旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2013年02月

【天候】晴れ・風強し
【宿場】(26)掛川宿⇒(27)袋井宿⇒(28)見付宿
【行程】歩行距離=16.422㎞ 総距離=249.37㎞

西掛川駅入口⇒(0.65㎞)⇒055大池一里塚⇒(4.468㎞)⇒056久津部一里塚⇒(4.427㎞)⇒
057木原一里塚⇒(4.177㎞)⇒058阿多古山一里塚⇒(2.70㎞)⇒磐田・東町交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第16回旅の宿場)
11 16回宿場
 ↓

旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第16回
 第16回の旅のルート
 
(西掛川駅・入口 ⇒ 磐田・東町交差点)
第16回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
05時30分、起床

昨日と同じようにホテルのモーニングコールで起こされる前に、今日もYumiさんのトイレ通いで、4時すぎに目を覚まし朝を迎えました。
洗面所でまず歯磨きをします。
ところが、Yumiさんはホテルの歯磨きをどのように使えば良いのか分からないため、私が封を開けて使えるようにして歯を磨き、洗顔はホテルで頂いた液体ソープが昨日の分だけしかなかったため、浴室のボディーシャンプーを代用して洗ってもらいました。
今日の旅は、東海道の中間点である「東海道ど真ん中茶屋」を通ります。
昨年の3月に日本橋を出発して、16日目で全体の半分のところまで来ました。
考えてみれば約250㎞、中断することなく良くここまで歩いてきたと、Yumiさんを誉めてあげたいと思います。
今日の旅は、平坦路なので膝痛の心配は少ないのですが、舗装路の歩きと距離を考え昨日と同じように、認知症主治医のK先生に処方して頂いたシップ薬をYumiさんの両膝の両側と、両足のふくろはぎに貼り、私も両足のふくろはぎに貼り、足のケアをしました。
着る物は、下着類と靴下(内側)を新しいものに替えた以外は、同じ物を着ました(着替えは1回分しか持参していませんでした)。
全ての着替えが終わってから目薬の点眼と血圧測定を行い、荷物をザックに入れ出掛ける支度を整えてから、ホテル提供の朝食を食べに行きました。
今日の朝食は、カレーが出されていたので、少しご飯を多くして食べました。
食事を終わり、部屋に戻ってトイレを済ませ、ひと息ついてからチェックアウトしましたが、チェックインした時に会員割引を適用していなかったと、返金(15%程度)がありました。
支払った金額を疑っていなかったので、お金が返ってくることは有難く、「そうですか」と素直に受け取りました。
07時32分、ホテル発
《移動》
掛川駅南口から北口に抜け、木造駅舎を保存する運動が行われているJR掛川駅を眺め、隣りの天浜線・掛川駅に行きました。
 ※JR掛川駅
01 JR掛川駅舎
天浜線は、旧国鉄の二俣線を引き継いだ天竜浜名湖鉄道が運営する天竜浜名湖線の略称で、静岡県の掛川駅から天竜二俣駅を経由して滋賀県湖西市の新所原駅までの67.7㎞を、ディーゼル車で走っています。
駅舎はJR掛川駅の隣りにあり、階段を上った所に改札口となっており、ダイヤは昼間が1時間に1本、朝・夕の通学・通勤時間帯が2~3本の運行になっている。
 ※天浜線掛川駅
03 天浜線掛川駅
 ※天浜線掛川駅ホーム

05 天浜線
 ※天浜線・車内
07 天浜線・車内
ホテルを少し早く出発したので、トイレを済ませ、乗車券を買って待合い室で待っていると、折り返しになる列車が発車する5分前に着いたので、車内で出発を待つことにしました。
この列車には、この先乗る機会があるのかどうか分からないので、思い出に車内で記念撮影などして過ごし、私達の他に数人が乗っただけで出発しました。
07時54分、掛川駅発
07時59分、西掛川駅着
【=旅=】
08時00分、天浜線・西掛川駅入口発(出発地)
ホームから階段を降り、昨日と同じ場所で出発の看板を持って出発式(撮影)を行い、旅立ちました。 
09 西掛川駅入口(出発地)
朝から風が吹いているので、帽子の耳当てを出して飛ばないようにして、歩きました。
約400m歩くと左側の連祐寺の角に、日本橋から55番目の一里塚跡があり、碑が建っていました。
08時08分、055大池一里塚跡(左側)
11 055大地一里塚
大池一里塚は、手前の葛川一里塚と同じように榎ではなく松が植えられていたようです。
出発して約200m歩くと数は少ないのですが、街道の両側が松並木(大池松並木=Eの命名)になっていました。
08時13分、大池松並木(両側)
13 松並木(掛川)
松並木が終わり、掛川バイパスの手前の右側に、曽我鶴の萩の蔵酒造の醸造元がありました。
100年以上続いた名門の酒造でしたが、平成10年に一度閉場し、平成16年に再開したとのことです。
私は、若い時に日本酒で痛い思いをした経験から、人に勧められない以外は口にすることを極力減らしてきたので、日本酒のことは良く分かりませんが、今度掛川に来た時は立ち寄るか、掛川の夜の街で飲みたいと思います。
 ※萩の蔵酒造(右側)
15 萩の蔵酒造
萩の蔵酒造を過ぎた先で、同年輩ぐらいの男性2人組の東海道ウォーカに会いました。
今日は、掛川から浜松まで(約30㎞)歩く予定で、昨日は約40㎞歩いて疲れたと云っていましたが、年齢を感じさせない健脚に、ビックリしました。
また、話しを聞くと、一人は四国八十八か所お遍路を終え、もう一人の人は進行中で、東海道より優先してお遍路を完遂するとのことでした。
二人は、掛川バイパスと交差する沢田IC南で左折して行こうとするので、パイパスを潜った先の沢田IC北の信号を左折するのが街道だと思いますと伝えると、二人は後から追いついてきました。
街道は、少し先でバイパスと別れ、右方向に進み、東名高速道路の下を潜り、橋を渡った先の右側に寺院がありました。
08時35分、仲道寺(右側)
17 仲道寺(東海道ど真ん中寺)
善光寺の境内に220年前に本堂を建立し、東海道ど真ん中の寺と云っている仲道寺がありました。
男性二人組は、話しながら歩くだけで、特に写真を撮ったりすることもないので、Yumiさんと交代しながら写真を撮っている私達とは違うため、先に歩いて行きました。
08時39分、掛川・岡津~原川松並木
20 松並木(岡津~原川)
岡津・原川の松並木は、掛川市内で、松並木として江戸時代の面影を残す状態で唯一残っているのですが、松食い虫の被害で減少しているようです。
松並木でYumiさんと写真を撮っていると、今度は男性若人ウォーカ2人が追い越して行きました。
松並木を過ぎた左側に、本尊の阿弥陀仏は足痛薬師如来と呼ばれ、旅する人が餅を供えて道中足の痛みに悩まされないように祈願した金西寺がありましたが、私とYumiさんは参拝することなく境内で写真を撮って旅に出発しました。
08時44分、金西寺(左側)
25 金西寺
08時46分、間の宿・原川(左側)
26 間の宿・原川
金西寺を出ると、直ぐ横に「間の宿・原川」の標板が建っていました。
間の宿は、休憩は出来るのですが、宿泊は前後の掛川宿か、袋井宿の許可がないと宿泊が許されなかった宿場で、原川は掛川宿と袋井宿の中間にありました。
間の宿原川で金西寺にお供えする薬師餅が売られ、茶屋や酒屋などが立ち並んで賑わっていたそうですが、現在はその面影もありませんでした。
街道はこの先で袋井バイパスに合流し、瀬川の同心橋を渡り、渡ったところでバイパスの反対側を進むようになるのですが、袋井バイパスは道路の分離帯がブロックされているため、橋を渡ったところでは左に渡れません。
私達を追い越して行った若人2人が、バイパス(右側)を直進しているのが見えましたが、私はそのままでは先の交差点まで行かないと渡れないので、橋を渡った所を右に下る道を進み、バイパスの下を潜って旧街道に出ました。
08時56分、袋井宿絵碑(左側)
29 袋井宿・絵碑
そして旧街道を約200m歩いた左側に、横面に東海道の絵が描かれた駕篭形の大きな箱が置いてありました。
09時02分、駕篭形のゴミ集積庫(国本付近)=右側
31 駕籠形のゴミ箱
駕篭形の箱が珍しく、Yumiさんと写真を撮っていると、ゴミ収集車がきて私達が退くのを待っていました。
最初、私は何で待っているのだろうと思いもう一度ゴミ収集車を見て、初めてこの駕篭形の箱がゴミ集積庫であることを理解し、急いで場所をあけました。
このようなゴミ集積庫は今まで見たことがありませんので、すばらしいアイデアだと感嘆しました。
駕篭形の集積庫が置いてある場所は、袋井バイパス国本交差点から入ってきた処で、先ほど掛川の松並木の処で私達を追い越して行った若人2人が、国本交差点の方から歩いてきて、特に挨拶を交わすこともなく足早に通り過ぎて行きました。
そして駕篭形のゴミ集積庫から約100m先に、袋井に入って最初の松並木があり、東海道の雰囲気を味わいながら旅を続けました。
9時04分、袋井の松並木(その①)
32 松並木(袋井)
 ※行書東海道絵碑(左側)
35 行書東海道絵碑
松並木が終わり、JA遠州の倉庫を左の見ながら約100m歩いた右側に、赤い鳥居が建っていました。
09時10分、富士浅間宮赤鳥居(右側)
36 富士浅間宮
 ※富士浅間宮碑
38 富士浅間宮碑
富士浅間宮は、807年に坂上田村麻呂が富士浅間神社から分霊を移したと云われる古社で、赤鳥居は参道の入口です。
本殿は離れたところにあるので、参拝せずに通りすぎました。
この先から二度目の松並木が始まり、200mほど続いていました。
09時13分、袋井の松並木(その②)
39 松並木(袋井)
松並木を過ぎた左側に袋井東小学校があり、一里塚跡がありました。
09時22分~09時27分、056久津部一里塚跡(休憩)
 ※進行左側の碑
41 056久津部一里塚跡(左側)
 ※進行右側の碑
44 056久津部一里塚跡(右側)
左側の一里塚跡は、小学校の敷地に柵が設けられて復元塚の頂部に松が植樹され、石碑が建てられていました。
右側の一里塚跡は、四角柱(鋼製)に一里塚跡が記されていました。
この扱いの差は、敷地などのことが理由としてあるのでしょうが、復元するのなら両方してほしいなと思います。
この一里塚で写真を撮ったりして休憩していると、朝方の四国お遍路組の二人とまた出会いました。
 E=また会いましたね
 男=小学校の裏のお寺(妙日寺)で、トイレと休憩をしていました
 E=トイレがあるのですか
 男=使わせてもらいました
また、一緒に歩くことになり、私とYumiさんは後ろを歩くことにしました。
5分程歩いた辺りからトイレに行きたくなり、地図に載っているTSUTAYAでトイレを借りることにし、四国お遍路組の二人に挨拶して別れました。
09時37分~9時41分、トイレタイム(TSUTAYA)
トイレに行く時は、Yumiさんがザックをトイレの中に忘れないようにするため、私が預かります。
そのため、私は自分のザックを背負ったままYumiさんのザックを片方の肩に掛けてトイレに行くので、トイレに行くのも大変です。
しかし、過去に何度か見ず知らずの女性にトイレの探索をお願いした経験があるため、昨年の後半から一緒の時はどこに行ってもこのようにしています。
トイレを済ませ、また街道に戻り、七ッ森神社を過ぎた処から松並木が始まりました。
09時46分、袋井の松並木(その3)
46 松並木
松並木は約100m続き、その先の新屋交差点で県道(東海道)と合流するのですが、街道は新屋交差点を左折し、約10m程右折(ふとん店の前)するのを間違えて、ふとん店の後ろを右折してしまい、ふとん店の周りを一周することになりました。
09時49分、道標(右側)
49 道標
そして、街道に戻った一つ先の十字路の右角に、常夜灯が建っていました。
09時58分、新屋の秋葉山常夜灯(右側)
52 新屋の秋葉山常夜燈
街道は、この先の袋井市役所の前に出て、道路を横切り市役所総合センターの後ろを周るようにマップは出来ているのですが、市役所が建てた道案内は市役所の前の道路を左折し、袋井市役所南交差点を渡って右折するようになっていました。
私はYさんが作成したマップを優先し、市役所総合センターの後ろを周る道で進みました。
10時05分、袋井宿碑(左側)
55 袋井宿・天橋
 
