旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2012年12月

【天候】曇り(肌寒い日)
【宿場】(18)江尻宿⇒(19)府中宿
【行程】歩行距離=12.18㎞ 総距離=181.03㎞
新清水・水神社前⇒(3.273㎞)⇒041草薙一里塚⇒(5.152㎞)⇒042長沼一里塚⇒(3.752㎞)⇒
静岡・江川町交差点⇒(番外編)駿府城見学
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第11回旅の宿場)

02 11回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体ルート(第11回)
 第11回の旅のルート
 (新清水・水神社前 ⇒ 静岡・江川待ち交差点)
第11回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日

【旧東海道の旅】
《ホテル》
昨晩は、早い時間に就寝したのですが、4時頃からYumiさんのトイレ通い(認知症の常同行動)が始まり、トイレに行く間隔は約15~30分で、眠りたくてもベッドに横たわっているだけで、熟睡できません。
トイレに行く回数が多いのは本人も大変でしょうが、一緒に寝ているこちらもたまりません。
 E=Yumiさん、なんとかならない
 Y=・・・が出るの
 E=寝てられないよ
 Y=ゴメンネ
そんな会話をしているうちに、セットした目覚ましが鳴りました。
05時50分、起床
目覚ましの音で起床し、まずYumiさんの旅支度を終わらせ、ほぼ終わりかけた頃から私の支度を始めました。
支度が終わってから持参した血圧計で、Yumiさんの血圧を測定すると少し高い(上が140台)数値でした。
その後、着替えた下着や靴下、髭剃りや化粧道具、血圧計などをザックに入れて荷造りを行い、7時前に食堂に行きました。
食堂に行くと数組の宿泊客が既に食事を始めており、私達の食事が用意された時には15人位の人に増えていました。
ホテルで提供された和食の朝食を食べ、部屋に戻ってトイレなどを済ませ、チェックアウトするとオーナーが写真のシャッターを押して下さり、昨晩からのお礼を云ってホテルを後にしました。
07時53分、ホテル出発
01 ホテル(リバーサイドイン玉川)
出発する前に、オーナーから旧街道は、水神社からの川沿いの道ではなく、銀座通りだということと、江尻宿東本陣の場所を教えて下さいました。
《移動》
出発直前にホテルのオーナーから旧街道の道を教えて頂いた道が私が思っていた道と違うのですが、出発地は変更したくなかったので、昨日到着した水神社の前で出発式を行いました。
【=旅=】
07時58分、水神社前(出発地)
02 新清水・水神社前(出発地)
出発地はオーナーに教えて頂いた場所ではありませんでしたが、旅の道はオーナーに教えて頂いた道を歩くことにし、水神社から約90m戻り、銀座通りの交差点に戻りました。
07時59分 銀座通り交差点
03-① 新清水・銀座通り入口
日曜日の早朝で、街路は閑散としており、道の真ん中で写真を撮ることができました。
銀座通りを約110m歩くとスナックエマルジョン前に、江尻宿のスタンプ台がありインクも使用できる状態でしたので、記念に押印しました。
08時02分、江尻宿街道スタンプ台(右側?)
04 江尻宿・スタンプBOX
 ※東(寺尾)本陣跡
銀座通りの途中に東(寺尾)本陣跡があると出発前にオーナーから教えられ、また案内地図にも記されていたのですが、史跡を見付けることができなかったのですが(付近を2往復して探しました)、ここで時間を費やすわけに行かないので、諦めて先に進みました。
※①=寺尾本陣跡(左側)
細井乃松原から移動する時、寺尾本陣のことを思い出し、急遽歩き旅の時に宿泊したホテルに立ち寄り、オーナーの方に場所をもう一度教えて頂き本陣跡を探しに行きました。
本陣跡のある場所は、一方通行のため稚児橋を渡る手前を左折して柳橋方向に走ると、柳橋の少し手前の川沿いのブロック塀に本陣跡のパネルが埋め込まれていました。
※歩き旅の時は、巴川に架かる柳橋の手前を右折して10~20m先の左側(ブロック塀)。
108 江尻宿・寺尾本陣跡
スタンプ台から約280m(銀座通り二つ目の信号)歩くと五差路となり、ここを左折して巴川に架かる稚児橋を渡ります。
08時10分、稚児橋(左側)
06-② 稚児橋・河童像
稚児橋には、銀座通り側の橋柱に男の河童像、渡った側の橋柱に女の河童像が、橋の中央に河童のモニュメントが飾ってありました。
また、橋を渡った左側には、河童の腰掛け石碑が建っていました。
08時14分、河童の腰掛け石(左側)
07-① 河童のこしかけ石
河童の腰掛け石から約190m先(信号二つ目の交差点)を右方向に進み、さらに交差点から約180m歩いた右側の岩崎麹店の前に東木戸跡があり、石碑が建っていました。
また、交差点を過ぎた左側に「東木戸跡まで100m」の案内板が掲げられていました。
ただ、私は最初、この石碑を見つけることが出来ず、少し先まで行ったところで場所を聞くと、50~60m戻った辺りと教えられて戻り確認しました。
08時21分、東木戸跡碑(右側)
08 江尻宿・木戸跡
木戸跡から約650m(県道197号を横切る)歩くと、左側に赤い暖簾と赤いシャッターの「追分羊羹」本店があり、店舗手前の左角に追分道標が建っていました。
08時29分、追分道標(左側)
09 追分道標
08時30分、追分羊羹本店(左側)
10 追分ようかん本店
追分羊羹本店は、定休日(日曜日)でしたが、開店日でも時間が早くて買えませんでした。
寒い日でしたが、Yumiさんを見ると汗をかいていたので、
 E=汗をかいているからこれを(チョッキ)を脱いで
 Y=寒いのよ
と、いつものごとく不満の声が出ましたが、汗をかいているので、「寒くなったらまた着るから」と話し納得してもらいました。
また、毛の帽子も暑いようなので、私の野球帽をかぶってもらいましたが、こちらは
 E=良く似合うよ
 Y=似合う?
 E=大丈夫
と、ニコニコ顔で被ってくれました。
認知症患者を相手にするのは大変です。
さて、追分羊羹本店から約350m歩くと橋があり、その手前左側に追分碑が建っていました。
08時38分、追分碑(左側)
11-① 追分碑
橋から約130m先の東海道線と静鉄清水線を潜って通る工事中の道路を右に見ながら、この辺りの情景も少しすると変わるんだろうなと思いながら歩くと東海道線の踏切があり、踏切を渡って約400m歩くと右側にセブンイレブンがありペットボトルを買いました。
そして、コンビニから約90m歩くと、左側に上原堤の池があり立ち寄りました。
08時52分、上原堤(左側)
12-② 上原堤
池は、周回できるようになっており、散歩している人もいました。
私達が立ち寄った時、「この池でボートに乗り、隣りに遊園地(現在はイオンになっている)があって遊んだよ」と、何十年か振りに訪れて、昔を懐かしく思い出しながら歩いている人に出会いました。
私も子供の頃、カブト虫やクワガタ虫を採りに行った林が武者小路実篤の大きな家が出来て採れなくなったことや、白百合女子大学が出来る前にあった津村薬草園など、昔懐かしく思う場所が幾つかありますが、「この方もきっと自分の中に残る情景を思い出されているんだろうな」と、思いながら別れました。
上原堤から街道に戻ると直ぐに右側に静鉄清水線の狐ケ島駅があり、駅入口から約350m歩くと左側に上原地蔵堂がありました。

