旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2013年05月

【天候】曇り⇒晴れ
【宿場】(38)岡崎宿~(39)知立宿
【行程】歩行距離=10.04㎞ 総距離=342.86㎞
東岡崎・岡崎サンホテル前⇒(3.45㎞)⇒077矢作一里塚⇒(4.09㎞)⇒078尾崎一里塚⇒(2.50㎞)⇒新安城・里町4丁目西交差点

【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第23回旅の宿場)

20 23回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第23回
 第23回の旅ルート
  
(東岡崎・岡崎サンホテル前 ⇒ 新安城・里町4丁目西交差点

第23回ルート
【旧東海道の旅】
《身支度》
05時30分、起床

昨日の午後から降り出した雨が気になり、起きて直ぐ窓を開けて雨の状況を確認すると、車はワイパーを使い、歩く人も傘を差しています。
天候予報では回復方向にあるので、旅の途中で晴れることを願って身支度に取り掛かりました。
歯磨き・洗顔のパフォーマンスは昨日と同じなのですが、昨日使い方を説明したことはまったく覚えていないので、全て最初から介助が必要となりました。
着替えは下着を含めて全て新しいものにし、スポーツタイツは私も手伝って何とか穿き全ての身支度を整えました。
私は自分の身支度を整えた後、二人のザックの荷物を点検し、直ぐに出掛けられるようにして食事に行きました。
《朝食》
ホテル1階の食事会場に行き、バイキング形式で食べるものを取り皿に移し、テーブルに運び食べました。
食事するところには他に誰もいなかったので、周りの人に気兼ねすることなくYumiさんも一人で取り皿に移すことができましたが、取るものは私と同じものでした。 
朝食はパンが多い我が家では、久し振りのご飯と味噌汁で、残すことなく完食しましたが、宿泊料金の割りには今いちの内容で、次回泊まるかと聞かれたら「NO」と答えるような内容でした。
部屋に戻ってトイレを済ませチェックアウトし、旅に出発しました。
001 朝食
【=旅=】
起床した時に降っていた雨は、ホテルの外に出ると止んでおり、「ラッキー」と自然に顔がほころんできました。
そして、いつもの通りにYumiさんに出発の看板を持ってもらい今日の出発式を行い、23日目の旅に出発しました。

07時31分、岡崎サンホテル前(出発地)=右側
005 岡崎サンホテル前(出発地)
出発しようと目の前を見ると、ホテルの前に三度飛脚の石像があり、記録に残しました。
※三度飛脚像(右側)
008 石像・三度飛脚
史料では、ホテルの隣りのあいおいニッセイ同和損保の前あたりに、岡崎一里塚があったという情報があり、私の勝手な判断で一里塚として記録しました。
07時32分、岡崎一里塚跡(右側)

009 岡崎一里塚
011 一里塚・解説
岡崎の手前の一里塚は3.06㎞手前の大平一里塚で、次の一里塚は3.45㎞先の矢作一里塚で、塚間が6.51㎞と他の一里塚に比べて1.5倍の間隔になっています。
そのため、中間点になっている東岡崎にあっても不思議ではありません。
一里塚の石像と標板から2軒先に、薬で有名な大黒屋跡がありました。
07時33分、大黒屋屋敷跡(右側)
012 薬局・大黒屋
大黒屋から次の交差点(伝馬町1丁目)までの約50mの間に、以下の石像が立っていました。
  ※あわ雪茶屋の石像(右側)
014 石像・あわ雪茶屋
  27曲りの石像(右側)
015 石像・27曲り
  本陣・脇本陣の石像(右側)
016 石像・本陣・脇本陣碑
伝馬通1丁目交差点の手前にコンビニ・ミニストップがあり、店の前に西本陣跡がありました。
07時36分、西本陣跡(右側)
019 西本陣跡
伝馬の本陣は正徳3年(1712)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒であったが、後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の3軒が本陣、脇本陣は鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒と推移したそうです。
西本陣跡碑の数m先の伝馬通1丁目交差点を左折して渡った左角に27曲りの道標が立っていました。
07時37分、27曲り(ほ)=06 左
021 27曲り-06
渡ってきた交差点から約60m直進した次の十字路右角に、27曲りの道標が立っていました。
07時38分、27曲り(へ)=07 右
023 27曲り-07
道標に沿って右折して数m程歩いた左に吉良道の道標が立っていました。
07時40分、吉良道道標(左側)
027 吉良道道標
道標から約80m歩くと、右角に岡崎信金の資料館が建っていました。
07時41分、岡崎信用金庫資料館(右側)
029 旧商工会議所
岡崎信用金庫資料館は、昭和57年に開館した赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を組み合わせた特色ある建物で、本格的なルネッサンス様式を取り入れた建築として、大正6年に旧岡崎銀行本店として建造されたそうです。
資料館を過ぎた右に公園があり、その入り口に籠田総門跡がありました。
07時44分、籠田惣門跡(右)
032 籠田惣門跡
籠田惣門跡は、岡崎城の東の境、いわば城下町と宿場町の境で、東の玄関であった処です。
田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われ、惣門は現在の西岸寺辺りがあったといわれ、このお寺は徳川四天王のひとり、本多忠勝の菩提寺。門の前には外堀があり、そこから西が岡崎城内となります。
お城に入る玄関口と云われる場所ですが、碑の目の前はゴミ置き場となっていて、ゴミの山でした。
山積みになったゴミ袋を記録に残したくなかったので、入らないようにして撮影しました。
〔街道を間違える〕
27曲りはここで右折して籠田公園の中を通り、籠田公園北西交差点を左折するのですが、何を勘違いしたのかここで右折しないで、一本先の十字路を右折してしまいました。
そして康生通りを横切り、籠田公園北西交差点を左折して最初の十字路の連尺通りに出ました。
ここで正規の街道に合流し、約200m先の本町3丁目交差点を横切り、約80m先の右側に27曲りの道標が立っていました。
07時53分、27曲り(と)=08 右
035 27曲り-11
街道は道標の先を右折し、約80m先の清水歯科医院(左)の角に27曲りの道標が立っていました。
07時56分、27曲り(ち)=09 左

037 27曲り-12
27曲り道標(ち)の道路を渡った反対側に、木戸前の石柱がありました。
07時57分、材木町口木戸前
039 材木町口木戸前
木戸前から約100m先の材木町1丁目交差点の角に、27曲りの道標が立っていました。
07時59分、27曲り(り)=10 右

043 27曲り-12
材木町1丁目交差点を右折すると、歩道面に27曲りのモニュメントタイルが埋め込んでありました。
044 27曲り本町通り
モニュメントのタイルを見ながら約150m先の二つ目の十字路の左角に、27曲りの道標が立っていました。
08時01分、27曲り(ぬ)=11 左

045 27曲り-14
道標の処を左折し、道路の右側を歩き、材木町3丁目交差点を越し、伊賀川の手前右側に連子格子の家があり、軒先に唐弦の看板が掲げられていました。
08時10分、唐弦の看板(右側)
048 唐弦の看板
伊賀川に架かる柿田橋西の手前左角に27曲りの道標が立っていました。
08時12分、27曲り(る)=12 左
050 27曲り-15
持参したマップは柿田橋を渡った処を左折となっているのですが、道標の前に掲げられている案内板はここを左折するように記されていたので、案内板に従って左折しました。
川沿いを歩き、次の橋の右角に27曲り案内石標が立っていました。
08時15分、27曲り石標=13 右
052 27曲り-16
石標に沿って右折し、さんせい橋を渡った先の左に27曲りの道標が立っていました。
08時17分、27曲り(を)=14 左
左側の階段道か、歩道を下ります。
※階段道
054 27曲り-17
※歩道
056 道案内(左の道を下る)
27曲り案内看板=15 左
  ※下った左側に案内看板が立っています
057 27曲り-18
道案内看板に従って左折し、次の曲り角に進む途中に、下水道のマンホール蓋があり、記録に残しました。
058 マンホール蓋
道は国道1号線に突き当り、直進できないため右折して八帖歩道橋を渡るか、龍城橋西交差点を渡ります。 
08時21分、27曲り国道1号に突き当たった処=16

059 27曲り-19
私達は、八帖歩道橋を渡り、八帖交差点と逆方向(左)に進むと、曲り角に石標が立っていました。
  ※八帖歩道橋
061 8帖歩道橋
08時26分、27曲り石標=17 右
062 27曲り-20
石標の処を右折しました。
27曲りから離れて岡崎城を見学するため、150m先の十字路(左側の路地で3本目)を左折し、岡崎城に向かいました。
08時32分、坂谷橋(岡崎城公園入口)
064 坂谷橋
平日の開城前の時間帯だったので、歩いている人は一人だけの雨上がりの橋を渡り、公園に入りお城を見に行きました。
岡崎城の見学受付は9時からで、職員の人が階段を清掃したりしていました。
お城の中も見たかったのですが、先の予定があるため天守閣の見える場所で写真だけ撮ることにしました。
08時36分、岡崎城
065 岡崎城
岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、徳川家康の生地です。別名を龍城と云い、戦国時代から安土桃山時代には徳川氏の持ち城となり(一時、豊臣秀吉の持ち城になった)、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。
岡崎城を見たので、27曲りに戻ろうとすると、Yumiさんが左足の裏が痛いとSOSが発せられました。
公園のベンチに腰掛け、足裏を見ると赤く腫れていたので、ゲンタシン軟膏を持参した洗浄綿に塗り、綿をバンドエイドで止める応急処置を施しました。
靴を履いて歩いてみると「大丈夫」の返事に、そのまま旅を続けましたが、我慢していたと思います。
さて、岡崎城から街道に戻るために竹千代橋を渡りました。
08時49分、竹千代橋
071 竹千代橋
竹千代橋から150m(ビジネス旅館友栄の先、板屋稲荷神社の手前)先の十字路を右折します。
私が持参した地図に竹千代橋から先の部分が印刷されていなかったため、勘で距離を測り、曲がるところにいた地元の方々に27曲りの場所を確認して街道に戻りました。
27曲りは、右折した十字路から約60m歩いた三叉路の右角に27曲り「よ」の道標と板屋町角の石標があり、斜め向かいの角にカットハウスキトウがありました。
08時53分、27曲り(よ)=18 左:正規進行方向から
072 27曲り-21
27曲りの道標が、(を)の次に(よ)が出てきましたが、正しいルートを歩いているので、見落としたのかもしれません。
カットハウスキトウを右に見て約100m歩き国道248号の中岡崎町交差点を渡り、さらに約200m先の愛知環状鉄道の高架下を潜ったところを右折して街道から別れ、約100mの処に八丁味噌のカクキューがありました。
09時00分、八丁味噌=カクキュー(右側)
074 八丁味噌
八丁味噌は、徳川家康に代表される三河武士も兵糧として持ち歩いた、固くて色の黒い濃厚な豆味噌です。
その名は、岡崎城から西へ向かって八丁(約870m)の処の、矢作川と東海道が交差する八丁村で盛んに造られたことが起源だそうです。『カクキュー八丁味噌』は、今からおよそ360年前の正保2年(1645年)に創業した、八丁味噌の老舗です。
登録文化財に指定されている蔵など「八丁味噌の郷」は見学することが出来るとのことなので、受付に行ったところ、「工場見学は10時からで、それ以外は入場できません」と、受付女性に優しさのない言葉で云われ、そのまま何も買わずにカクキューを出て、Yumiさんと顔を見合わせてしまいました。
八丁味噌の建物や八丁通りを歩き、歴史のある味噌の町の雰囲気を味わいました。
  ※八丁味噌の建物
078 連子格子の家
  ※八丁通り
081 八丁味噌通り
八丁通りから街道に戻り、約100m歩いたT字路の対面に石標が立っており、ここを右折します。
Yumiさんと交替に写真を撮っていると、車が来たので脇に寄って通りすぎるのを待っていると、とおり過ぎた処で車を停め、助手席から女性が降りてきて「シャッターを押しましょう」と云って、二人が並んだ写真を撮って下さいました。
「有難うございます」とお礼の言葉を云うと、「どうも」と云って車は走って行きました。
09時13分、27曲り石標=19 右
086 27曲り-22
街道は、T字路を右折し約100m先の国道1号線に突き当り、ここを右折して矢作橋を渡ります。
国道1号は中央分離帯で左右が分離された片側二車線の道路で、両側に歩道がありますが、矢作橋を渡ったところで右折します。
矢作橋を渡ったところがどのような構造になっているのか分からないため、Yumiさんに無理を云って中央分離帯を跨いで渡たることにしました。
国道1号は、交通量が多く、中央分離帯のところで車の通過を待って渡り進行右側の歩道に出ましたが、Yumiさんから睨まれてしまいました。
087 道路を横断
09時18分、矢作橋
088 矢作川
矢作橋は、岡崎市を流れる矢作川にかかる橋で、橋上を通るのは東海道(国道1号)です。そして、古来から交通の要衝でありました。

矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきました。架橋がみだりにできなかった江戸時代は、日本最長の大橋だったそうです。
現在の矢作橋は、昔の東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置しています。
  ※矢作橋を渡るYumiさん
091 矢作橋②
矢作橋を渡って、道路の構造が分かりました。
進行左側の歩道を歩いても、橋を渡ったところに橋の下を潜る道が出来ており、交差点しか渡る場所はないと思っていた私の考え違いでした。
いままでの道路は、迂回することが多かった学習効果が影響しました。
矢作橋を渡ったところに出会いの碑(蜂須賀小六と日吉丸)があると史跡資料に記されていたので、探しましたが見つかりませんでした。
矢作橋を渡ったところで右折した道は、Uターンする感じでこの場所にきますので、ここを右折します。
09時26分、矢作一里塚跡付近(史跡が分かるものは何もありません)
094 077矢作一里塚跡(?)
この隣りが勝蓮寺で、門前に矢作一里塚があったとされていますが、名残りは何もありませんでした。
勝蓮寺の前を過ぎ、約130m歩いた左側に、菓子近江屋本舗がありました。
09時30分~09時41分、近江屋本舗(左側)=休憩
096 菓子処・近江屋本舗
約1時間歩いたので、休憩した時に食べるお菓子を買いに立ち寄りました。
Yumiさんに「食べたいものは?」と聞いても、今のYumiさんは自分で希望を云うことが出来なくなっているので、私が柏餅(@150円)を選んで注文しました。
097 近江屋・柏餅
女将さん=食べて行かれますか?
E=(店内のベンチを確認し)はい
女将さんに勧められてベンチに座って食べ始めると、お茶を運んできて下さいました。
E=矢作橋のたもとに出会いの像があると聞いてきたのですが、見付けられませんでした
女将さん=矢作橋の掛け替え工事で、他の場所に移動(平成18年2月)しており、まだ暫くは帰ってこないようです
E=あー、そうですか
など、街道の話しをし、お礼の言葉を云って店を後にしました。
店を出て約150m歩いた右側のモリヤ鈴木酒店の数軒先隣りに、仏壇を洗浄する店がありました。
  ※お仏壇洗浄屋(右側)

099 お仏壇洗浄屋
仏壇を洗浄する店は初めてなので、店の人が居たら立ち寄ってみたいと思ったのですが、扉から中を見たら誰もいないので、そのまま立ち去りました。
そこから100m先の右側に弥五謄神社があり、参拝に立ち寄りました。
09時46分~09時50分、弥五謄神社(右側)
101 弥五謄神社・本殿
神社は静寂の中にあり、Yumiさんと二人並んで、お賽銭をご奉納し参拝しました。
神社での参拝は、恒例となってきた声を出してご祈願する参拝方法で、祈願している願いが叶うまで続けて行きたいと考えています。
神社を出ると、浄瑠璃姫の墓があるという誓願寺まで約200m。
入口を見逃さないように歩くと、幼稚園の園庭になっていて、寺院には別の道から入るため、本堂には立ち寄りませんでしたが、道路沿いに立っていた誓願寺十王堂に立ち寄りました。
09時53分、誓願寺十王堂(右側)
103 誓願寺十王堂
十王堂の解説板には、「長徳3年3月(997年)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。
時代は下り、寿永2年(1183年)3月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。〜以下略〜」と、記されていました。
ここから約600m歩いて、国道一号の安城街道入口交差点に合流しました。
10時02分、安城街道入口交差点
106 安城街道入口交差点
交差点に合流し、国道をそのまま右側の歩道を歩き、次の矢作町猫田交差点から約100m歩いた処で、国道の反対側(左側)の歩道沿いに距離ポストの標識が立っているのが目に入り、折角の機会と思い来た道を引き返し矢作町猫田交差点に戻りました。
交差点を渡り、左側の歩道を約100m歩いた名古屋トヨペットを過ぎる手前の国道沿いに330㎞の標識が立っていました。
10時10分、330㎞距離標
108 330㎞ポスト
街道は、この先で右に分岐するため、次の東大友町並木側交差点で進行方向右側に渡りました。
天気はすっかり回復し、気温も上昇し、汗を拭きながら炎天下の国道沿いの旅となりました。
国道沿いの旅は、アスファルトの照り返しを受けるながらの旅になるため、上り坂に次いで辛い歩きになります。
約350m歩いた暮戸交差点を過ぎると、自動車ディラーが連なり平日の午前中ですが、商談なのか、他の事かわかりませんが、全てのショールームにお客がいたことは驚きでした。
名鉄宇頭駅の入口になる宇頭町交差点を過ぎ、約300m歩いた尾崎東交差点の少し手前の反対側(左側)歩道沿いに、安城市境の標柱が立っていました。
10時34分、安城市境標柱(左側)
111 岡崎市・安城市境
岡崎市から安城市に入った印象は、天気が良くなり一段と暑さが厳しくなってきたことです。
尾崎東交差点で国道1号と分岐し、右に進路を取ります。
歩いて直ぐ、松並木があり、尾崎松並木と勝手に命名させて頂きました。
10時37分、尾崎松並木

113 尾崎松並木
松並木は約100m続き、その先を約700m歩いた右側に「予科練の碑」が立っており、その隣りに熊野神社の鳥居と参道があり、鳥居を過ぎた右側に日本橋から78番目の一里塚があり、石碑が建てられていました。
  ※熊野神社鳥居・参道(右側)
117 熊野神社
10時50分、078尾崎一里塚跡(右側)
119 078尾崎一里塚跡
一里塚跡の裏に、簡易トイレと石のベンチがあり、一服休憩しました。
10時51分~10時56分、一服休憩
121 一里塚裏の休憩ベンチ
Yumiさんとトイレを済ませたのですが、Yumiさんがトイレに行く時はYumiさんのショルダーバックとザックを預かるので、自分のトイレの時は大変です。
Yumiさんを一人にすると私を探しに動いてしまうため、Yumiさんがトイレに入った時に合せてトイレを済ませます。
そのため、Yumiさんがトイレから出て来る前にショルダーバックとザックを持ちながらのトイレを終わらせなければいけないので、いやはや大変です。
しかし、Yumiさんが荷物をトイレの中に置き忘れられたら、その方がもっと大変な結果になったことを経験しているので、病気と諦めています。
休憩場所は、涼しい場所だったので、気持ち良く休憩することができ、また元気になりました。
一里塚跡を過ぎた辺りに「夫婦松」があると史料に載っていたのですが、一里塚跡の辺りにあった松だったのか、一里塚を過ぎた先にはそれらしき松を見つけることは出来ませんでした。
一里塚から約1㎞歩いた右側に永安寺があり、愛知県指定の天然記念物の松がありました。
11時11分、雲竜の松(永安寺)=右側
122 雲龍の松(永安寺)
雲龍の松は、樹高4.5m、根囲3.9m、幹周(1m高さ)3.7m、枝張り東西17m 、南北24mの1本松です。
松の種名はクロマツで、一般に主幹は直上して伸びるのに対し、この松は横に伸びて広がる形状を持っている。
主幹は、高さ1.5mのところから真横に、北西・南及び東の3方向に伸びている。各枝の長さは北で10m、南13m、東7mに及び、たなびく雲のようであり、また臥せる竜のようでもあるため、「雲竜」の名称がついている松です。
永安寺を出て、約200m先の明治川神社交差点を渡った左に神社があり、木立の中の参道が涼しそうだったので、参拝することにしました。
Yumiさんは参拝より、昼食の方がお望みだったと思うのですが、「食べられる処があったら食べるからね」と話し、納得してもらいました。
11時15分~11時20分、明治川神社(左側)
  ※明治川神社・参道
125 明治川神社・参道
  明治川神社・本殿
127 明治川神社・本殿
木立の中の参道を通り、境内に出るとパッと景色が開け、立派な社殿が目に入りました。
神社の本殿に進み、弥五謄神社の時と同じようにして、お賽銭をご奉納し、声を出してYumiさんの認知症と緑内障の病気平癒をご祈願し参拝しました。
すっきりした気持ちになって神社から街道に戻り、約150m歩くと松並木が始まりました。
この松並木は、今日の旅の終わりまで断続的に続いていたので、地域名を入れた名前を勝手に命名しました。
11時24分、新安城・屋敷山松並木
129 安城松並木①
11時35分、新安城・野池田松並木
139 安城松並木③
昼食が食べれる店をキョロキョロと左右を見ながら歩いていると、里町4丁目東交差点を過ぎた右側にレストランの看板が目に入り、昼食を食べることにしました。
11時38分~12時14分、昼食(レストランろくえん北部店)
140 レストランろくえん
扉を開けて中に入ると、数組のお客が入っており、「空いている処にどうぞ」と声を掛けられ、窓に近い場所に座り、ランチを注文しました。
Yumiさんの目薬の点眼を行い配膳を待っていると、ランチが運ばれてきました。

142 昼食(ランチ)
ランチ(@700)は、弁当形式の容器にアジフライ、その他の食材が入っており、豪華ではありませんが、値段に相応したもので、食後のコーヒーが付いていました。
30~40分の昼食でしたが、ひと息ついて元気が出てきました。
外に出ると歯抜けのような感じですが、松並木が続いていました。
144 安城松並木④
里町4丁目交差点を過ぎた右側に、お相撲さんの浜碇の石像が立っていました。
12時17分、浜碇の石像(右側)
146 相撲浜碇の碑
石像は、「濱碇」(はまいかり)の化粧回しをしたお相撲さんで、明治時代、浅井万金膏【黒い温めて使う膏薬(こうやく)・効能は打撲、捻挫(ねんざ)等】で有名な浅井森医院の七代目森林平(もりりんぺい)氏が、、大の相撲好きでお相撲さんには無料で治療したそうです。その中で濱碇(はまいかり)というお相撲さんが、廃業後、森氏の後押しを受けて薬の行商をはじめ、三河地区の浅井万金膏の独占販売権を得たそうです。慰霊碑は、治療に来ていて不幸にも亡くなった力士を慰めるために、濱碇(はまいかり)さんが建てられたそうです。
ここから約100m歩くと交差点があり、今日の到着地の里町4丁目西交差点(旧名東栄町)でした。
グーグル地図では「東栄町」ですが、「里町4丁目西」に変更になっていました。
交差点の角の建物を確認すると、
・左角=碧海信用金庫今村支店
・交差点渡った右角=星煌学院新4安城校
と間違いがなかったので、交差点名が変更になっていることが分かりました。
12時20分、名鉄新安城駅・里町4丁目西交差点(到着地)
149 新安城・里町4丁目西交差点(到着地)
交差点の名称が変わっているとは知らなかったので、到着式の看板は旧名の東栄町のままですが、致し方ありません。
次回の出発式の時から変更することにします。
【到着地からの帰宅】
到着式を終わり、自宅に帰るため名鉄・新安城駅に向かいました。
交差点から新安城駅まで約500mと炎天下だったので、遠いなと思っていたのですが、それ程の距離を感じないで歩くことができました。
12時29分、名鉄・新安城駅北口着
153 新安城駅前
駅員の人に豊橋まで行く最短の乗り継ぎ方法を聞き、ホームに行くと東岡崎行の電車が停まっていましたが、駅員に教えられた電車と違うため、教えられた電車がくるまでホームのベンチに座って待っていました。
12時46分、名鉄・新安城駅発
155 新安城駅ホーム
13時18分、豊橋駅着
豊橋に停車する新幹線「ひかり」は14時45分と1時間30分も先のため、こだまに乗車することにしました。
13時33分、豊橋駅発
こだまの4号車に乗りましたが、好きなところにどうぞという感じで空いており、真ん中辺りの2人掛けに座りました。
新幹線が静岡を過ぎる頃、新安城の天気とは反対に雲が多くなってきて、楽しみにしていた富士山を眺めることは出来ませんでした。
  ※新富士付近

