【宿場】(49)土山宿⇒(50)水口宿
【行程】歩行距離=13.10㎞ 総距離=443.02㎞
道の駅・あいの土山⇒(0.80㎞) ⇒ 106土山一里塚⇒(4.05㎞) ⇒ 107大野市場一里塚 ⇒ (4.05㎞)⇒
108今在家一里塚 ⇒ (4.20㎞) ⇒ 水口石橋駅入口
【ルート図】
↓旧東海道の旅・進捗状況
(32=今回の旅区間/31まで=完歩区間)
↓第32回のルート (道の駅・あいの土山 ⇒ 水口石橋駅入口)
【旧東海道の旅】
《トイレ通い》
3時頃、物音に目を覚ますと、扉を開けてトイレに行こうしているようなので、
E=トイレ?
Y=そう
というので、トイレに連れて行きました。
トイレの場所は旅館に到着してから数回連れて行き、分かり易い場所にあるので覚えたかなと思ったのですが、念のため寝る前に「行く時は起すんだよ」と云って寝たのですが、一人で行こうとして行けなかったようです。
トイレに連れて行き、灯りを点けるスイッチを教えましたが、スイッチの場所を帰るまで覚えられませんでした。
トイレに一人で行っても灯りが付けられないため、部屋に戻って私が連れていく繰り返しでしたた。
女将さんにはトイレのことを話しておきましたが、きっと驚いたことと思います。
Yumiさんがトイレに行った回数は、3時~5時=6回、身支度を整えてから出発するまでの1時間で7回と、呆れるばかりです。
結局、13回全てのトイレ通いに付き合わされました。
《身支度》
今日の洗面は、
●Y=歯磨き・E=髭剃り
●Y=洗顔・E=歯磨き
●Y=ブラッシング・E=洗顔
といつもと同じように進み、洗面の後、身支度を整えました。
身支度は、Yumiさんの足ケアーから始め、
①.床に座らせて両足に塗り薬を付ける
②.膝の両側にシップ薬を貼る
③.ピチピチのスポーツタイツを穿く(私も手伝う)
これ以降はYumiさん一人で着てもらうようにしているのですが、毎回同じように着るものを一つ一つ私に確認しながら着るので、私の身支度は本当に進みません。
Yumiさんは身支度の後、血圧測定と目薬点眼(朝・夕の2回)を行いましたが、血圧が今日も加圧した後に再加圧する状態が今日で3日連続のなり、血圧が高くなっています。
今とどうしようもないので、目薬点眼を行い、Yumiさんの準備は終わりました。
ザックの荷造りは寝る前にも行いましたが、朝使う血圧測定器・記録帳・化粧道具・洗面道具・救急用品等を、ひとつ一つビニールに入れて収めました。
《移動》
昨日の雨は止み天気は良いようです。
Yumiさんの身支度を手伝い、ザックの荷造りを行い旅支度を整えました。
6時30分過ぎ、朝食のおにぎり(旅の途中で食べようと女将さんにお願いしました)を受け取ると、女将さんから「泊まって頂いた方の写真を撮らせて頂いていますので、よろしく」と云われ、玄関前に建っている石碑の脇で記念写真を撮りました。
06時38分、あや乃旅館発
今日は昨日の雨が上がり、青空が見えるウォーク日和です。
女将さんにお世話になったお礼を云い、来月の旅の時も宿泊させて頂くことを考えていることを伝え、ご主人の車で昨日の到着地である「道の駅・あいの土山」まで送って頂きました。
朝の通勤時間の前なのか道路の渋滞もなく、これから旅で歩いてくる道(土山から水口)を眺めながら乗っていると、出発地の「道の駅・あいの土山」に着き、送って下さったご主人にお礼を云って別れ、出発地に立ちました。
【=旅=】
06時57分、道の駅・あいの土山(出発地)
道の駅の施設前で、恒例の儀式である出発式(日付・場所を記したパネルを持って写真を撮る)を行いましたが、予定していた大黒屋公園前の出発式看板を用意していたので、持参した予備用紙に手書きした看板を掲て出発式を行い、旅に出発しました。
街道は道の駅に沿って右折するのですが、右折する角(後ろは生里野公園)に土山宿案内板が建っていました。
06時58分、土山宿案内板
昨日は雨の中だったので、旅の記録はデジカメの時間に頼りましたが、今日は持参している地図にメモを含めて書き込むことが出来るため、晴れている日の有難さを感じてます。
案内板から約400m先の十字路の左角に、道標と地蔵堂が建っていました。
07時05分、道標・地蔵堂
Yumiさんの白い手提げ袋は、あや乃旅館で作って頂いた朝食のおにぎりが入っている袋で、ぶら下げて歩いています。
地蔵堂の道路反対側(進行右側)に、土山名産「お六櫛」の三日月屋の屋号が掲げられた家がありました。
07時06分、お六櫛・三日月屋跡
お六櫛は木曽で作られた木櫛で、この辺りに十数戸、軒を連ねて店を出して売っていたそうです。
