旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

2015年10月

【天候】 曇り
【宿場】 (04)神守宿・・・(05)佐屋宿
【行程】 歩行距離=9.80㎞ 総距離=24.90㎞
下田橋西交差点・・・(3.73㎞)・・・日光交差点・・・(3.07㎞)・・・日比野駅入口・・・(3.00㎞)・・・佐屋街道基点
【ルート図】

宿場(黒囲みが第2回旅の宿場)
第2回宿場
佐屋街道全体ルート(②が今回の旅区間)
全体ルート
第2回の旅ルート
第2回ルート
【佐屋街道の旅】
《支度》
今日はバスで出発地まで移動するため、Jさんが朝のラジオ体操を終えてから来れる6時45分に食事会場で待合せすることにしました。
私は、6時45分より少し前に会場に行きバイキング形式の朝食を食べ始めるとJさんが来られ、今日の行程などの打合せをしながら朝食を食べ、7時過ぎにホテルを出発しました。
《移動》
07時05分、ホテル発
名古屋駅太閤口から駅舎内に入り、旅に必要のない荷物をロッカーに預けて身軽にして歩くことにし、ロッカールームの大型ロッカーに二人の荷物を一緒に預け旅に向かいました。
JR名古屋駅の駅舎を出て少し離れた名鉄バスセンターに行きましたが、敷地の関係なのかバス停はビルの3階にあり、エスカレータに乗って乗車する3番バス停に行きました。
07時16分、名鉄バスセンター発
08時02分、七宝病院前バス停
001 下車バス停
【=旅=】
定刻にバスセンターを出発し、終点の2つ手前の七宝病院前で下車し、バス停から約100m戻ったところにある出発地(下田橋西交差点)に立ちました。
08時06分、下田橋西交差点(出発地)
002 下田橋西交差点(出発地)
恒例の出発式をJさんに協力して頂いて執り行い、2日目の旅に出発しました。
下田橋西交差点を出発して約900m歩くとY字路となり、右側の名古屋トヨペット方向に進み、約100m先の西尾張中央道の神守交差点を真っ直ぐ渡り、さらに約70m歩くと右側に神守一里塚跡があり標柱が建っていました。
08時21分、神守一里塚跡(右側)
004 神守一里塚跡
※神守一里塚跡
005 神守一里塚碑
一里塚跡から約280m歩くと神守町下町交差点があり、交差点を右折しました。
※分岐=神守町下町交差点(右折)
007 分岐(右)
交差点から約110m歩くと、左側に養源寺があり立ち寄りました。
08時28分、養源寺・山門(左側)
008 養源寺・山門
寺院に立ち寄るのは、史跡見学もありますが、トイレタイムの時もあり、今回は両方を兼ねて立ち寄りました。
寺院の山門と本堂の間に建っている六角堂は、お堂の正面に彫られた彫刻が金色に塗られていました。
※養源寺・六角堂
009 金色の六角堂
寺院を出て約140m歩くと左側に神守診療所があり、道路を挟んだ先隣りに連子格子の歴史を感じる家が残っていました。
08時36分、連子格子の家(三輪家)=左側
010 連子格子の旧家(三輪家)
連子格子の三輪家から約90m歩くとT字路となり、街道は左折します。
T字路の正面に建っている民家の左側(左隣りの民家との境付近)に、「神守の宿場跡」の標柱(黄色の囲み)が建っていました。
※分岐(神守T字路)=左折
011 分岐(左)
08時38分、神守の宿場跡(右側)
013 神守宿碑
私達はT字路を右折して寺院と神社が隣り合わせにある珍しい憶感神社と吉祥寺を見に行きました。
T字路を右折して約20m歩くと、左側に文政3年(1820)建立の六角堂がありました。
08時39分、六角堂(左側)
015 六角堂
六角堂を左に見ながら歩を進めると、右側に憶感(おいかん)神社、左側に吉祥寺があり記録に残しましたが、両方の建物を全部入れることが出来ませんでした。
※左=吉祥寺・本堂、右=憶感神社・鳥居と神楽殿
018 憶感神社と吉祥寺
憶感神社と吉祥寺を見て街道のT字路に戻り、先に進みました。
T字路から約180m歩くと日本武尊の妾腹の子を祀った神社と云われている穂歳(ほうとし)神社がありました。
08時45分、穂歳神社(右側)
019 穂歳神社
神社の先から街道は蛇行するように歩くと、県道68号と合流する越津町交差点となり、真っ直ぐ進みます。
08時59分、越津町交差点(合流を直進)
020 越津町交差点(直進)
合流した交差点から約350m歩くと、日光川に架かる日光橋があり、橋を渡ると左側に橋の史跡が残されていました。
09時06分、日光橋
021 日光橋
※日光橋から下流方向(名古屋港)の眺め
022 日光橋からの眺め
日光川を眺めながら橋を渡ると、左側の土手に橋にまつわる史跡が残されていました。
09時08分、旧日光橋・親柱と基礎杭(左側)
023 日光橋旧親柱・基礎杭
※秋葉常夜燈(左側)
025 日光橋常夜燈
※日光橋・石碑①
026 日光橋石碑
※日光橋・石碑②
027 日光橋石碑
日光橋を渡って左側の土手に展示されている橋の史跡を見て、目を右に向けると道の下に平成11年に移築された秋葉神社があり、その奥に白地に赤模様の奇抜な三角の建物のパチンコ・スロットルのグレイス愛西店がありました。
