旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2013年10月

【天候】晴れのち曇り
【宿場】(49)土山宿⇒(50)水口宿

【行程】歩行距離=13.10㎞ 総距離=443.02㎞
道の駅・あいの土山⇒(0.80㎞)⇒106土山一里塚⇒(4.05㎞)
⇒107大野市場一里塚⇒(4.05㎞)⇒108今在家一里塚⇒
(4.20㎞)⇒水口石橋駅入口
【ルート図】

  ↓宿場(黒囲みが第32回旅の宿場)
21 32回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (〇32=今回の旅区間/〇31まで=完歩区間)
全体 第32回
  ↓
第32回のルート
  (道の駅・あいの土山 ⇒ 水口石橋駅入口)

第32回ルート
【旧東海道の旅】
《移動》
昨日の雨は上がり、天気は良いようである。
Yumiさんの身支度を手伝い、ザックの荷造りを行い旅支度を整えました。
6時30分過ぎ、朝食のおにぎり(旅の途中で食べようと女将さんにお願いしました)を受け取ると、女将さんから「泊まって頂いた方の写真を撮らせて頂いていますので、よろしく」と云われ、玄関前に建っている石碑の脇で記念写真を撮りました。
06時38分、あや乃旅館発
003 Yumiと女将さん
今日は昨日の雨が上がり、青空が見えるウォーク日和です。
女将さんにお世話になったお礼を云い、来月の旅の時も宿泊させて頂くことを考えていることを伝え、ご主人の車で昨日の到着地である「道の駅・あいの土山」まで送って頂きました。
朝の通勤時間の前なのか道路の渋滞もなく、これから旅で歩いてくる道(土山から水口)を眺めながら乗っていると、出発地の「道の駅・あいの土山」に着き、送って下さった
ご主人にお礼を云って別れ、出発地に立ちました。
【=旅=】
06時57分、道の駅・あいの土山(出発地)
004 あいの土山(出発地)
道の駅の施設前で、恒例の儀式である出発式(日付・場所を記したパネルを持って写真を撮る)を行いましたが、予定していた大黒屋公園前の出発式看板を用意していたので、持参した予備用紙に手書きした看板を掲て出発式を行い、旅に出発しました。
街道は道の駅に沿って右折するのですが、右折する角(後ろは生里野公園)に土山宿案内板が建っていました。
06時58分、土山宿案内板

006 土山宿案内図
昨日は雨の中だったので、旅の記録はデジカメの時間に頼りましたが、今日は持参している地図にメモを含めて書き込むことが出来るため、晴れている日の有難さを感じてます。
案内板から約400m先の十字路の左角に、道標と地蔵堂が建っていました。
07時05分、道標・地蔵堂
008 石碑・地蔵堂
Yumiさんの白い手提げ袋は、あや乃旅館で作って頂いた朝食のおにぎりが入っている袋で、ぶら下げて歩いています。
地蔵堂の道路反対側(進行右側)に、土山名産「お六櫛」の三日月屋の屋号が掲げられた家がありました。
07時06分、お六櫛・三日月屋跡

010 お六櫛・三日月屋
お六櫛は、木曽で作られた木櫛で、この辺りに十数戸、軒を連ねて店を出して売っていたそうです。
  ※土山宿の街並み

011 土山宿まち並み
三日月屋から約300m先の右側に、扇屋伝承文化館がありましたが、時間が早く開館(9時30分~)前でした。
07時10分、扇屋伝承文化館(右側)
013 扇屋伝承文化館
扇屋伝承文化館は、江戸時代に扇や櫛を販売していた商屋「扇屋」を地元の北東区が購入し、地域文化の伝承と東海道を散策する人々の憩いの場となることを目的に、地域有志の住民がボランティアで改修し、扇屋に残されているお宝も展示されているそうです。
扇屋の約90m先の右側に、旅籠・大槌屋の跡がありました。
07時12分、旅籠・大槌屋跡(右側)
016 旅籠・大槌屋跡
大槌屋跡の約30m先の右側(民家の入口)に、日本橋から106番目の土山一里塚があり、塚跡に石柱が建っていました。
07時13分、106土山一里塚跡(右側)
019 土山一里塚跡
土山一里塚は、土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先にあったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。土山一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名付けられている。
一里塚跡から約350m先に、瓦屋根にナマコ壁風の白壁欄干に広重の浮世絵が埋め込まれた来見橋が架かっていました。
07時19分、来見橋

021 来見橋
土山宿は、道端に路地標識(旅籠跡は町史に残る33軒のうち、29軒)、90軒の家に屋号看板を掲げ、江戸時代の史跡を大切に保存しています。
また、通学途中の小・中学生から「おはようございます」と挨拶され、こちらが慌てて挨拶を返すなど、爽やかな朝の旅になりました。
来見橋を渡ってから約170m歩いた左側に、「旅籠・山本屋跡」の石柱が建っていました。
07時24分、旅籠・山本屋跡(左側)

026 旅籠・山本屋跡
山本屋跡の約50mの右側に旅籠跡の石柱が3本、並んで建っていました。
07時25分、旅籠跡石柱群(右側)

027 旅籠跡石碑
石柱群の真向い(左側)に井筒屋跡がありました。
07時26分、井筒屋跡(森白仙終焉の地)=左側
森鴎外の祖父である白仙は、石見国津和野の藩医で、万延元年(1860)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。翌年5月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう途中の11月7日、土山宿井筒屋にて急死した。
井筒屋から約40m先の左側に、民芸・茶房のうかい屋がありました。
  ※民芸・茶房のうかい屋

031 うかい屋(民芸店)
うかい屋から2軒先の左側に、脇本陣跡碑が建っていました。
07時28分、二階屋脇本陣跡(左側)
032 二階屋脇本陣跡
脇本陣は、「本陣を利用する大名などが重なった場合に利用され、本陣の補佐的施設として機能していた施設で、土山宿では中町の二階屋(堤氏)が脇本陣に定められていた」と記されていましたが、建っていた石柱は「脇」の字が白く消されていました。
脇本陣跡碑の斜め前(右側)の道を入った奥に、土山宿伝馬館がありました。
07時29分、伝馬館(右側)
034 土山伝馬館
伝馬館は、街道や宿場、宿駅伝馬制を再考し、今後の発展に寄与していくために平成13年にオープンした建物だそうですが、本日は休館日でした。
伝馬館から街道に戻った右角に問屋場跡碑が建っていました。
07時30分、問屋場跡(右側)
036 問屋場跡
問屋場跡から約60m先の右側に油佐家があり、その家の角(玄関の先)に問屋宅跡碑が建っていました。
  ※油佐家(右側)

038 油佐
07時32分、問屋宅跡(右側)
040 問屋宅跡
碑の脇の小道を越した右側に、土山本陣跡がありました。
07時34分、土山本陣跡(標高=242m)=右側

042 土山本陣跡
土山宿本陣は、寛永11年(1634)、3代将軍徳川家光が上洛した時に、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門が初代本陣職として受けたそうです。
本陣は、当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿に宿泊することもしばしばであったなかで、明治元年9月、天皇行幸の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第1回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。なお、本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなりました。

現在は一般の住宅だが、400年以上のいぶ木や明治天皇宿泊時の玉座、大名などが泊まった上段の間、宿帳などが残っているので、見学するには予約が必要ですが、改めて見学に来たいと思います(開館は10時)。
本陣から約80m先の左側に、木造の立派な土山公民館があり土山宿お休み処になっていましたが、休館日でした。

07時35分、土山宿お休み処(土山公民館)=左側
044 土山宿お休み処(公民館)
お休み処から約60m歩いた右側に、飛脚だった日野屋跡の屋号が掲げられた家がありました。
07時37分、日野屋跡(飛脚)=右側
046 日野屋跡
日野屋跡から約40m先に、一の松通りとの交差点があり、渡った右角に大黒屋公園がありました。
大黒屋公園は、昨日の到着地として計画したのですが、天候不順から手前の道の駅で終わったため、今日の朝、少し早く出発して歩いてきました。
公園には、本陣跡碑、問屋場跡碑、高札場跡碑が建っていたので、先に記録に残しました。
07時40分、大黒屋本陣跡・問屋場跡(右側)

047 大黒屋本陣跡・問屋場跡
土山宿の本陣は土山氏文書の「本陣宿の事」によって甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことが分かる。大黒屋本陣の設立年代についてははっきり判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿になっている。古地図によると当本陣の規模は土山宿本陣のように門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。

大黒屋本陣跡・問屋場跡碑の直ぐ左横に、高札場跡碑が建っていました。
07時40分、高札場跡(右側)
049 高札場跡
土山宿の高札場は、問屋場や本陣などが設けられた御役町の東西二か所にあって、この内の一か所が北土山の吉川にあったと云われている。東の高札場は田村川橋の西街道の南側にあったと記録されている。
高札は桁行5m、横幅1.8m、高さ3mの構築物であり、高札場は五街道の宿場とか、村の庄屋宅前など民衆の注目を引きやすいところに制札を立て法令の周知を期したが、明治7年(1874)に廃止された。
高札場の右側に、屋根付きのベンチ(東屋?)があり、ここで朝食を食べることにし、あや乃旅館で作って頂いたおにぎりを取り出して食べました。
07時41分~07時46分、朝食(大黒屋公園)
051 大黒屋公園(朝食)
大黒屋公園から70m先の大黒橋の手前左側に、土山宿陣屋跡碑が建っていました。
07時48分、土山宿陣屋跡(左側)
053 土山宿・陣屋跡
陣屋は、幕府領であった土山宿は代官による支配を受けており、その役人たちが働いていた役所で、土山宿では吉川町に南側にあり、東西約46m、南北約55mの広さだった。陣屋跡碑の直ぐ先に、先ほど渡った来見橋と同じように、瓦屋根にナマコ壁風の白壁欄干に広重の浮世絵が埋め込まれた大黒橋が架かっていました。
07時49分、大黒橋
055 大黒橋・壁画
大黒橋を渡り約170m先の左側に、現在の店名と掲げられている屋号が同じ店がありました。
07時52分、阿波屋商店(屋号も阿波屋)=左側
060 屋号・阿波屋
どのようなお店なのか閉まっていたので分かりませんが、江戸期から続いているお店なのかと思いましたが、ネットで調べましたが何も記されていないので違うようです。
阿波屋商店から約250m歩くと国道1号南土山交差点となり、交差点を渡って左に約50m先の右折する道の角に、道標が建っていました。
07時57分、御代参街道道標(右側)
062 御代参街道道標(起点)
御代参街道は「多賀道」道とも呼ばれたが、江戸の頃、京の公家が天皇の名代として彦根の近くにある多賀大社への参拝に往来したり、公家の名代の使者が往来した街道から「御代参道」と呼ばれるようになりました。道筋は古くから通っていたようだが、江戸初期、春日の局が伊勢参詣の後、多賀大社にお参りするため正式に街道として整備されたようです。
道筋は土山宿と中山道愛知川宿を結ぶ脇往還であり、東海道脇街道とも北国越安土道とも呼ばれていたようです。