※袋井宿人形
58 袋井宿人形
袋井市役所総合センター横の道路を渡った左に、袋井宿碑が建っており、碑の右側の橋を渡った右側に東海道ど真ん中茶屋がありました。
10時06分~10時21分、東海道ど真ん中茶屋(右側)=休憩
61
日本橋を出発してから16日目に、中間点の茶屋に到着しました。
この茶屋は初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出茶屋ノ図」をモチーフに建てられた茶屋ですが、茶屋に入るとボランティアの方々が出迎えて下さり、お茶を出したり、写真を撮ってくださったりと、温かく迎えて下さいました。
《ビックリ》
茶屋の人に絵巻物ガイドやチラシを頂きながら、記帳するためにノートを見て”え!!”と声が出てしまいました。
この旧東海道夫婦二人旅で、Yさんのルートマップと同じように道標として活用しているHP「風の吹くまま」の平次隊長、佐武隊員が前日(2月10日)にこの茶屋に来ていたのです。
HPで掛川まで旅してきたことは知っていたのですが、まさか直前に同じ処を旅していたとは思ってもいなかったので、記帳を目にした時は驚くとともに、歩く場所は多少違いますが、同じ東海道を同じ時に歩いていることが分かりとても嬉しくなるとともに、平次隊長と佐武隊員が元気に歩いていることを考えたら「頑張ろう」と元気が蘇ってきました。
二人のエネルギーが、茶屋に残されていたようで、私が貰い受けました。
温かいお茶を頂いてひと休みしたので出発しようと茶屋を出た処で、ボランティアの方が「写真を撮りましょう」と声を掛けて下さいましたので、初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出屋茶屋ノ図」の絵碑の前でお願いしました。
 
※出屋茶屋・絵碑(右側)
64 袋井出茶屋絵碑
袋井宿は街道沿いに史跡や絵碑など、観光客誘致に力を入れていることが、他の自治体を旅して来るととても感じます。
 
※袋井宿・絵図
68 袋井宿・解説絵碑
10時25分、東本陣公園(右側)・袋井宿場公園(左側)
65 袋井宿・東本陣跡
本陣跡に復元された門、少し先の左側に問屋場があった宿場公園が、整備されていました。
10時28分、問屋場跡(左側)
70 問屋場跡
袋井宿場公園を出て、静橋北交差点を渡り、約150m歩いた橋のたもと左側に高札場跡がありました。
10時33分、高札場跡(左側)
72 高札場跡
橋を渡った先の十字路の左角に、葛飾北斎が袋井宿を描いた絵碑が建っていました。
10時40分、北斎絵碑(左側)
74 葛飾北斎絵碑
北斎の絵を堪能した後、袋井中学校北交差点の先に袋井西小学校があり、校門に「東海道どまん中西小学校」の看板が「袋井市立袋井西小学校」の看板と一緒に掲げられていました。
10時45分、東海道どまん中西小学校(左側)
76
袋井市は、寺院、学校、その他で東海道のど真ん中にあることを街全体で活用しているので、思い切って「東海道ど真ん中市」変更したら面白いのではないかと思いました。
10時47分、澤野医院記念館(左側)
78 澤野医院記念館
学校の隣に、江戸時代の末期に開院し、昭和9年に病棟が建築され、江戸末期からの医療建築が見られる澤野医院があり、無料で見学(土・日のみ)できるようになっていました。
建物は白亜の建物で、ひときわ目立っていたので、館の中に入ったのですが、靴を脱着して観ることなく外から写真を撮って先に進みました。
10時50分、寺沢家長屋門(右側)
81 寺沢家長屋門
旅をする前の準備で史跡のチェックで漏れていた、明治元年に建てられた長屋門の家がありました。
旅をしていて目を引く建物でした。
11時01分、木原松橋道標(右側)
84 木原松橋道標
街道は少し先で県道(東海道)に合流し、県道を川井交差点、川井西交差点を通り、左の中古車センター先の分岐を右にに入った先に、日本橋から57番目の一里塚跡があり、碑が建っていました。

11時10分、057木原一里塚跡
 
※右側の跡碑
86 057木原一里塚跡(右側)
 
※左側の跡碑
88 057木原一里塚跡(左側)
木原一里塚は、右側の一里塚跡碑、その約50m先に左側の一里塚碑が建っていました。
右側の一里塚跡碑は、ペイントが剥がれて読める状態ではないので、予備知識がないと見落とすと思います。
しかし、当時はこの右側の標柱の辺りに一理塚があったのを考えると、一里塚碑が分かるように明示してほしいと思いました。
右側の一里塚跡碑に比べ、約50m先の左側にある一里塚跡碑は、塚も復元され、榎が植えられ、周りも綺麗に整備されていました。
一里塚跡から約100m先の右側に許禰神社があり、境内入口左に木原畷古戦場の跡碑がありました。
11時15分、許禰神社(右側)
91 許禰神社
11時16分、木原畷古戦場跡(右側)
92 木原畷古戦場跡
木原畷の戦いは、武田信玄が木原に陣を張り、浜松城の徳川家康の偵察隊と衝突した戦いです。
古戦場の跡碑の横に、徳川家康が腰掛けたという石(一段高い石)がありました。
しかし、石は新しいので、本当に今から400年前の石なのかなと?思い、写真だけ撮って座りませんでした。
11時18分、木原大念仏発祥の地(右側)
95 木原大念仏発祥の地・道標
街道は、この先で県道(東海道)と合流し、袋井市と磐田市の市境となり、袋井宿から見付宿に入りました。
11時25分、磐田市境標柱(左側)
97 磐田市境標柱
磐田市は、サッカーのジュビロ磐田の本拠地ですが、見落としているのか看板などは見えません。
西島交差点を過ぎたところで、Yumiさんに「食べられるところがあったら、お昼にしよう」と話し、辺りを見渡すと手打ちうどんの店が見えたので、道路を横切りその店に向かいました。
《昼食》
11時30分、昼食(三州庵西島店)=右側
98 三州庵西島店
 ※注文した天ぷらうどん

99 てんぷらうどん
昼食で入った店は、手打ちうどんのチェーン店で、天ぷらうどんを注文しました。
《Yumiさんの食事の注文》
Yumiさんにメニューを見せて食べたいものを聞いても、どれにするか決められなくなっているので、私がYumiさんに確認して同じものを二つ注文します。
何故、同じものを注文するかと云うと、違うものを注文するとYumiさんが必ず「私もそれが良かった」と云うからです。
以前は、「だったら云いなよ」と怒ったのですが、最近はそのことが分かっているので、基本的に二人が好きなものを選んでYumiさんに聞くようにしています。
《手打ちうどん》
店内にはまだ誰も入っておらず、開店直後の一番客だったようです。
うどんは関東で食べ慣れているものより細く、麺は手打ち独特のこしの強さを感じることなく、どちらかと云うと「きしめん」を食べているような食感でした。
私は、また食べると聞かれましたら、?というのが食べた感じでした。
昼食を摂り、到着地に向けて再び出発しました。
11時58分、三州庵西島店発
風はビュー、ビュー吹いており、帽子が飛ばされないように耳当てを出したり(耳当てを出すと帽子の押さえになるため)して歩きましたが、太田川に架かる三ケ野橋を渡る時は、帽子を手で押さえながら向かい風との戦いで、Yumiさんも大変そうでした。
12時06分、三ケ野橋
100 強風の三ケ野橋
橋を渡った処で堤防に沿って左折し、直ぐに右側の階段を下りて進んだのですが、堤防が防風の役目となったのか風は少し和らぎました。
 
※古道への道
101 江戸の古道への道
 ※道標・三ケ野(左側)
102 三ケ野道標
そして、堤防を下りて100m程歩くと、三ケ野の松並木がありました。
12時11分、三ケ野松並木(左側)
103 三ケ野松並木
本数は少ないので、枯れないで東海道の面影を残してほしいと願うばかりです。
松並木が終わり、小さな橋を渡ると木々が蔽い茂った、上り坂になりました。
12時14分、明治の道・みどりのトンネル
104 明治の道・緑のトンネル
写真以上に実際は薄暗いので、「夏は涼しいだろうな」と思いながら今日の旅で、初めての坂を上りました。
坂を上りきった左側の三ケ野公会堂の処に、いくつかの碑が建っていました。
12時21分、明治の道道標(左側)
109 明治の道・道標
12時21分、鎌田山薬師道・道標(左側)
110 道標
 ※車井戸之跡(左側)

106 車井戸之跡
江戸時代、坂の上には井戸がなく、坂の下まで水を汲みに行っていたので、鎌田の金剛院が車井戸を掘ることになり、1847年に「従是鎌田山薬師道」の道標が建てられたそうで、時代の経過を感じる道標です。
また、車井戸の碑は、掘られた車井戸の跡に建てられたようです。
住宅や工場が立ち並ぶ中を進んでいると、病院の前に虹のマークの薬局があり、写真を撮ろうかどうか考えているうちに、交通量の多い薬局の前の十字路を渡って、通り過ぎてしまいました。
街道は、十字路を渡った処から下り坂となり、下ったところの養護学校の前に格子戸の家がありました。
12時35分、格子戸の家(右側)
111 格子戸のある家
両側で10本位の松並木を過ぎると国道1号に合流し、その右側の小高い丘の上に「遠州鈴ケ森」の看板が見えたので、Yumiさんには内容を話さすと立ち寄らないと云うので、話さずに立ち寄りました。
12時43分、遠州鈴ヶ森(右側)
113 遠州鈴ケ森跡
江戸時代の処刑場の跡で、日本左衛門の首が晒されたと云われており、国道沿いから階段を上ると小さい碑が建っているだけで、説明板などはありませんでした。
Yumiさんは、ここがどのようなところなのか分からないで、モデルになっています。
さて、国道に戻り少し先のガソリンスタンドの前で、分岐した道を右に進み、富士見町東交差点の手前を渡った左側に、三本松御旅所と書かれた看板が建てられていました。
12時48分、三本松御旅所(左側)
115 三本松御旅所・神輿の休憩所
御旅所は、神輿巡航の時に休憩する場所で、垣根で囲われていました。
Yumiさんに「ここで写真を撮ろう」というと「嫌です」と断られてしまい、撮ったのが上の写真で撮っている間、私の横にいました。
御旅所から約300m先の左側に秋葉山常夜灯、その少し先の坂の手前を右に入った処に、元門と元天神道の道標が建っていました。
12時53分、秋葉山常夜灯(左側)
116 秋葉常夜燈
12時56分、元門と元天神道碑(右側)
117 元門之跡
見付天神につながる道が元天神道で、江戸時代初期は見付天神社への参道でした。この元天神道の入口付近を元門と呼ばれ、見付天神裸祭りの時は、清めの榊が2本立てられるそうです。
街道は、この先から下り坂となり、愛宕神社の裏手にある阿多古山一里塚跡に行く道を探しながら歩いていると、坂を下りきってしまいました。
下ったところで、近くにいた人に聞くと、横の階段を上がったところと云われ階段を上り、愛宕神社の裏の愛宕山に向かいました。
愛宕山といっても小高い丘で、頂上に一里塚跡碑が、そしてその横に国土地理院の愛宕山(標高=31.0m)の三等三角点(写真=Yumiさんの左下)が設置されていました。
13時02分、058阿多古山一里塚跡(左側)
121 阿多古山一里塚
 ※一里塚跡碑・三等三角点