08時58分、上原子安地蔵堂(左側)
13-① 上原子安地蔵堂
地蔵堂から240m歩くと、清水有度第一小学校があり、学校の脇で休憩することにしました。
9時03分~9時07分、休憩
清水有度第一小では、100人以上の人が集まって防災訓練が行われており、それを眺めながら休憩することにし、水補給と昨日買ったたまご餅を食べました。
休憩を終わり約240m歩くと県道407号に合流し、さらに約130m先に日本橋から41番目の一里塚跡(草薙一里塚)があるとのことのでしたが、見落としてしまい「草薙一里山」バス停を一里塚の代わりにしました。
09時13分、041草薙一里塚跡(右側)
14-① 草薙一里塚(バス停を代用)
ところが家に帰り再確認すると、草薙一里塚跡は清水銀行草薙支店の敷地内の道路沿いに一里塚跡の石碑が建っていることが分かり、再訪して撮影しました。
 ※①=草薙一里塚跡
109 草薙一里塚跡
そして、一里塚跡碑の手前に「狸八相縁起」の狸像が建っていました。
 
※①=狸八相縁起
111 狸八相縁起像
一里塚跡から約900m歩くとスーパーシズテツの駐車場の前に、草薙神社のコンクリート造りの大鳥居が建っていました。
 ※①=草薙神社大鳥居(左側)
112 草薙神社・鳥居
私は、地図に書き込んだ付近にもあると思い写真を撮らなかったのですが、地図に書き込んだ辺りにはなく撮っておけば良かったと思いましたが、後の祭りでした。残念!!
09時25分、草薙駅前
旧街道は、草薙駅前信号を左折し、約50m先の最初の小さな十字路を右折します。
右折すると住宅地となりましたが、両側には造園屋さんが連なっており、その中の一軒の庭先に「ダイコン」が干してありました。
 
※民家のダイコン干し(右側)
15 大根干し(県立美術館近く)
昔は良く見た風景ですが、最近はほとんど目にすることはなく、住んでいるところではまったく見ることはなくなったので、記録に残すことにしました。
ダイコン干しの家から約50mで、静鉄清水線「県立美術館前駅」からの道があり、そのまま横切って約100m歩くと左側に東光寺がありました。
09時38分、東光寺(左側)
16 東光禅寺・山門
境内に大きな石のテーブルとベンチがあるので、休憩も考えて立ち寄りましたが、逆に風邪を引きそうな寒さだったので、境内を見ただけで失礼しました。
そして、東名高速の下をくぐり、タクシー会社を左に見ながら右折し、県道407号を渡った先に県総合運動場駅がありました。
出発してからトイレに行っていないので、駅のトイレを借りようと線路を渡って駅に行くと、無人の自動改札の出入り口のため、また線路を渡り直して街道に戻り、戻った側から右折して50mほど行くと、切符売り場のある駅舎があり、トイレもあったのでお借りしました。
※要は最初から踏切手前の切符売り場に行ってトイレを借りれば良かったのです。
話しを戻して、駅舎から約200m歩くと、東海道線を地下道で潜るのですが、地下道に入る手前に記念碑が建っていました。
10時00分、旧東海道記念碑(右側)
17-② 旧東海道記念碑
写真を撮り終わると、Yumiさんが右足のくるぶし付近が痛いと云うので見てみると、平坦な舗装道路をトレッキングシューズで歩いていたため、足首を保護するカバーが当たるようです。
赤くなった部分に薬を塗り、ガーゼを当ててテープで止める処置を施しました。
道はここから東海道線を地下道で潜るのですが、線路の下の部分で車が交差出来るようになっているため、鉢合わせしないように侵入する時から警笛を鳴らしながら通っています。
 ※東海道線の地下通路(車も走る)
18 東海道線地下通路
私とYumiさんが歩いた時も、前からも、後ろからも警笛を鳴らしながら走っていました。
地下道を出たところで地図を確認し、線路に沿って戻る感じで街道は続いています。
Yumiさんは、処置を施して歩き始めましたが、まだ痛むということなので、地下道から出た処で再度処置しました。
10時28分、静鉄清水線古庄駅前(古庄交差点
国道1号線古庄交差点を左に進み、次の長沼交差点を斜め右に進むと右側に久應寺があり、その先に一里塚があります。
草薙一里塚を見落としているので、注意深く左右を探しながら歩いていると、街道右側のごみ集積所になっているところに、日本橋から42番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。

10時38分、042長沼一里塚跡(左側)
19-① 長沼一里塚跡
注意深く歩かないと、石碑が小さいので見落としてしまいそうです。
長沼駅を渡ったところに玩具メーカーのバンダイの工場があり、ガンダムの人形が飾ってあるとのことでしたが、子供もいないので立ち寄ることなく通過しました。
静鉄線の脇を並行して歩き、国道1号線に出たところで、手元に用意した地図の旧街道を歩けないことを知りました。
旧街道と示された場所にはショッピングセンターが建っており、国道に出てくる道もなくなっていました。
そのため国道1号線をそのまま歩き、柚木交差点に行きました。
柚木交差点を左折し、JR東海道線のガードを潜った先の階段を上り、跨線橋を渡って50m程歩いた右側に道標が建っていました。
10時58分、曲金・東海道道標(右側)
20 東海道道標・曲金
道は、曲金交差点で左に沿って進み東海道線をくぐって、また国道1号線に出ました。
東海道線をくぐる道は、狭いのに自転車がスピードを出して走ってくるので危険です。
国道一号線春日一丁目交差点の角に碑が建っていました。
11時08分、見附跡碑(右側)
21-① 府中宿・東見付跡
ここから伝馬町通りに入り、今日の到着地まで一本道です。
横田町東交差点、つつじ通りを通り過ぎた先の左のホテルアーバンイン静岡を目印に歩きました。
伝馬町通りの歩道には、東海道をモチーフにしたタイルが埋め込まれていました。
 ※府中宿・東海道モチーフタイル(左側の歩道)
22 府中宿・タイル画
11時24分、華陽院(右の木は家康お手植えのミカンの木)=右側
23-① 華陽院
ホテルの先を右に入った線路沿いに、徳川家康の祖父の後妻だった人が祭られている寺院がありましたが、入口が分からず、結局寺院を一周してから境内に入りました。
そして寺院から元のホテル前に戻り、道標の前でパチリ。
11時29分、久能山東照宮道碑(左側)
24-① 久能山東照宮道道標
久能山東照宮道碑の先に本陣碑が道路の右と左に建っており、車の往来を確認しながら道路を行ったり、来たりと横切りましたが、意味の分からないYumiさんは、私に云われて必死になって右や左に横切っていました。
11時34分、下伝馬本陣・脇本陣碑(左側)
25-① 下伝馬本陣・脇本陣跡
11時36分、上伝馬本陣・脇本陣碑(右側)

26-① 上伝馬本陣・脇本陣跡
そして、上天馬本陣・脇本陣跡碑の少し先のビルの前に、西郷隆盛と山岡鉄舟が会見した跡碑が建っていました。
11時39分、西郷・山岡会見之史蹟(右側)
27-① 西郷・山岡会見之史跡
そして、碑の目と鼻の先が、今日の到着地の江川町交差点です。
29 江川町碑
江川町交差点は、地下道で繋がっているため、次回のことも考えてNTTビルの角で到着式(撮影)を行うため、出口の方向を記憶して、到着式(パネルを持っての撮影)を行う出口に向かいました。
11時45分、静岡・江川町交差点着(到着地)
28-① 静岡駅・江川町交差点(到着地)
【散策=駿府城公園】

