旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2013年09月

【番外編=蓬莱橋の見学】
第29回亀山・亀山宿碑⇒井田川・国分自動車前までの旅の後、静岡県島田市にある「蓬莱橋」を見学しました。
《移動》
08時15分、井田川駅発
二人掛けの席に座り、名古屋駅まで一時間少々の旅が始まりました。
井田川駅からのんびりとした旅だったのですが、桑名で後から来る快速電車を待ち合わせるというので、快速に乗り換えると今までの状態が一変し乗車率200%近くの混雑電車となり、のんびり旅が窮屈旅になりました。
09時21分、名古屋駅着
名古屋で新幹線に乗り換えて掛川に行き、掛川から在来線で島田に移動しました。
09時28分、名古屋駅発(こだま640号)
10時31分、掛川駅着
10時36分、掛川駅発(在来線)
10時54分、島田駅着

島田駅でレンタサイクルを借りたのですが、2月9日の第14回の旅の時にレンタサイクルのことを確認していたので、真っ直ぐ受付に行きレンタサイクルを借りました。
※レンタル料=1日、500円+保証金500円(返した時に戻る)+身分証明の確認あり
蓬莱橋への地図や史跡案内の資料は持参しましたが、受付でもらった地図を確認しながら蓬莱橋に向かいました。
11時07分、レンタサイクル駐輪場発
001 島田市レンタサイクル
レンタサイクルで頂いた地図を見ながらJRの高架下を潜り、クランク形に左、右、左と道を曲りながら蓬莱橋を目指して走りました。
11時18分、蓬莱橋着
《蓬莱橋》

蓬萊橋(ほうらいばし)は、静岡県島田市の大井川に架けられた全長897.422m、幅2.7mの木造橋(歩行者と自転車の専用橋)である。

橋の歴史は、明治2年(1869年)7月、最後の徳川慶喜を護衛してきた幕臣が大井川右岸の牧の原を開拓しお茶を作り始めました。苦労のかいがあってお茶栽培が順調になるとともに人の往来が多くなり明治12年(1879年)1月13日に完成した。

昭和40年(1965年)4月に橋脚がコンクリート製となり、平成9年にギネスの認定を受けました。
11時20分、蓬莱橋入口
002 蓬莱橋

天気は良いのですが、風が強く、Yumiの帽子と私のバンダナは吹き飛ばされそうだったので、二人とも外しました。
橋を渡っている人は少なかったので、のんびりと景色を眺めながら歩きたかったのですが、風が強くて景色をゆっくり眺めるどころではありませんした。
  ※蓬莱橋②(川は大井川)

007
11時34分、蓬莱橋反対側
009 橋の反対側
  蓬莱橋(反対側から島田市内方向の眺め)
012 島田市側を望む
11時50分、蓬莱橋帰着
015 橋の出発地からの眺め
往復1.8㎞の橋上の旅は、強い風の中、30分という短い旅で終わりました。
風は強かったのですが、天気に恵まれ、東海道を歩き始めた時から渡ってみたいと思っていたことが実現して良い思い出ができました。
また、帰る前に事務所に立ち寄り、渡橋料(@100円)を二人分支払いました。

016 渡橋記念
レンタサイクルの鍵をYumiさんに開けてもらおうと思ってYumiさんに鍵を渡したのですが、レンタサイクルの鍵に対応できず私が開けました。
Yumiさんは家の自転車の鍵を開けるのがやっとの状態なので、形状が違う鍵に対応できなくて当たり前かもしれません。
蓬莱橋の前の信号を渡り、来た時と違う道を通って駅に向かいましたが、昼食の時間になっていたので食べるところを探しながら走りました。
JRの下を潜り抜けた先の交差点角に、スナック風のお店があったので寄りました。
11時58分~12時20分、昼食(ごはん屋 ととも)
068 昼食(ととも)
店の名前の「ととも」は、魚(と)、魚(と)、茂(も)で、店名の意味は聞かなかったので分かりません。
店に入り、席に着き、メニューを見て、「刺身定食」(@700円)を注文しました。

069 昼食(ととも)
刺身の他にフルーツが付いており、二人とも残さずきれいに食べ、美味しいお昼でした。
私達が入ってから続々とお客が入り、食べ終わる頃には2階席も含めて満席になっていました。
食事後、島田駅脇の駐輪場に向かい、レンタサイクルを返却しました。
12時25分、島田駅前レンタサイクル着
保証金(2台分、1,000円)と預けたザックを受け取り、お礼を云って後にし、JR島田駅に行きました。
改札の前に来ると、Yumiさんが「あそこ」とトイレを指差すので、急ぎ改札を通りYumiさんのザックを預かり、トイレに行かせ、電車が着く数分前にホームに立ち、電車を待ちました。
12時35分、島田駅発
※島田駅からの帰り道は、第29回の旅紀行をご覧下さい

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp


【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


天候】晴れ
【宿場】(46)亀山宿
【行程】歩行距離=4.85㎞ 総距離=408.81㎞
亀山・亀山宿碑前⇒(2.55㎞)⇒100和田一里塚⇒(2.30㎞)⇒
JR井田川駅・国分自動車角

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第29回旅の宿場)

23 29回宿場
  ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (〇29=今回の旅区間/〇28まで=完歩区間)
全体 第29回
  第29回の旅ルート
 (亀山駅・亀山宿碑前 ⇒ 井田川駅・国分自動車角)
第29回ルート
【旧東海道の旅】
《旅の検討》
第29回(9月23日)の旅は、
〔第一案〕
ホテルから亀山駅まで700m歩き、関西線に1駅乗って井田川駅に行き旅を出発する。そして、宿泊したホテルの裏(東町交差点)を通って到着地まで旅を行い、到着地から亀山駅に450m移動して一時間に一本の関西線で名古屋に移動し、蓬莱橋に行く。
〔第二案〕
前日の第28回(9月22日)の時に宿泊するホテルの裏まで(東町交差点)旅を行い、翌日(23日)の第29回はホテル裏から関宿(関駅まで600m歩く地点)まで旅を行う。
この場合、第28回の旅の距離が約15㎞⇒約19㎞と4㎞の増加、第29回の旅の距離が約5㎞⇒約8㎞になり、蓬莱橋は次回(10月)の関宿に移動する前に行く。
〔第3案〕
第28回(9月22日)は井田川駅で終了(到着地)し、亀山駅に移動して宿泊。
翌日の第29回(9月23日)はホテルから600m移動し、亀山宿・山兵商店角から井田川駅まで旅をする。
井田川駅から一時間に一本の関西線で名古屋に移動し、蓬莱橋に行く。
この3案を考え、島田市の蓬莱橋をいつ見学するかも含めて検討し、旅の行程が逆コース(東下り)になるが、体への負担が少なく、帰りに蓬莱橋の観光もできると考え〔第3案〕で旅をすることにしました

***今日は亀山駅から日本橋に向けて旅します
     逆方向に旅をするので、ご注意下さい    ***
※ここから「東町交差点」までは、前日の22日に旅をした分を掲載します。
 移動時間はそれに合わせていますので、気を付けて下さい。

《移動》

13時17分、亀山駅発
143 JR亀山駅
亀山駅を出発し、県道565号(東海道)の亀山駅前交差点を下に眺めながら約210m歩くとT字路となり、T字路を右折して約80m歩くと南崎交差点があり、交差点を左折して上り坂を約180m進むと四辻となり、四辻の左角に「亀山宿碑」が建っていました。
当初は四辻を右に入った処にある「山兵商店」を出発地に考えていたのですが、四辻の亀山宿碑の方が良いと判断し、急遽変更しました。
【=旅=】
13時25分、亀山宿碑前(出発地)

001 出発式(亀山宿碑)
Yumiさんに出発式の表示板を持ってもらい、写真を撮って儀式を終えました。
出発地を急遽変更したので、次回(第30回)の出発式の時に撮り直したいと考えています。
宿碑に交差している県道302号を横切り、道路の反対側に行って左を見るとお城の櫓が見えたので、写真に納めました。
12時29分、お城見庭園(後方は亀山城の多聞櫓

004 お城見庭園
お城見庭園は、亀山宿西町問屋場跡付近から亀山城多門櫓を望むビユーポイントに、地域の皆さんとのワークショップによって完成したミニ庭園です。
街道を歩き始めると直ぐの右側に山兵商店があり、基点としては宿碑の方が良かったと再確認しました。
山兵商店から右曲りしている街道を、約90m歩いた左側に菓子処出雲屋がありました。
13時32分、菓子・出雲屋(左側)
008 江戸まち並み看板
この場所は江戸期は、「よろずや」、「おおさかや」があった場所だったようで、標札板が掲げられていました。
出雲屋は休業日ではなかったと思うのですが、店は閉まっていたように思い立ち寄りませんでした。
また、道路の反対側には、「ふくしまや」の標札板が掲げられていました。

007ふくしま屋跡
出雲屋から約30m先の左に入る道の角に、会所跡がありました。
13時33分、西町会所跡(左側)
010 会所跡
会所跡から約90m歩いた右側に遍照寺がありました。
13時37分、遍照寺(右側)
012 遍照寺・山門
遍照寺は鐘楼門から急な下り坂になっており、参拝に行こうと思って門の処まで来ると、Yumiさんが「行かなくていい」と云うので、鐘楼門のところで引き返しました。
山門から約60m歩くと街道が直角に折れ曲がって(クランク形=白線の矢印)枡形のようになっていました。
枡形とは、旧城下町に見られる街の作りで、敵が一気に攻め込めないようにカギの形状になっていることで、別名「曲尺手(かねんて)」ともいいます。

