旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2013年06月

【天候】⇒晴れ
【宿場】(42)桑名宿⇒(43)四日市宿
【行程】歩行距離=10.12㎞ 総距離=379.55㎞
桑名・七里の渡し⇒(5.00㎞)⇒093縄生一里塚(4.45㎞)⇒094富田一里塚⇒(0.45㎞)⇒近鉄富田・寺村薬局角

【ルート図】
  
宿場(黒囲みが第26回旅の宿場)
17 26回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第26回
  第26回の旅ルート
  
(桑名宿・七里の渡し跡 ⇒ 近鉄冨田駅・寺村薬局角

第26回ルート
【旧東海道の旅】
《移動》
5時30分、起床

洗面、着替え、ザックの荷造りなど出掛ける準備を整え、ザックを持って朝食会場に行きました。

朝食会場に着くと「7時からです」と時間厳守を伝えられたので、フロントでチェックアウトの手続きを行い、その後食堂の椅子に座って始まるのを待ちました。
7時に朝食となり、10分程で食べ終え、ホテルを出発しました。
07時11分、ホテル発
001 ホテル(東横イン新幹線口)
平日ですが時間が早いのか改札口までの通路は空いていましたが、乗車するホームに向かう時は、到着した電車からドーと人が降りてきて、Yumiさんと離れないように歩きましたが、大変でした。
久し振りに、通勤時の混雑を味わいました。
さて、旧東海道を旅していて、今日は大きな節目となる「七里の渡し」の日です。
江戸時代は、桑名までは海路7里か、川路3里か、陸路だったので、東海道の旅が終わってから時期を見て、この中のいずれかの方法で、江戸時代の東海道を味わってみたいと思います。
今日は、現代の文明の電車を使って、七里の渡しを渡ります。
07時20分、名古屋駅発
乗車した電車の座席はほぼ満席でしたが、反対側の名古屋方面に向かう電車は、通勤時間帯になっているのか、かなり混雑していました。
電車に乗っていても海が見えることもなく、七里の渡しをしているという実感は、全くしませんでした。
07時58分、桑名駅着
ここから七里の渡しまでの約1.3㎞をどうしようか考え、バスで近くまで行く予定で計画していたのですが、バスターミナルに着くと、乗ろうとしていたバスが出発して走って行くところでした。
次のバスは8時30分のため約30分の待ちとなり、七里の渡しまで歩くと時間が掛かるので、バスの代わりにタクシーで行くことにしました。
08時03分、桑名駅発
駅前のタクシー乗り場で乗車し、船津屋(旧本陣)に向かいました。
私は距離から1メーターで行くと思っていたのですが、着く少し前でカチャと音がしてメーターが上がりました。
「え!!」と思いましたが、旅の出発の時だったので、何も云わずに精算して降りましたが、何とも釈然としませんでした。
タクシーから降りたところが、現在の船津屋の前でした。
【=旅=】
08時08分、大塚本陣跡(船津屋)
003 大塚本陣跡(船津屋)
大塚本陣は、桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できたそうです。
建物は変わっていますが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業しており、旧大塚本陣の建物の一部は、四日市市川北町の法従寺に移築されて現存しているそうです。
大塚本陣に向かって右方向にある七里の渡しに行こうとすると、船津屋の塀に句碑が掲げられていました。
08時11分、歌行灯句碑
006 歌行燈句碑
歌行灯句碑は、明治42年に泉鏡花が桑名を訪れて船津屋に一泊した時に、ここを舞台に名作「歌行燈」を書き上げました。のちに「歌行燈」を戯曲化した久保田万太郎が詠んだ「かわをそに火をぬすまれてあけやすき」の句碑です。
句碑の右隣りを見ると、駿河屋脇本陣であった料理旅館の山月がありました。

08時12分、駿河屋脇本陣跡(料理旅館・山月)
009 脇本陣(山月)
脇本陣は桑名宿に4軒あったそうですが、そのうち最も格式の高かったのが駿河屋でした。
建物は変わっていますが、現在は料理旅館「山月」の一部となっています。
Yumiさんの脇の石碑は、昭和20年の桑名空襲の際に、近くの城壁から吹き飛ばされてきた石を利用したもので、「勢州桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に二朱の女郎」と刻まれていました。
山月の前方に桑名宿・七里の渡し跡がありました。

08時13分、桑名宿・七里の渡し(出発地)
今日の出発地の七里の渡しで、出発式を行いました。
011 桑名宿・七里の渡し
七里の渡しは、慶長6年(1601年)正月、江戸と京都を結ぶ東海道が制定され、桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は、海路7里の渡船と定められました。後に、佐屋宿(現愛知県海部郡佐屋町)へ川路3里の渡船も行われるようになりました。宮までの所要時間は3~4時間と思われますが、潮の干満によりコースが変ったりして時間も一定ではなかったようです。
大きな区切りである桑名宿の七里の渡し跡で出発式を終え、旅を始めました。
七里の渡し跡がある公園(?)の入口に、鳥居が建てられていました。
08時16分、一の鳥居
013 伊勢神宮一の鳥居
一の鳥居は、この七里の渡しが伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781年~1789年)に、伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられ、以来伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。明治になって、東海道制度は廃止となりましたが、揖斐川上流の大垣との間に客船や荷物船の発着場となっていました。
鳥居を潜った先の左側に、常夜燈が立っていました。
  ※常夜燈
015 常夜燈
常夜燈は、江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、元は鍛冶町の東海道筋にあったのですが、交通の邪魔になるとのことで、この場所に移築されました。元のものは、天保4年(1833年)に建立したものでしたが、昭和37年に台風で倒壊したため、台石は元のままですが、上部は多度大社から移したものに変わり、安政3年(1856年)と銘記されています。
宮宿の七里の渡し跡とは、かなり渡し場としての趣きが異なり、東海道の中で宮宿に次いで賑わった処なので、新しい文明の中に歴史を残して下さったらと思いました。
七里の渡しの一の鳥居を出て、左に約100m歩くと左側に櫓がありました。
08時18分、蟠龍櫓
017 蟠龍櫓
蟠龍櫓は、桑名城の隅櫓(すみやぐら)の一つで、現在は水門統合管理所となっている。
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルで、かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで、龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
現在の蟠龍櫓は、往時のものを忠実に復元しています。
蟠龍櫓から七里の渡しの入口にもどり、旧街道の旅が始まりましたが、昨日と同様に温度が上昇しており、この先の気温と湿度が気掛かりです。
七里の渡しを出て約50m歩いた先の右側に、史跡のプレートが立っていました。
08時21分、舟会所跡・問屋場跡
021 舟会所跡・問屋場跡
舟会所は、宮および佐屋へ渡る旅人のために、渡船の手配をする事務所で、旅人はこの舟会所に乗船の申込をして料金を支払い乗船しましたが、跡地は定かでありません。
舟会所の右側に、東海道の旅人のために人足や馬を手配する事務所所であった問屋場が設けられましたが、ここも跡は明確ではありません。
歩いている舗装を見ると、旧街道はカラー舗装になっていました。
020 カラー舗装
史跡のプレートを後に約130m歩いた右側に、通り井跡がありました。
ここでYumiさんに
E=暑くなってきたから一枚、脱ごう
Y=(長袖を脱いで)寒い、寒い
E=もっと寒くなったら着るから
と云うと、今日は素直に云うことを聞いて脱ぎました。
Yumiさんは、この先昼食を食べる時まで、半袖のTシャツで過ごしました。
08時25分、通り井跡
024 通り井跡
町屋御用水は吉津屋見附から城下の道路下の水路を通じ、所々で正方形の耕を道路中央に開けて、水汲井戸とし、文政3年(1820年)頃には17ヶ所に通り井がありました。そのうち江戸町北井が昭和37年(1962)に、川口町も平成2年(1990)の工事中に発見され、いずれも道路面に「井」と彫った石がはめ込まれています。
通り井跡の前に、あじさいの花が綺麗な建物があり看板を見てみたら、創業明治10年の「うどんそば日本料理」老舗の「歌行燈」でした。
029 歌行燈本店・全景
歌行燈の先の十字路を左折し、桑名城址に少し立ち寄ることにしました。
桑名城の外堀だった多門橋を渡り、さらに舟入橋を渡った左側に本田忠勝像が立っていました。
08時30分、本田忠勝像
032 本田忠勝像
本田忠勝は、徳川家康の忠臣で、関ケ原の戦いのあと桑名城の城主になりました。
桑名城址は、現存建造物はなく、石垣と堀が残るのみなので、この先に進むのを割愛し、舟入橋に戻りました。
帰りは来た道を戻らず、舟入橋を渡った処を左折し、次の路地を右折すると中橋があり、その前方に鳥居が見えました。
08時33分~08時41分、春日神社
  ※春日神社の鳥居(青銅製)
034 春日神社・青銅鳥居
  ↓春日神社・本殿
036 春日神社・本殿
  ↓しるべ石(春日神社鳥居脇)
039 しるべ石碑
春日神社に立ち寄り、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護を、他に参拝者がいなかったので声を出してご祈願しました。
本殿の賽銭箱をみたら、我が家と同じ家紋が掘り込まれていたので、ビックリしました。
また、参道入口の鳥居の脇に「しるべ石」がありました。
しるべ石は、迷い児石とも呼ばれ、人の大勢集まるところに、迷子の特徴や服装などを書いた紙を貼って、心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子供がいた場所などを書いて貼っていたそうです。
春日神社を出て約80m先の右側に、歴史を語る公園があり、公園の入口に桑名城石垣の案内があました。
08時44分、桑名城の石垣
041 桑名城城壁(後方)
桑名城の石垣は、正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁で、桑名城城壁の一部です。川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500mが現存し、市の文化財に指定されています。積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られます。片町に面したところには出隅、入隅がありました。
この右横が歴史公園の入口で、日本橋の橋が架かっていました。
08時45分、歴史を語る公園
044 歴史を語る公園(日本橋)
江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園で、そのまま歩けば約2分で五十三次を歩けるそうです。
私とYumiさんは、写真を撮ったりして歩いたので、4分掛かって歩きました。
  ↓沼津宿・原宿
046 歴史を語る公園(富士山)
  ↓桑名宿
049 歴史を語る公園(桑名宿)
  ↓三条大橋
051 歴史を語る公園(三条大橋)
三条大橋は、橋のたもとに立ちましたが、ゴールは楽しみに残しておきたいということから、渡りませんでした。
この橋の前に休憩できる場所があり、ザックを降ろして休みました。
08時49分~08時52分、休憩
休憩を終え、旧街道に出た処のT字路(?)を右に進み約100m先の右角に、茶色の古い建物が立っていました。
08時55分、石取会館
053 石取会館
石取会館は、石取祭を紹介している施設で、館内に展示してある漆仕上げの祭車は、江戸時代末期の作で、当時の技術の粋を集めたものだそうです。彫刻は、幕末期の桑名彫刻の一端を担った野々垣兵助により施された総牡丹彫りです。永年諸戸家が所有、保存していたものを、平成元年12月に寄贈を受け、漆塗装、天幕等の補修を行い、当時のままに修復したそうです。
開館されていたら(9時開館)観たかったのですが、今日は月曜日で休館日でした。
石取会館を過ぎた先の京町交差点を渡る手前の左側に、指差し道標が立っていました。
08時58分、指差し道標
056 指差し道標
この道標は、指差しが入った(白線内)道標で、この先の旧街道にも立っていました。
交差点を渡り、最初の十字路を旧街道は左折するのですが、十字路を超えた右側の小さな公園の前に見附跡がありました。
09時00分、京町見附跡
058 京町見付跡
京町見附は、京町の西端に京町門があり、その南側に番所があって、旅人を看視していたそうです。
旧街道の十字路に戻り、右に(見附跡から見て)進み、十字路から約240m歩いたT字路右角に先ほどと同じ指差し道標が立っていました。
しかし、この道標には迷わされました。
道標の指差し方向は、県道方向を指しておらず、道路でない方を指しているのです。
旧街道は、道標の前を通り過ぎ、その先の県道を真っ直ぐに越すので、何でここに立っているのか、良く分かりません。
私とYumiさんは、県道の交差点を渡り、約70m歩くと右角に見附跡碑が立っていました。
09時12分、吉津屋見附跡
061 吉津屋見附跡
吉津屋見附は、慶長6年(1601年)、江戸と京都との間に東海道の制度が設置された後に、桑名城下を通る東海道の見附として吉津屋門が建てられ門の南側に桑名藩の役人が詰めている番所が建てられました。吉津屋門は、別名を七つ屋門とも鍛冶町門とも呼ばれ、東海道はこの門を四角形の三辺を廻る、いわゆる廾形道路となっていました。諸大名の行列は、この門の前後から本行列に整えて、桑名城下を通ったそうです。
旧街道は前述のとおり、フェンスに沿って右折、最初の路地を左折、最初の路地を左折します。
右折した後の最初に左折した右角に、桑名名産の「はまぐり」や「あさり」等の志しぐれ煮を販売している貝増本店があり、お土産にあさりの志ぐれ煮(@500円)を買いました。
私達の姿を見て、東海道を歩いていると人と分かったのか、親切に写真を撮って下さいました。
09時14分~09時18分、貝増商店本店
065 貝増商店
お店の人にお礼を云って、後にしました。
お店を出ると街道は、最初の左に曲がる道を左折し、約130m先のおもちゃやプラモデルの店「いもや本店」前を右折します。
吉津屋見附から枡形道路になっているのですが、枡形道路と感じないように都市開発で変わってしまいました。
また、いもや本店は、ごちゃごちゃにゴミが飾ってあるのかと思うような店でしたので、道標になると思います(いもやの方、スイマセン)。
いもや本店前を過ぎ、約400m歩くと信号機のない県道401号に出たので、左側にある萱町交差点を渡らなければいけないのですが、左右を確認して真っ直ぐ渡りました。
道路を渡って約110m先の右側に火の見やぐらが立っており、その先で県道613号に合流し、その先の日進小学校南交差点(日進小学校前が変更になったようです)を右折しました。
約110m歩くと右側に大きな邸宅(権田家)があり、その家の門の少し先に工場跡の碑が立っていました。

