旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2012年06月

【天候】晴れのち曇り
【宿場】(08)大磯宿⇒(09)小田原宿
【行程】歩行距離=14.97㎞ 総距離=88.91㎞
二宮駅入口交差点⇒(1.70㎞)⇒018押切坂一里塚⇒(4.41㎞)⇒019小八幡一里塚⇒(3.76㎞)⇒
020小田原一里塚⇒(4.19㎞)⇒021風祭一里塚⇒(0.91㎞)⇒入生田駅入口
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第5回旅の宿場)
30 第5回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第5回)
 第5回の旅ルート
 
(J
R二宮駅・駅入口交差点 ➡ 入生田駅入口)
第5回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月11日

【旧東海道の旅】
《序章》

梅雨の最中で、天気予報が発表される頃からやきもきしながら旅の日を迎えました。
今回の旅は、
 ①.7月中旬に私の白内障手術が実施される
 ②.7月と8月は、真夏の炎天下となるため、街道旅を休止する
 ③.9月に箱根の東坂を上る
という理由で、雨天順延にならないことを願っていました。
天気予報は、旅を計画している6月30日は降雨確率は低く、翌日の7月1日が逆に降雨確率が高い予報で旅の日を向かえました。
《身支度》
窓のカーテンを開けて外を見ると、青空が広がっていて天気はOKです。
今までの旅に出るときと同じ手順で準備を進める中で、今日は先日(27日)の山の会の月例会で教えて頂いた「足の甲に冷温シップを貼る」ことを実施してみることにした。
Yumiさんの足の甲にシップ薬を貼った後、私の足にもシップ薬を貼りました。
また、朝食は先日の富士登山の時、Yumiさんに不評だった焼き餅はやめて、いつもと同じパン、牛乳そして果物にしました。
出発の身支度を整え、トイレを済ませ、乗る予定の電車に慌てないで乗れる時間に家を出発し、自転車で通る公園は多くの人がジョグ&ウォークをしており、私とYumiさんは朝の爽やかな空気を吸いながら軽快に自転車のペタルを踏んで最寄り駅へ向かいました。
《移動》
最寄駅を定刻に出発し、電車を乗り継いで出発地のJR二宮駅に移動しました。
移動する車窓から見る景色は、前回の旅の帰りに車窓から見たものとはまったく違った感じで、「ここを歩いてきたんだな」と、少し感傷的な気分になりながら窓の外を眺めていました。
まだ、旧東海道の旅は先が長いので、今から感傷的になっていては良くないのでしょうが、感傷的な気分になっていました。
〔胆を冷やす〕
ところが今朝の移動において感傷的な気分で居られたのは僅かで、冷や汗の連続でした。
理由は、Yumiさんが一度ならずも二度も隣りに座っていた人が立つのに連られて、私に関係なく座席を立って下車しようとしたからです。
私は、隣に座っていたYumiさんの動く気配に目を覚まし、Yumiさんが座席から立って下車しようとしているのビックリして、急いでYumiさんの腕を取って引き戻しました。
少し強い調子で注意したので、廻りの人から注視の視線を受けましたが、致し方ありません。
私は強く云ったので、二度は起きないだろうと思っていたのですが、その二度目も起きたのです。
二度目も気が付いてYumiさんの腕を取って引き戻したので事なきを得ましたが、私が寝ていて気が付かなかったら、どうなっていただろうと、背筋が寒くなりました。
私は一緒の時でも気を付けないといけないと心に刻むと共に、それからは寝ないで過ごし、降りる1つ手前で次の駅で降りることを説明するようにしました。
08時21分、二宮駅着
01 二宮駅改札口
二宮駅では、改札を出て駅構内にあるコンビニに行き、ペットボトルを買ったのですが、これは駅に着いてから買うことは考えていたわけではなく、2日前から今日のために冷凍しておいたペットボトルを、家の冷蔵庫の中にものの見事に置き忘れてきたからで、街中を歩く街道ウォークだったのでペットボトルを忘れても何とかなりましたが、山行の時じゃなくて良かったと思いました。
ペットボトルを購入したり、駅のトイレを借りてスッキリしてから出発地点に向かい、
前回の到着地で、恒例となってきた出発式(出発地で出発の看板を掲げて写真を撮る)を行いました。
【=旅=】
08時32分、二宮駅入口交差点(出発地)
 