※土山宿の街並み
三日月屋から約300m先の右側に、扇屋伝承文化館がありましたが、時間が早く開館(9時30分~)前でした。
07時10分、扇屋伝承文化館(右側)
扇屋伝承文化館は、江戸時代に扇や櫛を販売していた商屋「扇屋」を地元の北東区が購入し、地域文化の伝承と東海道を散策する人々の憩いの場となることを目的に、地域有志の住民がボランティアで改修し、扇屋に残されているお宝も展示されているそうです。
扇屋の約90m先の右側に、旅籠・大槌屋の跡がありました。
07時12分、旅籠・大槌屋跡(右側)
大槌屋跡の約30m先の右側(民家の入口)に、日本橋から106番目の土山一里塚があり、塚跡に石柱が建っていました。
07時13分、106土山一里塚跡(右側)
土山一里塚は、土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先にあったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は高さ=2.5m、円周=12mの大きさであったと伝えられている。土山一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名付けられている。
一里塚跡から約350m先に、瓦屋根にナマコ壁風の白壁欄干に広重の浮世絵が埋め込まれた来見橋が架かっていました。
07時19分、来見橋
土山宿は、道端に路地標識(旅籠跡は町史に残る33軒のうち29軒)、90軒の家に屋号看板を掲げ、江戸時代の史跡を大切に保存しています。
また、通学途中の小・中学生から「おはようございます」と挨拶され、こちらが慌てて挨拶を返すなど、爽やかな朝の旅になりました。
来見橋を渡ってから約170m歩いた左側に、「旅籠・山本屋跡」の石柱が建っていました。
07時24分、旅籠・山本屋跡(左側)
山本屋跡の約50mの右側に、旅籠跡の石柱が3本並んで建っていました。
07時25分、旅籠跡石柱群(右側)
石柱群の真向い(左側)に井筒屋跡がありました。
07時26分、井筒屋跡(森白仙終焉の地)=左側
森鴎外の祖父である白仙は、石見国津和野の藩医で、万延元(1860)年、藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向き、翌年5月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう途中の11月7日、土山宿井筒屋にて急死した。
井筒屋から約40m先の左側に、民芸・茶房のうかい屋がありました。
※民芸・茶房のうかい屋
うかい屋から2軒先の左側に、脇本陣跡碑が建っていました。
07時28分、二階屋脇本陣跡(左側)
脇本陣は、「本陣を利用する大名などが重なった場合に利用され、本陣の補佐的施設として機能していた施設で、土山宿では中町の二階屋(堤氏)が脇本陣に定められていた」と記されていましたが、建っていた石柱は「脇」の字が白く消されていました。
脇本陣跡碑の斜め前(右側)の道を入った奥に、土山宿伝馬館がありました。
07時29分、伝馬館(右側)
伝馬館は、街道や宿場、宿駅伝馬制を再考し、今後の発展に寄与していくために平成13年にオープンした建物だそうですが、本日は休館日でした。
伝馬館から街道に戻った右角に問屋場跡碑が建っていました。
07時30分、問屋場跡(右側)
問屋場跡から約60m先の右側に油佐家があり、その家の角(玄関の先)に問屋宅跡碑が建っていました。
※油佐家(右側)
07時32分、問屋宅跡(右側)
碑の脇の小道を越した右側に、土山本陣跡がありました。
07時34分、土山本陣跡(標高=242m)=右側
土山宿本陣は、寛永11(1634)年、3代将軍徳川家光が上洛した時に、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門が初代本陣職として受けたそうです。
本陣は、当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿に宿泊することもしばしばであったなかで、明治元年9月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第1回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。なお、本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなりました。
