【天候】晴れのち曇り
【宿場】(08)大磯宿⇒(09)小田原宿
【行程】歩行距離=14.97㎞ 総距離=88.91㎞
二宮駅入口交差点⇒(1.70㎞)⇒018押切坂一里塚⇒(4.41㎞)⇒019小八幡一里塚⇒(3.76㎞)⇒
020小田原一里塚⇒(4.19㎞)⇒021風祭一里塚⇒(0.91㎞)⇒入生田駅入口
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第5回旅の宿場)
30 第5回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第5回)
 第5回の旅ルート
 
(J
R二宮駅・駅入口交差点 ➡ 入生田駅入口)
第5回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月11日

【旧東海道の旅】
《序章》

梅雨の最中で、天気予報が発表される頃からやきもきしながら旅の日を迎えました。
今回の旅は、
 ①.7月中旬に私の白内障手術が実施される
 ②.7月と8月は、真夏の炎天下となるため、街道旅を休止する
 ③.9月に箱根の東坂を上る
という理由で、雨天順延にならないことを願っていました。
天気予報は、旅を計画している6月30日は降雨確率は低く、翌日の7月1日が逆に降雨確率が高い予報で旅の日を向かえました。
《身支度》
窓のカーテンを開けて外を見ると、青空が広がっていて天気はOKです。
今までの旅に出るときと同じ手順で準備を進める中で、今日は先日(27日)の山の会の月例会で教えて頂いた「足の甲に冷温シップを貼る」ことを実施してみることにした。
Yumiさんの足の甲にシップ薬を貼った後、私の足にもシップ薬を貼りました。
また、朝食は先日の富士登山の時、Yumiさんに不評だった焼き餅はやめて、いつもと同じパン、牛乳そして果物にしました。
出発の身支度を整え、トイレを済ませ、乗る予定の電車に慌てないで乗れる時間に家を出発し、自転車で通る公園は多くの人がジョグ&ウォークをしており、私とYumiさんは朝の爽やかな空気を吸いながら軽快に自転車のペタルを踏んで最寄り駅へ向かいました。
《移動》
最寄駅を定刻に出発し、電車を乗り継いで出発地のJR二宮駅に移動しました。
移動する車窓から見る景色は、前回の旅の帰りに車窓から見たものとはまったく違った感じで、「ここを歩いてきたんだな」と、少し感傷的な気分になりながら窓の外を眺めていました。
まだ、旧東海道の旅は先が長いので、今から感傷的になっていては良くないのでしょうが、感傷的な気分になっていました。
〔胆を冷やす〕
ところが今朝の移動において感傷的な気分で居られたのは僅かで、冷や汗の連続でした。
理由は、Yumiさんが一度ならずも二度も隣りに座っていた人が立つのに連られて、私に関係なく座席を立って下車しようとしたからです。
私は、隣に座っていたYumiさんの動く気配に目を覚まし、Yumiさんが座席から立って下車しようとしているのビックリして、急いでYumiさんの腕を取って引き戻しました。
少し強い調子で注意したので、廻りの人から注視の視線を受けましたが、致し方ありません。
私は強く云ったので、二度は起きないだろうと思っていたのですが、その二度目も起きたのです。
二度目も気が付いてYumiさんの腕を取って引き戻したので事なきを得ましたが、私が寝ていて気が付かなかったら、どうなっていただろうと、背筋が寒くなりました。
私は一緒の時でも気を付けないといけないと心に刻むと共に、それからは寝ないで過ごし、降りる1つ手前で次の駅で降りることを説明するようにしました。
08時21分、二宮駅着
01 二宮駅改札口
二宮駅では、改札を出て駅構内にあるコンビニに行き、ペットボトルを買ったのですが、これは駅に着いてから買うことは考えていたわけではなく、2日前から今日のために冷凍しておいたペットボトルを、家の冷蔵庫の中にものの見事に置き忘れてきたからで、街中を歩く街道ウォークだったのでペットボトルを忘れても何とかなりましたが、山行の時じゃなくて良かったと思いました。
ペットボトルを購入したり、駅のトイレを借りてスッキリしてから出発地点に向かい、
前回の到着地で、恒例となってきた出発式(出発地で出発の看板を掲げて写真を撮る)を行いました。
【=旅=】
08時32分、二宮駅入口交差点(出発地)
 