014 曲り手
枡形道を通り、出口から約100m歩くと江ケ室交番前交差点となり、交差点を渡る手前左側に高札場跡がありました。
13時41分、高札場跡

016 高札場跡
街道は高札場跡の交差点を右折するのですが、そのまま真っ直ぐ渡った先に亀山城大手門跡があるので、街道を外れて見に行きました。
13時43分、亀山城大手門跡
018 亀山城大手門跡
大手門は、東海道に直面する亀山城の正門として位置づけられる門で、大手門櫓と大手脇櫓から構成される枡形門で、一の門が省略されたものとなっている。明治初頭に石垣にいたるまで破却され、往時の形状を見ることは出来ませんが、発掘調査により枡形石垣の痕跡が確認されている。
写真を撮ろうとしていると、団体の人が歩いて来られ撮るまで待って下さいました。
また、交差点を交番側に渡り、交番の前をさらに反対側に渡りました((街道は、高札場跡を右折して交差点を渡ります)。
交差点を渡った処の歩道(かつき内科医院の前)に「旧東海道・亀山城」をモチーフにした絵タイルが埋め込まれていました。
021 亀山宿・東海道標示板
かつき内科医院から約40m歩いた処(道路の反対側が亀山市市民協働センター)に、本陣跡の標板が掲げられていました。
13時46分、樋口本陣跡
022 樋口本陣跡
歩いてきたのは、後ろ方向(白の矢印)からなので、標板は歩いてきた方向からは見えないので、通り過ぎる毎に振り返って確認しました。
そして、本陣跡の先にある岡歯科医院を過ぎた先に脇本陣跡がありました。
13時47分、椿屋脇本陣跡

024 つばきや脇本陣跡
脇本陣跡から標板を確認しながら歩きましたが、史跡の標板はなく約230m先に東町交差点(宿泊するホテルに一番近い場所)があり、今日の旅を終了しました。
13時55分、東町交差点(22日の旅の終わり)
026 東町交差点
この後、東町交差点を右折して、少し下った左側にヤッホー橋(鉄製の通路)があったので、ヤッホー橋を渡りらせん階段を歩いてショッピングセンターに行きました。
※ここまでは22日の旅で、ここから宿泊するホテルに移動しました。

※ここからは23日の旅記録で、旅する方向は東下り(日本橋方向)です。
気を付けてご覧下さい。
 
【旧東海道の旅】
《移動》
05時15分、起床
洗顔、着替えなどの身支度を整え、ザックの荷造りを行い、トイレに行ってスッキリしてからザックを持って部屋を後にしました。
昨日は、冷蔵庫にペットボトルを入れたまま忘れてきたので、今日は冷蔵庫の確認を忘れないようにしました。
朝食は6時30分からですが、少し早く食事会場(1階フロント横)に着くと、ホテルの人から「食べられます」と案内があったので、先頭を切って食事を始めました。
食事は、和食、洋食のバイキングで、約15分位で食事を食べ、チェックアウトしてホテルを出ました。
06時47分、ホテル発
ホテルを出て県道28号(東海道)を亀山駅方向(右)に約200m歩き、商工会議所前交差点を右折し、約450m先の東町交差点まで坂を上りました。
【=旅=】
06時57分、東町交差点発
029 東町交差点
出発して直ぐ、道路を横切り道路の反対側(進行方向左側)に渡り、旅がスタートしました。
東町交差点から約110m先を左折するのですが、左側角の第三銀行の道路反対側の右角に江戸口門跡がありました。
06時59分、江戸口門跡
031 江戸口門跡
江戸口門は亀山城下の東の入口で、水掘と土居で囲まれた中に門と番所をかまえ、通行人を監視していました。
早朝で少し肌寒いのですが、とても爽やかです。
第三銀行のところで左折しましたが、銀行の角からの道は「巡見街道」でしたが、案内板は立っていませんでした。
街道は狭い生活道路で、日中は交通量が多いと聞いていましたが、祭日の朝ということで車はほとんど走っておらず、歩きやすい状態でした。
江戸口門跡から約90m歩いた牛乳店(左側)の前(右側)に、連子格子の旧家が建っていました。
  ※連子格子の旧家(右側)

033 連子格子の家
旧家の先で道路は右にカーブし、約300m歩いた左側にお城風の建物がありました。
07時06分、衣城しもむら(左側)

034 衣城しもむら
早朝で開店していなかったので、内部がどのようになっているのか分かりませんが、周りに高い建物が無く、宣伝効果抜群の建物でした。
城風の建物を過ぎて約100m程歩いたところで、急にYumiさんが「イタタ」といって左足を引きづり始めました。
今回の21日からの旅では、昨日まで足の不調を云わなかったのですが、痛がっているので少し歩いた栃木屋の店舗前でYumiさんの足を見ると、左足にできたマメの皮が剥けていました。
ザックから救急セットを取り出し、ガーゼ綿をバンドエイドで止め、痛みの処置を施しました。
※足の治療 7時10分~7時15分
足の治療を終え、街道を約80m進むと、東海道と巡見道との分岐点がありました。
07時17分、東海道と巡見道の分岐

036 巡見道分岐
黒矢印=東海道、白矢印=巡見道
巡見道は、東海道から分かれて鈴鹿山脈の東麓を縦貫して中山道へ抜ける道で、
江戸時代に幕府の巡見使が通った道で、将軍の代替わりごとに諸国の政情、政道の得失・民権の風俗を査察するために派遣される幕府の役人で、県内へは約10回派遣された記録があります。
分岐から約280m歩いたカットハウスキャロル先の脇道左側角に露心庵跡がありました。
07時22分、露心庵跡(左側)
038 露心庵跡
露心庵跡は、天正11(1583)年に神戸正武が亀山城を急襲しましたが、城を守る関万鉄斉はわずか十三騎でこれを撃破しました。関氏一門の露心はこの近くに仏庵を建立し、この合戦の戦死者を供養したと云われています。
露心庵跡の約10m隣りに、鳥居・道標が建っていました。
07時24分、鳥居・道標
040 道標
道標から約120m歩いた右側に「亀山ローソク」の工場あり、記念に社章をカメラに納めました。
  ※亀山ローソク・社章

042 亀山ローソク工場
  ↓(拡大)
043 亀山ローソクの社章
亀山ローソクから栄町交差点を越えた約350m先の左側に、亀山市の汚水フタがあり、記録に残しました。
07時30分、亀山市汚水フタ
044 亀山市・汚水フタ
ここからナガイ種苗店、林歯科医院、左に入る道を越えた約300m先の左側に、日本橋から100番目の一里塚跡があり復元塚がありました。
07時34分、100和田一里塚跡碑(左側)
047 100和田一里塚跡
和田一里塚は、日本橋から100里目の一里塚で、昭和59年までは江戸時代の塚の一部が残っていましたが、道路拡幅工事でなくなってしまいました。現在、塚の上に大木が植わっていますが、平成5年に復元されたものです。
一里塚の先から道路右側は、約350mに渡って桜並木になっていました。
今は、青々とした葉に覆われていましたが、桜が開花したら綺麗だろうなと思いながら歩きました。
桜並木が終わった先の小さい川から約140m歩いた右側の幸福寺に入る入口角に、道標が建っていました。
07時43分、井尻道道標(右側)

051 井尻道道標
道標から約140m歩いた分岐(右側の別府時計店の前)を左に進みます。
分岐から約100m歩くと和田交差点があり、交差点に出る手前に案内道標が建っていました。
07時46分、案内道標

053 分岐案内
案内道標を右に見ながら約50m歩いた右側に、和田道標(標示板あり)が建っていました。
07時48分、和田道標(右側)
054 和田道標
和田道標は、元禄3年(1690)東海道から神戸、白子港、若松港方面への分岐点に建てられた道標で、三重県内旧東海道沿いにある道標の中で最も古いもののようです。
和田道標から信号のある交差点を過ぎ、国道1号の亀山バイパスの下を潜り、約500m歩くと椋川に架かる川合椋川橋がありました。
07時56分、川合椋川橋
056 川合椋川橋
この橋は、生田理左衛門が私財を出して架けた橋で、昔は理左衛門橋と云われていたそうです。
橋を渡り、約400m歩くとT字路に突き当り、右に進みます。
08時01分、T字路分岐(右方向)
058 分岐
右折すると約70mで、先ほど下を潜った国道1号亀山バイパスが走っていて道路を横断できないため、歩道橋で渡ります。
この歩道橋は、亀山市をモチーフにしたモザイクタイルの絵が、路面に埋め込まれていました。
8時06分、歩道橋モザイクタイル
  ※①歩道橋亀山側(地場産のローソク)

061 歩道橋床タイル(亀山寄り)
  ※②歩道橋の真ん中(方角を示す亀)
062 歩道橋床タイル(中央)
  ※③歩道橋井田川側
063 歩道橋床タイル(井田川寄り)
歩道橋を降りた先の右側にレンタルのマツオカ建機があり、約350m歩くと井田川駅前のロータリー見え、ロータリー手前の左角に今日の到着地である国分自動車がありました。
08時11分、井田川駅・国分自動車角着(到着地)
065 国分自動車角(到着地)
到着地で、Yumiさんに到着地の看板を持って写真を撮って到着式を行いました。
また、前日の到着式も合わせて行いました。
記念の写真を納め、昨日撮影出来なかった井田川駅の写真を撮ろうとしたら、関西線の電車が入線してきたので、写真を撮らないで乗車しましたが、間一髪でした。

※この後、井田川駅から関西線で名古屋駅に行き、新幹線と在来線を乗り継いで島田駅に行き、「蓬莱橋」を見学しました。
井田川駅=島田駅・・・「蓬莱橋」・・・「昼食」・・・島田駅は、「番外編=蓬莱橋」をご覧下さい。

【帰路】

12時35分、島田駅発
在来線で静岡駅に行き、静岡駅で新幹線(ひかり)に乗り換え、東京に帰ります。
13時01分、静岡駅着
Yumiさんの切符は、改札を通る前に渡し、改札を通った後に預かり、紛失することを防いでいます。
また、自動改札に切符を通す時も毎回、通し方を説明し、自動改札から出てくる切符も受け取るように話します。
静岡駅の在来線と新幹線の静岡駅でも同じようにし、新幹線のホームに行くと、30分くらいの待ち時間があるので、二人のザックを乗車位置に置き、近くのベンチに座って休みました。
新幹線が入線する少し前にザックの場所に行き、入ってきた新幹線「ひかり」は見た目で混雑していたので、Yumiさんと並んで座れるか心配しましたが、運良く二人掛けの席が空いていたので、座ることができました。
13時37分、新幹線静岡駅発
新幹線に乗って少しすると睡魔に襲われ、富士山を見ることなく寝てしまい、気が付いたら品川に着く車内放送でした。
急ぎザックを網棚から降ろしたり、座席の背もたれを直したりして、下りる準備を整え、品川駅で下車しました。
14時33分、新幹線品川駅着
改札を通ってからYumiさんに「トイレに行こう」と声を掛け、トイレに連れて行き、山の手線のホームに向かいました。
14時46分、山の手線品川駅発
山の手線はいつも座る席がなくつり革で立っている場合が多いのですが、今日は空いていて座ることができ、電車を乗り継いで、自宅に帰りました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【天候】快晴
【宿場】(43)四日市宿⇒(44)石薬師宿⇒(45)庄野宿⇒(46)亀山宿
【行程】歩行距離=14.75㎞ 総距離=403.96㎞