現在は一般の住宅だが、400年以上のいぶ木や明治天皇宿泊時の玉座、大名などが泊まった上段の間、宿帳などが残っているので、見学するには予約が必要ですが、改めて見学に来たいと思います(開館は10時)。
本陣から約80m先の左側に、木造の立派な土山公民館があり土山宿お休み処になっていましたが、休館日でした。
07時35分、土山宿お休み処(土山公民館)=左側
お休み処から約60m歩いた右側に、飛脚だった日野屋跡の屋号が掲げられた家がありました。
07時37分、日野屋跡(飛脚)=右側
日野屋跡から約40m先に、一の松通りとの交差点があり、渡った右角に大黒屋公園がありました。
大黒屋公園は、昨日の到着地として計画したのですが、天候不順から手前の道の駅で終わったため、今日の朝、少し早く出発して歩いてきました。
公園には、本陣跡碑、問屋場跡碑、高札場跡碑が建っていたので、先に記録に残しました。
07時40分、大黒屋本陣跡・問屋場跡(右側)
土山宿の本陣は土山氏文書の「本陣宿の事」によって甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことが分かる。大黒屋本陣の設立年代についてははっきり判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿になっている。古地図によると当本陣の規模は土山宿本陣のように門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。
大黒屋本陣跡・問屋場跡碑の直ぐ左横に、高札場跡碑が建っていました。
07時40分、高札場跡(右側)
土山宿の高札場は、問屋場や本陣などが設けられた御役町の東西二か所にあって、この内の一か所が北土山の吉川にあったと云われている。東の高札場は田村川橋の西街道の南側にあったと記録されている。
高札は桁行5m、横幅1.8m、高さ3mの構築物であり、高札場は五街道の宿場とか、村の庄屋宅前など民衆の注目を引きやすいところに制札を立て法令の周知を期したが、明治7年(1874)に廃止された。
高札場の右側に、屋根付きのベンチ(東屋?)があり、ここで朝食を食べることにし、あや乃旅館で作って頂いたおにぎりを取り出して食べました。
07時41分~07時46分、朝食(大黒屋公園)
大黒屋公園から70m先の大黒橋の手前左側に、土山宿陣屋跡碑が建っていました。
07時48分、土山宿陣屋跡(左側)
陣屋は、幕府領であった土山宿は代官による支配を受けており、その役人たちが働いていた役所で、土山宿では吉川町に南側にあり、東西約46m、南北約55mの広さだった。陣屋跡碑の直ぐ先に、先ほど渡った来見橋と同じように、瓦屋根にナマコ壁風の白壁欄干に広重の浮世絵が埋め込まれた大黒橋が架かっていました。
07時49分、大黒橋
大黒橋を渡り約170m先の左側に、現在の店名と掲げられている屋号が同じ店がありました。
07時52分、阿波屋商店(屋号も阿波屋)=左側
どのようなお店なのか閉まっていたので分かりませんが、江戸期から続いているお店なのかと思いましたが、ネットで調べましたが何も記されていないので違うようです。
阿波屋商店から約250m歩くと国道1号南土山交差点となり、交差点を渡って左に約50m先の右折する道の角に、道標が建っていました。
07時57分、御代参街道道標(右側)
御代参街道は「多賀道」道とも呼ばれたが、江戸の頃、京の公家が天皇の名代として彦根の近くにある多賀大社への参拝に往来したり、公家の名代の使者が往来した街道から「御代参道」と呼ばれるようになりました。道筋は古くから通っていたようだが、江戸初期、春日の局が伊勢参詣の後、多賀大社にお参りするため正式に街道として整備されたようです。
道筋は土山宿と中山道愛知川宿を結ぶ脇往還であり、東海道脇街道とも北国越安土道とも呼ばれていたようです。
道標の前の国道1号を約50m直進すると斜め右に分岐があり、右に右折します。
分岐先には「土山西口」バス停、「歴史の道」レリーフが建っていました。
※分岐(国道1号)=右方向
街道はこのまま野洲川まで続き、江戸期は渡し舟で渡ってたのですが、現在は渡し舟がないため、分岐から約300m先の十字路を左折し、約270m歩いて国道1号に合流します。
合流した国道1号を横切り、国道1号の左側歩道を約270m歩き、ガソリンスタンド先の東海モータースを左に見てながら左に分岐します。
08時08分、分岐(東海モータース横)=左方向
ネットで収集した旧街道は、野洲川に架かる白川橋を渡った先の交差点を右折し、松尾の渡しだったところにでて歩くようになっているのですが、明治13年に東海道が変更になり、現在は東海モータース横の道が東海道になっています。