03 二宮駅入口交差点(出発地点)
二宮駅入口交差点を出発して約200m歩くと松並木があり、私が「二宮松並木」と勝手に命名しました。
08時38分、二宮松並木(右側)
04 二宮の松並木
松並木を過ぎ、吾妻山入口信号から約130m歩くと、国道1号と分岐する道の左側に旧東海道と梅沢旧道の道標が建っており、そこを右に進みます。
08時45分、梅沢旧道道標(旧道入口・左側)
06 梅沢旧道入口
〔Yumiさんの霊感〕
梅沢旧道を約100m歩くと右側に醤油醸造工場があるのですが、工場の前を通る時
 Y=この道通ったことあるよね
 E=いや、初めてだよ
 Y=ふーん
 E=夢の中でこの道を通ったの?
 Y=この道、歩いたことあるよ
 E=今日、始めて歩く道だよ
 Y=そう。この景色知ってるよ
Yumiさんのことを知らない人は、「えー」といいますが、いままでも何回も夢の中で事前に見ていたことが何回もあるので、私は特に驚いたりしませんでした。
事前にこれから行くところのことを夢の中で見ていることを認識させられたのは、昨年の諏訪御柱祭りを見に行った時です。
道路端で木遣りや笛などによる催しを見ていた時、
 Y=ねえ、これ見るの初めて?
 E=初めてだよ
 Y=この景色、見て知っている
とのこと。
Yumiさんは霊感の強い人だとは知っていましたが、最初は驚きました。
これ以降、このようなことがいく度もあり、最近は逆にこちらから聞くこともあり、初めてのことを事前に知っていても驚くことはなくなりました。
醤油工場から約150m歩くと右側に、相模新西国三十三観音霊場一番札所で、藤棚も有名な等覚院があり立ち寄りました。
08時49分、等覚院(右側)
07 等覚院の藤だな
藤は、樹齢約400年、樹高2.4mで、元和9年(1623)将軍家光が上洛するとき、等覚寺に駕篭を停めて藤の花を見たと伝えられている。また、寛文の頃、仁和寺宮が関東に下向した時、等覚寺の藤の花を見て「藤巻寺」の別号を与えられたとも伝えられている。
藤は開花が終わって新緑の藤棚に変貌していたので、違った藤を眺めることができました。
新緑の藤を眺めて目の保養をした後、山西信号で梅沢旧道から国道1号に合流し、約450m歩くと川勺神社入口信号の手前で道は分岐し、旧東海道は左側の押切坂に進みますが、分岐したところに日本橋から18番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
9時00分、018押切坂一里塚跡(右側)
09 押切坂一里塚
押切一里塚は大磯宿と小田原宿の中間に位置し、塚は街道を挟んで両側に築かれ、
 ●北側の塚=約3.6m、上にケヤキが植樹
 ●南側の塚=約3.3m、上に榎が植樹
だったそうで、周辺には旅人目当ての茶屋や商店か軒を並べ「梅沢の立場」と呼ばれ、大変賑わっていたそうです。
押切坂一里塚から約200m歩くと、左側に入る道の先角の民家の敷地に、本陣跡碑が建っていました。
09時00分、二宮宿・松屋本陣跡(左側)
11 二宮・松屋本陣跡
本陣は和田家が江戸時代に大磯から小田原両宿の間の宿として御休本陣を賜り、代々松屋作右衛門と名乗りました。本陣に保管されている御休帳には、本陣に立ち寄った大名、旗本などの記録がされている貴重なものです。
松尾本陣跡を過ぎると押切坂は急坂に近い傾斜となり、国道1号に合流する手前に道祖神があり、記録に残しました。
 ※道祖神
13 道祖神(松屋本陣の先)
国道1号に合流して約60m歩くと中村川に架かる押切橋があり、橋の上から海が眺められました。
09時11分、押切橋からの海の眺め(左側)
14 押切橋からの海
海は目視では良く見えたのですが、写真は後ろを走る西湘バイパスの橋桁と、技量不足及び低性能のカメラのため、良く写っていなかったのでガッカリしました。
押切橋を渡ると二宮町から小田原市に入る市境標識が建っていました。
09時12分、市境標識(二宮町から小田原市)=左側
15 二宮町と小田原市の境界
中村橋を渡り、坂を上って行くと、相模湾の眺望が広がってきました。
前回の第4回の旅で、大磯の照ケ崎海岸に立ち寄ったので、今日は砂浜に行かなくてもいいですとYumiさんのお言葉があり、海を見ながら旧東海道(国道1号)を歩きました。
旧東海道から海が近くに見れる数少ない景勝地だったので、道路端にでも座ってゆっくり眺めれば良かったと、帰ってきてから思いました。
車坂の下り坂を歩き東前川信号の先の前羽交番(左側)の前付近(右側)に、車坂碑が建っているそうですが、事前に調べた私の場所確認の間違いから碑を確認することができませんでした。
