【宿場】 (04)神守宿・・・(05)佐屋宿
【行程】 歩行距離=9.80㎞ 総距離=24.90㎞
下田橋西交差点・・・(3.73㎞)・・・日光交差点・・・(3.07㎞)・・・日比野駅入口・・・(3.00㎞)・・・佐屋街道基点
【ルート図】
宿場(黒囲みが第2回旅の宿場)
佐屋街道全体ルート(②が今回の旅区間)
第2回の旅ルート
【佐屋街道の旅】
《支度》
今日はバスで出発地まで移動するため、Jさんが朝のラジオ体操を終えてから来れる6時45分に食事会場で待合せすることにしました。
私は、6時45分より少し前に会場に行きバイキング形式の朝食を食べ始めるとJさんが来られ、今日の行程などの打合せをしながら朝食を食べ、7時過ぎにホテルを出発しました。
《移動》
07時05分、ホテル発
名古屋駅太閤口から駅舎内に入り、旅に必要のない荷物をロッカーに預けて身軽にして歩くことにし、ロッカールームの大型ロッカーに二人の荷物を一緒に預け旅に向かいました。
JR名古屋駅の駅舎を出て少し離れた名鉄バスセンターに行きましたが、敷地の関係なのかバス停はビルの3階にあり、エスカレータに乗って乗車する3番バス停に行きました。
07時16分、名鉄バスセンター発
08時02分、七宝病院前バス停
【=旅=】
定刻にバスセンターを出発し、終点の2つ手前の七宝病院前で下車し、バス停から約100m戻ったところにある出発地(下田橋西交差点)に立ちました。
08時06分、下田橋西交差点(出発地)
恒例の出発式をJさんに協力して頂いて執り行い、2日目の旅に出発しました。
下田橋西交差点を出発して約900m歩くとY字路となり、右側の名古屋トヨペット方向に進み、約100m先の西尾張中央道の神守交差点を真っ直ぐ渡り、さらに約70m歩くと右側に神守一里塚跡があり標柱が建っていました。
08時21分、神守一里塚跡(右側)
※神守一里塚跡
一里塚跡から約280m歩くと神守町下町交差点があり、交差点を右折しました。
※分岐=神守町下町交差点(右折)
交差点から約110m歩くと、左側に養源寺があり立ち寄りました。
08時28分、養源寺・山門(左側)
寺院に立ち寄るのは、史跡見学もありますが、トイレタイムの時もあり、今回は両方を兼ねて立ち寄りました。
寺院の山門と本堂の間に建っている六角堂は、お堂の正面に彫られた彫刻が金色に塗られていました。
※養源寺・六角堂
寺院を出て約140m歩くと左側に神守診療所があり、道路を挟んだ先隣りに連子格子の歴史を感じる家が残っていました。
08時36分、連子格子の家(三輪家)=左側
連子格子の三輪家から約90m歩くとT字路となり、街道は左折します。
T字路の正面に建っている民家の左側(左隣りの民家との境付近)に、「神守の宿場跡」の標柱(黄色の囲み)が建っていました。
※分岐(神守T字路)=左折
08時38分、神守の宿場跡(右側)
私達はT字路を右折して寺院と神社が隣り合わせにある珍しい憶感神社と吉祥寺を見に行きました。
T字路を右折して約20m歩くと、左側に文政3年(1820)建立の六角堂がありました。
08時39分、六角堂(左側)
六角堂を左に見ながら歩を進めると、右側に憶感(おいかん)神社、左側に吉祥寺があり記録に残しましたが、両方の建物を全部入れることが出来ませんでした。
※左=吉祥寺・本堂、右=憶感神社・鳥居と神楽殿
憶感神社と吉祥寺を見て街道のT字路に戻り、先に進みました。
T字路から約180m歩くと日本武尊の妾腹の子を祀った神社と云われている穂歳(ほうとし)神社がありました。
08時45分、穂歳神社(右側)
神社の先から街道は蛇行するように歩くと、県道68号と合流する越津町交差点となり、真っ直ぐ進みます。
08時59分、越津町交差点(合流を直進)
合流した交差点から約350m歩くと、日光川に架かる日光橋があり、橋を渡ると左側に橋の史跡が残されていました。