09時30分、広瀬鋳物工場跡
066 広瀬鋳物工場跡
広瀬鋳物工場跡は、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えたことから、この付近を鍋屋町と称するようになりました。この工場では、梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826年)にはシーボルトも見学に来たそうです。工場跡地は、権田家の所有になっていました。
工場跡地の隣りの右側に、天武天皇を祀る神社があり参拝に寄りました。
09時33分、天武天皇社
069 天武天皇社
天武天皇社は、天武天皇を祭祀する全国唯一の神社で、壬申の乱(672年)の時に、大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなんで建立された神社です。古くは新屋敷の地にあったといわれるが、寛永12年(1635年)に新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転し、のち鍋屋町北側の現在地に移ったそうです。桑名市指定文化財として、固山備前介藤原宗次銘の刀がある。
Yumiさんと本殿で、お賽銭をご奉納するのですが、いつも同じ会話を繰り返します。
Y=(肩から掛けているポシェットを開けてパスモが入っている財布を開けて)お金がないの
E=(お金が入っていないことを知っていて)大丈夫だよ
と云って100円渡します。
Y=後で返します
E=じゃ、よろしくね
と、答えますが、返してもらったことはありません。
Yumiさんの財布は、ザックの中に入れてあるのですが、Yumiさんは分かっていません。
金銭に関わることは、全て私が精算しているので、Yumiさんの財布はいざと云う時のために持っているだけです。
そのようなやり取りの後、本堂の前に進み声を出して「Yumiさんの病気平癒と旅のご加護」をご祈願しました。
陽射しが強くなってきましたが、静寂の中での参拝は、とても清々しくできました。
参拝を終わり、旧街道を進むと約100mで、右角に春秋画廊のある交差点となり、交差点を渡って直進しました。
約210m直進した左側に、「お嫁入りふとん」山城屋本店と看板に書かれた店がありました。
「お嫁入りふとん」、昔は当たり前のことが今は忘れてしまっている文字に、何とも安らぎを感じました。
09時41分、山城屋本店
071 山城屋本店
「長く続いてほしい」と念じて店の前を通り過ぎました。
ふとん店を過ぎて約30m先の右側に、鐘楼が店の中に置いてある中川梵鐘店がありました。
09時42分、中川梵鐘店
072 中川梵鐘店
戸を開けて見せてもらおうかなとYumiさんに「見たい?」と聞くと、「失礼だからダメ」と怒られてしまい、ガラス越しに写真を撮って失礼しました。
中川梵鐘店から約40mで矢田町交差点があり、交差点を渡って約40m先の右側に馬つなぎを残している家がありました。
09時45分、竹内家馬つなぎ輪
073 竹内家・馬繋ぎ
近所の歴史家は、家を建て替える時に取り除きたかったらしいのですが、多くの人の要望で残されたと見る直前に聞きました。
連子格子の家を見た時も維持するのが大変だろうなと思いましたが、ここも同じなのですね。
このような篤志家の方のお蔭で、歴史を見せて頂いていると、頭が下がりました。
竹内家の直ぐ先の右側に、立坂神社の鳥居が道路に、1mくらい飛び出た状態で立っていました。
09時47分、立坂神社・鳥居
076 立坂神社鳥居・道に飛び出ている
本殿まで250mある参道入口に石造鳥居が立っているのですが、道路の幅に合わない、そして前に突き出た形で立っており、軽自動車は鳥居と建物の間を通れるのですが、普通車は鳥居を潜って曲がる必要がある、なんとも変わった立ち方です。
鳥居から約160m先のT字路に右角に、再現された火の見やぐらが立っている隣りに、矢田立場跡がありました。
09時54分、矢田立場跡
077 矢田立場跡
矢田立場跡は、東海道の立場(宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所)が立っている処でした。『久波奈名所図会』には、「此立場は、食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とあります。
立場跡のT字路を左折すると、史跡のない街道歩きになりました。
昨日に引き続いて好天は嬉しいのですが、蒸し暑いのは勘弁してほしいのですが、この梅雨の時期は致し方ありません。
途中、黒塀の了順寺を左に見て、約550m歩いた右側に日立金属桑名工場の敷地に樹木が植樹された公園みたいな処があり、中に入って休憩しました。
10時01分~10時05分、休憩
ザックを降ろして大きな石に座り、汗をぬぐって水分補給をし、暫し体を休めました。
この近くに江場松原跡があると史料に書かれていましたが、探す気力なく見付けられませんでした。
旧街道を約500m歩くと国道258線号の高架となり、その下を潜りました。
炎天下の高架の下は日陰で涼しく、生き返るような心地です。
信号のある高架下を潜り、約50m先に自販機があり、私とYumiさんのペットボトルを買いました。
そしてそこから約200m歩いた十字路の右角に、常夜燈と里程標(石柱)が立っていました。
10時17分、安永常夜燈・里程標(安永立場跡)
079 安永常夜燈
安永常夜燈は、伊勢両宮(外宮・内宮)常夜燈が正確だそうです。東海道の道しるべと伊勢神宮への祈願を兼ねて、文政元年(1818年)に伊勢神宮への祈願を込めて、桑名・岐阜の材木商の寄進により建てられたものです。ここは、町屋川を渡る船着場で、安永立場として茶屋が軒を連ね、大層賑わったとのことで、資料で城南神社と晴雲寺の間に「安永立場跡」があると記されていましたが、立場跡の標板はありませんでしたが、ここが安永立場跡のようです。
そして、桑名名物としてこの地で売られていた安永餅は、現在も受け継がれているそうです。
また、常夜灯の横にある里程標は、明治26年(1893)の建立で、三重県庁まで11里30町余(約47Km)を示しています。
常夜燈のところから約70m歩くと、員弁川に架かる町屋橋に着きました(町屋橋北詰交差点)。

10時20分、町屋橋北詰
081 町屋橋
江戸時代の町屋川は川幅が232間余(約420m)あり、江戸時代初期の寛永12年(1635年)に初めて架橋されました。橋は水面すれすれを這うような板橋で、洪水になるととしばしば流されました。時代により長さも変遷しましたが、江戸時代後期の喜永5年(1852年)は、長さ184間、幅10尺、中央は馬が待避できるように部分的に広くなっていたそうです。
  ↓町屋橋の下を流れる員弁川
082 町屋川
10時25分、
文学のなかの町屋川と橋の碑(町屋橋南詰)
084 文学の中の町屋川と橋の碑
町屋橋を渡った右側に、「町屋橋のうっりかわり」と「文学のなかの町屋川と橋」の二つのパネルが立っていました。
旧街道は、交差点を渡った処を右折し、県道143号沿いを約70m歩いて、左折します。
右側に渡辺酒店、その先の橋本橋を渡り、約200m歩いた左側にタバコ店があり、そこから約50m先の左側の民家の前の角に、一里塚がありました。
10時33分、093縄生一里塚
086 縄生一里塚
名古屋の伝馬一里塚の後は、宮の渡し⇒7里の渡し⇒桑名の渡しになっていたので、ここまで一里塚はありませんでした。
また、一里塚に付いている番号も七里の渡しの分が抜けているのか、番号(84⇒93)が飛んでいました。
一里塚から約300m先の左側に、まちかど博物館がありました。
10時38分、まちかど博物館
088 街角博物館
まちかど博物館は、今までの「博物館」のイメージにとらわれることなく、コレクションや伝統の技、手仕事などを、仕事場の一角や個人のお宅などで、館長さんの語りとともに見ることができる新しい形の博物館として、地域の歴史的、文化的資産等、それぞれが所有している文化資産を誰もが見られるように展示、公開しているもので、朝日町では沢山の仏像が飾られていました。
街角博物館は箱根峠から三島への下りで、見たのを思い出しました。
まちかど博物館の斜め前方に安達本家酒造がありました。
10時39分、安達本家酒造
089 安達本家酒造
安達本家酒造は、明治43年、安達 常右衛門氏が創業した現在で4代続く酒蔵で、富士の光(ふじのひかり) という名の日本酒を造っており、玄関の軒先に杉の葉(穂先)を集めてボール状にした杉玉が下げられていました。
杉玉は、酒林(さかばやし)とも呼ばれ、日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たしているそうです。
酒造店から約160m歩くと近鉄名古屋線の踏切があり、踏切をわたった左側に伊勢朝日駅がありました。
10時42分、近鉄・伊勢朝日駅
091 伊勢朝日駅
駅の改札手前の椅子で休もうかなと一瞬考えましたが、何となく座りづらかったのでそのまま通り過ぎ、約70m先の左側の東海道の碑と樹齢300年の榎のある処で小休憩を取りました。
10時44分~10時46分、東海道碑・樹齢300年の榎=休憩
093 旧東海道道標
  ↓樹齢300年の榎
095 樹齢300年の榎
東海道碑は、新しい石碑なので、宿駅四百年記念に建てられたと思います。
また、その隣りにそびえている榎は、かつての一里塚に植えられていたもので、樹齢約300年と伝えられています。
立ち休みですが、水分を補給し、少し休みました。
ひと休みの後、炎天下の旧街道を約500m歩いた右側の小梅薬局の隣りに小向神社の石柱があり、左折すると朝日町役場となり、その約150m先の右側に浄泉坊があり立ち寄りました。
10時52分、浄泉坊
098 三つ葉葵(浄泉坊)
浄泉坊は、正冶元年(1199年)に小向神明宮の別当寺正冶寺として創建されましたが、天正の頃に戦火で焼失し慶長8年(1603年)に浄泉坊として再興されたそうで、寛永15年(1638年)に西本願寺から寺号の公称を受けました。桑名藩由縁の菩提寺で、山門の扉や屋根に徳川三つ葉葵紋があり、ここで参勤交代の大名は乗り物から一礼したという伝えられています。
この先、約50mで朝日跨線橋東交差点を越し、さらに250m先の右に西光寺があり、また休憩しました。
10時57分~11時02分、休憩(西光寺)
境内に入るところの階段にザックを降ろして木蔭に座り、水分を補給し体を休めました。
ひと休みして歩き始めましたが、歩き始めると直に汗が噴き出してきました。
100 旅歩き中
私とYumiさんは二人とも話しをすることなく黙々と歩き、私の後ろを歩くYumiさんの姿を撮っていると、Yumiさんが「もう、歩くのは嫌です」と急に怒りだしたので、「私だって暑いよ」と夫婦の小争いをしながら歩いていました。
この時は気が付かなかったのですが、Yumiさんの左足の足裏の皮が剥けて、かなり痛かったのだと家に帰って分かったので、「気が付かなくてごめんね」と謝りました。
この少し(約70m)先の左側に、カーブに合わせるように曲げた、東海道の標識が立っていました。
11時05分、東海道の標識
101 道の曲りに沿った標識
標識の処から枡形(曲尺手)道になっていますが、朝日町の史跡では枡形道路になっていないので、江戸時代はこのようにはなっていなかったのかな?
 ↓矢印のように進み、車のある処を曲ります
102 曲尺手
角(つの)が出ているYumiさんに、モデルになってもらい曲尺手(かねんて)の写真を撮り、少し仲直りしました。
東海道の標識から約750m歩くと柿交差点があり、伊勢湾岸道と国道1号北勢バイパスの橋脚の下を潜りました。
11時14分、柿交差点
103 柿交差点
橋脚と先1分程度で、朝明川に架かる朝明橋があり、資料に記されていた常夜燈を橋の上から探したのですが、見付けられませんでした。
11時16分、朝明橋
104 朝明橋
朝明橋を渡り、約350m歩いた左側に松寺の立場跡碑が立っていました(右側の蓮証寺の手前)。
11時21分、松寺の立場跡
106 松寺の立場跡
松寺の立場は、この街道を往来する旅人や人足などが、籠や背に負った荷を降ろして杖を立て一休みした公の休憩所で、茶屋などがあり、立場茶屋と呼ばれていました。当時、桑名宿と四日市宿の間には5カ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場がありました。昔は大きな榎がありましたが、今はありません。
立場跡から約700m歩くと県道26号蒔田交差点があり、交差点を渡った処からさらに約170m先にJR関西本線の踏切と三岐鉄道のガードが交差してありました。
関西本線の踏切を渡って少し歩くと警報機が鳴り出したので、Yumiさんに後ろ向きになってもらいシャッターを切りました。
11時31分、踏切とガードの交差
109 踏切とガードが同じ場所
踏切を渡って約200m進むと直進の道路が狭くなる十字路となり、ここを左に進みます。
111 分岐
左方向に進み、約400m歩くと2つ連続して近鉄のガードがありました。112 2つの高架線
二つ目のガードを潜った先に一里塚橋が架かっており、その先の右側に一里塚がありました。
11時41分、094富田一里塚跡
113 富田一里塚
富田一里塚は、朝明郡の富田六郷東富田村(現在の四日市市富田西町連合自治会内)の現在の近鉄名古屋線鉄橋付近の東海道沿いに立地をしていました。
富田一里塚は、江戸時代の街道であった東海道の両側に一里(約4km)ごとに土を盛り上げて、えのき等の樹木を植えて旅人の目印にしてありましたが、戦国時代末期には富田一里塚は存在していました。明治時代以降は、鉄道や道路などの交通機関等の発展により、一里塚は取り除かれてしまい、江戸時代の一里塚の面影をみることはできなくなりました。
一里塚から約240m先の左側に小さな八幡神社があり、狭い境内の左側に力石がありました。
11時45分、力石(八幡神社)
115 力石(八幡神社)
力石(松の右隣り)は、村一番の力持ちの競い合いなどに使われていたそうで、約100㎏あるそうです
八幡神社を出て時計を確認すると12時近くなので、この先で食べられるところがあったら昼食に寄ることにして、先に進みました。
約150m歩いた左側に富田飯店があり、昼食に寄りました。
11時48分~12時12分、昼食(場所=富田飯店)
118 富田飯店
店内は冷房が効いていて、蒸し暑い中から入ってきた我々には、別世界のようでした。
いろいろなメニューがある中から、2種類の定食(酢豚と?名前を忘れました)を注文しました。
120 昼食
料理の味付けは私達の口に合わなかったので、酢豚だけを二人で分けて食べ、店の方には量が多くて食べきれませんでしたとお詫びし、味付けについては口にしないで精算(1,790円)して店を出ました。
店外に出るとムッとする暑さですが、Yumiさんは長袖を脱ぐ気はまったくないようなので、そのまま何も云わないで着せておきました。
富田飯店から約120m歩くと、左にキッチン和、右角にクリーニング店の処を右折し、中町通りを進みます。
そして、約80m先のT字路右側の寺本商店の角に、道路元標が立っていました。
12時16分、道路元標=津市元標へ十里の碑
122 津市原標十里碑
明治時代に立てられた道標で、四日市へ一里八丁、津市へ十里と刻まれています。
この先、約40m歩くと寺村薬局がありました。
昨日に続いて炎天下の中の旅となりましたが、無事に旅の到着地に着くことができました。
12時17分、近鉄富田・寺村薬局角着(到着地)
125 近鉄富田・寺村薬局角(到着地)
到着地で、Yumiさんに到着式の看板を掲げてもらい、到着式(写真撮影)を行いました。