道標の前の国道1号を約50m直進すると斜め右に分岐があり、右に右折します。
分岐先には「土山西口」バス停、「歴史の道」レリーフが建っていました。
  ※分岐(国道1号)=右方向

065 分岐(右折)
街道はこのまま野洲川まで続き、江戸期は渡し舟で渡ってたのですが、現在は渡し舟がないため、分岐から約300m先の十字路を左折し、約270m歩いて国道1号に合流します。
合流した国道1号を横切り、国道1号の左側歩道を約270m歩き、ガソリンスタンド先の東海モータースを左に見てながら左に分岐します。
08時08分、分岐(東海モータース横)=左方向

066 分岐(左方向)
ネットで収集した旧街道は、野洲川に架かる白川橋を渡った先の交差点を右折し、松尾の渡しだったところにでて歩くようになっているのですが、明治13年に東海道が変更になり、現在は東海モータース横の道が東海道になっています。
分岐から約170m先の右側に南西第2集会所があり、反対側(左側)に小公園があり、公園が終わる辺りからカラー舗装になり、直ぐ先に屋根付きの橋が架かっていました。
08時12分、歌声橋
067 歌声橋
  ※橋からの眺め(野洲川)
069 歌声橋・景観
橋を渡り約90m歩くと国道1号に出る道と左に行く道に分かれますが、カラー舗装になっている左側に進み、(右側に桑名歯科クリニックがある)、さらに約300mで国道1号からの道(江戸期の東海道)に合流します。
合流してから約100m先の交差点(信号有り)を渡り、さらに約120m歩いた右側に鳥居のある小さな社のお宮があり立ち寄りました。
08時23分、牛頭天王社(右側)
071 牛頭天王社
Yumiさんと二人並んでお賽銭をご奉納し、
・Yumiさんの意味認知症及び緑内障の完治
・東海道夫婦二人旅の安全
を、周りに誰もいなかったので、声を出してご祈願しました。
街道を歩き出すと、左側の茶畑が目に入り、この辺りが土山茶の茶所だったと思い出すとともに、小夜の中山を歩いていた時に教えて頂いた霜除けファンがあることに気が付きました。
  ※土山茶・茶畑

073 土山茶畑
  ※霜除けファン
076 霜防止ファン
※〔参考〕霜除けファン=2月10日、第15回に掲載
牛頭天王社のお参りを終わり、土山茶の茶畑を眺めながら約600m歩いた右側に、地安禅寺があり、境内左手に茶の碑が建っていました。
08時35分、林丘寺宮植栽の茶碑(境内左側)

077 林丘寺宮植栽の茶
林丘寺宮植栽の茶は、御水尾法皇(1596~1680)の御影、御位牌安置所建立の宝永年間(1704~1710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と林丘寺宮へ献納されていた。
この宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。
地安禅寺から約100m先に、ベンチに座った人形がありましたが、最初見た時は人が座っているのかと思いましたが、足元を見ると足がないことに気が付き人形を見に行くと、良く出来ている案山子人形でした。
08時37分、ベンチの人形(左側)

080 人? 人形?
案山子人形から約350m先の左側に、垂水頓宮御殿跡碑が建っていました。
08時43分、垂水頓宮御殿跡碑
081 垂水頓宮御殿跡碑
垂水頓宮御殿は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所です。
斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名大として、皇祖である天照大神の御神霊のみ杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった。

御殿跡碑から約450m先の左側に、七福神が乗った宝船の鬼瓦が飾られた民家がありました。
  ※鬼瓦=宝船(左側の民家)

083 鬼瓦(宝船)
  ※金粉入り細工瓦
084 鬼瓦(金入り)
鬼瓦の家から約100m歩いた右側の路地入口角に、日本橋から107番目の市場一里塚があり、塚跡に石柱と解説碑が建っていました。
08時52分、107市場一里塚跡碑(右側)
085 107市場一里塚跡
一里塚碑から約80m先の右側(ガードレールの外側)に、大日川掘割碑が建っていました。
08時54分、大日川掘割碑(右側)

088 大日川掘割碑
大日川は、往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため間に挟まった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄12年(1699)、市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703)に完成した。
掘割碑の直ぐ先に大日川に架かる大日川掘割橋があり、橋を渡った先に反野松並木(私の勝手な命名)がありました。
08時54分、反野畷松並木(私の命名)=標高218m

090 反野松並木
反野松並木が始まる左側に、東海道・反野畷の石柱が建っていました。
08時55分、東海道・反野石柱(左側)

092 反野畷碑(始)
松並木を歩き始めて直ぐの右側に、石のベンチがあり休憩しました。
08時56分~09時01分、休憩(反野畷松並木)

094 反野松並木(休憩)
朝食を食べてから座って休んでいないので、ザックを降ろし持参したスポーツ羊羹を取り出し、エネルギー補給と水分補給をしました。
ひと口羊羹タイプで食べやすくなっているのですが、開封はYumiにとって大変な作業になるため、開封して食べられるようにして渡しました。
約200m続いた松並木が終わり、約150m先の左側の植え込みの中に、領界石が建っていました。
09時05分、領界石(従是東淀領)=左側

095 従是東淀領の領界石
領界石は、「従是東淀領」と彫られており、「ここより東は淀領」ということを示したものです。
淀藩は、廃藩となった伏見藩に替わ寛永3年(1626)、山城の国・淀の地に遠州掛川から入封した松平定信の領地です。この地は淀藩の飛び地であったと思われる。
領界石から約40m先の左側に、反野畷碑が建っていました。
09時07分、反野畷碑(左側)

097 反野畷碑(終)
畷碑から約850m歩いた右側に大野駐在所があり、さらに300m先の左側に安井酒造所があり、杉の玉がぶら下がっていました。
09時22分、安井酒造所(煙突)=左側
099 安井酒造所
  ※安井酒造所(杉の玉)
101 酒林
お酒の仕込みに使う仕込み水の蛇口があり、給水しても良いと書かれていたのですが、給水できるペットボトルがなかったため、給水しないで立ち去りました。
安井酒造所から約120m歩くと国道1号大野交差点となり、歩道橋が架かっていましたが、国道の信号が赤になるのを待ってそのまま横切り、国道を左に進み、歩道橋後方の左方向に向かう道を進みました。
09時25分、大野交差点
102 大野交差点
街道は、国道1号の右側を並行しており、約400m先の徳原交差点の近くを陸橋の上を渡り、広々とした田園風景を眺めながら歩きました。
09時33分、田園風景(徳原交差点から約100m付近)
105 水口方向の景色
徳原交差点脇の陸橋から約800m歩いた左側(サインズ色彩工房の手前?)に、掘り井戸の名残りのつるべ(滑車)がありました。
09時40分、井戸のつるべ(左側)
107 井戸のつるべ
私の子供の頃、井戸水で生活していたのでとても懐かしく思うとともに、最近はほとんど見掛けることもなくなり思わずシャッターを切りました。
ここから約450m先に大野西交差点があり、手前の左側に万人灯篭が建っていました。
09時47分、万人灯篭(左側)
108 常夜燈
街道は、灯篭の先で国道1号の大野西交差点と合流し、大野西交差点(標高=193m)を渡った先を右に進みます。
  ※分岐①

110 大野西交差点
右に約130m進み、水口タイヤ工業所に沿って最初の右に入る道を右折し、直ぐの突き当りを左折します(左折する右側に居楽屋仕事人)。
  ※分岐②
111 分岐(右折)
右側の居楽屋仕事人の店から約450m歩くと左側に浄土寺があり、寺院の敷地内に建っている東海道お休み処の手前に、日本橋から108番目の今在家一里塚があり、塚跡に復元された塚に石碑が建っていました。
09時58分、108今在家一里塚跡(左側)

116 108今在家一里塚跡
一里塚は石垣の中に復元され(江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去された)榎が植えられていますが、当時は桜だったことが説明板に記されていました。
一里塚の横に東海道の小鈴鹿峠お休み処がありましたが、トイレがなかったのでそのまま通過しました。
街道は、お休み処の先の十字路を左折し、約60m先で県道549号に出ます。

118 分岐
県道549号を約250m歩くと右からくる道と合流する手前右側に、高札場跡の標識が建っていました。
10時04分、高札場跡(右側)
119 高札場跡
そして高札場跡の裏(右から合流してくる道の左側)に、「街道をゆく」碑が建っていました。
10時05分、街道をゆく碑(左側)
121 街道をゆく碑
古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。
あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。
東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。

街道をゆく碑の先の県道549号を約60m進むと分岐となり、右に進みました。
  ※分岐(右側)

123 分岐(右)
ここから街道は県道と別れ右側の宝善寺の前を通り、約520m先でまた合流しました。
県道549号を約130m先をまた右に分岐するのですが、分岐の手前右側に「県道岩上」バス停、正面に三角屋根で時計が付いている白い建物がありました。
10時14分、Y字路分岐(右側)

124 分岐(右)
朝、出発してからトイレに寄っていないため、トイレに行こうと探しながら歩いていると地図にJA水口東部と記されていたので、街道から外れて行ったところ介護施設でトイレは使えませんでした。
しかたなくYumiさんに「ごめんね。トイレのある処を探すから」とお詫びをしながら歩くと、右側に八幡神社が見えたので立ち寄りました。
E=トイレありますでしょうか
男性=あるよ。今、来たところだから鍵を開けてあげよう。
と云って、神社脇にあるトイレ(一人用)の鍵を開けて下さいました。
幸運でした。
男の方は、神社の守り人で、私達が着いた時に来たばかりでした。
トイレを済ませてから神社の本殿でお賽銭を奉納し、参拝し
・Yumiさんの意味認知症と緑内障の完治
・東海道夫婦二人旅のご加護
を声を出してご祈願しました。
10時33分、八幡神社・本殿(右側)
125 八幡神社・本殿
男の方が「ぜひ見て行け」というので、お礼を込めて絵馬と菩薩様を見させてもらいました。
  ※絵馬と菩薩様

127 八幡神社・観音堂
  ※男の方が撮って下さいました
129 八幡神社・観音堂
男性にお礼を云って、神社を後にし、街道を進みました。
神社から約210m歩くと分岐があり、右に進みました。
10時39分、分岐(真ん中に東海道の案内板あり)=右側

130 分岐(右)
分岐から約140m歩くと上り坂となり、上り坂を上り切った右側に、竜ケ丘団地と書かれたマンションがあり、その前に松並木が復元されていました。
10時43分、松並木(竜ケ丘団地前)

131 松並木
松並木の前に碑が建っており、江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行っていました。松並木は風や日射しを除け、旅人の疲れを癒していました。
街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録が記されていましたが、先の大戦を境にしてその多くが失われました。
水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったたと思われますと記されていました。
松並木から約150m歩くと下り坂(すべり坂)となり、約200m下った処の秋葉北交差点を越え、直後の山川橋を渡った右側に東屋のある休憩施設がありました。
  ※すべり坂