近鉄追分・駅入口⇒(3.55㎞)⇒097采女一里塚⇒(4.00㎞)⇒
098石薬師一里塚⇒(4.60㎞)⇒中富田一里塚⇒(2.60㎞)⇒
JR井田川・国分自動車角
【ルート図】
  ↓宿場(黒印が第28回旅の宿場)

22 28回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (〇28=今回の旅区間/〇27まで=完歩区間)
全体 第28回
  第28回の旅ルート
  (近鉄・追分駅入口 ⇒ 井田川・国分自動車角)

第28回ルート
【旧東海道の旅
《移動》
05時20分、起床

身支度を整えた後、血圧測定と目薬点眼を行い、最後にザックの荷造りし、室内に忘れ物がないか点検し、朝食を食べてそのまま旅に出発することにして、部屋を出ました。
06時55分、朝食
朝食は7時からと聞いていたのですが、7時30分の電車に乗るため7時前に、食事するホテル併設の店舗に行きました。
朝食はセットメニューになっていて、券を渡すとパンが乗せられたトレーを渡され、コーヒーやジュースは自分で用意し、直ぐに食べて空いたお腹を満たしました。
07時12分、ホテル発
朝食後、チェックアウトし、近鉄四日市駅に行くと、Yumiさんが「あそこ」とトイレに行きたいと云うので、直ぐに連れていき、電車に乗ってから冷蔵庫に、ペットボトルとなが餅を忘れてきたことを思い出しましたが、時すでに遅しでした。
07時30分、近鉄四日市駅発

001 近鉄内部線・四日市駅
近鉄内部線は、単線の3両編成のワンマン電車で、ほとんどの駅は無人駅です。
電車は、1・3両目が一人掛け席、2両目が横並び席なので、私とYumiさんは左右の景色を見ながら乗れるように、1人席に座りましたが、電車というよりバスに乗ったような感じでした

004 近鉄内部線・車内
私は下車する追分駅が無人駅なので、購入した切符はどうするのだろうと思い、駅にいた学生に聞くと「切符を入れる箱があるので、そこに入れます」と教えてもらいました。
何も監視チェックされることがないので、乗車する人の良心に委ねられている人間性が問われる電車です。
07時46分、追分着
私とYumiさんは、追分駅で降り、改札口に置いてあった箱に切符を投入し、駅舎横の自販機でペットボトルを2本購入しました。
また、私は羽織ってきた長袖を脱いでもらうため、
E=Yumiさん、脱ぐよ
Y=えー、脱ぐの
E=暑くなるから
Y=脱いだら寒くて風邪ひく
E=大丈夫。寒くなったら着るから
と云って、長袖パーカー(私は長袖シャツ)を脱ぎました。
【=旅=】
07時48分、近鉄・追分駅入口(出発式)
005 出発式(追分駅前)
いつものとおりYumiさんに出発の看板を持ってもらい、出発の儀式を行いました。
空は真っ青、陽射しは眩しく、長袖がないと肌寒く感じる朝でした。
旅は、もう少し遅い時間の出発でもよいのですが、暑くならないうちに歩き始めて、暑くなる早い時間に終わろうと考え、8時前から旅を始めることにし、街道を歩き始めました。
朝の爽やかな空気を吸いながらの旅は、とても気持ち良く爽快です。
Yumiさんも寒いということなく、気持ち良く歩いています。
追分の次の駅である小古曽駅入口の十字路左角に、カーブミラーと並んで東海道の道標が建っていました。
08時00分、道標(左側)
008 東海道道標
街道は、道標の矢印にしたがって右方向に進みます。
右折して少し歩いたところで、私は帽子の代わりにバンダナを巻くことにしました。
この先辺りから沿道の人達が廃品回収をしており、私とYumiさんはその光景を眺めながら歩きました。
街道は道標から約110先で左折し、そこから約400m歩くと小古曽三丁目交差点で、県道407号(東海道)を斜めに渡りそのまま真っ直ぐ進み、交差点先の右の四日市小古曽郵便局、左の内部寿司を確認しながら約350m歩くと内部川の土手に突き当ります。
08時11分、道標(内部川土手)
010 道標
土手の手前を左折し、約60m先に内部橋北詰交差点があり、橋を渡ってから横断できるか分からないので、この交差点で渡ることにしました。
交差点には横断歩道がなかったので、信号が青の時に車と一緒に、進行左側に渡りました。
  ↓内部橋からの眺め

011 内部橋
内部橋を渡りきる少し手前に、日本橋から401.7㎞」の距離標が建っていました。
08時17分、401.7㎞距離標

7㎞ポスト
ここから約80m先を左折し杖衝坂に向かったのですが、左折する少し先の左に最中(もなか)で有名な「菊屋本店」があるので立ち寄ろうとしていたのですが、視野の狭さから地図に書き込んでおきながら立ち寄らないで左折してしまいました。
左折して350m先歩くとT字路となり、ここを右折して約120m歩くと杖衝坂に向かう道標が手前の電柱に掲げられていました。
08時24分、杖衝坂道案内

015 杖衝坂道標
道案内を廻り込む感じで左折し、60m歩くと小さな川があり、これを越したところから上り坂が始まりました。
  ↓杖衝坂上り口
016 杖衝坂上り口
杖衝坂は、東海道の中でも急坂で知られ神代の昔、日本武尊が東征の帰りにここにさしかかった際に、大変疲れていたので杖をついて歩いたと言われたことから、その名が付けられたそうです。
坂を上り始めて約30m先の突き当りに、金刀比羅の祠が建っていました。
08時28分、金刀比羅(左側)
017 金比羅宮
上りが急になった約30m先の左側に、うつべ町かど博物館がありましたが、時間が早くまだ開館していませんでした。
08時30分、うつべ町かど博物館(左側)

019 うつべ町かど博物館(杖衝坂)
ここには杖衝坂に関する資料があり、開いていたら見学したかった場所でしたので、残念でした。
道なりに少し歩いた左側の石垣の上に石碑が建っていました。
08時32分、杖衝坂碑・芭蕉句碑(左側)
021 杖衝坂碑
  芭蕉句碑
023 芭蕉句碑
芭蕉句碑は、貞享4(1687)年、江戸から関西に向かった芭蕉が馬に乗って杖衝坂にさしかかったが、坂が急なため馬の鞍とも落馬したことを詠ん季語のない有名な句です。
宝暦6(1756)年、村田鵤州が坂の中ほどにこの句碑を建てたが、明治の初期坂ノ下の屋敷の庭園に移されたが、その後所有者の厚志により再びもとの地に移設されたそうです。
石碑から約100m先の坂道を上りきった左側に、血塚社の祠が建っていました。
08時35分、血塚社(左側)
026 血塚社鳥居
血塚社は、東国征伐の帰途、伊吹山の神と戦い傷ついた日本武尊(やまとたけるのみこと)が、険しい杖衝坂登り、足が破れて出た血を洗浄したときに血で染まった石を集めて葬ったところといわれています。
血塚社の祠から約600m歩くと国道1号に合流しましたが、信号も横断歩道もないところで国道反対側(右側)の史跡に立ち寄るため、車の来ないのを確認して道路を横切りました。
国道を進行右側に渡ったところから約130m歩いた右側にガソリンスタンドがあり、スタンド先の仕切り壁の脇に、日本橋から97番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
08時47分、097采女一里塚跡碑(右側)
029 097采女一里塚跡
一里塚跡碑の写真を撮り、また国道1号を車が来ないのを確認して反対側(左側)に横切り、約100m歩いた左側に神社があり、今日はまだ神社に参拝していないので立ち寄りました。
08時51分、豊富稲荷神社(左側)
031 豊富稲荷神社
鳥居を潜り、本殿の前に立ち、お賽銭をご奉納し、Yumiさんと一緒に
・Yumiさんの意味認知症と緑内障の完治
・旧東海道の旅のご加護
を声を出してご祈願しました。
参拝の後、国道に戻り約70m歩くと喫茶采女があり、その手前に日本橋から403㎞距離標が建っていました。
08時54分、403㎞距離標(左側)
034 403㎞ポスト
街道は、強い日差しの炎天下になり、約300m歩いたところに日陰になった坐れるブロックがあり、ザックを降ろして水分補給とエネルギー補給でスポーツ羊羹を食べました。
08時58分~09時05分、休憩
ひと休みと栄養補給し、また旅に戻りました。
約170m先の采女南信号を過ぎ、さらに約530m歩いた国分町信号の少し先に四日市市から鈴鹿市に入る市境標識が建っていました。
09時14分、鈴鹿市境標識(四日市市から鈴鹿市)
038
国分町交差点のところから街道は、国道1号と分岐し左側に進み、四日市市から鈴鹿市に入りました。
旅は、私が前、Yumiさんが後ろを歩き、私がYumiさんの状況を確認するようにして進んでいます。
039 歩く姿
国分町交差点から約850m歩くと、再び国道1号に合流します。
合流する木田町大谷交差点には横断歩道がなく、道路の反対側に行くのは地下通路を通のですが、この地下通路の入口が分からなく、ここも車のない時に道路を横切ってしまいました。
道路を横切って後ろを眺めると、地下通路の入口の位置が分かりました。
木田町大谷交差点の1号を少し戻ると地下通路に入る入口があり、反対側に出口がありました。
横切った後、国道1号を約400m歩くと、右に進む道があり、国道1号との間に石薬師宿の道標が建っていました。
09時31分、石薬師宿道標
040 石薬師宿・信綱かるた道入口
石薬師宿は、元和2年(1616)に幕命によって設置されました。この時から、宿の名は「石薬師」となり、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。天保14年に人口991人、家数241軒、旅籠15軒、本陣3軒の規模だったそうで、当初は鈴鹿川の近くにありましたが水害を避けて当地に移ったといわれています。この地区は、田園地帯でもあり休憩地の役割が強く、宿泊客が少なかったので宿の経営は苦しかったようです。
また、最初の短歌かるたの手前に、北町地蔵堂の祠がありました。
  ※北町地蔵堂
042 地蔵堂
街道は、ここから「信綱かるた道」となり、街道の両サイドに36種の短歌がパネル表示されていました。
信綱かるた道は、地元石薬師町出身の佐佐木信綱の短歌から50首を選んで信綱かるたを作成。健康ブームで石薬師宿を歩いて訪れる人にも知ってもらおうと、一昨年秋、うち28首を紹介した額28枚を掲示し、「かるた道」と名づけられました。平成19年アルミ製に一新され、新しい額は鈴鹿市石薬師町から同市上野町の1・8キロ間に郷土に関する歌、代表歌など三十六点に増やし設置。大きさは横40センチ、縦60センチのアルミ製で、郷土を詠んだものなど信綱の短歌と、関連の絵が描かれています。
地蔵堂から約450m歩くと右側に、大木神社参道入口の鳥居が建っていました。
09時39分、大木神社参道入口(右側)
045 大木神社参道入口
神社は参道の奥にあるため、写真だけ撮って参拝は失礼させて頂き先に進みました。
参道入口から約80m先の左側に、民家(山口宅)の壁に石薬師宿の絵図が掲げられていました。
09時41分、石薬師宿絵図(左側)
046 石薬師軒並み図
絵図から約60m先の右側に石薬師駐在所があり、その数軒先の右側に小澤本陣跡がありました。
09時43分、小澤本陣跡:資料館(右側)