123 一里塚碑と三角点(愛宕山)
 ※愛宕神社
125 愛宕神社
愛宕神社の境内から階段を降り、街道に戻って道路が合流する右側に、木戸口跡がありました。
13時07分、見付宿木戸口跡(右側)

126 木戸口跡
街道は見付宿場通りとなり、中川橋を越えると、右側に見付宿の石柱が建てられていました。
13時17分、東海道見付宿碑(右側)
128 見付宿碑
見付宿碑の前の道路を越えた静岡銀行見付支店の前に、問屋場跡の碑が建っていました。
13時19分、問屋場跡(右側)
129 問屋場跡
問屋場跡先のT字路の信号を渡った道路反対側の予備校の隣りに、見付宿脇本陣跡がありました。
13時20分、見付宿脇本陣跡(左側)
130 見付宿・脇本陣跡
脇本陣跡から真っ直ぐ北井上小路交差点を渡り、直ぐに交差点を右に渡って、左に進んだ右側に本陣跡がありました。
13時22分、見付宿本陣跡(右側)
132 見付宿・本陣跡
本陣跡から最初の路地を左に入った処に、見付宿公園があり、トイレに寄りました。
公園内には、見付宿の顔写真用の人形があったので、
 E=Yumiさん、顔出して
 Y=えー、するの?(と、云いながら顔を出すのですが、顔出しが少ないので)
 E=もっと、前に出して
と云って撮ったのが下の写真です。
13時23分、見付宿公園(右側)
134 見付宿人形
公園の裏に、明治8年に開校した日本最古の木造擬洋風建築の小学校で、明治16年に2階部分が改築され現在の形になっている、旧見付学校がありました。
13時26分、旧見付学校(右側)
135 見付旧学校
入場は無料で、受付に寄ってパンフレットと旧赤松家の案内チラシを受け取り、靴を脱いで草履に履き替え学校の中に入りました。
教室は、明治の頃の机の並び方になっていたので、「Yumiさん、座ったら」と云ったら、何も云わずに座りました。
 ※明治の教室
137 教室
その他に雛飾りや5階の太鼓楼なども見学し、外に出ました。
学校の裏に幕末に開設された磐田文庫がありましたが、立ち寄りませんでした。
玄関のベンチに座り、靴を履いたのですが、ここでYumiさんが手提げ袋を置き忘れました(この時は気が付いていませんが)。
学校に入る階段の下で写真を撮り、次の史跡に向かいました。
公園を抜け見付宿場通りに出て、右折して直ぐの右側に脇本陣跡がありました。
13時42分、見付宿脇本陣・大三河屋門(右側)
145 見付宿・脇本陣(大三河屋門)跡
大三河屋は旅籠でしたが、1805年に脇本陣となりこのような門構えになったそうです。
門は、その後旧中津川家に移築され、平成19年にこの場所に移築復元されたそうです。
《忘れ物》
この史跡から約100m歩いたところで、Yumiさんが持ち歩いていた手提げ袋がないことに気が付き、
 E=Yumiさん、手提げは?
 Y=手提げ?
 E=今日、持って歩いていた黒のバックだよ
 Y=あ、ない
 E=学校で靴を履いた時じゃない?
といい、急いで旧見付学校に戻りました。
学校入口の階段の近くまで来て、靴を履いたベンチを眺めると、黒いバックが見えましたので、
 E=Yumiさん、あったよ
 Y=あー、よかった
 E=取りに行っておいで
と云って、Yumiさんに取りに行ってもらいました。
忘れ物を取って、また同じ見付宿場通りを歩き、姫街道の起点となる交差点に向かいました。
13時55分、姫街道起点(右側)
148 姫街道起点
姫街道は、江戸時代以前の徒歩時代における、主要街道の別ルートの一部に対する呼び名だそうである。
この見付宿からの姫街道も、東海道の脇街道で、浜名湖の北側~本坂峠~御油宿に至る60㎞の街道です。
(写真の右に写っている道路が、姫街道です)
姫街道入口を左折して磐田駅方向に約100m歩いた右側に、木戸跡がありました。
13時58分、木戸跡(右側)
150 木戸跡
磐田駅に一直線に作られた天平(てんぴょう)通りを磐田駅に向かって歩き、磐田南高校を通り越した右側に国分寺があり立ち寄りました。
14時10分、国分寺(右側)
152 国分寺
国分寺を出て天平通りを渡った反対側に、天平年間(728~748)に遠江国司の桜井王が国府の守護として勧請したと伝えられ、境内の建物は江戸時代に建造された由緒ある「府八幡宮」があり、立ち寄りました。
14時13分、府八幡宮(左側)
154 府八幡宮
Yumiさんと拝殿に進み、お賽銭を奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
ところがこの写真を撮った時、デジカメの電池が充電の合図を知らせ始めたので、到着地で写真を撮るまで電池を持たせたいと、撮影を極力減らすことにし、府八幡宮は1枚だけの写真で我慢しました。
府八幡宮から天平通りに戻り旅を続けていると、歩道にサッカーのジュビロ磐田に所属した選手の手形や足形が、サインと一緒に石板で埋め込まれていました。
14時26分、武田修宏さんの足形とサイン(右側)
155 ジュビロ磐田・武田修宏の足形
サッカーは嫌いではないのですが、ジュビロ磐田で知っている選手はほとんどいないので、石板で埋め込まれている選手で知っていたのは、ほんの数人でした。
その中で知っていた、武田選手の石板を撮影しました。
今日の到着地は、武田修宏さんの足形とサインの石板が埋め込まれている1つ先の、東町交差点です。
交差点に表示がないので、地元と思われる方に地図を見せて、間違いないことを確認し、到着式(撮影)を行いました。
14時29分、磐田駅・東町交差点着(到着地)
156 磐田・東町交差点(到着地)
この写真を撮ったところで、電池の容量が無くなり、撮影ができなくなりました。
間一髪のところで、到着地の写真を撮ることができ、助かりました。
電池は昨晩充電しておいたのですが、今日は多くの写真を撮ったのと、新しく購入したばかりで予備電池を持っていなかったので、運良く終わって助かりました。
【帰路】
到着地の東町交差点から磐田駅は、駅前信号を渡った先にあり、思っていたより近く感じました。

13時32分、磐田駅着
事前に購入しておいたジバング切符で入場し、ホームで電車を待ちました。
13時41分、磐田駅発(掛川駅着、14時55分)
磐田駅から掛川駅までは、袋井、愛野の3駅で、車両は3両編成でしたが、前回の島田からの乗車に比べ空いていたので、楽に座ることができました。
私は、掛川駅までの十数分の間、外の景色をぼやーと眺めながら、ここを2日掛けて歩いたのかと、少し感傷気分に浸っていました。
15時03分、掛川駅発(新幹線こだま)
掛川駅で在来線から新幹線への改札を通り、新幹線のホームに行きました。
自由席に乗るためホームを眺めると、既に各ドアとも7~8人の人が並んでいたのて゜、4号車(自由席は1~7、13~15号車)に並びました。
入線して来たこだまの車内を見ると思いのほか混んでいます。
座れるか心配になりましたが、運よく3人掛けの席が空いていたので、座席を確保し、ザックを網棚に上げ、お菓子を食べたり、綺麗に見える富士山を見たりしてのんびり過ごすことができました。
16時06分、JR小田原着
16時11分、小田急・小田原発
16時06分に小田原駅に着き、新幹線から小田急線に乗り換えました。
5分あればと思っていたのですが、JRの改札口を出た後に後ろを見るとYumiさんの姿がありません。
どこ行ったと改札口を見ると、JRの駅員に乗車券が出てこないことを云っているところでした。
私は、小田原までの乗車券なので出てこなくて当然なのですが、今回の旅では必ず改札口で乗車券が出てきたので、今回も出てくるものと思っていたようです。
私は、駅員さんに「出てこなくて良いのです。ご迷惑をかけました」と云ってお詫びし、Yumiさんに「無くてもいいんだよ」と話し、小田急の乗り換えを急ぎました。
パスモを移動の途中で用意させ、改札を過ぎると出発の案内放送があり、Yumiさんを急かせて電車に乗り途中で乗り換えながら、最寄り駅に着きました。
最寄り駅に着く前に、途中で食事を済ませて帰ろうということになり、家の近くでビールで乾杯し、食事をして帰りました。
19時30分、自宅着
【旅の総括】
《新幹線のトイレ》
旅を「磐田駅」近くで終わり、掛川駅まで在来線で移動し、掛川駅から新幹線に乗りました。
新富士駅を過ぎたところで、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」というので、Yumiさんを連れてトイレにいきました。
残念ながら、今のYumiさんは一人で、新幹線のトイレは使えないのです。
まず、女性用のトイレに入って鍵を掛けてもらい、その間に私も小用を済ませ、戸口のところでYumiさんを待っていました。
 E=大丈夫?
 Y=大丈夫
と返事があって扉をあけようとしたら、「どうやって開けるの」といいながら鍵を探している感じです。
扉に付いているマークを見ると赤と青の中間だったので、とっさに青マークになるよう動かすと鍵が外れ、扉が開きました。
本当は、このように開け方が分からなくなることがあるので、鍵を掛けないで私が外で見ていたりするのですが、未施錠だと未使用表示となり人がきてしまいます。
今後、新幹線に乗った時はどうするか、考えたいと思います。
《Yumiさんの頑張り》
今回の旅は、3日間で38.7㎞と40㎞にも満たない旅でしたが、ホテルに2泊したり、3日間歩いたりと、初めてのことがいくつかありました。
今回の旅では、新金谷で蒸気機関車を見ることができたり、きつい上り・下りの小夜の中山越えがあったり、デジカメを壊したり、東海道ど真ん中を通過したり、HP風の吹くままの作者が直前を旅していたり・・・と、いろいろなことがありました。
このようなハプニングが、旅の楽しさであり、思い出だと思います。
Yumiさんは、2日目に足裏が痛いと云いだしたので、洗浄綿やテープ等で足裏の痛い部分を治療し、3日目も痛いのを頑張って歩き通してくれました。
事故に遭うこともなく、風には悩まされましたが、3日間とも天気に恵まれて終わることができました。
今回の旅で、東海道のど真ん中を通過できたことは、今までの積み重ねの結果なので、これからもYumiさんと楽しく旅を続け、認知症でも東海道を完歩して三条大橋に立てることを実証したいと思います。