【到着地からの帰宅】
到着式を終え、自宅に帰るため約220m歩いて近鉄富田駅に向かいました。
12時21分、近鉄富田駅着
127 近鉄富田駅
事前に調べておいた時刻表を見ると、電車が来るまで10分少々時間があるので、ベンチに座っていると、涼しい風が吹き抜けて行くので、ひと息つきながらペットボトルのお茶で咽喉を潤しながら電車を待っていました。
129 近鉄富田駅ホーム
12時33分、近鉄富田駅発

急行に乗ったのですが、JRに比べると全然早く約30分で、名古屋駅に到着しました。
13時03分、近鉄・名古屋駅着
名古屋から新幹線に乗るのですが、ジバングは「のぞみ」に乗れないので、「ひかり」に乗るため新幹線ホームに向かいました。
今までの経験から3号車なら座れると考え乗り口に行くと、既に3組の人が並んでいました。
新幹線ホームで、ビール、ペットボトル、お菓子を買いましたが、旧東海道の旅で帰りにビールを買ったことがなかったことに気が付きました。
13時33分、名古屋駅発
入線した「ひかり」は混んでいて、二人掛けの席は満席(1人で座っている人が多い)で、3人掛けで1人で座っている席に座りました。
座席に座って直ぐ、私は缶ビール、Yumiさんはペットボトルのお茶で、無事に旅を終えることができたことに乾杯しました。
涼しい車内で、缶ビールを飲んでいると睡魔に襲われ寝てしまい、
富士山を眺めることはできず(見れたかどうか分かりません)、気が付いたら小田原の手前でした。
15時03分、品川駅着
新幹線の中でトイレに行かなかったので、品川駅で降りてYumiさんをトイレに連れて行き行きましたが、通路は平日とはいえ多くの人が行き交い、歩くのが大変でした。

15時15分、品川駅発
山の手線に乗り自宅に帰りましたが、時間が早かったので、途中のスーパーで夕飯の弁当を買い、お風呂で汗を流しました。
ここで日焼け止めをしていなかったツケが出て、私も、Yumiさんも、ヒリヒリして浴槽に入るのが大変でした。
湯あがり後、改めて今回の旅の無事を祝し、ビールで乾杯しました。
【終わりに】
今回の旅は、初日の午後が雨模様の天気予報の中で実施しましたが、今回も食事に行く時に傘を差すだけで、道中で雨に降られることなく旅をすることができたのは幸運でした。
二日目、三日目は、逆に晴天に恵まれたのですが、真夏日の旅となりました。
天気はその時の自然現象なので、どうすることもできません。
今回の旅で、東海道の旅の二つ目の区切り(一つ目は箱根越え)である、七里の渡しを越えました。
箱根峠の時は歩いて越えたので、越えたという実感があったのですが、今回は現代の電車で越えたため実感を味わうことが出来ませんでした。
陸路の佐屋街道、渡し船をチャーターする方法(帰ってきてから先人に教えて頂いた)があるので、これからどの方法で実感を味わうか考えたいと思います。
前回は昼食を食べるのに困ったので、今回は昼食のことを常に念頭に置いて歩いたため、比較的良い時間帯に昼食を食べることができました。

また、帰ってきてからYumiさんの左足の足裏の皮が剥けていることが判明し、キズパワーパッドで最初治療したのですが、剥けた部分が指の付け根に近かったため、パッドが部分的に剥がれてしまい二重に貼ったりしましたが、どうも上手いかないため、ゲンタシン軟膏を塗って、消毒ガーゼをあてて、大きなメンバンで止めると、2~3日で傷口が塞がり快方に向かいました。

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【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【序章】
今日は熱田(宮の渡し)から桑名(桑名の渡し)の七里の渡しの船旅を楽しみます。
江戸時代は熱田から桑名には陸路がなく、
宮の渡しから桑名の渡しまでの7里(約28㎞)を船で渡る
佐屋の渡しから桑名の渡しまでの3里(約12㎞)を船で渡って、25㎞を陸路で歩く
いずれかで江戸と京・大阪を行き来していました。
現在は、名古屋~桑名を電車で約30分で行き来できるようになり、私とYumiさんも東海道の旅は電車で移動しました。
日本橋から宮の渡し跡まで全て徒歩で歩いてきましたが、宮の渡し場から桑名の渡し場まで電車での移動となり何とも味気なく感じたので、機会があったら船で渡りたいと考えていました。
思っていることは実現する例えの通り、今年の2月初旬、ラジオ体操仲間のMさんから「七里の渡し船の参加者を募っている」と教えて頂き、直ぐにNさんに参加の有無を確認し、Mさんと同じ日時で申込みしました。
また、現在東海道を歩いているJさんにも連絡すると、数日後に同じ日時で申込みを完了した連絡がありました。
Jさんは、H27.11.08に息子さんと京都・三条大橋に到着したそうです。
そして8ケ月の間、運行当日が天候に恵まれることを願って過ごし、開催日を迎えました。

《熱田神宮》
Nさんと近鉄名古屋駅で合流し、名鉄線で神宮前駅に向かいました。
神宮前駅はH25.06.16の第25回旅で、Yumiさんと駅構内のベンチに座ってアイスクリームを食べたこと、また、熱田神宮の境内を散策したことなどが走馬灯のように思い出しました。
 ※熱田神宮・本殿
004 熱田神宮・本殿
《奇跡の出会い=Yumiさんの親友》
宮きしめんで軽く腹を満たして境内を歩いていると、目の前をSさんにそっくりな人が通ったので、「ひょっとしたらSさん?」と思いながら「Sさん!!」と声を掛けると、まさしくSさんで、お互いに奇跡的な出会いにビックリしました。
Sさんはご主人とこちらにいる親戚の人と一緒で、お互いに連れがいるので、Sさんのご主人の病気のこと、Yumiさんの現状の話しをして別れました。
SさんはYumiさんの高校の同級生で、一番長く続いている親友で、昨年の10月に旧甲州道中の旅で、街道沿いに家があるSさんの家に立ち寄らせて頂いてご馳走になりました。
YumiさんはSさんと会った一週間後の山歩きで足首を骨折し、これを契機に認知症状が急速に進行し、2つの介護施設から利用を断られ、やっと利用できるようになった3つ目の介護施設において階段から転落してしまい、救急搬送された病院が過剰反応となる全身拘束を5日間したことから歩行困難な状態になりました。
足首を骨折した時(H26.10)は要介護2でしたが、3ケ月後に行った区分変更調査(H27.01)で要介護4になり、さらに3ケ月の区分変更調査(H27.04)で要介護5となり、H27.06に特別養護老人ホームに入所しました。
今回の出会いは数秒違ったら出会えなかったことで、この出会いはただ運が良かっただけのものなのか、何を意味するものがあるのか分かりませんが、そのうちこの出会いがどうゆうことだったのかが分かるのではないかと思っています。

【七里の渡し船旅】
《受付》
さて、もう一人の相方のJさんと地下鉄伝馬町駅で合流し、3人で集合場所の宮の渡し公園内の東屋に行くと、Mさん夫婦とMさんの奥さんの弟さん夫婦が来られており、挨拶するとともにNさんとJさんを紹介し我々のグループの参加者(7名)が揃いました。
 
※渡し船乗船受付
013 乗船受付
主催者(NPO法人・堀川まちネット)の受付を終え、出発(13時出航予定)まで待つことになりましたが、乗船する船がまだ桑名から着いていません。
今日は10~15mの強風が吹いているため、少し遅くなっているようです。
主催者から「強風の向かい風の中を進むので、途中で折り返すこともあるかもしれません」と話しがあり、出航が微妙な状況にあることを知りました。

010 太鼓
何とか桑名まで行ってくれることを願いながら出航を待っていると、渡し場跡では地元熱田の太鼓演奏や、主催者が独自に用意した「七里の渡し船旅記念」のお菓子(600円)が販売されており、記念に1個購入しました。

049 七里の渡し土産
お菓子は老舗の亀屋芳広のものですが、容器は竹を割って船形に主催者が自作のものです。
また、主催者から「船のトイレが壊れているので、乗船前にトイレを済ませておいて下さい」と案内があり、トイレに近い人は数回通っていました。
《七里の渡し船旅》
12時15分、桑名からの渡し船到着
012 桑名発イベント船
さて、13時少し前から乗船が始まり、今日の参加者35~36名+主催者が乗船し、熱田の太鼓演奏に送られて目的地の桑名の渡し場跡に向けて出航しました。
13時05分、宮の渡し場跡・出航
016 見送りの太鼓
使用された船は長崎のハウステンボスで使用されていた40~50人乗りの小型観光船で、桑名の渡し場で管理されているそうです。
船は船底が平らになっているため、安定性がある反面、速度は遅くなるそうですが、今日のように強風下での航行では普通の船に比べて安心して乗っていることができます。
 ※七里の渡し船
014 イベント船
乗船して客室には入らず、風があって少し寒いかも知れませんが、Jさんを以外の男性陣は眺めの良い展望席に座りました。
015 出航前
夢に見ていた七里の渡し船旅が始まりました。
桟橋を出て左側を見ると、宮の渡し場を見ることができ、「江戸時代は此処に着岸したのだな」と思いながら眺めていました。
 
※宮の渡し場跡
018 宮の渡し場跡
写真では穏やかな川面に見えますが、風速10~15mの南からの風を受けており、白波が立ったりしています。
堀川を進んでいる時は風だけだったのですが、堀川を出る頃になると波しぶきが飛んできて、顔を拭いたりするのにハンカチが必要になり、さらに伊勢湾岸自動車道の名四トリトン付近では大きな波しぶきを受け、とても展望席には居られないと客室に一時退避するほどでした(Nさんは一人展望席から動くことはありませんでした)。
 ※堀川に架かる新幹線鉄橋

019 堀川からの眺め
 ※堀川に架かる国道23号(名四国道)
020 渡し①
 ※堀川の水門
021 渡し②
 ※鳥の群れ①
022 渡し③・鳥の群れ
 ※鳥の群れ②
023 渡し④・鳥の群れ
 ※名古屋臨海高速鉄道
027 渡し⑧
 ※名古屋港に架かる伊勢湾岸自動車道の眺め
028 渡し⑨
 ※浚渫排土で出来た人口島(左側
030 渡し⑪
 ※コンテナふ頭(右側)
031 渡し⑫・コンテナ積込み
コンテナふ頭の先には、名古屋港ゴルフ倶楽部富浜コースがあり、その先には長島リゾートがあり有名なジェットコースターが見えました。
 
※ナガシマリゾート(右側)
032 渡し⑬・長島温泉
 ※揖斐川に架かる伊勢湾岸自動車道の斜張橋
034 渡し⑮
 ※揖斐川に架かる国道23号(名四国道)の鉄橋
035 渡し⑯
 ※右=長良川河口堰・左=桑名の渡し跡(揖斐川)
037 渡し⑱・長良川河口堰
右側に見える長良川河口堰は、今から20数年前に河口堰が可動する前に行った浚渫作業の調査で、何回も現地に来て調べたことを思い出しました。
 ※左=幡龍櫓、白丸=桑名の渡し跡
038 渡し⑲・桑名の渡し場
 ※平成桑名の渡し場・入口
039 渡し⑳・平成桑名の渡し場入口
《桑名の渡し》
江戸時代に使われていた渡し場跡は保存史跡のためなのか使用せず、少し上流の住吉神社脇に平成の渡し場が造られそこに着岸しました。
 
※平成桑名の渡し場(奥は住吉神社)
041 平成桑名の渡し場22
15時40分、平成桑名の渡し場・着岸
043 平成桑名の渡し場
強風の向かい風の中の航行でしたが、風を避けながら上手な運転をされたので、ほとんど予定時間で航行れました。
下船すると主催者の方が桑名の渡し場跡の案内をしますとのことでしたが、私、Nさん、Jさんの三人はこのまま桑名駅に向かうことにし、桑名の渡し場跡に行かれるというMさん夫婦とM奥さんの弟さん夫婦と船着き場で別れました。

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 

 

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【天候】⇒晴れ
【宿場】(39)知立宿⇒(40)鳴海宿⇒(41)宮宿
【行程】歩行距離=16.57㎞ 総距離=369.43㎞
富士松・岡田燃料店角⇒(2.57㎞)⇒081阿野一里塚⇒(4.30㎞)⇒082有松一里塚⇒(4.60㎞)⇒083笠寺一里塚⇒(4.10㎞)⇒084伝馬一里塚⇒(1.10㎞)⇒宮宿・七里の渡し跡

※桶狭間古戦場公園を見学
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第25回旅の宿場)
16 25回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第25回
 第25回の旅ルート
  