03 二宮駅入口交差点(出発地点)
二宮駅入口交差点を出発して約200m歩くと松並木があり、私が「二宮松並木」と勝手に命名しました。
08時38分、二宮松並木(右側)
04 二宮の松並木
松並木を過ぎ、吾妻山入口信号から約130m歩くと、国道1号と分岐する道の左側に旧東海道と梅沢旧道の道標が建っており、そこを右に進みます。
08時45分、梅沢旧道道標(旧道入口・左側)
06 梅沢旧道入口
〔Yumiさんの霊感〕
梅沢旧道を約100m歩くと右側に醤油醸造工場があるのですが、工場の前を通る時
 Y=この道通ったことあるよね
 E=いや、初めてだよ
 Y=ふーん
 E=夢の中でこの道を通ったの?
 Y=この道、歩いたことあるよ
 E=今日、始めて歩く道だよ
 Y=そう。この景色知ってるよ
Yumiさんのことを知らない人は、「えー」といいますが、いままでも何回も夢の中で事前に見ていたことが何回もあるので、私は特に驚いたりしませんでした。
事前にこれから行くところのことを夢の中で見ていることを認識させられたのは、昨年の諏訪御柱祭りを見に行った時です。
道路端で木遣りや笛などによる催しを見ていた時、
 Y=ねえ、これ見るの初めて?
 E=初めてだよ
 Y=この景色、見て知っている
とのこと。
Yumiさんは霊感の強い人だとは知っていましたが、最初は驚きました。
これ以降、このようなことがいく度もあり、最近は逆にこちらから聞くこともあり、初めてのことを事前に知っていても驚くことはなくなりました。
醤油工場から約150m歩くと右側に、相模新西国三十三観音霊場一番札所で、藤棚も有名な等覚院があり立ち寄りました。
08時49分、等覚院(右側)
07 等覚院の藤だな
藤は、樹齢約400年、樹高2.4mで、元和9年(1623)将軍家光が上洛するとき、等覚寺に駕篭を停めて藤の花を見たと伝えられている。また、寛文の頃、仁和寺宮が関東に下向した時、等覚寺の藤の花を見て「藤巻寺」の別号を与えられたとも伝えられている。
藤は開花が終わって新緑の藤棚に変貌していたので、違った藤を眺めることができました。
新緑の藤を眺めて目の保養をした後、山西信号で梅沢旧道から国道1号に合流し、約450m歩くと川勺神社入口信号の手前で道は分岐し、旧東海道は左側の押切坂に進みますが、分岐したところに日本橋から18番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
9時00分、018押切坂一里塚跡(右側)
09 押切坂一里塚
押切一里塚は大磯宿と小田原宿の中間に位置し、塚は街道を挟んで両側に築かれ、
 ●北側の塚=約3.6m、上にケヤキが植樹
 ●南側の塚=約3.3m、上に榎が植樹
だったそうで、周辺には旅人目当ての茶屋や商店か軒を並べ「梅沢の立場」と呼ばれ、大変賑わっていたそうです。
押切坂一里塚から約200m歩くと、左側に入る道の先角の民家の敷地に、本陣跡碑が建っていました。
09時00分、二宮宿・松屋本陣跡(左側)
11 二宮・松屋本陣跡
本陣は和田家が江戸時代に大磯から小田原両宿の間の宿として御休本陣を賜り、代々松屋作右衛門と名乗りました。本陣に保管されている御休帳には、本陣に立ち寄った大名、旗本などの記録がされている貴重なものです。
松尾本陣跡を過ぎると押切坂は急坂に近い傾斜となり、国道1号に合流する手前に道祖神があり、記録に残しました。
 ※道祖神
13 道祖神(松屋本陣の先)
国道1号に合流して約60m歩くと中村川に架かる押切橋があり、橋の上から海が眺められました。
09時11分、押切橋からの海の眺め(左側)
14 押切橋からの海
海は目視では良く見えたのですが、写真は後ろを走る西湘バイパスの橋桁と、技量不足及び低性能のカメラのため、良く写っていなかったのでガッカリしました。
押切橋を渡ると二宮町から小田原市に入る市境標識が建っていました。
09時12分、市境標識(二宮町から小田原市)=左側
15 二宮町と小田原市の境界
中村橋を渡り、坂を上って行くと、相模湾の眺望が広がってきました。
前回の第4回の旅で、大磯の照ケ崎海岸に立ち寄ったので、今日は砂浜に行かなくてもいいですとYumiさんのお言葉があり、海を見ながら旧東海道(国道1号)を歩きました。
旧東海道から海が近くに見れる数少ない景勝地だったので、道路端にでも座ってゆっくり眺めれば良かったと、帰ってきてから思いました。
車坂の下り坂を歩き東前川信号の先の前羽交番(左側)の前付近(右側)に、車坂碑が建っているそうですが、事前に調べた私の場所確認の間違いから碑を確認することができませんでした。
交番から約900m歩いた左側の明治安田生命小田原東(営)から約50m先の西前川信号を右折した先に、山吹色枠の中に神奈川県と小田原市の水道管を結んだ友情マンホール(緊急連絡管)の大きな蓋が道路に埋められていました。
09時41分、友情マンホール(右側)
17 神奈川県と小田原市の友情マンホール
西前川信号に戻り国道1号を約300m歩くと、右側にのんき亭がありこの辺りから上り坂となりました。
旧東海道は、約70m先の右に上る細い道を上り、家の敷地内を通るようにクランク形に進むんで国府津駅前交差点に出ました。
09時51分、国府津駅前交差点(右側)
19 国府津駅前交差点
交差点の脇にベンチが置いてあり、信号を待つ間のわずかな一服休憩を満喫したのですが、道路の反対側(進行左側)に直ぐ渡るのはもったいないと、少し休憩してから渡りました。
また、交差点には旅人に優しいベンチが設置されていて、助かりました。
国府津駅前信号を渡り進行方向左側を約50m歩くと、左側の建物と建物の間に、御勧堂跡の石碑が建っていました。
09時54分、御勧堂碑(左側)
20 御勧堂碑
御勧堂は、親鸞証人が常陸の国から京都へ帰る途中、7年間住んだ堂で、現在は跡碑のみである。
道路の反対側に、約800年ほど前の嘉禄年間に創建され、親鸞上人によって開基された真楽寺があり、寺院のお堂の中に親鸞上人が石に指先で名字を書かれたという帰命石と呼ばれる2mほどの大きい石があるそうでしたが、立ち寄らずにそのまま左側の歩道を歩きました。
約650m歩くと森戸川に架かる親木橋があり、橋を渡ったところの道路は、進行方向右側には横断歩道があるのですが、左側は歩道橋だけになっていて、歩道橋に魚をモチーフにしたパネルが橋の路面に埋め込まれていました。
10時05分、魚のパネル(親木橋歩道橋路面)=左側
23 魚タイル・クロダイ
親木橋の進行左側には横断歩道がなく、この歩道橋を渡るのでご覧になれます。
歩道橋を降りた辺りから松並木が始まり、約200m歩くと日本橋から79㎞の距離標が建っていました。
10時10分、79㎞距離標(左側)
24 79㎞ポイントの松並木
さらにそのまま進行左側の歩道を歩くと、「小八幡三丁目」信号近くにバス停「一里塚」があり、バス停の約10m手前に日本橋から19番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
10時13分、019小八幡一里塚跡(左側)
25 小八幡一里塚
二宮駅を出発してから、国府津駅入口交差点のベンチで少し休んだだけだったので、空き地に枯れ木の幹が置かれていたのを見つけ、二人で仲良く座ってお菓子タイムにしました。
10時17分~10時22分、休憩
空には青空が広がっているのですが、海からの風が強く、Yumiさんはいつものごとく1枚着こんで「寒い、寒い」を連発していました。
休憩を終え、はま寿司小田原酒匂店の少し手前に、日本橋から80㎞の距離標が松並木の中に建っていました。
10時31分、80㎞距離標(左側)
27 80㎞ほイント松並木
松並木を約110m歩くと酒匂歩道橋があり、歩道橋から箱根連山を眺めようと上ってみましたが、雲と靄で眺望はダメでした。
10時34分、酒匂歩道橋からの眺め
29 酒匂歩道橋からの風景
歩道橋で道路を渡り、進行右側の歩道に降りると、真っ直ぐの電柱の脇に逆弓形に曲がった松があり、面白い構図の景観を眺めることができました。
10時38分、電柱と松(右側)
32 電柱と松
酒匂歩道橋から約800m歩くと、右側に法善寺があり、境内に石塔の五重塔が建っていました。
10時48分、石塔五重塔(法善寺)=右側
33 法善寺の五重塔
法善寺から約450m歩くと「酒匂橋東側」信号があり、酒匂川に架かる約400mの酒匂橋を渡りましたが、先ほどの歩道橋から見た状況と同じで、箱根連山や富士山は眺められませんでした。
10時55分、酒匂橋(山の眺め)=右方向
34 酒匂橋
 ※酒匂橋(海の眺め=左側)
36 酒匂橋からの海
酒匂橋を渡ると右側にトヨタカローラ販売店があり、コンビニのローソンとの間を右折し、細い道を約80m歩いて突き当たった道を右折し、約140m歩いて酒匂川の堤防に出ました。
この辺りが酒匂川の渡し跡らしいのですが、碑もなく、地元の人に聞いても何もないとのことでしたので、この辺りかなと堤防で写真を撮って記録に残しました。
11時09分、酒匂川の渡し跡(?)
37 酒匂川の渡し跡(碑はなし)
酒匂川の渡しは、道中の難所の一つで、古くは舟渡しでしたが、延宝2年(1674)に舟渡しが禁止され徒渡し(かちわたし)制が施行され、冬の時期は冬川と云って仮橋を架けましたが、夏の時期は夏川と称して手引きで肩車や蓮台などによって川越え人足に料金を支払って渡っていました。
そして、明治4年(1871)に制度が廃止され、今日に至っています。
渡し跡からの戻りは、トヨタカローラ販売店の処には戻らず、堤防からの道を真っ直ぐ歩いてビジネス高校前信号に出て、旧東海道に戻りました。
旧東海道はビジネス高校前信号を渡り、そのまま約60m先を直角に右折して進むのですが、この近くに新田義貞の首塚があるというので、立ち寄りました。
こう書くと簡単に跡碑の処に行けそうなのですが、分かりずらい場所にあり、地元の人に聞いてやっと分かりました。
11時21分、新田義貞首塚(街道から入った右側)
40 新田義貞の首塚
碑は鉄柵で囲まれていて、扉は閉まっておりましたので、扉を開けて中に入らせて頂きました。
首塚の場所は、このブログをご覧になった方の一助になればと、以下に道順を記しておきます。
 ①.
ビジネス高校前信号を渡って約60m歩いてきた処を右折せずに、そのまま突き当たった家に沿って進
    みます
    突き当たった辺りが、「小田原市東町4丁目5-11」と思います
 ②.約60m歩くと住宅地の十字路(この辺りが4丁目5-17と思います)があり、ここを右折します
 ③.約80m歩くと突き当たって道は左折するのですが、ここを右折して畑地に入ると、右前方に鉄柵が見え
    ます
 ④.鉄柵の中に首塚があります
首塚から旧東海道に戻り、常剱寺入口で国道1号に合流しました。
国道1号を約190m歩くと、山王小学校入口信号、そこから約500m歩くと山王橋(手前に信号有り)、橋を渡って約170m歩くと山王橋バス停があり、その先の歩道の道路側に小田原宿碑が建っていました。
10時37分、小田原宿碑(左側)
42 小田原宿碑
宿碑から約50m歩くと「浜町二丁目歩道橋」があり、歩道橋の左側に日本橋から20番目の一里塚跡碑と江戸口見付跡碑が、歩道橋を渡った反対側に江戸口見付跡標柱が建っていました。
11時42分、020小田原一里塚&江戸口見付跡(左側)
44 小田原一里塚
 ※江戸口見付跡標柱(道路反対側)=右側
43 小田原城址江戸口見付碑
小田原一里塚は、日本橋から20番目の一里塚で、天保年中の相模国風土記に「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上に榎樹ありし」と記されています。
また、江戸口見付は、天正18年(1590)に豊臣秀吉との小田原合戦で、町ぐるみ掘や土塁で囲まれていましたが、江戸初期にこれらが壊され東海道を通すときに枡形が作られ、小田原宿から江戸に向かう出口であったため、江戸口見付と名付けられました。
歩道橋の左脇にあった一里塚碑を見落とし、歩道橋で反対側(進行右側)に渡ったら江戸口見付跡の標柱が建っていました。
そして道路の反対側を見ると石碑が見え、慌てて歩道橋を上り、下りしてまた進行方向左側に戻りました。
一里塚跡から約260m歩くと、道路の反対側(進行右側)に梅干で有名な老舗の田中屋を眺めながらさらに80m歩くと「新宿」交差点があり左折しました。
また、旧東海道沿いには、町名石碑が建っていました。
 ※新宿町碑(左側)
46 町碑(新宿町)
 ※万町碑(左側)
47 町碑(万町)
新宿交差点を左折して約110m歩くと、右折する車道があり、蒲鉾を売る店が軒を連ねる蒲鉾街となりました。
立ち並ぶ蒲鉾店を見ながら約270m歩くと、左側に有名な「丸う田代総本店」が建っていました。
11時52分、丸う田代総本店(左側)
48 蒲鉾・丸う本店前
丸うマークの蒲鉾は何回も買ったことがあり、お土産に買っていきたかったのですが、この先何時間も暑いザックの中に入れて置くのは腐ってしまうと考え、店の前で写真だけ撮って先に進みました。
丸う田代総本店から約30m歩くと右側に、小田原おでん本店がありました。
11時53分、小田原おでん本店(右側)
49 小田原おでん
小田原で有名な店舗が続いていましたが、今日は立ち寄ることなく店の前を通り過ぎました。
また、この辺りの街道沿いにも町碑が建っており、歩く側(進行左側)にある町碑は写真に撮り、記録に残しました。
 ※高梨町碑(左側)
50 町碑(高梨町)
 ※宮前町碑(左側)
51 町碑(宮前町)
青物町信号から約110m歩くと、左側に小田原宿・脇本陣だった古清水旅館がありましたが、今は高齢者住宅になっていました。