交番から約900m歩いた左側の明治安田生命小田原東(営)から約50m先の西前川信号を右折した先に、山吹色枠の中に神奈川県と小田原市の水道管を結んだ友情マンホール(緊急連絡管)の大きな蓋が道路に埋められていました。
09時41分、友情マンホール(右側)
17 神奈川県と小田原市の友情マンホール
西前川信号に戻り国道1号を約300m歩くと、右側にのんき亭がありこの辺りから上り坂となりました。
旧東海道は、約70m先の右に上る細い道を上り、家の敷地内を通るようにクランク形に進むんで国府津駅前交差点に出ました。
09時51分、国府津駅前交差点(右側)
19 国府津駅前交差点
交差点の脇にベンチが置いてあり、信号を待つ間のわずかな一服休憩を満喫したのですが、道路の反対側(進行左側)に直ぐ渡るのはもったいないと、少し休憩してから渡りました。
また、交差点には旅人に優しいベンチが設置されていて、助かりました。
国府津駅前信号を渡り進行方向左側を約50m歩くと、左側の建物と建物の間に、御勧堂跡の石碑が建っていました。
09時54分、御勧堂碑(左側)
20 御勧堂碑
御勧堂は、親鸞証人が常陸の国から京都へ帰る途中、7年間住んだ堂で、現在は跡碑のみである。
道路の反対側に、約800年ほど前の嘉禄年間に創建され、親鸞上人によって開基された真楽寺があり、寺院のお堂の中に親鸞上人が石に指先で名字を書かれたという帰命石と呼ばれる2mほどの大きい石があるそうでしたが、立ち寄らずにそのまま左側の歩道を歩きました。
約650m歩くと森戸川に架かる親木橋があり、橋を渡ったところの道路は、進行方向右側には横断歩道があるのですが、左側は歩道橋だけになっていて、歩道橋に魚をモチーフにしたパネルが橋の路面に埋め込まれていました。
10時05分、魚のパネル(親木橋歩道橋路面)=左側
23 魚タイル・クロダイ
親木橋の進行左側には横断歩道がなく、この歩道橋を渡るのでご覧になれます。
歩道橋を降りた辺りから松並木が始まり、約200m歩くと日本橋から79㎞の距離標が建っていました。
10時10分、79㎞距離標(左側)
24 79㎞ポイントの松並木
さらにそのまま進行左側の歩道を歩くと、「小八幡三丁目」信号近くにバス停「一里塚」があり、バス停の約10m手前に日本橋から19番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
10時13分、019小八幡一里塚跡(左側)
25 小八幡一里塚
二宮駅を出発してから、国府津駅入口交差点のベンチで少し休んだだけだったので、空き地に枯れ木の幹が置かれていたのを見つけ、二人で仲良く座ってお菓子タイムにしました。
10時17分~10時22分、休憩
空には青空が広がっているのですが、海からの風が強く、Yumiさんはいつものごとく1枚着こんで「寒い、寒い」を連発していました。
休憩を終え、はま寿司小田原酒匂店の少し手前に、日本橋から80㎞の距離標が松並木の中に建っていました。
10時31分、80㎞距離標(左側)
27 80㎞ほイント松並木
松並木を約110m歩くと酒匂歩道橋があり、歩道橋から箱根連山を眺めようと上ってみましたが、雲と靄で眺望はダメでした。
10時34分、酒匂歩道橋からの眺め
29 酒匂歩道橋からの風景
歩道橋で道路を渡り、進行右側の歩道に降りると、真っ直ぐの電柱の脇に逆弓形に曲がった松があり、面白い構図の景観を眺めることができました。
10時38分、電柱と松(右側)
32 電柱と松
酒匂歩道橋から約800m歩くと、右側に法善寺があり、境内に石塔の五重塔が建っていました。
10時48分、石塔五重塔(法善寺)=右側
33 法善寺の五重塔
法善寺から約450m歩くと「酒匂橋東側」信号があり、酒匂川に架かる約400mの酒匂橋を渡りましたが、先ほどの歩道橋から見た状況と同じで、箱根連山や富士山は眺められませんでした。
10時55分、酒匂橋(山の眺め)=右方向
34 酒匂橋
 ※酒匂橋(海の眺め=左側)
36 酒匂橋からの海
酒匂橋を渡ると右側にトヨタカローラ販売店があり、コンビニのローソンとの間を右折し、細い道を約80m歩いて突き当たった道を右折し、約140m歩いて酒匂川の堤防に出ました。
この辺りが酒匂川の渡し跡らしいのですが、碑もなく、地元の人に聞いても何もないとのことでしたので、この辺りかなと堤防で写真を撮って記録に残しました。
11時09分、酒匂川の渡し跡(?)
37 酒匂川の渡し跡(碑はなし)