《昼食》
初めての街で、どこに何があるのか分からないので、人の沢山いる方に地下道で行こうする途中で、チラシを配っていた人に飲食店のある方角を聞き、昼食を食べに行きました。
居酒屋が連なっている辺りで、入りやすい雰囲気の店に入りました。
昼時でしたが、待つことなくテーブルに付き、注文しました。
料理は、勤め先の外食で食べ馴れているものと同じでした。
《駿府城公園》
天気は曇り空で、寒気の影響なのか底冷えする寒さの中、昼食を食べた店舗を出て地下道を横切り、公園側に出ました。
公園に向かう人通りはほとんどなく、城代橋を渡って東御門から公園に入りました。
 
※城代橋
01-① 城代橋
 ※駿府城(巽櫓)
02-① 駿府城・巽櫓
 ※東御門

03-② 東御門
公園の中は、城の跡地を平坦にしただけで、史跡はほとんどない公園でした。
 ※公園石碑
04 駿府城公園碑
途中で、色付いた紅葉と銀杏を背景に写真を撮り、トイレに寄って城外に出る処まで戻ってきました。
 
※公園内の紅葉
05-① 公園の紅葉
城外に出る東御門まで来て、旅に使った地図や資料を綴ったバインダーがないこと気付き、トイレに走って戻ったのですが、Yumiさんも一生懸命に私に付いて走ってきました。
幸いにもトイレの手洗いの棚に置き忘れており、「あった!!」とホッとして手に取りYumiさんの処に戻りました。
再びトイレに戻ってきたので、先ほどと同じ道を歩いてもつまらないと、別の道を歩いて公園内を一周しました。

06-① 二の丸水路
公園には、天守閣跡のパネルが建っていただけで、他には観るものはありませんでした。
 
※天守閣跡碑
07 天守閣跡
 ※静岡県庁・正面玄関
08 静岡県庁正面玄関
【帰路】
到着地付近は、横断歩道がなく地下道で繋がっており、静岡駅までも地下道を歩いて行きましたが、初めての道で次回の出発地点になるため、曲がり角などをメモしました。
また、新幹線の改札を一度通ったのですが、乗ろうと考えている列車の時刻まで約20分あるので、改札口に戻り自由席から指定席への変更可否を確認すると出来るとのことなので、みどりの窓口で差額を支払って指定席に変更してもらいました。
そして、新幹線ホームのベンチでザックの荷物を整え、残っていたたまご餅を食べ少しの間、ゆっくりと寛ぎました。
13時37分、静岡駅発
30-① 静岡駅ホーム
新幹線は70%ぐらいの乗車率で、さほど混雑している感じはしませんでした。
31 新幹線・車内
下車駅の新横浜まで45分と短い時間でしたが、少し寝ることができました。
新横浜で降り、横浜線に乗り換え
最寄り駅に戻り、途中のスーパーに立ち寄って夕食の食材を買って帰りました。
【次回の予定】
《次回に向けて》
〔Yumiさんの靴〕
Yumiさんは、トレッキングシューズで歩きましたが、平坦な舗装路の歩き旅だったため、足のくるぶし辺りが擦れてしまい旅の途中で2回手当てをしました。
また、靴下を二重履きしたのですが、前回水膨れした反対側の足裏の皮が剥けてしまいました。
そのため、靴はウォーキングシューズ、靴下は厚手のものを一枚にしようと思います。
〔史跡〕