11時58分、小田原宿・古清水脇本陣跡(左側)
52 古清水本陣跡
江戸時代末期、宿場には4軒の本陣があり筆頭が清水金左衛門本陣で、本陣は兄が、脇本陣を弟が経営し、清水
金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の把握を行っていました。

本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊に当てられていました。
明治以降、本陣と脇本陣が合併して古清水旅館がありましたが、平成8(1996)年に廃業し、平成19(2007)年に建物が取り壊され、現在は高齢者専用の賃貸住宅になっており、2階に資料館があります。
古清水旅館跡の直ぐ隣りに、明治天皇が宿泊した小田原宮の前行在所址と刻まれた石碑が建っていました。
11時59分、明治天皇小田原行在所址(左側)

53 明治天皇宮ノ前行在所跡
明治天皇宮の前行在所址碑は、小田原宿で筆頭本陣を勤めていた清水金左衛門本陣跡で、本陣の上段の間があった場所に建っており、行在所址碑の脇にある「紫陽花」の花が満開でした。

55 明治天皇宮ノ前行在所跡・あじさい

行在所址碑から約60m歩くと、本町交差点となり国道1号と合流し、交差点の左角に「なりわい交流館」がありました。
交流館は昼食後に戻ってきた時に見学するとして昼食を食べるため左側を眺めながら、明治26年創業の老舗である元網元のだるま料理店」に向かいました。

12時07分~12時29分、昼食(だるま料理店)=写真はR02.10.13に撮影

160-3 だるま料理店本店160-2 店内
昼時で店内は一杯でしたが、運よく空いたテーブル席があり、待つことなく座れました。

何をたべようかメニューを見て天丼も考えましたが、元網元が開いた店で、海の近くでもあり「刺身定食」を注文しました。

料理の量は全体的に少ない感じがしましたが、美味しい刺身でした。

また、食後に店舗の写真を撮る予定にしていましたが、ころり忘れてしまい本町交差点近くで気が付いたので、戻って写真を撮るのを諦めました。
13時34分、なりわい交流館(左側)

56 なりわい交流館

なりわい交流館は、昭和7年(1932)に建設された旧網問屋を再整備し、小田原市民や観光客の憩いの場として平成13年(2001)に開館されたお休み処です。

昼食を食べてきたばかりなので、街道スタンプがあるかと思って案内の人に聞いたら「ありません」とつっけんどんに応対され、早々に立ち去りました。

街道スタンプを押印したのは品川宿だけだったので、楽しみにしていたので残念でした。

〔片岡本陣跡〕

このあと、片岡本陣跡、久保田本陣跡を探したが、見付けられませんでした。

資料で史跡の場所を確認すると、本町信号の先の左側にマンション「レアージュ小田原本町」があり、その脇を左に入った右側に「明治天皇本町行在所址」があり、碑の建っている場所に片岡本陣があったと記されていたので再訪して確認しました。
※①=片岡本陣跡碑(左側)

116 小田原宿・片岡本陣跡
旧小田原宿の本陣片岡永左衛門宅跡で、明治11年(1878)11月に、明治天皇が北陸、東海を巡行した時に宿泊されたそうです。

〔久保田本陣跡〕
※①=久保田本陣跡(左側)
片岡本陣跡から約60m先の左側に湯沢自動車商会があり、その隣りの山崎タイル店の辺りに建っていたそうですが、パルネなどの標板が何もなく確認できませんでした。

117 小田原宿・久保田本陣跡?
山崎タイル店隣りの湯沢自動車商会の方に聞きましたが、「聞いたことがない」と云われてしまいました。
本町交差点角のなりわい交流館から約140m歩くと、左側に本町バス停(小伊勢屋前)があり、本町の町碑が建っていました。

 本町碑(左側)

57 町碑(本町)

町碑から約110m歩くと御幸の浜信号があり、ここで進行右側に道路を渡り約80m歩くと、道路の反対側(進行左側)に小西薬局がありました。

12時47分、小西薬局(右側)

58 小西薬局
小西薬局を眺めながら約80m歩くと、右側にお城をモチーフにした薬のういろう「透頂香(とうちんこう)」と菓子のういろうの「ういろう本店」があり立ち寄りました。