酒匂川の渡しは、道中の難所の一つで、古くは舟渡しでしたが、延宝2年(1674)に舟渡しが禁止され徒渡し(かちわたし)制が施行され、冬の時期は冬川と云って仮橋を架けましたが、夏の時期は夏川と称して手引きで肩車や蓮台などによって川越え人足に料金を支払って渡っていました。
そして、明治4年(1871)に制度が廃止され、今日に至っています。
渡し跡からの戻りは、トヨタカローラ販売店の処には戻らず、堤防からの道を真っ直ぐ歩いてビジネス高校前信号に出て、旧東海道に戻りました。
旧東海道はビジネス高校前信号を渡り、そのまま約60m先を直角に右折して進むのですが、この近くに新田義貞の首塚があるというので、立ち寄りました。
こう書くと簡単に跡碑の処に行けそうなのですが、分かりずらい場所にあり、地元の人に聞いてやっと分かりました。
11時21分、新田義貞首塚(街道から入った右側)
40 新田義貞の首塚
碑は鉄柵で囲まれていて、扉は閉まっておりましたので、扉を開けて中に入らせて頂きました。
首塚の場所は、このブログをご覧になった方の一助になればと、以下に道順を記しておきます。
 ①.
ビジネス高校前信号を渡って約60m歩いてきた処を右折せずに、そのまま突き当たった家に沿って進
    みます
    突き当たった辺りが、「小田原市東町4丁目5-11」と思います
 ②.約60m歩くと住宅地の十字路(この辺りが4丁目5-17と思います)があり、ここを右折します
 ③.約80m歩くと突き当たって道は左折するのですが、ここを右折して畑地に入ると、右前方に鉄柵が見え
    ます
 ④.鉄柵の中に首塚があります
首塚から旧東海道に戻り、常剱寺入口で国道1号に合流しました。
国道1号を約190m歩くと、山王小学校入口信号、そこから約500m歩くと山王橋(手前に信号有り)、橋を渡って約170m歩くと山王橋バス停があり、その先の歩道の道路側に小田原宿碑が建っていました。
10時37分、小田原宿碑(左側)
42 小田原宿碑
宿碑から約50m歩くと「浜町二丁目歩道橋」があり、歩道橋の左側に日本橋から20番目の一里塚跡碑と江戸口見付跡碑が、歩道橋を渡った反対側に江戸口見付跡標柱が建っていました。
11時42分、020小田原一里塚&江戸口見付跡(左側)
44 小田原一里塚
 ※江戸口見付跡標柱(道路反対側)=右側
43 小田原城址江戸口見付碑
小田原一里塚は、日本橋から20番目の一里塚で、天保年中の相模国風土記に「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上に榎樹ありし」と記されています。
また、江戸口見付は、天正18年(1590)に豊臣秀吉との小田原合戦で、町ぐるみ掘や土塁で囲まれていましたが、江戸初期にこれらが壊され東海道を通すときに枡形が作られ、小田原宿から江戸に向かう出口であったため、江戸口見付と名付けられました。
歩道橋の左脇にあった一里塚碑を見落とし、歩道橋で反対側(進行右側)に渡ったら江戸口見付跡の標柱が建っていました。
そして道路の反対側を見ると石碑が見え、慌てて歩道橋を上り、下りしてまた進行方向左側に戻りました。
一里塚跡から約260m歩くと、道路の反対側(進行右側)に梅干で有名な老舗の田中屋を眺めながらさらに80m歩くと「新宿」交差点があり左折しました。
また、旧東海道沿いには、町名石碑が建っていました。
 ※新宿町碑(左側)
46 町碑(新宿町)
 ※万町碑(左側)
47 町碑(万町)
新宿交差点を左折して約110m歩くと、右折する車道があり、蒲鉾を売る店が軒を連ねる蒲鉾街となりました。
立ち並ぶ蒲鉾店を見ながら約270m歩くと、左側に有名な「丸う田代総本店」が建っていました。
11時52分、丸う田代総本店(左側)
48 蒲鉾・丸う本店前
丸うマークの蒲鉾は何回も買ったことがあり、お土産に買っていきたかったのですが、この先何時間も暑いザックの中に入れて置くのは腐ってしまうと考え、店の前で写真だけ撮って先に進みました。
丸う田代総本店から約30m歩くと右側に、小田原おでん本店がありました。
11時53分、小田原おでん本店(右側)
49 小田原おでん
小田原で有名な店舗が続いていましたが、今日は立ち寄ることなく店の前を通り過ぎました。
また、この辺りの街道沿いにも町碑が建っており、歩く側(進行左側)にある町碑は写真に撮り、記録に残しました。
 ※高梨町碑(左側)
50 町碑(高梨町)
 ※宮前町碑(左側)
51 町碑(宮前町)
青物町信号から約110m歩くと、左側に小田原宿・脇本陣だった古清水旅館がありましたが、今は高齢者住宅になっていました。