HPで史跡の場所を確認して地図に書き込んでいるのですが、場所が違っていたりするので、自治体から頂いた資料をもっと活用しようと思います。
特に、史跡を探すのはYumiさんが当てにならないので、私一人で行わなければなりません。
地図に書き込んだ手前から左右をキョロキョロするのですが、見付けられないことが多々あります。
そのため、道路のどちら側にあるのか、どの辺りにあるのかは、史跡に出会う重要な情報なので、きちんと調べようと思います。
《次回の旅》
次回の旅は、年明けの平成25(2013)年1月12日㊏に第12回の旅で「静岡駅・江川町交差点~藤枝・岡部支所前交差点」までの13.97㎞を旅します。
この旅では安倍川餅老舗の石部屋、安倍川橋の渡り、鞠子でとろろ汁の老舗の丁子屋、宇津ノ谷峠手前の御羽織屋(陣羽織や十団子)など、時代を味わえる場所が沢山あるので、老舗で食べたり、景色を眺めたり、史跡を見学できるので楽しみです。
また、旅は到着地近くの民宿旅館に宿泊し、翌1月13日㊐も「藤枝・岡部支所前交差点~島田・本通り2丁目交差点」を一泊二日で歩く予定です。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【序章】
12月1日の「第10回旧東海道夫婦二人旅」で由比宿~薩埵峠をYumiさんと歩いたのですが、
 ●由比宿=史跡を見落としたり、時間の関係で見学を割愛した
 ●薩埵峠=富士山が雲に隠れて眺められなかった
と、心残りの部分があったので、車ですが改めて行くことにしました。
朝起きて富士山を眺めると雲一つない状態です。
「これなら秀麗富士が眺められる」と直ぐに出掛けたかったのですが、それよりYumiさんの目の治療を優先する必要があり、眼医者の診察を受けようと連絡していると、正月休みで診察していないことが分かり、急遽支度して出掛けました。
眼医者の休みがもっと早く分かれば、6時30分頃には家を出発することが出来ていました。
07時50分、自宅を出発
【薩埵峠】
富士山を見るなら午前中と云われているので、少しでも早く到着したいと考え朝食を食べないで家を出発しました。
家を出て途中のコンビニでサンドイッチとジュースを購入し、車の中で食べながら車を走らせました。
今日から仕事始めの会社もありますが、交通量はさほど多くないので一般道を走り、東名高速厚木ICから高速道路に入り、清水ICに向かいました。
高速道路は御殿場ICを過ぎると走る車の量が減少し、100㎞/hくらいで走れることができました。
また、車窓から見える富士山は雲が多少出てきておりましたが、雲に隠れることなく綺麗に見えています。
時間とともに雲が出てきやすいので、御殿場から新東名を走る予定でいましたが、なるべく早く薩埵峠に着こうと従来の東名高速を走りました。
10時15分、東名高速清水IC着
1号線富士由比バイパスを興津方面に走り、興津川橋の先で左折し、薩埵峠手前の山之神遺跡のある駐車場に向かいました。
駐車場に向かう道は、交差が困難な場所が何か所もある狭い道なので、対向車がこないことを祈りながら走りました。
駐車場は、道路脇に車が停まるなど混んでいましたが、運良く奥に1台分の駐車スペースが空いていたので、停めることができました。
家を出てからほとんど休憩なしで走ってきたので、まずトイレに寄ってから富士山を眺めに行きました。
駐車場(山之神遺跡)から見る富士山は、はっきりと綺麗に見えました。
10時30分、山之神駐車場
001 山之神遺跡・駐車場
薩埵峠展望台は、歩いて数分のところにあるので、富士山を見るのを楽しみにしながら向かいました。
 ※展望台手前
003 展望台への道
展望台は数人の人が写真を撮っていましたが、順番に富士山をバックに写真を撮りました。
10時34分、薩埵峠展望台
004 展望台
ここからの眺めはまさに絶景です。
009 展望台デッキからの富士山
眼下に山裾に沿ってJR東海道線が走り、東名高速と国道1号線が交差し、駿河湾の先に富士山を眺める壮大な美しさに、Yumiさんと綺麗だね、来てよかったね、と喜び、場所を変えながら何枚も写真を撮りました。
富士山の眺望を堪能し、展望台を後にしました。
そして、展望台から戻ってくる途中で、みかん(1袋5個100円)を買い、駐車場に戻りました。
【くらさわ屋=桜えびのかき揚げ】
次に向かうのは前回、昼食を食べた「くらさわ屋」で名物の桜えびのかき揚げを食べることです。
由比宿に行く前に、この地方の名物の桜えびをまた食べたいと思い、昨年12月の旧東海道夫婦二人旅の時に食べた「くらさわ屋」に行きました。
駐車場からこの店に行くには、山之神遺跡の駐車場に行くために走った道よりさらに車の交差が難しい細い道を、長く走らなければなりません。
途中で対向車が来たら大変なことになるので、対向車が来なことを心に念じながら下り坂を走っていると、対向車が上ってきました。
「え!!、来たの」と思っていると、運良く対向車と交差することができる場所だったので、事なきを得て助かりました。
道路は、くらさわ屋に行く途中の望嶽亭・藤屋を過ぎると、少し幅が広くなり車の交差が可能となり、柏屋脇本陣、川島本陣を右に見てYumiさんと、ここ歩いたねと話しながらくらさわ屋に向かいました。
11時07分、昼食(くらさわ屋着)=左側
015 くらさわ屋
先客は1人だけでしたので、私とYumiさんは、先月の旅の時と同じ席に座り、その時と同じ「桜えびかき揚げ定食」を注文しました。
018 桜えび天ぷら
私は出された物は残さなかったのですが、Yumiさんは桜えびかき揚げ(2枚)を1/4残してしまいました。
また、前回の時はなかったのですが、お正月ということなのか”みかん”が1つ付いてきました。
急ぐことなくのんびりと食事をし、次の由比宿に向けて出発しました。
私たちが店を出る頃は、店内の席は一杯となり空き席待ちの人がおり、駐車場も満車でした。
11時45分、くらさわ屋発
【由比本陣公園】
由比本陣公園の付近は、先月(12月1日)の旅の時、先を急いでいたため見学を割愛したり、史跡を見落としたりしていたので、もう一度行ってみたいと考えていた場所で、今日は旅をした時に歩いた道を逆方向に車で走り、名主の館小池邸、街道時計台などを眺めながら由比宿に向けて走りました。
由比川の橋を渡った清水銀行の手前(右側)に無料駐車場があり、車を停め史跡見学に出掛けると、駐車場の隣に、登録有形文化財の指定を受けた清水銀行の建造物が建っていましたが、前回の旅では、完全に見落としていました。
11時58分、清水銀行の建物(左側)
020 清水銀行
そして、その少し先に明治の郵便局舎がありましたが、この建物も旅の時に見落としていました。
 ※明治の郵便局舎(現平野邸)=左側
028 明治の郵便局舎(平野邸)
局舎には当時、局長を勤めていた平野氏が代々住んでいるそうで、中に入って写真を撮りたかったのですが、入るのを止め塀の外から写真を撮りました。
その隣りの「おもしろ宿場館」は、旅の時にYumiさんに写真撮影を拒否された「やじさん、きたさん」の像が入口にあり、Yumiさんに脇に立ってと云うと、旅の時に拒否したことは忘れて素直に立ってくれました(認知症のYumiさんは1ケ月前のことは覚えていません)。
 ※おもしろ宿場館
022 おもしろ宿場館
おもしろ交流館の数軒先に、由比正雪の生家と云われている「正雪紺屋」があり、旅の時は外から写真を撮っただけだったので、今日は店の中に入ってみました。
藍染めに使用するカメと藍染め商品が陳列されていましたが、ピンとくるものがなかったので、何も買わないで店を出ました。
次に、道の反対側の東海道由比交流館に行きました。
交流館は、先月の旅の時に外から見ただけで素通りしたため、今日は館内に入って見学しました。
館内には五重塔の模型が飾ってあり、奥に由比宿の街並み模型が展示されていました。
 ※東海道由比交流館(右側)・五重塔
032 東海道由比交流館・五重塔
 ※由比宿街並み模型
034 由比宿街並み模型
ひと通り館内を見た後、公園に出ると広重美術館の脇に顔を出し写真を撮るパネルがあり、セルフタイマーで撮ろうとしましたが、上手くできませんでした。
近くで見ていた方が「撮りましょうか」と声を掛けて下さいましたので、撮影をお願いしました。
 ※由比宿パネル
037
 ※広重美術館
038 広重美術館
その後、由比本陣公園の山門を出て右隣に、馬の水呑み場跡がありましたが、ここは素通りしたので写真におさめました。
 ※馬の水呑み場跡(右側)
031 馬の水呑み場
Yumiさんは、水の中の亀形の石を見て、
 Y=これ亀?
 E=亀だけど石だよ(大笑い
 Y=本物かと思った
亀の形をした石は、本物かと間違えるほどの色合いをしていました。
由比本陣公園の周りの史跡で、旅の時に見落としていたり、素通りしたところをひと通り見て歩きました。
12時50分、駐車場発
【新東名高速を初走行】
時間が早いので、遠回りになりますが、来る時に走れなかった新東名高速を走って帰ることにしました。
ナビをセットすると富士ICから高速に乗る案内でしたが、逆の清水方面に向けて走り、寺尾交差点で1号線富士由比バイパスに入り清水ICに向かいました。
清水ICを入ると約1㎞で清水JCTとなり、ここから新東名高速となり、新清水JCTを東京方面に向けて走りました。
新東名高速は、開通してから日が浅いので、トンネルはまだ排気ガスで黒く汚れておらず、気持ち良く走ることができました。
私の車のナビには、新東名高速の道路地図が入っていないので、道路のないナビ画面の中を進んでいました。
新東名は、御殿場で東名高速と合流し、交通量が増えてきました。
事故の発生で、横浜IC~中井ICで9㎞渋滞の情報があり、途中のSAでの休憩を割愛し、厚木ICに急ぎました。
厚木ICの1㎞手前から渋滞が発生していましたが、停まることがなかったので、比較的スムーズに一般道に出ることができました。
厚木市内では、部分的に渋滞していましたが、私が知っている厚木市内の渋滞よりかなりスムーズに走ることができたと思いました。
相模原から八王子バイパスを走り、北野を経て、我が家に帰ってきました。
帰りも長いドライブになりましたが、壮大な富士山を眺めることができた満足感で、疲れはそれ程感じませんでした。
【感想】
綺麗な富士山が見れて良かった。
家を出る時間は計画していた時間より遅くなりましたが、いろいろな場面で運に恵まれて往復することが出来、楽しい一日を過ごすことができました。


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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ・風強し
【宿場】(15)蒲原宿⇒(16)由比宿⇒(17)興津宿⇒(18)江尻宿
【行程】歩行距離=16.44㎞ 総距離=168.85㎞

新蒲原・五十嵐商店角⇒(2.567㎞)⇒037由比一里塚⇒(4.315㎞)⇒038西倉沢一里塚⇒(3.392㎞)⇒
薩埵峠⇒039興津一里塚⇒(5.065㎞)⇒040江尻一里塚⇒(1.10㎞)⇒新清水・水神社前
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第10回旅の宿場)
01 10回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体ルート(第10回)
 第10回の旅のルート
 (新蒲原・五十嵐商店角 ⇒ 新清水・水神社前)
第10回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日
  〔※②〕=平成29(2017)年12月23日