135 すべり坂
10時50分、休憩施設(山川橋袂・右側)
136 休憩施設
休憩施設の先から今度は上り坂となり、約120m先の三叉路合流点の右側に水口宿の鳥居の中に東の江戸口となる見附跡碑が建っていました。
10時52分、水口宿・東見附跡=標高183m
138 水口宿・東見附跡
東見附跡は、近世城郭の門など外と接し警備を行った場所で、この地が水口宿の東端すなわち江戸口となったのは野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1605)以降のことである。特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。亨保年間(1716~1736)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。
東見附跡から約120m先に元町交差点があり歩道橋がありましたが、ここも歩道橋を通らないで信号に合わせて横切らせて頂きました。
そして元町交差点から約140m先右側の、橋本豆腐店と先隣りの寿製麺の間の前(左側)の赤茶色の格子に、脇本陣跡の看板がぶら下げてありました。
10時58分、脇本陣跡(左側)
144 脇本陣跡
掲げられていた看板の文字は、やっと判読できる程度になっており、「何とかできないのかな」と思いました。
脇本陣から約40m先の左側に、鵜飼本陣跡碑が建っていました。
11時00分、鵜飼本陣跡(左側)

146 鵜飼本陣跡
  ※竹柵に沿って入った奥に石碑
149 鵜飼本陣跡碑
本陣は、鵜飼伝左衛門氏が代々本陣職を勤めたこと、明治二年に明治天皇が宿泊されたのを最後にその歴史を閉じ、撤去されたそうです。
本陣跡を出て左側の桔梗屋文七商店の先で道は分岐し、左側を進みました。
  ※分岐(左側)

151 分岐(左)
分岐の中央に、高札場跡碑が建っていました。
11時03分、高札場跡(分岐中央)
153 高札場跡
高札場跡の分岐から約80m先で、また分岐(手前左側に河合商店)し、右に進みました。
11時05分、分岐(右側)

155 分岐(右)
分岐から約190m進むと十字路の右の先角に菓子処一味屋があり、その真向い(左角)に問屋場跡碑が建っていました。
11時08分、問屋場跡碑(左側)

156 問屋場跡
問屋場跡碑から約80m先の左側にファッションますやまがあり、「東海道五十三次手拭いorタオル」が売られており、直ぐに店内に入って購入しました。
11時11分、ファッションますやま(左側)

160 手拭い販売店
  ※東海道五十三次手拭い
159-2 五十三次手拭い
E=ほしいと思っていたので、嬉しいです
店主=それはよかったですね
E=以前、立ち寄った処で、売り切れて扱っていないと云われ、ガッカリしていたのです
店主=これは、各宿の中で1店は置いてあるはずですよ
E=え!!、本当ですか
私は知らなかったので、良い情報を有難うとともに、今度ネットで調べてみようと思います。
ほしいと思っていたものとめぐり会ったので、ニコニコ顔になって、旅を続けました。
ファッションますやまの出て直ぐ左に旅の休憩所(トイレあり)がありました。
11時13分、休憩所(左側)

163 休憩施設
休憩所から約20m進むと交差点で、右角にカラクリ時計が設置されていました。
11時14分、カラクリ時計(大池町)
161 からくり時計(大池町)
カラクリ時計のある交差点を渡り、約600m歩くと3本の道が合流する地点の真ん中の道の左角に、カラクリ時計が設置されていました。
11時22分、カラクリ時計(米屋町)

164 からくり時計(米屋町)
カラクリ時計の先、10mに石橋があり、その先に近江鉄道の踏切がありました。
11時22分、いしばし

166 いしばし
石橋を渡り、踏切を越えた約15m先が、今日の到着地である近江鉄道水口石橋駅の入口に到着しました。
11時24分、水口石橋駅入口着(到着地)

169 水口石橋駅入口(到着地)
Yumiさんに到着の看板を掲げてもらい、旅の到着式(看板を掲げて写真撮影)を行いました。
今日の天気は、出発時は青空が多かったのですが、途中で積乱雲などの雲が出てきて雨が降ってくるのかなと思いましたが、雨も降ることなく今日の旅を終えることができました。
《昼食》
書き留めてきた水口石橋駅発の電車の時刻を確認したら約45分あるので、踏切を渡った左側線路脇にカフェ「ポエム」があり昼食を食べに入りました。
11時25分~12:00分、昼食(カフェポエム
173 ポエム(昼食)
店に入ると私達が最初で、水口石橋駅から乗る時間を伝え、店主から「揚げ物でなければ」と云われ、ハンバーグ定食(@780円)を注文しました。
店には私達の後から2組お客が入ってきたのですが、最初に入った私達に料理が出てきたのが11時45分頃だったので、もし後だったら乗る予定の電車(1時間に1本)に乗れなかったかもしれませんでした。
また、料理が出てくる間に、
店主=どちらから来られたのですか
E=東京からで、今日は道の駅・あいの土山から歩いてきました
店主=あー、そうですか
E=昨日は、水口の旅館に泊まったんですよ
店主=あや乃さんですか?
E=そうです
と、店主と話しをしたのですが、泊まったところを云われ、何か嬉しくなりました。
そして料理は、11時45分頃になってから運ばれてきました。
176
時間は迫っていましたが、Yumiさんを急かせることなく食事を食べ、トイレに入ってから店を後にしました。
踏切を渡り、到着地を通り、水口石橋駅に着きました。
【帰路】
12時03分、近江鉄道水口石橋駅着

178 水口石橋駅
駅は無人駅で、待合い室にいた方(女性)に、乗車方法を聞き、ホームに出て待っていると黄色の電車が入ってきました。
  ※水口石橋駅ホーム

180 水口石橋駅ホーム
  ※近江鉄道
182 近江鉄道
電車は、ワンマンバスと同じように、車内に整理券発券機が設置されており、整理券を取り、下車駅の貴生川駅で精算します。
12時10分、水口石橋駅発
12時16分、貴生川駅着
12時21分(24分発)、貴生川駅発
・・・接続電車の遅れで3分遅れで発車
  ※草津線・貴生川駅
184 貴生川駅・草津線
草津線の沿線は、この先の三雲から草津まで来月以降に旅をする所なので、旅の時を考えながら車窓から景色を眺めていました。
12時45分(48分着)、草津駅着
12時50分(56分発)、草津駅発

  ※びわこ線・草津駅

185 びわこ線・草津駅
13時23分(29分着)、米原駅着
米原駅で新幹線に乗り換えるのですが、発車時間まで25分の待ち時間があるので、二人のザックを乗車位置に置き(黄色線の内側に置くように注意されました)、近くのベンチに座って休みました。
新幹線が入線する少し前にザックの場所に行き、入ってきた新幹線「ひかり」は見た目で混雑していたので、二人掛けの席が空いているか心配しましたが、なんとか二人掛けの席に座ることができました。
13時55分、新幹線米原駅発

187 新幹線・米原駅
内では持参したお菓子などを食べたり、ペトボトルを飲んだり、うとうと寝たりと、ぼんやりと時間を過ごしていました。
そして、「今日の富士山はどうかな」とYumiさんと話しながら待っていましたが、残念ながら富士山は雲に隠れてまったく眺めることが出来ませんでした。
今日は、新横浜で下車するため、のんびりと寝て乗り過ごすわけに行かないので、三島を過ぎてからは寝ないで車窓からの景色を眺め、車内放送に合わせて降りる準備を整え、新横浜駅で下車しました。
15時52分、新幹線新横浜駅着
改札を通ってからYumiさんに「トイレに寄って行こう」と声を掛け、トイレに連れて行ってから横浜線のホームに向かいました。
16時06分、横浜線新横浜駅発

家に帰る途中、旅の打ち上げと無事の帰りを祝し、夕食を食べて自宅に帰りました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp


【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/



【天候】雨(大雨注意報・発令中)
【宿場】(47)関宿⇒(48)坂下宿⇒(49)土山宿

【行程】歩行距離=13.86㎞ 総距離=429.92㎞
関ロッジ入口(新所町信号先)⇒(2.55㎞)⇒103市瀬一里塚⇒(3.81㎞)⇒104元坂下一里塚⇒(4.60㎞)⇒105山中一里塚⇒(2.90㎞)⇒道の駅あいの土山

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第31回旅の宿場)
20 31回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (〇31=今回の旅区間/〇30まで=完歩区間)
全体 第31回
  第31回の旅ルート
   (新所町信号先 ⇒道の駅・あいの土山)

第31回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
05時30分、起床
洗面、着替えなどの身支度を整え、ザックの荷物が濡れないようにひとつ一つビニール袋に入れて雨天対策を講じました。

07時00分、朝食
朝食は7時30分を30分早めて7時に変更し、テーブルに並べられたご飯、味噌汁、数種類のおかずを見て「これ、大好きなの」と云って、美味しそうに食べていました。
一方、雨の状態は食べながら窓の外を眺めると激しい降雨状態で、これは合羽を着ないと無理と判断し、朝食後に部屋に戻りザックから合羽を取り出し着用しました。
街道旅では傘と合羽はザックに入れてありますが、通常は少しでも荷物を軽くするため合羽は簡易なものにしているのですが、箱根峠と鈴鹿峠の時だけは山歩きになるため、万一の時を考えて山用のゴアテックス合羽を持参しました。
私の勘が鋭いというのか、箱根峠の時に引き続いて鈴鹿峠も雨天となり、ゴアテックス合羽が大活躍することになりました。
《移動》