047 小澤本陣跡
小澤本陣は、小澤家が勤め、本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」ともいわれていたという。
小澤本陣は、歴史の宝庫で、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭、大岡裁きの大岡越前守、江戸幕府の基礎を築いた徳川家光など、江戸時代の石薬師宿にあった小澤本陣に保存されている宿帳には、時代劇でお馴染みの名前が登場します。千姫(家康の孫)が姫路城に行く際に宿泊したこともあるそうです。
時間が早かったのか、資料館は閉まっていて(閉まっていることは未確認。外からの感じで思い込んでいました)、江戸時代の展示物を見ることができませんでした。
残念です。
本陣を過ぎ、天野記念館の先の右側に道路元標が建っていました。
09時47分、道路元標(大正期)=右側
050 大正期建立の道標
道標の横に、佐々木信綱の生家があり、その隣りに記念館が建っていました。
09時49分、佐々木信綱生家(右側)
052 佐々木信綱生家
佐々木信綱は、明治5年6月3日、佐々木弘綱(文政11~明治24年)の長男として、現鈴鹿市石薬師町に生まれ、6歳(以下、数え年)までを過ごしました。信綱は5歳から父弘綱に「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、6歳の時に初めて短歌を作り、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるなど、歌人として活躍しました。
一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13~14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力し、昭和12年4月28日に第1回文化勲章を受章しました。
石薬師小学校南信号を渡り、約350m歩くと陸橋の瑠璃光橋となり、陸橋を渡った右側に石薬師寺がありました。
09時56分、瑠璃光橋
054 瑠璃光橋
  瑠璃光橋からの眺め
055 橋からの眺望
10時00分、石薬師寺(右側)
057 石薬師寺・山門
お寺が嫌いなYumiさんが、中に入りたくないと云うので、山門の入口で写真だけ撮って中には入りませんでした。
街道を約130m下った処を街道から外れて左折し、約80m先を右折(最初の道)、そして約80m先の左側に大きな桜の樹が立っていました。
10時03分、蒲さくら(左側)
059 蒲さくら
蒲桜は、ヤマサクラの一変種として植物学上からも珍しく、花は一重五弁、直径5㎝、白色から淡紅色で、開花すると綺麗である。
この蒲サクラは、1,182~1.185年頃、蒲冠者源範頼が平家追討のために西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに刺したのが芽を出してこの桜になったと云われている。現在は、県指定文化財・天然記念物として保存管理されている。
桜を右に見て直進し、最初の右方向に行く道を利康実業を右に見て進み、街道に出ました。
街道を約130m歩くと分岐になり、右の上る道を進みます。
  ※分岐(右側)
062 分岐
約70m上ると蒲川橋があり、橋を渡った先の左側に、日本橋から98番目の一里塚跡があり石柱が建っていました。
10時10分、098石薬師一里塚跡碑(左側)
063 098石薬師一里塚跡
一里塚碑の前(道路の反対側)に、石薬師宿碑・道標とかるた道最後(36枚目)のかるたパルネが建っていました。
  ↓石薬師宿碑・道標(右側)
068 石薬師宿道標
  ↓かるた道・かるたパネル
067 信綱かるた道・終了
一里塚碑の処を左折し、石薬師宿碑・信綱かるた道を右に見ながら歩き、
①関西線のガード下を潜ったところを右折

070 分岐
②野焼きしていた右土手上=関西線、左=田圃
071 野焼きの煙の中を歩く
③正面の国道1号に沿って左に進み、高架下ガードを潜る
072 分岐
ガードを潜り抜けた日陰で、水分補給の休憩を取り、T字路を左折し、約20mで芥川に突き当り、道なりに右折して約80m歩き、T字路を左折し(右は関西線の踏切)、そのまま道なりに進むと国道1号に合流します。
合流したところは信号、横断歩道がなく、道路の反対側にガソリンスタンド(昭和シェル石油)があり、ここも車の往来を確認して横切りました。
横切った理由は、国道の左側を部分的に歩く街道ルートになっていたためで、歩いた結果から行くと、国道1号を横切らないで、そのまま合流したら進行右側を歩いていけば良いと思います。
左側に渡って国道1号から別れて部分的に左側の道を歩くのですが、少し歩いて見るとほとんど人が歩いていないような状態だったので、国道を歩いても大差がないと国道に戻りました。
国道から別れた街道は、国道に合流する処に来ると防護柵が建っていて、旧街道からは入れないようになっていました。
073 道の先は柵です
そのため、街道を歩いてきた人は、防護柵の手前で、国道に入っているようです。
国道1号を約250m歩くと左側に日本橋から408㎞距離標が、右側に県道637号の基点標識が建っていて、その直ぐ先が加佐登町交差点でした。
10時36分、408㎞距離標(左側)
075 408㎞ポスト
  県道637号の基点
074 県道637号基点
加佐登町交差点で右側に渡り、国道1号を左に庄野町に向かって歩きました。
日陰のない照り返しの強い国道の歩道を約750m歩き、庄野町北交差点を右折しました。
10時46分、庄野町北交差点

077 庄野町北交差点
庄野町北交差点から約160m歩くと、庄野町西交差点となり左折しました。
10時50分、庄野町・庄野町西交差点
078 庄野町西交差点(ブログ分割地)
  ※庄野宿碑(東木戸口)
080 庄野宿碑
  庄野町の街並み
082 庄野宿の町並み
街道は、庄野宿西交差点を左折すると、道幅が急に狭くなり、庄野宿の街並みを見ると人通りがなく閑散としていました。
庄野町西交差点から約350m歩くと、左側に旧小林家が市に移管した庄野宿資料館がありました。
10時56分~11時04分、庄野宿資料館
086 庄野宿資料館
庄野宿資料館は、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に開館しました。庄野宿は東海道五十三次の45番目の宿として発展し、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料をはじめ、日本画壇で活躍された故小林彦三郎氏の絵画や文書の他、地域に残る民具、農具、日用品などが展示されていました。
資料館には係員(女性)がおり、「ゆっくり見て行って下さい」と案内下さったのですが、靴を脱いで上がりたくなかったのと、Yumiさんがまったく興味を示さなかったので、ひと通り見て上り框でザックを降ろして水分補給していると、係員の方が来られて旧小林家のことなど、庄野宿についての話しを聞かせて下さいました。
涼しい室内で休ませて頂き、係員の方にお礼を云って外に出て、資料館をバックに写真を撮っていると、先ほどの係員の方が外に出てきて、写真を撮って下さいました。
《食べる処》
E=この先に食事できるところはありますか?
係員=この先、コンビニが一軒あるだけで、食べるところはありません
E=え、ないのですか?
係員=石薬師宿辺りからコンビニもなかったのでは
E=そうですね、国道1号線沿いに数軒ありましたけど、時間が早かったので
係員=この先のコンビニで何か買われると良いですよ
E=分かりました
と、優しく、親切に対応下さいました。
この後、約650m先のコンビニで昼食を買いました(詳細は後述)。
係員の方にお礼を云って資料館を後にしました。
約100m歩くと右側の民家の雨戸カバーの上部に、問屋場跡のパネルが掲げられていました。
11時06分、問屋場跡(右側)
087 問屋場跡
問屋場は、御伝馬所ともいわれ、公務で東海道を往復する旅人の人馬や駕籠を用意し荷物の運び継ぎをする仕事場であった。三番町の弓削氏の家が古い問屋場だったと伝えられているが、幕末は四番町の倉田氏に代わっていましたが、明治5年正月に廃止されました。
問屋場跡から約50m先の右側に庄野集会所があり、その手前に本陣跡碑が建っていました。
11時08分、庄野宿本陣跡(右側)
089 庄野宿本陣跡
庄野宿本陣は、沢田家が勤め、明治5年に廃止されるまで続いた。間口16間の宅地を有し、建坪198坪余、室数28、畳数198.5枚、板間3室の大邸宅で、東海道に面して門があり、大名等が出入りした。
本陣跡の隣りに庄野集会所があり、その隣りの郵便ポストの横に道路元標の石柱が建っていました。
11時09分、道路元標(右側)
091 津市道路元標
道路元標は、津市元標までの距離を表し、大正時代に道路元標が各市町村に設置された時のものです。
郵便
ポスト横の道路を渡った民家の角に、高札場跡のパネルが建っていました。
11時10分、高札場跡(右側)