【旧東海道の旅】

《序章》
前回(第8回~第9回)の旅から一泊二日の行程で旅をすることにしました。
しかし、Yumiさんの足裏に水膨れが出来てしまったり、旅の疲れが残ったりしたするので、思い切って一日の歩く距離を減らすなど、計画を全面的に見直し、今回の旅で歩く距離を、
初日(12月1日)=薩埵峠上道を歩く17.23㎞を中道の16.44㎞に0.79㎞減少
2日目(12月2日)=安倍川BS停までの14.76㎞を静岡・江川町交差点までの12.18㎞に2.58㎞減少
と、二日間で3.37㎞減らすことにしました。
二日間で約1時間程度の減少ですが、少し楽になると思います。
行程の見直しで、来年の平成25年11月の三条大橋到着は再来年に延期することになりますが、その時は東海道の旅に合せて京都の宿泊施設に予約して「紅葉」を楽しみたいと思います。
《移動》
山手線は土曜日の早朝でも都心部の人の動きは早く、電車は通勤ラッシュ並みのように混んでいて、途中の駅まで座れませんでした。
06時48分、品川駅着
01-① 品川駅
乗る新幹線の出発まで時間の余裕があるので、前回(第9回)と同じようにYumiさんのトイレを済ませておこうと「トイレは」と聞ていたのですが、「大丈夫」と云われてしまいトイレに行かずにそのままホームで待つことにしました。
07時04分、新幹線・品川駅発(こだま633号)
乗車した新幹線は、ほぼ満席状態で品川駅を出発し、小田原の手前から富士山が見れればと思いながら車窓から眺めていましたが、残念ながら積乱雲に覆われていて眺めることができないまま三島駅に着いてしまいました。
三島駅で東海道線に乗り換え、ひと駅先の沼津でまた乗り換え、Yumiさんの座る座席だけでも何とか座席を確保したいとし急ぎ足で階段を上り下りして乗車し、座席を確保しましたが、いやはや忙しい移動でした。
08時34分 新蒲原駅着
02-① 新蒲原駅
新蒲原駅の構内でトイレ(※)を済ませ、改札を出た処でザックの荷作りをして旅に出発しました。
※トイレ
トイレに行く時は、私がYumiさんのザックを預かり、ポシェットは外さないように話します。
過去に何回もトイレの中に荷物を置き忘れてきて冷や汗をかいたりしたので、必ず入る前に注意しています。
08時47分、新蒲原駅前発
昼食を食べようと考えている薩埵峠の途中にある「くらさわ屋」まで2時間以上あるので、前回の到着地で出発式をする前に、前回見落としていた史跡を見学することにしました。
《前回(第9回)の補足》
 ※吉田屋(なまこ壁と内部に柱がない家)=右側
04-① なまこ壁の商家
内部も見学させて頂きました。
 ※問屋場跡
03 問屋場跡
【=旅=】
08時54分、新蒲原・五十嵐商店角(出発地)

05 五十嵐商店角(出発地)
ここから西木戸跡までの約500mの間は、史跡が続いています。
まず、出発地点から10歩も歩かないところに、前回昼食を食べた旅籠「旧和泉屋」があり記録に残しました。
08時56分、お休み処・和泉屋(右側)
06-2② 旧旅籠・和泉屋
和泉屋から約20m歩くと、右側に本陣跡と書かれた標板が掲げられていました。
08時58分、平岡本陣跡(左側)
07-③ 西本陣跡(平岡家)
本陣跡は、現在も人が住んでいるため中に入ることはできないため、外の道路から記録に残しました。
また、本陣跡より約100m手前に東本陣(多芸家)があったそうですが、見落としていました。
本陣跡から約50m歩くと交差点があり、その角に街道スタンプ所がありましたが、スタンプがなかったので押印できませんでした。
そして、交差点を渡った先の左側に「手作りガラスが使われている総けやき造り」の磯部家がありました。
09時00分、磯部家(左側)
08-① 手作りガラスの家
磯部家から約90m歩くと、若宮神社参道入口の先(蒲原郵便局の先)の右側に高札場跡碑が建っていました。
09時03分、高札場跡碑(右側)
09-② 高札場跡
高札場跡の斜め向かい側に、御殿道の碑が建っていました。
09時04分、御殿道の碑(左側)
10-① 御殿道跡の碑
碑の横から南に下る道を御殿道と称されており、正確な位置はわかってはいないが、かつてはこの辺り一帯のかなり広い範囲に御殿(天正10年に武田を滅ぼした織田信長を接待するために建てられた)が建っていましたが、寛永11年(1634年)の家光上洛以降、蒲原御殿は使用されなくなり、背後の山を「御殿山」と称し、御殿道とともに名残りを残している。
道碑の真向いに、町家を洋風に改築した歯科医院がありました。
09時05分、旧五十嵐歯科医院(右側)
11-① 旧五十嵐歯科医院邸
歯科医院から約40m歩くと、右側に格子戸の前に標板が建てられた志田家がありました。
09時07分、志田家(左側)
12 志田邸
志田家は蒲原宿内で米・塩・油等を扱っていましたが、江戸後期には醤油の醸造も手がけるようになり、昭和初期まで「やまろく醤油」の商品名で製造・販売されていました(この醤油工場は東海道の宿場内でほぼ当時のまま現存・公開されている唯一の工場と言われ、日本における初期の工場として「東海道町民生活歴史館」が公開しています。)。また、母屋である主屋は嘉永7年11月(1854年)の安政地震で大きく被災しましたが、直ぐに修復し(安政2年(1855年))、現在に至っています。そして、主屋内は店の間・中の間・居間・と続き、「通り土間1列型」の典型的な町屋形式で、土間境に欅(けや木)の柱を使い、これを「差し鴨居・差し敷居」で繋いでいます。
扉を開けて中に入ると説明される方がおりましたが、先を急いでいたのと、興味がわかなかったので、直ぐに失礼しました。
志田家から約90m歩くと、右側に「格子戸の美しい家」と書かれたパネルが掲げられた家がありました。
09時13分、格子戸の家(増田家)=右側
13-① 格子の家・増田家
増田家から約40m先を左折し、さらに約150m歩くと県道396号に突き当り、その左角に西木戸跡がありました。
09時16分、西木戸跡(左側)
14-① 西木戸跡
蒲原宿に残る江戸時代~明治時代の頃の町並みを眺めながら、旅を楽しみました。
その中で、蒲原宿のスタンプ置き場があったのですが、スタンプが誰かが持ち去ったのか、置いてありませんでした。
街道スタンプがあったら記念に押そうとインク台を持参していたのですが、スタンプがなくては押せません。
残念でした!!
ここで一服休憩し、水分を補給して英気を養い、薩埵峠目指して出発しました。
突き当たった県道396号を右折し、東海道線と並行して旅をします。
〔Yumiさんの霊感〕=2回目
街道を歩き始めて少しすると、
 Y=お父さん、この道は初めてじゃないよね
 E=今日が初めてだよ
 Y=初めて?
 E=この景色、知っているの?
 Y=うん
第5回旧東海道夫婦二人旅(平成24年6月30日)の梅沢旧道の醤油醸造元付近と同じように、夢の中で先に今日の情景を見ていたようですが、私は「そう」と答えただけで、それ以上触れることはしませんでした。
そして、約1㎞歩くと、イルカが素材のイルカスマシを売っている秋田屋がありました。
09時40分、鮮魚・秋田屋(右側)
15 鮮魚・秋田屋
丁度、開店したところで、ご主人に「イルカスマシがあったら見せて頂けませんか」とお願いすると、案内して見せて下さいました。
私は、ここだけしか売っていないイルカスマシ(他でも売っているますが調理方法が違う)なので、イルカスマシ、生桜えび、生しらすを注文し、宅急便で送ってもらうことにしました。
月曜日に宅急便で届くので、食べるのが楽しみです。
お店を出て街道を歩き始めると、私達の前を祖父と子供の二人の街道ウォーカが歩いていました。
09時55分、蒲原駅前(右側)
16 蒲原駅
この二人とは蒲原駅で駅舎をバックに写真を撮りに寄っていた時に追いつきましたが、私達より歩くスピードが早く次に会ったのは、由比本陣公園内の広重美術館でした(それ以降、会うことはありませんでした)。
蒲原駅前から約700m歩くと東名高速の高架があり、高架下を潜り約220m歩いた先の川を渡った右側に清酒「正雪」の醸造元の、神沢川酒造の大きな煙突がそびえていました。
10時07分、神沢川酒造前(右側)・・・写真左は※②に撮影
051 神沢川酒造 
17 神沢川酒造(清酒・正雪)
神沢川酒造の少し先の左側に東海道道標があり、その約210m先の道路左側に、日本橋から37番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
10時07分、東海道道標・由比宿(左側)
18 東海道道標・由比
10時10分、037由比一里塚跡
19-① 由比一里塚跡
この先から東枡形跡で、道が進んで行くと通行止めのように感じるようにできており、枡形道の終わりに昔の商家のたたずまいを残している志田邸がありました。
 ※②=東枡形跡
049 枡形道  049-1 解説
10時13分、志田邸(左側)=現在は取り壊されてありません(H29.12.23確認)
21-① 商家・志田家
志田家は昔の東木戸跡で、屋号「こめや」を名乗り昔の商屋の面影を残している。
入口を入ると帳場、階段などが残っており、
スタンプが置いてあったので、持参した用紙にスタンプを押しました。
志田家を出て約70m歩くと、右側に御七里役所之跡がありました。
10時15分、御七里役所之跡碑(右側)
22-① 御七里役所之跡
御七里役所は、江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に、七里飛脚という直属の通信機関を持つものがあり、ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡です。
同家では江戸和歌山間584㎞
に約七里28㎞毎の宿場に中継ぎ
役所を置き、5人1組の飛脚を配置した。
主役をお七里役、飛脚をお七里衆といったそうです。
御七里役所之跡から約130m歩くと、右側に由比宿交流館があり、その隣りに由比本陣公園があり、入口は立派な門が建てられていました。
10時17分、由比本陣跡(右側)
23-② 由比本陣跡
公園の立派な門をくぐると本陣跡碑があり、公園内には井戸の名残り跡、広重美術館が建っていました。
 ※井戸の名残り跡
24 由比本陣・井戸
広重美術館は、東海道を歩くウォーカ必須の場所なので、入館料(500円)を支払って観ました。
25-② 広重美術館・入場券
広重の作品や版画の作り方などをゆっくりと見たいと思いましたが、昼食の予約をしているため、我慢して先を急ぎました。
由比本陣公園を出ると道路の真向い(反対側)に由比正雪が生家の染物屋の正雪紺屋があり、その数軒先に由比宿おもしろ宿場館がありました。
10時27分、正雪紺屋(左側)・・・写真は※②に撮影
044 正雪紺屋  044-2 染め粉かめ
正雪紺屋は、江戸時代初期から400年も続いている紺屋(染物屋)で、由比正雪の生家と言われており、藍甕(かめ)や神棚、染物道具、用心篭中などの道具や仕事場が昔のまま残されていました。
10時29分、おもしろ宿場館(左側)
27 由比宿おもしろ宿場館
おもしろ宿場館の入り口に、弥次さん、喜多さんのおどけた人形があったので、Yumiさんに「写真を撮ろうよ」と話したら「私はイヤです」と拒否されてしまい、私だけ撮ってもらいました。
広重美術館や由比宿の史跡は、急ぎ足になってしまいましたので、後日改めて観に来たいと思います。

