【宿場】(42)桑名宿⇒(43)四日市宿
【行程】歩行距離=10.12㎞ 総距離=379.55㎞
桑名・七里の渡し⇒(5.00㎞)⇒093縄生一里塚(4.45㎞)⇒094富田一里塚⇒(0.45㎞)⇒近鉄富田・寺村薬局角
【ルート図】
↓宿場(黒囲みが第26回旅の宿場)
↓旧東海道の旅・進捗状況
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
↓第26回の旅ルート
(桑名宿・七里の渡し跡 ⇒ 近鉄冨田駅・寺村薬局角)
【旧東海道の旅】
今日は、「第26回旧東海道夫婦二人旅」で、宿泊した名古屋駅からJRに乗り桑名駅に移動し、桑名宿・七里の渡し跡を出発し、近鉄富田・寺村薬局角までの10.12㎞を旅します。
江戸時代は七里の渡し舟で渡るか、佐屋街道を歩いたのですが、私とYumiさんは現代の文明の力をお借りして七里の渡しを渡ります。
《朝の支度》
今日のYumiさんのトイレ通いは、4時頃から始まり5時30分のモーニングコールの電話が鳴るまで、数えたら5回でした。
多い時に比べて少ないのですが、いろいろな音で、とても寝ていられませんでした。
5時30分、起床
今日着るものは、2日間使用したものを全て新しいものに着替えるため、昨夜のうちに用意しておきました。
着替えを持参しないで、宅急便を利用したり、ホテルで洗濯するなどの方法がありますが、雨天時や暑さ時の予備を持参することを考えると、宅急便でのやり取りに大きな効果は期待できなかったり、ホテルでの洗濯も干す場所や洗濯は私が全てを行うことになるため、最小限の着替えを持ってきたので、ザックの重量が増えても致し方ありません。
Yumiさんのスポーツタイツ穿きは、かなりスムーズに行えるようになってきましたが、
①.Yumiさんの着替え
②.足の手入れ(両足の塗り薬の塗布、シップ薬の貼付)
③.ザックの整理
④.目薬の点眼および血圧測定
を行ってから、自分の分の着替えや荷造りがあるので、結構時間が掛かります。
Yumiさんの着替えは、寝る前に着る順番に用意しておくのですが、寝る時に着た下着やシルクズボンは脱いだ時にザックに入れないと、そのまま着込んでしまうため、Yumiさんに任せておけません。
6時50分、出掛ける準備を整え、ザックを持って朝食会場に行きました。
《朝食》
朝食会場に着くと「7時からです」と時間厳守を伝えられたので、フロントでチェックアウトの手続きを行い、その後食堂の椅子に座って始まるのを待ちました。
7時に朝食となり、10分程で食べ終え、ホテルを出発しました。
07時11分、ホテル発
平日ですが時間が早いのか改札口までの通路は空いていましたが、乗車するホームに向かう時は、到着した電車からドーと人が降りてきて、Yumiさんと離れないように歩きましたが、大変でした。
久し振りに、通勤時の混雑を味わいました。
さて、旧東海道を旅していて、今日は大きな節目となる「七里の渡し」の日です。
江戸時代は、桑名までは海路7里か、川路3里か、陸路だったので、東海道の旅が終わってから時期を見て、この中のいずれかの方法で、江戸時代の東海道を味わってみたいと思います。
今日は、現代の文明の電車を使って、七里の渡しを渡ります。
07時20分、名古屋駅発
乗車した電車の座席はほぼ満席でしたが、反対側の名古屋方面に向かう電車は、通勤時間帯になっているのか、かなり混雑していました。
電車に乗っていても海が見えることもなく、七里の渡しをしているという実感は、全くしませんでした。
07時58分、桑名駅着
ここから七里の渡しまでの約1.3㎞をどうしようか考え、バスで近くまで行く予定で計画していたのですが、バスターミナルに着くと、乗ろうとしていたバスが出発して走って行くところでした。
次のバスは8時30分のため約30分の待ちとなり、七里の渡しまで歩くと時間が掛かるので、バスの代わりにタクシーで行くことにしました。
08時03分、桑名駅発
駅前のタクシー乗り場で乗車し、船津屋(旧本陣)に向かいました。
私は距離から1メーターで行くと思っていたのですが、着く少し前でカチャと音がしてメーターが上がりました。
「え!!」と思いましたが、旅の出発の時だったので、何も云わずに精算して降りましたが、何とも釈然としませんでした。
タクシーから降りたところが、現在の船津屋の前でした。
【=旅=】
08時08分、大塚本陣跡(船津屋)
大塚本陣は、桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できたそうです。