09時06分、日光橋
※日光橋から下流方向(名古屋港)の眺め
日光川を眺めながら橋を渡ると、左側の土手に橋にまつわる史跡が残されていました。
09時08分、旧日光橋・親柱と基礎杭(左側)
※秋葉常夜燈(左側)
※日光橋・石碑①
※日光橋・石碑②
日光橋を渡って左側の土手に展示されている橋の史跡を見て、目を右に向けると道の下に平成11年に移築された秋葉神社があり、その奥に白地に赤模様の奇抜な三角の建物のパチンコ・スロットルのグレイス愛西店がありました。
09時10分、秋葉神社・パチンコ店
パチンコ店の駐車場の一角に神社があるので、パチンコに行く人が祈願に立ち寄るのかどうかは分かりませんが、面白い取り合わせだなと思いながら脇を通り過ぎました。
秋葉神社の鳥居付近から約450m歩くと、右側にトヨタカローラ販売店があり、その先隣りに史跡の石碑が建っていました。
09時17分、諸鍬神社石標・獅子舞開祖の碑(右側)
石碑から約750m歩くと(埋田町交差点までが650m)左側に津島市役所前バス停があり、バス停に沿って左折します。
※分岐(津島市役所前バス停)=左折
バス停に沿って左折し、約40m先の最初の右に入る道を右折します。
右折して約70m歩くと、右側に神社(名前は確認できず)があり、境内に明治天皇小休記念碑が建っていました。
09時31分、神社(明治天皇小休記念碑)=右側
※明治天皇小休記念碑(参道脇)
※神社・本殿社
神社の入口を過ぎると真ん中で舗装路と砂利道に区分けされた道となり、約50m先の舗装路と砂利道の間に道標、その約20m先に埋田追分碑と秋葉常夜燈、さらに約10m先に昭和34年の伊勢湾台風で倒壊した津島神宮一の鳥居跡(台石のみ)がありました。
09時32分、道標(左側)
09時33分、秋葉常夜燈(両側)
09時33分、津島街道埋田追分碑(右側)
09時34分、津島神社一の鳥居跡(台石のみ)=両側
鳥居跡から約160m歩くと十字路となり、ガードレールに沿って左折します。
※分岐(東柳原十字路)=左折
分岐(東柳原十字路)を左折して、次の分岐まで約750m真っ直ぐに歩きます。
・約140m=橘町3交差点
・約400m=(交差点右側)ローソン
・約650m=(街道左側)コメダ珈琲
・約700m=(街道右側)ヘアサロン・オリビア
・約750m=(街道左側)カーテン広場さんあい
の約20m先の写真の処を右折します。
※分岐(カーテン広場さんあいの先)=右折
分岐を右折して約70m進むと「ト字路」となり、神社に沿って左折します。
※分岐(愛宕神社)=左折
ト字路を左折して愛宕神社に沿って約30m歩くと、今度はY字路の分岐となり、街道は右に進みます。
※分岐(愛宕神社入口)=右折
09時55分~10時05分、休憩=愛宕神社(左側)
休憩してから1時間30分近く歩いたので、参拝を含めて休憩することになりました。
私はお賽銭をご奉納してYumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願し、持参しているスポーツ羊羹とスポーツドリンクで英気を養いました。
一方、境内では父子が楽しそうに遊んでいました。
東海道を歩いた時に多くの神社を参拝しましたが、ほとんどの神社が本殿の前に神楽殿が建っていることはなかったのですが、佐屋街道沿いにある神社は本殿の前に神楽殿が建っている処が多く地域の違いを感じます。
愛宕神社で約10分休憩し、次に向けて出発しました。
愛宕神社を出発し住宅地を歩いていると、(神社から約300m先)左側にブロックを積み上げて盛土した箱庭がありました。
10時10分、箱庭(左側)
街道はこの先で県道114号を横切り(県道114号西愛宕町交差点の手前)直進します。
※分岐(県道114号西愛宕町交差点の手前)=直進
街道はこの先で分かりにくい道を通ります。