12時51分、ういろう本店(左側)

59 ういろう本舗

小田原外郎(ういろう)の祖宇野藤右衛門定春は京都外郎家の一族で、中国元朝に宮礼部員として仕えた陳宗敬を祖としています。

外郎家は、霊薬透頂香の製造者として知られ、小田原北条氏の招聘で小田原に居を構えた藤右衛門が京文化を伝達する役割を果たしました。

また、江戸時代に透頂香を売る「外郎売り」は、歌舞伎市川団十郎の出し物として評判となりました。

外郎の店内に入り、今日のおやつに「ういろう」と、お土産に「ういろう羊羹」を買いました。
 ※①=ういろう(再訪の時)

119 ういろう店内
ういろうでの買い物を済ませて約70m歩くと箱根口信号があり、交差点を右折して旧東海道から外れて小田原城を見に行きました。

12時57分、小田原城(右側)

約170m先の藤棚信号を過ぎて場内に入ると、綺麗な紫陽花が咲いていました。

61 小田原城

城内は二宮神社を見ながら本丸公園に行きましたが、休日ということもあり団体客も多く、ゆっくり見学するという状況ではなかったので、写真だけ撮って城外に出ることにしました。

 小田原城

62 小田原城
小田原城は北条氏の時代、全国屈指の雄大な規模を持った城郭で、構築法は内郭(本丸、二の丸、三の丸)や城下町の周囲に大外郭を設けてこれを保護しながら、内郭の外側に雄大な防御線を張る構えで、総曲輪と呼び、土塁と空堀で作られているところから総掘と云われました。
総曲輪は、氏康の永禄頃に作り始められ、上杉謙信、武田信玄の再度の来攻の経験を生かして次第に拡大され、豊臣秀吉の小田原攻めが始まる直前の天正18(1590)年早春に完成したようです。
現在みられる城の石垣は、江戸時代のもので、北条氏の頃の空堀、土塁は、主にJR小田原駅西側の山手に残っています。
箱根口に戻り、交差点を右折して旧東海道を進行右側を歩くと、昼食で最初に候補とした「芳月」の看板がありましたが、店は閉店しているようでした。

この店は小田原城の先にあり、小田原城を見学すると食事の時間が遅くなるため、「だるま料理店」に変更したのですが、大正解でした(※ネットには閉店情報は書き込まれていませんでした)。

箱根口信号から約550m歩くと早川口信号があり、進行方向左側にある大久寺に立ち寄るため、進行左側に渡りました。

そして、東海道線と箱根登山鉄道の高架下を潜って約70m歩くと、左側に大久寺がありました。

13時21分、大久寺(左側)

66 大久寺

大久寺は、小田原城主の大久保忠世が建立した寺で、大久保氏の菩提寺です。
寺院にはあまり立ち入らないのですが、Yumiさんが反対しなかったので、山門から境内に入り墓所を見学しました。
大久寺を出て約80m歩くと「板橋見附」信号があり、信号を渡ると国道1号と分岐する道があり、交差点の右角にベンチとトイレがありました。
とても綺麗なトイレだったので、Yumiさんにも声を掛け利用させて頂き、ベンチで小休憩しました。
また、板橋見付信号付近は、信号の名前のとおり上方口見付跡なのですが、史跡の標板などがないかと辺りを見回しましたが確認することはできませんでした。
板橋見付信号で右に分岐している道を約50m歩くと新幹線のガードがあり、その下を潜ってさらに約550m歩くと右側の少し高いところに宗福院地蔵堂があり、立ち寄りました。
13時42分~13時51分、休憩(宗福院地蔵堂)=右側
69 板橋地蔵尊
ここには鎮守福興大黒尊天という大きな大黒様が祀ってあるのですが、写真を撮ることを忘れてしまい、昼食を食べてからあまり時間が経過していないというのにおやつタイムにし、ういろう本店でかったういろうを食べていました。
境内には、シャボン玉で遊ぶ子供とそれを見守る母親がおり、母親が「もう帰ろう」と声を掛けるのですが、「まだダメ」と子供が拒否し、楽しく遊んでいました。
ほのぼのとした親子の雰囲気で、心が癒されました。
また、境内にミニ三脚を置いてセルフタイマーで写真を撮れる場所があり、今回は真直ぐ撮れました。
地蔵堂の境内でひと息ついて先に進むと、いままで見えていた町並みの景色が、箱根連山の山並みに変わりました。
Yumiさんに「今度はあそこの山を越えるよ」と、目の前に見える箱根連山を指を差して教えましたが、どこまで理解したか不明です(理解していないと思います)。
地蔵堂を出て約100m先の箱根登山鉄道のガードを潜ると、上板橋信号の国道1号に合流しました。
国道の右側を、左に早川と西湘バイパスを眺め、右側に箱根登山鉄道を見ながら約650m歩くと、高架になっている小田原厚木道路が走っていました。
高架下を潜ったところを右折し、箱根登山鉄道の踏切を渡り、踏切先の二つに分岐した道を左に進みました。
そして直ぐ先の川を渡ったところから約290m歩くと、箱根登山鉄道の風祭駅入口があり、さらに約140m歩くと三叉路があり、その右角に日本橋から21番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
14時11分、021風祭一里塚・小田原道祖神(右側)
71 風祭一里塚
一里塚跡の前をそのまま真っ直ぐ約650m歩くと、右に入って行く道があり春日の局の墓がある紹大寺がありましたが、Yumiさんの「お参りしなくてもいい」との言葉にすぐ同調し割愛しました。
紹大寺に行く道から約220m歩くと、箱根登山鉄道の入生田駅に入る道があり、分岐点で到着式(到着のパネルを掲げて写真撮影)を行いました。
14時27分、入生田駅入口(到着地)
74 入生田駅入口(到着地)
旧東海道の旅でHPを立ち上げている、先人の子供(佐武隊員)が見つけた「丸い石」の写真を撮ろうと注意深く歩きましたが、見つけられませんでした。
見落としていないので次回の旅の時に、再度確認したいと思います。
【帰路】
電車を待つ間、電車のホームで初めて記念写真を撮りました。
 ※箱根登山鉄道・入生田駅
75 入生田駅
14時43分、箱根登山鉄道・入生田駅発
14時54分、箱根登山鉄道・小田原駅着
小田原駅で小田急線に乗り換え、家に帰りました。
14時59分、小田急線・小田原駅発
今日は、歩く距離が少し短かかったので、足の具合も良く終わることができました。
お疲れ様でした。
次回も頑張りましょう。
小田急線に乗って帰る途中、朝の座席を立ったことについて聞いてみたら、記憶にないとのことでした。
そして、帰りに朝と同じようなことが起きないように、座席の角に座わってもらい、私が席を立つまで動かないように話し、下車駅の1つ手前で次の駅で降りることを伝えました。
夫婦二人の5回目の珍道中は、無事に終わりました。

【次回の予定】

次回(第6回)は、「入生田駅入口から芦ノ湖の箱根町バス停までの12.91㎞」を旅する予定です。
標高差が650mある旧東海道の旅で一番厳しい箱根の峠越えを行う山登りのため、山行用の靴で歩こうと思います。
また、山は怖い所なので、準備を整えて臨みたいと思います。

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  専用メール  
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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/

【天候】晴れ
【宿場】(07)平塚宿⇒(08)大磯宿
【行程】歩行距離=15.37㎞ 総距離=73.94㎞
014茅ヶ崎一里塚⇒(4.50㎞)⇒015馬入一里塚⇒(4.19㎞)⇒016大磯一里塚⇒(4.33㎞)⇒
017
国府本郷一里塚⇒(2.35㎞)⇒JR二宮駅入口交差点
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第4回旅の宿場)
001 4回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第4回)
 第4回の旅ルート
 