07時42分、ホテル発
001 関ロッジ玄関
フロントで精算を済ませ、外に出ようとすると同じ街道ウォーカの男性(一人)がおり、
E=鈴鹿峠越えですか?
男性=この天気なので今日は取り止め、関から貴生川に行き、平坦な草津辺りから歩こうと思います
E=あー、そうですか
男性=じゃ、先に
と云って、合羽を着て雨の中を歩いて行きました。
取り残された私は、「このままもう一泊して明日歩くか、旅を止めて東京に帰るか、またはこのまま出発するか」と迷いましたが、「何とかなるだろう」と意を決して鈴鹿峠を越えることにし、関ロッジ玄関で記録の写真を撮って出発しました。
傘を差し、出発地(新所町信号先)に向かいましたが、「もう一晩泊まって明日歩こうか」、「このまま東京に帰ろうか」など、気持ちはまだ揺れ動ていました。
しかし、決断がつかないうちに到着地に着いてしまい、やっと気持ちが固まりました。
【=旅=】
07時53分、
関ロッジ入口・新所町信号先(出発地)
004 観音山公園入口(出発地)
雨の中、出発式の看板(右側中央のスタンプは関ロッジで押印しました)をYumiさんに掲げてもらい写真撮影の出発式を行い、土山宿を目指して出発しました。
約50m先(上の写真の車の所)の国道1号(合流)を右折し、約260m先の市瀬信号から約80m(?)くらい歩いた左側にフェンスで仕切られた駐車場があり、その中にお祀りするような感じで、転び石がありました。
08時00分、転び石(左側)
006 転び石
直径2m程の石で、「弁慶のころがし」と云われ、何度片付けても街道に転び出たという伝説があります。
転び石から約170m(?)先の右にオークワ流通センターが、正面にガードレールがある手前の道を右折します。
08時03分、分岐(国道1号)
008 分岐(右折)
右折して約150mで道は左折し、そして約70mで右折とクランク形に進み、さらに130m行って右側(市瀬常夜燈)と国道を渡った左側(西願寺の前)に常夜燈が建っていました。
08時08分、市瀬常夜燈(国道手前右側)
009 市ノ瀬常夜燈
08時10分、常夜燈(国道を渡った左側・西願寺前)
011 常夜燈(西願寺脇)
この先で国道を右側に渡り、走って来る車から水しぶきを受けないよう気を付けながら、また水溜りを避けるようにして雨降る国道脇の歩道を歩いていると、日本橋から427㎞の距離標が建っていました。
08時22分、427㎞距離標
013 427㎞標識
国道の脇を流れる川(鈴鹿川?)は、茶色に濁った濁流となっていました。
08時27分、濁流の鈴鹿川(?)
014 鈴鹿川の流れ
濁流写真から約5分歩いた弁天橋手前の右側(一段高い草むらの中)に、弁財天社の石碑が建っていました。
08時32分、弁財天社石碑(右側)
015 弁財天社石碑
弁天橋を渡って約50m先の左側に、日本橋から103番目の一里塚跡があり、石柱が建っていました。
08時33分、103市瀬一里塚跡(左側)
016 103市瀬一里塚碑
この一里塚跡は、弁天橋から約50m先の左側にあるのですが、右側を歩いているので約100mで右折することに気を取られてしまうため、途中の反対側(左側)にある一里塚の石碑を見過ごしてしまう可能性があり、要注意の場所です。
私も少し通り過ぎたところで一里塚に気が付き、「Yumiさん、道路を渡るよ」と声を掛けて反対側に渡り、モデルになってもらいました。
Yumiさんは、何んで渡るのか理解していない状態(認知症の症状が進行していて、理解できない状態になっています)ですが、私に置いていかれないようにと、往年の快足(昔は陸上のリレーの選手)を発揮して道路の反対側に渡りました。
国道の左側には歩道がない上に、トラックなどの車が猛スピードで走ってくるなど危険なので、急いで写真を撮り左右を確認して右側の歩道に戻りました。
08時35分、分岐(国道1号)=右折
018 分岐(右折)
街道は、市瀬一里塚跡の約50m先、中津橋手前で右折し、国道1号と平行して鈴鹿川(?)を左に見ながら歩きます。
右折して直ぐ左側に雨宿りできそうな場所があり、Yumiさんに声を掛けて小休憩を取りました。
靴(ウォーキングシューズ)は防水スプレーを掛けてあったので二人とも靴の中は濡れていない代わりに、帽子は写真を撮るたびに雨に濡れるので、私のはつばからポタポタ状態、Yumiさんはビッショリになっていました。
そのため、水分補給をして少し休もうと思っていたのですが、Yumiさんが早く行こうと急かせるので、数分の休憩で出発しました。
  
雲に隠れた山々①(浄化センターと超泉寺の間)
019 雨中の景色
  
雲に隠れた山々②(浄化センターと超泉寺の間)
020 雨中の景色
出発して約200m(浄化センターの手前)歩くと上り坂となり、約500m先の右側に超泉寺があり、トイレに立ち寄り社殿の屋根の下でザックを降ろして休憩しました。
08時50分~08時59分、休憩(超泉寺)=右側
021 超泉寺
道は鈴鹿峠に向けて、ダラダラとした上り坂になっています。
超泉寺を出て約270m歩くと右側に坂下郵便局があり、その約80m先に分岐があり、右側の上り道を進みました。
09時08分、分岐(直進)
022 分岐(右)
上り坂を歩いて行くと沓掛地区となり、連子格子の家が残っていました。
街並みが終わる辺りで道が分岐し、進む右の道の左側に東海道五十三次の宿場標柱が建っていました。
09時14分、東海道五十三次宿場標柱(日本橋)=左側
023 五十三次標柱
  東海道五十三次宿場標柱(丸子宿付近)=左側
027 五十三次標柱・丸子
標柱は、分岐した処から再び合流するまでの約170mの間に建っていて、左側に鈴鹿馬子唄会館、右側に鈴鹿峠自然の家が建っていました。
09時17分、鈴鹿峠自然の家=右側
028 鈴鹿峠自然の家
鈴鹿峠自然の家は、昭和13年(1938)に坂下尋常小学校として建築され、昭和54年に廃校となり青少年の研修施設として利用されるようになった国指定の登録有形文化財です。
街道は東海道五十三次標柱が終わる所で合流し、さらに550m先に河原谷橋がありました。
09時26分、河原谷橋(下の橋)
032 河原谷橋(下乃橋)
河原谷橋は、沓掛と坂下の境界で、下の橋ともいいます。
ここから坂下宿が始まり、約270m先の公民館車庫前に松屋本陣跡がありました。
坂下宿には、難所の鈴鹿峠を控え、江戸時代後期には大竹屋・松屋・梅屋の本陣と小竹屋脇本陣がありました。
特に大竹屋は間口13間半(約24m)、奥行25間(約45m)あり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹、小竹、宿がとりたや小竹屋」と唄われたように、数多くの大名家も宿泊する東海道随一の大店として世に知られていました。また、大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、公家や文化人の歌に詠まれている。賑わいを見せていたこれらの建物は明治以降に全て取り壊され、現在は跡地に石碑を残すだけになりました。
09時33分、松屋本陣跡
034 松屋本陣跡
松屋本陣跡から数十m先の左側のゴミ捨て場の横(右側の前田屋商店の斜め手前)に、大竹屋本陣跡があり石柱が建っていました。
09時34分、大竹屋本陣跡(左側)
037 大竹屋本陣跡
関宿の前田製菓店の系列(?)の前田屋商店があり「志ら玉」が売られており、鈴鹿峠の手前では最後の自販機が設置されていました。
  前田屋商店(鈴鹿峠の手前、最後の自販機)=右側
036 峠手前最後の自販機(前田屋)
前田屋商店の斜め左前方の左側、中の橋の袂に梅屋本陣跡があり石柱が建っていました。
09時35分、梅屋本陣跡(左側)
039 梅屋本陣跡
中の橋を渡った右側の少し高い所に、小竹屋脇本陣跡がありました。
09時36分、小竹屋脇本陣跡(右側)
041 小竹脇本陣跡
脇本陣跡から約140m歩くと左に細い家並みに沿った道があり、約110m歩いて元の道に戻ると直ぐに右側に金蔵院跡の石垣がありました。
09時41分、金蔵院跡の石垣(右側)
043 金蔵院跡の石垣
金蔵院は鈴鹿山護国寺共武呼ばれ、開基は仁寿年間(851~853)と伝えられる古刹です。江戸時代初期に将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が小休止している。参勤交代の大名は山門前で駕籠から降りることが通例とされていました。慶安3年(1650)の洪水後に古町から現在の場所に移り明治初年に廃寺になり、石垣はその当時の名残りとして残っていました。
そして石垣の隣りには、人の身代わりになってくれると云われている身代わり地蔵がありました。
09時42分、身代わり地蔵
045 身代わり地蔵
お地蔵様から約20m歩くと如来堂橋(上の橋)があり地図に記していたのですが、降雨の中で濡れないようにして持つことに気を取られ(言い訳)、見落としてしまいました。
如来堂橋(上の橋)から約300m先の右側に、岩家十一面観世音菩薩が祀ってあり、清滝もあるので見に行きたかったのですが、雨が少し強く降っていたのと、Yumiさんが「先に行く」と云うことで、割愛しました。
09時47分、岩家十一面観世音菩薩碑(標高=224m)=右側
046 岩家十一面観世音菩薩碑
菩薩碑の前で国道と合流しますが、側道を真っ直ぐ進みました。
右側の分電盤の手前に右に上っていく階段がありましたが、この道は東海自然道で東海道ではありません。
鈴鹿峠の手前で、細い山道なので、東海道らしい雰囲気があるのですが、ハイキング用に出来ている道のようです。
048 分岐(直進)
国道1号の側道を歩きましたが、途中の右側に「日本橋から104番目の104元坂下(荒井谷)一里塚があった」と史料に記されていましたが、特に石碑などはないらしいので、雨中を理由に探すことなく素通りしました。
そして菩薩碑から約600m歩くと分岐があり右側の登り道を進みました。
09時58分、分岐(右側)
049 分岐(一番右を上る)
最初、真ん中の道かなと思いましたが、鈴鹿峠を考えると上りだろうと思ったのと、片山神社の社標が見えたので、一番右側の道を上りました。
  ※片山神社社標(左側)
050 片山神社標柱
カメラのレンズに雨粒が付いたりするので、タオルで拭き取るのですが、ズボンに入れているタオルが濡れていて綺麗に拭き取れないため、ザックの中から新しいタオルを出そうと思っても、取り出せる場所がないため「撮れてればいいや」と諦めて撮影を続けることにしました。
街道は、片山神社の石柱を過ぎると鬱蒼とした林となり、鈴鹿峠が近づいてきた感じになりました。
分岐から緩やかなコンクリート造りの上り坂を約240m歩くと、小さな川が流れていました。
10時04分、琴の橋
052 琴の橋
琴の橋は、桐の橋ともいい、かつて天皇家の秘宝の一つに和琴の鈴鹿があり、鈴鹿川に架かる桐の橋板から作られたことからこの名があり、平家物語にも登場しています。
橋から約120m上り道を歩くと左側に片山神社があり、神社に向かう石段がありました。
10時08分、片山神社入口(左側)
053 片山神社入口
晴天だったら階段を上って参拝したいと思いましたが、今日はとてもそのような気持ちではないので、そのまま通り過ぎました。
入口の脇に、薙刀の碑が建っていました。
10時08分、鈴鹿流薙刀術発祥の地碑(左側)
055 鈴鹿流薙刀術発祥の地碑
薙刀の碑の横に常夜燈が並んで建っていました。
10時09分、常夜燈(左側)
056 常夜燈
常夜燈は、燈籠坂に並んでいて、延享元年(1744)、文化11年(1814)、享保2年(1717)、安政6年(1859)と刻まれているそうです。
片山神社を境に急な上り坂となり、灯篭が並んでいることから名付けられた灯篭坂となり、
・ジクザクの九十九折りの山道(灯篭坂)
・コンクリートの階段(国道1号を越える)
・平らな台地(芭蕉句碑があったようですが見落としました)を横切って右手前方の階段を上る
・ジクザクの山道
・緩やかな上り道
を、水溜りを避けながら鈴鹿峠の頂点を目指して歩きました
  片山神社の階段上り口方向の眺め
057 鈴鹿峠道(片山神社からの上り)
  峠道(実際は写真以上に荒れていました)
058 馬の水飲み場
水溜りというより、川の流れのようになっていて、靴の中に水が浸みてくるかと思いましたが、防水スプレー(以前に吹き掛けたもの)の効果か、大丈夫でした。
  鈴鹿峠からの眺め(晴天の時、眺めたい!!)
059 鈴鹿峠からの眺望
晴天だったらさぞかし綺麗だろうなと思う雲に隠れた鈴鹿の山々を眺めながら(眺めるゆとりはありませんでしたが)緩やかになった道を歩いていると、「鏡岩まで150m」の標識が見え、道標が建っていました。
10時24分、鈴鹿峠(標高=378m)
069 鈴鹿峠標識
鈴鹿峠の標識は確認できませんでしたが、平坦地になっていたので、勝手にこの場所を峠にしました。
鈴鹿峠は、
三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する東海道の峠で、標高は357m。古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2年(886)に開通したとされている。鈴鹿山は、本来は三子山のことを指しているようですが、今昔物語や和歌などに登場する鈴鹿山は、鈴鹿峠越えを指しているものが多いようです。緩やかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話しが伝えられ、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました。
片山神社を過ぎた処からジグザグの急坂になり、次はコンクリートの階段、最後は急坂でしたが、片山神社からの標高差が約100m位かと思うので、晴天時であればさほどきつく感じることはないと思いました。
今日は、大雨注意報が発令されている状況での峠越えだったので、周りを見る精神的なゆとりもなく、ただ峠を越えただけになってしまいました。
さて、峠の道標に記された鏡岩ですが、山の師匠であるNさんから「行くべし」と指示を受けていたので、雨の中でしたが見に行きました。
12時29分、鏡岩
063 鏡岩
鏡岩は、硅岩が断層によって擦られて露出面が鏡のように輝いていたと云われ、鈴鹿の山賊が往来する旅人をこの岩に映して危害を加えたので、「鬼の姿見」と云って伝えられています。昭和11年に県指定天然記念物に指定されました。
雨が降っていたので、上から見ることは止め、鏡岩の左隣りの岩まで行って峠にもどりました。
峠から約100m歩くと林が終わり、その左角に三重県と滋賀県の県境標識が建っていました。
10時35分、県境標識(左側)
070 県境石柱
石標には、右滋賀県、左三重県と記されており、峠を越えたことを祝したかったのですが、雨中だったこともあり感慨にふけるひまもなく、先に進みました。
県境を後にして先に進むと「鈴鹿峠路傍休憩地」と書かれた看板が建っていたので、座るベンチがあるのかと思って立ち寄ったら公衆トイレのみで少しガッカリしましたが、ザックを降ろして立ち休憩を取りました。
10時39分~10時48分、鈴鹿峠路傍休憩地(右側)
074 鈴鹿峠路傍休憩地
トイレを済ませ、タオル交換したり、水分補給して出発すると、休憩地の直ぐ横に万人講大石燈籠が建っていました。
10時49分、万人講大石燈籠(標高=373m)=右側
075 万人講大石燈籠
万人講大石燈籠は、江戸時代中期、四国の金毘羅宮参りの常夜燈として建てられたもの。高さ5.44mもある巨大なものだが蟹坂古戦場跡
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍政を盛りかえし、さらに北伊勢の軍政を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍政五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
道なりに歩いていると国道1号と合流する少し手前に、「甲賀市境」の標識が建っていました。
10時53分、甲賀市境標識(右側)
078 市境標識
道はこの先で右折して国道1号に合流して国道沿いを先に進むと、日本橋から434㎞の距離標が建っていました。
11時00分、434㎞距離標
081 434㎞標識
標識から約50m先に地下道に入る所があり、地下道を通って国道の右側に移動しました。
地下道から出て約350m先の右側(道の角)に、鳥居と常夜燈が建っていました。
11時07分、鳥居と常夜燈(右側)
083 鳥居と常夜燈
鳥居は何処の神社のものか分からない上、地中深く埋もれていたので、異様な感じを受けました。