分岐から約170m先の右側に南西第2集会所があり、反対側(左側)に小公園があり、公園が終わる辺りからカラー舗装になり、直ぐ先に屋根付きの橋が架かっていました。
08時12分、歌声橋
※橋からの眺め(野洲川)
橋を渡り約90m歩くと国道1号に出る道と左に行く道に分かれますが、カラー舗装になっている左側に進み、(右側に桑名歯科クリニックがある)、さらに約300mで国道1号からの道(江戸期の東海道)に合流します。
合流してから約100m先の交差点(信号有り)を渡り、さらに約120m歩いた右側に鳥居のある小さな社のお宮があり立ち寄りました。
08時23分、牛頭天王社(右側)
Yumiさんと二人並んでお賽銭をご奉納し、
●Yumiさんの意味性認知症と緑内障の完治
●東海道夫婦二人旅の安全
を、周りに誰もいなかったので、声を出してご祈願しました。
街道を歩き出すと、左側の茶畑が目に入り、この辺りが土山茶の茶所だったと思い出すとともに、小夜の中山を歩いていた時に教えて頂いた霜除けファンがあることに気が付きました。
※土山茶・茶畑
※霜除けファン
※〔参考〕霜除けファン=2月10日、第15回に掲載
牛頭天王社のお参りを終わり、土山茶の茶畑を眺めながら約600m歩いた右側に、地安禅寺があり、境内左手に茶の碑が建っていました。
08時35分、林丘寺宮植栽の茶碑(境内左側)
林丘寺宮植栽の茶は、御水尾法皇(1596~1680)の御影、御位牌安置所建立の宝永年間(1704~1710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、5月、10月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と林丘寺宮へ献納されていた。
この宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。
地安禅寺から約100m先に、ベンチに座った人形がありましたが、最初見た時は人が座っているのかと思いましたが、足元を見ると足がないことに気が付き人形を見に行くと、良く出来ている案山子人形でした。
08時37分、ベンチの人形(左側)
案山子人形から約350m先の左側に、垂水頓宮御殿跡碑が建っていました。
08時43分、垂水頓宮御殿跡碑
垂水頓宮御殿は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所です。
斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名大として、皇祖である天照大神の御神霊のみ杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった。
御殿跡碑から約450m先の左側に、七福神が乗った宝船の鬼瓦が飾られた民家がありました。
※鬼瓦=宝船(左側の民家)
※金粉入り細工瓦
鬼瓦の家から約100m歩いた右側の路地入口角に、日本橋から107番目の市場一里塚があり、塚跡に石柱と解説碑が建っていました。
08時52分、107市場一里塚跡碑(右側)
一里塚碑から約80m先の右側(ガードレールの外側)に、大日川掘割碑が建っていました。
08時54分、大日川掘割碑(右側)
大日川は、往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため間に挟まった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄12年(1699)、市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703)に完成した。
掘割碑の直ぐ先に大日川に架かる大日川掘割橋があり、橋を渡った先に反野松並木(私の勝手な命名)がありました。
08時54分、反野畷松並木(私の命名)=標高218m
反野松並木が始まる左側に、東海道・反野畷の石柱が建っていました。
08時55分、東海道・反野石柱(左側)
松並木を歩き始めて直ぐの右側に、石のベンチがあり休憩しました。
08時56分~09時01分、休憩(反野畷松並木)
朝食を食べてから座って休んでいないので、ザックを降ろし持参したスポーツ羊羹を取り出し、エネルギー補給と水分補給をしました。
ひと口羊羹タイプで食べやすくなっているのですが、開封はYumiにとって大変な作業になるため、開封して食べられるようにして渡しました。