093 高札場跡
この民家にはもう一つの史跡があり、玄関の横上部に脇本陣跡のパネルが掲げられていました。
11時11分、脇本陣跡碑(右側)
095 庄野宿脇本陣跡
脇本陣は、本陣の補助として、本陣だけでは収容できない時に使用され、時には普通の旅籠も兼ねていました。
ここから数軒先に「理容いとう」があり、店舗の横壁に史跡のパネルが掲げられていました。
11時13分、御会所跡
097 御会所跡
御会所は、助郷の割り当てを受けている各村の代表者(庄屋等)が集会する場所で、減免陳情のための会合が持たれたようで、庄野町資料館に陳情書の控えが残っているそうです。
「理容いとう」を後にして約200m歩くと川俣神社(その1)があり、境内に「スダジイ」の樹があるというので、参拝を兼ねて立ち寄りました。
川俣神社は、この先同じ名前で2カ所あるため、町名で区分することにしました。
11時16分、庄野・川俣神社
099 川俣神社入口
  ※スダジイの樹(県指定天然記念物)
100 スタジイの樹
スダジイは、庄野・川俣神社の境内に御神木として大切にされているブナ科の常緑高木です。樹齢は約300年とも言われ、樹高約約15m、幹周り約5m以上の巨木で、立ち上がって間もなく、地上約2mほどの高さで多数の大枝に分かれ、大きく盛り上がった壮大な樹冠が印象的です。相当の老木で、樹皮に縦の裂け目があり、一部空洞も見られます。昭和44(1969)年3月28日に県の天然記念物に指定されました。
川俣神社に参拝したのですが、お賽銭がなく、ご奉納なしでお参りさせて頂きました。
この神社には私達以外に参拝者がいなかったので、ご奉納がないことをお詫び申し上げ、Yumiさんの病気完治と旧東海道の旅のご加護を声を出してご祈願しました。
参拝を終え、街道を歩きだして約80m進むと、左側に「ほたる」の案内が掲げられていました。

103 ホタルの案内
「ほたる」の観賞期間が終わっているので見られませんが、どうだったのだろうと、心が温まる案内でした。
案内板から約80m進んだ十字路の右側に、庄野宿碑が建っていました。
資料ではここが西の出入り口だった木戸口があったところのようです。
11時24分、庄野宿碑(西木戸口跡)=右側
104 庄野宿(西木戸跡?)
ここから約100m歩いた左の国道1号沿いにコンビニ(サークルK)があり、立ち寄りました。
11時26分~11時35分、コンビニ(休憩)
このコンビニは、庄野宿資料館の係員(女性)の方に教えて頂いた所で、冷房のきいた店内に入ったら思わず「あー、気持ちいい」とひと言。
そしてまず、Yumiさんをトイレに連れて行き、二人ともスッキリしてから昼食(おにぎり・いなり寿司)とペットボトルを買いました。
昼食は、この先に神社があるので、そこの境内で食べることにし、コンビニを後にして街道に戻りました。
コンビニの直ぐ先が汲川原町交差点で、
①国道1号の高架下の信号を渡り(県道637号を横切る)
②渡ったら右に進む
③道なりに左カーブの道を歩いて、国道1号の高架下を潜る(アンダーパス)
④T字路を右折
して汲川原町交差点の反対側に出ました。
※この順路は、Nさんから頂いた地図に書き込まれていました。
この順路を知らなかったら、道路横切りなどの危険を冒していたことと、Nさんに感謝しています。
④のT字路から約150m歩いた左側の民家の角(※要注意・カーブを曲がったところ)、道標が建っていました。
11時43分、平野道道標(左側)
106 平野道の道標
道標から約230m先の小さな川があり、その手前の両側に石碑が建っていました。
11時47分、山の神碑・神戸領界石(進行右側)
  ↓右=山の神碑・左=神戸領界石

108 右山の神碑・左神戸領碑
11時48分、神戸領界石・女人堤防碑(進行左側)
  ↓右=女人堤防碑・左=神戸領界石

110 左神戸領碑・後ろ女人堤防碑
汲川原女人堤防碑は、川が氾濫するにも関わらず神戸藩の禁により堤防を築くことができず汲川原の村人は辛い日々を過ごしていた。菊女を先頭とした女性たちは、男に代わり打ち首の刑を覚悟に暗夜を選んで6年がかりで堤防を築いた功績を讃えて碑が建てられました。

石碑から約550m歩くと左側に神社があり、その境内入口脇に日本橋から99番目の一里塚碑跡があり、石柱が建っていました。
11時58分、099中富田一里塚跡碑(左側)

112 099中富田一里塚碑
中富田一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれ、江戸日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
11時59分、中富田・川俣神社

115 川俣神社・本殿
12時00分~12時16分、昼食(中富田・川俣神社境内)
117 昼食(神社境内)
昼食は、時間的にも、場所的(日陰で、縁石がある)にも良いので、中富田・川俣神社の境内で食べることにしました。
ザックを降ろし、コンビニで買ってきた「おにぎり」と「いなり寿司」をYumiさんと食べましたが、Yumiさんは暑さと疲れからかあまり食欲がないようでしたので、少し残しました。
水分補給したり、ザックの荷造りしていると蚊が飛んできたりしたので、短い時間でしたが、旅立つことにしました。
ここからは史跡も少なく、歩くことが多くなるので(史跡があると立ったままですが、少し休める)、早歩きにならないように気を付けて歩き、約750m先の左側に西富田・川俣神社がありました。
12時27分、西富田・川俣神社(左側)
120 川俣神社参道
街道から左に入り、右の石垣の脇に座標石柱が建っていました。
座標石柱が何故ここに建っているのか不明ですが、石柱には北緯34度52分14秒、東経136度30分25秒と記されていました。
12時29分、座標石柱(左側)

121 座標碑
鳥居に通じる道に戻り、鳥居を潜って参道を進むと、境内右側に神戸城主だった織田信孝が愛飲した井戸跡がありました。
12時30分、無上冷水井跡(境内右側)

123 無上冷水井跡
西富田・川俣神社は、参拝しないで、境内から一礼して街道に戻りました。
神社をでると直ぐT字路となり、左折して土手道を約110m上ると和泉橋のたもとに出ました。
12時35分、和泉橋(入り口)
126 和泉橋
河川敷は綺麗に整地され、グランドではソフトボールチームの子供達が練習をしていました。
橋の上からその光景を眺めながら歩き、橋の真ん中付近で写真を撮ろうと思い、Yumiさんに声を掛けたのですが、血流の状態が「」の状態で、私が云うことがなかなか理解できませんでした。
E=ちよっと、止まって
Y=?????
E=(指差して)そこに、止まるの
Y=どこに
E=止まって!!、云ってることが分からない
で、やっと止まりました。
その状態の時に撮ったのが(↓)の写真です。
128 橋からの眺望
(Yumiさんが持っている袋は、昼食の時に出たゴミです)
橋を渡り、T字路を右折し、約160m先の二又を左に下り、道なりに約280m歩いた所の右に入る道の右角に道標が建っていました。
12時44分、道標(江戸期と大正期)=右側
 ↓江戸時代の自然石道標(下部はアスファルトに埋まる)
130 道標(江戸の自然石)
 ↓大正期の道標(右側)
133 大正期の道標
道標から約60m歩いた左側に、お地蔵さんの祠が建っていました。
12時45分、地蔵堂
134 地蔵堂
ここの時点では、電車を少し待ってもいいと思って歩いていたので、一時間に一本の関西線井田川駅の時刻は確認しませんでした。
しかし、ここまで来ると色気が出てきて、時刻を確認すると13時03分と分かりました。
少し急げば間に合うと思い、「Yumiさん、電車が来るから少し急ぐよ」と声を掛け、歩くスピードをアップしました。
駅までは、
・地蔵堂から二又の分岐まで約250m
・二又を左に下り県道を斜めに横切り、関西線踏切まで約300m
・関西線踏切を渡り、渡って直ぐ道なりに左折、その先を右折すると、先ほど横切った県道に突き当るまで約160m
・県道突き当りから到着地の井田川駅・国分自動車角まで約190m
の約900mです。
Yumiさんが離れないように確認しながら歩き、井田川駅前に到着しました。
正式な到着地は道路を渡った先の国分自動車角ですが、今日は交差点を渡らない場所で終了し、明日(23日)の到着の時に到着の写真を撮ることにしました。
12時58分、井田川駅・国分自動車角(到着地)
138 到着式(国分自動車角)
(※写真=翌日23日の到着時に、同じ場所で撮影)
13時00分、井田川駅着
井田川駅に行くと駅舎はあるのですが、無人駅で駅舎の中に乗車口があるものと思って探しましたがありません。
駅舎の外に出るとホームに入る柵なしのところがあり、そこからホームに入り連絡歩道橋を渡り、乗車する反対側のホームに行きました。
折角、ホームに隣接して駅舎が建っているのに、駅舎からホームに通じる入口を作らなかったのか、不思議です。
  ※連絡橋の階段
139 井田川駅横断橋
  連絡橋からの駅周辺の眺め
140 井田川駅
  連絡橋の階段の下り(乗車するホーム側)
141 井田川駅横断橋
連絡橋を渡り乗車するホームで待っていましたが、電車が来ません。
定刻を2~3分過ぎた頃に放送が流れ、7分遅れで到着すると連絡がありました。
私とYumiさんは切符を購入しないで乗車するので、どうしたら良いか分からず同じホームで待っていた男性に聞くと、「そのまま乗って下車駅で精算すればいいですよ。多分、電車の中に整理券の機械があると思います。」と教えて下さいました。
電車(関西線)は、放送どおり7分遅れて到着し、乗車すると直ぐに乗り方を教えて下さった男性が「この整理券、取っていった方がいいですよ」と、親切に教えて下さいました。
  ※乗車した関西線

142 関西線
到着した電車は、かなり混雑しており、1駅先の亀山駅まではつり革に捕まって移動しました。
13時15分、亀山駅着
亀山駅で先ほどの親切な男性にお礼を云おうと探したのですが、混雑していて見付けられませんでした。
亀山駅の改札で整理券を出して精算し、外に出ました。
13時17分、亀山駅発