鳥居・常夜燈から約450m先の山中交差点を過ぎ、交差点から約170m先の宮川橋を渡り約100m歩いたところに、日本橋から435㎞の距離標が建っていました。
11時19分、435㎞距離標
084 435㎞標識
1㎞手前の距離標には記されていなかったのですが、大津まで50㎞と表示されている標識を見て、ゴールが目前に迫ってきたことを感じさせられました。

距離標を後に、国道1号を約550m歩くと左側に十楽寺があり、その少し先に木造建屋のバス停(十楽寺前)があり、バス停を利用して昼食を食べることにし、Yumiさんを促して道路を横切りバス停の中に入りました。
11時27分~11時47分、昼食(十楽寺バス停)
086 十楽寺前バス停
昼食を何処で食べようかと考えていた矢先だったので、思いがけない施設に巡り合いホッとしました。
バス停の中にはベンチが付いており、ザックを置いて食べるのに丁度良い広さでした。
088 バス停の中
ここで昨日、関宿の森川菓子店で購入したパンと前田製菓で購入した志ら玉を、今朝関ロッジで出掛ける時に買った缶コーヒーで昼食を食べました。
志ら玉は、薄い生地でアンコを包んだ餅菓子で、とても美味しく感じました。
雨は止むことなく降り続いていますが、一時より小降りになったように感じの中、国道を元の右側に渡り、旅を続けました。
バス停前から約350m歩くと山中西交差点の手前に分岐があり、右に進みました。
11時51分、分岐(山中西交差点手前)=右方向
091 分岐(右)
分岐を入った左側に、土山碑が建っていました。
11時53分、土山碑(左側)
092 土山石碑
碑から約260m先の右側に、地蔵堂がありました。
11時55分、地蔵堂(右側)
094 地蔵堂
このお地蔵様は衣装をまとっていると地図に書き込んでいたのですが、見落としてしまいお地蔵様の衣装は確認できませんでした。
地蔵堂から約170m先の右側の民家の庭に、鬼瓦が並べられていました。
  
鬼瓦が並ぶ家(右側)
096 鬼瓦
新名神高速の高架下を通り、国道1号に合流した右側に一里塚公園があり、道標、馬子唄碑が建っていました。
12時04分、檪野観音道道標(右側)
097 道標(檪野観音道)
12時04分、鈴鹿馬子唄之碑(右側)
099 鈴鹿馬子唄之碑
100 馬子唄像
12時05分、105山中一里塚跡
101 105山中一里塚跡
一里塚碑を探しましたが、見当たりません。
しかたなく一里塚公園の石碑を一里塚跡とし、日本橋から105番目の一里塚として記録に残しました。
ここで国道1号に合流して右側を約350m歩くと、日本橋から437㎞の距離標が建っていました。
12時11分、437㎞距離標
103 437㎞標識
距離標から約350m先に猪鼻交差点があり、交差点を右折し、右に進まないで真っ直ぐ行くとT字路の突き当りとなり、T字路を左折し、約160m行った右側の民家の庭先に、中屋跡の石柱が建っていました。
12時17分、旅籠・中屋跡(右側)
104 旅籠・中屋跡
碑の脇に、明治天皇が休息された跡碑が建っていました。
この少し先から上り坂となっており、約100mで国道1号に合流しました。
  上り坂を歩くYumiさん
107 1号合流手前の上り坂
合流から約450mでまた国道と分岐し、右側に進みました。
12時26分、分岐(右に榎木の大木あり)
108 分岐(右のカラー舗装)
分岐を入って直ぐ右側に榎木の大木が2本植えられており、その奥に小さいお宮の白川神社が祀られていました。
12時28分、榎木(右側の公園内)
112 榎の大木
12時28分、白川神社(奥の右側)・(標高=288m)
113 白川神社
今日は参拝する機会がなかったので、参拝するためお宮の前に立ってお賽銭を奉納しようと賽銭箱を探すと、お宮の脇にぶら下がっていた小箱しかなかったので、お賽銭箱としてご奉納しました。
参拝は、Yumiさんの病気の全快(意味認知症・緑内障)と東海道夫婦二人旅のご加護を声を出してご祈願しました。
声の大きさは普通のしゃべる大きさですが、参拝した後が清々しいので、周りに人がいない時だけ声を出して参拝しています。
白川神社を出て、約550m先のガードを潜り、
115 ガード下をとおる
ガードから約80m歩いた右側に、古戦場跡がありました。
12時41分、蟹坂古戦場跡(標高=269m)
116 蟹坂古戦場跡
蟹坂古戦場は、
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍政を盛りかえし、さらに北伊勢の軍政を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍政五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
古戦場跡から約300m先に海道橋が新たに架かり、橋の手前右側に橋の高札が建てられていました。
12時49分、海道橋の高札跡(右側)
122 海道橋高札
12時50分、海道橋
120 海道橋
海道橋を渡った所から約100m先の右側に高札場跡がありました。
12時52分、高札場跡(右側)
124 高札場跡
高札場跡から約10mで、田村神社の参道となり鳥居が建っていました。
12時53分、田村神社参道
126 田村神社参道
街道は鳥居の前で左折し、国道1号を横切って道の駅・あいの土山の横を通り、土山宿に入っていくのですが、私は道を間違えて鳥居の前を通り過ぎて、神社の角を左折して国道に出てしまいました。