約200m続いた松並木が終わり、約150m先の左側の植え込みの中に、領界石が建っていました。
09時05分、領界石(従是東淀領)=左側
領界石は、「従是東淀領」と彫られており、「ここより東は淀領」ということを示したものです。
淀藩は、廃藩となった伏見藩に替わ寛永3年(1626)、山城の国・淀の地に遠州掛川から入封した松平定信の領地です。この地は淀藩の飛び地であったと思われる。
領界石から約40m先の左側に、反野畷碑が建っていました。
09時07分、反野畷碑(左側)
畷碑から約850m歩いた右側に大野駐在所があり、さらに300m先の左側に安井酒造所があり、杉の玉がぶら下がっていました。
09時22分、安井酒造所(煙突)=左側
※安井酒造所(杉の玉)
お酒の仕込みに使う仕込み水の蛇口があり、給水しても良いと書かれていたのですが、給水できるペットボトルがなかったため、給水しないで立ち去りました。
安井酒造所から約120m歩くと国道1号大野交差点となり、歩道橋が架かっていましたが、国道の信号が赤になるのを待ってそのまま横切り、国道を左に進み、歩道橋後方の左方向に向かう道を進みました。
09時25分、大野交差点
街道は、国道1号の右側を並行しており、約400m先の徳原交差点の近くを陸橋の上を渡り、広々とした田園風景を眺めながら歩きました。
09時33分、田園風景(徳原交差点から約100m付近)
徳原交差点脇の陸橋から約800m歩いた左側(サインズ色彩工房の手前?)に、掘り井戸の名残りのつるべ(滑車)がありました。
09時40分、井戸のつるべ(左側)
私の子供の頃、井戸水で生活していたのでとても懐かしく思うとともに、最近はほとんど見掛けることもなくなり思わずシャッターを切りました。
ここから約450m先に大野西交差点があり、手前の左側に万人灯篭が建っていました。
09時47分、万人灯篭(左側)
街道は、灯篭の先で国道1号の大野西交差点と合流し、大野西交差点(標高=193m)を渡った先を右に進みます。
※分岐①
右に約130m進み、水口タイヤ工業所に沿って最初の右に入る道を右折し、直ぐの突き当りを左折します(左折する右側に居楽屋仕事人)。
※分岐②
右側の居楽屋仕事人の店から約450m歩くと左側に浄土寺があり、寺院の敷地内に建っている東海道お休み処の手前に、日本橋から108番目の今在家一里塚があり、塚跡に復元された塚に石碑が建っていました。
09時58分、108今在家一里塚跡(左側)
一里塚は石垣の中に復元され(江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去された)榎が植えられていますが、当時は桜だったことが説明板に記されていました。
一里塚の横に東海道の小鈴鹿峠お休み処がありましたが、トイレがなかったのでそのまま通過しました。
街道は、お休み処の先の十字路を左折し、約60m先で県道549号に出ます。
県道549号を約250m歩くと右からくる道と合流する手前右側に、高札場跡の標識が建っていました。
10時04分、高札場跡(右側)
そして高札場跡の裏(右から合流してくる道の左側)に、「街道をゆく」碑が建っていました。
10時05分、街道をゆく碑(左側)
古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。
あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。
東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。
街道をゆく碑の先の県道549号を約60m進むと分岐となり、右に進みました。
※分岐(右側)
ここから街道は県道と別れ右側の宝善寺の前を通り、約520m先でまた合流しました。
県道549号を約130m先をまた右に分岐するのですが、分岐の手前右側に「県道岩上」バス停、正面に三角屋根で時計が付いている白い建物がありました。
10時14分、Y字路分岐(右側)
朝、出発してからトイレに寄っていないため、トイレに行こうと探しながら歩いていると地図にJA水口東部と記されていたので、街道から外れて行ったところ介護施設でトイレは使えませんでした。
しかたなくYumiさんに「ごめんね。トイレのある処を探すから」とお詫びをしながら歩くと、右側に八幡神社が見えたので立ち寄りました。
E=トイレありますでしょうか
男=あるよ。今、来たところだから鍵を開けてあげよう。
と云って、神社脇にあるトイレ(一人用)の鍵を開けて下さいました。
幸運でした。
男の方は、神社の守り人で、私達が着いた時に来たばかりでした。