建物は変わっていますが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業しており、旧大塚本陣の建物の一部は、四日市市川北町の法従寺に移築されて現存しているそうです。
大塚本陣に向かって右方向にある七里の渡しに行こうとすると、船津屋の塀に句碑が掲げられていました。
08時11分、歌行灯句碑
歌行灯句碑は、明治42年に泉鏡花が桑名を訪れて船津屋に一泊した時に、ここを舞台に名作「歌行燈」を書き上げました。のちに「歌行燈」を戯曲化した久保田万太郎が詠んだ「かわをそに火をぬすまれてあけやすき」の句碑です。
句碑の右隣りを見ると、駿河屋脇本陣であった料理旅館の山月がありました。
08時12分、駿河屋脇本陣跡(料理旅館・山月)
脇本陣は桑名宿に4軒あったそうですが、そのうち最も格式の高かったのが駿河屋でした。
建物は変わっていますが、現在は料理旅館「山月」の一部となっています。
Yumiさんの脇の石碑は、昭和20年の桑名空襲の際に、近くの城壁から吹き飛ばされてきた石を利用したもので、「勢州桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に二朱の女郎」と刻まれていました。
山月の前方に桑名宿・七里の渡し跡がありました。
08時13分、桑名宿・七里の渡し(出発地)
今日の出発地の七里の渡しで、出発式を行いました。
七里の渡しは、慶長6年(1601年)正月、江戸と京都を結ぶ東海道が制定され、桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、海路7里の渡船と定められました。後に、佐屋宿(現愛知県海部郡佐屋町)へ川路3里の渡船も行われるようになりました。宮までの所要時間は3~4時間と思われますが、潮の干満によりコースが変ったりして時間も一定ではなかったようです。
大きな区切りである桑名宿の七里の渡し跡で出発式を終え、旅を始めました。
七里の渡し跡がある公園(?)の入口に、鳥居が建てられていました。
08時16分、一の鳥居
一の鳥居は、この七里の渡しが伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781年~1789年)に、伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられ、以来伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。明治になって、東海道制度は廃止となりましたが、揖斐川上流の大垣との間に客船や荷物船の発着場となっていました。
鳥居を潜った先の左側に、常夜燈が立っていました。
※常夜燈
常夜燈は、江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、元は鍛冶町の東海道筋にあったのですが、交通の邪魔になるとのことで、この場所に移築されました。元のものは、天保4年(1833年)に建立したものでしたが、昭和37年に台風で倒壊したため、台石は元のままですが、上部は多度大社から移したものに変わり、安政3年(1856年)と銘記されています。
宮宿の七里の渡し跡とは、かなり渡し場としての趣きが異なり、東海道の中で宮宿に次いで賑わった処なので、新しい文明の中に歴史を残して下さったらと思いました。
七里の渡しの一の鳥居を出て、左に約100m歩くと左側に櫓がありました。
08時18分、蟠龍櫓
蟠龍櫓は、桑名城の隅櫓(すみやぐら)の一つで、現在は水門統合管理所となっている。
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルで、かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで、龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
現在の蟠龍櫓は、往時のものを忠実に復元しています。
蟠龍櫓から七里の渡しの入口にもどり、旧街道の旅が始まりましたが、昨日と同様に温度が上昇しており、この先の気温と湿度が気掛かりです。
七里の渡しを出て約50m歩いた先の右側に、史跡のプレートが立っていました。
08時21分、舟会所跡・問屋場跡
舟会所は、宮および佐屋へ渡る旅人のために、渡船の手配をする事務所で、旅人はこの舟会所に乗船の申込をして料金を支払い乗船しましたが、跡地は定かでありません。