11時58分、小田原宿・古清水脇本陣跡(左側)
52 古清水本陣跡
江戸時代末期、宿場には4軒の本陣があり筆頭が清水金左衛門本陣で、本陣は兄が、脇本陣を弟が経営し、清水
金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の把握を行っていました。

本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊に当てられていました。
明治以降、本陣と脇本陣が合併して古清水旅館がありましたが、平成8(1996)年に廃業し、平成19(2007)年に建物が取り壊され、現在は高齢者専用の賃貸住宅になっており、2階に資料館があります。
古清水旅館跡の直ぐ隣りに、明治天皇が宿泊した小田原宮の前行在所址と刻まれた石碑が建っていました。
11時59分、明治天皇小田原行在所址(左側)

53 明治天皇宮ノ前行在所跡
明治天皇宮の前行在所址碑は、小田原宿で筆頭本陣を勤めていた清水金左衛門本陣跡で、本陣の上段の間があった場所に建っており、行在所址碑の脇にある「紫陽花」の花が満開でした。

55 明治天皇宮ノ前行在所跡・あじさい

行在所址碑から約60m歩くと、本町交差点となり国道1号と合流し、交差点の左角に「なりわい交流館」がありました。
交流館は昼食後に戻ってきた時に見学するとして昼食を食べるため左側を眺めながら、明治26年創業の老舗である元網元のだるま料理店」に向かいました。

12時07分~12時29分、昼食(だるま料理店)=写真はR02.10.13に撮影

160-3 だるま料理店本店160-2 店内
昼時で店内は一杯でしたが、運よく空いたテーブル席があり、待つことなく座れました。

何をたべようかメニューを見て天丼も考えましたが、元網元が開いた店で、海の近くでもあり「刺身定食」を注文しました。

料理の量は全体的に少ない感じがしましたが、美味しい刺身でした。

また、食後に店舗の写真を撮る予定にしていましたが、ころり忘れてしまい本町交差点近くで気が付いたので、戻って写真を撮るのを諦めました。
13時34分、なりわい交流館(左側)

56 なりわい交流館

なりわい交流館は、昭和7年(1932)に建設された旧網問屋を再整備し、小田原市民や観光客の憩いの場として平成13年(2001)に開館されたお休み処です。

昼食を食べてきたばかりなので、街道スタンプがあるかと思って案内の人に聞いたら「ありません」とつっけんどんに応対され、早々に立ち去りました。

街道スタンプを押印したのは品川宿だけだったので、楽しみにしていたので残念でした。

〔片岡本陣跡〕

このあと、片岡本陣跡、久保田本陣跡を探したが、見付けられませんでした。

資料で史跡の場所を確認すると、本町信号の先の左側にマンション「レアージュ小田原本町」があり、その脇を左に入った右側に「明治天皇本町行在所址」があり、碑の建っている場所に片岡本陣があったと記されていたので再訪して確認しました。
※①=片岡本陣跡碑(左側)