158 富士山は雲の中(新富士付近)
《冷や汗》
掛川駅に停まった時、数分の停車があると思ってホームの自販機にペットボトルを買いに行きました。
ところが買っている時に発車の案内があり、ペットボトルを出してあわてて新幹線に乗り込みました。
Yumiさんを一人乗せて私が乗り遅れたら大変なことになっていたと、ホッとしました。
その後の車内放送を聞いていたら、数分停車の時は必ず放送があることが分かり、今後の反省材料にしました。
また、Yumiさんにトイレのことを聞くと、7割くらいの確率で行くと云うので、新幹線の中では本人が云うまで私から聞くことはしないようにしています。
今回も同じで、品川に着くまで云いませんでした。
15時39分、品川駅着
新幹線の中でトイレに行かなかったので、駅に降りるとYumiさんがトイレに行きたいようなジェスチャーをするので、トイレに連れて行きました。
平日の山の手ホームは人で溢れ返っており、ホームを歩くのも大変な状態でした。

15時46分、品川駅発
山の手線に乗り自宅に帰りましたが、その途中、最寄り駅の一つ手前で降り、今回の旅の無事を祝し、ビールで乾杯しました。
  ※旅の無事を祝して乾杯
159 ななかまど東大和
新安城を出発する時は、炎天下の天気でしたが、だんだんと天気は悪くなり、旅の無事を祝して乾杯と夕食で立ち寄った店を出る時は雨が降っており、ザックカバーを掛け傘を差して帰りました。
そして、家に帰り、荷物の片付けは後回しにして、お風呂を用意し汗を流しました。
【終わりに】
今回の旅は、二泊三日の行程と雨模様の天気予報の中で実施しましたが、食事に行く時に傘を差すだけで、道中で雨に降られることもなく旅ができました。
天気はその時の自然現象なので、どうすることもできませんが、天候に恵まれて旅をすることができたのは、幸運だったと素直に喜びたいと思います。
また、今回の旅で岡崎の27曲りを歩きましたが、掛川の七曲りのように曲り角の数ではなく、また通りの数でもないため、少し調べたところ「スタートは冠木門に始まり、赤い石碑(二十七曲の曲がり角に設置)を数えると
19(A〜R)だけで、今はそれ以上確認できない。江戸時代に本当に27あったかは確認できない」ようです。
江戸時代の岡崎に残る資料からは27曲りのことを記した資料はなく、他地区の書物には記されているので、岡崎以外から入ってきて云われるようになったようです。
私も一部間違って歩きましたが、持参した地図は正確なものでしたので、完歩したと考えています。
初日に昼食を摂るのに困りましたが、その経験から翌日からはしっかりとした店舗で摂ることができました。
お腹が空くと、二人の空気が怪しくなってくるので、健全な旅にするようにこれからも気を付けて行きたいと思います。
【次回に向けて】
健脚の人は2日で歩く距離を3日掛けて歩くなど、無理をしないようにしています。
次回は、七里の渡しの宮宿と桑名宿を旅します。
佐屋街道を歩く方、電車で渡る方、チャータ船で渡る方など、いろいろ方法がありますが、私とYumiさんは文化の発展の象徴である電車で宮宿 ⇒ 桑名宿に渡ります。
本ブログの製作に時間を費やしてしまい準備の時間が少なくなりましたが、「なせば成る、成さねばならぬ何事も、成さぬは人が成さぬなりけり」の言葉を思いだして、人事を尽くして準備したいと思います。
Yumiさんの介護をしながらの旅で大変ですが、二人の人生の思い出にする旅なので、楽しみたいと思います。
ただ、残念なのは、Yumiさんの記憶回路が壊れているため、思い出話しができないことです。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp


【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/





【天候】薄曇り⇒晴れ⇒曇り⇒雨
【宿場】(36)赤坂宿~(37)藤川宿~
(38)岡崎宿
【行程】歩行距離=15.56㎞ 総距離=332.82㎞
名電長沢・長沢郵便局前⇒(3.49㎞)⇒074本宿一里塚⇒(4.69㎞)⇒075藤川一里塚⇒(4.32㎞)⇒076大平一里塚⇒(3.06㎞)⇒東岡崎・岡崎サンホテル前

【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第22回旅の宿場)
19 22回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第22回
 第22回の旅ルート
  