(J
R茅ヶ崎駅・茅ヶ崎一里塚交差点 ⇒ 二宮駅・駅入口交差点)
001 第4回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月11日

【旧東海道の旅】

《準備》
前日に装備チェックリスト(忘れ物の忘備のため)で持ち物や着る物の準備を行い、朝を迎えました。
目覚ましの音楽で目を覚まし、直ぐに寝室の窓を開け天気の確認を行うと、心配無用の好天でホッとしました(これは毎回同じです)。

山行と街道旅に出掛ける時の朝の支度は同じで、
 起床 ⇒ 体重測定 ⇒ 洗面 ⇒ Yumiさんの両足ケア(塗り薬を塗布) ⇒ 着替えを行い、
Yumiさんが着替えをしている時、それを横に見ながら私の足ケアの薬塗布 ⇒ 着替え ⇒ 持ち物の再確認を行います。
そして先に着替えたYumiさんが、朝食の支度をします。
私は山行や街道旅の時は腹持ちの良いお餅を所望するのですが、お餅が好きでないYumiさんに拒否されてパン食になります。
認知症を発症してから料理のレパートリーが少なくなったり、作る速度が遅くなるなど、私が手伝うことが増えてきていますが、Yumiさんに頑張ってもらい用意した朝食を食べ、トイレなどを済ませて出発しました。
《移動》
東海道の旅のために購入したウォーキングシューズを履いて家を出発し、自転車で最寄り駅に向かいました。
樹木に覆われた公園の中を、早朝の冷たい空気を受けながら走るのは実に気持ち良く、同年輩以上の方々が思い思いに走ったり、歩いたりしてしている姿を眺めながら最寄り駅に着きました。
最寄り駅から電車を乗り継いで出発地の茅ヶ崎に向かいましたが、乗り換え駅で電車を待つ時間を利用して、ICカードにチャージしホームのベンチに座って電車を待っていました。
 ※乗り換え駅のホーム
03 小田急多摩センター駅ホーム
《忘れ物》
電車が入線してきたので乗る準備を始めると、地図や行程等の旅の資料を綴ったバインダーがありません。
「どこに置いてきた」と動いたところを思い出し、先ほどICカードにチャージした時と思い、チャージ機のところに急ぎ戻りました。
Yumiさんには「すぐ戻るから」言って動いたのですが、一人になると不安になるのか、何が起きたのか理解できないまま私の後を追いかけてきました。
幸い、地図などの資料一式を綴ったバインダーは、そのままの状態で置かれていたので事なきを得ましたが、予定していた時間の電車に乗れなくなったため、出発地の茅ヶ崎駅には予定していた時間より約25分遅れて到着しました。
08時26分、茅ヶ崎駅着
【=旅=】
下車した茅ヶ崎駅でトイレを済ませ、出発地の茅ヶ崎一里塚交差点に向かい、出発地を記したパネルをYumiさんに掲げてもらい、第4回の出発式を行いました。
08時37分、014茅ヶ崎一里塚跡(出発地)=左側
07 出発地(茅ヶ崎一里塚)
今日も暑い日になりそうな感じがする中、まだ朝の涼しい爽やかな時に出発しました。
国道1号の茅ヶ崎警察署前信号、南湖入口信号を通り一里塚跡から約1.7㎞歩くと、安藤広重の東海道五十三次の風景版画にも描かれた「南胡の松原左冨士」で有名な、千川に架かる鳥井戸橋がありました。
09時03分、南胡の左富士(左側)
08 南胡の左富士=鳥井戸橋
天気は晴れて青空なのですが、山並みは積乱雲に覆われて富士山にはご対面できませんでした。
東海道のうちで京に向かって左手に富士山を見ることができる場所は、ここ(茅ヶ崎・南湖)と吉原(静岡)の二か所が有名で、茅ヶ崎の名所となっていたので残念でした。
鳥井戸橋を渡り約600m歩くと、国道1号に交差して新湘南バイパスの下を流れる小出川がながれ、橋の手前の茅ヶ崎西インター信号の左側に旧相模川橋脚が保存されている池がありました。
09時14分、旧相模川橋脚(左側)
13 旧相模川橋脚
大正12年(1923)9月と13年1月の大地震で7本の橋脚が地上に露出し、その後地下に埋もれていた3本が発見されました。
相模川は鎌倉時代にはこの辺りを流れていましたが、川筋の変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま約700年を経て、再び地上に露出しました。
橋長は少なくとも7m(4間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられています。
小出川に架かる橋を渡り約1.1㎞歩くと、新田入口信号があり、信号のところに茅ヶ崎市から平塚市に入る市境標識が建っていました。
09時33分、市境標識(茅ヶ崎市⇒平塚市)=左側
15 平塚市境標識
市境から約100歩く相模川(馬入川)に架かる馬入橋となり、右手に大山、左手に相模湾の河口が見えました。
馬入橋を渡って真ん中辺りに来ると、日本橋から62㎞の距離標が建っていました。
09時38分、62㎞距離標(左側)

19-2 相模川橋=62㎞ポイント
Yumiさんと交代で写真を撮っていると、一度通り過ぎた自転車の男性が戻ってきて、「シャッター押してやるよ」と云ってYumiさんと二人の写真を撮って下さいました。
旧東海道の旅に出て今日で4日目ですが、始めて声を掛けて頂きました。
馬入橋を渡り、工業団地入口信号を過ぎると次の馬入交差点で旧東海道と国道1号が分岐し、分岐したところの左側に、日本橋から15番目の一里塚跡の石碑が建っていました。
09時48分、015馬入一里塚跡(左側)
20 馬入一里塚
一里塚跡で、帽子を脱いでバンダナに変えるとともに、約5分休憩し、平塚駅近くの紅谷町公園の中に祀られているお菊塚を目指しました。
1.0㎞先の平塚駅前交差点を過ぎ、そこから約200m歩いた右側の三井住友銀行の次の十字路を左折し、2本目の十字路右折、最初の左に入る路地を進むと紅谷町公園があり、公園の中にお菊塚碑が建っていました。
10時12分、お菊塚碑(左側)
23 お菊の碑
伝承によると、お菊は平塚宿役人真鍋源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあり切り殺したと伝えられている。
一説によると、旗本青山主膳の家来がお菊を見染めたが、お菊が云うことを聞かないので、その家来が憎しみのあまり家宝の皿を隠し、主人にお菊が紛失したと告げたため、お菊は元文5年(1740)に手討ちにされてしまいましたが、お皿は後日発見され、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったそうです。
お菊塚から旧東海道に戻り市民プラザ前信号から約170m歩いた平塚市民センター手前右側の駐車場入口に、江戸見附跡碑が建っていました。
10時19分、平塚宿江戸見附跡(右側)