09時10分、秋葉神社・パチンコ店
028 秋葉神社とパチンコ店
パチンコ店の駐車場の一角に神社があるので、パチンコに行く人が祈願に立ち寄るのかどうかは分かりませんが、面白い取り合わせだなと思いながら脇を通り過ぎました。
秋葉神社の鳥居付近から約450m歩くと、右側にトヨタカローラ販売店があり、その先隣りに史跡の石碑が建っていました。
09時17分、諸鍬神社石標・獅子舞開祖の碑(右側)
029 諸鍬神社石標・獅子舞開祖の碑
石碑から約750m歩くと(埋田町交差点までが650m)左側に津島市役所前バス停があり、バス停に沿って左折します。
※分岐(津島市役所前バス停)=左折
030 分岐(左)
バス停に沿って左折し、約40m先の最初の右に入る道を右折します。
031 分岐(右)
右折して約70m歩くと、右側に神社(名前は確認できず)があり、境内に明治天皇小休記念碑が建っていました。
09時31分、神社(明治天皇小休記念碑)=右側
032 神社
※明治天皇小休記念碑(参道脇)
033 明治天皇御小休記念碑
※神社・本殿社
034 神社・本殿
神社の入口を過ぎると真ん中で舗装路と砂利道に区分けされた道となり、約50m先の舗装路と砂利道の間に道標、その約20m先に埋田追分碑と秋葉常夜燈、さらに約10m先に昭和34年の伊勢湾台風で倒壊した津島神宮一の鳥居跡(台石のみ)がありました。
09時32分、道標(左側)
035 道標
09時33分、秋葉常夜燈(両側)
036 秋葉常夜燈
09時33分、津島街道埋田追分碑(右側)
037 埋田追分跡
09時34分、津島神社一の鳥居跡(台石のみ)=両側
039 津島神社一の鳥居跡(台石のみ)
鳥居跡から約160m歩くと十字路となり、ガードレールに沿って左折します。
※分岐(東柳原十字路)=左折
040 分岐(左)
分岐(東柳原十字路)を左折して、次の分岐まで約750m真っ直ぐに歩きます。
 ・約140m=橘町3交差点
 ・約400m=(交差点右側)ローソン
 ・約650m=(街道左側)コメダ珈琲
 ・約700m=(街道右側)ヘアサロン・オリビア
 ・約750m=(街道左側)カーテン広場さんあい
の約20m先の写真の処を右折します。
※分岐(カーテン広場さんあいの先)=右折
041 分岐(右)
分岐を右折して約70m進むと「ト字路」となり、神社に沿って左折します。
※分岐(愛宕神社)=左折
042 分岐(左)
ト字路を左折して愛宕神社に沿って約30m歩くと、今度はY字路の分岐となり、街道は右に進みます。
※分岐(愛宕神社入口)=右折
043 分岐(右)
09時55分~10時05分、休憩=愛宕神社(左側)
044 愛宕神社
休憩してから1時間30分近く歩いたので、参拝を含めて休憩することになりました。
私はお賽銭をご奉納してYumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願し、持参しているスポーツ羊羹とスポーツドリンクで英気を養いました。
一方、境内では父子が楽しそうに遊んでいました。
東海道を歩いた時に多くの神社を参拝しましたが、ほとんどの神社が本殿の前に神楽殿が建っていることはなかったのですが、佐屋街道沿いにある神社は本殿の前に神楽殿が建っている処が多く地域の違いを感じます。
愛宕神社で約10分休憩し、次に向けて出発しました。
愛宕神社を出発し住宅地を歩いていると、(神社から約300m先)左側にブロックを積み上げて盛土した箱庭がありました。
10時10分、箱庭(左側)
045 庭の片隅の石碑群
街道はこの先で県道114号を横切り(県道114号西愛宕町交差点の手前)直進します。
※分岐(県道114号西愛宕町交差点の手前)=直進
046 分岐(直進)
街道はこの先で分かりにくい道を通ります。
県道114号を横切ったところから約110m進むと、下写真の黄色細線のように、右、左とくにゃくにゃ曲り、県道105号を斜めに横切って進みます。
県道105号を右折する場所は、「マルエスカバンP」看板を左側に見えたら正解です。
※分岐(県道105号の横切り)
047 分岐(回り込んで左)
※分岐(県道105号の右折)
048 分岐(直進)
県道105号を右折して約70m歩くと十字路を過ぎたにY字路があり、右側を進みます。
※分岐(Y字路)=右折
049 分岐(右)
分岐Y字路を右に進み、約100m歩くと右側からの道と合流し、道なりにそのまま真っ直ぐに進みます。
合流して約140m歩くと、名鉄尾西線日比野駅まで約200mの看板が掲げられた右に入る道がありますが、街道はそのまま真っ直ぐ進みます。
10時20分、名鉄日比野駅入口
050 分岐(直進)
日比野駅入口から約220m歩くと右側に佐屋北保育園があり、可愛いお子達がお出掛けするところでした。
可愛いお子達の姿を見ながら歩いていると、反対方向から車が走って来ました。
するとお子達は保母さんの「車よ」という掛け声に、一斉に後ろ向きになってフェンスに捕まりました。