舟会所の右側に、東海道の旅人のために人足や馬を手配する事務所所であった問屋場が設けられましたが、ここも跡は明確ではありません。
歩いている舗装を見ると、旧街道はカラー舗装になっていました。
史跡のプレートを後に約130m歩いた右側に、通り井跡がありました。
ここでYumiさんに
E=暑くなってきたから一枚、脱ごう
Y=(長袖を脱ぐと)寒い、寒い
E=もっと寒くなったら着るから
と云うと、今日は素直に云うことを聞いて脱ぎました。
Yumiさんは、この先昼食を食べる時まで、半袖のTシャツで過ごしました。
08時25分、通り井跡
町屋御用水は吉津屋見附から城下の道路下の水路を通じ、所々で正方形の耕を道路中央に開けて、水汲井戸とし、文政3年(1820年)頃には17ヶ所に通り井がありました。そのうち江戸町北井が昭和37年(1962)に、川口町も平成2年(1990)の工事中に発見され、いずれも道路面に「井」と彫った石がはめ込まれています。
通り井跡の前に、あじさいの花が綺麗な建物があり看板を見てみたら、創業明治10年の「うどんそば日本料理」老舗の「歌行燈」でした。
歌行燈の先の十字路を左折し、桑名城址に少し立ち寄ることにしました。
桑名城の外堀だった多門橋を渡り、さらに舟入橋を渡った左側に本田忠勝像が立っていました。
08時30分、本田忠勝像
本田忠勝は、徳川家康の忠臣で、関ケ原の戦いのあと桑名城の城主になりました。
桑名城址は、現存建造物はなく、石垣と堀が残るのみなので、この先に進むのを割愛し、舟入橋に戻りました。
帰りは来た道を戻らず、舟入橋を渡った処を左折し、次の路地を右折すると中橋があり、その前方に鳥居が見えました。
08時33分~08時41分、春日神社
※春日神社の鳥居(青銅製)
↓春日神社・本殿
↓しるべ石(春日神社鳥居脇)
春日神社に立ち寄り、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護を、他に参拝者がいなかったので声を出してご祈願しました。
本殿の賽銭箱をみたら、我が家と同じ家紋が掘り込まれていたので、ビックリしました。
また、参道入口の鳥居の脇に「しるべ石」がありました。
しるべ石は、迷い児石とも呼ばれ、人の大勢集まるところに、迷子の特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子供がいた場所などを書いて貼っていたそうです。
春日神社を出て約80m先の右側に、歴史を語る公園があり、公園の入口に桑名城石垣の案内があました。
08時44分、桑名城の石垣
桑名城の石垣は、正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁で、桑名城城壁の一部です。川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されています。積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られます。片町に面したところには出隅、入隅がありました。
この右横が歴史公園の入口で、日本橋の橋が架かっていました。
08時45分、歴史を語る公園
江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園で、そのまま歩けば約2分で五十三次を歩けるそうです。
私とYumiさんは、写真を撮ったりして歩いたので、4分掛かって歩きました。
↓沼津宿・原宿
↓桑名宿
↓三条大橋
三条大橋は、橋のたもとに立ちましたが、ゴールは楽しみに残しておきたいということから、渡りませんでした。
この橋の前に休憩できる場所があり、ザックを降ろして休みました。
08時49分~08時52分、休憩
休憩を終え、旧街道に出た処のT字路(?)を右に進み約100m先の右角に、茶色の古い建物が立っていました。
08時55分、石取会館
石取会館は、石取祭を紹介している施設で、館内に展示してある漆仕上げの祭車は、江戸時代末期の作で、当時の技術の粋を集めたものだそうです。彫刻は、幕末期の桑名彫刻の一端を担った野々垣兵助により施された総牡丹彫りです。永年諸戸家が所有、保存していたものを、平成元年12月に寄贈を受け、漆塗装、天幕等の補修を行い、当時のままに修復したそうです。
開館されていたら(9時開館)観たかったのですが、今日は月曜日で休館日でした。
石取会館を過ぎた先の京町交差点を渡る手前の左側に、指差し道標が立っていました。