(富士松・岡田燃料店角 ⇒ 宮・七里の渡し

第25回ルート
【旧東海道の旅】
《ホテル》
05時30分、目覚ましで起床

今日の天気予報は30℃を越す真夏日で雨の心配はないようなので、暑さ対策を考えYumiさんは半袖のTシャツに薄地の長袖シャツで、今日は旅してもらうことにしました。
ザックの荷物を整理しながら忘れ物がないか点検し、部屋に戻らないでそのまま旅に出ようと、ザックを持ってフロントでチェックアウトの手続きをしてから朝食を食べました。
《移動》
07時08分、ホテル発
001 ホテル(アイリスイン知立)
朝食後、そのままホテルを出発し、最寄り駅(知立駅)に向かいました。
時刻表は乗ろうと考えていた電車(7時36分発)しか調べてなかったので、知立駅に着いて時刻表を確認すると、数分後に発車する電車があることが分かり、初めての駅構内をキョロキョロしながらホームに向かいましたが、認知症のYumiさんは何のことか理解できず、私の急かせる声に促されて動いていました。
07時19分、知立駅発
003 名鉄・知立駅
知立駅から約4分で昨日の到着地である富士松駅に到着し、地下道を潜って反対ホーム側の改札通って駅を出ると、正面のロータリーに立派な松が植えられていました。
07時27分、お富士の松
011 富士松駅・お富士松
お冨士の松は、桶狭間の戦いで敗れた今川勢が退却した後、旅人がここを通ったときに今川勢は相手のまわしものだと思い、この旅人を誤って殺してしまった。それを見た住民は旅人を哀れに思い、葬った後にその場所へ1本の松を植えました。松は成長しお冨士の松と呼ばれるようになったと言われており、富士松は「お富士の松」に由来しています。木は伊勢湾台風で枯死してしまい二代目が富士松駅近くに植えられた。しかしこれも枯死してしまったため、三代目(現在)が富士松駅近くに植えられています。
昨日は、落としたカメラの修復に気をとられてしまい、見落としていました。
約50m先の岡田燃料店角に立ち、今日の出発
式を行いました。
【=旅=】
07時30分、富士松・岡田燃料店角(出発式)
015 富士松・岡田燃料店(出発地)
天気は快晴で、朝から梅雨のムシムシ状態です。
そのため、Yumiさんの相方の私は、この時点でタオルで顔の汗を拭いています。
少しでも涼しいうちに旅をしようと、出発式の後、すぐに旅立ちました。
約90m歩くと県道282号にぶつかり、今川歩道橋を渡らないと真っ直ぐ進めないようになっていました。
今川歩道橋を渡り、約130m歩いた左側に自販機があり二人ともペットボトルに残量がありましたが、ペットボトル(2本)を購入し、旅に出てわずかな時間ですが、立ちながら水分補給をしました。
07時36分~07時38分、立ち休憩(1回目)
街道は約250m先で国道1号の今川町交差点となりました。
この交差点は信号があるのですが、横断歩道がないため、国道1号の信号が赤になったら渡るので、気を付ける必要があります。
旧街道は、今川町交差点を横切り、そのまま右に分岐して進みます。
約300m歩くと左にヘルスセンターとKYORAKUの大きな建物があり、さらに約150m先に境川に架かる境橋がありました。
07時49分、境橋
018 境橋
境橋は、慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が設けられてから尾張と三河の立会いで橋が架けられました。この橋は、中程から尾張側(西)が木橋、三河側(東)が土橋で、中間で継ぎ合わされた継橋だったため、度々の洪水に流され修復されました。やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。
橋の中程で国境だった昔を思いながら、雲一つない晴天の中を歩きました。
ムシムシとした暑さなのですが、Yumiさんは暑いと云わないので、そのままにして先に進みました。
橋を渡り、左のパシフィック生コンを眺めながら、伊勢湾岸道の高架下を潜りましたが、高架下は涼しく生き返るようでした。
少し元気になり高架を潜ると、国道1号と合流し、豊明駅東交差点の次に豊明駅に入る交差点がありました。
07時57分、豊明駅前交差点
021 豊明駅前交差点
旧街道はこの先で左に分岐するため、渡るのは早い方が良いと考え、この交差点で進行左側に渡りました。
右の前原外科から約150m歩いた左に、日本橋から345㎞の距離標が建っていました。
08時03分、345㎞距離標(左側)
023 345㌔ポスト
陽が高くなるごとに暑くなる感じの中、約30分歩きましたが日陰になる休憩向きの場所がないため、次の一里塚まで頑張って歩くことにしました。
距離標から約50mで正戸橋(正戸川)を渡り、さらに250m歩いた左側のホンダ販売店に沿って国道1号から左に分岐しました。
分岐して約80m歩くと県道57号の高架下となり、先ほどと同じように陽射しがなくなり、風が流れ、「あー、涼しい」と声を出すと、Yumiさんは「寒い」と正反対の反応に、「この暑いのに、寒い?」とあまりの落差にガックリです。
涼しいので高架下で休もうかと思いましたが、一里塚が目の前なので頑張って先に進むと、高架下を過ぎて約150m歩くと公園のようになったところに、日本橋から81番目の一里塚があり、塚跡に標柱が建っていました。
08時10分~08時15分、081阿野一里塚=休憩(2回目)
 阿野一里塚(左塚)
025 081阿野一里塚(左)
 阿野一里塚(右塚)
029 阿野一里塚(右)
阿野一里塚は、往時は東海道交通上の目安となっていましたが、明治維新以後は次第にその価値を失いました。右塚と左塚の両塚が現存する例は珍しく、昭和11年(1936年)に国の史跡に指定されました。
有難いことに一里塚の涼しいところにベンチがあり、ザックを降ろし、水分を補給しました。
休憩しながら、暑いので熱中症にならないよう、休憩を多く取って歩くことにしました。
5分ほど休憩し、出発しましたが、
ここから、前後駅までなだらかな上り坂なっており、その先から次の中京競馬場前駅付近までは、なだらかな下り坂です。
また、この間は史跡もなく、ただ歩くだけのつらい酷暑行軍になりました。
Yumiさんは何を考えながら歩いたのか分かりませんが、私は、
豊明小学校の真ん前にまんが絵入り看板のスナックがあり、
・何で小学校の真ん前に出来たんだろう?
・顧客は誰だろう(先生?、PTA?、はたまた両方?)
などと勝手な想像を巡らしたり、前後駅前に大手都市銀行の三菱UFJ東京銀行があり、地方都市にほとんどない支店があったので驚いしながら歩きました。
08時26分、前後駅前交差点(駅は三菱東京UFJ銀行の裏です)
031 前後駅前交差点
旧街道は、進行方向右側の国道1号、左側の名鉄線の間を通っています。
歩くのは日陰になる右側を歩きましたが、とどまることなく流れる汗を拭きながら前後駅前交差点に着き、信号待ちを利用して、一服休憩を取りました。
ここから約900m歩いたところに、新栄町交差点がありました。
08時38分、新栄町交差点
旧街道は交差点を真っ直ぐ通り抜け、さらに600m歩いた右側の歩道に桶狭間の戦いをモチーフにした豊明市の汚水蓋がありました。
08時45分、汚水マンホール蓋
034 汚水蓋(桶狭間の戦い)
マンホールから約50~60m歩くと国道1号に合流し、左方向に進むため、合流する前に道路を横切り左側に移りました。
国道1号に合流し、道なりに左に約100m歩いて、名鉄線のガード下を通り抜けます。
そして約80m先の愛知信用金庫を左に見て、さらに70m先のT字路の信号(左前方に高徳院案内の看板がある)があります。
旧街道はこのまま直進するのですが、この信号を左折すると桶狭間古戦場跡があるので、旧街道を離れました。
08時51分、旧街道から分岐(左折)
035 高徳院曲がり角
T字路交差点から約90m先の最初の道路を越えた左に、桶狭間古戦場跡がありました。
08時52分~09:00、桶狭間古戦場跡(史跡公園)=休憩(3回目)
  ※桶狭間古戦場跡碑(左側)
036 桶狭間古戦場跡碑
  今川義元最期の地碑
040 今川義元最期の地
桶狭間の戦いは、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦いです。

東海道に君臨した今川氏はこの戦いを契機に没落しますが、勝利した織田氏はこれ以降、畿内の制圧に向かって急成長し、戦国時代の重要な転機となる合戦でした。
私は、若い頃に読んだ織田信長を思い出すとともに、天が定めた歴史の流れを感じましたが、大きく歴史が動いた古戦場のわりには、ひっそりとした小さな公園に少しガッカリしました。
史跡公園は樹木と座れる場所があり、木陰に入ると涼しく、ザックを降ろして水分を補給しました。
休憩の後、道路の反対側にある高徳院の境内にある今川義元本陣跡に行きました。
09時04分、今川義元本陣跡(右側)
048 今川義元本陣跡
高徳院は、弘仁元年(810年)開創以来高野山上にあり、明治27年(1884年)桶狭間古戦場に移転しましたので、合戦があった時はここには建立されていません。また、古戦場跡よりも高い場所に寺社があり、合戦をした場所として何となく違和感を感じ、史跡公園が伝説桶狭間古戦場跡となっているように、東海道を歩く人達のために作られた史跡のように感じました。
そう感じるとぜひ桶狭間古戦場公園を見てみたいという気持ちになり、時計を見るとまだ早い時間のため、本陣跡を見た後、旧街道に戻る左ではなく、右折して古戦場公園に向かいました。
古戦場公園には行くかもしれないと地図は準備してきたのですが、見事に間違えました。
〔以下は私が歩いた道です〕
①高徳院を出て、右にきた最初の分岐を右に進む
050 古戦場公園案内①
②真ん中に理容店の看板の分岐を正しくは右側で(白点線)、私は間違って左側に進みました。
  道は、左にカーブミラーがある処まで上りが続きます

051 古戦場公園案内②
③左の平野工業の前を右折
052 古戦場公園案内③
④坂を道なりに下って来ると、右側に桶狭間古戦場公園
053 古戦場公園案内④
平野工業が地図に出ていないので、散歩中の男の人に地図を見せて、行き方を聞くと②の処で間違えていることを教えられ、これから古戦場公園まで行くので案内してあげましょうと一緒に歩いて下さいました。
男=歴史探訪ですか?
Ei=旧東海道の旅をしています
男=史跡公園は見てきましたか
Ei=はい
男=古戦場公園が史実の場所と云うが、史跡公園が本当の戦いの跡なんだよ
Ei=そうなんですか
などの話しをしながら公園まで案内して頂きました。
また、散歩中の男性は近くの史跡の場所を案内下さいましたが、予定があるので丁重にお礼を云って別れました。
09時26分~09時37分、桶狭間古戦場公園=休憩(4回目)
054 桶狭間古戦場跡
  左=織田信長像・右=今川義元像  
057 左:織田信長・右=今川義元
  公園碑からの景色
060 石碑
公園一帯は、桶狭間の戦いの中心地で、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地と言われています。地元では、田楽坪とも呼び、今は合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化し、中央には織田信長と今川義元の銅像を配した桶狭間古戦場公園として、合戦から450年目の平成22年(2010年)に整備されました。園内には、他に、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑、合戦の解説板などあり、全国から歴史愛好家など多くの人が訪れる桶狭間古戦場の中心的な史跡です。
これからは桶狭間の戦いが放送されたり、映画で見たりする時は、今日見た二つの史跡のことを思い出す事でしょう。
少し遠回りしましたが、両方を見て良かったと思いました。
公園では史跡を見たり、ザックを降ろして、水分を補給したり、Yumiさんがトイレに行ったりして休憩しました。
トイレ脇から公園を出て、右のユーホーム、左の中京銀行の幕山交差点を右折し、地蔵堂池の脇(桜が植樹)を歩きました。
09時44分、地蔵池畔(右側)
068 地蔵池畔
池の終わりのバス停から約150m先の左にファミリーマートがあり、隣接して自販機がありぺットボトル(1本=3本目)を買いました。
旧街道に向かって真っすぐ約450m歩くと桶狭間交差点を渡り、右角が有松郵便局のT字路に突き当り、旧街道に戻ってきました。
09時56分、有松郵便局角(右側)
070 有松郵便局
T字路を左折して約90m先の右に山車会館がありました。
10時00分、山車会館(右側)
074
会館に入ると山車が展示してあり、有料(@200円)ですが見るだけならいいよと入れて下さり、写真まで撮って下さいました。
展示してある山車は、明治24年(1891)に名古屋袋町の古道具屋で売られていたのを、東町の有志が1,300円の寄付を募り買い取ったものといわれており、「布袋車」と呼ばれています。
この山車は、名古屋城下の若宮祭の祭車で、延宝2年(1674)創建と伝えられ、この山車は明和5年(1768)に下玉屋町(現名古屋市中区栄3)で作られた由緒ある山車を見ることができました。
会館の隣りが寿限無茶屋で、昼食にと考えていたのですが、11時の開店まで時間があるため、素通りしました。
 ※寿限無茶屋(右側)=開店前の掃除をしていました
075 無限茶屋
茶屋から約50m先の左に有松鳴海絞会館があるので、Yumiさんに「見て行く?」と聞くと、興味を示すことなく「行かない」と云うので、会館の裏にある開祖の竹田庄九郎碑だけを見て後にしました。
着物が人一倍好きで、長年着物に関わってきましたが、病気で一変してしまい、まったく興味を示さなくなりました。
10時11分、中濱商店(有松絞りの店)=右側