街道から見ると右側、間違えた道を歩いた私から見ると左側に、綺麗に整備された公園がありました。
128 和風公園
12時56分、道の駅・あいの土山前(標高=251m)
129 あいの土山
本来は、左側に写っている歩道橋を渡るのですが、私達は車が通らない時に横切って反対側に移動し、歩道橋の袂にある高橋商店に立ち寄り、名物の「かにが坂飴」(@750円)をお土産に購入しました。
13時00分、高橋商店(かにが坂飴)
130 高橋商店
131 かにが坂飴
この時点では、まだ計画どおり今日の予定地までの旅を続けるつもりでいたのですが、道の駅(あいの土山)で少し休憩しようと思い施設の中でザックを降ろし、濡れたタオルを交換したり、帽子を拭いたりして休憩しました。
ザックを降ろしひと息つき、この先雨の中の旅を続けるかどうかを考えながら外を眺めると、再び雨足が強くなっており、宿泊する旅館からも電話が入っていたことなどから、このまま旅を続ける気持ちが急に薄くなり、休憩した道の駅・あいの土山を今日の旅の到着地にすることに変更し、宿泊を予約しているあや乃旅館に電話を入れ、車での迎えをお願いしました。
旅館から約20分で着くというので、到着式の看板を持って外に出て、軒先を利用して到着式を行いました。
13時11分、道の駅・あいの土山(到着地)
132 あいの土山(到着地)
【帰路】
《移動》
134 あいの土山(館内)
施設の中に入るとトイレに行きたいと云うので、Yumiさんを一人で行かせるのは不安でしたが、トイレの場所を教え一人で行ってもらいました。
Yumiさんの姿が見えなくなるまで後ろ姿を見送り、旅の後片付けをしながらYumiさんが戻ってくるのを見ていると、元の通路を戻ってきたのでホッとしました。
※初めての通路を一人で歩いてトイレに行くと、迷子になる危険がある状態になってきています。
私とYumiさんが着ている合羽の色(E=黄緑色、Y=ピンク色)を伝えベンチに座って待っていると、旅館の女将さんの父親が迎えにきて下さいました。
13時30分、あいの土山発
旅館に向かう道(国道1号)は、明日歩くコースの近くなので、「こうゆう所を歩くのか」、「意外と距離があるな」などを思いながら車窓から眺めていましたが、Yumiさんはコックリ、コックリしていました。
13時50分、あや乃旅館着
女将さんのにこやかな出迎えを受け、Yumiさんの病状(予約時に連絡しておいた)を考慮して下さったのか、1階の部屋に入りました。
《ハプニング》
指定された部屋に入ろうとすると、女将さんから「先週お泊りになったSさんからお渡し下さいとお預かりしました」と云って、白い封筒を渡されました。
封筒は、ブログで知り合ったSさんからで、手紙とご夫婦の写真が添えられていました。
手紙には、あや乃旅館に泊まった経緯が記されていました。
このブログを通じて知り合い、メールで私達が泊まる予定のあや乃旅館のことは記しましたが、まさか泊まるとは思ってもいなかったので、手紙を頂いてビックリしました。
Sさんご夫婦は、私達と近い所を旅をしているようですが、この先お互いに事故に巻き込まれることなく、京都三条大橋に立てたらと願っています。
また、手紙にはYumiさんが認知症になるまで一番の趣味として、こよなく愛していた着物着付けについても記されていました。
Yumiさんが元気だったらどれだけ喜んだことかと思いながら手紙を見せましたが、今のYumiさんは何が書かれているのか理解できる状態にはなく、Yumiさんを本当に哀れに思いました。
Sさんからの手紙は、東海道夫婦二人旅の良き思い出として、ご夫婦の写真ともども永久に保存するため、大切に持ち帰りました。
《ザックの整理》
雨中の旅だったので、ザックから荷物を取り出して確認すると、個別にしっかりとビニール袋で防水処理していたため、濡れたものは一つもありませんでした。
また、着ていたものを脱いで旅館のゆかたに着替えてハンガーに掛けて干しましたが、ゴアテックス製の合羽の下に着ていた衣類も汗による濡れ程度で、雨による濡れはありませんでした。
また、ゴアテックス製のウォーキングシューズも防水処理のお蔭で、履いていた靴下も汗で少し湿った程度で雨水による濡れはありませんでした。
なお、ウォーキングシューズの下敷きは、脱いだ後、直ぐに抜き取り乾かしました。
《浴室》
女将さんから「お風呂は直ぐ入れますよ」と案内されていたので、着替えなどの用意をして入浴しました。
ビジネスホテルの浴室は、狭くてYumiさんのシャワー介助をするのが精一杯ですが、二人でゆったりと浴槽に入れる家族風呂は最高で、Yumiさんと顔を見合わせて「気持ちいいね」とニッコリしてしまいました。
《夕食》
18時過ぎから夕食となり、食事をする和室に行きました。
  ↓座って直ぐ(料理がまだ出しきれていません)
139 あや乃旅館・夕食①
  ↓ほぼ揃った夕食
142 あや乃旅館・夕食④
瓶ビールで今日の無事の旅を祝して乾杯し、食べ始めました。
料理は家庭的なもので、味付けは我が家にピッタリで、Yumiさんと「美味しいね」と云いながら、二人とも残さず食べました。
また、食事は旅館の家族の方々も別のテーブルで一緒に食べ、食後には女将さんのお母さんが鈴鹿馬子唄の美声を聞かせて下さいました。
民宿的ですが、何とも温かさのある旅館でした。
人によって感じ方は違うと思いますが、食事を含めて温かい「お・も・て・な・し」付き一泊2食(@5,775円)の料金は、年金生活者には有難い料金だと思いました。
そして、写真に撮りませんでしたが(了承なしに掲載できないため)、廊下にはあや乃旅館に泊まられた方々の写真や手紙が一面に貼られていました。
食事が終わり、部屋に戻り横になってテレビを見ていると、Yumiさんはスヤスヤと寝てしまいそうなので、寝る前の目薬を点眼し、血圧の測定を行い私も横になりました。
一生記憶に残る「雨中の鈴鹿峠を越えて、一日雨の中を歩いた旅」は何事もなく無事に終わり、二人とも夢の世界に入りました。
【あや乃旅館情報
〒528-0032 滋賀県甲賀市水口町八坂3-41
 TEL=0748-62-0998 FAX=0748-63-3338
  
 http://www.ayano-ryokan.com/i/

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  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/

【天候】曇りのち雨
【宿場】(46)亀山宿⇒(47)関宿

【行程】歩行距離=7.25㎞ 総距離=416.06㎞
亀山・亀山宿碑前⇒(1.45㎞)⇒101野村一里塚⇒(3.75㎞)
⇒102関一里塚⇒(2.05㎞)⇒関ロッジ入口(新所町信号先)

【ルート図】

  ↓宿場(黒囲みが第30回旅の宿場)

19 30回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (〇30=今回の旅区間/〇29まで=完歩区間)
全体 第30回
  ↓第30回の旅ルート
  (亀山宿・亀山宿碑 ⇒ 関宿・新所町信号先
第30回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
出発地に向かうルートは前回の帰りと同じ(下車駅はひと駅先の亀山)で変更はなかったのですが、帰りのルートは切符を買ったルート(水口石橋⇒彦根⇒米原)より早く米原に出られるルート(水口石橋⇒貴生川⇒草津⇒米原)が分かったため、切符を変更しました。
さて、旅の準備は、史跡の場所を持参する旧東海道の地図に書き込むため、街道の各自治体または観光協会にお願いし資料を送付して頂きました。
また、インターネットや先人のHPなどから情報を収集し、史跡の場所を特定して書き込むのですが、史跡を確認する時、一番苦労するのが街道のどちら側(右・左)にあるかです。
狭い道でも探すことがあるため、片側二車線で分離帯があったら諦めて通り過ぎるしかないので、慎重に調べるようにしています。
調べると同じ史跡の場所が記す人によって左・右が違っていたり、自治体や観光協会から頂いたパンフレットに記されている場所も「?」のところがあるので、どれが本当なのか判断付かず、現地で確認する時もあります。
その他に、工事で場所が移動していたりしているので、近くの人に確認する場合もあります(近所の人でも街道の史跡に興味がないと、聞いても分からない方が多いです)。
このようにして史跡を地図に書き込んだ後、ブログに宿場やルートの掲載準備をしました。
《移動》
04時30分、起床
朝食は新幹線の中で食べることにし、急がないで身支度出来るように、前回に引き続き早い時間に目覚ましをセットして就寝し、目覚ましの音楽で目を覚ましました。
身支度、ザックの荷造りを行い、
朝食の入った手提げ袋を持ち、少し肌寒くなってきた朝の冷たい風を受けながら、最寄り駅に向かいました。
最寄り駅から電車に乗り、東京駅に7時06分に着き、新幹線ホームに行く前にトイレに寄り、スッキリしてからホームに上ると、程なく新幹線が入線し4号車に乗りました。
座席に座り、持参した朝食(菓子パン・ジュース)を食べていると、定刻どおりに新幹線は出発しました。
003 新幹線車内(東京駅)
07時33分、東京駅発(ひかり503号)
乗車率は30%程度と、かなり空いた状態で、4号車は品川で数人、新横浜で50%、小田原でほぼ満席になりました。
小田原辺りまでは曇り空で、富士山は眺められないかなと思っていたのですが、三島に来ると頂上付近に少し雲がある程度で、眺められました。

005 富士山
早速、今日から1泊2日で東海道東下りの旅(新蒲原⇒三島)をしているNさんに携帯メールで、富士山眺望の情報を連絡しました。
Nさんから「関西の人は富士山を眺めることを楽しみにしているので、眺められると喜ぶと思います」と返信があり、良い情報を連絡できたと思いました。
09時19分、名古屋駅着
新幹線は定刻通りに名古屋駅に到着し、ここで関西線に乗り換えるのですが、約45分の待ち合わせがあるためトイレに行こうと階段を下りながら後ろを振り返ると、Yumiさんの姿がありません。
《Yumiさんは何処?》
ホームに降りたことは確認しているので、直ぐにホームに戻りYumiさんを探すと、ホームでウロウロしているのを見付け「ホッ」としました。
Yumiさんに「真っ直ぐ前を向いて歩いてよ」と注意し、在来線のトイレに行った後、衣服調整(Y=アウタージャケットをチョッキに、E=アウタジャケットを脱ぐ)をしてから、関西線のホームに移動しました。
ホームのベンチに座り人が増えてきた時点で扉付近に並び、時間待ちして関西線に乗りました。

006 名古屋駅・関西線ホーム
10時05分、名古屋駅発
桑名駅から先は旅で歩いたところなので、Yumiさんに「ここ歩いたんだよ、覚えている?」と感傷的に聞くと「記憶にない」との返事に、相方と旅の思い出を語り合えない寂しさを感じながら、一人で旅の思い出を振り返りながら車窓からの景色を眺めていました。
11時07分、亀山駅着
定刻どおり亀山駅に到着し、改札を出る前にトイレに立ち寄り、スッキリしてから外に出ました。
11時14分、亀山駅前発

008 亀山駅
天気予報どおり曇り空ですが、比較的明るいので、雨が降らないことを祈りながら亀山駅を出発しました。
出発地は、駅から少し離れていますが、前回の旅で一度歩いているので、何の不安もなく出発地に向かい、四辻のお城見公園の一角に設けられた亀山宿碑に着きました。
【=旅=】
11時20分、亀山宿碑前(出発地)

011 亀山宿碑(出発地)
宿碑の前で、恒例の儀式である出発式(日付・場所を記したパネルを持って写真を撮る)を行い、出発しました。
出発式の写真は、記録の残すため必ず2~3枚撮影します。
出発地前のカラー舗装を20m位歩いた(宿碑の後ろ)左に入った処に、問屋場跡がありました。
11時22分、西町問屋場跡(左側)

014 西町問屋場跡
問屋場は、江戸時代の各宿において主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立ての外、一般の商品物資などの継ぎ立て業務を行うための施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持っていたそうです。
亀山宿は代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が10日~20日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当していたそうである。
次は、街道から外れた加藤家屋敷跡(亀山藩の家老)を見るため街道を左に行かないで、逆に右に進み出発地を右に見て県道302号を左折し、亀山城址方向に約40m歩き、分岐を左に進むと前方右側に屋敷の塀が見えてきました。
11時26分、加藤家屋敷跡(右側)