※車が来た時のお子達の姿
051 車が来たらフェンスに向かって立つ
平素から保母さんに教えられているのでしょう。
掛け声に一斉に反応して道路に背を向けた時は驚きましたが、生活の知恵として生涯忘れることはないでしょう。
私とJさんはお子達を追い越しT字路を右折しました。
※分岐(日置T字路)=右折
052 分岐(右)
分岐(日置T字路)を右折して約400m歩くと名鉄尾西線の踏切があり、歩いていると名鉄線が走ってきたので、急いでシャッターを押して記録に残しました。
※名鉄尾西線・踏切
053 名鉄線踏切
名鉄尾西線の踏切を渡って約500m歩き、内佐屋交差点を左折します。
10時37分、内佐屋交差点(左折)
054 分岐(左)
分岐(内佐屋交差点)を左折して約100m進むと、左側に佐屋海道址碑が建っていました。
10時39分、佐屋海道址碑(左側)
055 佐屋街道碑
碑は佐屋方面に向いているので、神守方面から来た私達は石碑の裏側を見て歩くことになります。
石碑から約110m歩くと境内の墓地に一対の切支丹灯篭が残されているという信力寺があり、Jさんに「立ち寄りますか?」と聞くと、「行こう」と返事があり見に行くことになりました。
※分岐(信力寺入口)=右折
056 分岐(右)
分岐(信力寺入口)から約80m街道から外れると、右側に寺院があり山門を潜って境内に入りました。
10時42分、信力寺(右側)
057 信力寺・山門
寺院は歴史を感じる山門とは正反対に、本堂はコンクリート造りだったので、バランスの悪さに言葉が出ませんでした。
※信力寺・本堂
058 信力寺・本堂
※一対の切支丹灯篭(境内の墓地)
059 切支丹燈籠
※「親教和上碑」と記された石碑
060 石碑
信力寺を出て街道に戻り、約750m歩くと右側に天神社がありましたが、街道から頭を下げただけで、先に進みました。
10時58分、天神社(右側)
061 天神社
天神社から約40m歩くと須依交差点となり、交差点を右折しました。
11時00分、須依交差点(右折)
062 分岐(右)
須依交差点を右折すると到着地まで約450mです。
昔の佇まいが少し残る佐屋の町並みを記録に残しながら、ゴールを目指しました。
※佐屋宿の町並み
063 佐屋宿・現在の家並み
須依交差点から約170m歩くと、芭蕉が水鶏(くいな)を歌った場所に建てられた「くいな塚」に行く道標が曲がり角に建てられていました。
11時01分、くいな塚道標(左側)
064 道標(くいな塚)
くいな塚道標から約110m歩くと武家屋敷を感じる黒塀の家(伊藤家)があり、記録に残して先に進みました。
11時03分、黒塀の家(伊藤家)=左側
065 黒塀の家(伊藤家)
※黒塀は周囲を取り囲んでいるかと思ったのですが、道路に面したところだけで、塀を過ぎて左を見ると柵で仕切られているだけで、庭と母屋がまる見えでした。
少し興ざめした黒塀でした。
黒塀の家から約130m歩くと桑名に向かう道の左角に、船場道の道標ときこくの生け垣がありました。
11時07分、船場道の道標・きこくの生け垣(左側)
067 道標と生垣の眺め
※佐屋舟場の道標
068 道標(左佐屋船場道)
※きこくの生け垣(道標の先隣り)
071 きこくの生垣
道標と生垣の真向い(反対側)に、佐屋代官所跡があり石碑と解説銘板が建っていました。
11時10分、佐屋代官所跡(右側)
072 佐屋代官所址
代官所跡の左斜め前のゲートボール場のある公園の角に、三里の渡し跡碑が建っていました。
11時11分、佐屋三里の渡し跡(到着地)
074 佐屋三里の渡し跡
昨日と今日の2日をかけてJさんと二人で歩いた佐屋街道の旅は、三里の渡し跡に到着して完了しました。

【帰路】
三里の渡し跡を記録に残した後、芭蕉が元禄7年5月に江戸から故郷伊賀に帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まったおりに水鶏(くいな)の鳴き声をきいたことを詠んだ処に建てられた「くいな(水鶏)塚」に立ち寄って佐屋駅に行くことにしました。
順路は、代官所跡前の十字路に戻り、
 ①.十字路を右折し、約130m須依交差点方向に戻り、右折
 ②.約110m歩くとT字路となり、左折
 ③.約140m先の十字路を右折
 ④.約20m歩いた右側
入口に「くいな塚」と彫られた石柱があり、解説標板や芭蕉句碑が建っていました。
※水鶏(くいな)塚=右側
075 くいな塚
076 くいな塚・解説
077 芭蕉句碑
《昼食》
芭蕉句碑のくいな塚から名鉄尾西線の佐屋駅に向かいながら昼食を食べる店を探しましたが、食事ができる店がなく佐屋駅に着いてしまいました。
駅前に停まっていたタクシーに食事出来る店を聞くと、駅前の道路を渡って約50m右方向にある「喫茶あすなろ」だけと教えて頂き、食べに向かいました。
※昼食=喫茶・あすなろ
079 喫茶あすなろ(昼食)
店に入り乾いた咽喉を潤すため「ビールありますか?」と聞くと、「アルコール類は置いていません」と云われ、昼食にハンバーグ定食を注文しました。