【次回の旅】
次回は、今回の到着地である磐田・東町交差点 ⇒見付宿 ⇒ 浜松宿 ⇒舞阪宿 ⇒ 新居宿 ⇒ 新居町・駅前信号まで、一泊二日の旅をする予定です。
次回は、天竜川を渡り、浜名湖を眺めながらの旅になりますので、ウナギや餃子など地場産品の美味しいものを食べたいと考えています。
どこか、ご推奨のお店がありましたら、教えて下さい。
お願いします。
なお、値段は年金生活になる懐中で、対応できる処をお願いします。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ
【宿場】(24)金谷宿⇒(25)日坂宿
⇒(26)掛川宿
【行程】歩行距離=16.785㎞ 総距離=232.95㎞

051金谷一里塚⇒(4.352㎞)⇒052小夜中山一里塚⇒(4.355)⇒053伊達方一里塚⇒(4.128㎞)⇒
054葛川一里塚⇒(3.95㎞)⇒西掛川駅入口

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第15回旅の宿場)
10 15回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )

全体 第15回
 第15回の旅のルート
 
(051金谷一里塚跡⇒西掛川駅入口)
第15回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月13日
【旧東海道の旅】
《序章》
2日目の今日は、宿泊した掛川から金谷にJRで移動し、昨日の到着地である(金谷宿)金谷一里塚跡 から (日坂宿)~ (掛川宿)西掛川駅入口までの16.8㎞を歩く旅です。
今日のハイライトは、箱根峠に次いで厳しい道と云われている、日坂宿・小夜の中山峠越えです。
日坂宿には、茶畑はあっても食事処がないと聞いているので、昼食の用意をして出掛けます。

《ホテル》

05時30分、起床
設定していたホテルのモーニングコールで起床しましたが、Yumiさん恒例のトイレ通いで、4時すぎからウトウト状態で朝を迎えました。
洗面所での歯磨きは、歯ブラシが入っている袋を破って使えば良いのですが、Yumiさんはそれがわからないので、私が封を開けて使えるようにする必要があります。
また、化粧品は持参したのですが、洗顔用は持参しなかったので、洗顔はホテルで頂いた液体ソープで洗い、洗顔後の化粧水も頂いたものを使いました。
私は、出張の時に使用していた髭剃りと化粧水を持参していましたので、次回からはYumiさんの洗顔用のクリームを持参しようと思います。
さて、今日は箱根東坂に次いで厳しいと云われている小夜の中山峠越えがあるので、Yumiさんが途中で膝痛を発生しないように、K先生に処方して頂いたシップ薬を両膝の両側と、両足のふくろはぎに貼り、私も両足のふくろはぎに貼りました。
着る物は、下着類と靴下(内側)を替えた以外は同じ物を着ました。
荷物は、今日も同じ部屋に宿泊するので、今日使わない物は置いておくようにし、逆に昨晩コンビニで調達した今日の昼食(おにぎりと豚汁パック)をバックに入れました。
全ての着替えが終わってから、目薬の点眼と血圧測定を行い、ホテル提供の朝食を食べに行きました。
1階のホールに着くと同時に食事解禁となり、バイキング形式の朝食を食べましたが、Yumiさんは何をどうしてよいのか分からないので、私が自分のものとYumiさんのものを取ってあげました。
旅を積み重ねているうちに、認知症の症状が進んでいることが分かるようになっています。
残念ですが、現実ですから致し方ありません。
京都まで頑張ってねの心境です。
また、ホテルが提供する食事は、食材の種類は少ないのですが、贅沢を云わなければこれで十分かなと思います。
食事を終わり、部屋に戻ってトイレを済ませ、ひと息ついてからホテルを出発しました。

07時35分、ホテル発

ホテルの中は、温かく小春日和でしたが、一歩外に足を踏み出すと、冷たい風に思わず「おー!!寒い」の一声。
マフラーを首に巻き寒風の中、掛川駅に向かいました。
07時52分、掛川駅発
08時06分、金谷駅着
掛川駅から在来線で金谷駅に移動し、昨日の到着地である金谷一里塚跡に向かいました。
【=旅=】

08時12分、051金谷一里塚跡(出発地)=右側
金谷一里塚跡で、最初に昨日の到着式(看板を持って撮影)を行い、続いて今日の出発式を行いました。
01 金谷一里塚(出発地)
街道は一里塚跡の付近は、上り坂になっており、ガードを潜って金谷駅の裏側を道なりに上ると不動橋があり、坂はここから一段と上りがきつくなり約180m歩くと国道473号線に出るのですが、この上り道が金谷坂です。
国道に出て道路を渡った左側に石畳入口の看板があり、それに沿って右折すると石畳道が見えてきました。
08時17分、東海道石畳入口(右側)
03 東海道石畳入口
金谷坂石畳(上り坂)は、平成3年に地元の有志が一人一石運動で、71,000個の石を使い430mを復元したもので、一つ一つの石に思いが込められているのですが、見るのは良いのですが、歩くのは大変です。
08時20分、金谷宿石畳上り口
05 金谷坂石畳入口
石畳に入ると直ぐの右に「金谷宿お休み処石畳茶屋」がありましたが、時間が早くまだ閉まっていましたので、写真だけ撮って先に進みました。
08時21分、石畳茶屋(右側)

07 石畳茶屋
ここで夫婦2人連れと出会いましたが、撮影を申し出たら断られ何となく話しづらくなり、会話を交わすことなく石畳坂の上り頂上の芭蕉句碑のところで別れ、夫婦は先に歩いて行きました。
 
金谷上り坂石畳(石畳茶屋の先)
08 金谷坂石畳
旅紀行を少し戻して、石畳茶屋から約210m石畳道を上ると右側に石畳六角地蔵堂があり、すべらず地蔵尊が祀られていました。
08時28分~08時33分、すべらず地蔵尊(右側)=休憩
09 すべらず地蔵尊
すべらず地蔵尊は、人の足元を守ってきた「滑らない山石」に「すべらず」、「ころばず」進むようにと、多くの受験生、商売繁盛の願掛け参拝者が来ているとのことですが、今日は1組の夫婦だけでした。
歩きづらい石畳の上り坂を歩いてきて少し汗ばんできたので、私がインナーダウンとフリース、Yumiさんがインナーダウンを脱いで、衣服調整をするとともに小休憩しました。
石畳の上り坂はこの先約210m続き車の通る道に出て、平坦な舗装道路になりました。
08時37分、金谷上り坂・出口からの眺め
10 金谷坂頂上からの石畳
金谷坂石畳が終わっり(頂上)アスファルト舗装になった道を左に約30m歩くと、右側に芭蕉の句碑が建っていました。
08時38分、芭蕉句碑(右側)

11 芭蕉句碑
 芭蕉句碑
13 芭蕉句碑・解説
句碑のところでUターンして約350m真っ直ぐ進むと、右側に「諏訪原城址跡」の案内看板があり見に行きました。
08時49分、諏訪原城址跡(右側)
14 諏訪原城址跡碑
諏訪原城は武田勝頼が徳川家康と戦うために馬場信房に作らせた城で、国指定史跡になっています。
全体を見る時間がないので、諏訪神社に参拝し、空堀跡、大手口跡など、街道から近いところだけ見て失礼しました。
08時51分、諏訪神社・本殿(右側)

16 諏訪神社・拝殿
08時53分、大手口跡
17 諏訪原城址
諏訪原城址を見た後、街道に戻り約130m歩くと県道と交差し、県道を横切ると菊川坂石畳(下り坂)の入口になっていました。
08時57分、菊川坂石畳入口(下り坂)
18 菊川坂石畳入口
菊川坂石畳は、金谷坂石畳と同様に平成13年に有志の力で、611mの石畳の道ができたそうです。
石畳の道は、上り坂以上に下り坂は歩きづらく、足を滑らせて捻挫しないように注意して歩きました。
 菊川坂下り石畳
20 菊川坂石畳・下り坂
途中で前日見た粟ケ岳の「茶」文字がさらに大きく見えるようになり、「Yumiさん「茶」の字が見えるよ」と声を掛けましたが、返ってきたのは生返事の「そう」だけでした。
 
粟ケ岳の茶文字(その1)
22 粟ケ岳の茶文字
菊川坂の案内看板のある十字路、車の通る十字路を過ぎた先に、道の真ん中に杭が建てられ有志が作った菊川坂石畳(611m)が終了しました。
09時11分、菊川坂石畳出口
23 菊川坂石畳
そして、その先の161mの石畳が、県指定遺跡になっている「江戸時代後期の石畳」で、石畳の終わった処の左側に、菊川辻の道標が建っていました。
09時13分、菊川辻の道標(左側)
24 菊川辻の道標
道標の先に流れている菊川に架かる高麗橋を渡り、約220m歩いた右側に間の宿菊川の里会館がありましたが、開店前で扉が閉まっていたので立ち寄れませんでしたので、トイレだけ使わせて頂きました。
09時19分~09時24分、間の宿菊川の里(右側)=休憩

27 間の宿・菊川の里
 宗行卿詩碑・日野俊甚歌碑(右側)
26 宗行卿詩碑
間の宿菊川の里会館から約100m先の四群橋を渡った所を左折し、道路を横切り15段ほどの階段を上った処から、標高差155m、1.2㎞の箭置(ヤオキ)坂の上りで、小夜の中山越えが始まりました。
右側の上り道を上って、夫婦二人旅の時に写真を撮った場所とほぼ同じ場所で、
09時27分、箭置坂(上り坂)発=上って来る方向を向いて
29 箭置坂の上り
私達の前も後ろも街道ウォーカを含めて誰も歩いていません。
天気はピーカン照りの快晴で、勾配のきつい坂道を上っていると自然と温かくなり、Yumiさんが着ていた厚手のチョッキを脱いで衣服調整をしました。
※①=箭置坂(上り坂):小夜の中山=これから上る方向を向いて
027 小夜の中山
と、再訪の時、撮る方向を変えて写真を撮りました。
箭置坂を上り始めて約700m歩くと、右側に日坂宿・菊川宿の里分岐の標識が建っていました。
09時43分、日坂宿・菊川の里分岐の標識(右側)

31 菊川の里・日原宿分岐の標識
標識から約100m歩くと右側に中継機場があり、ここを通り過ぎると、一段と勾配がきつくなってきました。
左に茶畑だけが見える坂道で、景色を見る楽しみがない分、上りの辛さだけが残ります。
 ※小夜の中山の眺め
30 箭置坂からの眺め(茶畑)
Yumiさんに「もう少しだよ、頑張れ」と励ましながら歩いていると、進行方向からエンジン音が聞こえてきたので、何をしているのだろうと思いながら約450m歩くと、峠の頂上にある久延寺に到着し、小夜の中山越えの半分(上り)が終わりました。
山歩きでこの程度の坂道は常に歩いているのですが、やはり上り坂は疲れます。
09時50分、久延寺(右側)
33 久延寺
久延寺は、伝説・夜泣き石物語の石、山内一豊が徳川家康を接待した茶亭跡、家康手植えの五葉松が有名な寺院だそうです。
 夜泣き石伝説の石
35 小夜の中山・夜泣き石
 茶亭跡
38 茶亭跡
久延寺の境内に建っていた史跡を記録に残し、山門を出て道路の反対側の空き地で、エンジンが沢山並べられエンジンが音が響いていました。
 E=エンジンの修理をしているのですか?
 男=農機械のエンジンを掛けて、楽しんでいるのです
着ているつなぎ服の背中を見ると、「・・・・・楽しむ会」と書かれていました。
農機械を使う地域ならではの趣味で、この場所なら周囲に気兼ねすることなく、思い切ってエンジンを掛けて楽しむことができるようです。
 農機械のエンジン音を楽しむ会