086 中濱商店
それでも何とか興味を引こうと、有松絞りでお土産を買おうと入ったのですが、これにも興味を示すことなく「いらない」と云われてしまいました。
しかたないので、有松に残る連子格子の街並みを眺めながら歩きました。
史跡の住宅は、寿限無茶屋の隣りに服部家住宅(右側)、その隣りに井桁屋(有松絞りの店)、斜め前に駄菓子きょうか、約50m先の右に中濱商店(右)、約150m先の左に竹田家住宅、その先約80~100mの間隔で、岡家住宅、小塚家住宅がありました。
  竹田家住宅(左側)
089 竹田家住宅
  小塚家住宅(左側)
095 小塚家住宅
小塚家住宅の斜め前の左側に梅村鶴寿碑があり写真を撮って先に進むと、名古屋第二環状道路の高架手前に日本橋から82番目の一里塚があり、石碑が建てられていました。
10時22分、082有松一里塚跡碑(右側)
105 有松一里塚
有松一里塚は、この先の踏切を渡った鎌研橋の辺りに大正時代まで現存したそうですが、平成24年3月に名古屋第二環状自動車道(名二環)の高架橋下の空き地に、90年ぶりに復元されました。
現代の構造物の中に江戸時代の史跡で、保存や跡碑がない他地区もあることを考えると、作り方に違和感を感じますが、後世に残すものとして良いことだと思います。
一里塚の横は高速道路、それに交差する形で名鉄線が走っていて、高架の下に踏切がありました。
休憩しようかと考えたのですが、高架下は座る場所がなく、また踏切にも近いので、休憩できる場所を探そうと歩き始めました。
高架下で踏切を渡ると、直ぐ手越川の鎌研橋(一里塚があった辺り)を渡り約600m歩くと、名鉄・左京山駅に行く四本木交差点があり、さらに100m先の神明社参道の石柱の前に数本だけの左京山松並木(勝手な命名)があり、日陰けになっているベンチがあり休憩することにしました。
10時34分~10時40分、左京山松並木(左側)=休憩(5回目)
106 左京山松並木
朝食を食べてから3~4時間経ち、行動食を食べようと持参した「スポーツ羊羹」を食べました。
スポーツ羊羹は軽量、コンパクトで持ち運びが便利で、山行や旧東海道の旅では重宝しています。
涼しい場所で休憩し、栄養補給と水分補給で少し元気が出てきたので、次に向けて出発しました。
出発して約80mの左に名鉄整備があり、その前の右側に自販機があり、ペットボトル(2本=5本目)を買いました。
自販機から約230m歩いた平部北交差点を渡った左に、常夜燈が立っていました。
10時46分、平部町常夜燈(左側)
108 平部町常夜燈
平部町常夜燈は、鳴海宿の東の入口で、平部町に建てられたものです。表に「秋葉大権現」、右に「宿中為安全」、左に「永代常夜燈」、裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれています。常夜燈は、文化3年(1806年)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願しました。
大きく華麗な常夜燈であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影を偲ぶことができます。
平部北交差点から扇川に架かる中島橋までの約500mは、カラー舗装されていました。
10時53分、中島橋
《中島砦跡への順路》
①中島橋の手前を左折
112 カラー舗装(終り)・道案内
②約70m進み扇川の支流の手前を左折
113 道案内②
③約70m進むとフェンスに標板
114 道案内③
10時55分、中島砦跡(左側)

115 中島砦跡
中島砦跡は、旧街道から外れ、扇川の支流沿いの民家の敷地(フェンスで囲まれている)にありました。
砦跡から旧街道の中島橋に戻り、中島橋を渡って約220m歩くと、クランク形に曲った曲尺手(かねんて)がありました。
11時00分、鳴海宿・曲尺手(かねんて)
118 曲手(カネンテ)
曲尺手の出口にレストランが見えたので、食べられる時に食べようと昼には少し早い時間でしたが、昼食にしました。
11時02分~11時34分、キッチン米常(昼食)=休憩(6回目)

120 キッチン米常
店内は開店したばかりですが、炎天下を歩いてきた私達には天国のように涼しく、椅子に腰掛けてため息がでました。
Yumiさんは汗をびっしょりとかいているので、濡れている薄地のシャツ脱いでと乾いている長袖のパーカーに着替えるとご満足でした。
食事はいろいろなメニューがあったのですが、刺身定食(@900円)を注文し、目薬を点眼するなどして待っていると運ばれてきした。
  ※刺身定食
122 刺身定食
お客は時間とともに入店してきましたが、広い店内だったので、静かな雰囲気の中で食事をすることができました。
約30分の食事時間でしたが、エネルギーの補給ができたので、元気に店を後にしました。
店の前は緑生涯学習センターで鳴海宿の東問屋場があった処だそうですが、跡碑がないということなので、学習センターを写真に撮りました。
11時35分、問屋場跡(現=緑生涯学習センター)=左側
124 東問屋場跡(緑生涯学習センター)
問屋場跡の碑がないので、あった辺りをバックに写真だけ撮って、次に向かいました。
約150m先の本町交差点を右折し、左側の鳴海交番の先の三菱UFJ東京銀行の前に復元高札場が立っていました。
11時38分、復元高札場跡(左側)

125 高札場跡
復元された高札場の道路反対側(左側)の塀に、庚申坂のプレートが埋め込まれていました。
プレートの前の坂が庚申坂です。
  ※庚申坂碑(左側)
127 庚申坂碑
本町交差点に戻り、右折して約80m歩いた左の「ばんの家電」の手前、右の大名茶屋の斜め手前に本陣跡パネルが立っていました。
11時44分、鳴海宿・本陣跡(左側)
128 鳴海宿・本陣跡
パネルは写真のとおり家の外壁に平行に立っているので、ばんの家電に着く前に左側を振り返ると良いと思います。
旧街道は、約110m先の作町交差点で大きく右に曲がり、交差点から約200m歩いた左側に、Yumiさん馴染の名前(Yumiさんの旧姓)の表札があり
E=Yumiさん、分かる
Y=(にっこり)分かります
と、顔を見合わせて二人でニッコリして通り過ぎましたが、知らない人が見たら「頭、大丈夫?」と云われそうです。
ここから約350m歩いた左側に鳴海ミシン商会があり、その約50m先の左側角に常夜燈が立っていました。
11時55分、丹下町常夜燈(左側)
131 丹下町常夜燈
丹下町常夜燈は、鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜灯で、表に「秋葉大権現」、右に「寛政四年一一」、左に「新馬中」、裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたもので、旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
常夜燈までの街道も炎天下でしたが、この先も日陰のない道を淡々と約500m歩いた右の斜面に貝塚の標板が立っていました。
12時02分、鉾ノ木貝塚(右側)
133 鉾ノ木貝塚

鉾ノ木貝塚は、上層土器の型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼称されている縄文時代早期から前期の貝塚で、貝層はハイガイが主です。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器が、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平底の深鉢型土器を主体として出土しています。
街道は、この先約100mで三王山交差点となり、交差点を渡り道なりに斜め左方向に進みます。
三王山交差点から約400m左側を歩くと大一食品浦里センターがあり、その前の歩道に「弥次さん・喜多さんモチーフのタイル」が埋め込まれていました。
12時10分、弥次さん・喜多さんモチーフタイル(左側)
136 東海道タイル
ここから約50m歩くと天白川に架かる天白橋がありました。
12時11分、天白橋(東詰)=右側
137 天白橋(始め)
12時12分、天白川・天白橋(中詰)
139 天白橋
午前中に比べると雲が出てきましたが、蒸し暑さは強くなっているように感じます。
橋の上は風が通るので涼しいかと思いましたが、残念ながら涼しさは感じませんでした。
  天白橋(西詰)
140 天白橋(終り)
天白橋を渡り約350m先の赤坪町交差点を過ぎ、さらに約150m歩くと右斜め方向に進む四差路となります。
この四差路の少し手前の左側に、東海道のレリーフがありました。
12時20分、東海道レリーフ(左側)
141 東海道53次レリーフ
レリーフは3~4m程もある立派なものでした。
この四差路を約60m進むとY字路となり、分岐の処に「笠寺一里塚」の信号がありました。
12時22分~12時28分、083笠寺一里塚跡=休憩(7回目)
143 笠寺一里塚全景
笠寺一里塚は、名古屋市唯一残っている一里塚で、直径10m・高さ3mの円丘上に、幹の傷(いた)みにもめげず大き なエノキが立っています。
旧街道は左側を進むのですが、昼食から約1時間歩いたので、エノキの木蔭で休憩しました。
E=暑いね
Y=寒い
E=こんなに暑いのに、寒いの?
Y=寒いんです
E=暑いのでは
Y=・・・・・
大人がバカバカしい会話をしながら、水分補給をして休憩したのですが、体を休める方に気がいって、一里塚を見ることを忘れてしまいました。
一服して少し元気になったので、一里塚跡を出発して約450m歩くと、右側に笠寺観音があり参拝に寄りました。
12時33分~12時38分、笠寺観音(右側)

148 笠寺観音境内
日曜日ということもあり、多くの参拝者がいて、少し混雑していました。
私とYumiさんは、本堂でお賽銭をご奉納し、心の中でYumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
境内は屋台が沢山立ち並んでいましたが、おやつやお土産向きのものがなかったため、何も買わずに後にしました。
参道に出ると菓子店があるので、休憩の時に食べようと、水餅(@120円)を買いました。
12時43分、菓子・松風堂(左側)
150 菓子・松風堂
菓子店を出て約60m先の環状線道路の笠寺西門交差点を横切り、約150m歩くと名鉄本笠寺駅近くの踏切を渡ります。
旧街道は、約60m先の十字路を右折して、再び名鉄に平行して歩きます。名鉄本線は、豊橋駅からずっと平行して走り何度も交差してきましたが、これが最後の交差となりました。
名鉄と平行する道を約400m歩くと、旧街道を横切る塩付街道の道標が立ったいました。
12時52分、塩付街道・東海道道標(右側)
151 東海道・塩付街道道標
江戸時代の中頃まで、南区本星崎町一帯では盛んに塩が作られていて、ここで採れた塩が千種区古出来町あたりに集荷され、遠く信州(現在の長野県)まで、俵に詰め運ばれたといわれています。本星崎町から古出来町までの約10kmが塩付街道です。 俵に詰めて塩を馬で運んだ「中馬(ちゅうま)」といわれる運送業者が往来していたそうです。
道標から約100m先の左側に富部神社があり、境内入口脇に東海道碑が立っていましたので、碑の処で休憩を取りました。
12時55分~13時00分、東海道碑(富部神社)=休憩(8回目)
154 東海道碑
道路脇に設置された東海道碑は、木蔭で涼しく、碑の台は座るのに丁度良い高さと奥行があり、失礼かと思いましたが座らせて頂きました。
笠寺参道の菓子店で買った水餅を食べ、水分補給をしました。
休憩を終え、また炎天下の中を歩き始め、約300m先の呼続小学校前交差点を横切り、さらに約150m進むと道標が立っていました。
13時05分、鎌倉街道・東海道道標
157 鎌倉街道・道標
クランク形の道の角に道標が立っていました。
ここから約250m先の左側に熊野神社があり、神社の入口の鳥居の前に東海道碑が立っていました。
13時10分、東海道碑(熊野神社の鳥居前)=左側

160 東海道石碑
熊野神社は、鳥居から本殿までは距離はなかったのですが、炎天下の中の旅で寄り道をしたくないという気持ちが強く、東海道碑の前で写真を撮っただけで、クスノキの巨木は遠目で眺めながら通り過ぎました。
熊野神社から約450m歩くと山崎川に架かる山崎橋があり、そこからさらに約600m歩くと高速3号大高線と国道1号が合流する松田橋交差点がありました。
13時22分、松田橋交差点
名所・旧跡があればその場で少し立ち休みができるのですが、まったくない炎天下の街道歩きとなり、つらい行軍となりました。
こうゆう時はYumiさんに話し掛けるなどして、気分だけでも和らげれば気分的に違うのでしょうが、精神的なゆとりがなく二人とも無言状態で黙々と旅歩きしました。
松田橋交差点は歩道橋で渡るのですが、事前準備で右側の歩道橋を渡って八丁畷公園の中に残っている旧松田橋を見る予定にしていました。
ところが左側の歩道橋を渡ってしまったため、旧松田橋を見ることができなくなってしまいました。
道路の反対側からわずかに見える旧松田橋を眺めながら、先に進みました。
交差点から約150m歩くと、左側に日本橋から357㎞の距離標柱が建っていました。
13時27分、357㎞距離標(左側)
162 357㎞ポスト
距離標から約450m、国道1号沿いを歩くのですが、国道1号は東海道線と新掘川を渡るため高架になり、旧街道は側道を真っ直ぐ進み踏切を渡ります。
JR東海道線の踏切の手前左に、地蔵堂がありました。
13時32分、地蔵堂(左側)
164 地蔵堂
JRに踏切を渡り、道なりに進むと新掘川に架かる熱田橋があり、橋を渡って約150m先の名鉄線のガードを潜った右側の小公園に、日本橋から84番目の一里塚跡があり、宮地区の案内看板が建っていました。
13時38分~13時42分、084伝馬町一里塚(右側)=休憩(9回目)