注文した定食は美味しいと云うほどのものではなく、また店の雰囲気も暗く長居するところではないと感じ、空いたお腹を満たしただけで店を出ました。
12時11分、佐屋駅発
080 佐屋駅
改札口で乗り換え方法を確認してホームに行くと、直ぐに電車入線の放送があり、電車が来ました。
何処行きの電車か分からずに乗ったので、車内で
 ・電車の行先
 ・名古屋駅に早く行く方法
を聞くと、電車は各停のため、須ケ口で急行に乗り換えると早く行けることを教えて頂き、Jさんに話し須ケ口で乗り換えることにしました。
12時42分、名鉄名古屋駅着
名鉄名古屋駅で下車し、私はJR名古屋駅のロッカーに入れてある荷物を取りに行き、Jさんは帰りの新幹線の切符を買うため、待合せ場所を決め別々に動くことにしました。
Jさんと合流し、少し早かったのですが、新幹線ホームで缶ビールとおつまみを買って自由席乗車口に並びました。
13時27分、名古屋駅発
乗車する「ひかり520号」は名古屋駅を出ると、小田原駅、新横浜駅、品川駅に停まるだけで東京駅に着きます。
入線してきた新幹線は比較的空いており、Jさんと二人シートに座り、直ぐに缶ビールで乾杯し、旅の疲れを癒しました。
新幹線は順調に走り、定刻通りに東京駅に着きましたが、富士山は帰りも眺めることが出来ませんでした。
081 雲の中の富士山(新富士付近)
15時10分、東京駅着

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【佐屋街道】
東海道の脇往還である佐屋街道は、寛永3(1626)年と11(1634)年に第三代将軍の徳川家光が通行したことを契機に整備が進められ、寛文6(1666)年に幕府の道中奉行が管理する官道に指定されました。
佐屋街道は、熱田(宮)宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていました。
商用や社寺参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや第十四代将軍の徳川家茂、明治天皇もこの道を通行している。
長年に渡り日本の幹線道路網の一部を担ってきたこの街道も、明治5(1872)年の熱田と前ケ須新田(現在の弥富町)を結ぶ新道の開通によりその役目を終え、現在は地域の幹線道路として親しまれている。
【天候】 薄曇り
【宿場】(01)宮宿 ・・・ (02)岩塚宿・・・ (03)万場宿 ・・・ (04)神守宿
 
【行程】 歩行距離=15.10㎞ 総距離=15.10㎞
宮宿・三叉道標分岐 ・・・(3.40㎞)・・・名古屋高速尾頭橋交差点・・・(3.00㎞)・・・烏森駅西交差点・・・(3.18㎞)・・・国王神社前・・・(3.35㎞)・・・西條交差点・・・(2.17㎞)・・・下田橋西交差点

【ルート図】
宿場 (黒囲みが旅の宿場)
第1回宿場
佐屋街道全体ルート(①が今回の旅区間)
全体ルート
第1回の旅ルート
第1回ルート
【佐屋街道の旅】
《序章》
Yumiさんと旧東海道を歩いた時は、現代の文明の力を借りて名古屋から桑名までJRで移動したのですが、何とも味気なさを感じていました。
そして、旧東海道夫婦二人旅を終え旧甲州道中の旅をしている時、私の後から旧東海道を旅されたMさんに七里の渡しイベントのことを聞き、今回七里の渡し旅に参加することになり、それなら宮宿まで来たのだから陸路も歩こうと考え計画しました。
また、歩くのに当たり旧東海道を旅しているJさんが一緒に歩きたいというので、お誘いしました。
※Jさんは、11月8日に京都・三条大橋に到着し、東海道、甲州道中、日光街道、奥州街道を踏破され、残る中仙道も中津川付近まで来ているので、近いうちに5街道を踏破される予定です。
《準備》
モーニングコールが鳴る前からトイレなどで目を覚まし、モーニングコールの電話の呼び鈴でベットを出て旅の身支度を整えました。
今日の宿泊も同じ部屋のため、着替えの衣服、洗面用具など今日の旅に必要のないものはザックから取り出し、ザックの重量を減らし軽くしました。
今日の待合せは7時に朝食会場となっているので、6時55分頃までテレビを見ながら過ごし、旅に出掛ける支度をして7時少し前に朝食会場に行きました。
同行のJさんは来られているかなと思いながら会場を見渡すと、既に来られて朝食を食べ始めていたので、Jさんの隣りの席にザックを置きバイキング形式の朝食を食べました。
Jさんが早くに食べていて下さったので、予定していた時間より早くホテルを出発し、旅の起点となる伝馬町・三叉道標分岐に向かいました。
《移動》
07時26分、東山線名古屋駅発
〔ハプニング〕
JR名古屋駅の駅舎を出て地下鉄東山線・名古屋駅に行き、栄駅で名城線に乗り換えたところまでは良かったのですが、ここで伝馬町駅を通らない名古屋港行きに乗車してしまい、気が付いたら4駅先の港区役所前駅でした。
※名古屋港行きが伝馬町駅を通らないことは、この時点では分かっていませんでした。