08時58分、指差し道標
この道標は、指差しが入った(白線内)道標で、この先の旧街道にも立っていました。
交差点を渡り、最初の十字路を旧街道は左折するのですが、十字路を超えた右側の小さな公園の前に見附跡がありました。
09時00分、京町見附跡
京町見附は、京町の西端に京町門があり、その南側に番所があって、旅人を看視していたそうです。
旧街道の十字路に戻り、右に(見附跡から見て)進み、十字路から約240m歩いたT字路右角に先ほどと同じ指差し道標が立っていました。
しかし、この道標には迷わされました。
道標の指差し方向は、県道方向を指しておらず、道路でない方を指しているのです。
旧街道は、道標の前を通り過ぎ、その先の県道を真っ直ぐに越すので、何でここに立っているのか、良く分かりません。
私とYumiさんは、県道の交差点を渡り、約70m歩くと右角に見附跡碑が立っていました。
09時12分、吉津屋見附跡
吉津屋見附は、慶長6年(1601年)、江戸と京都との間に東海道の制度が設置された後に、桑名城下を通る東海道の見附として吉津屋門が建てられ門の南側に桑名藩の役人が詰めている番所が建てられました。吉津屋門は、別名を七つ屋門とも鍛冶町門とも呼ばれ、東海道はこの門を四角形の三辺を廻る、いわゆる廾形道路となっていました。諸大名の行列は、この門の前後から本行列に整えて、桑名城下を通ったそうです。
旧街道は前述のとおり、フェンスに沿って右折、最初の路地を左折、最初の路地を左折します。
右折した後の最初に左折した右角に、桑名名産の「はまぐり」や「あさり」等の志しぐれ煮を販売している貝増本店があり、お土産にあさりの志ぐれ煮(@500円)を買いました。
私達の姿を見て、東海道を歩いていると人と分かったのか、親切に写真を撮って下さいました。
09時14分~09時18分、貝増商店本店
お店の人にお礼を云って、後にしました。
お店を出ると街道は、最初の左に曲がる道を左折し、約130m先のおもちゃやプラモデルの店「いもや本店」前を右折します。
吉津屋見附から枡形道路になっているのですが、枡形道路と感じないように都市開発で変わってしまいました。
また、いもや本店は、ごちゃごちゃにゴミが飾ってあるのかと思うような店でしたので、道標になると思います(いもやの方、スイマセン)。
いもや本店前を過ぎ、約400m歩くと信号機のない県道401号に出たので、左側にある萱町交差点を渡らなければいけないのですが、左右を確認して真っ直ぐ渡りました。
道路を渡って約110m先の右側に火の見やぐらが立っており、その先で県道613号に合流し、その先の日進小学校南交差点(日進小学校前が変更になったようです)を右折しました。
約110m歩くと右側に大きな邸宅(権田家)があり、その家の門の少し先に工場跡の碑が立っていました。
09時30分、広瀬鋳物工場跡
広瀬鋳物工場跡は、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えたことから、この付近を鍋屋町と称するようになりました。この工場では、梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826年)にはシーボルトも見学に来たそうです。工場跡地は、権田家の所有になっていました。
工場跡地の隣りの右側に、天武天皇を祀る神社があり参拝に寄りました。
09時33分、天武天皇社
天武天皇社は、天武天皇を祭祀する全国唯一の神社で、壬申の乱(672年)の時に、大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなんで建立された神社です。古くは新屋敷の地にあったといわれるが、寛永12年(1635年)に新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転し、のち鍋屋町北側の現在地に移ったそうです。桑名市指定文化財として、固山備前介藤原宗次銘の刀がある。
Yumiさんと本殿で、お賽銭をご奉納するのですが、いつも同じ会話を繰り返します。
Y=(肩から掛けているポシェットを開けてパスモが入っている財布を開けて)お金がないの
E=(お金が入っていないことを知っていて)大丈夫だよ
と云って100円渡します。
Y=後で返します
E=じゃ、よろしくね
と、答えますが、返してもらったことはありません。
Yumiさんの財布は、ザックの中に入れてあるのですが、Yumiさんは分かっていません。