トイレを済ませてから神社の本殿でお賽銭を奉納し、参拝し
●Yumiさんの意味性認知症と緑内障の完治
●東海道夫婦二人旅のご加護
を声を出してご祈願しました。
10時33分、八幡神社・本殿(右側)
男の方が「ぜひ見て行け」というので、お礼を込めて絵馬と菩薩様を見させてもらいました。
※絵馬と菩薩様
※男の方が撮って下さいました
男性にお礼を云って、神社を後にし、街道を進みました。
神社から約210m歩くと分岐があり、右に進みました。
10時39分、分岐(真ん中に東海道の案内板あり)=右側
分岐から約140m歩くと上り坂となり、上り坂を上り切った右側に、竜ケ丘団地と書かれたマンションがあり、その前に松並木が復元されていました。
10時43分、松並木(竜ケ丘団地前)
松並木の前に碑が建っており、江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行っていました。松並木は風や日射しを除け、旅人の疲れを癒していました。
街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録が記されていましたが、先の大戦を境にしてその多くが失われました。
水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったたと思われますと記されていました。
松並木から約150m歩くと下り坂(すべり坂)となり、約200m下った処の秋葉北交差点を越え、直後の山川橋を渡った右側に東屋のある休憩施設がありました。
※すべり坂
10時50分、休憩施設(山川橋袂・右側)
休憩施設の先から今度は上り坂となり、約120m先の三叉路合流点の右側に水口宿の鳥居の中に東の江戸口となる見附跡碑が建っていました。
10時52分、水口宿・東見附跡=標高183m
東見附跡は、近世城郭の門など外と接し警備を行った場所で、この地が水口宿の東端すなわち江戸口となったのは野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1605)以降のことである。特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。亨保年間(1716~1736)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。
東見附跡から約120m先に元町交差点があり歩道橋がありましたが、ここも歩道橋を通らないで信号に合わせて横切らせて頂きました。
そして元町交差点から約140m先右側の、橋本豆腐店と先隣りの寿製麺の間の前(左側)の赤茶色の格子に、脇本陣跡の看板がぶら下げてありました。
10時58分、脇本陣跡(左側)
掲げられていた看板の文字は、やっと判読できる程度になっており、「何とかできないのかな」と思いました。
脇本陣から約40m先の左側に、鵜飼本陣跡碑が建っていました。
11時00分、鵜飼本陣跡(左側)
※竹柵に沿って入った奥に石碑
本陣は、鵜飼伝左衛門氏が代々本陣職を勤めたこと、明治二年に明治天皇が宿泊されたのを最後にその歴史を閉じ、撤去されたそうです。
本陣跡を出て左側の桔梗屋文七商店の先で道は分岐し、左側を進みました。
※分岐(左側)
分岐の中央に、高札場跡碑が建っていました。
11時03分、高札場跡(分岐中央)
高札場跡の分岐から約80m先で、また分岐(手前左側に河合商店)し、右に進みました。
11時05分、分岐(右側)
分岐から約190m進むと十字路の右の先角に菓子処一味屋があり、その真向い(左角)に問屋場跡碑が建っていました。
11時08分、問屋場跡碑(左側)
問屋場跡碑から約80m先の左側にファッションますやまがあり、「東海道五十三次手拭いorタオル」が売られており、直ぐに店内に入って購入しました。
11時11分、ファッションますやま(左側)
※東海道五十三次手拭い
E=ほしいと思っていたので、嬉しいです
店=それは良かったですね
E=以前、立ち寄った処で売り切れて扱っていないと云われ、ガッカリしていたのです
店=これは各宿の中で1店は置いてあるはずですよ
E=え!!、そうなんですか
私は知らなかったので、良い情報を有難うとともに、今度ネットで調べてみようと思います。
ほしいと思っていたものとめぐり会ったので、ニコニコ顔になって、旅を続けました。
ファッションますやまの出て直ぐ左に旅の休憩所(トイレあり)がありました。
11時13分、休憩所(左側)
休憩所から約20m進むと交差点で、右角にカラクリ時計が設置されていました。