(名電長沢・長沢郵便局前
⇒ 東岡崎・岡崎サンホテル前)
第22回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
〔トイレ〕
Yumiさん恒例の早朝のトイレ通いは、4時頃から始まりました。
トイレにはペーパーフォルダーが2個付いており、普通の使用状況では不足しない量が残っているのですが、Yumiさんのトイレ通いによっては不足することも考えられるため、私は「大丈夫かな?」と一抹の不安を抱きながら朝を向えました。
予感は見事に的中し、私がトイレに行った時に確認したら、1つのフォルダーのペーパーは使い切ってロールだけが残っている状態、もう1つも1㎝未満の状態でしたので、早朝でしたがフロントに電話し、トイレットペーパーの追加をお願いしました。
フロントの方は恐縮して直ぐに届けて下さいましたが、こちらの使用量が異常なので、清掃された方が責められなければよいのですがと思いました。
Yumiさんのトイレ通いは4時頃から出発するまでに、十数回になっていました。
〔身支度〕
起床、5時30分
Yumiさんのトイレ通いが始まった4時に目を覚ましてから夢の世界に入ることなくベットの中で横になっていましたが、セットした目覚ましの音で起床し洗面所に行き歯磨きと洗顔。
洗面所に置いてある歯磨きセットは、ホテルに何回も泊まっているので使い方を覚えてほしいのですが、学習効果はまったくなくなり、その都度袋から出してYumiさんに渡さないと分からない状態に認知症は進行しています。
洗顔は持参した石鹸で洗い、ブラシで髪を整えました。
その後、下着を着替え、両足に塗り薬を塗布し、両膝にシップ薬を貼り、ピチピチのスポーツタイツであるCWXを穿くのですが、一人では穿けないので、二人掛かりでした。
今日は午後から降雨になるとの天気予報のため、長袖のTシャツの上に、半袖のシャツを着て、降雨になった時の寒さ対策をしました。
そして、朝食前に朝の血圧測定(手首式を持参)と緑内障目薬の点眼を行い、ザックの荷物を整理しながら忘れ物がないか点検しました。
〔朝食〕
6時45分から朝食と聞いたので、少し早い6時40分に9階の会場に行きました。
バイキング形式でパンの朝食を頂きましたが、今まで宿泊したホテルの朝食は1階だったので、9階からの眺望を楽しみながら食べる朝食は、清々しい気分で食べることができました。
Yumiさんは特に感じることはなかったようで、何も云わずに私が配膳した朝食を食べていました。
《移動》
朝食後、部屋に戻ってトイレを済まし、予定よりも早くチェックアウトして豊橋駅に向かいました。
07時01分、ホテル発
001 ホテル前
時刻表を見ると7時10分発の電車があるので、駅員に名電長沢に行く方法を聞き、ホームに向かいました。
ホームには電車が停まっていて、通学する学生が賑やかに談笑していました。
07時10分、名鉄・豊橋駅発
003 名鉄線車内
国府で電車を乗り換え、名電長沢に到着しました。
07時28分、名電長沢駅着
名電長沢駅で下車したのは、私とYumiさんの二人で、無人駅の自動改札をパスモで通り、国道1号線を地下歩道で潜り、今日の出発地である長沢郵便局前に立ちました。
【=旅=】
07時32分、名電長沢・長沢郵便局前(出発地)
005 長沢郵便局前(出発地)
出発地でYumiさんが掲げる看板を入れた写真を撮る出発式を行い、旅をスタートしました。
天候は曇りですが、まだ雨が降る心配はないようです。
07時35分、秋葉山常夜燈(右側)
008 秋葉山常夜燈
出発して約130m歩いた右側に、秋葉山常夜燈が立っていて、裸電球が付いていましたが消灯していました。
本当はろうそくか油だったのでしょうが、現代の電燈でも点灯している時に見たことがないので、機会があったら見てみたいなと思いました。
常夜燈から約350m歩くと、左側に連子格子の家が数軒連なって残っていました。
07時41分、連子格子の家(左側)
011 古い民家(格子戸)
※写真は、数軒通り過ぎたところで、歩いてきた方に向いて撮っています。
格子戸の家が続いている所を歩いていると、タイムスリップしたような感じがします。
建物を維持するのは大変かと思いますが、多くの人に時代の建物を見せ、先人の知恵を語り継いでほしいと思います。
連子格子の家並みから約150m先の大榎橋の手前T字路の角に常夜燈とお堂がありました。
07時43分、秋葉山常夜燈(右側)
012 秋葉山常夜燈
先の秋葉山常夜燈は点燈していませんでしたが、ここの秋葉常夜燈は裸電球が点灯されていました。
また、お堂の中は、確認しないで通過しました。
街道は秋葉常夜燈から約230m先の関屋交差点で国道1号線に合流し、ここから約2㎞、交通量の多い国道を歩きました。
関屋交差点を過ぎた処で、私がチョッキ、Yumiさんがパーカー上着を脱ぎました。
国道の脇を走る名鉄を眺めながら約500m歩くと、313㎞の距離標が立っていました。
07時55分、313㎞距離標(左側)
014 313㎞ポスト
国道1号線の距離標を記録に残すのは久し振りで、3月9日の新天竜川橋の250㎞距離標以来です。
この間、国道1号線は歩いたのですが、距離標が左側、私達が歩くのが右側で、巡り合わなかったためと思います。
私がブログに掲載している距離数は、出発時の317.26㎞に今日歩いた1.3㎞を加算した約318.5㎞で、5.5㎞差異がありますが、許容範囲内の数値なので、掲載している数値は概ね正しいようです。
そして、次の距離標を目指して歩いていると、左側の高木製作所音羽工務センターを過ぎたところに、面白いキャッチコピーの看板掲げられていました。
016 募集看板
「犬も歩けば看板をみる」と、看板広告募集の看板で、
E=Yumiさん、面白い看板だと思うんだけど
Y=そうね
と、実につれない返事でした。
この看板は、この先の岡崎市内にも掲げられていました。
国道の反対側を名鉄が走っているので、電車の入った写真が撮りたいと思いながら歩いていると、そのチャンスがやってきましたので、急ぎYumiさんに声を掛け写真を撮りました。
017 国道沿いを走る名鉄線
写真を撮る時、トラックが走っていると電車が隠れてしまうため、良い条件で撮れて良かったです。
314㎞距離標から約80m先(写真奥の標識)に、豊川市と岡崎市の市境標柱が立っていました。
08時10分、豊川市・岡崎市境標柱(左側)
020 豊川市・岡崎市境
標識柱の少し先が、本宿町深田交差点で、交差点を過ぎた処から左に分岐し、国道と並行して歩きます。
分岐する処の左に本宿の石碑が、その少し先に木製モニュメントの鳥居が立っていました。
08時12分、本宿の石碑(左側)
022 本宿碑
08時14分、木製鳥居(左側)
026 モニュメント鳥居
写真には写っていませんが、地区の人達が清掃奉仕をされていました。
木製鳥居を潜り、新箱根交差点を越した先の分岐(約150m先)の処に、道標が立っていました。
08時20分、東海道道標(右側)
028 東海道道標
街道は、道標に従って分岐を左に進み、約140m歩くと徳川家康ゆかりの法蔵寺があり、参道入口の左に法蔵寺の解説看板と御草紙掛松があり、その先に山門がありました。
08時23分~08時38分、法蔵寺(左側)
   ※御草紙掛松
030 御草紙掛松
   ※法蔵寺山門
034 法蔵寺・山門
   ※イヌマキ(天然記念物)
036 イヌマキ(天然記念物)
法蔵寺は、家康が幼い頃、手習いや漢籍を学びに通った寺といわれ、家康の父松平広忠(ひろただ)の墓があります。 701年(大宝元)、行基によって開山されたといわれ、松平親氏が深く帰依し,寺号を法相宗出生寺(しゅっしょうじ)と称していたが,1385年(元中2)に浄土宗となり法蔵寺と改称しました。 山門や鐘楼門,本堂が一直線に並び,境内には六角堂や東照宮が建っている。 六角堂には,聖観音,十一面観音,千手観音,不空絹索(ふくうけんじゃく)観音,馬頭(ばとう)観音,如意輪(にょいりん)観音の六観音がまつられている。境内には、天然記念物のイヌマキが植えられている。また、境内の横に、新撰組の近藤勇の首塚があります。
08時31分、近藤勇首塚(法蔵寺内)
040 近藤勇首塚全景
首塚を参拝した時、Yumiさんがどのような反応をするか興味があったのですが、ひと言も云わないですんなりと写真に納まりました。
いままで幾つかの首塚を見てきましたが、写真を撮ろうとすると「イヤ」と云って撮影を拒否されたり、嫌々付き合ってくれたりと、様々な反応がありましたが、理由は分かりませんが近藤勇の首塚は何も云わずに云われたとおりにしてくれました。
首塚から境内に戻り、寺院のトイレを使わせて頂き少し休憩をしました。
法蔵寺を出て直ぐの法蔵寺橋を渡った先の本宿町中集会所の脇に、地蔵堂が立っていました。
08時40分、地蔵堂(右側)
042 地蔵堂
地蔵堂から約80m歩いた左側に、陣屋跡の標板が立っていました。
08時45分、陣屋敷・代官屋敷跡(左側)
043 陣屋跡・代官屋敷跡
柴田陣屋跡と代官屋敷は、元禄11年(1698)旗本 柴田出雲守勝門(かつかど)(柴田勝家子孫)が、知行所支配のため本宿村に陣屋を設け、明治に至るまで存続しました。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築だそうです。
陣屋跡は現在病院になっていて、改築工事中でした。
代官屋敷は、見に行ったのですが、古民家が建っていただけで案内板もなく、何となく見学し辛かったので、そのまま引き返してきました。
もう少し、史跡を大切にしてほしいと思いました。
陣屋跡を後にして約200m歩いたT字路角に火の見やぐらが立っていて、秋葉山常夜燈と道路元標が立っていました。
08時48分、本宿村道路元標(右側)
045 道路元標・常夜燈
道路元標は、旧道路法(大正9年4月1日施行)によって、各市町村に一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました。市町村役場の前に設置されることが多く、ここ本宿も例外ではなかったようです。
道路元標は、歴史の証人として地域にひっそりと鎮座していますが、歴史的資産として後世まで残してほしい史跡ではないかと思います。
元標から約40m歩いた右に十王堂跡があり、さらに約190m歩いた右側に日本橋から74番目の一里塚があり、石柱が立っていました。
一里塚碑は、左側の柴田家の道路真向いで、一里塚を過ぎた交差点左角には豊川信金がありました。
08時54分、074本宿一里塚跡(右側)
050 074本宿一里塚跡
一里塚をから約300m歩いた右に「味処通りゃんせ」があり、その約50m先の左側に宇都野の邸宅跡と長屋門がありました。
09時00分、宇都野龍碩邸跡と長屋門(左側)
052 宇都野龍蹟邸跡・長屋門
宇都野龍碩は、本宿村の医家で、古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれています。七代目の龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られており、安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。
また、質素な長屋門が名残りをとどめている。
長屋門は正面から撮りたかったのですが、現在住まわれている方のプライバシーを考えて、横から撮りました。
長屋門から約150m先に本宿町沢渡交差点があり、その手前の右側に宿碑と道標が立っていました。
09時04分、本宿宿碑・道標(右側)
055 本宿宿碑
   ※道標
057 東海道道標
道標は、右が東海道、左が国道1号となっていますが、道標の直ぐ先が本宿町沢渡交差点で東海道と国道1号が合流します。
国道1号の左側を歩くと次の山綱町下中野交差点の手前に、316㎞距離標が建っていました。
この先で街道は国道1号から分岐して右に進むため、次の東海中学校入口交差点で左側から右側に渡りました。
渡った交差点から国道1号の右側を歩き、約400m歩いた処で、右に分岐します。
09時15分、国道1号と分岐(右入り)
059 道案内・分岐(右の道を進む)
左側が国道1号、右側が名鉄の間を下ると、車が名鉄の下を潜るガードがあり、街道はそのまま真っ直ぐに進みます。
09時20分頃に、名電山中駅前を通過し、約400m歩くと消火栓の蓋が目に入りました。
   ※消火栓の蓋
060 岡崎市消火栓ふた
消火栓の約10m先の左に宿碑が立っていて、右側にダッドという会社がありました。
09時26分、藤川宿碑(左側)
061 藤川宿碑
藤川宿は、三河高原を横断する御油断層の谷間から、西の平地への出入口にあり、中世から交通の要地で、1601年(慶長6年)の伝馬制度により設置された宿場である。
山綱川に架かる舞木橋を渡って歩いていると数本の松並木があり、左側に東海道の道標が立っていました。
09時31分~09時37分、道標・松並木(休憩)=左側
066 東海道道標
道標が立っている場所は、ブロック積みしてあり、座るのに丁度良い高さになっていたので、水分補給の休憩を取りました。
   ※山中松並木(私の勝手な命名)
067 山中松並木(命名)
松並木と云えるものかどうか見解が分かれるでしょうが、私は松並木として山中松並木と勝手に命名しました。
松並木は、数本の松しかないため、休憩後に歩いてきた方に向けて撮影しました。
街道はこの先の舞木町西交差点で国道1号に合流し、交差点から約100m歩いたマンション「エスポワール舞木」の前に318㎞距離標が建っていました。
右側の距離標は大阪からの距離表示で、日本橋を起点とした進行左側の距離表示も318㎞と同じです。
09時40分、318㎞距離標(進行右側の距離標)
068 318㎞ポスト(反対車線の代用)
※進行右側の距離表示から進行左側の距離表示を撮影 
070 進行方向318㎞ポスト
旧街道は、この先で左に分岐するため、次の市場町交差点で進行右側から左側に渡りました。
市場町交差点を渡り、約80mで左側の道に入り、さらに約80m先で分岐をする左に藤川宿の出入り口跡がありました。
09時51分、東棒鼻跡(左側)
071 東棒鼻跡
棒鼻とは、宿場の出入り口のことで、東にあるため東棒鼻と呼ばれています。
藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年に、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描かれていたからだそうです。
東棒鼻の斜め前に、麦の穂が紫色したむらさき麦の栽培地がありました。
栽培地は保護のため、全面を網で囲われていました。
09時53分、むらさき麦碑(右側)
076 むらさき麦栽培地
むらさき麦の色は、写真よりもっと紫色していました。
街道は、細い道を進みT字路を右折し、その先のT字路を左折する曲尺手(かねんて)になっていました。
09時54分、藤川宿曲尺手
078 藤川宿・曲手
曲尺手(かねんて)を出て約200m歩いた左側に藤川宿駐車場があり、トイレが設置されていました。
トイレに通う名人のYumiさんに利用の有無を確認すると、「大丈夫」という回答だったのでそのまま通過しました。
10時02分、粟生人形(左側)
080 穂州作人形処
駐車場から約250m先の左側に、お城風の建物の粟生人形の店舗がありました。
お店の人が玄関先を清掃していたので、
E=立派な建物ですね
店=ありがとうございます
と挨拶だけしました。
人形店の道路反対側(右側)に、高札場跡の木製パネルが立っていました。
10時03分、高札場跡(右側)
082 高札場跡
高札場跡から約150m歩いた右側の小林商店の左隣りに、問屋場跡の石柱と木製パネルが立っていました。
10時07分、問屋場跡(右側)
085 問屋場跡
問屋場跡碑から約50m歩くと、右側のシロアリ会社の隣りの板塀に「つる屋」の表示がありました。
10時09分、旅籠つる屋跡(右側)
087 旅籠・つる屋跡
旅籠つる屋は、藤川宿にあった7軒の大宿のうちで、原型をとどめていた唯一の建物といわれていましたが、現在は取り壊されてしまいました。
その他に、屋号看板を掲げた米屋(左側=つる屋跡の斜め前)、銭屋(左側=米屋の数軒先)がありました。
   旅籠米屋跡(左側
089 商家・米屋跡
   旅籠銭屋跡(左側)
091 商家・銭屋跡
旧旅籠銭屋跡の道路真向い辺りに、藤川宿本陣跡があったようなのですが、完全に見落としてしまいました。
その隣りに藤川宿資料館があり、入口脇に脇本陣跡がありました。
10時15分、藤川宿資料館・脇本陣跡(右側)
   資料館・脇本陣跡入口
093 藤川宿資料館
  
 脇本陣石碑(資料館内の敷地右手)
096 脇本陣跡
藤川宿脇本陣は、宿駅の本陣の予備にあてた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般の旅行者にも使用されていたもので、経営は本陣に次ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の跡地の4倍、約130坪(約450平方メートル)程の敷地を有していました。
現存する門は、関ヶ原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されたが、昔日の名残りをよく留めています。
脇本陣碑の横には、藤川宿史跡マップが掲げられていましたが、どうゆう訳か本陣跡を見に行こうという考えは浮かんできませんでした。
   藤川宿史跡マップ
106 藤川宿マップ
   
藤川宿資料館の内部
095 資料館内部
資料館は、脱靴だったので、玄関入口から中を覗いただけで失礼しました。
そして門外出た右側に、本陣石垣の案内板が掲げられていたので、見に行きました。
10時18分、本陣石垣跡(右側)
104 本陣石垣跡
本陣石垣だけを見ても、広い敷地の中に建っていたことが分かります。
来た道を戻り、街道に出た右側に道路元標が立っていました。
10時19分、藤川村道路元標(右側)
101 藤川村道路元標