166 伝馬町一里塚跡
一里塚碑はありませんが、写真の案内板の中に、この場所が一里塚と記されているので、ここを一里塚としました。
《別の場所が一里塚説》=HP「宮(熱田)宿 街道の行く先へ」
これによると「ここが江戸日本橋から89里目(約350km)、京三条大橋からは29番目(実測で約152km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる伝馬町一里塚のあった場所とされるが、これは間違い。歩いている時には認識していなかったが、伝馬街園のある地点は連続する鉤の手の枡形道跡で、南東側に熱田神宮の築出鳥居が立てられていた。その北東側(現 名古屋市熱田区神宮4丁目辺り)が正林寺(現 名古屋市天白区土原1丁目)の旧地、そこから東海道を江戸方へ少し行った所に一里塚があり、その跡地は国道1号の新熱田橋西詰辺りと推定される。一里塚跡は宮宿東端の旧築出町にあたり、築出町一里塚と言った方が正しい」そうである。
日陰のアジサイの咲いている脇に座り、水分補給して休みました。
宮宿の七里の渡し跡は、残り約1㎞と目の前になってきました。
一里塚を出発して直ぐの左側に丸文食品があり、その隣りに史跡を祀った二階建の建物がありました。
13時44分、裁断橋址碑・都々逸発祥地之碑(左側)
  1階左=裁断橋址碑と復元旧裁断橋
168 裁断橋跡
  1階右=都々逸発祥之碑
171 都都逸発祥之碑
《裁断橋》
宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた精進川(現在は埋め立てられてない)に架かっていた橋で、1993年に修復されたましたが、都々逸とは 直接関係はないそうです。
「都々逸」は、七七七五を定型とする短詩で、五七七七五という形式をとることもあります。
元来は三味線を伴奏とする俗曲で、寄席や座敷などで唄われ男女の情愛を題材とした内容のものが多い。 江戸末期・天保年間に「都々逸坊扇歌」という人物が江戸の寄席で流行らせたと言われますが、 その起源は上方を中心に流行していた「よしこの節」に「名古屋節」の合の手 「どどいつどどいつ」を取入れ, 唄いやすいように改良したという説が有力とされています。ただ、この地がなぜ 発祥の地 とされたのかは、 資料乏しく不明とのこと。
建物の2階に姥堂が祀ってありましたが、参拝は割愛しました。
史跡を後にして進むと下調べでは、本陣、脇本陣、問屋場跡、高札場跡があると資料には記されていましたが、探し方が悪かったのか確認することはできませんでした。
その代りに、暑さにバテバテなのか、手と足を伸ばして寝ているネコちゃんがいました。
173 寝ている猫
Yumiさんは、寝ているネコを見て、「何、これ」とひと言。
再度、本陣、脇本陣、問屋場跡などについて調べると、標柱などは建っていないことが分かり、再訪で来たで建物があったと思われる現在の風景を記録に残すことにしました。
H27.10.24 再訪=鈴之御前社(左側)
裁断橋址碑・都々逸発祥地之碑から約80m先の左側
004 鈴之御前社
神社から約30m先に菅沼歯科があり、その隣り当たりに白本陣(森田八郎右衛門家)があったようです。
H27.10.24 再訪=白本陣(森田八郎右衛門家)=左側
003 宮宿・本陣跡付近(標示なし)
H27.10.24 再訪=徳川家康幼児幽居地
本陣跡付近から約30m先の十字路を左折し、二つ目の十字路(約75m先)の右角にサンライフション伝馬があり、ここを左折して約20m先の右側。
006 家康幽閉の地・加藤図書跡
《徳川家康幼児幽居地跡》
松平竹千代、のちの徳川家康が天文16(1547)年8月、6才の時、織田信秀(信長の父)のため人質となって、この地(熱田)の豪族であった加藤順盛の屋敷に幽閉された。また、この後、那古野城内天王坊にも幽閉されたと伝えられている。
家康は、天文18年11月、竹千代8才のとき一時、岡崎に戻ったが再び今川の人質として駿府に行ったそうです。
H27.10.24 再訪=脇本陣跡(左側)
幽居地跡から来た道を旧街道の十字路に戻り、左折して約30m先の左側付近。
002 宮宿・脇本陣跡付近(標示なし)
旧街道は、この先(約20m)で県道225号に突き当りますが、中央分離帯があって真っ直ぐに渡れないため、右折して伝馬町交差点を渡って迂回し、旧街道に戻りました。
そして旧街道を約80m先の左側付近に問屋場があったそうです。
H27.10.24 再訪=問屋場跡(左側)
009 宮宿・問屋場跡付近(表示なし)
H27.10.24 再訪=脇本陣跡(小出太兵衛家)=右側
問屋場跡から十字路を通り過ぎ、約30m先の右側
010 宮宿・脇本陣跡付近
脇本陣跡から約70m歩くとT字路となり、突き当りにほうろく地蔵が、右角(左角から移転していました)に三叉の道標(追分)がありました。
13時55分、ほうろく地蔵(突き当り)
177 ほうろく地蔵
【ほうろく地蔵】
元三河国重原村にあり、野原の中に捨て石のような状態であった。そこに焙烙(ほうろく 土鍋のこと)を売る者が、この地蔵を荷物のバランスを取るために拾って、この地蔵を持って熱田までやってきて焙烙を売った。焙烙を売り尽くしたので、この地蔵も熱田の海辺の葦の草むらに捨てていった。地元の者が、捨ててあったこの地蔵を見つけ安置しようとしたが、動かなかったので、おかしいと思い地面を掘ってみると、この地蔵の台座と思われる石が見つかった。みんなが不思議な事もあると思い、その台座を掘り出して、そこにこの地蔵を安置したのが、この地蔵(ほうろく地蔵)だそうである。
13時55分、三叉の道標(東海道・美濃道・佐屋街道)=追分・・・左角

174 道標
H27.10.24 再訪=三叉の道標(右角)
011 三叉の道標
《三叉の道標=追分》
道標は、寛政2年(1790年)建立で、位置もそのままだそうです。
東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点に当たる重要な三叉路で、寛政2年(1790年)に設置され、位置は当時のままです。
東・・・北=さやつしま(佐屋津島)道  
    同=みのち(美濃路)道
西・・・東=江戸かいとう(街道)
    北=なこやきそ道(名古屋木曽)
南・・・寛政二庚戌年
北・・・南=京いせ七里の渡し
    是より北あつた御本社貮丁
道標を確認し、約40m先に進むと国道247号に合流し、歩道橋で反対側に渡ります。
H27.10.24 再訪=赤本陣跡(左側)
歩道橋を降り、右側のあつた蓬莱軒の建物の裏にある駐車場に沿って約30m先の左側の駐車場脇

015 宮宿・赤本陣跡
《赤本陣・解説》
宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本などの公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。
本陣職を承った者は土地の有力者に限られ、代々世襲で赤本陣は南部新五左衛門が務め、苗字帯刀が許されていました。
天保年間(1830~1844)の東海道宿村大概帳によると建坪236坪となっており、南部家の記録では間口約16間、奥行き21間と記されているが、戦災で本陣の遺構は消滅した。
歩道橋から下を見ると若い人が沢山群れているので、何だろうと思いながら歩道橋を下りて近付いてみると、右側に名古屋名物ひつまぶしの「あつた蓬莱軒」本店があり、若い人で行列になっていました。
14時01分、あつた蓬莱軒本店前(右側)
179 蓬莱陣屋の行列
この時点での待ち時間は、90分と掲示されていました。
旧街道は国道247号から分岐して右のあつた蓬莱軒の前を通って進みます。
 あつた蓬莱軒から約80m先左側の食事喫茶はまじまに沿って右折し、30m先の左に白鳥防災倉庫がありその脇に西御殿跡がありました。
14時03分、西浜御殿跡(右側)
180 西浜御殿跡
西御殿跡は、街道を往来する大名らを招待、供応するため、尾張藩が1624年(「厚覧草」によれば1634年)、七里の渡しの東側の海を埋め立てて東浜御殿を造り、1654年に七里の渡しの北西に西浜御殿を築きました。東浜御殿は桑名楼と寝覚楼を持つ城郭のような構えで、西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたということです。
旧街道に戻り、約90m歩くと宮の渡し公園となり、公園前の道路沿いに史跡の建物が建っていました。
H27.10.24 再訪=丹羽家住宅(右側)
幕末は脇本陣格の旅籠として栄えましたが、現在は住んでいる方の意向で、史跡解説などのパネル類は全て撤去されていました。
021 丹羽家住宅
《丹羽家・解説》
伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠で、正面の破風付き玄関はかつての格式の高さを偲ばせ、西国各藩の名を記した提灯箱が残っているようです。昭和59年、市の有形文化財指定。
H27.10.24 再訪=熱田荘

019 熱田荘
《熱田荘》
明治29(1896)年に魚半の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は三菱重工の社員寮として使われ、現在は高齢者福祉施設として利用されている。建造は明治29年と比較的新しいが、近世の町家の様式を継承しており、名古屋市の有形文化財に指定されている、
そして、建物の前の道路を渡った処が宮の渡し公園で、渡し跡の史跡が残されていました。
公園の左側に時の鐘、その隣りに熱田常夜燈が立っていました。
14時09分、時の鐘(左側)
182 時の鐘
時の鐘は、延宝4年(1676年)尾張藩主徳川光友が熱田蔵福寺に設置され、正確な時刻を知らせる鐘として熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果していました。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失しましたが建物は復元され、鐘楼は損傷を受けないで、今も熱田蔵福寺に残っている。
時の鐘の隣りに 
当時、灯台として機能していた常夜燈がありました。
14時10分、熱田湊常夜燈(左側)
186 熱田常夜燈
熱田湊常夜燈は、寛永2年(1625年)、藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立したもので、その後風害で破損したため、承応3年(1654年)に現在の位置に移り、神戸町の宝勝院に管理が委ねられた。現在の常夜燈は、名古屋市教育委員会=昭和30(1955)年、名古屋市=昭和58(1983)年に復元されたと記されており、どちらが正しいのか分かりません。
ブロックを越えた隣りに宮宿・七里の渡し跡(碑)があり、日本橋を出発して25日目に到着しました。
14時11分、七里の渡し(到着地)

189 宮宿・七里の渡し跡
  宮宿・七里の渡し跡(全景)
192 宮宿・七里の渡し全景
七里の渡しは、宿場の宮宿(現愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海上の渡しで、慶長6年(1601年)の東海道制定の時に定められた、東海道で唯一の海上路でした。この渡しの、宮宿側および桑名宿側の渡船場のみを指して「七里の渡し」と呼ばれています。七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来し、船によって移動し、所要時間は約4時間だったそうです。また、「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などとも言ったようで、天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の難所の一つでした。そのため、海上を避ける迂回路として、脇往還の佐屋街道があり、陸路の街道を歩く人も多くいたそうです。
暫し、往時のことを頭に思い浮かべながら、風景を眺めました。
※到着式を忘れた!!
熱田神宮に着いた時、七里の渡し跡碑に到着した時の到着式を行っていないことを思い出しました。
しかし、熱田神宮から七里の渡しに戻ることは体力的に厳しいので、旧街道思い出の旅の時に到着式の写真を撮ろうと思い諦めました。
14時13分~14時20分、七里の渡し東屋=休憩(10回目)

七里の渡し跡碑の真向かい東屋があり、ベンチに座って休憩しました。
涼しい風が通る東屋は快適で、水分補給しようとしたらペットボトルの残量が少なく、
ペットボトル(2本=7本目)を買いました。
今日は、桶狭間古戦場公園に迂回したため、炎天下の中で真っ赤に日焼けする18㎞強の旅を、Yumiさんは弱音を吐かないで良く歩いたと、頑張りに頭が下がりました。
暫く休憩して、織田信長が桶狭間の戦いの戦勝祈願を行った熱田神宮に参拝するため、七里の渡し跡を出発しました。
14時20分、七里の渡し発

旅で歩いてきた道を戻り、ひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒」の処にくると、待ち時間がさらに延びて2時間になっていました。
凄い人気に驚くとともに、今度来た時は食べてみたいと思いました。
熱田神宮南交差点を歩道橋で熱田神宮側に渡り、神宮南門に着きました。
14時30分、熱田神宮南門

194 熱田神宮・鳥居
鳥居を潜り、参道に入ると日陰となり、旅が終わっているので、ひと息つきながらのんびりと歩くことができました。
  熱田神宮・参道
196 熱田神宮・参道
参道中程の左に大クスノキがあり、立ち寄りました。
14時36分、大クスノキ(左側)
197 大楠の木
大クスノキは、幹周7.7m、樹高20m、樹齢1,000年、弘法大師が手植えしたとのことで、御神木になっているため、保存樹にはなっていないそうです。
大クスノキには人が集まっており、手を合わせたり、お賽銭を上げている人もいましたが、写真だけ撮って後にしました。
熱田神宮の本宮に行き、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
H27.10.25 再訪=二十五丁橋(境内左側)
宮きしめんの店の横に、二十五丁橋が復元されていました。
008 二十五丁橋
〔解説〕
花崗岩の板石を並べた反り橋(中央が高く弓状に反っている)で、板石が25枚並んでいることが名前の由来。かつては熱田神宮を巡る堀に架けられていましたが、昭和11(1936)年に境内の拡張に際し解体され、昭和30(1955)年に現在の場所に復元されました。
14時40分、熱田神宮・本宮
200 熱田神宮・本殿
本宮に参拝し、社務所の前を通る時、
E=おみくじ、引く?
Y=どちらでもいい
E=じゃー、引いてごらん
と云って、おみくじ(@200円)を引くのですが、番号札が書かれた棒が入っている筒の扱い方を忘れてしまっているため、Yumiさんに持たせながら何とか棒を引きました。
引いた棒に書いてあった「20番」のおみくじを受け取ると、「中吉」で病気は長くかかると書かれていました。
なお、おみくじは、境内の結び棒にくくり付けてきました。
東側の参道を歩くと、桶狭間で戦勝した謝礼として寄進した信長塀がありました。
14時47分、信長塀(熱田神宮)
202 信長塀
この後、参道のトイレを済ませてから熱田神宮を後にしました。
14時53分、熱田神宮出入口
信号を渡った処のコンビニ(セブンイレブン)に立ち寄り、休憩に食べるアイスクリームを買い、駅のベンチで食べようと神宮前駅に向かいました。
駅の改札を入った処に考えていたとおりベンチがあり、腰掛けてアイスクリームを食べました。
15時00分~15時11分、名鉄・神宮前駅=休憩(11回目)
15時13分、神宮前駅発
疲れを少し癒しホームに降りると、発車寸前の状態だったので、少し待ってもらい乗車しました。
電車は、5分程度の乗車でしたが、座れる座席があったので、ザックを降ろして腰掛け体を休めました。
15時20分、名鉄・名古屋駅着
《大都市で迷子》
名古屋駅に着いて、駅近くのホテルに向かいましたが、改札口で「南口」と聞いたのがそもそもの間違いで、名古屋駅前で迷子になってしまいました。
名古屋駅の周りを行ったり来たりしたようで、ホテルに電話して場所を伝えると、ホテルとは逆の方向にいることが分かり、名古屋駅を横切って反対側(太閤口)に出てやっとホテルの場所を確認しました。
駅に着いてから約40分、大都市の名古屋駅前で迷子になってしまいました。
【ホテル】
15時59分、ホテル着(東横イン)

205 東横イン
チェックインし、指定された部屋に行き濡れているシャツを着替え、デジカメ・携帯の充電、Yumiさんの目薬・服用薬・血圧測定の準備、着替えなどの準備などを行い、夕食に行くまでベッドに横たわって体を休めました。
【夕食】
17時30分頃、名古屋駅の地下街に食事に行きましたが、明日の朝、迷子にならないように乗車口などを確認しました。
地下街でYumiさんも食べられる味噌かつが食べられる店に入りましたが、店名などを記録するのを忘れてしまいました。
Yumiさんと乾杯し、食事してホテルに帰り、シャワーを浴び、夜の点眼、血圧測定をしてベッドに入りました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp


【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/




【天候】⇒曇り(ホテル到着直後から降雨)
【宿場】(39)知立宿
【行程】歩行距離=8.35㎞ 総距離=351.21㎞
新安城・里町4丁目西交差点⇒(2.00㎞)⇒079来迎寺一里塚⇒(4.35㎞)⇒080一ツ木一里塚⇒(2.00㎞)⇒富士松・岡田燃料店角

【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第24回旅の宿場)
15 24回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第24回
  第24回の旅ルート
  