016 加藤家屋敷跡
亀山城主石川家の家老職を務めた加藤内膳家の屋敷跡で、ナマコ壁の土蔵と門、長屋が残っており、江戸時代後期のものといわれ、武家屋敷の建築様式の貴重な資料です。
加藤家は、延亨元年(1744)石川総慶(ふさよし)の備中松山(現岡山県高梁市)から伊勢亀山への移封に従い、現在地(亀山城南三の丸)に屋敷を構えました。屋敷は文化9年(1812)に藩主御殿が焼失した際、仮御殿に使用されたほどの屋敷で、明治以降は母屋の建造物の大半が他所へ移築されましたが、長屋門、土塀、土蔵は保存されてきました。
  ※加藤家長屋門
018 加藤家長屋門
ナマコ壁の土蔵先の十字路を左折し、道なりに左折、右折とクランク形に進む道の、右折する左角に青木門跡がありました。
11時29分、青木門跡(左側)

022 青木門跡
元和元年(1615)4月16日徳川家康が大阪へ出陣の時、伊勢路に入って亀山に宿泊した時、出征中の城主松平忠明の留守を守る家臣が接待にあたりました。翌17日、亀山城三の丸より西町に出る搦手門より出立の時、付近に繁茂した青木を見て「おお、青木」と賞賛したので、この周辺の土地を青木と称し、門を「青木門」と呼んで家康を敬慕したと伝えられています。
青木門跡碑の前をそのまま直進し、約60m先の十字路の角に道標が建っていました。
11時30分、道標=街道の右・左
  ※道標(右=左東海道・右郡役所
024 道標(右側)
道標の左側は「左停車場 右東海道」、右側は「左東海道 右郡役所」と書かれており、亀山製絲の創業者である田中音吉氏が大正3年に建てたものだそうです。

  ※道標(左=停車場 右=東海道
026 道標(左側)
そして、道標と道標の間の街道に東海道のタイルが埋め込まれていました。
028 旧東海道タイル(道路中央)
写真の上部矢印方向に街道を歩き始めると、直ぐ左側に飯沼慾斉の生家がありました。
11時33分、飯沼慾斉生家跡(左側)
029 飯沼慾斉生家跡
飯沼慾斉は、天明2年(1,782年)6月10日~慶応元年(1,865年)5月5日。幕末の植物学者で、日本で最初の近代科学的植物図鑑「草木図説」をかきあげました。
生家跡から約50m歩いた左側に旧舘家住宅がありました。
11時35分、旧舘家住宅(屋号=枡屋)=左側
031 旧舘家住宅
舘家(枡屋)は幕末から大正にかけて呉服商を営んでいた大店で、現在の主屋は明治6年(1873)
に建てられたものです。亀山宿を代表する商家建築として平成19年に市指定文化財に指定されました。
見学に入りましたが、特に興味を引くものがなかったので、早々に失礼しました。
旧舘家の先は曲尺手(かねんて)という、敵の侵入を防ぐために設けられた宿場の出入り口などに設けられた直角にまげられた道になっていました。
曲尺手になった道を歩くと左側にナマコ壁風の塀の家がありました。
11時38分、屋号・わたうち屋(左側)
033 変わった塀(旧わたうち屋跡)
ナマコ壁風の家の数軒先の家の前に、屋号が沢山と記されている家がありました。
  ※沢山の屋号
034 屋号が建ち並ぶ家
屋号がこれだけあると、どのように建物が建っていたのか、タイムスリップして見てみたいと思いました。
街道はクランク形になっている曲尺手となっていて、隣りの家のところを左折します(現在はT字路になっている)。
T字路になっている突き当りの右側に掘跡がありました。
11時40分、亀山城西ノ丸外堀跡(右側)
035 亀山城西ノ丸外堀跡
外掘跡から約200m歩くと、右側の梅厳寺の前(京口坂橋の手前)に京口門跡がありました。
11時44分、京口門跡(右側)
038 京口門跡
京口門は、
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門で、『九々五集』によれと亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされています。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門と謡われるほどであった。
京口門跡の先にたつ川に架かる京口坂橋があり、旧街道はカラー舗装になっているので、道に迷うことがなく街道ウォーカには助かります。
  ※カラー舗装(歩いてきた方に向いて)
041 カラー舗装(歩いてきた道)
京口門跡から約170m先の左側に、国登録有形文化財「森家住宅主家」があり、現在は「森アンティーク」として骨董カフェを商っています。
店のことを観光協会に確認すると、昼食もあるとのことでしたので、ここで食べることにし立ち寄りました。

11時47分~12時25分、昼食(森アンティーク)
043 アンティーク森
  ※日替り定食(@1,000円)
045 日替わりランチ(他にごはん・デザート・コーヒー)
一般的な定食を考えていたのですが、出されたのは暖簾に書かれていた「伊勢うどん」、茶碗ごはん、小皿、お菓子、コーヒーでした。
048 店内
店の中はもう少し時代を感じられる作りになっているのかな思っていましたが、太い梁以外は昔の作りを感じることはありませんでした。
外に出て左を見ると史蹟の解説パネルが建っていました。
12時26分、森家住宅主家(左側)
049 森家住宅主屋
森家住宅は、東海道に面した木造の民家で、「おもや」の屋号を有する有力な家の住宅として建てられ、現在は飲食店として使われている。街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。また、街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。
森家住宅主家から約240m先の十字路を右折し、街道から約60m外れた右側のグランド入口に秀吉伊勢征伐陣地跡の標柱が建っていました。
12時30分、秀吉伊勢征伐陣地跡(白い丸)=右側
053 秀吉伊勢征伐陣地跡
街道の十字路に戻り約160m歩いた左側に、竹細工を飾られた家がありました。
12時34分、竹細工の家(街かど博物館)=左側
056 街角博物館(竹細工の店)
戸が閉まっていたので、外から眺めただけで通り過ぎました。
竹細工から2軒目の道の角に忍山神社山道碑が建っていました。
12時35分、天照皇大神御鎮座跡碑(忍山神社山道)
057 天照皇大神御鎮座跡碑
碑から約200m先の右側に大きなムクの木が立っており、その前に日本橋から101番目の一里塚碑跡があり、現存それていました。
12時38分、101野村一里塚跡(右側)
062 101野村一里塚・ムクの木
野村一里塚跡は三重県の旧東海道に沿って12ケ所に設置された一つで、唯一現存する一里塚です。もともとは道の両側にありましたが、現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。
一里塚から約600m歩くと左側(右斜め手前はマンション「ドウメゾン」)に、大庄屋の跡碑が建っていました。
12時47分、大庄屋・打田権四郎昌克宅跡碑(左側)
064 大庄屋邸宅跡
街道は約80m先で分岐し、右折(白線矢印方向)します。
066 分岐(右折)
約150m歩くと左側にこんもりとした木立に包まれた布気神社がありましたが、本殿まで遠く感じたため参道入口の鳥居の前から一礼して参拝の代わりにさせて頂きました。
12時51分、布気神社参道入口鳥居(左側)
067 布気神社参道入口
ここから約190m歩くと、左側に街かど博物館の古民家ギャラリーがありました。
12時56分、古民家ギャラリー(街かど博物館)=左側
069 街角博物館(古民家ギャラリー)
この建物は「小坂」家で、この辺りは小坂姓の家が街道の両側に連なっていました。
その中の一軒で、
E=小坂姓の家が多いのですね
男性=このあたりは「コサカ」が多い。何処から来た?
E=東京からです
男性=東海道を歩いているのか
E=そうです。今日は亀山から
男性=(関宿までの街道の道案内を始める)
E=有難うございました
とお礼を云って別れましたが、聞いていると旧東海道の街道ルートについてひと言云いたいような感じを受けました。
天気が良くて、時間があったら講釈にお付き合いしたのですが、今にも雨が降り出すような状況だったため、切りの良いところで御礼を云って失礼しました。
この直ぐ先(15m)の右の脇道角に、道標が建っていました。
13時01分、道標(右側)
071 道標
街道は、この先の分岐を左の下り坂を進み、
073 分岐(左の下り)
さらに下り坂の途中の分岐を左側(ほぼ真っ直ぐ)を進と、合流地点(街道の左)に常夜燈と道標がありました。
074 分岐(左方向)
13時06分、常夜燈
075 常夜燈
  ※道標(大正紀念道)=常夜燈の右側
076 道標(大正紀念道)
街道は、常夜燈と道標の合流点から約120m歩いた右側のカーブミラーのところを左折(カフェ&レストラン オスカーの手前)して進みます。
078 分岐(左折)
左折すると県道565号と関西本線に架かる陸橋が架かっており、陸橋を渡ってすすみます。
080 陸橋の下り
街道は、陸橋を下った処から左前方に一直線の桜並木となり、約450m先の右側(正門の手前)に大岡寺畷の標識が建っていました。
13時17分、大岡寺畷碑(歩いてきた方を向いて)
081 大岡寺畷
大岡寺畷は、東海道で最も長いと云われた畷(真っ直ぐに作られた道)で、かつては左右に松並木が続き、芭蕉一門の句集に「から風の大岡寺縄手ふき通し」と詠まれました。現在は桜が植えられ、春には鈴鹿川と調和した美しい風景が広がっています。
真っ直ぐに作られた大岡寺畷を歩いている途中、街道沿いの民家の女性に、
E=桜が咲いたら綺麗でしょうね
女性=ぜひ、桜を見にきて下さい
と云われ、桜が咲く頃に、桜に来たてみたいと思う桜並木でした。
大岡寺畷が終わる手前の名阪国道の高架下に、安藤広重の浮世絵が両側の壁に7枚(左側=4枚、右側=3枚)埋め込まれていました。
13時21分、広重浮世絵(左側)
084 壁画・左(名阪道高架下)
13時22分、広重浮世絵(右側)
087 壁画・右(名阪道高架下)
大岡寺畷は、高架下を流れる鈴鹿川の大岡寺畷橋の先まで続いていました。
大岡寺畷の左側を流れる鈴鹿川の土手は整地工事が行われており、畷からそれらを眺めながら歩いて行くと鈴鹿川河口からの距離標が建っていました。
13時30分、鈴鹿川距離標(歩いてきた方を向いて)
090 鈴鹿川河口からの距離標示
鈴鹿川沿いをそのまま歩き関西本線の踏切を渡った先で国道1号「小野川橋東詰」交差点で合流しました。
交差点は右側に設置された歩道橋で渡るのが原則ですが、歩道橋の上り・下りが億劫で、車と一緒に車道を横切って反対側に渡りました。
街道は、横切った処を左折し、小野川橋を渡り、国道1号を約170m歩き右側の関レミコン(生コン工場)の前を国道から分岐して左方向に進みました。
13時39分、分岐(左方向)
091 分岐(右方向)
分岐して約100m先の左側に小萬のもたれ松跡碑と小萬の碑が建っていました。
13時41分、小萬のもたれ松跡碑(左側)
092 小萬のもたれ松
小萬のもたれ松は、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになったそうです。
13時43分、小萬の碑(もたれ松碑の後ろ)=左側
095 小萬の碑
小萬は、江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して3年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができたそうです。
小萬のもたれ松碑の直ぐ先に、門柱のような石柱が両側に建っていて、関宿の入口の雰囲気を出していました。
  ※関宿の入口(石柱)
097 関宿の入口
石柱から約450m先の十字路の左側の手前角に、鳥居、標板、一段高いところに常夜燈が建っていました。
13時49分、伊勢神宮一の鳥居(左側)
098 伊勢神宮一の鳥居
伊勢神宮一の鳥居は、関西方面から東海道を利用し伊勢神宮の参拝に訪れた人達が関宿から伊勢別街道で伊勢を目指していたため、東追分に伊勢神宮の遥拝用の鳥居が設けられました。当初、鳥居は寄進により建て替えられていましたが、明治2年以降は伊勢神宮の式年遷宮(20年毎)の際に内宮宇治橋南詰の鳥居を移したものです。
13時50分、東の追分碑
100 関宿東追分跡
東の追分は、関宿の東の入口にあたり、東海道と伊勢別街道が分岐していました。
13時50分、関の常夜燈
101 関常夜燈
常夜燈は、おかげ参りや参勤交代で人々が行き交う関宿の道に灯していた常夜燈で、当時のまま残されています。
資料では追分説明板の奥に一里塚碑があると記されていたので、常夜燈の後ろに回り込んで一段高いところに上り草をかき分けて進んだ先に、日本橋から102番目の一里塚跡があり、石柱が建っていました。
13時51分、102関一里塚跡碑
102 102関一里塚
一の鳥居を過ぎると、関宿の街並みが始まりました。
104 関宿の町並み
14時00分、長谷屋跡(左側)
105 長谷屋跡
いっぷく亭木崎(左側)の斜め右側に油久・岩田油店本店
107 油久 岩田屋
この辺りから心配していた雨がポツリ、ポツリと落ちてきたので傘を差したり、閉じたりしながら旅を続けると、岩田油店の先の関神社に行く道の手前角に御馳走場跡がありました。
14時08分、御馳走場跡(右側)
109 御馳走場跡
《関宿の街並み》
14時10分、百五銀行関支店=左側