143 JR亀山駅
亀山駅に想定していたより早く到着したので、明日の出発地から今日宿泊するホテルに近い東町交差点まで歩くことにし、出発地の亀山宿碑に向けて出発しました。

   *******************
亀山(亀山宿碑)⇒(東町交差点)⇒井田川(国分自動車角)
旅紀行は、第29回の旅で掲載します。
※この区間は、逆方向の江戸に向けて旅します。ご注意下さい。

   *******************


【帰路】
東町交差点までの旅を終え、ホテルに隣接するショッピングセンターを通って宿泊予約したホテルに向かい、チェックインしようとしたら時間が早く、ザックを預けて隣接のショッピングセンターで過ごすことになりました。
約一時間後、ホテルに入りチェックインしました。
15時10分、ホテル着(ホテルエコノ亀山)
145 ホテルエコノ亀山
指定された部屋に入り、ザックから荷物を取り出し、デジカメと携帯電話の電池充電を最初もに行い、次にこれから使用する目薬(2種)、服用薬、血圧計、朝使用する髭剃りや化粧道具、着替えなどを準備しました。
17時30分、夕食(和食めん処 サガミ)
何処に食べに行くか決めてない状態で外に出たのですが、明日の朝出発地点に行く下見も兼ねて歩き始めると大きな看板が目に入り、そこで食べることにしました。
147 和食・さがみ
店内はほどほどの混雑で、生ビールを注文し、食べ物はどれにしようか考えていると、生ビールを運んできたウェートレスが「これがお勧めです」と云われ「さがみ膳」を注文しました。
私は生ビールを追加しながら食し、Yumiさんも生ビールを飲みながら食べていました。
151 夕食

お腹も一杯になり、精算を済ませてホタルに戻り、服用薬を飲んでからシャワーを浴び、シャワーを出てから目薬(寝る前に点眼)、血圧を測定して、一日が終わりました。
Yumiさんはベッドに入ると数分で寝息が聞こえてきましたが、私はNHKのスポーツニュースを見ながら夢の世界に入りました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。H26.09.15に日本橋を出発し、旧甲州道中を相方のYumiさんと二人で歩いています。
お時間がありましたら、以下のURLでご覧下さい。
   
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/



【天候】 快晴
【宿場】 (43)四日市宿

【行程】 歩行距離=9.66㎞ 総距離=389.21㎞
近鉄富田・寺村薬局前⇒(3.63㎞)⇒095三ツ谷一里塚⇒(4.53㎞)⇒096日永一里塚⇒(1.50㎞)⇒近鉄追分・駅入口
【ルート図】
  ↓
宿場(黒囲みが第27回旅の宿場)
21 27回宿場
  ↓旧東海道の旅・進捗状況
  (〇27=今回の旅区間/〇26まで=完歩区間)
全体 第27回
  ↓第27回の旅ルート 
  (寺村薬局前 ⇒ 追分駅入口)
第27回ルート
【旧東海道の旅】
《日程の変更》
当初は8月31日(土)~9月2日(月)の二泊三日で旅をする予定でいましたが、旧東海道を歩いた知人から「体力の消耗を考えてもう少し涼しくなってからにしたらどうか」との助言を素直に受け入れ、三週間延期して本日を迎えました。
日本橋を出発して約380㎞を歩き、七里の渡しも過ぎ、だんだんと三条大橋が近づいてきたことを強く感じるようになり、一日一日の旅を大切にして運に恵まれた旅ができたらと願っています。
先週の三連休は台風18号の影響で山行が中止になったりしましたが、今週の三連休は何とか天候にも恵まれそうです。

《Nさんの東海道東下り》
京都三条大橋を昨年(H24)の1月に出発したNさんの東下りは、この三連休に島田市の六合駅から新蒲原駅まで旅するらしいので、新幹線の中からメールすると、三島付近にいると返信がありました。
京都三条大橋に向けて歩く私達と、お江戸日本橋に向けて歩くNさんが、逆方向ですが同じ日に旅することになり、何とも心強い日になりました

《移動》
04時30分、起床
朝食は新幹線の中で食べることにし、急がないで身支度を整え、朝食の入ったレジ袋を持ち、少し肌寒くなってきた朝の息吹を浴びながら、最寄り駅に向かいました。
最寄り駅から電車に乗り、東京駅に7時15分頃に着き、新幹線ホームに行くと直ぐに新幹線が入線し、4号車に乗りました。
座席を確保して時間を見ると10分程度時間があるので、直ぐにYumiさんを連れてトイレに行きました。
トイレから戻り、持参した朝食(菓子パン・ジュース)を食べ始めると、定刻どおりに出発しました。
  ↓新幹線で朝食
003 新幹線車内(東京駅)
07時33分、東京駅発

今日は良く晴れているので富士山が見れればとYumiさんと外を見ていると、三島付近から夏姿の富士山が眺められました。
 ↓富士山(通路側から横になって撮影したので傾いています)
008 富士山(新富士付近)
新幹線から富士山が眺められると心が安らぐので、幸先の良いスタートになりました。
新富士を過ぎ右手に見える景色を眺めながら、旅で歩いた時を思い出したり、Nさんがこの辺りを旅するんだなと思いながら、ぼんやりとして過ごしていました。
Yumiさんに「この辺り、歩いたんだよ」と云っても、「ふーん」と全然興味を示さず会話になりません。
忘れてしまっているので致し方ないのですが、思い出話もできないとは寂しいもので、一人で思い出しながら車窓を眺めて時を過ごし、下車駅の名古屋に到着しました。
09時19分、名古屋駅着
ここで近鉄線に乗り換えです。
改札を通り、乗車する前にトイレに行きその後、私が長袖シャツ、Yumiさんが長袖パーカーを脱いだのですがYumiiさん得意の「寒い、寒い」が始まりましたが、周りの人達の姿を見せると納得し、その後は何も云いませんでした。
入線していた電車を見ると既に満席に近い状態でしたが、通路をはさんで座席を確保することができホッとしました。
少し乗り換えをのんびりし過ぎて、ホームに来るのが遅れたようです。
09時41分、近鉄名古屋駅発
快適に電車は走り、木曽川、長良川を渡り、定刻通りに下車駅の近鉄富田に着きました。
  ↓近鉄車内
009 近鉄車内(名古屋駅)
10時09分、近鉄富田駅着
010 近鉄富田駅・改札
改札を出て、今日の出発地である寺村薬局に向かいましたが、快晴の天気で太陽がサンサンと輝いているので、暑くなりそうな感じです。
【=旅=】
10時16分、寺村薬局前(出発式)
013 出発式(寺村薬局角)
出発式の写真を撮ろうとすると、近鉄の踏切で待たされた車が次々とくるため、なかなか撮れません。
取り合えず車が無くなるのを待って、Yumiさんに出発式の看板を掲げてもらい、ハイ・パチリの出発式を行いました。
さあ、3カ月振りの旅のスタートです。
スタートして80m、書き込みに使う赤ボールペン(持ってくるのを忘れた)を買うため「かご庄商店」に入り、3回大きな声で店の方を呼びましたが誰も出てこないので、値札の80円とメモ書きを置いて店をでました。
016 文具店(赤ボールペン買った店)
どうしても赤ボールペンが必要だったので、お店の方、お許し下さい。
店を出て直ぐの富田小学校入口脇に明治天皇の碑が建っていました。
10時23分、明治天皇駐箪跡
017 明治天皇駐箪跡
跡碑から約150m歩くと十四橋があり、海抜が2.9mと表示があり、そんな低いところを歩いているんだと認識させられました。
019 十四橋
橋を渡り、約20m先の十字路右側に常夜燈が建っていました。
10時28分、富田常夜燈(右側)
020 天保の常夜燈
町の中や街道にある常夜燈はそれぞれ意味をもって設置されていて、桑名川口より伊勢までは神宮への道先案内の役目を果たしていたそうです。小さな明かりが夜の街道を照らすさまは、今の旅人には感じることはできません。表には常夜燈と刻まれ、その下に氏子中とある。裏には天保十已亥年(1839年)と刻まれている。
常夜燈を過ぎた先の右側の家は、昔ながらの連子格子の家があり、旧街道の名残りを感じます

023 連子格子の家
連子格子の家から約80m歩いた右側に薬師寺がありました
10時30分、薬師寺(右側)
024 薬師寺入口
薬師寺は、51代平城天皇の大同年間(806~910年)の頃、このあたりで疫病が流行して人々は大変苦しんでいたのを旅の途中で知った弘法大師が、ここで足をとめて薬師如来像を彫り開眼すると、たちまち人々の難病は平癒したので、人々は弘法大師に感謝しお堂を建てて薬師如来像を祀ったそうです。その如来像は現存し、秘仏として扉をあけることはないという。また、この薬師寺はこの地域、唯一の尼寺だそうです。

Yumiさんは寺院のお参りが嫌いなので、山門入口でパチリだけして失礼しました。
薬師寺から約280m歩いたT字路の突き当りに力石がありました。

10時34分、力石
027 力石
力石は、
明治の中頃、この村の二ヶ寺のお堂を再建するにあたり、各所から土台石の奉納があり、その折、土台石の中からこの石を選び、休憩時に体力を試すため持ち上げを競いあったそうで、大きい石は120㎏、小さい石は19㎏だそうです。
13時02分、丹羽文雄生誕の地碑
093 丹羽文雄生誕地碑
羽文雄は、明治37(1904)年に四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺(そうけんじ)に生まれ、宗教家として歩むはずでしたが、文学への志を断ちがたく、生母をモデルとした「鮎」の好評を機に昭和7(1932)年、家出のかたちで上京しました。昭和10年代には、時代を代表する中堅作家としての地位を築き、半世紀にわたって常に第一線の作家として活躍し、特に戦後は数多くの話題作を次々と発表し活躍しました。
炎天下の陽射しは強く、水分補給と体を休めようと日陰のある場所を探し、休憩しました。
小休止の後、街道に戻り歩き始めると所どころに残っている連子格子の旧家を眺めながら約450m歩くと近鉄名古屋線、さらに約350m先のT字路、力石のT字路を左折し、その先を右折するクランク形の曲手(かねんて)を通り、最初の右に入る道の角に道標が建っていました。