(新安城・里町4丁目西交差点 ⇒ 富士松・岡田燃料店角

第24回ルート
【旧東海道の旅】

《序章》
日本橋を出発して約340㎞歩き、七里の渡しが目前のところまできたとともに、三条大橋が近づいてきたことを強く感じるようになり、一日一日の旅を大切にしながら、運に恵まれた旅ができたらと願っています。
旅に出発する一週間くらい前は、雨模様の予報が発表されていたので、どうなるのかと心配していたのですが、日が経つにつれてだんだんと天候が回復基調となりホッとしたのも束の間、今度は発生した台風の影響でまた雨模様の天気予報になりました。
日程の変更は諸々の事情から出来ないので、雨天時の準備(山行で教えて頂いた雨具およびビニール袋での濡れ防止)を整えて出発することにしました。
また、昼食についても当初は安城市観光協会から頂いた資料を基に、新安城駅付近で食べる予定にしていたのですが、11時~11時30分の開店まで待つことになるため、降雨になる前に少しでも先に進進んだ方が良いと考え、少しの時間を惜しみ旅の途中(知立付近)で食べることにしました。
安城市観光協会の方(女性)には、大変お世話になりながらご厚意に報いることができなくなり、旅から帰ってきてからお詫びと情報提供頂いたお礼のFAXを送信させて頂きました。
《移動》
05時00分、起床

ゆっくり身支度が出来るように考え、前回と同じようにいつもより15分早く目覚ましをセットし、起床しました。
身支度を整え、事前に準備したザックと朝食(パンと飲み物)を持って出発しました。
爽やかな朝の空気を吸いながら自転車で走っていると、朝のラジオ体操が終わったところで、顔見知りの方とすれ違うなどして最寄り駅に向かいました。
最寄り駅から電車に乗り、東京駅に8時頃着きました。
※東京駅ホーム
001 東京駅ホーム
東京駅で4号車の前から二番目に並び、Yumiさんをトイレに連れて行くなどして、新幹線の入線を待ちました。
8時33分、東京駅発(ひかり505号)
前から7番目の2人用の座席に坐り、持参した朝食(菓子パン、ジュース)を食べ、出発を待ちました。
003 新幹線車内
新幹線は定刻に、前月の時と同じように50~60%程度の乗車率で出発しました。
天気は曇りのため「富士山は観れない」と考え、うとうとと寝てしまいました。
9時58分、豊橋駅着
ここで乗り換えるため、連絡改札口を通って名鉄線のホームに移動しました。
005 名鉄・豊橋駅ホーム
名鉄線には、4月、5月の旅の時に何回か乗車しているため乗り方が分かってきましたが、「乗るのは今回の旅が最後かなと」思いながら乗車しました。
10時15分、名鉄豊橋駅発
車窓から歩いた処が見れるようにと、進行左側の座席に坐りました。
私は、名鉄線沿いの旧東海道の旅を思い出しながら車窓から眺めながら、Yumiさんに「あそこを歩いたんだよ」、「この橋も歩いて渡ったんだよ」等と話しても、「そうね」と覚えているのか、いないのか分からない返事が返り、私のように感傷的な気分になることなく、コックリ、コックリと寝ていました。
10時42分、名鉄・新安城駅到着
今日の旅の基点となる駅に着きました。
007 新安城駅北口
改札を通り駅の北口に出て、記録の写真を撮り出発式を行う場所に向かいました。
【=旅=】
10時52分、里町4丁目西交差点(出発式)
009 里町4丁目西交差点(出発地)
Yumiさんに看板を掲げてもらい出発式(写真撮影)を行い、旅を出発しました。
この交差点は以前は「東栄町」だったのですが、区画整理に合わせて名称が変更になり、次の「今本町北」も「今本町8丁目」に変更になっていました。
今本町8丁目交差点から約350m歩いた左のホワイト急便(クリーニング店)の道路反対側辺りから、7~8本の今本町松並木(私の命名)があり、今本町4丁目交差点を過ぎた50mくらい先の右側約100mと、左側のテクノアソシエ脇から100mに松並木が交互にありました。
11時02分、今本町松並木(命名)=ホワイト急便斜め前
012 今本町松並木
石田橋、猿渡川橋と渡り、来迎寺公園東交差点から150m歩いた右に御鍬神社があり今日、最初の神社でしたので立ち寄りました。
11時15分、御鍬神社(右側)
016 御鍬神社
神社の社殿は、まだ新しく木の香りが漂っている感じ(匂いはしませんでした)でした。
お賽銭を奉納し(ガラスのない窓から入れる)、Yumiさんの病気平癒(意味性認知症と緑内障)と今日の旅の御加護を、周りに人がいなかったので声を出してご祈願しました。
神社を出て約100m歩くと来迎寺町交差点となり、ここを右折すると無量寿寺があるのですが、降雨の心配があるため割愛し先を急ぎました。
無量寿寺は、奈良時代の慶雲元年(704)の創立といわれ、境内の八橋かきつばたの歴史と文化および在原業平や方巌売茶竹製笈(県指定文化財)など数百点の文化財が保存されており、5月に開花する「かきつばた」の名勝地として有名なので、その時期に来たいと思います。
交差点から約200m歩いた左側の来迎寺公民館バス停、右側の公民館裏に、日本橋から79番目の一里塚があり、石碑が建てられていました。
11時22分、079来迎寺一里塚(左側)
019 来迎寺一里塚(左側)
  来迎寺一里塚(右塚)
023 来迎寺一里塚(右側)
来迎寺一里塚は、昭和36年(1961)に指定された右塚(北塚)は高さ3.5m、基部の幅10m、奥行9mの規模で、西側がやや崩れているものの一里塚の原形をよく保たれている。塚上には黒松が植えられている。ただ旧東海道と右塚との間に公民館が建設され、かなり景観が損なわれている。
左塚(南塚)は、塚の半分ほどが崩され原形を失っており、塚上には従軍記念碑や戦死者記念碑があったため、右塚と同時に指定されなかったが、原形復帰に努力する地元の意志に鑑み、平成8年追加指定された。
現在は塚上の石碑等も撤去され、相並んだ双塚の面影を示すようになっています。
左側の塚は道路から見えるのですが、右側の塚は公民館の裏手にあるため見えません。
最初、右の塚は撤去されたのかなと思い歩き始めてから、もしかしたらと公民館の裏手に行くと右の塚がありました。
江戸時代の原形を保持している貴重な塚なので、左右の塚について案内があると親切だなと感じました。
一里塚から約200m歩いた右側に、「菓子司 両口屋本舗」があり休憩に立ち寄りました。
11時30分~11時37分、休憩(菓子司・両口屋本舗=右側)
幟旗が一番多く立っていた「かしわ餅」を注文し、店主の許可を頂いて店内のベンチに座り休憩しました。
店主=東海道を歩いているのですか?
Ei=はい。今日は、新安城から歩いています
Ei=かしわ餅が一番売れているのですが?
店主=無量寿寺に参拝される人が立ち寄られ、人気があります
などの会話をし、出来立てホカホカのかしわ餅を食べ、お礼を云って後にしました。
店を出て少し歩いたところで、写真を撮り忘れたことに気が付きましたが、戻る時間を惜しみ先に進みました。
店舗を出て約700m歩くと高架の衣浦豊田道路(有料道路)と地上の国道419号線の新田北交差点があり、交差点の手前右側に元禄時代に立てられた道標がありました。
11時47分、元禄の道標(右側)
026 元禄の道標
道標は、江戸時代の東海道の諸処に同じ様な道標が建てられ、「従是四丁 半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年6月吉朔日施主敬白」と記されています。これは、元禄9年(1696年)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたもので、ここから西へ500mの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄 12年の道標が残されているようですが、確認するのを忘れました。
国道419号線は道路幅が広く、横断歩道もないため、歩道橋で道路を渡りました。
  ※新田北交差点の歩道橋(矢印の方に歩く)

028 新田北歩道橋
歩道橋を渡ると、長い松並木の知立松並木が始まるところでした。
11時50分、知立松並木
031 知立松並木
知立松並木は、慶長9年(1604年)に幕府からの命令により設置したもので、知立松並木は幅7m、約500mにわたって凡そ170本の松が植えられています。
知立松並木は、側道があるのが特徴で、この地で行われた馬市の馬をつなぐためとも推定されています。
写真は道路の真ん中でのんびり撮っているようですが、信号の加減でやっと撮れたもので、何でこんなに走るの、と云う状態でした。
松並木が始まって直ぐの左側に、小林一茶の句碑が立っていました。
11時52分、一茶句碑(左側)
035 一茶句碑
旧東海道を旅していて芭蕉の句碑はいたる処に立っているのですが、一茶の句碑に出会ったのは初めてのように思います。
一茶の句碑は、平成2年に建てられたもので、『はつ雪やちりふの市の銭叺(ぜにかます)』と記されています。
一茶が見物した市とは知立で有名な木綿市のことで、売上金を無造作に大きな叺に投げ入れるのを見て、その盛況ぶりを詠んだものだろうと伝えられています。
句碑から約150m歩いた左側の山田産業を過ぎた処を左折し、山田産業の裏側の喫茶ミミに行きました。
11時56分~12時34分、昼食(喫茶ミミ)
038 喫茶ミミ
喫茶ミミは、旅に出る前に昼食が食べられると情報を得ていた場所の一つで、時間的にも良い時間になっていたため立ち寄ることにしました。
店内に入りメニューを見てYumiさんに「どれがいい?」と聞きましたが、答えは同じで「分からない」。
そのため、いろいろな食材が入っていて、値段的にも安い幕の内弁当(@650円)を注文しました。
  ※注文した幕の内弁当
040 幕の内弁当
  にこにこ顔のYumiさん
041 昼食
食事を注文している間に、1日3回の目薬を点眼し、汗をかいてビッショリになっている半袖を脱いでもらい、持参した長袖のポリのパーカーを着て、汗冷えの対応をしました。
私も、Yumiさんも残すことなく食べ、トイレに寄って店外に出ました。
出る時は、湿度が高いのと、ホテルに着いてからの寒さ対策もあり長袖のポリのパーカーを脱いでもらいましたが、定番となった「寒い」との苦情があり、何とか宥めて脱いでもらいました。
約40分の短い休憩でしたが、食べたことでエネルギーが補給され元気になり、また旧街道に戻りました。
旧東海道に戻ると、20~30人の人がたむろしており、案内人の人が説明している時で、読売旅行の旧東海道東下りに参加している人達でした。
特に挨拶することなく、その人達と交錯しないように気を付けながら、史跡の記録を残しました。
12時37分、馬市の跡・万葉の歌碑・他(左側)
044 馬市の跡碑
池鯉鮒の馬市は、古来、牛田~八橋間の野原にあったとする言い伝えられています。馬市の付近に「馬場池」と呼ぶ池があり、70年前頃まで子供達がよく遊びにいったと言い伝えられています。
江戸時代初期に東海道が出来て池鯉鮒宿が設けられ、人々が町に集まってきたことから、慈眼寺を中心にした付近が馬市の場所に選ばれ、時には東海道松並木両側にも空き地を設けて、収容し切れない馬をつないだともいわれています。
  ※馬市句碑・万葉の歌碑
043 馬市の句碑
この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされています。
  ※万葉集引馬野の跡

046 引馬野禰の碑
読売旅行の旧東海道東下りは、3班に分かれ100人程度おり、旧東海道の旅の根強い人気にビックリしました。
参加費4,000~5,000円を支払って、計画ルートに沿って旅するのも一つの方法かもしれませんが、ガイドのペースに付いて歩ける人や、主要史跡で説明を聞きたい人には良いかもしれませんが、自分のペースで歩きたい、自分の考えで史跡を見てみたいと思う人には向かないと思いました。
私とYumiさんの旅は、二人の結婚40周年記念と人生の思い出作りが目的なので、自力で計画、準備していろいろなことを体験しながらなので、私とYumiさんとは少し違う楽しみ方のようです。
知立松並木が終わり御林交差点の手前で、左側から右側に移動し、御林交差点を地下道で潜りました。
地下道を潜って出た左側に、宿碑が立っていました。
12時44分、池鯉鮒宿碑(左側)
050 池鯉鮒宿碑
碑から約120m歩いた左側に「手もみ・マッサージ山」の看板が掲げられていました。
「手もみマッサージ山」は、何とも記憶に残る名前と思いました。