約200㎞歩いた静岡県内では数回しか見る機会のなかった道路元標は、愛知県に入ってから目にする機会が増えたように感じます。
道路元標を後に、左の伝誓寺参道を眺めながら約300m進んだ藤川小学校(右)の正門前に、西の出入り口跡がありました。
10時30分、西棒鼻跡(右側)
109 西棒鼻跡
隣には東海道五十三次の絵で有名な安藤広重の歌碑が立っていました。
10時31分、歌川豊広歌碑(右側)
111 歌川豊広歌碑
歌川豊広は、江戸中期の浮世絵絵師で、歌川広重の絵の師匠です。
ここには、「藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしとうで蛸のあし」という 歌碑が立っていました。
この辺りから進行右側に松並木があり、地名を生かして藤川西町松並木と私が勝手に命名しました。
   藤川西町松並木(右側)
114 藤川松並木①
藤川小学校が終わる十字路の左角に十王堂があり、その隣りに芭蕉の句碑が建っていました。
10時34分、芭蕉句碑(左側)
117 芭蕉句碑
芭蕉は藤川宿に「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」の句を残しました。
句碑は二つあり、小は元石、大は寛政5年芭蕉の百回忌にたてられたもので、芭蕉句碑の中で最大級といわれています。幻のむらさき麦は県農業総合試験場の協力により、はじめて藤川で栽培され現物は、資料館に展示されているそうです。
句碑から約50m歩いた左側に、日本橋から75番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
10時36分、075藤川一里塚跡(左側)
120 075藤川一里塚
藤川一里塚は、江戸時代、街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830年~)頃にはすでに南側がなくなり、北側の榎は昭和初期頃には枯れて、太平洋戦争後に、土盛りも削られてなくなってしまったようです。
一里塚から約200m先の三幸建設(左)の処から数本の松並木があり、地名から一里山松並木と私が勝手に命名しました。
   一里山松並木
123 一里山松並木
一里山松並木から約100m歩いた左に、吉良道の道標がありました。
10時45分、吉良道道標(左側)
125 吉良道道標
吉良道道標は、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道があり、この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点に立っている高さ143㎝・幅20㎝の四角の石柱です。
道標から約50m歩くと名鉄名古屋線の踏切となり、遮断機が下がっていたのでカメラを向けると特急電車が走ってきました。
   ※名鉄名古屋線踏切
128 名鉄踏切・特急列車
踏切を渡たり約50m歩くと、藤川の松並木が始まりました。
10時51分、藤川松並木
129 藤川松並木
松並木をバックに携帯三脚で写真を撮ろうと準備していると、女性二人組の街道ウォーカが挨拶することなく脇を無言で通り過ぎて行きました。
三脚のセットが上手く行かないでモタモタしていると、女性ウォーカはどんどん先に進み、私とYumiさんが歩き出した時にははるか先を歩いていました。
藤川松並木は、国道1号の藤川町西交差点の手前まで約300m続きました。
藤川町西交差点で国道1号と合流し、国道を歩くと岡町神馬崎交差点の手前に距離標が建っていました。
11時05分、321.5㎞距離標(左側)
5㎞ポスト
この先で国道1号と別れるので、記録に残しました。
岡町神馬崎交差点を越し、約250m先の黒柳建設(左)の処を国道1号と分岐して、愛知産業大学留学生会館の方に進み竜泉寺川に架かる坂下橋を渡りました。
時計を見ると11時を過ぎているので、Yumiさんに「食べるところがあったら寄るからね」と話していると、中国料理三国志があり立ち寄りましたが、想定していた値段よりはるかに高かったので次の店を探すことにしました。
別の店にしようと考えたのは、昨日と違い食べるところが見付かる予感がしたからです。
名鉄美合駅に行く美合新町を過ぎ、県道48号を渡る処で左を見ると「めん処 泉七八」があったので、昼食に寄りました。
11時20分~11時48分、昼食(めん処 泉七八)
   天ざるそば
137 昼食(天ざるそば)
   
目薬(緑内障)を点眼
138 点眼中
店内は時間が少し早かったのか2組しかおらず好きな所に座り、天ざるそばを注文しました。
また、配膳を待っている時に目薬のことを思い出し、点眼(緑内障で眼圧を下げる薬)をしてもらいました。
店内は11時30分を過ぎると入店するお客が増えてきて、私達がいるフロアーは満席になりました。
食べた蕎麦と天ぷらは、可もなく不可もない味と料金でした。
支払いを済ませ、信号のない県道48号を走って渡り、山綱川に架かる高橋を越すと、Yumiさんからトイレの要望が出てきました。
私の配慮不足から昼食に寄った店で、トイレに行かなかったのを思い出しましたが、戻るわけにもいかずYumiさんに少し我慢してもらってトイレを探しました。
大平川に橋が架かっていないため国道1号に架かる大平橋を渡ると、橋の途中に暫く出会わないと思っていた距離標がありました。
11時55分、323㎞距離標(左側)
139 323㎞ポスト(大平橋)
Yumiさんを早くトイレに連れて行かなければならないので、急いで記録に収め先を急ぎました。
大平橋を渡たると左にキャンピングカー販売・オグショー愛知があり、店に飛び込んでトイレを貸して頂きました。
11時57分~12時03分、トイレ休憩
141 オグショー愛知
お店の人は大変親切に対応下さり、トイレを貸して下さいました。
Yumiさんと二人でお店の人にお礼を云って、店を後にしました。
街道は、オグショー愛知の手前を左折し、約110m先のT字路を右折、約210m歩いた国道1号の大平町東交差点をそのまま国道1号を横切り県道を進みました。
国道1号から分岐して約130m歩いた右の火の見やぐらの前に、常夜燈が立っていました。
12時08分、秋葉山常夜燈(右側)
143 秋葉山常夜燈
さらに、大平交番から約80m先の男川小学校西交差点(三叉路)の手前右側に、つくて道道標が立っていました。
12時10分、つくて道石碑(右側)
145 つくて道道標
道標から約100m歩くと岡崎大平郵便局があり、角に西大平藩陣屋跡の案内看板が立っていました。
   矢印方向に進む
147 道案内
12時13分、西大平藩陣屋跡(大岡越前守陣屋跡)
148 西大平藩陣屋跡
道案内に従って歩くと右に、大岡越前守陣屋跡(西大平藩陣屋跡)がありました。
陣屋跡は、大岡越前守忠相が寛延元年(1748年)に一万石の大名となって、西大平藩に陣屋を置きました。
西大平藩は定府大名で江戸屋敷詰であったため、三州郡奉行が江戸から派遣され支配していました。
大岡忠相自身も江戸屋敷詰であったため、実際にこの陣屋に住んだことはありませんが、庭園の散策をしながら「大岡裁き」で有名な大岡忠相の功績をしのぶことができます。
陣屋跡から郵便局に戻り、街道を約200m先の十字路左角(右側の大平西町バス停の前)に、日本橋から76番目の一里塚跡がありました。
12時20分、076大平一里塚跡(左側)
154 大平一里塚跡
一里塚は、岡崎宿と藤川宿の間に位置し、大きさは高さ2.4m、横幅6.7m、縦右7.3m、縦左8.5mのひし形の塚である。昭和3年(1928年)の道路改修で北側の塚が壊され、現在は南側だけが残っている。昭和12年(1936年)、国指定の史跡となった。塚の中央に植えられた榎は巨木になっていたが、昭和28年(1953年)の台風で倒れ、現在の榎は2代目のものだそうです。
 一里塚の真向いに、秋葉山常夜燈が立っていました。
12時22分、秋葉山常夜燈(右側)
156 秋葉山常夜燈
常夜燈から約350m歩くと、国道1号に合流し、約200m歩いてまた右に分岐します。
この先から、国道1号と旧街道は、合流と分岐を繰り返しながら進みます。
国道1号を右に分岐した処の右側にお城風の建物のホテル伍萬石があり、街道は東名高速ICの下を潜って進みます。
   ①ホテル伍萬石の前を通る
158 ホテル五万石(城風建物)
   
東名高速ICの下を潜る
159 道案内①(高速ICの下)
   
東名高速ICの下を潜る
三つ目を潜り、坂を上って右に進む
161 道案内
160 道案内②
   
この先で国道1号に合流し、岡崎インター西交差点を渡りむなが約250m進み、ガソリンスタンドのある三叉路を右に行き、筋違橋東交差点に出ます。
交差点から国道脇の道(国道沿いの歩道ではなく、その外側の道)を次の竹橋入口に向けて歩くき、交差点の少し手前から右カープの上り坂となり、約350m歩いた左に27曲り碑・冠木門が立っていました。
12時45分、27曲り碑・冠木門(左側)
163 岡崎27曲りモニュメント
ここで水分補給の休憩を取り、気持ちを新たにして旅に出発しました。
12時49分、01 倉橋歯科医院(右角)
165 27曲り-01
01から約120m、若宮町2丁目交差点角
12時51分、02東海道道標(右)・27曲り=い
166 27曲り-02
02から両町二丁目交差点まで約550m。
   03両町二丁目交差点(右)・27曲り=ろ
167 27曲り-03
03から04まで約100m
13時00分、04 27曲り(右)=は
168 27曲り-04
04から05まで、約80m。
次の角の手前にコンビニ(ファミマ)があり、Yumiのトイレとペットボトル(茶)とおやつを買いました。
13時09分、05 27曲り=に(左)
172 27曲り-05
13時23分、備前屋(左側)
174 備前屋
05から備前屋まで、550m。
備前屋は、天明2年(1782年)に初代が岡崎宿伝馬町に菓子屋を始めたのが興りで、この地で菓子舗を営み現在で八代目です。
歴史のある有名な菓子舗なので、立ち寄り代表銘菓の「あわ雪」をお土産で購入しました。
そして、店を出た処に、東海道道標が立っていました。
13時24分、東海道道標(左側)
175 東海道道標(備前屋前)
伝馬交差点から伝馬通りに、小さい石像が設置されていたので、少し見学してから到着地に向かいました。
   旅籠屋の石像
177 石像・旅籠屋
   
市隠亭の石像
178 石像・市隠亭
   
助郷の石像
179 石像・助郷
13時30分、東岡崎・岡崎サンホテル前(到着地)
180 岡崎サンホテル前(到着地)
ホテルの前で、今日の到着式を行い、ホテルに入りました。
天候は、曇天模様になっていましたが、雨は降りだしておらず、雨が降る前に今日の旅を終了しました。
【ホテル】
13時30分、ホテル着
ホテルに入りましたが、時間が早いためチェックインは1時間後でないとできないため、折畳み傘と雨具以外の荷物を預けて、岡崎城を見に行くことにしました。
ホテルを出る時は雨は降っていなかったのですが、27曲りの道標辺りまで行くとポツポツと雨が降りだし、Yumiさんは雨の中を歩きたくないと云うので、岡崎城は明日見に行くことにしてホテルに戻りました。
しかし、ホテルに戻りましたが、14時頃でまだチェックインできないというので、ホテルのロビーで待たせてもらいました。
14時20分、チェックイン
チェックインして部屋に入りましたが、夕食まで時間があるので、明日の荷物の準備をしたり、テレビを観たりして時間を過ごし17時30分頃、食事に出掛けました。
【夕食】
外は本降りの雨が降っており、持参した折畳み傘を差して、ホテルでもらった地図を頼りに食事処に向かいました。
ところが地図の見方を誤り目的地の反対方向に行ってしまい、雨中の伝馬通りを散歩し、ホテルを出てから30分後に目的の店に着きました。
18時00分、夕食
183 食事処みゆき
ホテルの近くにも店はあったのですが、日曜日が定休日で開いていない等で、少し離れた店になりました。
「みゆき」は夫婦二人で開いている店で、家庭的な雰囲気の中で食事をすることができました。
生ビールで乾杯し、おつまみを食べながら、ご夫婦と楽しい会話をしながら時間を過ごし、最後にさけ茶漬けを食べましたが、Yumiさんは、「こうゆうの初めて食べた」というのですが、さけ茶漬けは家で何回も食べたことがあるので、Yumiさんは忘れてしまったようです。
Yumiさんと二人、美味しい料理と楽しい会話でお腹も膨らみ、久し振りに食べた美味しいさけ茶漬で満足し、また雨の中を歩いてホテルに戻りました。
《入浴》
ホテルに戻り、シャワーで今日の汗を流しましたが、今日のYumiさんは言葉の理解度が低状態で、私が云うことがほとんど理解できません。
同じことを何回も云っていると、分かっていても声が大きくなり、強い云い方になってしまいます。
3才の子でも理解できることができないYumiさんには、病気とは云え困ってしまいます。
狭い浴室の中で何とか汗を流し、シャワーが終わった時はぐったりしました。
今日は、旅プラスのYumiさんの入浴介護で疲れました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【天候】曇り・晴れ
【宿場】(35)御油宿~(36)赤坂宿
【行程】歩行距離=10.46㎞ 総距離=317.26㎞
伊奈・駅入口T字路⇒(0.65㎞)⇒071伊奈一里塚⇒(4.55㎞)
⇒072御油一里塚