031 道標(右いかるが・左四日市)
道標から約100m歩いたまえかわ橋を渡り、さらに約50m歩いた右側に神社の参道入口がありました。
10時40分、茂福神社参道入口
033 茂福神社参道入り口
茂福(もちぶく)神社は、永禄10(1567)年には創建されていたそうで、最初は天王社と呼ばれていましたが、明治28(1895)年4月に茂福神社と改称されたそうです。境内には鳥居・石灯篭・狛犬・太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。古くは寛文十二年(1672)を始めとして明治・大正・昭和と時を追って奉納されていて、この地の人々の信仰の厚さを偲ばせています。
今朝は神社に参拝していないので立ち寄りたかったのですが、入口から社殿まで離れているので、そのまま失礼しました。
Yumiさんに空腹具合を聞くと、空いていないというので、そのまま旅を続けることにしました。
参道入口から約200m歩いた冨田山城有料道路の下を潜った辺りで、陽差しが強いため、日陰になる道の左側を歩くようにしました。
そして有料道路から約400m歩いた右側の四日市自動車検査所を過ぎる角、米洗川(よないがわ)手前の右側に常夜燈が建っていました。
10時49分、八田常夜燈(私の命名)
035 富田常夜燈
常夜燈には、「南大神宮」と刻まれていましたが、名前は分かりませんので、私は地名から「八田常夜燈」と命名しました。
また、この常夜燈は、現在でも点灯されているようです。
常夜燈から約100m先の右側に牛乳店(?)がありましたが、何処が店舗なのか不明のお店と、看板が気に入り記録に残しました。
037 牛乳販売店
牛乳屋さんから約450m歩いた先の山田歯科医院(左側)の隣りに松が一本立っていました。
10時58分、かわらずの松
038 かわらずの松
かわらずの松が立っている羽津地区は、昭和40年代になっても多くの松が立ち並んでいたそうです。

地元の名士の方が、羽津の松並木は全国的にも貴重だから文化財として保護してほしいと奔走したこともあったそうですが、運悪く松くい虫が流行し残り僅かだったほかの松も次々に枯死してしまい、ついにこの1本だけが残ったそうです。そして、松の名前は、川原須(かわらず)という地名と「変わらず」を掛けて付けられたようです。
松の先の堀切橋を渡り、約200m先の右に「魚為」という魚屋があり賑わっていました。
041 繁盛の魚屋
魚為から約100m歩いた右に志氐神社の鳥居が建っており、その脇に夫婦岩(縄が付いている)がありました。
  ↓志氐神社参道入口
042 志氐神社参道入口
11時04分、夫婦岩
044 夫婦岩
夫婦岩は、なでると良縁が成就するというのですが、眺めるだけで失礼しました。

夫婦岩は、最初50m程通り過ぎてしまい地元の方に聞いて戻ってきましたが、1つだけしか確認できませんでした(もう一つは鳥居の裏にあるそうです)。
夫婦岩から約300m歩くと街道は左折し、約100m先で国道1号線に合流したところを右折して約300m先の、金場町交差点手前の右三叉路角に道標が建っていました。
11時20分、道標
046 道標
道標には右桑名、左四日市と彫られていました。
金場町交差点で進行左側に渡り、前方を見ると大きなラーメン店の看板が建っていたので、Yumiさんに「昼食を食べて行こう」と話し、ラーメン店に立ち寄りました。
11時30分~11時55分、昼食(伝丸四日市三ツ谷店)
048 ラーメン・伝丸
カンカン照りの外から、冷房の効いた店内に入ると思わず「ふー」とため息が出ました。
Yumiさんは餃子がすきなので、まず決定。
次に私はご飯が食べたくて「炒飯」、Yumiさんは自分で「これ」と醤油ラーメンを選びました。
Yumiさんは、注文した醤油ラーメンが、美味しい、美味しいと云って全部食べ切りました。
  ↓店内
050 伝丸店内
  ↓注文した食事
052 炒飯・餃子・醤油ラーメン
外に出る前にトイレを済ませておこうと、トイレに連れていったのですが、トイレを施錠した後、開錠できるか心配です。
駅のトイレの鍵はどこも同じように出来ているのですが、民間の場合は施錠方法が異なるため、対応できるか戻ってくるまでいつもヒヤヒヤしています。
Yumiさんは何事もなかったように、すっきりした顔になって戻ってきたので、後半の旅に出発しました。
精算を済ませ、外に出ると隣りに多度神社があり、参拝に立ち寄りました。
11時56分、多度神社
053 多度神社
神社に参拝されている方がいなかったので、お賽銭をご奉納(投げ入れない)し、
・Yumiさんの認知症と緑内障の完治
・東海道夫婦二人旅のご加護
を声を出して言上し、ご祈願しました。
街道は神社の右側の道を約100m進むと、海蔵川の土手の手前に突き当り、一里塚跡碑が建っていました。
12時00分、095三ツ谷一里塚跡
056 095三ツ谷一里塚跡碑
三ツ谷一里塚は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された時、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3年<1690年>)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されていたので、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることになりました。

一里塚の前を右折し約30mで国道1号線となり、国道1号の海蔵橋(海蔵川)を渡り、渡った処を左折します。
  ↓海蔵橋(入り側)
060 海蔵橋
左折して直ぐの二又を右に100m進むと、右側に「加藤輪業」がありました。
加藤輪業は、四日市の町かど博物館で、「スバル450」が展示してあると知り、昔懐かしい車を見たいと思い立ち寄りました。
12時06分、加藤輪業(町かど博物館)
063 展示のスバル450
スバル450は、昭和35年(1960年)10月に発売され、“スバル・マイア”の名で輸出もされたスバルの小型車版(423cc、23ps)で、この年に発売された三菱500とともに、後に来る700cc級大衆車(トヨタパブリカなど)の先駆となりました。
店主にお断りして記念写真を撮らせて頂きました。
加藤輪業を後にして約600m歩くと三滝川に架かる三滝橋に着きました。
12時17分、三滝橋(入り側)
065 三滝橋
三滝橋は、四日市市街の中央部を東流する三滝川にかかる橋で、江戸期は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架けて替えられ、さらに大正13年6月に鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改修されました。近世まで何世紀にもわたり市の文化や生活の中心地でだったところです。

橋の袂に壁画がありましたが、暑さと疲れで往復する気にならず、橋上から写真を撮ることにしました。
067 河川敷の絵
 ↓橋の中央から遠く工業地帯の煙突が見えます
069 三滝橋からの眺望
三滝橋を渡り、約120m先の右に笹井本店がありました。
12時22分、笹井屋本店(なが餅)
071 なが餅(笹井屋)
  ↓なが餅
073 なが餅
今日の旅の出発の時から「なが餅」を買って、おやつに食べようと考えていたので、歩いてくる途中にあった三ツ谷支店には寄らないで、本店で買いました。
天文19年(1550年)戦国時代の頃、街道をにぎわす評判の銘菓がありました。「永餅」と呼ばれるその名物餅は、初代彦兵衛氏がここ勢州日永の里に因んで創りました。三十六万石の太守、藤堂高虎も足軽の頃、永餅の美味しさに感動し、武運のながき餅を食うは幸先よしと大いに喜びました。名称も日永の餅、長餅、笹餅、牛の舌などと称せられ、「なが餅」の今日に至っています。さらりとした小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼き上げました。

この先、食べる処がなく、ホテルで食べると、評判どおり、美味しい餅菓子でした。
この先に中部西小学校があり、ここに陣屋跡があったというのですが、丁度運動会か中に催し物があるのか、多数の父兄がいたので中に入らず、笹井屋の先、小学校の手前を左折し、街道を外れて建福寺に「泗水の井戸」があるというので、見に行きました。
12時30分、泗水の井戸(建福寺)
074 泗水の井戸碑
泗水の井戸は、解説のパネルが建っていましたが、井戸らしきものはありましたが、どれなのか分かりませんでした。
建福寺からまた街道に戻り、左に街道を進むと直ぐ右側に旧帯屋脇本陣跡(現近藤建材店)が、
12時32分、旧帯屋脇本陣跡(現近藤建材店)
076 帯屋脇本陣跡(現近藤建材店)
そして、その数軒先の右側に旧問屋場跡(現福生医院)が、
12時34分、旧問屋場跡(現福生医院)
077 問屋場跡(現福生医院)
さらに約130m先の右側に旧黒川本陣跡(現黒川農薬商会)がありました。
12時38分、旧黒川本陣跡(現黒川農薬商会)
079 黒川本陣跡(現黒川農薬商会)
この先の小さい十字路を過ぎた左の民家の格子に、東海道の道案内板が掲げられていました。
街道ウォーカにとって大変ありがたい、小さい心遣いに感謝するとともに、旧東海道の史跡保存を無視している四日市市にもこのような方がおられるのかと、心温かく感じながら通り過ぎました。
081 東海道の道しるべ
旧街道はこの先の国道164号線を横切り、最初の十字路の仏具店の処に道標が建っていました。

12時39分、道標
084 右伊勢道・左東海道
写真正面の石碑が道標で、右が伊勢道、左(矢印方向)が東海道を示しており、石碑の裏側には方向を示す手指しが彫られていました。
道標から2つ目の十字路(約140m)を街道は右折するのですが、逆の左折して約15m先の左側に「弥な屋」があり立ち寄りました。
12時45分、弥な屋(町かど博物館)
086
弥な家は、神輿、浮世絵、版画、短冊など、お祭りに関係したものが展示されており、お店の方に断って店内で写真を撮らせてもらいました。
弥な屋を出て街道に戻り、諏訪町北交差点を渡り、諏訪神社に立ち寄りました。
12時49分、諏訪神社
088 諏訪神社
諏訪神社は諏訪に縁のあるYumiさんなので、寄れる場所にある時は必ず参拝します。
今日もYumiさんと二人でお賽銭をご奉納し、
・Yumiさんの認知症と緑内障の完治
・東海道夫婦二人旅のご加護
の所願成就をご祈願しました。
諏訪神社を出て街道に戻ると、アーケードの商店街になっていましたが、歩く人が少なく、シャッターの閉まっている店もあるなど、残念ながら活気は感じませんでした。
090 四日市のアーケード街
  ↓伸び縮みする首
092 動く首人形
「Yumiさんここに立って」と云うと、「何この首。気持ち悪いから嫌だ」と云われたのですが、何とか宥めすかして写真に納まってもらいました。
Yumiさんは写真を撮り終わると、人形には目もくれずスタスタと先に進みました。
街道はこの先で広い交差点を渡るのですが、交差点の直ぐ右側に今日宿泊するホテルが見えたので、「Yumiさん、あそこが今日泊まるホテルだよ」と話したのですが、意味は通じなかったようです。
分離帯のある道路を横切り、約140m歩くと右側の崇顕寺入口に丹羽文雄の石碑が建っていました。
13時00分、丹羽文雄生誕地碑