おもしろ宿場館から約30m歩いた右側に、加宿問屋場跡があり、標板が建てられていました。
10時31分、加宿問屋場跡(右側)
28 加宿問屋場跡
10時32分、羽根ノ屋脇本陣跡(右側)
29-① 脇本陣跡(羽根ノ屋)
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒あり、そのうち江戸時代後期になる頃、徳田屋に代わって羽根ノ屋が勤めたそうです。この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根の屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本 陣を願い出たことが史料に残っています。
由比川橋を渡ると桜えび通りとなり、その通り沿いに菓子・春埜があり、休憩の時に食べようと店に立ち寄り、たまご餅(10個入り・735円)を買いました。
10時40分、春埜(右側)
30 菓子。春埜(たまご餅)
桜えび通りの終わり近くで街道は右折するのですが、道らしい道がなく(階段のみ)通り過ぎてしまいました。
しかたなく、そのまま由比駅前まで歩いて旧街道に出ようとしましたが、あるのは狭い階段だけです。
地図を良く見ると左が海、右が山なので、ここにきてやっと道の構造が分かり、先ほど右折する場所にあった階段を上がればよかったのかと思いましたが、戻るより先に進もうと、由比駅前の階段を上がり旧街道に出て少し歩くと寺尾沢橋(歩道橋)があり、薩埵峠まで3㎞の地点に着きました。
10時57分、寺尾沢横断歩道橋
道はここから上り坂になり、約350m歩くと右側に街道時計が設置されていました。
11時03分、街道時計(右側)
31 街道の時計
時計から約200m歩くと、右側に名主の館小池邸がありました。
11時05分、名主の館(小池邸)=右側・・・写真右は※②に撮影
32-③ 名主の館・小池邸 034-1 小池邸屋内
江戸時代の村役人、村方三役(名主・組頭・百姓代)というのは、村落内の行政を行っていました。その代表を、東国では「名主」、西国では「庄屋」と呼んでいたようです。
この時代、領主側の支配機構と、百姓側の接点として、村役人の中ではもっとも重要な役割を担っていたのが名主でした。名主は、村内でもっとも家格の高い百姓であり、また知識層でもありました。
主な仕事は、年貢の取立・管理・戸籍事務・諸書類の作成や他村・領主との折衝など、村政全般を取り扱っていたので、学識が必要とそれていました。
名主の館は、中にベンチなどがあり休憩ができるようになっていて、多くの人が入っていましたが、私とYumiさんは中に入らず記録だけ残し先に進みました。
小池邸から数軒歩いた左側に、あかりの博物館がありました。
11時06分、あかりの博物館(左側)
33-① あかり博物館
薩埵峠への上り坂はだらだらと続き、途中で富士山が見える場所がありましたが、積乱雲で富士山は見えません。
この先の薩埵峠に着いた時は見えればと思いながら、昼食を食べる「くらさわ屋」に向かいました。
11時10分、薩埵峠への道
34-① 富士山見えず
くらさわ屋は、旧街道に面した駿河湾の眺望の良い場所にあり、お店は開店したばかりのようで、私達が最初のお客だったのか好きな場所に座わらせて下さいました。
折角のご厚意なので、景色が良く見える場所に座り、由比名物の「桜えびかき揚げ定食」(@1,575円)を注文しました。
11時14分、くらさわ屋着(昼食)=左側