金銭に関わることは、全て私が精算しているので、Yumiさんの財布はいざと云う時のために持っているだけです。
そのようなやり取りの後、本堂の前に進み声を出して「Yumiさんの病気平癒と旅のご加護」をご祈願しました。
陽射しが強くなってきましたが、静寂の中での参拝は、とても清々しくできました。
参拝を終わり、旧街道を進むと約100mで、右角に春秋画廊のある交差点となり、交差点を渡って直進しました。
約210m直進した左側に、「お嫁入りふとん」山城屋本店と看板に書かれた店がありました。
「お嫁入りふとん」、昔は当たり前のことが今は忘れてしまっている文字に、何とも安らぎを感じました。
09時41分、山城屋本店
「長く続いてほしい」と念じて店の前を通り過ぎました。
ふとん店を過ぎて約30m先の右側に、鐘楼が店の中に置いてある中川梵鐘店がありました。
09時42分、中川梵鐘店
戸を開けて見せてもらおうかなとYumiさんに「見たい?」と聞くと、「失礼だからダメ」と怒られてしまい、ガラス越しに写真を撮って失礼しました。
中川梵鐘店から約40mで矢田町交差点があり、交差点を渡って約40m先の右側に馬つなぎを残している家がありました。
09時45分、竹内家馬つなぎ輪
近所の歴史家は、家を建て替える時に取り除きたかったらしいのですが、多くの人の要望で残されたと見る直前に聞きました。
連子格子の家を見た時も維持するのが大変だろうなと思いましたが、ここも同じなのですね。
このような篤志家の方のお蔭で、歴史を見せて頂いていると、頭が下がりました。
竹内家の直ぐ先の右側に、立坂神社の鳥居が道路に、1mくらい飛び出た状態で立っていました。
09時47分、立坂神社・鳥居
本殿まで250mある参道入口に石造鳥居が立っているのですが、道路の幅に合わない、そして前に突き出た形で立っており、軽自動車は鳥居と建物の間を通れるのですが、普通車は鳥居を潜って曲がる必要がある、なんとも変わった立ち方です。
鳥居から約160m先のT字路に右角に、再現された火の見やぐらが立っている隣りに、矢田立場跡がありました。
09時54分、矢田立場跡
矢田立場跡は、東海道の立場(宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所)が立っている処でした。『久波奈名所図会』には、「此立場は、食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とあります。
立場跡のT字路を左折すると、史跡のない街道歩きになりました。
昨日に引き続いて好天は嬉しいのですが、蒸し暑いのは勘弁してほしいのですが、この梅雨の時期は致し方ありません。
途中、黒塀の了順寺を左に見て、約550m歩いた右側に日立金属桑名工場の敷地に樹木が植樹された公園みたいな処があり、中に入って休憩しました。
10時01分~10時05分、休憩
ザックを降ろして大きな石に座り、汗をぬぐって水分補給をし、暫し体を休めました。
この近くに江場松原跡があると史料に書かれていましたが、探す気力なく見付けられませんでした。
旧街道を約500m歩くと国道258線号の高架となり、その下を潜りました。
炎天下の高架の下は日陰で涼しく、生き返るような心地です。
信号のある高架下を潜り、約50m先に自販機があり、私とYumiさんのペットボトルを買いました。
そしてそこから約200m歩いた十字路の右角に、常夜燈と里程標(石柱)が立っていました。
10時17分、安永常夜燈・里程標(安永立場跡)
安永常夜燈は、伊勢両宮(外宮・内宮)常夜燈が正確だそうです。東海道の道しるべと伊勢神宮への祈願を兼ねて、文政元年(1818年)に伊勢神宮への祈願を込めて、桑名・岐阜の材木商の寄進により建てられたものです。ここは、町屋川を渡る船着場で、安永立場として茶屋が軒を連ね、大層賑わったとのことで、資料で城南神社と晴雲寺の間に「安永立場跡」があると記されていましたが、立場跡の標板はありませんでしたが、ここが安永立場跡のようです。
そして、桑名名物としてこの地で売られていた安永餅は、現在も受け継がれているそうです。
また、常夜灯の横にある里程標は、明治26年(1893)の建立で、三重県庁まで11里30町余(約47Km)を示しています。
常夜燈のところから約70m歩くと、員弁川に架かる町屋橋に着きました(町屋橋北詰交差点)。
10時20分、町屋橋北詰