093 丹羽文雄生誕地碑
丹羽文雄は、明治37(1904)年に四日市市浜田の真宗高田派佛法山崇顕寺(そうけんじ)に生まれ、宗教家として歩むはずでが、文学への志を断ちがたく、生母をモデルとした「鮎」の好評を機に昭和7(1932)年、家出のかたちで上京しました。昭和10年代に時代を代表する中堅作家としての地位を築き、その後、半世紀にわたって常に第一線の作家として活躍しました。特に、戦後は数多くの話題作を次々と発表しました。
一方、芥川賞をはじめとする各種文学賞の選考委員、日本文藝家協会理事長兼会長などを歴任し、文壇の発展のみならず、文学者のための社会保険制度の創設など社会的な面でも尽力したり、私費を投じて同人誌「文学者」を発行し、後進の育成にも努めていました。
陽射しが強く、水分を取りながら歩いていますが、少し休もうと日陰になる場所を探し、約100m歩いた右側の空き地に入りザックを外して休みました。
ひと休みしてまた街道に戻り、約350m先の近鉄名古屋線を越し、さらに350m歩くと左に曲がった道となるので、そのまま道なりに進み、そこから約100m先右側の今野商店隣りの連子格子の家の前に小さなお地蔵様の祠が建っていました。
13時17分、お地蔵様
095 お地蔵様の祠
祠の扉を開けてお地蔵様を見たいと思い、扉を置けようとしましたが、開きませんでした。
お地蔵様から約170m歩いた右側に、鈴木薬局がありましたが、今日は定休日なのか閉まっていました。
13時20分、鈴木薬局
097 鈴木製薬所
鈴木薬局は、膏薬の製薬を200年以上も営む旧家で、代々勘三郎の名を受け継いでいて、現在の当主鈴木友造勘三郎氏は、11代目です。格子の建物は東海道沿いの古い建物の中でも一際目立ってがっちりつくられていて、1852年(嘉永5年)に建てられたものだそうです。
また、膏薬を作った作業場や薬研など貴重な道具が保存されているというので、開いていたら見学したいと思っていたので、残念でした。

鈴木薬局を後に、途中の落合橋を渡って約350m歩くと鹿化橋に出ました。
13時25分、鹿化(かばけ)橋
101 鹿化橋
旧街道は狭い道なので歩道もなく、私は「何でこんな細い道を走るの」と思うくらい車が走ってきます。
この鹿化橋付近も同じで、往来が多く、事故に巻き込まれないように注意して歩きます。
鹿化橋を渡り、汗を拭きながら所どころにたっている連子格子の家を眺めながら、約450m歩いた右側のジュニア模型の看板の先に道標が建っていました。
13時34分、道標
105 水沢道標
資料には道標の手前にあるジュニア模型の前に回転式の鉄道信号機があると記されていましたが、ありませんでした。
道標から天白川に架かる天白橋を越し、さらに約230m歩いた信号のある交差点を渡り、左方向に約80m歩いた右側にシャディいなとう四日市本店があり、店内に町かど博物館があるというので、街道から外れて立ち寄りました。
13時50分~13時56分、シャディいなとう(日永うちわ)
113 店舗正面
「日永うちわ」は展示されていたのですが、「うちわ」を使う夏が終わり、展示も1階から2階の狭い場所に移っていました。
109 日永うちわ(稲藤)街角博物館
東海道をモチーフにしたうちわがあるかなと思いましたが、残念ながらありませんでした。
私の家には、安藤広重の絵を使ったうちわが何枚かあり、私は家の中で使いましたが、Yumiさんは渡した時だけ使い、ほとんど使うことはありませんでした。
2階に展示してある「うちわ」を見せて頂き、店の方にお礼を云って失礼しようかと思いましたら、「冷たいものでもどうぞ」と冷茶を出して下さいました。
112 おもてなし
折角のご厚意なので、Yumiさんとザックを外し、椅子に座って頂きました。
炎天下を歩いてきた街道ウォーカーには、なんとも有難い癒しになり、生き返りました。
ありがとうございました。
ご恩を忘れることなく、いつかご恩返ししたいと思います。
少し元気になり、また今日のゴールを目指して歩き始め、街道に戻りました。
街道に戻り約100m歩いた右側に伊勢七福神の一つである日永神社がありました。
13時58分、日永神社参道入口
114 日永神社参道
本殿まで少し距離があり、往復するエネルギーはこの先に使いたいと考え、参道入口で失礼しました。
神社の前から日永小学校を過ぎ、約300m歩いた十字路を過ぎた右側の民家と倉庫の間に一里塚の石碑が建っていました。
14時04分、096日永一里塚跡碑
116 096日永一里塚跡
資料に見落としし易いので要注意と記されていたので、注意しながら歩き、見落とすことなく確認することができました。
一里塚から約350m歩いた左側に一本の松が立っていました。
14時10分、名残りの松
118 名残りの一本松

名残りの松は、江戸時代にこのあたりの両側に低い土手が築かれ、その上が松並木になっていて、その名残りの一本の松ということで、今日も四日市の中心部を過ぎてから唯一見ることができた松でした。
一本松から約450m先の泊町北交差点、さらに交差点から約350m先の国道1号線の合流、そして約180m歩いた追分信号の分岐の真ん中に日永の追分がありました。
14時22分、日永の追分
121 日永の追分
日永の追分は、京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあり、桑名の一の鳥居に対する二の鳥居が建てられました。鳥居は、安永3年(1774年)に奉献され、その後たびたび建替えが行われ、現在のものは昭和48年(1973)の伊勢神宮式年遷宮の際に、伊雑宮(いぞうぐう)の鳥居を移建(昭和50年)したもので九代目になる。当初は伊勢街道をまたぐように立っていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横に新しくできたため、鳥居を くぐらずに進めるようになり、先の移建時に周りが公園化されました。
  ↓日永の道標
124 道標
現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。道標は、明暦二年(1656)に建てられたものが、嘉永二年(1849)に新たな道標を建てた際、追分神明社に移り、さらに明治の神社合祀にともない、合祀先である日永神社に移されました。それには「京」「山田」「南無阿弥陀仏 恵心」「明暦二丙申三月吉日」とあり、現存する日永の追分に関わるものとしてはもっとも古いものです。
日永の追分は、四日市宿と石薬師宿の間に立つことから間の宿とよばれ、周辺には多くの旅籠や茶店などが並んでいました。浮世絵にも饅頭屋が描かれています。
今日は、鳥居祭りが行われていて15時まで入れため、常夜燈、清めの手水所は見れませんで、追分の碑と道標だけ見ることができました。
また、同じ時に、数十人という大人数の団体と遭遇し、写真を撮るのが大変でした。
到着地は直ぐ先なのですが、ここで水分補給とザックを降ろして少し休憩を取りました。
追分から約200m歩いた先に近鉄内部線の踏切があり、踏切を渡った左側に追分駅があり、駅の入口で今日の旅を終了し、Yumiさんに到着の看板を持ってもらい到着式を行いました。
14時30分、追分駅入口(到着地)
128 到着式(追分駅入口)
近鉄内部線は1時間に1本のダイヤのため、急いで駅の時刻表を見ると14時38分と、数分の待ちで乗れることが分かり、幸運でした。
【帰路】
《近鉄内部(うつべ)線》

駅は無人駅で、近くにいる人に聞くとパスモなどのICカードは使えないとのことで、切符を買って入場しました。
ホームでYumiさんの写真を撮っていると、電車の音がして入線してきました。
  ↓追分駅ホーム
130 追分駅ホーム
  ↓近鉄内部線
132 近鉄・内部線
14時38分、追分駅発
電車は、両側に人が座っているとつり革は2ありますが、とても通路に二人立つのは厳しい幅で、ワンマン電車などローカル線そのもので、とても親しみを感じる電車でした。
  ↓内部線電車の車内
133 内部線・車内
14時52分、近鉄四日市駅着
134 近鉄内部線・四日市駅改札
駅の改札機に切符を入れたら吸い込まずに出てきたので、切符を抜き取り駅員に渡しましたが、何故切符が出てきたのかわかりません。
本線の近鉄名古屋線の駅が少し離れているので、乗り換えのためなのかな?
今日、宿泊するホテル(新四日市ホテル)は駅から数分のところにあるので、駅の隣りにあったコンビニに寄ってからホテルに行きました。
15時00分、ホテル着
136 新四日市ホテル入口
フロントでチェックインし、指定された部屋に行き、ザックから着替え、目薬、血圧計、洗面などこれから使うものなどを取り出して準備しました。
ひと通り荷物の整理が終わったところで、旅の途中で買った笹井屋の「なが餅」を食べると、さっぱりとしたアンコ味で、包んでいる餅も薄く伸ばしてあり、食べてみると評判どおり美味しく、ペロッと3つ食べてしまいました。
夕食までにはまだ時間があるので、ベッドに横になりテレビを見ながら体を休めました。
【夕食】
17時30分頃、四日市の町に出掛けましたが、初めての街で右も、左もわからないため、フロントの人に店を教えてもらった店に行ってみました。
飲食店が立ち並ぶ中にその店があり入ってみると、店の方から「予約されていますか?」と聞かれたり、何となく好みの雰囲気ではなかったので、直ぐに店を出て他の店を探すことにしました。
140 四日市アーケード繁華街
人通りは少なく、活気も今ひとつというアーケードの中を歩き「磯や」という店に入ると、17時30分を過ぎたばかりと時間が早かったので、私とYumiさんが最初の客だったようでした。
生ビールを注文し、メニューを見て、イカとキムチの海鮮キムチ、豚肉をタマゴで包み焼きした豚平焼き、磯焼きセットなどを追加しました。
139
Yumiさんと交互に写真を撮っていると、店の方が親切に「撮りましょう」と云って撮って下さり、入店して約1時間、お腹も膨らんできたので、精算して外に出ました。
ホテルに帰る前、昼間歩いた旧東海道のアーケードを見てみようと云ってみると、まだ19時頃ですが、シャッターが閉まり、人も歩いておらず、ひっそりとしていました。
143 昼間歩いた東海道
夜の近鉄四日市方面をバックに写真を撮り、ホテルに戻りました。
  ↓バックの光の部分が近鉄四日市駅
144 夜の四日市
19時過ぎに部屋に戻り、ホテルの寝着に着替え、シャワーで汗を流し、少し早く横になりました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


このページのトップヘ