35-④ くらさわ屋店内
駿河湾を眺めたりしながらのんびりと配膳を待っていると、待っていた定食が運ばれてきました。
 ※桜えびかき揚げ定食
35-⑤ 桜エビかき揚げ定食
かき揚げはつけ汁ではなく塩だけで、天ぷらに少し掛けて食べましたが、カリカリしていて抜群の美味しさでした。
機会があったらまた食べたいと思います。
11時49分、くらさわ屋発
薩埵峠に向けて街道沿いの民家を見ながら歩いていると、「松永」姓の表札の家が多いことに気が付きました。
松永姓の家が終わる辺りの左側に、民家の脇に本陣跡の碑が格子戸にパネルが掲げられていました。
11時57分、間の宿・川島本陣(左側)
36-① 間の宿・川島本陣 030-1 解説
家の表札を見ると「川島」姓で、家の方がいたので聞いてみると、「我が家は180年位前(江戸時代の後期)からの短い期間でしたが、この先の柏屋さんはもっと古いです」よ、話して下さいました。
11時58分、間の宿・柏屋脇本陣(左側)
37-④ 明治天皇御小休所跡
脇本陣の少し先で道は分岐するのですが、分岐する手前の左側に望嶽亭・藤屋が、その斜め前の右側に日本橋から38番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
11時59分、望嶽亭・藤屋(左側)
39 望嶽亭・藤屋 028-2 歴史的資料
望嶽亭は、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった所で、明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われ、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったと言われています。当時と変わらない建物、部屋のたたずまいとピストルが歴史を物語っているようですが、立ち寄ることなく先に進みました。
12時00分、038西倉沢一里塚跡(右側)

38-① 西倉沢一里塚跡
この一里塚は、薩埵峠の東登り口に位置しており、ここからの上り坂は一段と厳しくなりました。
40 薩埵峠への上り坂
坂を上がって行く人は私達以外はおらず、薩埵峠から下ってくる人ばかりです。
由比からの上りは富士山を背にして歩くので、富士山を眺めながら下る方が多くなるのも当然かもしれません。
富士山を眺められる辺りで振り返って見ると、青空が広がっているのですが、富士山の高さのところだけ積乱雲が続々と発生し、富士山が覆い隠されて見えません。
41-① 薩埵峠道標
上る途中の道の両側の急斜面には、みかん畑が続いているのですが、途中でガラガラ、ガラガラと何かが走る金属音が聞こえてきたので何だろうと思っていると、老夫婦が乗ったモノレールが急斜面を下ってきました。
その情景を見たら、とても歩けるような斜面でないので、モノレールは必需品と思いました。
何とか富士山が見えるようにと心の中で祈りながら峠を登っていくと、峠の駐車場があり、その一角に碑が建っていました。
12時24分、薩埵峠山之神遺跡(左側)
42-① 山之神遺跡
ここから100mくらい歩くと鉄板でできた展望台(1人用)があり、富士山を眺めましたが、残念ながら眺望は叶いませんでした。
12時27分、薩埵峠展望台(右側)

43-① 薩埵峠展望台
同じ展望台では、母子3人が雲が切れるのを待っていましたが、積乱雲はその後も続いていたので、見れたのかな?
H25.01.04 再訪(富士山を眺望)
以下のブログURLでご覧になれます。
  
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/archives/21934620.html
12時33分、薩埵峠碑(東屋休憩所)=左側
44-① 薩埵峠
峠道は、碑の先から平坦な道となり、富士山が見えると云われる辺りで積乱雲が切れるのを、菓子・春埜で買った「たまご餅」を食べながら少し待ちましたが、積乱雲の湧き上がり方が凄くとてもなくなりそうもないので、富士山の眺めをあきらめ歩き出しました。・・・写真右は※②に撮影
45-① 薩埵峠道標・興津側 018 薩埵峠からの富士山
そして、10分程平坦な道を歩くと、今度は急勾配の下り階段が始まりました。
46 薩埵峠の下り坂
道は急傾斜を階段で降りるようになっており、それを下って行くと、進行左側に東屋とトイレのある休憩所が見えてきたので、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと、「大丈夫」と云うので、立ち寄らないでそのまま進みました。
※②=薩埵峠からの下り            ※東屋 
014 薩埵峠上り 013 休憩所東屋
道は、この先で十字路になり、右折=上道、左折=中道となるので、左折して中道を進みましたが、車は白髭神社から先の道が細いため通行禁止になっていました。
※②=分岐
012 薩埵峠上り分岐
左折して約120m歩くと白髭神社があり、さらに約50m歩くと海岸寺の入口があり、約80m先を左折して東海道本線のガードを渡ると国道1号(富士由比バイパス)に突き当り、バイパスと並行して約260m歩くと、興津橋の手前で上道からの街道と一緒になりました。
13時09分、興津橋
旧街道は、興津橋を渡り切った右側の小さい階段を下りるのが正規なのですが、階段を見落としてしまったため、少し先を戻る形で旧街道に合流しました。
※②=見逃した分岐
009 興津川橋分岐
合流したところから約500m歩くと再び国道1号に合流し、約250m歩くと興津中町交差点に着きました。
13時25分、国道50号線の起点(興津中町交差点)=右側
47-② 国道50号始発点
交差点を渡った右側に、国道50号線起点の碑が建っていました。
興津中町交差点から約300m先の「興津中町西」交差点の右角に、身延山に通じる道の道標が建っていました。
13時30分、身延山道道標(興津中町西交差点)=右側
48-① 身延山道道標 007 身延山道道標
この交差点の先に一里塚跡があるということなので、注意深く歩くとともに、近くの人に場所を聞くと、聞いた先に日本橋から39番目の一里塚跡があり、民家の前に石碑が建っていました。
13時34分、039興津一里塚跡(右側)
49-① 興津一里塚跡
一里塚跡碑を過ぎ、興津宿公園でひと休みして久しぶりにたい焼きを食べようと、興津駅入口交差点の先にあるたい焼き屋さんに向かいました。
しかし、店に入るとたい焼きは売り切れており、焼きあがるのに30分近くかかるとのことだったので、買わずに店を出て先に進みました。
約180m歩くと沢瑞川を渡り、その先に興津宿公園がありました。
13時45分~13時57分、興津宿公園着(休憩)
50 興津宿公園(道標)
《アクシデント》
公園の入口近くでスタンプを押すために、持参したインクをザックから出そうとしていた時、地図や資料類が風に飛ばされて道路まで飛んでしまいました。
Yumiさんと二人でなんとか全部を集めて歩道に戻ろうとした時、私の靴が何かに引っ掛かりそのまま歩道にドサッと倒れ込んでしまい、右脇の肋骨付近の強打、右手の指・手のひら・右足のひざを擦りむいてしまいました。
倒れたところが交番の目の前だったので、交番の警察官が救急箱を持って駆けつけてくれ、手の指と手のひらにバンドエイドを貼って、応急処置を施しました。
擦り傷は多少の痛みは残りましたが、右脇の肋骨付近の痛みの方が強く、深呼吸ができないくらいの痛みが続きました。
強打した処の痛みはしばらく続き、深呼吸は4日目ぐらいからできるようになりました。
ひと段落した処で、アクシデントを起す原因となった興津宿のスタンプを押して、公園を後にしました。
公園を出て約100m歩くと、右側の民家の前(道路の反対側は潮屋)に東本陣跡があり、石碑が建っていました。
13時59分、興津宿本陣跡(右側)
51-① 興津宿・東本陣跡
東本陣跡から約40m歩くと道路反対側(進行左側)に鈴与研修センターがあり、入口脇に一碧楼水口屋脇本陣跡があり、石碑が建っていました。
14時02分、水口脇本陣跡(左側)