25 江戸口見付跡碑
慶長6年(1601)幕府は東海道に宿駅の制を布き、平塚宿はその当時から宿駅となり、入口に見附と称する塚を築き、城門に擬して石垣を積み、上に芝を張り、大きさは縦2m、横2.5m、高さ1.5m程で、街道を挟み北側と南側にあり、宿の東端であったことから江戸方見附と云われました。また、見つけの外を棒端といい、「従是西 江川太郎左衛門 御代官所 東海道平塚宿」と書かれた標柱などが建っていたそうです。
江戸方見附跡から約350m歩くと、右側に茅本酒店があり店の前の道路脇に脇本陣跡の石柱と解説パネルが建っていました。
10時26分、平塚宿脇本陣跡(右側)
28 平塚宿脇本陣跡
脇本陣は、享和年間(1801~1803)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830~1844)には24軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
そして、脇本陣碑から約100m歩くと右側に山口屋茶舗があり、店の前の道路脇に高札場跡の石柱と解説パネルが並ぶように建っていました。
10時27分、高札場跡(右側)
29 平塚宿高札場跡
高札とは、幕府や領主の法令や通達を書き記した木札で、その木札を掲示する場所として各宿場や村々に設置されていました。通常、土台部分は石垣固め、その上を柵で囲こみ、高札を掲げる部分には屋根が付いていたそうです。
高札場は24軒町のこの地に建っていて、長さ二間半(約5m)、横一間(約1.8m)、高さ一丈一尺(約3m)で、この高札場には、平塚宿から藤沢宿か大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
高札場跡碑が建っていた道路の反対側に東問屋場跡碑が建っていたので、Yumiさんに待っていてもらい車の合間をぬって道路を横切り写真を撮って記録に残しました。
10時28分、東問屋場跡(左側)
30 平塚宿東組問屋場跡
中央の白丸=道路の反対側で待つYumiさん
右の白丸=高札場跡碑
慶長6年(1601)、東海道の交通を円滑にするため伝馬制度が布かれ、伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋主人・名主・年寄・年寄見習い・帳附・帳附見習い・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人などが10余人以上が勤務していました。
平塚宿でも問屋場が置かれましたが、寛永3年(1635)に参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量が激増し伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出、慶安4年(1651)に許可され問屋場を新設しました。
従来からの問屋場を「西組問屋場」、八幡新宿の問屋場を「東組問屋場」といい、両問屋場は10日目交替で執務したそうです。
東問屋場跡碑の写真を撮り、Yumiさんの待つ道路の反対側に戻り先に進みました。
そして約50m歩くと3年前に東海道の旅で平塚宿を歩いた親子をブログで知り、平塚宿に来た時に同じ看板を写真に撮って送ってあげたいと思い帰宅後、写真をメールで送信しました。
看板は三年の間に厳しい風雨に遭遇したようで、かなり傷んでいました。
さぶちゃん
居酒屋から約60m歩くと右側に神奈川相互銀行平塚支店があり、入口手前に加藤本陣の石碑が建っていました。
10時32分、加藤本陣跡(右側)
31 平塚宿・加藤本陣跡碑
平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、現在の場所に間口約30m、奥行約68mの規模で建っていました。東に門と玄関があり、天皇や将軍大名などの御在所は上段の間でした。
記録によると、14代将軍家茂は文久3年2月と元冶2年5月の二回ここで休憩し、明治元年10月と2年3月の二回、明治天皇が東京行幸と遷都の時に、ここで小休止されたと残っている。
本陣跡から約160m歩くと分岐となり、西中町交番の右側の細い道を進むのですが、分岐になる処の右側に消防団の建物があり、その右角に西組問屋場跡の石柱が建っていました。
10時35分、西組問屋場跡(右側)

34 平塚宿西組問屋場跡
解説は「東組問屋場跡」を参照
西組問屋場跡碑がの近くの消防団の脇を右折して約130m歩くと、左側に要法寺があり、寺院の右側の公園のような敷地の中に、石柱で囲まれて「平塚の碑」が建っていました。
10時41分、平塚の碑(右奥)
38 平塚の塚碑
江戸時代の天保11年に幕府によって編さんされた「新編相模国風土記稿」に里人の云い伝えとして記されました「桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした天安元年(857)2月、この地で逝去したため柩をここに埋葬し、墓として塚が築かれました。その後、築いた塚の上が平になったので、里人はそれを「ひらつか」と呼んだとことが「平塚」という地名の起源となっているそうです。
平塚の碑から消防団のところまで戻り、消防団の建物に沿って分岐を右に進み、約350m先で国道1号に合流しました。
合流したところを左折し約90m歩くと古花水橋交差点があり、先ほど分岐した道路を渡ったところに上方見附跡の標柱が建っていました。
しかし、私とYumiさんは交差点を渡ってしまってから標柱を確認したため、写真を撮らずに通り過ぎてしまいました。
国道1号の進行右側を約300m歩くと、花水橋東信号があり橋の手前右側の階段を上がったところに平成の一里塚碑が建っていました。
10時53分、平成の一里塚碑(右側)
39 平成の一里塚
平成の一里塚は、江戸時代の道標となった一里塚を現代に蘇らせようと作られたもので、東海道の新しい道標として、また歩行者の休憩場所として整備されたそうです。
平成の一里塚の隣りが花水橋東交差点で、ここから右前方にお椀を伏せたような高麗山が見えました。
10時54分、高麗山(花水橋からの眺め)=右側
41 高麗山(後方)
高麗山は、平塚市と大磯町に跨る大磯丘陵の東端にある標高168mの山で、広葉樹の自然林が残り、21世紀に残したい日本の自然100選に選ばれています。
そしてもっと有名なのが、安藤広重の東海道五十三次の「平塚宿・縄手道」で、高麗山の姿が描かれていることです。
高麗山を右手に眺めながら花水川に架かる花水橋を渡り、花水橋信号から約150m歩いた次の高麗信号を越えた右側の道路脇に、茅葺屋根に連子格子と年代を感じさせる家が建っていました。
10時59分、茅葺屋根と格子戸の古民家(右側)
43 かやぶきの家(66㎞ポイント)
※①=茅葺屋根と格子戸の古民家
107 古民家(車内から)
茅葺屋根の古民家は日本橋から66㎞地点で、道路の反対側(進行左側)に66㎞の距離標が建っていました。
古民家から約180m歩くと右側に高来神社に通じる道がありましたが、立ち寄るのが億劫になりそのまま素通りし、約270m歩いて化粧(けわい)坂が始まる化粧坂信号に着きました。
街道はここで国道1号は左に、旧東海道は右側を進みます。
そして、化粧坂信号を過ぎて直ぐの右側に、そば処「車屋」があり、昼食に立ち寄りました。
11時05分~11時32分、昼食(車屋)=右側
45 そば処・車屋
少し早いかなと思いながら入りましたが、これが大成功で、入った時は好きな場所に坐れたのですが、少しすると続々お客がと入店してきて、私達が食べる時にはほぼ満席になっていました。
蕎麦屋さんですが、海老天が2本入っているというので、天丼(海老天が2本=@1,100円)を注文しました。
Yumiさんは大好物の海老天が入っていたので、ニッコリと満面の笑み。
天丼は揚げたてのカラッとした海老天で美味しかったのですが、蕎麦屋さんなので次回来た時は天ざるを食べたいと思います。
店を出て直ぐの左側に黄色壁の民家があり、入口のところに虎御前の化粧井戸がありました。
11時32分、虎御前の化粧井戸(左側)
48 虎御前の化粧井戸
虎御前は平塚の黒部丘にあった遊女宿で生まれ、大磯の長者の家で遊女になりました(室町時代の遊女は芸達者でかなりの知識人として教養を身につけた女性で、売春婦的なものではなかったそうです)。
虎御前に恋した曽我の仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎で、若い頃から父の仇討ちを考え妻を持たずに虎御前に恋をしました。17才で十郎と一緒になり、19才の時に時十郎が仇討ちに行き、その場で切り殺され帰らぬ
人となりました。虎御前は箱根で出家し、高麗山の北麓に今でもある荘厳寺で供養を重ね、53年の人生を送ったと云われています。
その虎御前が、この井戸から水を汲んで顔を洗ったことから、虎御前の井戸と云われています。
虎御前の化粧井戸は、車屋から少し歩くのかと思っていたのですが、黄色壁の建物と頭にあったので、店を出て直ぐでしたが見逃さないですみました。
化粧井戸から約170m歩くと、右側に日本橋から16番目となる一里塚跡があり、標板が建っていました。
11時35分、016化粧坂一里塚跡(右側)