052 手もみ マッサージ山の看板
Yumiさんに、「手もみ マッサージ山、面白い名前だね」と云うと、笑われました。
ここから約140m先に、変わったマンホールの蓋がありました。
12時49分、伊勢物語が記された蓋
054 マンホールの蓋
地域を表現した絵柄が多い中、この地方で有名な在原業平がモデルとして読まれた歌が多い、伊勢物語の蓋はとても印象的でした。
この直ぐ先が名鉄三河線の踏切で、タイミングが合えば電車の写真を撮りたいと思ったのですが、何時走ってくるかわからなかったため踏切を渡って50~60m行くと、警報機が鳴り始め、赤い1両電車が走っていきました。
写真を撮ることはできませんでしたが、直接目で見ることができて良かったです。
踏切から約200m歩いた左の「かぎや」の前を右折し、県道51号線の山町の交差点を渡って約50~60m先の右側に慈眼寺があり、境内に馬市之碑が立っていました。
12時53分、馬市之碑(慈眼寺)=右側
055 馬市の跡
馬市之碑はパネルで、馬を弔うためか家畜市場碑は石碑と塚が立っていました。
また、境内入口の斎場で葬儀が行われていたので、写真だけ撮って早々と後にしました。
交差点を渡り、かぎやの前を左折し旧東海道に戻りました。
約350m歩いた左側(ホワイト急便の先)に秋葉山常夜燈が立っていました。
13時00分、秋葉山常夜燈(左側)
058 秋葉常夜燈
常夜燈を後に、約200m歩くと五差路の中町交差点となり、県道51号線を斜めに横切る形で旧東海道は真っ直ぐに進みます。
交差点を渡ったところに、年代を感じるお茶屋の看板の店が目に止まりました。
  ※香味園・山城屋茶舗
060 香味園・山城屋茶舗
ここから約80m先、右側の食品館美松中町店の入口右に問屋場跡がありました。
13時07分、問屋場跡碑(右側)
061 問屋場跡
スーパーの前から約70m先の道路を渡った左側の知立本町郵便局の手前に、池鯉鮒銘菓の「都築屋羊羹」があり立ち寄りました。
13時10分、都築屋羊羹=池鯉鮒銘菓(左側)
063 都築屋
  ※都築屋の店内(五代目の店主)
065 店内
都築屋は、明治8年創業の店ではあるが、都築屋の建物自体は江戸時代に建てられたものだそうです。
江戸時代は都築屋と郵便局の建っている土地に、柳屋という旅籠が店を構えていたものを、居ぬきで都築屋の初代が柳屋の建物半分を土地ごと購入し、菓子屋を始めたのだそうで、ほとんど改装することなく現在に至っているとのことでした。
私は、店の看板に羊羹と書かれていたので、小豆羊羹(@500円)をお土産に購入しました。
家に帰って食しましたら、暑さで少し味が変わったかもしれませんが、水羊羹を食べる感じでした。
お土産をザックにしまい、次に向けて店を後にしましたが、羊羹を買っている時、どうゆう訳かYumiさんは店内に入らずに外で待っていました。
約70m先の右の神谷自転車店の前、左・村瀬商店の1軒先の路地を左折し、国道419号線に出た処の左角(右側=今川屋)の駐車場の左角に本陣跡がありました。
13時16分、池鯉鮒宿・本陣跡碑(左側)
066 池鯉鮒宿・本陣跡
駐車場が満杯で、わずかな隙間しかなく、やっと撮ったという感じでした。
旧街道から少し外れた処にある史跡から、また元の旧街道に戻り、約120m先のT字路の突き当り左に、道標が立っていました。
13時20分、東海道道標(左側)
069 池鯉鮒宿道標
T字路を右折し、約50m先の左の西町公園の中に、知立古城址碑が立っていました。
13時22分、知立古城址碑(左側)
071 知立古城址
碑から約40m歩くと、またT字路となり、道なりに左折します。
都築屋羊羹からの道は、道標のあるT字路、知立古城址跡の先のT字路と、軍事用の曲尺手(かねんて)構造になっていますが、特に曲尺手(かねんて)として扱っていないようです。
クランク形に曲がった道が終わった右角に、知立名物「あんまき」の小松屋があり立ち寄りました。
13時27分、小松屋(あんまき)=右側
074 あんまき・小松屋
あんまきは、愛知県知立(ちりゅう)の名物で、小松屋本家が明治22年頃から作り始めた歴史あるお菓子だそうで、あんまき屋がある中、唯一手焼きで作って あんまきの皮に屋号が入っています。
あんまきは、もともと焼き菓子の「二つ折り」を焼いていたけれど、あんこを入れてみたところ、評判となり人気が出たとのことです。
私は、小豆あんと白あんがありましたが、小豆あん(@160円)を買いました。
また、小松屋の看板を撮り損ねてしまいましたが、銃砲店でもあるようです。
.小松屋を出て約100m歩くと、国道155号豊田南バイパスとなり信号機も横断歩道もなく、地下道で潜るようになっています。
13時32分、国道155号豊田南バイパス地下道入口
076 豊田南バイパス横断地下道入口
豊田南バイパスの地下道を潜り、反対側の出口に来ました。
空は雲に覆われていますが、比較的明るいので、降雨はもう少し大丈夫のような感じです。
出口から約250m歩くと右側に、知立神社の道標が立っていました。
13時38分、知立神社道標(右側)
080 知立神社道標
道標に沿って右折し、約100m歩くと左に花菖蒲が咲いている知立公園があり、その先が神社の境内になっていました。
13時40分、知立神社(右側)
知立神社は東海道三大大社の一つで、昔は池鯉鮒神社でした。
本殿に進み、お賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気平癒と今日の旅のご加護をご祈願しました。
参拝後、隣りの知立公園の花菖蒲を見に行きました。
公園では花菖蒲まつりが開催されており、花菖蒲は終わりに近づいていましたが、まだ綺麗に咲き誇っていました。
昼食を食べてから約1時間経つので、花菖蒲見物と休憩を取ることにしました。
13時44分~13時52分、知立公園(休憩)
  ※知立公園の花菖蒲
084 知立公園・花菖蒲
  ※知立公園入口のベンチ(休憩)
089 知立公園(休憩)
公園の池に咲く花菖蒲を見ながら、小松屋で買った「あんまき」を食べ、水分補給も行い、英気を養いました。
また、公園では花菖蒲まつりが行われていて、週末ということもあり大勢の人が観賞に来ていました。
知立神社の参道から旧東海道に出る左角の民家の裏に、秋葉山常夜燈が立っていました。
13時54分、秋葉山常夜燈(左側)
093 秋葉常夜燈
旧東海道に戻り、約70m先の左側に総持寺がありました。
13時55分、総持寺(左側)
095 総持寺・山門(お万の方生誕の碑)
総持寺の山門は竜宮門で、山門の手前右側に秀康の母「お万の方」の生誕碑がありました。
ただ、生誕地はお万の方が知立神社の神官氷見氏一族から出たことから生誕地とされているそうで、本当の生誕地がどうか?です。
総持寺を後に約250m歩くと、逢妻川に架かる逢妻橋がありました。
13時59分、逢妻橋
097 逢妻橋
橋は新しく架け直され、歩道も広く歩きやすくなっていました。
橋を渡って約150m歩くと、国道1号(逢妻町交差点)と合流し、さらに150m歩いた左側の活魚・宇和海を過ぎる手前に知立市から刈谷市に入る市境標柱が立っていました。
14時04分、刈谷市境標柱(知立市から刈谷市)=左側
100 刈谷市境標柱
標柱から約50m先の左側に、日本橋から341㎞の距離標が建っていました。
14時05分、341㎞距離標(左側)
102 341㎞ポスト
距離ポストから約300m歩くと古い一里山歩道橋(341.4㎞地点)があり、歩道橋の階段の奥に日本橋から80番目の一里塚があり、石碑が建っていました。
14時11分、080一ツ木一里塚跡碑(左側)
105 一ツ木一里塚跡(一里山歩道橋下)
  ※一ツ木一里塚後碑
106 一ツ木一里塚跡
旧東海道は白矢印の方に向かって歩くため、歩道橋を間違えないようにしないと通り過ぎてしまうので、私も細心の注意を払って史跡跡を確認しました。
旧東海道はこの先の信号を越えた先で右折するため、一里塚のある歩道橋か、次の交差点の歩道橋で道路を渡る必要があります。
私達は、一里塚跡碑の処の歩道橋を渡り、進行右側に移動しました。
旧東海道は、次の一里山町新屋敷交差点から約200m先右側の、石原商店の先を右に進みます。
14時19分、国道1号と分岐(右折)
108 道案内
旧東海道は、ここで国道1号と分岐し、約500m脇の道を歩き、右側のアド大府センターの処で、再び国道1号と合流します。
合流して約50m歩くと今岡歩道橋があり、歩道橋を一里塚と同じ側の道路左側に渡ります。
14時26分、今岡歩道橋
109 今岡歩道橋
国道1号の左側に渡ると直ぐ、左側に分岐する道路があり、旧東海道は左側に分岐する道を進みます。
分岐から約100m先の右側の民家の横に、アルミサッシに囲まれた十王堂がありました。
14時28分、十王堂(右側)
111 十王堂
  ※アルミサッシの中の十王堂
113 十王堂・内部
さらに約50m先の左側の民家に、家を通り抜けるような出入り口のある民家があり、出入り口の脇に玉ねぎとニンニクが吊るし干してありました。
14時31分、大きな古民家(左側)
114 立派な古民家
  ※吊るし干し(玉ねぎとニンニク)
115 干し物(玉ねぎとニンニク)
広い敷地の古民家で、このような出入り口のある家も街道筋にあったと思いますが、このようにしっかりとした形で残っている家はありませんでした。
古民家から約150m歩いた左に洞隣寺があり、寺院入口に秋葉山常夜燈が、境内に達磨の石像がありました。
14時34分、秋葉山常夜燈(洞隣寺)=左側
116 秋葉常夜燈
  ※達磨の石像(洞隣寺)=左側
118 ダルマ石像(洞隣寺)
寺院の境内に、達磨の石像が設置されている理由は解説されたものがないため、深く考えず写真だけ撮って先に進みました。
寺院を出て約30m歩いた右に、いもかわうどん碑が立っていました。
14時36分、いもかわうどん碑(右側)
120 いもかわうどん碑
いもかわうどんは、江戸時代、東海道の芋川に立場(休憩所)があり、平打ちのうどんが名物だったそうです。その芋川うどんが西に伝わってきしめんと、東に伝わってひもかわと呼ばれるようになったとされているそうです。
最近は食べたことはありませんが、ひもかわうどんは小さい時によく食べた記憶があります。
昔食べたひもかわうどんを思い出しながら約400m歩いた左に連子格子の古民家(左=今川市民館)が残っていました。
14時43分、連子格子の民家(岡田家)=左側
123 古民家(岡田家)
連子格子の古民家は東海道沿いに多く残っていましたが、中には住んでいるのかな?と思える家がある中、現在住んでいる規模の大きな古民家でしたので、旅人の私達には目の保養となってありがたいのですが、住居を維持するのは大変なことだろうなと思いました。
今日の旅もあと少しとなり、古民家から約230m歩いた右の乗蓮寺に、刈谷市の天然記念物のシイの樹があるというので立ち寄ることにしました。
14時47分、シイの樹(乗蓮寺)=右側
125 天然記念物「シイ」の木
127 天然記念物「シイ」の木
乗蓮寺の境内にあるシイの樹は、樹齢850年と推定され、昭和33年に刈谷市の天然記念物に指定されたそうです。幹の根元に大きな空洞があり、昔タヌキが住んでいたと言い伝えられています。
乗蓮寺を出て約90m歩いた交差点を渡った右角が、今日の到着地です。
14時50分、富士松駅・岡田燃料店角(到着地)=右側
130 富士松・岡田燃料店角(到着地)
新安城駅北口を出発してから薄曇りの状態でしたが、雨に降られることなく旅をすることができました。
陽は陰っているのですが、蒸し暑く汗が噴き出てくる状態で、水分補給をしながらの旅となりました。
Yumiさんも汗をかなりかき、背中はびしょ濡れ状態でした。
到着地で到着式(看板を掲げて写真撮影)を行い、名鉄・富士松駅に向かいました。
【到着地から移動】
駅に向かう途中、性懲りもなくまたカメラを落としてしまいました。
カメラのカバーが正常に動かなくなり、写真の右下のようにカバーが写ってしまう状態になってしまいました。
カメラのカバーを手で直していると、カバーが元の状態に戻り、正常に撮れるようになりました。
カメラを落として一台壊しているので、かなり注意して扱っているのですが、これで二度目なので改めて気を付けなければと、自分に言い聞かせました。
14時57分、名鉄・富士松駅着
132 名鉄・富士松駅
14時58分、富士松駅発
パスモを使って改札を通る時の定例儀式の、私がパスモをYumiさんに「これだよ」と云って見せ、Yumiさんにパスモを用意してもらい入札しました。
ホームに出ると、待つ間もなく電車が入ってきました。
好きなところにどうぞ状態の電車に乗り、2駅、約5分、宿泊する知立駅に向かいました。
  ※名鉄線の車内

135 名鉄車内(富士松駅)
15時03分、知立駅着
136 知立駅・改札口
今日、宿泊する知立駅に着きました。
ペットボトルが空の状態になっていたので、ペットボトルを自販機で購入し、駅舎を出ると雨がポツリ、ポツリと降ってきたので、駅舎に戻りザックの中から折畳み傘を出し、ホテルに向かいましたました。
第22日目の時と同じように、旅が終わってから降雨となり、運が良かったと思いました。
【ホテル】
雨は少し降っていますが、傘を差すほどではないので、そのままホテルに到着しました。
15時15分、ホテル着(アイリスイン知立)
138 アイリスイン知立
ホテルは、富士松駅付近で見付けられなかったので、少し戻りますが知立駅で探し、ビジネスホテルのアイリスイン知立に予約しました。
フロントでチェックインして指定された部屋に入りましたが、夕食まで少し時間の余裕があるので、靴をスリッパに履き替え、着てきたものをハンガーで乾かしたり、入浴後の着替え、服用薬等をザックから出しての用意などを行い、その後ベッドに横になって体を休めました。
【夕食】
雨は私達がホテルに着いてから本降りになったのか、傘なしではとても歩けないくらい降っていました。
知立は初めての街なので、ホテルの人に聞くと駅前の魚介類中心のお店が良いというので行ったのですが、人数は少ないのに店内がガヤガヤうるさいのと、店の対応が良くないので他の店に替えることにし、駅からホテルに行く途中にあった居酒屋に入りました。
17時45分、居酒屋黒ちゃん
144 居酒屋・黒ちゃん
店内には数組のお客が入っており、座敷ではなく椅子席のカウンターに座り、生ビールを注文しました。
旧東海道の旅に出るようになってYumiさんも居酒屋に行く機会が増えたので初めてではないのですが、どこに行っても「このようなお店は初めて」と云うのが口癖です。
同じ店に二度行くことはないので、Yumiさんが云うのもある意味では当たっているのですが、私には記憶していないからだと思います。
145 居酒屋・黒ちゃん店内
毎度のことですが、汗をかいた後の生ビールは格別で、今日も冷たいビールで咽喉を潤しながら刺身、板わさ、玉子焼き、他数点食べました。
店内にいるお客は、私達と同年輩くらいで、若い人が多い店特有の騒がしさはないので、のんびりとした気分で時間を過ごしました。
Yumiさんも汗をかいたあとのビールは咽喉の通りがよいようで、いつもより早く飲みきってしまい、顔がかなり赤くなってきたので、2杯目はウーロン茶にしてもらいました。
その内に2杯飲むようになるのでしょうが、旅の途中で変事があっても困るので、東海道の旅の時は1杯にしてもらおうと考えています。
最後に、お茶漬けを食べましたが、これも「私、これ初めて食べる」です。
前月の5月の第22回の旅の時に食べているのですが、記憶に残っていないようです。
飲んで、食べて、満腹になったお腹を揺すりながら外に出ると、雨はかなり小降りになっていました。
《シャワー》
ホテルに戻り、シャワーを浴びて今日の汗を流し、

夜の点眼、血圧測定などを行い、目覚ましを5時30分にセットし、21時前に寝てしまいました。

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【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


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