52-① 水口脇本陣跡
脇本陣跡から約60m先の道路反対側(進行右側)の山梨自動車商会(オートバイなどの販売店)の前に、西本陣(手塚屋)の跡があり、木製パネルが掲げられていました。
14時03分、興津宿西本陣跡(右側)

53 西本陣跡
興津宿公園を出て、道路を挟んで本陣跡と脇本陣跡の史跡があり、交差点がなかったので、左右を確認して二人とも走って道路を往復しました。
手塚屋本陣跡から約500m、東海道線に沿って歩いていると、右側の高台に清見寺の建物が目に入りました。
《清見寺》
14時10分、清見寺(右側)
54-① 清見寺・山門
清見寺は、街道から東海道本線のガードを潜った先の高台に本堂があり、東海道線の手前に山門がある非常に珍しい寺院なので、本堂まで上っていきたかったのですが、Yumiさんに行く気がまったくないので、しかたなく階段を上った山門で我慢することにしました。
境内の中を東海道線が走っている珍しい寺院だったのですが、歩き旅の時は興津で怪我をしたりして気分的に滅入っていたこともあり、高台にある本殿まで行きませんでした。
機会があったら見たいと思っていたので、思いを実現することができました。
※①=清見寺(門前)
101 清見寺・入口
駐車場の右の上り道を歩くと、階段の先に東海道線の踏切が見えました。
 ※①=境内の中の踏切
102 踏切を渡る参道
踏切を渡って本殿に向かって階段を上っていると、電車が来ることを知らせる踏切の警報音が聞こえ、歩くのを止め電車を待ちました。
待っている位置からは、どちらの方向から電車が走って来るのか分かりませんでしたので、どちらにも対応できるようにしていると運良く左から走ってきたので、「Yumiさん」とカメラに顔を向けさせ急いでシャッターを押しました。
 ※①=境内内の踏切を通る電車
103 踏切が閉まる参道
寺院の境内を電車が走る写真を撮ることができ、来た甲斐がありました。
 ※①=徳川家康が接ぎ木したと云われる梅の木
104 家康接木の梅
東海道線を挟んで山門があり、↓この山門は高台側(東海道線を越えたところ)
 ※①=山門
105 清見寺・山門
東海道線の上を歩いて越し、旧東海道に下りてきました。
清見寺を出て約170m歩くと、左側に西園寺公望の老後の住まいだった坐漁荘がありました。
14時15分、坐漁荘(左側)
55-④ 坐漁荘・縁側
坐漁荘に入りベンチに座って庭を眺めていると、管理人の方が来られ、「西園寺公望は大臣になる人の推薦をしていたので、大臣になりたい人が水口脇本陣に泊まって、ここに通っていたんですよ」と、当時の話しを聞かせて下さいました。
また、旧街道を旅していると話すと、静清バイパスを通る道を丁寧に教えて下さいました。
街道は静清バイパスの下を潜り、歩道のないカーブしている東海道線の跨線橋を越えて行くと、ひと際目を引く一本松が立っていました(庵原川の手前)。
14時45分、生き残りの一本松(左側)
56-① 生き残り一本松
一本松の手前より越した方が写真が撮りやすいと考え、歩いてきた方向に向けてシャッターをきりました。
するとカメラの電池交換を知らせる表示が出ましたが、電池切れを待つことにして予備電池には交換しませんでした。
旧街道は、辻町交差点で分岐して右側に進むのですが、分岐するところに松並木を伝える「細井乃松原碑」が建っていました。
14時59分、細井乃松原跡(左側)
57-① 細井乃松原107 細井乃松原
写真を撮ろうとするとカメラの電池が切れてしまい、持参している予備電池と交換していると、Yumiさんが「お父さん、富士山が見えるよ」と云うので、Yumiさんが指さす方向を見ると、薩埵峠の時に覆っていた積乱雲がなくなり、富士山の頂上部が見えました。
折角の機会なので写真を撮りましたが、撮影者の技量が低く、写真に写っていませんでした。
 ※①=細井乃松(左側)
歩き旅の時に富士山が見えたので、同じ場所から富士山を撮ろうと車を停めましたが、残念ながら雲に隠れて見れませんでした。
106 細井乃松原からの富士山
細井乃松原跡から一里塚跡を見落とさないように注意して歩き、約500m歩いた左側に篠原自転車店の直ぐ先の十字路の角に日本橋から40番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
15時11分、040江尻・辻一里塚跡(左側)
59-③ 江尻一里塚跡碑
注意して歩かないと見落としやすいので、史跡を確認したい人は気を付けて下さい。
一里塚跡から約400m先のJR清水駅入口の江尻東交差点を過ぎ、さらに約600m歩くと今日の到着地である水神社前に到着しました。
15時26分、水神社前着(到着地)
60-① 新清水・水神社前(到着地)
水神社の前で、到着式(到着パネルを掲げて写真撮影)を行い、今日の旅を終了しました。
【ホテル】
神社の脇を流れる巴川で釣り人がハゼを釣り上げているところを見ながら歩き、宿泊を予約しているリバーサイドホテル玉川に向かいました。
15時30分、ホテル着
チェックインが早かったので宿泊客はまだ来ていないようです。
他の客が来る前にお風呂に入ろうと共同風呂を確認すると、鍵を掛けて個室利用が出来るようになっていました。
予約した段階では分からなかったのですが、ホテルの考えとして個室利用を提供しているようで、狭い浴室で交代でシャワーを浴びることを考えると嬉しい限りです。
フロントに確認すると個室利用OKとの回答があり、広々とした浴室でのびのびと湯に浸り満足しました。
《夕食》
外に食べに行こうかと考えていたのですが、ホテルは元々が割烹店であったことや、予算を云ったら気持ちよく受け入れて下さったので、ホテルで食べることにし食事の予約をしました。
私は他にも食べる人がいると思っていたのですが、指定された食堂に行ってみると、用意されていたのは私達の分だけでした。
料理は、少ない予算の中で良く作って下さり、味は一級品でした。
61-① ホテル・夕食
Yumiさんとビールで乾杯し、出されたものを食べていると、ホテルのオーナーが来られ、旧東海道の話しをいろいろと聞かせて下さり、楽しいひと時を過ごすとともに、二人とも満腹になって部屋に戻りました。
《足のケア》
医師に処方して頂いたシップ薬、パテックス、冷却シート等を持参し、膝、ふくろはぎ、足裏に貼り、Yumiさんは足裏水膨れの処置(皮膚軟膏を塗布し、消毒布をテープで止める)を施しました。
前回の旅の時に行ったケアの結果を基に準備してきましたました。
それぞれの処置は、足の疲れが取れ、筋肉痛などもなく、それなりに効果的だったので、次回も同じようにケアの準備をして対処したい思います。
早朝の起床、旅の疲れ、ほどよい酔いなどで、21時前にはベッドに横たわって寝ていました。
【次回の予定】
明日の第11回の旅は、「新清水・水神社前~静岡・江川町交差点」の12.18㎞を歩きます。
途中に追分羊羹の老舗があったり、到着地には駿府城公園があるので、時間があったら散策したいと思います。

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旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
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