江戸時代の町屋川は川幅が232間余(約420m)あり、江戸時代初期の寛永12年(1635年)に初めて架橋されました。橋は水面すれすれを這うような板橋で、洪水になるととしばしば流されました。時代により長さも変遷しましたが、江戸時代後期の喜永5年(1852年)は、長さ184間、幅10尺、中央は馬が待避できるように部分的に広くなっていたそうです。
↓町屋橋の下を流れる員弁川
10時25分、文学のなかの町屋川と橋の碑(町屋橋南詰)
町屋橋を渡った右側に、「町屋橋のうっりかわり」と「文学のなかの町屋川と橋」の二つのパネルが立っていました。
旧街道は、交差点を渡った処を右折し、県道143号沿いを約70m歩いて、左折します。
右側に渡辺酒店、その先の橋本橋を渡り、約200m歩いた左側にタバコ店があり、そこから約50m先の左側の民家の前の角に、一里塚がありました。
10時33分、093縄生一里塚
名古屋の伝馬一里塚の後は、宮の渡し⇒7里の渡し⇒桑名の渡しになっていたので、ここまで一里塚はありませんでした。
また、一里塚に付いている番号も七里の渡しの分が抜けているのか、番号(84⇒93)が飛んでいました。
一里塚から約300m先の左側に、まちかど博物館がありました。
10時38分、まちかど博物館
まちかど博物館は、今までの「博物館」のイメージにとらわれることなく、コレクションや伝統の技、手仕事などを、仕事場の一角や個人のお宅などで、館長さんの語りとともに見ることができる新しい形の博物館として、地域の歴史的、文化的資産等、それぞれが所有している文化資産を誰もが見られるように展示、公開しているもので、朝日町では沢山の仏像が飾られていました。
街角博物館は箱根峠から三島への下りで、見たのを思い出しました。
まちかど博物館の斜め前方に安達本家酒造がありました。
10時39分、安達本家酒造
安達本家酒造は、明治43年、安達 常右衛門氏が創業した現在で4代続く酒蔵で、富士の光(ふじのひかり) という名の日本酒を造っており、玄関の軒先に杉の葉(穂先)を集めてボール状にした杉玉が下げられていました。
杉玉は、酒林(さかばやし)とも呼ばれ、日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たしているそうです。
酒造店から約160m歩くと近鉄名古屋線の踏切があり、踏切をわたった左側に伊勢朝日駅がありました。
10時42分、近鉄・伊勢朝日駅
駅の改札手前の椅子で休もうかなと一瞬考えましたが、何となく座りづらかったのでそのまま通り過ぎ、約70m先の左側の東海道の碑と樹齢300年の榎のある処で小休憩を取りました。
10時44分~10時46分、東海道碑・樹齢300年の榎=休憩
↓樹齢300年の榎
東海道碑は、新しい石碑なので、宿駅四百年記念に建てられたと思います。
また、その隣りにそびえている榎は、かつての一里塚に植えられていたもので、樹齢約300
立ち休みですが、水分を補給し、少し休みました。
ひと休みの後、炎天下の旧街道を約500m歩いた右側の小梅薬局の隣りに小向神社の石柱があり、左折すると朝日町役場となり、その約150m先の右側に浄泉坊があり立ち寄りました。
浄泉坊は、正冶元年(1199年)に小向神明宮の別当寺正冶寺として創建されましたが、天正の頃に戦火で焼失し慶長8年(1603年)に浄泉坊として再興されたそうで、寛永15年(1638年)に西本願寺から寺号の公称を受けました。桑名藩由縁の菩提寺で、山門の扉や屋根に徳川三つ葉葵紋があり、ここで参勤交代の大名は乗り物から一礼したという伝えられています。
この先、約50mで朝日跨線橋東交差点を越し、さらに250m先の右に西光寺があり、また休憩しました。
10時57分~11時02分、休憩(西光寺)
境内に入るところの階段にザックを降ろして木蔭に座り、水分を補給し体を休めました。
ひと休みして歩き始めましたが、歩き始めると直に汗が噴き出してきました。
私とYumiさんは二人とも話しをすることなく黙々と歩き、私の後ろを歩くYumiさんの姿を撮っていると、Yumiさんが「もう、歩くのは嫌です」と急に怒りだしたので、「私だって暑いよ」と夫婦の小争いをしながら歩いていました。
この時は気が付かなかったのですが、Yumiさんの左足の足裏の皮が剥けて、かなり痛かったのだと家に帰って分かったので、「気が付かなくてごめんね」と謝りました。
この少し(約70m)先の左側に、カーブに合わせるように曲げた、東海道の標識が立っていました。
11時05分、東海道の標識
標識の処から枡形(曲尺手)道になっていますが、朝日町の史跡では枡形道路になっていないので、江戸時代はこのようにはなっていなかったのかな?