Jさんに違う方向に来ていることを話し、直ぐに分岐する金山駅まで戻ることになりました。
金山駅に戻り、環状線に乗り換え、伝馬町駅で下車し、出発地である三叉道標分岐に立ちました。
08時15分、地下鉄名城線伝馬町駅着
【=旅=】
08時22分、宮宿・三叉道標分岐(出発地)発
007 三叉の道標
Yumiさんと旧東海道を旅した時は、三叉道標は道路反対側の真向い(東南端)に建っていましたが、平成27年に東海道と佐屋街道の分岐角(デイサービス介護施設の前)に移設されました。
《三叉の道標=追分》
道標は、東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点に当たる重要な三叉路で、寛政2年(1790年)に設置されました。
 東:北=さやつしま(佐屋津島)道  
   同=みのち(美濃路)道
 西:東=江戸かいとう(街道)
   北=なこやきそ道(名古屋木曽)
 南:寛政二庚戌年
 北:南=京いせ七里の渡し
   是より北あつた御本社貮丁
※分岐=左折(国道1号T字路) 
009 分岐(左)
三叉道標から江戸時代は真っ直ぐ歩けたのですが、現在は国道1号が横切っているため、T字路を左折して約50m先の歩道橋を通って道路反対側に渡ります。
010 横断歩道
※歩道橋のある「熱田神宮南交差点」で、ここが国道19号の起点になっています。
歩道橋を降りて最初の左側の路(約70m先)を左折すると、約30m先の右側に林桐葉宅跡がありました。
011 分岐(左)
08時27分、林桐葉宅跡(右側)
012 林桐葉宅跡
跡地には別の建物が建ち、門前に標板が建っていました。
《林桐葉》
林桐葉は熱田の郷士で、貞享元年(1684)冬、「野ざらし紀行」の旅をしていた芭蕉を我が家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど尾張焦風の開拓者となった。芭蕉もよく立ち寄って名吟を残し、熱田三歌仙もここで巻かれている。晩年は元竹と号し、書道に熱中して俳諧から遠ざかった。正徳2年(1712)に没した。
宅跡から約40m歩くと熱田神宮南門入口となり、門前を左折しました。
※分岐=左折(熱田神宮南門前)
015 熱田神宮南門前(左)
〔寄り道〕
熱田神宮南門を入って左側に進むと「上知我麻神社」があります。
014 上知我麻神社・本殿
熱田神宮南門前を左折して約100m歩くと国道19号(伏見通り)に突き当り右折します。
※分岐=右折(国道19号T字路)
016 分岐(右)
国道の反対側(進行左側)に熱田の宮大工だった岡部又右衛門家跡があり、標板が建っていましたが、横断歩道まで戻らなければならず、道路反対側から望遠で写真を撮って記録に残しました。
※岡部又右衛門家跡(左側)
017 岡部又右衛門家跡
国道19号のT字路から約250m歩くと11月1日に開催される全日本大学駅伝のスタート地点になっている熱田神宮西門があり、門前の歩道橋を渡って進行左側に移りました。
08時34分、熱田神宮西門(右側)
018 熱田神宮・西門
歩道橋を渡って進行左側に移り、白鳥小学校を過ぎた先に熊沢医院があり、医院の隣りの道路を渡った角に道標が建っていました。
08時37分、白鳥御陵の道標(左側)
019 白鳥御陵道標
道標から約30m先の誓願寺入口の門前左側に源頼朝出生地の石碑が建っていました。
08時38分、源頼朝出生地跡(左側)
020 源頼朝出生地
※源頼朝出生地・解説
021 解説
誓願寺入口から地下鉄名城線神宮西駅前の旗屋町交差点を渡り、ブリヂストンタイヤ販売店を過ぎた先に熱田区役所前歩道橋があり、その手前の国道19号に面して熱田神宮第二神門跡の石碑が建っていました。
08時44分、熱田神宮第二神門跡(左側)
022 熱田神宮第二神門跡
神門跡から約150m歩くと左側に熱田公園があり、公園の中に古墳時代後期(6世紀前半)の断夫山古墳があるというのですが、同行のJさんに「立ち寄りますか?」と聞くと、「見なくていい」と云うので、公園の外から古墳らしき傾斜のある部分を写真に撮って、公園の脇を素通りしました。
※熱田公園=断夫山古墳
023 断夫山古墳
公園を過ぎるとライオンズマンションがあり、その隣りに青大悲寺の白壁塀がありましたが、外から見ると寺院とはとても思えない感じです。
※青大悲寺の白壁塀(左側)
024 長土塀の家
青大悲寺の隣りが愛知トヨタ熱田(営)で、そこから真っ直ぐ国道19号に沿って約800m(新尾頭交差点の約80m手前)歩くと距離標(2㎞)が建っていました。
09時03分、国道19号2㎞距離標(左側)
025 R19・2㎞距離標
距離標から約40m先のマンション「ロイヤルクレスト金山」の前に熱田神宮第一神門址の石碑が建っていました。
09時04分、熱田神宮第一神門址(左側)
026 熱田神宮第一神門跡
佐屋路は熱田神宮第一神門址から新尾頭交差点を渡り、約260m歩いた先の金山新橋南交差点を左折します。
027 金山新橋南交差点(左)
左折する交差点の角に、文政4年に建立された佐屋街道道標が残されていました。