49 化粧坂一里塚
一里塚跡から約180m歩くと東海道線の脇に出て、そのまま線路沿いに進む道と、下って線路を潜る道に分岐します。
旧東海道は下って、竹縄架道橋と書かれた地下道潜って線路の反対側に出ました。
地下道のトンネルを抜けると今までの景色がガラッと変わり、松並木になっているのですが、大きな松の木がいまにも倒れそうな状態で道の上を覆っていました。
11時42分、斜め松(左側)
51 化粧坂の斜め松
写真の倒れそうになっている松の反対側(右側)に、大磯宿江戸方見附跡の標板が建っていました。
11時43分、大磯宿・江戸方見附跡(右側)

52 大磯宿・江戸見付跡
見附跡がある道は、東海道線で遮断されているため、車の往来が少なくのんびりした気分で歩いていると、国道1号に合流しました。
合流したところから約350m歩いた左側に、虎御前ゆかりの虎御石などがある延台寺があり立ち寄りました。
11時55分、虎御前参拝の竜神様(延台寺)=左側
54 虎御前祈願の竜神様(延台寺)
 ※虎御石碑
55 虎御石碑(延台寺)
安元元年(1175)、大磯の山下長者に一人の娘が生まれ、虎池弁財天に願をかけて授かった子だったので、「虎」と名付けられました。この時、弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内に御堂を建て、虎御石と名付けて大切にお祀りしていると、不思議なことに虎女の成長とともに石が大きくなったそうです。虎女は舞の名手として広く天下に知られるほどに成長し、曽我兄弟の兄十郎と恋仲になりました。
十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のお蔭で命が助かったので、「身替りの石」ともいう。曽我兄弟は富士の裾野で父の仇(工藤祐経)を討ち本懐を遂げて死に、虎女は兄弟の最後の地を訪ね「露とのみ消えにしあとを来て見れば尾花がすえに秋風ぞ吹く」と読んで庵をむすんで兄弟の菩提を延台寺で弔ったそうです。
延台寺に来る時は交差点の信号で道路右側から左側に渡りましたが、延台寺を出て次の史跡に行く時は交差点がなかったので、「Yumiさん、渡るよ」と声を掛け車の合間に横切りました。
延台寺から約110m歩くと、そば処古伊勢屋の脇に小島本陣跡の標板が建っていました。
11時58分、小島本陣跡(右側)
56 大磯宿・小島本陣跡
大磯宿には小島本陣、尾上本陣、石井本陣と3つの本陣があり、各本陣とも建坪230~250坪で、南本町東側にあった石井本陣は早くに閉店しますが、尾上本陣と小島本陣は幕末まで続きました。
小島本陣は北本町に、尾上本陣は南本町地福寺入口付近にあったそうです。

小島本陣跡から約40m歩くと、大磯消防署前信号があり、交差点の右側に中南信用金庫本店があり、建物の脇に尾上本陣跡の石碑が建っていました。
私とYumiさんは中南信用金庫に沿って本陣跡碑を左に見て直進し、島崎藤村が永眠している約40m先の地福寺に立ち寄りました。
12時02分、島崎藤村の墓(地福寺)=右側奥

58 島崎藤村の墓
島崎藤村は、昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中に頭痛を訴えて倒れ、翌8月22日午前零時35分、「涼しい風だね」という言葉を残し、行年71才で永眠され、本人の希望でここに葬られたそうです。
島崎藤村のお墓は境内の左手にあり、隣りには妻の静子さんが永眠しています。
お墓をお参りし、旧東海道に戻る手前で、尾上本陣跡の石碑に立ち寄りました。
12時05分、尾上本陣跡(右側)
60 大磯宿・尾上本陣跡碑
本陣跡から約170m歩くと、右側に「新杵」という菓子屋があり、立ち寄りました。
12時08分、菓子処・新杵(右側)
62 菓子屋「新杵」
新杵は、明治24年創業、4代目を数える老舗の和菓子屋で、吉田茂元首相ご用達の店だったようです。初代が東京の新杵という菓子屋で修行を積み、暖簾分けしてこの地に支店して店を開いたそうで、虎子饅頭や西行饅頭が有名です。
おやつに食べようと虎子饅頭と西行饅頭を注文しましたが、虎子饅頭は売り切れて買えませんでした。
残念!!
しかたなく西行饅頭を買い、店を出て斜め左の照ケ先海岸入口信号を渡り、約250m離れた照ケ崎海岸に海を眺めに行きました。
12時18分、照ケ崎海岸(左側奥)
63 照ケ崎海岸
 ※照ケ崎海岸・砂浜
65 照ケ崎海岸の浜辺
照ケ崎海岸に出て目の前に広がる海を眺めましたが、陽差しが強く、眩しくて目を開けてられません。
しかし海の近くを街道旅で歩いているのに浜辺に立ち寄ることができなかったので、良い思い出を作ることができました。
海岸から元きた道を照ケ先海岸入口信号まで戻り、交差点を左折するのですが、旧東海道は国道1号ではなく直角に曲がり1号より細い方の道を進みました。
この道は、約60mで右に曲がると約70mで国道1号に合流しますので、旧東海道に拘らない人は国道1号を歩くようです。
国道1号と合流すると直ぐ左側に、蒲鉾で有名な「井上蒲鉾店」がありました。
井上蒲鉾店は明治11年創業の老舗の蒲鉾店で、鎌倉にも支店がある行列のできる店として有名です。
私も蒲鉾とさつま揚げを買って帰ろうとしたのですが、相方のYumiさんに「暑いからダメ」と拒否されてしまい、この暑さの中、まだ数㎞を荷物持って歩くのもは嫌だなということもあり、Yumiさんの云うことを素直に聞いて素通りしました。
井上蒲鉾店から国道1号を約130m歩くと、鴫立沢信号の手前左側に鴫立庵があり、立ち寄りました。
鴫立庵は樹木に囲まれた中にあり、その手前に細い川が流れる鴫立沢があり、炎天下からきた私達には清涼となりました。
12時31分、鴫立沢(左側)
70 鴫立沢
鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つで、敷地内に建てられた石碑に銘文「著盡湘南清絶地」から湘南発祥の地とも云われている。
寛文4年(1664)、小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ」(西行法師)
鴫立庵は鴫立沢の直ぐ先にあり、入場料(@100円)が必要なことと、Yumiさんがまったく興味を示さない、庵に入るには靴を脱ぐ必要があるなどから、中に入らずに受付の手前で引き返しました。
鴫立沢信号を渡り、進行方向右側を約210m歩くと島崎藤村邸への案内看板が建っており、そこを右折して向かいました。
右折して約30m先の三叉路を右に進み、約40m先の十字路を左折、約70m歩いた三叉路の右側角に竹柵に囲まれており、左側に休憩できる小さい公園がありました。
12時42分、島崎藤村邸(右側奥)
72 島崎藤村邸
邸は、「静の草屋」と呼ばれ、大正から昭和初期にもともと別荘等に使用する貸家として建築されたもので、昭和16年2月からこの家を借り受けましたが、大変気に入ってその後購入し、亡くなるまで(2年半)過ごしたそうです。
鴫立庵では庵の中を見学しなかったので、島崎藤村の家は、邸内に入りひと通り中を見学しました。
旧東海道に戻り、約90m歩いた大磯中学校前信号を進行方向左側に渡ると、松並木になっていました。
12時50分、東海道松並木(左側)
76 東海道の松並木
 
