から進行左側を約140m歩くと、大津京町郵便局を過ぎた左側角(滋賀県労働局看板が建っている)に、本陣跡碑と明治天皇聖蹟碑が建っていました。
12時06分、大津宿本陣跡碑
146 大津宿本陣跡060-2 解説
 ※明治天皇聖蹟碑
149 明治天皇聖蹟碑
平行して走っていた京阪電鉄は、大津京町郵便局の辺りで、西近江路から別れ右方向に走っていきました。
そして本陣から約110m歩いた処に御幸町交差点があり、当初予定していた京阪電鉄京津線の大谷駅を変更し、「御幸町交差点」で旅を終了することにしました。
理由は、大津駅で子午線モニュメントを見ることにしたためと、最後の歩くたびの楽しみを残しておきたいというおセンチリズムからです。
12時10分、西近江路・御幸町交差点(到着地)

152
【帰路】
Yumiさんに看板を掲げてもらい到着式(写真撮影)を行い、第36回目の旅を終了しましたが、看板は次回作成したものを持参し、改めて記録に残したいと思います(持参した到着式の看板で再撮影)。
到着式を終え、交差点の先を左折し、大津駅に向かいました。
大津駅前のロータリーに入る角にそば屋があり、昼の時間帯でもあるので、躊躇なく店に入りました。
12時15分~12時42分、昼食(やま喜)
154 そば処・やま㐂(昼食)

席に着きメニューを見て、手ごろな値段から「かにづくしそば」(@880円)を注文しました。
 ↓かにづくし蕎麦
156 昼食(かにづくしそば)
蕎麦の味は普通でしたが、温かいかに玉そばに、かに寿司のかにづくしでしと実にユニークなメニューでした。
全て食べ切り、Yumiさんのかに寿司を一つ頂きました。
店を出て、ロータリーを横切り、大津駅に着きました。
12時44分、大津駅

159 大津駅
《不親切な駅員②=JR・大津駅》
大津駅から京都駅までは、一度昨日の朝、三宮から草津駅まで乗車しているため、大津駅から京都駅までの切符を購入し、その時に子午線モニュメントの場所を聞くと、実に不親切な人(女性)で、親切な窓口の人が大多数の中で、このような女性もいるのかと思いながら外に出ました。
北緯35度子午線モニュメントは改札を入った直ぐ左側の壁に記されているだけで、手原駅の子午線モニュメントのような彫刻モニュメントを期待していた私は少しガッカリしました(地元の方、すいません)。
12時53分、北緯35度モニュメント

161 北緯35度モニュメント
モニュメントを記録に残し、京都に向かうホームに行きました。
12時58分、大津駅発
164 大津駅ホーム
13時07分、京都駅着
京都駅で孫ちゃんのお土産に硬い八つ橋を買うつもりでいたのですが、駅に着いた時は京都から草津までの切符購入と新幹線の乗り換えで、小さい頭が一杯になり可愛い孫ちゃんへのお土産を買うのを忘れてしまいました。
次回は、必ず買って帰ります。
新幹線のホームに行き3号車の処に並び、列車を待ちました。
13時29分、新幹線京都駅発
定刻通り入線してきた新幹線に乗り、二人掛けの席に座り、車内販売で缶ビール2本買い、Yumiさんと乾杯しました。

166 新幹線・車内(乾杯)
品川まで約2時間35分の乗車なので、東下りで旅をしているNさんにメールしたり、旅の記録をまとめたり、うとうと寝たりしていると、新富士が近づき富士山を眺めようと車窓から見ましたが、雲の中に隠れて眺められませんでした。
小田原を過ぎたあたりから降りる準備を始めビニール上着を着せたのですが、ポシェットの上から着てしまったため、「服を脱いで」と云っても理解できないので、仕方なくファスナーを外して脱ぐ形にすると理解しましたが、溜息が出てきます。
16時03分、新幹線品川駅着
新幹線の改札を出る前にトイレに行き、スッキリしてから在来線ホームに行き、山手線に乗って帰りましたが、家に帰って食事の支度はしたくないので、最寄り駅近くの食事店で夕食を食べ、家に帰りました。
 ↓最寄り駅近くの食事店

168 夕食

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旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
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温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
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山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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