09時08分、佐屋街道道標(左側)
028 佐屋街道道標
金山新橋南交差点を左折して20mくらい歩くと、路面に佐屋街道と記したレリーフタイルが埋め込まれていました。
しかし、設置されて年数が経ったのか、薄れていて気を付けないと見落としてしまいます。
これ以降も同じようなタイルが埋め込まれていましたが、ほとんどが薄れていて良く見れませんでしたので、そろそろ新しいものに取り換えても良いのではないかと思いました。
※佐屋街道レリーフタイル
030 佐屋街道路面レリーフ
金山新橋南交差点から約260m歩くと堀川に架かる七橋の1つである尾頭橋があり、渡り終る手前に橋の歴史について記されていました。
09時13分、尾頭橋
031 尾頭橋
※尾頭橋と佐屋街道の歴史解説(左側)
032 尾頭橋・解説
※江戸時代の尾頭橋図(左側)
033 尾頭橋・絵
尾頭橋を渡って約200m歩くと名古屋高速4号東海線の高架となっている尾頭橋交差点があり、交差点を真っ直ぐに渡って進みます。
※尾頭橋交差点
034 尾頭橋交差点・手前
※尾頭橋商店街アーケード
035 尾頭橋商店街アーケード
尾頭橋交差点から約300m歩くと八熊交番前交差点となり、交差点を渡った右側に中川まちなか博物館の標板が建っており、佐屋街道と尾頭橋について記されていました。
09時22分、中川まちなか博物館・佐屋街道と尾頭橋パネル(右側)
036 中川まちなか博物館
※黄色囲み=佐屋街道に路面電車が走り、遠くの橋脚は東海道新幹線です。
※下は現在の東海道新幹線で、走ってきたのでシャッターを押しましたが、最後尾が少し撮れました。
038 新幹線ガード
新幹線ガードを潜り、約60m進むと左側に唯然寺があり、参道入口付近に石碑が建っているらしいうので、探すと木立に囲まれた柵の中に一里塚碑が建っていました。
09時28分、津島街道一里塚跡(右側)
039 津島街道一里塚跡
気を付けて歩かないと見過ごしてしまいそうです。
一里塚跡から道路の左側に移り約210m歩くと「五女子」バス停があり、何か云われのある地名かなと思い記録に残しました。
※名鉄バス・五女子バス停
041 五女子バス停
バス停先の五女子交差点を渡り真っ直ぐ進むと八幡本通り2西交差点があり、交差点から約150mあるくと左側の中川児童福祉会館の前に佐屋街道の道標が建っていました。
09時41分、佐屋街道道標(左側)
042 佐屋街道道標
道標から約190m歩くと中川生涯学習センターの隣りの㈱シオヤ前に明治天皇の碑が建っていました。
09時45分、明治天皇御駐蹕之碑(左側)
044 明治天皇御駐蹕之碑
明治天皇碑を過ぎた処が長良橋東交差点で、中川運河に架かる長良橋を渡ります。
中川運河から見える景色を眺めながら橋を渡ると、対岸の親柱に駕篭絵のレリーフ、路面に弥次喜多の絵が埋め込まれていました。
046 長良橋親柱レリーフ045 路面レリーフ
長良橋を渡り約350m歩くと長良町3交差点があり、トイレ休憩をするために交差点を渡ったところを左折して約60m先の萬念寺に立ち寄りました。
09時58分~10時05分、休憩(萬念寺)=左側
047 万念寺
寺名に伝説があるということですが、境内には何も標示がなかったので、トイレと行動食(スポーツ羊羹)、水分補給をして旅立ちました。
048 万念寺
寺院を出て街道の長良町3交差点に戻り、約140m歩くと常磐交番があり、その先の右側に昔の佇まいを残す家並みがありました。
049 昔の佇まいを残す家並み
街道を進むと、左側に名古屋長良郵便局があり、先隣りの駐車場の横に明治天皇の碑が建っていました。
10時14分、明治天皇御駐輦之碑(左側)
050 明治天皇駐蹕之碑
明治天皇碑から約400m歩くとJR関西線、近鉄の烏森駅があり、高架線ガードを潜ります。
052 烏森駅ガード
ガードを潜った先の烏森西交差点を過ぎ、最初の右折道路を入り、最初の十字路を左折して約90m歩いた右側(隣りが柳小学校)に八幡社があり、参拝に立ち寄りました。
10時25分、八幡社(右側)
053 八幡社
鳥居を潜り、境内の参道を歩いて本殿にお賽銭をご奉納し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
本殿の脇に回ると鉄柵に囲まれてお社が2基祀られており、その手前に秋葉常夜燈が建っていました。
※2つのお社と秋葉常夜燈
054 八幡社境内の常夜燈
さて、参拝した後、街道に戻り約250m歩くと名古屋烏森郵便局があり、郵便局を右に見て道なりに左にカーブして進みます。
055 分岐(直進)
郵便局から約170m歩くと(坪井自転車店の先)左側に連子格子の家があり、昔の面影を残す家として記録に残しました。
※連子格子の家(左側)
056 連子格子の家
地下鉄東山線が地下に走る豊国通6交差点を過ぎると、今度は三軒の屋根が連なる家があり、これも歴史的建造物として記録に残しました。
※三軒連なる屋根(豊国通6交差点を過ぎた先の左側)
057 屋根が連なる家並み
約140m先にも同じく三軒の屋根が連なる家が残されていました。