(4.51㎞)⇒073長沢一里塚⇒
(0.75㎞)⇒名電長沢・長沢郵便局前
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第21回旅の宿場)
18 21回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第21回
 ↓第21回の旅ルート
  
(名鉄伊奈・駅入口T字路
 ⇒ 名電長沢・長沢郵便局前)
第21回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
GW明けてから孫の弟君を保育園に送って行くため、自宅と娘の家を往復するなどで忙しかったので、空いている時間に旅の準備を行いました。
また、今回の旅で通過する自治体から頂いた史跡パンフレットとネット情報で、史跡の場所を地図に書き込んだりしましたが、自治体から頂いた史跡パンフレットに記された場所と、ネットの情報が異なるところがあり、どちらが正しいのか困ってしまいました。
それは、史跡の場所が前後していたり、進行方向の左と右が違っていたりと大したことがないと云えばそれまでですが、史跡を見落とす大きな要因になってしまいます。
旅はYumiさんと二人で歩いているので、二人で史跡が探せれば良いのですが、残念ながらYumiさんには史跡を探す能力は無くなっているため役に立たず、私が一人で探さなければなりません。
Yumiさんを介護しながらの旅のため、自分の不注意から見落としたりするこ当然ありますが、正確な情報でないために見落としたものもかなりあることも事実です。
今回も、史跡をマップに書き込むのに、どの情報が正しいのか困ってしまうことが何回もあったので、このブログを見た方が困ることがないように、正しい情報を提供することを念頭に旅の準備を行いました。
《準備》
05時15分、起床

ゆっくり身支度出来るように、いつもより15分早く目覚ましの音楽で起床し、体重測定、髭剃り・歯磨き・洗顔・整髪などの身支度を整え、次にリビングに場所を移して
・Yumiさん
椅子に座らせて、両足に軟膏を塗り、両足の膝の両側にシップ薬を貼り、CWXタイツを穿きます。
CWXは、足全体をサポートするスポーツタイツのため、健常者の人でも慣れるまで大変なのですから、認知症のYumiさんに穿かせることはさらに大変になるので、購入したもののほとんど使用していませんでしたが、膝痛対策を考えて穿かせることにしました。
CWXを穿いてからは、着るものなどを順番に重ね置きし、一人で支度してもらいました。
・私
YumiさんがCWX以降の身支度をしている間に、Yumiさんと同じように両足に軟膏を塗り、両足のふくろはぎにシップ薬を1枚づつ貼り、CWXタイツを穿く
などで旅の身支度を整えました。
朝食は、前日のうちに購入しておいた菓子パンと電子レンジで温めた牛乳で食べました。
歩く時は炭水化物系が良いのですが、簡単に食べられることと、Yumiさんがお餅よりパンの方が好きなため、旅の朝食はパン系が多くなっています。
そして、トイレを済ませて休憩していると、Yumiさんが早く行こうと急かすので、予定より20分早く家を出発し、東京駅に向かいました。
《移動》
家を出て近くの公園を自転車で走ると、朝のラジオ体操が終わったところなのか参加した人が帰る時で、帰る人達を見ながら最寄り駅に行き、東京駅に向かいました。
東京駅には8時頃に着き、4号車の乗車口に二番目に並び、ザックを行列のところに置いてYumiさんをトイレに連れて行くなどして、新幹線の入線を待ちました。
08時33分、東京駅発(ひかり505号)
   東京駅新幹線ホーム
001 東京駅新幹線ホーム
新幹線は、定刻に4号車の乗車率50~60%くらいで、出発しました。
空は曇り空で、眺望の良い三島~新富士間も富士山は雲の中に隠れてしまい、残念ながら眺望することはできませんでした。
   富士山は雲の中

003 富士山は雲の中
天気は新幹線の移動とともに青空が広がるようになり、浜名湖は綺麗に眺めることができました。
   車窓からの浜名湖
004 車窓からの浜名湖
新幹線は、東京を出発し、品川、新横浜に停車した後、豊橋までノンストップで走り、定刻に豊橋駅に着きました。
09時58分、豊橋駅着
豊橋で下車し、乗り継ぎで名鉄線に移動するのですが、待ち時間が25分あるため、Yumiさんの乗り換えを考えJRの改札から切符で一度出札し、名鉄線にパスモで入場しました。
駅の改札をパスモで通る時、後ろを歩くYumiさんにパスモを見せて「これを出して」と伝え、用意してもらいます。
そして、改札を通る直前になると、パスモが入っているケースを見せ「どっち」と聞いてくるので、どちらの向きでも感知するケースなので、見せた方で良いことを伝え、改札を通過します。
この流れは、Yumiさんの学習高架がないため、改札の時に毎回繰り返されるパフォーマンスです。
今日もYumiさんはパスモを使う時、パスモが入っているケースを私に見せて使い方を確認してきました。
10時23分、豊橋発(急行)
   
名鉄豊橋駅ホーム
005 名鉄・豊橋駅ホーム
10時28分、名鉄伊奈駅着
改札を出て、階段を下って外に出ました。
駅に隣接している中学校の教室から聞こえてくる先生や生徒の声を聞きながら、出発地の駅入口T字路に向かいました。
天気は晴れて温度も上昇気味で、私は汗が出てきました。
今回の出発地に、これから二泊三日の旅が始まるので気を引き締めて立ち、車が通る合間を縫って出発式の準備(出発用の看板)を行い、旅の出発式(撮影)を行いました。
【=旅=】
10時36分、名鉄伊奈・駅入口T字路(出発地)
008 名鉄伊奈駅入口(出発地)
歩道のない道路なのに車がひっきりなしに走ってくるので、気を緩められません。
出発して直ぐ、少し早めでしたが、Yumiさんの衣服調整をしておこうと考え、
E=暑くなってきたからチョッキを脱いで
Y=男の人と女の人は違うの
E=これから温度が上がっていくので、汗をかく前に一枚脱いで
Y=風邪をひいちゃうよ
と、ブーブー文句を云われましたが、自分で温度調節が出来ないため、汗をかいて体力が消耗する前に、文句が出てもチョッキを脱いでもらいました。
「さあ、出発」とスタートして約350m歩くと酸素の里「親空治療院」があり、その隣りの駐車場の隅に本陣茶屋の跡碑が立っていました。
10時44分、伊奈立場茶屋跡(左側)
010 茶屋本陣跡碑
伊奈立場茶屋は別名「茶屋本陣」ともいい、貞享4年(1687)、吉田藩主小笠原壱岐守長祐が御馳走御茶屋として建てたのが始まりで、その後、数軒の茶屋が建てられ休息所として利用されました。
伊奈は東海道吉田宿と御油宿の中間にあり、旅人の休憩所として立場茶屋が設けられたそうです。茶屋のうち格式高い加藤家(初代は大林平右衛門)は「良香散」という腹薬が有名で、芭蕉とも親交のあった俳人の鳥巣(うそう)はこの加藤家の生まれである。
茶屋から約300m先の右側に山本太鼓店があり、店の前に日本橋から71番目の一里塚があり、跡碑が建っていました。
10時50分、071伊奈一里塚跡(右側)
014 071伊奈一里塚跡
太鼓を綺麗に飾ってある店舗で、少し見学させて頂ければと店の中に入らせて頂きました。
仙台に転勤していた時、北秋田市綴子(鷹ノ巣)で世界一の大太鼓を見たことを思い出しながら見ていると、女将さんが出てきて、長い歴史がある店であること、豊川の祭りで使用する太鼓の皮(写真・中央奥)などを見せて下さいました。
016 山本太鼓店(一里塚碑前)
女将さんにお礼を云って店を出て約170m歩くと、右側に参道の両側に常夜燈などの石塔が多数立っている神社がありました。
10時56分、速須佐之男神社(右側)
017 速須佐之男神社入口
「はやすきのをのこと」と読み、Yumiさんに参拝して行こうと声を掛け、参道を進み本殿に向かいました。
神社に参拝しているのは私とYumiさんの二人なので、本殿でお賽銭をご奉納し、
・Yumiさんの意味認知症の完治
・旅の御加護
を小さい声ですが、声を出して祈願すると気持ち良く参拝することができ、所願成就を心から願いました。
神社を出て約450m歩くと佐奈川に架かる佐奈橋があり、橋を渡ってさらに約180m歩くと左側に中村医院があり、その先に格子戸の家(星川家)がありました。
11時07分、格子戸の家(星川家)=左側
020 格子戸の家(星川家)
この辺りから数軒ですが、格子戸を残した家が建っており、街道を歩いているとこのような格子戸の家を見ると江戸時代の頃を連想させて下さいます。
星川家から約290m先の星川建設(左側)を過ぎた右側の道の角(星川建設から約90m)に、色とりどりの花が咲いた花壇があり、少し目の保養をしました。
11時14分、花壇の花(右側)
021 街道沿いの花壇(桜町)
Yumiさんが「綺麗な花」と云って立ち止まったので、ハイ・ポーズをしてもらいました。
街道は歩道がないので、左側だと後ろから車が走ってきても見えないため、車が走ってくるのが見える右側の方が安全なので、右側を歩いています。
旅は炎天下の中、約90m先の五伝橋、五伝橋から約350mの西古瀬橋を渡り、無味乾燥の工業団地の中を歩きました。
11時30分、県道31号越え
西古瀬橋から約500m歩くと工業団地の山桃交差点をがあり、交差点から約250m歩くと正面に県道31号線のガードレールが見えてきました。
ガードレールの前に来て、
・左折して約150m先の名鉄線沿いの交差点を迂回
・右折して約100m先の京次西交差点を迂回
・ガードレールを跨いでしまおうか
のどの方法にするか考え、交通量が少ないのと、足が短いYumiさんでも何とかガードレールを跨げそうなので、交通違反ですが最短のガードレールを跨いで進むことにしました。

025 県道31号・ガードレールを跨いで渡る
Yumiさんは1号線の交差点を渡ると考えていたようで(Yumiさんの考え方が正しいのです)、
E=跨げる?
Y=あそこ(1号線の交差点)ではないの?
E=ここを越えていこう
Y=え、ここを通るの?
E=跨げるかな?
Y=・・・・・
と話しながら、何とかガードレールを跨ぐ ⇒ 立体交差道路の下を潜る ⇒ ガードレールを跨いで県道31号を横切りました。
県道31号を横切り(交通違反)約140m進むと、右側に中華料理の豊龍園があり、入口に「新年会忘年会受付中」の看板が立っていました。
027 一年中受付中(豊龍園)
素人がペンキで書いた看板で、店の人は私と同じ面倒臭がり屋で、片付けるのが面倒だったのでしょう、時期に関係なくそのまま置かれていました。
きっと店の人もこの時期に、看板を見て忘年会や新年会の予約をする人はいないだろうと考えているのでしょうね。
中華料理店から約120mで国道1号(白鳥5丁目西交差点)に合流するので、交差点を真っ直ぐ渡り国道脇の田圃道を進みます。
11時35分~11時40分、白鳥5丁目西交差点(休憩)