116 小田原宿・片岡本陣跡
旧小田原宿の本陣片岡永左衛門宅跡で、明治11年(1878)11月に、明治天皇が北陸、東海を巡行した時に宿泊されたそうです。

〔久保田本陣跡〕
※①=久保田本陣跡(左側)
片岡本陣跡から約60m先の左側に湯沢自動車商会があり、その隣りの山崎タイル店の辺りに建っていたそうですが、パルネなどの標板が何もなく確認できませんでした。

117 小田原宿・久保田本陣跡?
山崎タイル店隣りの湯沢自動車商会の方に聞きましたが、「聞いたことがない」と云われてしまいました。
本町交差点角のなりわい交流館から約140m歩くと、左側に本町バス停(小伊勢屋前)があり、本町の町碑が建っていました。

 本町碑(左側)

57 町碑(本町)

町碑から約110m歩くと御幸の浜信号があり、ここで進行右側に道路を渡り約80m歩くと、道路の反対側(進行左側)に小西薬局がありました。

12時47分、小西薬局(右側)

58 小西薬局
小西薬局を眺めながら約80m歩くと、右側にお城をモチーフにした薬のういろう「透頂香(とうちんこう)」と菓子のういろうの「ういろう本店」があり立ち寄りました。

12時51分、ういろう本店(左側)

59 ういろう本舗

小田原外郎(ういろう)の祖宇野藤右衛門定春は京都外郎家の一族で、中国元朝に宮礼部員として仕えた陳宗敬を祖としています。

外郎家は、霊薬透頂香の製造者として知られ、小田原北条氏の招聘で小田原に居を構えた藤右衛門が京文化を伝達する役割を果たしました。

また、江戸時代に透頂香を売る「外郎売り」は、歌舞伎市川団十郎の出し物として評判となりました。

外郎の店内に入り、今日のおやつに「ういろう」と、お土産に「ういろう羊羹」を買いました。
 ※①=ういろう(再訪の時)

119 ういろう店内
ういろうでの買い物を済ませて約70m歩くと箱根口信号があり、交差点を右折して旧東海道から外れて小田原城を見に行きました。

12時57分、小田原城(右側)

約170m先の藤棚信号を過ぎて場内に入ると、綺麗な紫陽花が咲いていました。

61 小田原城

城内は二宮神社を見ながら本丸公園に行きましたが、休日ということもあり団体客も多く、ゆっくり見学するという状況ではなかったので、写真だけ撮って城外に出ることにしました。

 小田原城

62 小田原城
小田原城は北条氏の時代、全国屈指の雄大な規模を持った城郭で、構築法は内郭(本丸、二の丸、三の丸)や城下町の周囲に大外郭を設けてこれを保護しながら、内郭の外側に雄大な防御線を張る構えで、総曲輪と呼び、土塁と空堀で作られているところから総掘と云われました。
総曲輪は、氏康の永禄頃に作り始められ、上杉謙信、武田信玄の再度の来攻の経験を生かして次第に拡大され、豊臣秀吉の小田原攻めが始まる直前の天正18(1590)年早春に完成したようです。
現在みられる城の石垣は、江戸時代のもので、北条氏の頃の空堀、土塁は、主にJR小田原駅西側の山手に残っています。
箱根口に戻り、交差点を右折して旧東海道を進行右側を歩くと、昼食で最初に候補とした「芳月」の看板がありましたが、店は閉店しているようでした。

この店は小田原城の先にあり、小田原城を見学すると食事の時間が遅くなるため、「だるま料理店」に変更したのですが、大正解でした(※ネットには閉店情報は書き込まれていませんでした)。

箱根口信号から約550m歩くと早川口信号があり、進行方向左側にある大久寺に立ち寄るため、進行左側に渡りました。

そして、東海道線と箱根登山鉄道の高架下を潜って約70m歩くと、左側に大久寺がありました。

13時21分、大久寺(左側)