↓矢印のように進み、車のある処を曲ります
角(つの)が出ているYumiさんに、モデルになってもらい曲尺手(かねんて)の写真を撮り、少し仲直りしました。
東海道の標識から約750m歩くと柿交差点があり、伊勢湾岸道と国道1号北勢バイパスの橋脚の下を潜りました。
11時14分、柿交差点
橋脚と先1分程度で、朝明川に架かる朝明橋があり、資料に記されていた常夜燈を橋の上から探したのですが、見付けられませんでした。
11時16分、朝明橋
朝明橋を渡り、約350m歩いた左側に松寺の立場跡碑が立っていました(右側の蓮証寺の手前)。
11時21分、松寺の立場跡
松寺の立場は、この街道を往来する旅人や人足などが、籠や背に負った荷を降ろして杖を立て一休みした公の休憩所で、茶屋などがあり、立場茶屋と呼ばれていました。当時、桑名宿と四日市宿の間には5カ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場がありました。昔は大きな榎がありましたが、今はありません。
立場跡から約700m歩くと県道26号蒔田交差点があり、交差点を渡った処からさらに約170m先にJR関西本線の踏切と三岐鉄道のガードが交差してありました。
関西本線の踏切を渡って少し歩くと警報機が鳴り出したので、Yumiさんに後ろ向きになってもらいシャッターを切りました。
11時31分、踏切とガードの交差
踏切を渡って約200m進むと直進の道路が狭くなる十字路となり、ここを左に進みます。
左方向に進み、約400m歩くと2つ連続して近鉄のガードがありました。
二つ目のガードを潜った先に一里塚橋が架かっており、その先の右側に一里塚がありました。
11時41分、094富田一里塚跡
富田一里塚は、朝明郡の富田六郷東富田村(現在の四日市市富田西町連合自治会内)の現在の近鉄名古屋線鉄橋付近の東海道沿いに立地をしていました。
富田一里塚は、江戸時代の街道であった東海道の両側に一里(約4km)ごとに土を盛り上げて、えのき等の樹木を植えて旅人の目印にしてありましたが、戦国時代末期には富田一里塚は存在していました。明治時代以降は、鉄道や道路などの交通機関等の発展により、一里塚は取り除かれてしまい、江戸時代の一里塚の面影をみることはできなくなりました。
一里塚から約240m先の左側に小さな八幡神社があり、狭い境内の左側に力石がありました。
11時45分、力石(八幡神社)
力石(松の右隣り)は、村一番の力持ちの競い合いなどに使われていたそうで、約100㎏あるそうです
八幡神社を出て時計を確認すると12時近くなので、この先で食べられるところがあったら昼食に寄ることにして、先に進みました。
約150m歩いた左側に富田飯店があり、昼食に寄りました。
11時48分~12時12分、昼食(場所=富田飯店)
店内は冷房が効いていて、蒸し暑い中から入ってきた我々には、別世界のようでした。
いろいろなメニューがある中から、2種類の定食(酢豚と?名前を忘れました)を注文しました。
Yumiさんは冷房が効いているので長袖を着用し、目薬を点眼したり、トイレに行ったのですが、場所は教えて一人で行ったので、迷子にならないか心配しました。
トイレの方をチラリ、チラリ、見ていると、扉が開いて戻ってきた時は、正直ホッとしました。
さて、出された料理の味付けは私達の口にはあまり合わず、卵の方は少し食べただけで残してしまい、酢豚の方を二人で分けて食べました。
店の方には、量が多くて食べきれませんでしたとお詫びして、味付けのことは口にしないで精算(1,790円)し、店を後にしました。
富田飯店から約120m歩くと、左にキッチン和、右角にクリーニング店の処を右折し、中町通りを進みます。
そして、約80m先のT字路右側の寺本商店の角に、道路元標が立っていました。
12時16分、道路元標=津市元標へ十里の碑
明治時代に立てられた道標で、四日市へ一里八丁、津市へ十里と刻まれています。