028 白鳥5丁目西交差点
ネットに掲載されているマップは、国道1号線を歩くようになっていますが、いろいろと調べてみたら国道脇の道を歩くのが正解のようなので、田圃道を歩くことにしました。
また、交差点を渡ったところで、
・歩き始めてから一時間経過した
・Yumiさんが寒い
と云うので、休憩を兼ねて水分補給と衣服調整(長袖のパーカーを着る)をしました。
国道脇の田圃道は、道なりに約400m進み、名鉄豊川線の踏切を渡って直ぐの民家(夫婦で垣根の剪定をしていました)の前を左折し、豊川コンクリート工業(生コン工場)に沿って歩くとT字路(変則5差路になっている)となり、五差路を左折しました。
左折して約120m歩くとまた名鉄(豊川線と本線)の踏切を渡るのですが、丁度遮断機が下りたので写真を撮ろうとしていると猛スピードで特急電車が走り抜けて行ったので、準備してシャッターを押したら先頭車両はすでに通り過ぎてしまいました。
030 名鉄の踏切(特急)
名鉄の踏切を渡って約170m進むと、国道1号線に出るので、白鳥地下歩道を潜って反対側に渡ります。
031 白鳥地下道
地下歩道を潜って反対側に出て右に約80m進むと国府町藪下交差点で、左角にお城の櫓造りのような国府交番がありました。
11時57分、国府交番(左側)

032 国府交番(城風建物)
旧東海道は、ここで1号線から分岐して左に進みますが、静寂に包まれた中の旅となりました。
交番の先の左側に豊川国府郵便局があり、郵便局を過ぎて約70m先の右側の空き地に、半僧坊の石碑が立っていました。
12時02分、半僧坊大権現碑(右側)
034 半僧坊大権現
半僧坊大権現は、浜松市引佐にある奥山半僧坊のことのようです。方広寺の守り神で、明治14年の山火事で、本堂などの建物が焼けたが、半僧坊仮堂と開山円明大師の墓地が焼け残ったことから、火除けの神として全国に広がったとあり、この石柱もその頃に建てられたのではないかと考えられています。 
石碑を過ぎると商店街らしくなってきたので、Yumiさんに「食べられる処があったら入るから少し我慢してね」と話し、昼食を食べる処を探しながら歩きましたが、飲食店が街道沿いには見当たりません。
名鉄の特急が停車する国府駅の近くなので、食堂の一軒くらいあるだろうと考えていた私の期待は見事に裏切られました。
12時06分、うば車の看板(左側)
036 うば車店
食べる処を探しながら歩いていると、「うば車」の看板が目に入りました。
「うば車?」
最近は、聞くことも、見ることもない文字に昔、私が乗せてもらった「うば車」を思い出し、どうゆうものを売っているのだろうと、戸を開けて店内を見させて頂きました。
店内は同じ店なのですが2つに分かれており、手前はクリーニング店で、奥にうば車(ベビーカー)の売場になっていたので、
E=売っているのですか?
店=売ってますよ
E=昔懐かしい名前だったので、見させて頂きました
とお礼を云って、店を後にしました。
国府駅に行く新栄町2丁目交差点を過ぎると、商店がなくなり民家だけの状態となり、「Yumiさん、もう少し待っててね」と云いながら歩くのですが、食堂がありません。
新栄町2丁目交差点から約240m歩くと、右側に大社神社があり立ち寄りました。
12時14分、大社神社(右側)
037 大社神社
大社(おおやしろ)神社国府の総氏神として祀られて、7月下旬に開催される夏まつりは盛大に行われるようです。
二人ともお腹は空いていましたが、参拝に立ち寄り、伊奈の速須佐之男神社の時と同じようにお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護を祈願しました。
大社神社出て、約170m歩くと右側に蒲郡信用金庫国府支店があり、敷地の角に日本橋から72番目の一里塚があり、塚跡に石柱が建っていました。
12時18分、072御油一里塚跡(右側)
041 御油一里塚
一里塚から約180m先の県道368号を渡った右側に、秋葉山常夜燈と道標が立っていました。
12時23分、御油追分(右側)
043 御油追分(姫街道合流地)
追分は、東海道と姫街道の分岐点で、昔から佇む常夜灯と「ほうらいじ道」「砥鹿神社道」「秋葉山三尺坊大権現道」の道標が今も残っていました。
国府では食べる処に巡り合うことができなかったので、次の御油に期待して空腹を我慢して歩みを進めると、約250m歩くと五井橋が架かっていました。
12時28分、五井橋
047 御油橋
音羽川に架かる五井橋(旧御油橋)を渡ると、御油宿に入ります。
音羽川の両岸は綺麗に整備された桜並木になっており、Yumiさんに「桜の時期は綺麗だろうね」と話しながら、暫し新緑の桜の樹を眺めました。
五井橋を渡り約220m先の十字路を右折するのですが、右折する右角にベルツ花夫人ゆかりの地の標札が立っていました。
12時32分、ベルツ花夫人ゆかりの地(右側)
048 花の実家跡(ベルツ夫人)
ベルツ花夫人(本名 荒井花子)は、元治元年(1864)11月18日 東京の神田で生まれ、明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖といわれるドイツ人医師ベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らし、1905年に任期を終えた博士とドイツに渡たり、博士が亡くなったため1922年に日本に帰国し、1936年74歳で亡くなりました。父親の荒井熊吉の生家が、御油宿で戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所でした。
ベルツ花夫人の標板の真向いの左角に連呼格子の家が、静かな佇まいの中に残されていました。
12時33分、連子格子の家(左側)
051 格子戸の家
連子格子の家の2階は雨戸が閉まっているので、現在住んでいるのかどうか分かりません。
さらに右折する十字路の左角(連呼格子の家の道路を越えた先隣り)に、高札場跡の標板が立っていました。
12時34分、高札場跡(左側)
052 高札場跡
街道は、右角のベルツ花夫人ゆかりの地の、左角の連呼格子の十字路を右折しました。
右折して約40m歩くと右側の空き地に東海道御油宿の宿絵が掲げられていました。
12時35分、東海道御油宿の絵(右側)
054 御油宿・宿女の絵
御油宿の史跡案内を見ると、この絵が立っている辺りが問屋場跡なのですが、史跡の標示がなく確認できませんでした。
時間が12時30分を過ぎ早く昼食を食べたいと思い、宿絵から約60m先の十字路を左折して約30m歩いた左側の茶屋「こくや」に向かいました。
団子などでもいいから何かお腹に入れようと考え「こくや」に立ち寄ったのですが、店は代が代わり現在は注文弁当のみを扱う店になっていて、資料に書かれていた団子は売っていませんでした。
店の人に近くで食べられる処を聞くと、赤坂宿までないとの回答に、「え!!、ホント」と体の力が抜けてしまいました。
御油宿の中には、予約弁当を扱う店はあるのですが、コンビニも、食堂も一軒もありません。
自治体から頂いた史料にも、ネットの情報にも、食べるところが無いとは記されていなかったので、弁当の用意をしていませんでした。
これから国府・御油を昼頃に歩かれる街道ウォーカの方は、弁当を持参するか、国道1号線に出て探す必要がありますので、留意下さい。
私とYumiさんは、御油にこの後来る予定がないので、空腹を我慢して「こくや」の前のみそ・醤油の旧いがやや少し戻って御油松並木資料館(右側)を見に行きました。
12時40分、旧いがや(右側)
055 旧いがや(みそ・しょうゆ)
旧いがやは、住んでいるようですが、店舗はシャッターが閉まっていて、見学することはできませんでした。
次に訪れた御油松並木資料館は、土足禁止で靴を脱着する必要があり、お腹が空いていたのと、靴の脱着はYumiさんの脱着を介護する必要があるため、脱着するのが面倒で戸口の処から中を覗いただけで出てしまいました。
また、家に帰ってきてから、御油松並木資料館の写真を撮っていないことに気が付きました。
資料館から出て、「さて、どうしようか」と考えた時、旧茶屋のこくやの隣りに洋菓子店があったことを思い出し、ケーキでも何でも良いから取り合えず何か食べるものを買うことにして洋菓子店に向かいました。
12時48分、洋菓子店・おふく(左側)
056 おふく(昼食のパンを購入)
   お土産に頂いた楊枝入れ
057 おふくで頂いた楊枝入れ
お店に入ると、洋菓子・和菓子の他にパンが売られており、Yumiさんに食べたいものを聞きながら購入しました。
また、カウンターの上に折り紙で折った楊枝入れが無料配布されていたので、お店の人に断って2つ頂きました。
「これで食べられる」と、食べるものを手に入れてホッとしました。
おふくを出て約50m歩くと、左側に本陣跡がありました。
12時55分、御油宿本陣跡(左側)
058 本陣跡碑
本陣は、江戸時代の宿場で大名や幕府役人等が宿泊した公認の宿舎で、御油宿には二軒の本陣があったそうで、鈴木半左衛門が営んでいた本陣跡です。
鈴木半左衛門が営んでいた本陣の跡は現在はイチビキ醤油の第一工場の倉庫になっています。
本陣の道路反対側に連子格子の家があり、資料では脇本陣らしいのですが、史跡標示もなく、戸も締まっていたので確認できませんでした。
   脇本陣跡(右側)?
061 脇本陣跡(?)
本陣跡碑が立っていた隣りは、醤油醸造イチビキの工場が道の両側に建っていました。
史料では、大樽が展示してあると記されていましたが、工場内の展示なのか外にはありませんでした。
醤油醸造のイチビキ第一工場を過ぎ、左側のうさみ商店、右側の本町区集会所を過ぎた右側にメープル御油があり、道路反対側の真向い家の軒先にツバメの巣があり、3~4匹の子がいました。
13時04分、ツバメの巣(左側)
062 つばめの巣
ツバメの子は、私の姿が見えると首をすくめて身を隠くすようにし、少し離れるとまた首を伸ばしていました。
ツバメの巣は、隣りの家にもあり、親ツバメが近くを飛び回っていました。
この飛んでいるツバメの写真を撮ろうとすると、カメラの電池が切れてしまい持参している予備電池と交換しました。
ツバメの巣ある処(メープル御油)から約240m歩くと、御油の松並木が始まり右側に石碑が立っていました。
13時07分、御油の松並木碑(右側)
063 御油・松並木
そして、石碑の左側に腰掛ける場所があったので、遅くなった昼食を食べることにしました。
《昼食》
13時07分~13時20分、昼食(松並木入口でパン食)
065 昼食
昼食は、歩いている途中の自販機で買った缶コーヒーとパンだけですが、赤坂宿まで我慢することを考えたらパンが買えたことが幸運だったと思いました。
そして、松の木陰は涼しく、短い時間でしたが、良い休息を取ることができました。
13時21分、十王堂(左側)
067 十王堂
御油の松並木の石碑の少し手前の左側に、十王堂が立っていました。
十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことで、建物は明治の中頃に火災にあい再建されたもので、この十王堂の創立年は定かではありませんが、古くからこの地にあったようです。
13時21分、御油の松並木
  松並木の入口付近
069 御油・松並木①
   松並木の中間付近
073 御油・松並木②
松並木は、御油宿と赤坂宿の間の600mに現存する松並木で、昭和19年に国指定の天然記念物となり、松の本数は推定650本ありました。しかし、次第に減少し百数十本まで落ち込み、昭和40年代から松並木の保護育成が行われ「日本の名松百選」にも選ばれています。
また、松並木は慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。
松並木を歩き始めて約100m先にある最初の十字路を過ぎた左側に、弥次喜多茶屋がありました。
昼食を食べた直後だったので立ち寄りませんでしたが、一時間くらい前に昼食を食べていたら立ち寄ったと思います。
13時24分、弥次喜多茶屋(左側)
072 弥次喜多茶屋
茶屋の道路反対側(右側)には、松並木が終わる付近まで公園として整備されており、公園の中にトイレがあったので、Yumiさんに場所を教えてトイレ休憩を取りしました。
13時31分~13時34分、休憩(トイレ)
トイレは松並木の終わる付近にもあり、公園が終わるところで松並木も終わりました。
松並木が終わった付近の小さい橋を渡り、約40m先のT字路の右角に東(江戸口)見付跡がありました。
13時36分、赤坂宿東見附跡(右側)
075 東見附跡
見附とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りするところを見張ったところで、松並木に近いところが東側の見附跡です。
見附跡から約230m歩いた左側に関川神社があり、天然記念物のクスノキと芭蕉の句碑があり立ち寄りました。
13時43分、関川神社(クスノ木・芭蕉句碑)(左側)
080 楠木(関川神社)
関川神社は、長保3(1001)年創建と伝えられており、三河国司大江定基の命をうけた赤坂の長者宮道弥太次郎長富が、クスノキのそばに市杵島媛命を祀ったのが発祥とされます。
関川神社には、推定樹齢は約800年の天然記念物のクスノキで植えられています。木の根元がえぐれているは、慶長14年(1609年)に十王堂付近から出火した火災時に焼けたものだといわれています。
また、本殿の横に、芭蕉の句碑が立っており、句碑に「夏の月御油よりいでて赤坂や」と刻まれています。
この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、16町しかない赤坂と御油間の距離の短さを詠ったものと云われています。
13時43分、芭蕉句碑(左側)