41 農機械エンジンを楽しむ会
そして、久延寺の隣に子育て飴で有名な「扇屋」がありました。
09時56分~10時10分、扇屋(右側)=休憩
42 扇屋
扇屋は江戸時代創業の峠の茶屋で、夜泣き石伝説にちなんだ子育て飴(砂糖を使わずに麦芽だけで作られた琥珀色の水飴)を食べたいと思っていたのですが、店が閉まっていました。
扉のところに「土・日・祝だけ10時ごろに開店」と書かれていたので、店の前の縁台に座って待つことにしました。
ところが10時を過ぎても開店しないので、農機械エンジンを動かしている人に尋ねると、「掛川から来るので遅れているようですね」とのことでした。
もう少し待ってみようと思い、その間に斜め前方(左側)に建っている「西行法師の歌碑」を見に行きました。
10時07分、西行法師の歌碑(左側)
44 西行歌碑
歌碑から扇屋に戻ってきましたが、いつ来るか分からない状態で待っていることもできないので、またの機会にしようと思い扇屋を出発しました。
10時10分、扇屋発
扇屋を過ぎると街道は緩やかな下り坂になり、右斜め前方を見ると粟ケ岳の「茶」文字がさらに大きく見えました。
 粟ケ岳の「茶」文字(その2)=右斜め前方
46 粟ケ岳・茶文字
扇屋から約250m歩くと三叉路があり、左角に日本橋から52番目の一里塚跡があり標柱が建っていました。
10時14分、052佐夜鹿一里塚跡(左側)
一里塚跡には小さな塚があり、その前に石碑が建っていました。
47 佐夜鹿一里塚
一里塚跡から130m歩くと左側に神明神社があり、さらに約130m先の左側に鎧塚があり、街道から少し上った所に塚碑が建っていました。
10時21分、鎧塚(左側)
51 鎧塚
街道はほぼ一直線の下り坂で、周囲は茶畑です。
鎧塚から約450m歩くと、右側に小さなお社だけが祀られた白山神社があったので、Yumiさんと一緒にお賽銭を奉納して参拝しました。
10時29分、白山神社(右側)

54 白山神社
参拝を終わり歩いてきた方を見ると、一人の女性が歩いてくるのが見えました。
女性の歩きは早く、白山神社から約300m先の涼み松・芭蕉句碑で写真を撮っていると、追いついて一緒になりました。
 E=今日は、どちらまで
 女=掛川まで歩きます
 E=金谷からですか?
 女=そうです
 E=じゃあ、一緒ですね
   ところで、扇屋は開店してましたか?
 女=いえ、開いていませんでしたよ
 E=そうですか。私達も少し待っていたのですが
などの会話をしながら少しの間、一緒に歩きました
10時38分、涼み松碑・芭蕉句碑(左側)
56 涼み松
涼み松で写真を撮ろうとすると、女性が「撮りますよ」と声を掛けて下さいましたので、お言葉に甘え二人の写真を撮ってもらいました。
女性は、そのまま先に歩かれて行き、私とYumiさんは芭蕉句碑を見てから出発しました。
 芭蕉句碑(左側)
59 芭蕉句碑
句碑から約450m歩くと左側に夜泣き石碑があり、さらに約10m先の右側に広重絵碑が建っていました。
10時44分、夜泣き石碑(左側)
61 夜泣き石碑
夜泣き石は、街道の真ん中にあったのですが、明治元年に明治天皇御東上の時に街道脇に移されたそうです。
10時47分、広重絵碑(右側)
63 広重絵碑
絵碑は、建っている辺りで、安藤広重が「東海道五十三次・日坂」を描いたことを記すために建てられたようです。
この付近の下り坂の傾斜は緩やかで、箱根峠から三島に下る箱根西坂を思い出しながら歩いていると、茶畑で茶の木の上を二人の男の人が電動剪定機持って茶の木の先端部分を刈っているところに遭遇しました。
 茶の木の剪定作業(右側)
66 茶の育成
 E=今されているのは、何のための作業なんですか?
 男=新芽の伸びを揃えるためだよ
 E=そうですか
私は、茶畑に沢山の柱上の回転扇が設置されているのを見て、Yumiさんと「送風のためかな」、「充電のためかな」などと回転扇の使い道について話しながら歩いてきたので、
 鉄柱の回転扇(白丸)
67 茶の育成・霜除け扇
 E=柱に付いている回転扇は、何に使うのですか
 男=霜除けです。
   茶の木に霜が付くと芽がダメになってしまうので、温度が2~3℃になると自動的に回転して
   、霜が付かないようにしているんですよ
と教えて下さいました。
東海道を歩くようになって、いろいろな物を見たり、聞いたりして新しい知識が増えてきましたが、Yumiさんは残念ながら、歩いた所の部分が少し記憶に残っている程度のようです。
街道は、約250m歩いた左側にある稲荷大明神を過ぎた先から、急坂が始まりました。
10時56分、小夜の中山の急坂
68 二の曲りの急坂
写真では坂の傾斜が分かりませんが、かなりの急こう配です。
坂は、一度緩やかになった後、沓掛付近でさらに急こう配となり、二の曲がり付近では車は上れない傾斜角度(先人のHPには28.5度と書かれていました)です。
Yumiさんの膝痛は、下り坂でいつも発生するので、「足、大丈夫?」と状態を聞きながらの下りとなりましたが、K先生に処方して頂いたシップ薬の効能は抜群で、Yumiさんは膝痛を起こすことなく下り切ることができました。
下り坂を下っていると、二の曲がり急下りの終わる直前の左側に、絵碑が建っていました。
11時05分、広重絵碑(左側)
71 日坂の絵碑
ここで夫婦二人連れと会いましたが、お互いに声を掛けることなく二人連れは先に歩いて行きました。
絵碑を過ぎたところで、二の曲り坂を上って行こうとする車に状況を聞かれたので、「車は上れないですよ。バックして下りてくるようになると思います」と伝えると信用しなかったようで、横道から来た農器具運搬車に乗った老夫婦に、同じように聞いていましたが、どのような会話をしたのか分かりません。
そして、日坂バイパスの下を潜ったところで、この老夫婦の車が走ってきて、
 夫=どこまで行くの
 E=今日は掛川まで行きます
 夫=そうかい。気を付けていきなはれ
 E=ありがとうございます。先ほどの車は、どうされましたか?
 夫=あの坂は車では上れねえ、やめとけといったよ
 E=そうですよね。元気に過ごして下さい
 夫=ありがとう
と和やかな会話をして別れました。
県道を渡ると、江戸から25番目の宿場であった日坂宿です。
宿に入って間もなく秋葉常夜燈があり、その少し先の右側に本陣跡と記した門が建っていました。
11時10分、日坂本陣跡(扇屋片岡家)=右側
74 日坂本陣跡
本陣跡には、立派な門が建っていて、ここから日坂宿の街並みが始まりました。
そして、本陣から5軒先の右側に問屋場跡があり、標板が建てられていました。
11時11分、問屋場跡(右側)
77 問屋場跡
問屋場跡の3軒先が旅籠・池田家。
11時12分、旅籠・池田家(右側)
78 日坂宿・池田屋
池田家のところで写真を撮っていると、昨日の夜、居酒屋「甚八・駅前店」で、Yumiさんの隣に座って歴史資料のコピーを読みながら一人で一杯飲んでいた男性と出会いました。
 E=あれ、昨晩の方では?
 男=あー、・・・を注文した方ですか
 E=そうです
二言、三言の会話で別れましたが、まったくの偶然でした。
男の人は資料コピーを持って調べているようで、自転車に乗って別の処に行かれました。
私達は先に進むと、池田家の隣に脇本陣だった黒田屋がありました。
11時14分、脇本陣・黒田屋(右側)
80 黒田屋脇本陣跡
※①=かえで屋(手前)と藤文(奥)=右側
046 日坂宿・商家
11時18分、藤文(右側)

82 藤文
045 藤文・解説
日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七の自宅で(藤文は屋号)、大切に保存されていたので店の中を見学したまでは良かったのですが、庶民の旅籠だった萬屋の写真を撮った直後にハプニングが発生しました。
11時20分、旅籠・萬屋(右側)

85 万屋
042 萬屋・解説
《ハプニング発生=デジカメを破損》
藤文を出て、4軒先の萬屋に向かう時にデジカメを路上に落としてしまい、壊れてしまいました。
私が地図等の資料を整理するために、Yumiさんにデジカメを預けたのですが、Yumiさんが持ち替えようとした時に落としてしまったようで、「ばか」と少し怒りましたが、壊れたものは元にもどらないので、しょうがないと諦め先に進みました。
***この先、掛川七曲りまで歩き旅では写真が撮れなくなり、再訪で撮りました***
萬屋は、江戸時代に建てられた素泊まりの旅籠で、岡部宿の大旅籠柏屋に立ち寄った時に、案内をして下さった方から見ることを奨められた旅籠でしたが、デジカメを破損した直後だったので、ゆっくり見る気分になれませんでした。
11時25分~11時30分、旅籠・川坂屋(左側)
037 川坂屋
江戸時代の面影を遺す建物で、室内に入ることができたのですが、デジカメ破損のショックから立ち直れないでいたことと、靴を脱ぐのが嫌だった(実は靴下が擦り切れていたのです)ので、外からだけ見学しました。
また、敷地内に茶室が復元されているとのことでしたので、裏庭に行って見せて頂きました。
帰りに茶と歴史の里日坂のスタンプを宿場図に押印して、旅籠川坂屋を後にしました。
11時31分、高札場跡(右側)
川坂屋を出て坂を下る途中の右側に高札場跡がありました。
031 高札場跡
高札場跡を過ぎると古宮橋が架かっており、橋のたもとに下木戸跡があり、碑が建っていました。
 ※①=下木戸跡(右側)
034 下木戸跡
相伝寺の山門入口手前に、天保10年(1839)に建てられた秋葉常夜燈が残っていました。
場所は高札場の近くだったように記憶しています(間違っていたらごめんなさい)。
 ※①=秋葉常夜燈(右側)
047 秋葉常夜燈
常夜燈から約100m先の左側に、三河屋と屋号が記された看板が掲げられた民家の前に碑が建っていました
 ※①=書家・成瀬大域出生の地碑(左側)
052 成瀬大域出生の地
書家の碑の直ぐ先に右側へ行く道があり、その分岐付近に若宮神社の祠がありました。
 ※①=若宮神社(右側)
055 若宮神社・秋葉常夜燈
若宮神社はお社の後ろの山頂に祀られているので、そこまで行かなくてもお参りできるように造られたお社のように思います。
また、お社の横には、先ほどの秋葉常夜燈と同時期に建てられた秋葉常夜燈がありました。
そして、秋葉常夜燈から約100m歩くと国道1号に合流し、道路を渡った左側に事任八幡宮があり、歩道橋を渡って行きました。
 ※①=日坂宿近辺のお祭りでした

030 日坂宿・祭の山車
11時38分、事任八幡宮(左側)
 ※①=事任八幡宮・参道
058 事任八幡宮・参道
言の葉で事を取り結ぶ己等乃麻知媛命など4神を祀っており、境内には夫婦杉がありました。
 ※①=夫婦杉
059 夫婦杉
多くの人が木に触ったり、書かれていた通りに木の周りを回ったりしていましたが、私は迷信じみたことは嫌いなので、Yumiさんと拝殿に行きお賽銭をご奉納して手を合わせ参拝しました。
 ※①=事任八幡宮・本殿