11時14分、カラクリ時計(大池町)
カラクリ時計のある交差点を渡り、約600m歩くと3本の道が合流する地点の真ん中の道の左角に、カラクリ時計が設置されていました。
11時22分、カラクリ時計(米屋町)
カラクリ時計の先、10mに石橋があり、その先に近江鉄道の踏切がありました。
11時22分、いしばし
石橋を渡り、踏切を越えた約15m先の今日の到着地である近江鉄道水口石橋駅の入口に到着しました。
11時24分、水口石橋駅入口着(到着地)
Yumiさんに到着の看板を掲げてもらい、旅の到着式(看板を掲げて写真撮影)を行いました。
今日の天気は、出発時は青空が多かったのですが、途中で積乱雲などの雲が出てきて雨が降ってくるのかなと思いましたが、雨も降ることなく今日の旅を終えることができました。
《昼食》
書き留めてきた水口石橋駅発の電車の時刻を確認したら約45分あるので、踏切を渡った左側線路脇にカフェ「ポエム」があり昼食を食べに入りました。
11時25分~12:00分、昼食(カフェポエム)
店に入ると私達が最初で、水口石橋駅から乗る時間を伝え、店主から「揚げ物でなければ」と云われ、ハンバーグ定食(@780円)を注文しました。
店には私達の後から2組お客が入ってきたのですが、最初に入った私達に料理が出てきたのが11時45分頃だったので、もし後だったら乗る予定の電車(1時間に1本)に乗れなかったかもしれませんでした。
また、料理が出てくる間に、
店=どちらから来られたのですか
E=東京からで、今日は道の駅・あいの土山から歩いてきました
店=あー、そうですか
E=昨日は、水口の旅館に泊まったんですよ
店=あや乃さんですか?
E=そうです
と、店主と話しをしたのですが、泊まったところを云われ、何か嬉しくなりました。
そして料理は、11時45分頃になってから運ばれてきました。
時間は迫っていましたが、Yumiさんを急かせることなく食事を食べ、トイレに入ってから店を後にしました。
踏切を渡り、到着地を通り、水口石橋駅に着きました。
【帰路】
12時03分、近江鉄道水口石橋駅着
駅は無人駅で待合い室にいた方(女性)に、乗車方法を聞き、ホームに出て待っていると黄色の電車が入ってきました。
※水口石橋駅ホーム
※近江鉄道
電車は、ワンマンバスと同じように、車内に整理券発券機が設置されており、整理券を取り、下車駅の貴生川駅で精算します。
12時10分、水口石橋駅発
12時16分、貴生川駅着
12時21分(24分発)、貴生川駅発=接続電車の遅れで3分遅れで発車
※草津線・貴生川駅
草津線の沿線は、この先の三雲から草津まで来月以降に旅をする所なので、旅の時を考えながら車窓から景色を眺めていました。
12時45分(48分着)、草津駅着
12時50分(56分発)、草津駅発
※びわこ線・草津駅
13時23分(29分着)、米原駅着
米原駅で新幹線に乗り換えるのですが、発車時間まで25分の待ち時間があるので、二人のザックを乗車位置に置き(黄色線の内側に置くように注意されました)、近くのベンチに座って休みました。
新幹線が入線する少し前にザックの場所に行き、入ってきた新幹線「ひかり」は見た目で混雑していたので、二人掛けの席が空いているか心配しましたが、なんとか二人掛けの席に座ることができました。
13時55分、新幹線米原駅発
車内では持参したお菓子などを食べたり、ペトボトルを飲んだり、うとうと寝たりと、ぼんやりと時間を過ごしていました。
そして、「今日の富士山はどうかな」とYumiさんと話しながら待っていましたが、残念ながら富士山は雲に隠れてまったく眺めることが出来ませんでした。
今日は、新横浜で下車するため、のんびりと寝て乗り過ごすわけに行かないので、三島を過ぎてからは寝ないで車窓からの景色を眺め、車内放送に合わせて降りる準備を整え、新横浜駅で下車しました。
15時52分、新幹線新横浜駅着
改札を通ってからYumiさんに「トイレに寄って行こう」と声を掛け、トイレに連れて行ってから横浜線のホームに向かいました。
16時06分、横浜線新横浜駅発
家に帰る途中、旅の打ち上げと無事の帰りを祝し、夕食を食べて自宅に帰りました。
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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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https://michinoku-trail.blog.jp/