111 百五銀行
  ※山石(食事処)=右側(百五銀行の斜め左)
113食事処・山石
  ※街並みスケッチ隊(歩いてきた方に振り返って)
114 関宿町並み(絵画会の人達)
  ※桶屋(作業場)=左側
115 桶屋・仕事場
  ※関まちなみ資料館=左側
116 関まちなみ資料館
関まちなみ資料館の斜め前に問屋場跡がありました。
14時16分、問屋場跡=右側
118 問屋場跡
  ※百六里亭(眺関亭)=左側
120 百六里亭
戸を潜ると階段があり、2階に上がると屋上のようになっており、3人の男性が街並みスケッチをしていました。
私とYumiさんが写真を撮ろうとしていると、その中の方が「撮ってあげましょう」と云って、シャッターを押して下さいました。
  ※百六里亭(眺関亭)の屋上
124 関宿町並み眺望
14時23分、伊藤本陣跡(松井電気店前)=左側
126 伊藤本陣跡
  ※旅人宿・石垣屋=右側(伊藤本陣の斜め前)
129 旅人宿・石垣屋
Yumiさんと写真を撮り合っていると、女性が近づいてきて「シャッター押しましょう。その後アンケートに協力下さい」と云われ、断るわけにもいかずバーター取引が成立しました。
アンケートは、三重県が行っている「旅のアンケート」でしたが、東海道歩き旅には該当しない質問が多く、アルバイトの女性もどのように書いたらよいか考えながらだったので、「このへんでいいでしょう」とその場を後にしました。
東海道の保存に力を入れている関宿ですが、県全体となると街道ウォーカは考えに入っていないようです。
  ※旅籠玉屋歴史資料館=右側(石垣屋の隣り)
131 玉屋歴史資料館
旅籠とは、江戸時代、公用以外の武士や一般庶民が利用した旅の宿で、玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの関宿を代表する大旅籠の一つでした。現在は江戸時代の貴重な旅籠建築として修復され、亀山市文化財に指定されています。
内部には当時使われていた道具や庶民の旅に関係する歴史資料、歌川広重の浮世絵などが展示され、日本最初の旅籠資料館として歴史の町並みとともに訪れる人々を江戸時代の旅の世界へ案内してくれます。
しかし、見学するには入場料が必要な他に、靴を脱がなければいけないため、今度来た時には見学しようと割愛しました。
  ※銘菓「関の戸」本舗(深川屋)=左側(玉屋の斜め前)
134 関の戸本舗
関の戸は、おやつに食べてみたい思っていたので、立ち寄って購入(6個入り・500円)しました。
この時、関の戸本舗でパンも販売していると思っていたのですが、それは期間限定のもので売っていませんでした。
何故パンを買うかと云うと、明日の鈴鹿峠越えの坂下宿には昼食を売っているところがないため、軽量で運搬しやすいパンを用意しようとしたからです。
店の人に聞くと、この先に売っているところがあると教えて頂き、店を後にしました。
店を出て先に歩きながら左側を見ると、歴史を感じさせるお店があったので、記録に残しました。
  ※茶屋かねき=左側(関の戸本舗の隣り)
138 茶屋(かねき)
14時36分、高札場跡=右側(茶屋かねきの向かい側)
140 高札場跡
高札場跡から数軒先の右側に、森川菓子店があり立ち寄りました。
店内は昔を思い出させる品飾りだったのですが、賞味期限切れのパン(売っていた半分のパン)が平然と売られていたのには驚くとともに、食品管理はしっかりとしてほしいと思いました。
賞味期限を確認し、期限内のものを購入して店を後にしました。
  ※森川菓子店(右側)
142 森川菓子店
  ※ナガオ薬局看板=右側(森川菓子店の並び)
143 ナガヲ薬局・看板
ナガオ薬局の斜め前に、「志ら玉」で有名な前田製菓店があり立ち寄り、個数売りを4個(@85)買いました。
  ※前田製菓店=左側
145 前田屋製菓(志ら玉)
志ら玉は、江戸時代から旅人に愛された可愛い団子餅で、明日の昼に食べる予定なので楽しみです。
前田製菓店から4~5軒先の左側に案内人番所の「いっぷく亭」があり、トイレ休憩を取りました。
14時43分~14時51分、いっぷく亭(休憩)
147 いっぷく亭
トイレの後、舎内のベンチに座り、先ほど購入した「関の戸」を食べたり、水分補給をして一服休憩しました。
雨は降っているのですが、気にならない程度なので私は傘を差さず、Yumiさんは傘を差して歩き始めました。
いっぷく亭の左隣りの家の先に、道標が建っていました。
14時55分、道標(停車場道)=左側
151 停車場跡
道標の直ぐ横に地蔵院のお堂が建っており、お堂の脇に常夜燈が建っていました。
14時57分、地蔵院=左側
152 地蔵院
地蔵院の真向いに、会津屋があり、元は山田屋で、小萬が育ったところです。
  ※会津屋=右側
154 会津屋
会津屋脇の道は、今日宿泊する「関ロッジ」への近道ですが、チェックインは16時からで、その前に到着した時はロビーで待たされると聞いていたため、右折しないで直進しました。
  
※関宿の街並み
156 関宿の町並み(火縄屋が多かった地区)
15時04分、田中屋(連子格子の家)=左側
158 田中屋
立派な佇まいだったので、中を覗きたかったのですが、表札が掲げられて戸が閉まっていたので、記録だけ残し通り過ぎました。
関宿も終わりに近づき、宿を歩いていて気が付いたものを写真に納めてきました(掲載は順不同)。
  ※漆喰彫刻
161 漆喰彫刻
  ※細工瓦
162 細工瓦
163 細工瓦
  ※欄間の彫刻
164 欄間彫刻
166 細工瓦(龍)細工瓦(龍)
165 関宿の郵便ポスト⇔関宿のポスト
右側の桜井家を過ぎ、約300m先の右側に道標が建っていました。
15時16分、道標(観音山公園道)=右側
167 道標(公園道)
道標から約200m先の左側に、西の追分跡がありました。
15時20分、西の追分跡=左側
169 西の追分跡
追分跡の直ぐ先の左側に新所町交差点があり、交差点から約200m歩いた観音山公園入口の案内板が建っている処を到着地とし、Yumiさんに到着の看板を掲げてもらい到着式を行いました。
15時25分、関ロッジ入口・新所町信号先(到着地)
171 観音山公園入口(到着地)
到着式が終わって宿泊する関ロッジに向かう頃から雨が少し強く降ってきたため、私も傘を差しました。
【帰路】
関宿の街並みは、少し雨は降っていましたが、ひと通り見て歩くことができましたが、天候が気になり急ぎ足での散策となり後で地図に書き込んである史跡を確認すると、幾つか見落としているところがあ、り改めてまた来ようと思いました。
到着地の右側にあるテニスコートで数人の人がプレーしていたことから、雨量は大したことはなかったのですが、到着地から関ロッジに向かって歩いている途中から降り方が強くなり、私も傘を差して標高の高い場所にある関ロッジ目指して、約600mの上り坂を歩きました。

《ホテル》
今日の宿泊は、国民宿舎の関ロッジです。
東海道の街道ウォーカーに人気のある施設で、半年前にYumiさんのトイレを考え、室内にトイレのある特別室を予約しました(その後、日程変更で宿泊日を変更)。
健常者の二人でしたら予約した特別室でなくても良かったのですが、致し方ありません。
15時40分、関ロッジ着
チェックインは16時からと聞いていたのですが、16時前ですがOKとなりチェックインしました。
食事の時間は夕食は18時から、朝食は7時からと云われ、部屋に入りました。
部屋着に着替えた後、ザックから荷物を取り出し、着替え、服用薬・目薬の準備、機器の充電などを行い、部屋の風呂で入浴し、夕食を待ちました。
18時10分~19時00分、夕食
179 関ロッジ・夕食②
夕食は決して豪華ではありませんが、とても良い味で残すことなく全て食べ切りました。
また、Yumiさんと生ビールで乾杯しましたが、Yumiさんは食べる方が忙しくて、私が2杯目のジョッキーとYumiさんのジョッキーの生ビールを飲んでしまいました。
  夕食メニュー(この他に、ご飯とみそ汁があり)
180 関ロッジ・夕食③
食卓に着くと、東海道五十三次宿名と浮世絵が描かれたランチョンマット(和紙)が敷かれており、館員の方に話して亀山宿~大津宿のランチョンマットを頂きました。
  ※亀山宿
182 関ロッジ・東海道53次下敷き(亀山)
夕食後、朝が早かったので、20時前に就寝前の目薬の点眼と血圧測定を行い、目覚ましを5時30分にセットしてベッドに入りました。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/

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