066 事任八幡宮・本殿
 ※①=大クスノキ
063 大クスノキ
参拝を終わり昼食の場所を何処にしようか探していると風が強く吹き始めてきたので、風除けが出来る場所を探しましたが適当な場所がありません。
そのため、境内外のトイレに立ち寄ってから、食べる場所を探しながら旅を続けました。
すると八幡宮から約70m先の県道沿いの左側にベンチが置いてあり、食べる場所には良いかなと考え、そこに荷物を下しました。
【昼食】
11時50分~12時04分、昼食
今日の昼食は、おにぎり(私=3個、Yumiさん=2個)と豚汁です。
豚汁カップが風に飛ばされないように、手で押さえながら持参したテルモスのお湯を注ぎ、おにぎりと一緒に食べました。
ボトルのお湯は、朝ホテルのポットで沸かしたお湯を入れてきたので、かなり熱い状態でした。
おにぎりは、簡単にカバーを取ることが出来るように出来ているのですが、Yumiは取り外すことができません。
そのため、私がすぐにカバーを外せる状態にしてYumiさんに渡すのですが、世話の焼ける・・・です。
食事なので、ゆっくり寛ぎながな食べたいのですが、風がビュービュー吹いているので、15分程で出発することにしました。

ここからしばらくは、史跡のほとんどない、車道沿いの歩きになりました。
県道に沿って(右側)岩瀬コンクリート、(左側)みどり茶屋、(左側)ガソリンスタンドと、約900m歩くと国道1号掛川バイパスの八坂ICの交差点があり、1号掛川バイパスを横切り1号線に入ります。
1号線を約180m歩いた左側に塩井神社があり、ここで街道は1号線から別れて左側に進み、約450m歩くと左側に大頭龍神社がある交差点となり、その右角に日本橋から53番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。

12時20分、053伊達方一里塚(右側) ※①
069 伊達方一里塚跡
歩き旅の時は、ここで父親と娘の二人連れに会いましたが、ここでも言葉を交わすことなく、二人連れは先に歩いて行きました。
私とYumiさんは、デジカメが壊れてしまったため、一里塚跡碑で写真を撮ることなく、ただ眺めるだけで通りすぎました。
デジカメがある時と、ない時の違いを感じるのと、旅の記念にはデジカメが必要と考え、掛川に着いたらカメラ店を教えてもらいデジカメを買うことにしようと思い、これからの道中で探していこうと思いました。
さて、旅ですが、一里塚跡碑から約180m先の1号線に合流する手前(右)に、道標がありました。
12時25分、慶雲寺道道標(右側) ※①
071 慶雲寺道道標
街道は、道標の先で国道1号と合流し約120m歩くとまた左に分岐しますが、国道1号と分岐する少し手前に日本橋から224㎞の距離標が建っていました。
 ※①=224㎞距離標(左側)
072 224㎞ポイント
国道1号と分岐した街道は、約200mもするとまた合流と、合流と分岐を繰り返しながら進みます。
12時40分、225㎞距離標(左側)
12時52分、226㎞距離標(左側)
と、何もない1号線を、強風に帽子が飛ばないように押さえながらこの区間は、時速5㎞と少しハイペースで歩いてしまいました。
226㎞距離標を越した左側に榛葉食堂があり、たこ焼きが売っていたので、「Yumiさん、食べる?」と聞きましたが、昼食後一時間も経過していないのか「ううーん」と生返事でしたので、「この先で何かおやつでも買おう」と云うと、元気な声で「そうね」と返ってきたので、そのまま通り過ぎました。
旅は、国道1号の本村橋交差点で、左に分岐して約600m歩くと左側に伊達医院があり、その手前の十字路を右折して旧東海道を離れて国道1号沿いにあるセブンイレブンに向かいました。
セブンイレブンに行った理由は、①おやつを買うこと、②家電量販店の場所を聞くためでした。
13時10分、セブンイレブン掛川成瀬店(左側)
 E=デジカメを買いたいのですが、近くに売っているところはありませんか?
 店=この近くには家電量販店はありません
 E=旧道沿いは、どうですか
 店=ないですね
との回答に、おやつにシュークリームを買って店を出ました。
がっかりしながら旧東海道に戻り、また旅を続けました。
ところが、国道1号沿いのセブンイレブンに行ったことで、史跡の道標を見過ごすしてしまいました。
本来は、国道1号の本村橋交差点で左に分岐し、約810m歩くと左側にJA掛川市西山口支所があり、その支所の前に道標が建っています。
 ※①=大頭龍権現道標・福天権現道標(左側)
074 道標
道標を過ぎ街道を約500m歩くと右斜め前に「金の豚掛川店」のある交差点なり、交差点を真っ直ぐに渡って約30m歩くと橋の親柱が馬の顔形になっている馬喰橋が架かっていました。
13時24分、馬喰橋 ※①=馬喰橋の馬顔の親柱(左側)
077 馬喰橋(馬顏親柱)
そして馬喰橋を渡った左側の橋のたもとに、日本橋から54番目の一里塚跡があり碑が建っていました。
13時25分、054葛川一里塚跡(左側) ※①
079 葛川一里塚跡
葛川一里塚は、江戸時代は隣りの増田村にあり、榎ではなく松が植えられていたそうである。
一里塚跡から約400m歩くと、掛川の七曲りの入口に着きました。
曲がる角が7ケ所あることから名付けられ、街道ウォーカも良く間違えるところであると記しされていたので、資料を整えてきました。
13時31分、掛川七曲り入口 
※①=七曲り
最初は、角皆染物店前の三叉路の一番左を進みます


081 掛川七曲り・入口
①進学予備校の前を右折
083 掛川七曲り①
②秋葉常夜燈(写真:車の左側)の前を左折
085 掛川七曲り②
③T字路を右折(角から2軒目右にそねめんがある)
087 掛川七曲り③
④左の割烹・魚林の前を右折
088 掛川七曲り④
右に七曲りの案内看板が建っている
089 掛川七曲り・標識
 ※七曲り解説標板(右側)
090掛川七曲り標識
⑤七曲り標板の先の十字路を塩沢機械店に沿って左折
093 掛川七曲り⑤
⑥最初の十字路(真向い左にディリーヤマザキ)を右折
094 掛川七曲り⑥
⑦桂花園(真向い左)の前の十字路を左折
095 掛川七曲り⑦
と、間違えることなく歩きました。
13時42分、掛川七曲り出口(カメラ店に立ち寄った時間も含む)
《デジカメの購入》
掛川七曲りの出口手前でカメラ店があったので、立ち寄りました。
デジカメを落として壊してしまったことを話すと、店では売っていないけどFカメラならあると、場所を教えて下さいました。
場所は掛川城大手門の前とのことなので、急いでカメラ店に向かいました。
 E=(壊れたデジカメを見せ)落として壊れてしまいましたので、新しいデジカメを購入したい
 店=壊れてますね
 E=この店は七曲り出口近くのカメラ屋さんで、紹介して頂きました。
   何か機会がありましたら、購入したことをお伝え頂けると助かります
 店=(店舗の位置を確認し)あー、あの店は、私どもの親戚です
 E=あー、そうですか
と、云いながら、いくつかのデジカメを見せて下さいました。
私は、壊れたデジカメが気に入っていたので、同じメーカーにしたいと思ったのですが、今使っている電池が使えないことや、値段が少し高かいと云う理由で、店主が奨める安い方のニコンを買うことにしました。
私は、充電しないと使えないかなと思っていたら、少しは使えるとのことでしたので、店主に初期設定をお願いして、すぐ使えるようにして頂きました。
デジカメを購入したことで、気掛かりなことが一つ無くなり、気分的に楽になりました。
《再出発》
早速、店の前の掛川城・大手門の前で、テストを兼ねて撮りました。
14時03分、掛川城・大手門(右側)
86 掛川城大手門
撮った感じはそれほど悪くないので、これから活用しようと思います。
さて、旅を続けようと街道にもどると、交差点の角に白い壁の古風的建築の掛川信用金庫があり、記録に残しました。
14時05分、掛川信用金庫(右側)
88 掛川信金
連雀西交差点の次の中町交差点の角に、お城をモチーフにしたような清水銀行がありました。
14時09分、清水銀行(右側)
90 清水銀行
街道は、中町交差点から南西郷~十九首と約750m歩くと、十九首には平将門以下19人の首塚があるとのことで立ち寄ろうと、街道を歩きながら探したのですが分からず、首塚なので見学しなくても良いかとそのまま通りすぎました。
十九首から逆川を渡った先で国道1号に合流する二瀬川交差点があり、交差点の左角に日本橋から230㎞の距離標が建っていました。
14時27分、230㎞距離標(左側)
92 230㎞ポイント標識
南からの強風を正面から受けながら、1号線を約550m歩き大池橋を渡ったところの大池橋交差点の左角に秋葉街道入口の道標が建っていました。
14時35分、秋葉街道起点標板(左側)
93 秋葉街道起点標
橋を渡ったところで街道は左折するのですが、正面を見ると家電量販店のケーズデンキの赤い看板が見えました。
値段はケーズデンキの方が安いのでしょうが、自然の流れの中での対応でしたので、特に高い買い物をしたという思いはしませんでした。
大池橋交差点を左折して県道を真っ直ぐ進むと、信号のある交差点を渡ってガードを潜ったところに今日の到着である天竜浜名湖線の西掛川駅入口がありました(大池橋交差点から約450mです)。
14時45分、西掛川駅入口着(到着地)
96 西掛川駅入口(到着地)
【移動】

西掛川駅は、天竜浜名湖線の駅で、ホームは階段を20~30段くらい登った上にあり、待合い所はありますが無人駅でトイレはありません。
そのため、トイレは、駅前にある公園の公衆トイレを使うことになります。
また、電車は1時間に1本の運行(朝・夕は2~3本)で、1両編成という本当のローカル線です。
 ホームと天浜線

99 西掛川駅・天浜線電車
西掛川駅を到着地にしたのは、翌日の歩く距離との兼ね合いからですが、このようにな機会でないと乗れない電車なので、自分ながら良い計画になったと自画自賛する思いでしたた。
さて、乗る電車は15時34分発で、約50分待つことになるため、Yumiさんを連れて駅前の公園に行きトイレを済ませてから駅の待合い所に行きました。
駅の待合い所には2人の先客がいましたが、10分後に来た浜名湖方面に行く電車に乗っていきました。
ベンチに座って電車を待っていると、少しづつ人が増え、電車が来る少し前に若い男女が10人くらい来たので、賑やかになりました。
15時34分、西掛川駅発

101 西掛川駅標
定刻通りに来た電車は、ワンマンバスと同じで、後部から券を受け取って乗り、前部で支払って降りる形式でした。
座席は、車両の前後がベンチ形式、後はボックス席になっており、乗車率は約30%でした。
私とYumiさんは、ボックス席の空いている席に座り掛川駅までの2駅ですが、ローカル線を味わうことができました。
15時39分、掛川駅着
15時46分、ホテル着
ホテルは、昨日に引き続き掛川駅南口の東横INNに泊まり、部屋も同じでした。