※三軒連なる屋根(東郷たたみ店がある=左側)
058 屋根が連なる家並み
御田中学を過ぎた左側のマンション「ジョワプロテージュ」の真ん前(進行右側)の民家の駐車スペース(進行左側はマンション「」)に、スポーツ仕様のオープンカーが停められていました。
ナンバーを取得しているので、公道を走っているのでしょうが、かなり目立つ車なので、走っていたら注目されることでしょう。
059 オープンスポーツカー
奇抜なオープンカーの家から約230m歩くと岩塚交番が右側にあり、さらに約150m先に岩塚一里塚があったようですが、現在は跡碑も標板も何もありません。
10時52分、岩塚一里塚跡?付近
060 岩塚一里塚付近(表示なし)
一里塚跡付近から歩を進めると、岩塚石橋交差点があり、岩塚宿の入口だったようです。
※岩塚宿入口(現在の町並み)
061 岩塚宿の現在の家並み(宿入口から)
岩塚石橋交差点から約230m歩くと左側に八幡社があり、社殿の屋根が茅葺と調べた資料に記されていたので見に行くと、茅葺屋根から現代の屋根に衣替えになっていました。
10時58分、八幡社・社殿(左側)
062 八幡社(茅葺きでなかった)
さらに八幡社の先隣りの光明寺の境内に、天然記念物のクロマツがあるというので見に行くと、倒れてしまい残っていたのは株の部分だけでした。
11時00分、天然記念物クロマツの株(光明寺=左側)
063 クロマツの名残り株
街道はこの先で庄内川に突き当り、T字路を右折します。
※私達はここを左折して県道106号を歩いたのですが、車の交差がぎりぎりの歩道がない道のため、かなり危険な思いをしながら歩きましたので、T字路は右折することをお奨めします。
11時04分、分岐(庄内川T字路)=右折
064 分岐(右)
右折して約150m歩くと名古屋高速5号万場線の高架となるので、右折して鉄階段を上がり万場線に出ます。
万場線に出たところを左折し、万場大橋東交差点を通り過ぎ、庄内川を渡ります。
※歩いた時は県道106号を歩き万場大橋東交差点を左折しました。
11時09分、万場大橋東交差点
065 万場大橋東交差点
※万場大橋から下流(名古屋港方向)の眺め
066 万場大橋からの眺め
約300mの万場大橋を渡り、親柱に沿って左折します。
11時13分、分岐(万場大橋を左折)
067 万場大橋西交差点
橋のたもとを左折して約120m歩くと、秋葉神社と万場の渡し跡があり、中川まちなか博物館の史跡解説パネルが建てられており、常夜燈が建っていました。
11時15分、秋葉神社(右側)
068 秋葉神社
※中川まちなか博物館・万場の渡し
069 万場の渡し跡
※万場宿跡
070 万場宿碑
※大橋欄干跡
071 大橋欄干跡
※秋葉常夜燈
072 渡しの常夜燈
万場の渡し跡から斜めに下る道を約90m歩くと右に曲がる角の家が現在は民家ですが、旅籠・桔梗屋があったところと案内図に記されていたので、記録に残しました。
11時22分、旅籠・桔梗屋跡(左側)
074 桔梗屋(宿屋)跡付近
桔梗屋跡から約120m歩くと、年代を漂わせる家(左側)があったり、
075 昔の佇まい
さらに約60m先に武家の長屋門を思わせる門構えの家(右側)が残っていました。
076 古い門構えの家
長屋門風の門構えの家から約180m歩くと、右側の国玉神社に沿って右に曲がります。
077 分岐(右)
右折する突き当りの処に光圓寺があり、街道沿いに大きな石灯篭が建っていました。
078 光圓寺
11時31分、光圓寺・山門(左側)
079 光圓寺
山門は織田信長と斉藤道三が会見した富田村聖徳寺の山門を移築したものだそうです。
光圓寺から道なりに約400m歩くと、分岐があり右折します。
080 分岐(右)
右折する分岐から約40mで、名古屋高速5号万場線の万場交差点となり、右角に彩華ラーメン万場店がありましたが、現在は閉店しています。
11時46分、万場交差点
081 万場交差点(直進)
交差点を真っ直ぐに横切ると、左側に「ボンジュール」というスナックがあり、Jさんに「食べていきましょうか」と声を掛け、昼食に立ち寄りました。
11時48分~12時29分、昼食(ボンジュール)=左側
082 ボンジュール(昼食)
昼食を食べ、トイレを済ませ、再び元気を取戻し、午後の旅に出発しました。
出発して約60m歩くと、右側に浅間神社があり、写真だけ撮って先に進みました。
12時30分、浅間神社(右側)
083 浅間神社
※分岐1=浅間神社の先にあるコーヒー・ブルームを右に見て左折
084 分岐(左)
※分岐2=分岐1から約50m歩くと、道は右に曲がって新川に沿って約190m歩きます。
するとY字路となり、左に進みます。
085 分岐(左)
左に曲がると直ぐに新川に架かる砂子橋があり、橋を渡って真っ直ぐに進みます。
12時34分、砂子橋
086 砂子橋
砂子橋を渡り約130m真っ直ぐに進むと、十二所神社の石碑と鳥居・常夜燈が道を跨ぐように建てられていました。
12時38分、十二所神社・鳥居(右側)
087 十二所神社・鳥居