081 芭蕉句碑
関川神社から約120m先の左側に、格子戸の民家がありました。
13時45分、連子格子の家(左側)
082 格子戸の家
連子格子の家を過ぎ、赤坂紅里交差点の手前左側に平松家のがあり、家の門前に赤坂宿の本陣跡の史跡解説の標板が立っていました。
13時47分、赤坂宿本陣跡(左側)
083 赤坂宿本陣跡
赤坂宿の本陣は、初め彦十郎家一軒で行われていましたが、その後庄左衛門家・弥兵衛家・又左衛門家が加わり4本陣になりました。4陣のうち伝統のある彦十郎家は、間口17間半、奥行28間、部屋の畳数422畳、門構玄関付きの大変立派なものでした。
そして、本陣の道路の反対側(真向い)に、高札場跡がありました。
13時48分、高札場跡(右側)
086 高札場跡
史料ではこの近くに問屋場跡があると記されていましたが、見落としてしまいました。
赤坂紅里交差点を越えた右側に、行灯型看板がそのまま残っている尾崎屋がありました。
13時49分、尾崎屋曲物店(右側)
088 尾崎屋(行燈形看板)
尾崎屋の行灯(あんどん)型看板(写真中央の白丸)は、商店の軒先に看板として掲げる形式に発展したようで、現在もそのまま残っていました。
尾崎屋から数軒先(約50m)の左側に、東海道筋で唯一営業を続けている旅籠の「大橋屋」がありました。
13時51分、旅籠大橋屋(左側)
090 旅籠・大橋屋
大橋屋の創業は慶安2年(1649年)と約360年の歴史があります。現存の建物(写真)は正徳6年(1716年)の建築と伝えられ、創業時の屋号は「伊右エ門 鯉屋」であったそうです。
赤坂宿には、享保18年(1733年)に83軒の旅籠があり、大橋屋はその中でも大旅籠に属しており、間口が9間、奥行が23間ほどあったそうです。
大橋屋は「ぜひ宿泊したい」と考えかなり前に宿泊予約をしたのですが、先人の宿泊エピソードを拝読すると健常者の人でも頭をぶつけたりする鴨居の低さ(江戸時代から続いている建物なので当たり前です)と知り、トイレのことも考えると認知症のYumiさんに宿泊させるのは難しいと考えキャンセルしました。
折角の機会だったので残念でしたが、致し方ありません。
大橋屋は、平成27年3月15日で、長い歴史に終止符が打たれました。
大橋屋から約100m歩くと、左側に豊川市の休憩所(よらまい館)がありました。
13時56分、よらまい館(左側)
094 御休処・よらまいかん
休憩所なので、ひと休みしようかと入館したのですが、休憩するには靴を脱いで上がらなければならないため、靴の脱着が面倒で立ち寄るのを取り止めました。
そして、よらまい館の真向いに、陣屋跡がありました。
13時59分、赤坂宿陣屋跡(右側)
096 赤坂陣屋跡
赤坂宿陣屋は、天和2年(1682年)、三河国の天領を支配するために代官所として設けられ、慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)まで、政体書による府藩県三冶制が敷かれて、明治政府直轄の三河県の県庁として機能した。
陣屋跡から約280m歩くと、右側に赤坂宿西(京口)の見張り所だった見附跡があり、民家の塀の脇に標柱が立っていました。
14時05分、赤坂宿西見附宿(右側)
098 西見附跡
そして、見附跡の斜め前方の左側駐車場に、十王堂跡碑の標柱が立っていました。
14時07分、十王堂跡碑(左側)
100 十王堂跡
さらに、十王堂跡碑の反対側(右側)に杉森八幡社や赤坂の舞台があると記されていましたが、立ち寄らずに通り過ぎました。
十王堂跡から約200m歩くと音羽中学があり、音羽中学を過ぎた処の週字路から約60m歩いた右側に、石碑が立っていました。
14時15分、毘沙門天入口道標(右側)
102 毘沙門天入口道標
石碑には道標を伺わせる文字はありませんが、街道の前後に道標がなかったのと、史跡資料から道標と記しました。
間違っていたらコメントに記して教えて下さい。
この辺りは、堀内姓の立派な建物の家が多く、その中には連子格子の家が残されており、歴史の重みを感じました。
   堀内家の連子格子(右側)
104 連子格子の家(堀内家)
連子格子は、通り側にある縦に細かい格子は外から中が見えにくい様になっており、細い角材を縦に並べ、その格子間の空きを格子の見付き寸法の1~3倍ほどとった格子のことで、1・2階の柱間で平格子または出格子として用いらました。
連子格子の家などを眺めながら歩いていると、右に道路のあるT字路となっている左側にまごころ薬局があり、ここから約500m先の音羽川に架かる八王子橋の手前左側に道標が立っていました。
14時30分、一里山庚申道道標(左側)
106 一里山庚申道道標
石碑に書かれている文字を確認し、写真を撮って次に向かいました。
八王子橋を渡り、県道73号の下を潜り、約280m歩いた左側に、日本橋から73番目の一里塚があり、塚跡に標柱が建っていました。
14時35分、073長沢一里塚跡(左側)
108 073長沢一里塚跡
現在の一里塚は、左側に標柱が1本立っているだけでした。
今日の旅は名鉄線の長沢駅までのため、旅の終点もあと少しとなり、乗車する電車(15時10分発)まで時間の余裕があるので、最後の休憩を取ることにしました。
14時35分~14時40分、休憩
ザックを降ろし、水分補給とお菓子(柿ピー)を食べるなどして5分ほど休憩しました。
一里塚跡から約30m歩くと右側に長沢小学校があり、学校の角の石垣に標板が立っていました。
14時41分、長沢城址碑(右側)

110 長沢城址
長沢城は、長禄2年(1458年)、標高92mの丘陵地に松平信光の子の親則が築城したといわれ、親則が岡崎市岩津からここに移り住み、長沢松平家の祖となりました。
東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なものでしたが、現在は堀の一部が残っているだけで、城址を感じるものがなく史跡保存の空しさを感じました。
長沢城址跡から約600m歩くと、長沢簡易郵便局がある今日の到着地の十字路に着きました。
14時50分、長沢簡易郵便局前(到着地)
114 長沢郵便局(到着地)
【移動】
到着地で到着式(看板を掲げて写真撮影)を行い、名鉄線と並行している国道1号を地下道で潜り、名電長沢駅に向いました。
14時54分、名電長沢駅着
   名鉄・名電長沢駅(後方は東名高速)
117 名電長沢駅舎
   名電長沢駅ホーム(後方は豊橋方面)
119 名電長沢駅ホーム
駅は無人駅で、自動改札機が設置されているだけで、ホームにも誰もいません。
駅舎の隣りは、東名高速で車の走る音が聞こえてくるだけで、ホームのベンチに約15分Yumiさんと二人だけで座り、のんびりとした時間を過ごしました。
15時10分、名電長沢駅発
1時間に2本の電車に乗り、今日歩いた街道を車窓から眺めながら途中、国府駅で豊橋行きの急行に乗り換え、ホテルのある豊橋に向かいました。
※名電長沢で乗車した各停電車は、全て豊橋の手前の伊奈止まりのため、豊橋に行くには特急停車駅の国府などで乗り換える必要があります。
15時26分、名鉄・豊橋駅着
【ホテル】
今日の夕食は、豊橋の名物である「菜飯田楽」が食べたいので、食べに行こうとする店舗を決めてからホテルに向かいました。
菜飯田楽は、
こんがりと焼いた豆腐に味噌をぬった田楽と、細かくきざんだ大根の葉を混ぜ合わせた"菜めし"です。
先月の旅の時、時間の巡り合わせが悪く老舗の店で食べられなかったので、今日は老舗ではありませんが、味わってみたいと考えていました。
15時40分、ホテル着
宿泊するホテルは、豊橋鉄道系列の豊鉄ターミナルホテルです。
ホテルは、豊橋駅東口を右に進み、豊橋鉄道の新豊橋駅を右に見て、デッキからエスカレータで下った先にありました。
豊橋鉄道本社が入っており、6階がフロントになっていました。
フロントでチェックインを行い、8階の部屋(ツインルーム)に行きました。
部屋は、ベッドの他に、テーブルとイスが置いてあり、クローゼットも一人4本のハンガーが用意されていました。
夕食まで少し時間があるので、靴をスリッパに履き替え、これから明日の出掛けるまでに必要な着替え、服用薬等をザックから出して用意したり、ベッドに横になって体を休めたりしました。
17時35分、夕食
122 菜飯田楽セット(いちょう豊橋駅前店)
チェックインする前に確認した「菜飯田楽」の店に行きました。
時間が早く、店内は空いていましたが、入っている数組の人達は私達より先輩でした。
まず菜飯田楽を注文する前に、生ビールと数種類のつまみを注文しました。
生ビールが運ばれ、今日の旅を祝して乾杯し、乾いた咽喉を潤しました。
暑い日に飲むビールは格別で、気持ちよく咽喉を通っていき、Yumiさんもニコニコしながら飲んでいます。
生ビール(私が2杯、Yumiさんが1杯)を飲んでから、菜飯田楽を食べました。
写真の田楽は3本ですが、私が5本の定食を注文したので、Yumiさんに1本分け仲良く4本ずつ食べました。
串刺しされた木綿豆腐に、濃いタレとからしが付いていて、食べやすく美味しかったので、豊橋に来る機会があったら食べたいと思います。
満腹になったお腹を揺すりながらホテルに戻り、シャワーを浴びました。
《シャワー》
Yumiさんは、ホテルの給湯がお湯と水を調整して使うシステムのため、一人でシャワーを浴びることができないので、私が先にシャワーを浴び、その後Yumiさんがシャワーを浴びます。
Yumiさんにボディーシャンプーを付けたタオルを渡し、自分で体を洗ってシャワーで洗い流し、次に洗髪しましたが、私が介助した部分は、シャワーを渡したり、洗髪を手伝う程度で、ほとんどはYumiさんが一人で洗い流しました。
シャワーを浴びて汗を流すとすっきりし、一杯飲んだアルコールが効いてきたのか睡魔が襲ってきて、翌日の旅支度を確認して早々にベットに入りました。
 

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  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


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