【夕食】
部屋に入り、ひと休みする前に、明日使う地図などの資料および下着類の準備、ザックの荷造り等を行いました。
また、昼の目薬の点眼を忘れていたので、急いで点眼(一日3回の2回目)をしました。
17時30分頃、ホテルを出て食事に行きました。
昨日は、居酒屋に行ったので、今日は食事を主にしようと考え、掛川駅構内にある食事処に入りました。
扉を開けて中に入ると、女性ウェータが指示した席に座って、注文取りに来るのを待っていたのですが、待てどもフンでもなければスンでもないので、そのまま何も云わずに店を出ました。
何処にしようかと考え、ホテルでもらったチラシに書いてあった店に行ってみようと決め、その店に向かいました。
《キッチン大衆》
その店は駅の近くにある「キッチン大衆」という店で、女将さんが一人で切り盛りしていました。
店には、先客が1人おり、私達が二番目の客でした。
まずビール(瓶ビールのみ)を注文し、女将さんが奨めた牛筋を注文し、Yumiさんにはてんぷら定食+おでんを注文しました。
その他に単品を幾つかを注文し、最後に焼きそばを頼みました。
Yumiさんは生ビールを全部飲み、お茶を出してもらい、私はビールの他に焼酎を飲み、満腹感を感じて帰りました。
この店は、この場所で長年営業しているため、いろいろな話しを聞かせて頂きました。
家族的な雰囲気の中、和やかなひと時をすごすことができ、帰りには女将さんがYumiさんを抱きしめて何か話していました。
また、掛川に来た時は、立ち寄りたいと思います。
結果論ですが、最初に入った店で食べなくて良かったと思いました。
ほろ酔いで外にでましたが、途中の寒さで、ホテルに戻るころにはほろ酔いは無くなっていました。
部屋に戻り、夜の点眼(2種)、シャワー、血圧測定など、日々行わなければならないことを全て行い、翌日のモーニングコールの予約をしてベッドに入りました。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ
【宿場】(23)島田宿⇒(24)金谷宿
【行程】歩行距離=5.47㎞ 総距離=216.16㎞

島田・本通り2丁目交差点⇒(5.47㎞)⇒051金谷一里塚

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第14回旅の宿場)
09 14回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体 第14回
 第14回の旅のルート
 
(島田駅本通り2丁目交差点⇒051金谷一里塚跡)
第14回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月13日

【旧東海道の旅】

《序章》
今回の旅は、3連休を利用して3日間歩くことにしました。
初日の今日は、大井川を渡って金谷までの約6㎞と少なくし、残りの時間は掛川に移動してレンタサイクルを借り、掛川城を観光することにしました。
Yumiさんが認知症を発症してからは蓼科の山荘を除いて、旅館やホテルに2泊する旅行をしたことがないので、体力的にどうなのか、病気は大丈夫かと不安なことが多々ありますが決行することにしました。
《準備》

今回は同じホテル(東横イン・掛川新幹線南口)に二泊するので、ホテルで1回洗濯することにして着替えの持ち物を少なくし、洗濯物を干す携帯用ハンガー(靴下と下着用)を持参し、残りはホテルのハンガーで対応することにしました。
また、2日目の金谷宿~小夜中山~日坂宿は、コンビニや食事をする店舗がないようなので、山行の時と同じように昼食を持参する必要があり、お湯を入れるテルモスを持参することにし、その他の荷物は前回と同じ物を準備しました。
《移動》
4時30分、起床
目覚ましの音楽で目覚め、身支度を整えながらYumiさんの両足の膝の両側に、認知症の主治医に処方して頂いたシップ薬を貼りました。
これは、明日の小夜の中山越えを考えて山歩きウォーキングで試した結果、効果があると思えたので今日から貼ることにしました。
着替えを終え、朝食、トイレなどを済ませ準備万端(この時は高度計をしていないことに気が付いていません)整えて家を出発し、まだ氷点下の厳しい寒さの中、自転車で最寄り駅に向かいました。
〔忘れもの〕
準備万端整えて家を出発したと思っていたのですが、最寄り駅に着くと山歩き用に購入し、毎回使用している高度計時計を手首にはめていないことに気が付きました。
Yumiさんは「私の時計を使えばと」優しく云ってくれましたが、3日間のことを考えると時計は必要と判断し、急いで往復すればなんとか間に合うだろうと思い、Yumiさんに「家に帰ってくるから、お父さんが戻るまてでここを動かないでね」と話し、Yumiさんがこの場所から動かないことを心に念じながら家に戻りました。
家に戻り、忘れた高度計時計を取って全速力で自転車を走らせて駅に戻ると、Yumiさんは私に云われたとおり動くことなく同じ場所で待っていてくれたので、まずはひと安心しました。
さて、電車ですが、改札を入ったところで乗る予定にしていた電車は発車してしまい、予定していた新幹線には間に合わなくなり、東京駅8時03分発の新幹線ひかり号に乗ることになりました。
東京駅新幹線ホームに着き自由席5号車の乗車口に並ぶと、4人の人が並んでおり(入線5分前)、5~6番目の私達は楽々と二人席に座ることができました。
8時03分、東京駅発
新幹線の車内は、品川、新横浜と徐々に混雑し、5号車はほぼ満席の状態で静岡駅に到着しました。
なお、今日の富士山は雲が掛かっていて上部は見えませんでしたので、写真は撮りませんでした。
また、乗降駅の階段に近い自由席車両は混雑することが分かったので、今後の自由席(指定席料金を節約するため)に乗車する時の参考になりました。
静岡で新幹線を降り、島田に行くため在来線ホームに行きましたが、在来線は車両が短く(3~5両)、どの位置にドアの部分が停まるのかが分からないので、ホームに並んでいる人に聞いて電車を待っていました。
01 静岡駅・在来線ホーム
9時22分、静岡駅発

電車は座ることができ、前回の旅で歩いた場所を思い出しながら車窓からの景色を楽しんでいましたが、Yumiさんは何を考えて乗っていたのかは分かりません。
9時50分、島田駅着
島田駅では出発地点に行く前に、駅に隣接している駐輪場に行きました。
理由は、4月に蓬莱橋を観光する予定にしており、その時に借りるレンタサイクルについて事前情報を得るためです。
係員の人に借り方などを教えて頂くとともに、蓬莱橋のことを聞くとパンフレットを持ってきて「今日は行かないのですか」と聞かれたので、「まだ寒いので、温かくなった桜の時期にまた来ます」と答え、親切な対応にお礼を云って失礼しました。
次に、創業290年の老舗の清水屋に立ち寄り、名物の小饅頭を今日のおやつとして仕入れました。
 ※清水屋
02-1 島田・清水屋
 清水屋名物・小饅頭
02-2 清水屋・小饅頭
計画した新幹線(品川発7時34分のこだま号)だと、店舗の開店時間よりかなり早い時間に着いてしまうため、買うことが出来なかったということが分かり、高度計を忘れ家の往復でひと汗かきましたが、結果として良かったという気持ちになりました。
そして、この清水屋の2軒先が、今日の出発地となる本通り2丁目交差点です。
【=旅=】
10時00分、本通り2丁目交差点発(出発地)
03 島田・本通り交差点(出発地)
前回の到着した付近で、Yumiさんに看板を掲げてもらい、出発式(撮影)を行いました。
出発式の後、最初に道路の反対側に建っている芭蕉の句碑に立ち寄りました。
10時02分、芭蕉句碑
04 島田・芭蕉句碑
そして約100m先の駅西通りを渡った先の右側に帯祭りで有名な大井神社があり、石の太鼓橋と平橋が境内入口にあり、平橋を渡って境内に入りました。
10時06分、太鼓橋と平橋
05 大井神社・石の太鼓橋と平橋
10時06分~10時16分、大井神社
静寂な境内を歩き、拝殿に参拝し、Yumiさんの病気平癒(意味認知症と緑内障)と今回の旅の安全を祈願しました。
 大井神社・拝殿
07 大井神社・本殿
境内には島田名物の帯まつりの人形模型があり、「Yumiさん、ここに立って」と顔が見えるようにしてもらうと、「撮るの」と云いいながら人形模型の後ろに立って顔を出してもらいました。
 ※帯踊り人形
06 大井神社境内
今年の10月初旬に開催されるので、時間があったら立ち寄ってみようかなと思います。
気温は、朝の氷点下の状態からかなり上昇してきており、Yumiさんの首筋を触ると汗をかいていたので、寒くなったらまた着るからと説明しフリースを脱いでもらいました。
大井神社を後にして、島田酒販の先の右側に、時の鐘(今は除夜の鐘の時だけ)の梵鐘がある大善寺に立ち寄りました。
10時22分、大善寺・時の鐘(後方の櫓)
09-1 大善寺と鐘
時の鐘を告げた梵鐘は、境内の奥に吊るされていました。
大善寺を出て交差点(大善寺前)を渡ると、右前方の山の斜面に「茶」の樹文字が見えてきました。
「茶」の文字は、粟ケ岳(標高532m)山頂付近の斜面に、ヒノキを茶文字に植林して作られているようで、茶の木でないのが残念ですが、ヒノキは高木の常緑・針葉樹で一年を通して緑で、高木ということから選ばれたのでしょう。
街道は、特種東海製紙工場に沿って歩くと、信号の先に大井川川越遺跡を示す標識が掲げられているところで、分岐しています。
10時31分、道標
10 藤枝宿・金谷宿境標
分岐を左に進み少し行くと、江戸時代の屋号を掲げた家が立ち並び始めました。
10時36分~10時47分、大井川川越遺跡
 ※塚本家(右側)
11-1 大井川川越遺跡・塚本家
上段の間(他の部屋より20㎝高くなっている)が現存している家です。
 ※十番宿跡(右側)
12 十番宿跡
※①=十番宿・宿内(右側)
022 十番宿・内部
反対側のお土産屋の男の人が「撮りましょう」と声を掛けて下さいましたので、当時の人足を模した人形を入れて撮ることをお願いしたらYumiさんに「怖いから嫌だ」と云われてしまい、人形のいない場所に移動して撮って頂きましたが、男の人は苦笑いしていました(お土産を買わなくてすいませんでした)。
 ※札場跡(左側)
14 札場跡
※①=仲間の宿(左側)
019 仲間の宿・全景
 ※川会所跡(右側)
13-1 川会所跡
 ※復元・川会所跡(右側)

16 -1 川会所復元建物
 ※復元・川会所跡・室内
16-3 川会所復元建物内部
 ※大井川川越遺跡碑(川会所敷地内)
15 大井川川越遺跡碑
旧青年男女が階段に座り、陽だまりの井戸端会議を楽しんでおり、復元川会所跡の隣りに島田大堤跡がありました。
※①=島田大堤(右側)
023 島田大堤
島田大堤は、慶長の大洪水で大井川の堤防が決壊したために作られたもので、それ以降は大井川が氾濫することはなくなったそうです。
島田大堤から数十m先の左側に、朝顔の松公園がありました。
10時48分、朝顔の松(左側)

17-1 朝顔の松
朝顔の松公園の中に、柵で囲われ解説パネル付きで大切に保存されていました。
そして、公園の前に島田市博物館があったので、立ち寄りました。
10時50分~11時05分、島田市博物館(右側)
18-1 島田市博物館
島田市観光課から資料を送付頂いた中に、博物館の割引券(2割引き)が同封されていたので、今回使わせて頂きました。
博物館は、1階が川越遺跡の展示、2階は絵画展が開催されていましたが、ゆっくりと観る時間がなかったので、15分程で館外に出ました。
Yumiさんは展示物にはまったく興味を示すことなく、トイレを済ますと帰るモードになっていました。
絵画を見るのが好きだったYumiさんだったのですが、・・・寂しい限りです。
博物館を出ると、目の前は大井川の土手です。
 ※大井川河川敷き(左側)・・・この後、後方の大井川鉄橋を渡ります