街道は十二所神社の鳥居を過ぎると約60mで右に曲がり、さらに約70m進むと右側に佐屋街道の道標が建っていました。
088 分岐(右)
12時41分、佐屋街道道標(右側)
089 佐屋街道道標
道標から約230m歩くと左角にカフェドサンラークがある十字路があり、街道はここを左折します。
左折する先角が駐車場で、駐車場と民家の境のところにカーブミラーがあり、その後ろに高札場跡の標柱が建っていました。
12時46分、高札場跡(右側)
090 分岐(左)
※高札場跡
091 高札場跡
高札場跡から約270m歩くと、右側に稲荷社があり、参拝しないで一礼して先に進みました。
12時51分、稲荷社(右側)
092 稲荷社
稲荷社から約290m歩くと、高架を名古屋第二環状自動車道、地上を国道302号が走る稲屋交差点があり、真っ直ぐに渡って進みました。
12時55分、稲屋交差点
093 稲屋交差点
交差点を渡り、約40m歩くと左側に「横井庄一記念館」があり立ち寄りましたが、開館が日曜日(10時~16時30分)だけのため、見学することができませんでした。
12時57分、横井庄一記念館(左側)
094 横井庄一記念館
※横井庄一記念館
095 横井庄一記念館
横井庄一記念館から約160m歩くと左側に七社神社があり、神社の斜め前の民家の前に一里塚跡がありました。
13時00分、七社神社(左側)
096 七所社神社
13時02分、千音寺一里塚跡(右側)
097 千音寺一里塚跡
一里塚跡から約210m歩くと、左側のタカケン金属西支店を過ぎたところのアパートに、ハイアースの広告が掲示されており、広告のモデルが水原弘でした。
水原弘は今から37年前に亡くなっており、歴史を感じる広告だったので記録に残しました。
※水原弘の広告
099 水原弘の広告
広告が掲げられた場所から約650m道なりに歩くと、狐海道東交差点となり、交差点を左折しました。
13時14分、分岐=狐海道東交差点を左折
100 分岐(狐海道東交差点)左
分岐から約170mの西絛交差点を通り過ぎ、さらに約110m歩いた右側に八剣社がありました。
13時18分、八剣社(右側)
101 八剣社
八剣社を過ぎると福田川に架かる秋竹橋があり、橋を渡った処に名古屋市からあま市に入る市境標柱が建っていました。
13時20分、あま市市境標柱(左側)
102 あま市市境標識
市境から約120m歩くと秋竹交差点となり、交差点を渡り真っ直ぐに進むと門構えが立派な家があり記録に残しました。
13時23分、鷲尾家の門(右側)
103 鷲尾家(黒門の家)
鷲尾家から約300m歩くと小切戸川に架かる秋竹西橋の手前右側に、明治20年創業の日本料理屋の大沢屋がありました。
13時28分、大澤屋(右側)
104 大沢屋(創業明治20年)
大澤屋から約270m歩くと、あま市七宝庁舎北交差点があり、交差点を渡った右側に七宝焼原産地道標が建っていました。
13時33分、七宝焼原産地道標(右側)
105 七宝焼き原産地
106 解説
道標から安松交差点、新下田橋東交差点を通り過ぎるなど、約1㎞歩くと蟹江川に架かる下田橋に着きました。
13時47分、下田橋
108 下田橋
下田橋の歩道橋を渡り約180m進むと、今日の到着地である下田橋西交差点に到着しました。
13時50分、下田橋西交差点(到着地)着
109 下田橋西交差点(到着地)
【移動】
下田橋西交差点で到着式を行い、名鉄バスで名古屋に戻るため「七宝病院前」バス停に向かいました。
111 七宝病院前バス停
バス停に着いて発車時刻を確認すると、14時02分に来るということでベンチに座ってバスを待つと、3分遅れて到着しました。
14時05分、七宝病院前発
バスには誰も乗っておらず、私とJさんの二人で出発し、途中で乗車、下車を繰り返して終点の名鉄バスセンターに到着しました。
バスセンターは明日の朝乗車するため、乗車する場所を確認し、混雑しているJR名古屋駅の駅舎を通らないで宿泊するホテルに向かいました。
駅舎を通らない道は混雑しておらず、スムーズに歩けるので、明日はこの道で来ようとJさんと話しながら歩きホテルに戻りました。
【夕食】
ホテルに戻り、ザックを置いて乾いた咽喉を潤すため、ホテルのフロントで近くの飲食店を聞くと、ホテルの目の前の店が美味しいというので、覗いてみると立ち飲み店です。
疲れた体を休めながら飲みたいと考えていたので、地下街の店に行き旅の反省会をJさんと行いました。
昨日とは違う店に入り、生ビールで乾杯しつまみを注文しましたが、Jさんは加齢的なこともあり飲食はほとんど進まず私が食べることになりましたので、明日のことを考え早い時間で切り上げてホテルに戻りました。

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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
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