東海道松並木・解説
74 東海道の松並木碑
東海道松並木の標板には、
「江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました、松並木は、今から約400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主により保護され、約150年前ころからはきびしい管理のもとに立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられたものです。
この松並木はこのような歴史をもった貴重な文化遺産です」
と記されていました。
松並木は、約400m続き、松並木が終わった先の滄浪閣前信号の前に、明治の元勲、伊藤博文の公邸であった滄浪閣があったことを記した石碑が建っていました。
12時57分、滄浪閣跡(左側)
78 滄浪閣
明治の元勲の伊藤博文の邸宅であった滄浪閣が、倒産のため立ち入り禁止になっていたのは、時代の流れとはいえ寂しいものでした。
滄浪閣から約1.3㎞歩くと国道1号と分岐する城山公園前信号があり、国道1号から別れて右折しました。
分岐するところに来るまでは、吉田元首相の家へ見学に立ち寄る予定でいましたが、暑さに負けて疲労感強く、早く休憩したいと思いながらYumiさんに聞くと、「行きたくない」と反対の声が返ってきたので、すぐに同調し見に行くことを割愛してしまったので、
東海道夫婦二人旅を終えた後(H26.09.11)、吉田邸を訪問し史蹟を見学しました。
※①=旧吉田茂邸(左側)
城山公園前交差点から約20m先に、旧吉田茂邸の駐車場があり立ち寄りました。
旅の時はもう少し入る場所が遠いと思っていたのですが、公園前交差点から直ぐ近くだったので、旅の時に立ち寄れば良かったと思いました。
駐車場(有料)に車を停め、冠木門から邸内に入り、管理されている敷地内を散策しました。
 ※冠木門

108 吉田邸・内門
 ※日本庭園
109 吉田邸・日本庭園
 
※母屋跡

母屋は平成21年に焼失し現在再建に向けて募金活動中ということで更地になっており、扉で仕切られて立ち入り禁止になっていました。
110 再建中の母屋
吉田茂像は、母屋入口前を道なりに進み、一番奥の高台に海を背にして建っていました。
 ※吉田茂元首相像
111 吉田像
 ※七賢堂
112 七賢堂
七賢堂は、伊藤博文が造営した滄浪閣に明治36年(1903年)に小祠を建てて「三条実美、岩倉具視、木戸孝充、大久保利通」の霊を祭り、後に伊藤博文、西園寺公望の二人が増え、さらに吉田茂が祀られて七賢堂となったそうです。
《街道旅の続き》
信号から約100m歩くと大磯城山公園の石碑が建っている入口があり、城山公園まで上らずに入口脇の涼しい場所に腰掛けて休憩のおやつタイムにしました。
13時16分~13時27分、休憩(城山公園入口)=右側
81 城山公園入口
照ケ崎海岸に行く前に立ち寄った和菓子の新杵で買った西行饅頭をYumiさんと食べ、水分補給して休憩しました。
西行饅頭は、美味しいお饅頭だったので、また機会があったら食べたいと思います。
休憩を終え、最後のひと踏ん張りとザックを背負い出発すると直ぐにY字路の分岐となり、Y字路の真ん中に時計が掲げられた柱が建っており、その時計柱の左側を進みました。
時計柱から約50m先の本郷橋を渡ると、旧東海道は弧を描くような道になっていて、「小島姓」の表札の家が多く立ち並んでしました。
本郷橋から約650m歩くと、国道1号が直ぐ脇に接近し、旧東海道と平行になった辺りの左側に、日本橋から17番目の一里塚跡があり、標柱とパネルが建っていました。
13時38分 017国府本郷一里塚跡(左側)
83 国府本郷一里塚
国府本郷一里塚は、約200m江戸寄りにあり塚の規模は不明ですが、塚は東海道を挟んで左右一対で、塚の上には榎が植えられていたようです。
現在の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造されたものです。
 ※一里塚付近(歩いてきた方向に向けて)

85 一里塚附近
 国道1号と平行していた旧東海道が国道1号と合流する直前の左側に、大磯町から二宮町に入る町境標識が建っていました。
13時58分、二宮町境標識(大磯町から二宮町)
87 二宮町境標識
町境標識の直ぐ先の国府新宿信号で旧東海道は国道1号に合流し、ここから国道1号を歩くことになり、信号から約1.4㎞歩くと右側に二宮しおみクリニックがあり、その約60m先に塩海橋が架かり、右側の橋のたもとに塩海の名残りの碑が建っていました。
14時04分、塩海(しぼみ)の名残りの碑(右側)
88 塩海の名残り碑
塩海の名残りは、二宮は海に面した村のため、古くから海水による塩の精製が盛んだったことから、二宮町内の地名に塩海(しぼみ)が残っています。『新編武蔵風土記稿』によると「古この海浜にて鹽を精製す、依ってこの名あり」と記されています。
塩海橋から約450m歩くと、今日の旅の到着地になる二宮駅に入る二宮駅入口交差点に着き、交差点を渡ったところで今日の旅の到着の写真を撮り、到着式を行いました。

14時11分、二宮駅入口交差点(到着地)

89 二宮駅入口交差点
今日は梅雨に入ったとのことでしたが、梅雨の晴れ間の青空に恵まれて旅を行うことが出来ましたが、とにかく暑くて私もYumiさんもバテバテでした。
到着式を行い約100m離れた二宮駅に向かい、東海道線などを利用して家に帰ってきました。
【夫婦の小争い】

今日の道中で、Yumiさんと衣服調整をめぐって、何回か夫婦の小争いがありました。
《衣類の脱着》
薄地の長袖シャツに、長袖のポリエステルパーカー(ユニクロ)を着て歩いていたのですが、パーカーが汗ばんできたため脱ぐように話すのですが、「寒くて風邪を引く」とか、「私とお父さんは違う」と強い拒絶反応。
今のYumiさんは寒暖機能が低下しているため、汗をかいても一人で衣服調整が出来なくなっているので、私が介助しているのです。
しかし、本人はいたって正常と思っているので、衣服調整ではほとんど意見が相違します。
そのため、私は少し強引ですが、「はい、脱いで」と云いながら脱いでもらいます。
Yumiさんからブーブー文句が出ること、出ること。
今日も、ブーブー文句がしばらく続いていましたが、段々と風が無くなって暑くなってきたので、寒いということがなくなり大人しくなりました。
なお、脱いだパーカーは帰りの二宮駅から藤沢駅に移動する車内で、バックから出して着ていました。
《史跡見学》
史跡などに立ち寄っても全然興味がなく、すぐ先に行こうとなり、パネルや石碑などは写真だけ撮って「はい、次」になります。
小争いになったのは、鴫立庵で靴を脱いで室内に入り、また靴を履くことに「ああ」とか、「こう」とか云って拒否反応を示しました。
私は「歩いているだけでは何の楽しみもないじゃない」と思うのですが、今のYumiさんに云ってもしょうがないと思いながら云ってしまいました。
ところが、云ったことが少し理解したような
反応は示してくれたので、救われました。
次回の旅から、Yumiさんに旅の概要を直前に話しみようかと思います。
結果はどうなるか、お楽しみです。
【次回の予定】
次回(第5回)は、6月30日(土)に「二宮駅入口交差点から入生田駅前までの14.97㎞」を旅する予定です。

梅雨の晴れ間を期待していますが、雨模様の場合は順延します。
どのような旅になるのか、楽しみです


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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
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この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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