この先、約40m歩くと寺村薬局がありました。
昨日に続いて炎天下の中の旅となりましたが、無事に旅の到着地に着くことができました。
12時17分、近鉄富田・寺村薬局角着(到着地)
到着地で、Yumiさんに到着式の看板を掲げてもらい、到着式(写真撮影)を行いました。
【到着地からの帰宅】
到着式を終え、自宅に帰るため約220m歩いて近鉄富田駅に向かいました。
12時21分、近鉄富田駅着
事前に調べておいた時刻表を見ると、電車が来るまで10分少々時間があるので、ベンチに座っていると、涼しい風が吹き抜けて行くので、ひと息つきながらペットボトルのお茶で咽喉を潤しながら電車を待っていました。
12時33分、近鉄富田駅発
急行に乗ったのですが、JRに比べると全然早く約30分で、名古屋駅に到着しました。
13時03分、近鉄・名古屋駅着
名古屋から新幹線に乗るのですが、ジバングは「のぞみ」に乗れないので、「ひかり」に乗るため新幹線ホームに向かいました。
今までの経験から3号車なら座れると考え乗り口に行くと、既に3組の人が並んでいました。
新幹線ホームで、ビール、ペットボトル、お菓子を買いましたが、旧東海道の旅で帰りにビールを買ったことがなかったことに気が付きました。
13時33分、名古屋駅発
入線した「ひかり」は混んでいて、二人掛けの席は満席(1人で座っている人が多い)で、3人掛けで1人で座っている席に座りました。
座席に座って直ぐ、私は缶ビール、Yumiさんはペットボトルのお茶で、無事に旅を終えることができたことに乾杯しました。
涼しい車内で、缶ビールを飲んでいると睡魔に襲われ寝てしまい、富士山を眺めることはできず(見れたかどうか分かりません)、気が付いたら小田原の手前でした。
15時03分、品川駅着
新幹線の中でトイレに行かなかったので、品川駅で降りてYumiさんをトイレに連れて行き行きましたが、通路は平日とはいえ多くの人が行き交い、歩くのが大変でした。
15時15分、品川駅発
山の手線に乗り自宅に帰りましたが、時間が早かったので、途中のスーパーで夕飯の弁当を買い、お風呂で汗を流しました。
ここで日焼け止めをしていなかったツケが出て、私も、Yumiさんも、ヒリヒリして浴槽に入るのが大変でした。
湯あがり後、改めて今回の旅の無事を祝し、ビールで乾杯しました。
【終わりに】
今回の旅は、初日の午後が雨模様の天気予報の中で実施しましたが、今回も食事に行く時に傘を差すだけで、道中で雨に降られることなく旅をすることができたのは幸運でした。
二日目、三日目は、逆に晴天に恵まれたのですが、真夏日の旅となりました。
天気はその時の自然現象なので、どうすることもできません。
今回の旅で、東海道の旅の二つ目の区切り(一つ目は箱根越え)である、七里の渡しを越えました。
箱根峠の時は歩いて越えたので、越えたという実感があったのですが、今回は現代の電車で越えたため実感を味わうことが出来ませんでした。
陸路の佐屋街道、渡し船をチャーターする方法(帰ってきてから先人に教えて頂いた)があるので、これからどの方法で実感を味わうか考えたいと思います。
前回は昼食を食べるのに困ったので、今回は昼食のことを常に念頭に置いて歩いたため、比較的良い時間帯に昼食を食べることができました。
また、帰ってきてからYumiさんの左足の足裏の皮が剥けていることが判明し、キズパワーパッドで最初治療したのですが、剥けた部分が指の付け根に近かったため、パッドが部分的に剥がれてしまい二重に貼ったりしましたが、どうも上手いかないため、ゲンタシン軟膏を塗って、消毒ガーゼをあてて、大きなメンバンで止めると、2~3日で傷口が塞がり快方に向かいました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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