66 大久寺

大久寺は、小田原城主の大久保忠世が建立した寺で、大久保氏の菩提寺です。
寺院にはあまり立ち入らないのですが、Yumiさんが反対しなかったので、山門から境内に入り墓所を見学しました。
大久寺を出て約80m歩くと「板橋見附」信号があり、信号を渡ると国道1号と分岐する道があり、交差点の右角にベンチとトイレがありました。
とても綺麗なトイレだったので、Yumiさんにも声を掛け利用させて頂き、ベンチで小休憩しました。
また、板橋見付信号付近は、信号の名前のとおり上方口見付跡なのですが、史跡の標板などがないかと辺りを見回しましたが確認することはできませんでした。
板橋見付信号で右に分岐している道を約50m歩くと新幹線のガードがあり、その下を潜ってさらに約550m歩くと右側の少し高いところに宗福院地蔵堂があり、立ち寄りました。
13時42分~13時51分、休憩(宗福院地蔵堂)=右側
69 板橋地蔵尊
ここには鎮守福興大黒尊天という大きな大黒様が祀ってあるのですが、写真を撮ることを忘れてしまい、昼食を食べてからあまり時間が経過していないというのにおやつタイムにし、ういろう本店でかったういろうを食べていました。
境内には、シャボン玉で遊ぶ子供とそれを見守る母親がおり、母親が「もう帰ろう」と声を掛けるのですが、「まだダメ」と子供が拒否し、楽しく遊んでいました。
ほのぼのとした親子の雰囲気で、心が癒されました。
また、境内にミニ三脚を置いてセルフタイマーで写真を撮れる場所があり、今回は真直ぐ撮れました。
地蔵堂の境内でひと息ついて先に進むと、いままで見えていた町並みの景色が、箱根連山の山並みに変わりました。
Yumiさんに「今度はあそこの山を越えるよ」と、目の前に見える箱根連山を指を差して教えましたが、どこまで理解したか不明です(理解していないと思います)。
地蔵堂を出て約100m先の箱根登山鉄道のガードを潜ると、上板橋信号の国道1号に合流しました。
国道の右側を、左に早川と西湘バイパスを眺め、右側に箱根登山鉄道を見ながら約650m歩くと、高架になっている小田原厚木道路が走っていました。
高架下を潜ったところを右折し、箱根登山鉄道の踏切を渡り、踏切先の二つに分岐した道を左に進みました。
そして直ぐ先の川を渡ったところから約290m歩くと、箱根登山鉄道の風祭駅入口があり、さらに約140m歩くと三叉路があり、その右角に日本橋から21番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
14時11分、021風祭一里塚・小田原道祖神(右側)
71 風祭一里塚
一里塚跡の前をそのまま真っ直ぐ約650m歩くと、右に入って行く道があり春日の局の墓がある紹大寺がありましたが、Yumiさんの「お参りしなくてもいい」との言葉にすぐ同調し割愛しました。
紹大寺に行く道から約220m歩くと、箱根登山鉄道の入生田駅に入る道があり、分岐点で到着式(到着のパネルを掲げて写真撮影)を行いました。
14時27分、入生田駅入口(到着地)
74 入生田駅入口(到着地)
旧東海道の旅でHPを立ち上げている、先人の子供(佐武隊員)が見つけた「丸い石」の写真を撮ろうと注意深く歩きましたが、見つけられませんでした。
見落としていないので次回の旅の時に、再度確認したいと思います。
【帰路】
電車を待つ間、電車のホームで初めて記念写真を撮りました。
 ※箱根登山鉄道・入生田駅
75 入生田駅
14時43分、箱根登山鉄道・入生田駅発
14時54分、箱根登山鉄道・小田原駅着
小田原駅で小田急線に乗り換え、家に帰りました。
14時59分、小田急線・小田原駅発
今日は、歩く距離が少し短かかったので、足の具合も良く終わることができました。
お疲れ様でした。
次回も頑張りましょう。
小田急線に乗って帰る途中、朝の座席を立ったことについて聞いてみたら、記憶にないとのことでした。
そして、帰りに朝と同じようなことが起きないように、座席の角に座わってもらい、私が席を立つまで動かないように話し、下車駅の1つ手前で次の駅で降りることを伝えました。
夫婦二人の5回目の珍道中は、無事に終わりました。

【次回の予定】

次回(第6回)は、「入生田駅入口から芦ノ湖の箱根町バス停までの12.91㎞」を旅する予定です。
標高差が650mある旧東海道の旅で一番厳しい箱根の峠越えを行う山登りのため、山行用の靴で歩こうと思います。
また、山は怖い所なので、準備を整えて臨みたいと思います。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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