19 大井川の眺め
※①=大井川鉄橋の眺め
026 大井川鉄橋
広々とした河川敷や遠くの山々を眺めながら土手上の道路を歩き、大井川橋東交差点に着きました。
11時14分、大井川橋東交差点
富士川より長い大井川橋を渡る前に記念撮影し、東海道屈指の難所とされ「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた大井川を渡り始めました。

20-1 大井川・鉄橋
橋の上から見る大井川は、上流のダムで堰き止められているため、細々と流れているという印象で、右に国道1号線、新東名高速、左に東海道線、新幹線を眺めながら、私の数メートル後ろをYumiさんが歩きました。
長い橋の中程で写真を撮ったりしながら、昔は川の中を歩いて渡った難所の大井川を、現代は歩いて渡りました。
21-1 大井川・中間点
11時27分、東町交差点(大井川橋西側)
大井川橋を渡った交差点を左折して土手道を歩きながら東の方を見ると、真っ白な富士山がちょこんと顔を出していました。
大井川橋の後方に富士山(白丸)
22-3 大井川と富士山
街道は、土手道を少し歩くと右側に旧東海道を示す看板があり、それに沿って右折して土手下に出ました。
土手下の道を少し歩いた処の八軒屋橋から金谷側の川越しだそうですが、案内絵図があるだけで、島田の川越遺跡に比べ、金谷の川越遺跡はあまり整備されていないようです。
11時33分、金谷宿川越し場跡(左側)
23-1 金谷宿・大井川川越遺跡
街道をそのまま真っ直ぐ進むと、大井川鉄道の踏切があり、蒸気機関車の始発駅である新金谷駅が100mくらい先に見えました。
11時38分、新金谷駅前
24 新金谷駅舎
新金谷駅前に「金谷川越し資料館」があるということなので、街道を左折して新金谷駅前に行き、辺りを見渡しましたが、資料館の看板は見付かりませんでした。
そして、駅に目を向けるとSLが止まっていたので撮りに行くと、近くで写真を撮るのでしたら入場券を買って下さいと云われました。
改札からでも写せるかなと思いながらSLを見ると、人が乗り込んでいる途中です。
駅員に発車時間を聞くと「45分です」と云われ、時計を見ると11時40分、あと5分で出発です。
Yumiさんに早くおいでと急き立てて、先ほど渡った踏切手前の線路脇に行き、そこでSLが通るのを待つことにしました。
 ※近づく蒸気機関車
27-2 近づく蒸気機関車
 ※通り過ぎる蒸気機関車
27-3 通り過ぎる蒸気機関車
SLは、観光バスの遅れから約5分ほど遅れて走り出し、今日最後のSL運行を偶然の巡り合わせで見ることができました。
《昼食・その1》
さて、時間も昼になり、当初は菜めし田楽(大根の葉を混ぜたご飯)のよし善で食べる予定にしていたのですが、SLを見た辺りに住む旧乙女に聞くと、良い返事をしないで別の店を教えてくれたので、そちらに行くことにしました。
教えられた店に行くと、男性2人と3人組の2組が先客としていました。
店に入りましたが、店の女将は知人らしき3人組との個人的な会話が忙しく、こちらのことはお構いなし。
しばらく待ちましたが、先客の3人組と会話はするのですが、こちらには何の声もかけてこないので、「注文は」と調理場に声を掛けると、やっとおしぼりが出され「時間が掛かりますけど」と、食べなくても結構との態度に、他で食べようと店を出ました。実に気分の悪い店でした。
《昼食・その2》
新金谷の街道沿いには食事処がなく、金谷の街に入りました。
金谷の街は、人通りがほとんどない静寂そのものので、緩い上り坂になっていました。
食事処を探して歩いたのですが、店舗がありません。
とうとう今日の到着地の金谷駅の近くまで来た時、スナック憩の入口に食事の案内看板が見えたので、ここで食べることにしました。
《昼食》
12時17分、スナック憩(左側)着
28 金谷宿・スナック憩
 E=食事できますか?
 店主(美人女将)=できますよ
 E=(Yumiさんに確認して)とんかつ定食を2つ
 店主=今日はどちらまで
 E=金谷駅までです
 (食べながら)
 E=新金谷駅でSLを見てきました
 店主=SLが新金谷発になって、金谷は寂れました。人が歩いていないでしょう
 E=いないですね
   それと食事する処がなくて困りました
 店主=金谷で食べられる処は、ここともう少し下の店の2軒だけよ。他は全部やっていない。
 E=そうですか。ところで本陣はこの先ですか?
 店主=もう通り越していますよ。2~3分坂を下った(戻った)ところにありますよ
 E=え、そうなんですか。食べる処を探していて、見落としていました。ありがとうございます
とお礼を云って、店を出ました。
12時48分、スナック憩発
地図の書き込んだ史跡の場所が間違っていたため、4分ほど後戻りして山田屋本陣跡に行きました。
12時52分、山田屋本陣跡(右側)
29-1 山田屋本陣跡
山田屋本陣と柏屋本陣の間に佐塚書店(佐塚本陣跡)がありましたが、史跡の案内標識はありませんでした。
そして、金谷駅に向かって直ぐのバス停の前に、柏屋本陣跡がありました。
12時55分、柏屋本陣跡
(右側)
30-1 柏屋本陣跡
柏屋本陣跡から少し坂を登ると食事をしたスナックの道路真向いに役所跡がありました。
12時58分、お七里役所跡
(右側
31-1 お七里役所跡
昼食を摂ったスナック憩で教えて頂かなかったら、そのまま見落としたままで終わるところでした。
金谷の坂をさらに数分上ると街道が左折する角に、一里塚の看板が建っていました。
13時02分、051金谷一里塚跡(到着地)
33-1 金谷一里塚(到着地)
今日は、ここが到着地です。
到着の写真を撮って終了しました(この時は到着式の看板なしで写真を撮ってしまい、翌日の出発の時に看板を掲げて撮りました)
【移動】

一里塚から金谷駅までは直ぐでしたが、大井川鉄道の金谷駅の駅舎に入ってしまい、駅舎の売店の方に教えて頂き乗車するJRの金谷駅に行きました。
13時05分、金谷駅着
34 金谷駅
ジバングで購入した切符は磐田まで購入してあるので、その切符で改札を通り掛川方面に行く反対側に、地下道を潜って移動しました。
掛川方面のホームに着いた時、到着式の看板を掲げた写真を撮っていないことに気が付きましたが、戻る時間がないので明日の朝、一里塚を出発する時に改めて撮ることにしました。
13時13分、金谷駅発
電車は3分程遅れて到着し、掛川に向かいました。
掛川までは2駅ですが、駅間の距離が長く14分です。
13時30分、掛川駅着
掛川駅新幹線南口を出て、レンタサイクルを事前に予約しておいた「サイクルランドちゃりんこ」に行きました。
【観光】
《レンタサイクル》
13時36分、サイクルランドちゃりんこ着
44-1 レンタサイクル
名前を告げると自転車は用意されていて、代金を支払い自転車を借りました。
料金は1台・500円で、貸し出し時に1,000円支払い、返した時に500円戻るとのことでしたが、最初に1,000円の支払いでした。
このお店は、スポーツサイクルが主体のため、ママちゃりタイプの自転車は、予約した時に1台しかないと云われ、後はスポーツタイプになるとのことでしたが、私が乗るスポーツタイプも一本ハンドルの普通の自転車を用意してくれました。
自転車の荷台の籠にザックを入れようとしましたが入らないので、背中に背負って走ることになり、サドルの高さを調整して出発しました。
13時42分、サイクルランドちゃりんこ発
《掛川城》
掛川の道は初めてです。
店舗を出て直ぐに、JRのガードを潜るアップダウンがあり、Yumiさんの安全を確認しながらゆっくりと走りました。
お城までの道は、クランク形に走るだけの分かりやすい道でしたので、地図に気を取られることなく走ることができました。
13時53分~14時56分、掛川城見学
掛川城の手前でトイレを済ませ、入口の階段脇に自転車を停め、入場(@400円)しました。
35-5 掛川城
  ※武者姿武士
36-2 武士と一緒
白壁の城に天守閣の綺麗なお城で、ボランティアの武士装束や忍者装束の人がおり、目を楽しませくれました。
また、城内に入り、狭い急階段を上って天守閣まで行き、遠くの景色を眺めました。
 ※天守閣
37-1 天守閣
37-3 掛川城・天守閣
 ※御書院上の間
42-2 御書院・上の間
 ※天主丸・霧吹き井戸
38-1 天守丸・霧吹き井戸
 ※腰曲輪跡
40 腰曲輪跡
 ※山内一豊具足
41-1 山内一豊具足
 ※掛川城御殿跡
43 掛川城・御殿
その後、城の隣にある御殿に行き、江戸時代の階級別の部屋を見学し、城の庭で清水屋で買った「小饅頭」を食べ、陽だまりの中、小饅頭と持参したボトルのお湯で、のんびり過ごしました。
ひと休みした後、掛川城を出て、サイクルランドちゃりんこに戻り、自転車を返却しました。
15時03分、サイクルランドちゃりんこ着
【ホテル】
サイクルランドちゃりんこからホテルの東横INNまでは、10分程度の一本道で、ゆっくりと歩きホテルに到着しました。
ホテルは15時からチェックインできるようにしておいたので、チェックインを済ませて部屋に入り夕食までの間、デジカメの充電、血圧・目薬・服用薬等の準備、明日の着替えの準備などを行い、その後はベッドに寝転んで体を休めました。
《介護用ルーム》
ホテルはツインルームで予約したのですが、途中で車いす利用者向けの部屋があることを知り、電話でYumiさんの状況を話すと、「OK」との返事を頂きお願いしました。
車いすは使用していないので、介護保険証(要介護2)の写しを持参し、フロントの方に提示して確認して頂きました。
部屋はトイレも浴室も車椅子が入れるようにできており、Yumiさんを介護するにはとても便利でした。
私は、車椅子は利用していませんが、Yumiさんの入浴介助を考えるとこの部屋を利用させて頂く必要があると判断し、予約する時に利用のお願いをさせて頂こうと思いました。
【夕食】

食事は、ホテルの近くに食事処がないので、掛川駅北口(ホテルは南口)の飲食街に行きました。
最初に入った居酒屋は、女性十数名の予約客が店の真ん中を占領するようにセットされ、この後の騒音を考えるととても寛げないと思い、店の方にお詫びして店を出ました。
特に決めている店はなく、駅から離れるのも嫌ということで、一番身近な駅前の「甚八・駅前店」に入りカウンター席に座りました。
46-1 居酒屋・甚八駅前店
 ※甚八駅前店の箸置き
46-3 居酒屋・甚八駅前店の箸置き
まず、中生ビールを注文し、Yumiさんと今日の無事を祝して乾杯しました。
この後、焼き鳥、盛り合わせ刺身等々を食しながら、焼酎も飲み腹を満たしました。
また、Yumiさんも注文した中生ビールを一杯、一人で飲み干しました。
最近、飲む機会が増えているので、飲めるようになってきたようです。
この店でYumiさんの隣に座った男性客が歴史資料を見ながら飲んでいました。
この時は知るよしもありませんでしたが、翌日、日坂宿の入口でバッタリと出会うことになるのです。
夕食後、ホテルに戻り、服薬、点眼(2種)、血圧測定を行ってからシャワーを浴び、今日の汗を流しました。
シャワーの後、明後日(11日)に履く靴下(2枚重ねの内側)と下着類を手洗いで洗濯し、持参したハンガーとホテルのハンガーに掛けて干し、それから就寝しました。

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※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
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ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


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