県道114号を横切ったところから約110m進むと、下写真の黄色細線のように、右、左とくにゃくにゃ曲り、県道105号を斜めに横切って進みます。
県道105号を右折する場所は、「マルエスカバンP」看板を左側に見えたら正解です。
※分岐(県道105号の横切り)
※分岐(県道105号の右折)
県道105号を右折して約70m歩くと十字路を過ぎたにY字路があり、右側を進みます。
※分岐(Y字路)=右折
分岐Y字路を右に進み、約100m歩くと右側からの道と合流し、道なりにそのまま真っ直ぐに進みます。
合流して約140m歩くと、名鉄尾西線日比野駅まで約200mの看板が掲げられた右に入る道がありますが、街道はそのまま真っ直ぐ進みます。
10時20分、名鉄日比野駅入口
日比野駅入口から約220m歩くと右側に佐屋北保育園があり、可愛いお子達がお出掛けするところでした。
可愛いお子達の姿を見ながら歩いていると、反対方向から車が走って来ました。
するとお子達は保母さんの「車よ」という掛け声に、一斉に後ろ向きになってフェンスに捕まりました。
※車が来た時のお子達の姿
平素から保母さんに教えられているのでしょう。
掛け声に一斉に反応して道路に背を向けた時は驚きましたが、生活の知恵として生涯忘れることはないでしょう。
私とJさんはお子達を追い越しT字路を右折しました。
※分岐(日置T字路)=右折
分岐(日置T字路)を右折して約400m歩くと名鉄尾西線の踏切があり、歩いていると名鉄線が走ってきたので、急いでシャッターを押して記録に残しました。
※名鉄尾西線・踏切
名鉄尾西線の踏切を渡って約500m歩き、内佐屋交差点を左折します。
10時37分、内佐屋交差点(左折)
分岐(内佐屋交差点)を左折して約100m進むと、左側に佐屋海道址碑が建っていました。
10時39分、佐屋海道址碑(左側)
碑は佐屋方面に向いているので、神守方面から来た私達は石碑の裏側を見て歩くことになります。
石碑から約110m歩くと境内の墓地に一対の切支丹灯篭が残されているという信力寺があり、Jさんに「立ち寄りますか?」と聞くと、「行こう」と返事があり見に行くことになりました。
※分岐(信力寺入口)=右折
分岐(信力寺入口)から約80m街道から外れると、右側に寺院があり山門を潜って境内に入りました。
10時42分、信力寺(右側)
寺院は歴史を感じる山門とは正反対に、本堂はコンクリート造りだったので、バランスの悪さに言葉が出ませんでした。
※信力寺・本堂
※一対の切支丹灯篭(境内の墓地)
※「親教和上碑」と記された石碑
信力寺を出て街道に戻り、約750m歩くと右側に天神社がありましたが、街道から頭を下げただけで、先に進みました。
10時58分、天神社(右側)
天神社から約40m歩くと須依交差点となり、交差点を右折しました。
11時00分、須依交差点(右折)
須依交差点を右折すると到着地まで約450mです。
昔の佇まいが少し残る佐屋の町並みを記録に残しながら、ゴールを目指しました。
※佐屋宿の町並み
須依交差点から約170m歩くと、芭蕉が水鶏(くいな)を歌った場所に建てられた「くいな塚」に行く道標が曲がり角に建てられていました。
11時01分、くいな塚道標(左側)
くいな塚道標から約110m歩くと武家屋敷を感じる黒塀の家(伊藤家)があり、記録に残して先に進みました。
11時03分、黒塀の家(伊藤家)=左側
※黒塀は周囲を取り囲んでいるかと思ったのですが、道路に面したところだけで、塀を過ぎて左を見ると柵で仕切られているだけで、庭と母屋がまる見えでした。
少し興ざめした黒塀でした。
黒塀の家から約130m歩くと桑名に向かう道の左角に、船場道の道標ときこくの生け垣がありました。
11時07分、船場道の道標・きこくの生け垣(左側)
※佐屋舟場の道標
※きこくの生け垣(道標の先隣り)
道標と生垣の真向い(反対側)に、佐屋代官所跡があり石碑と解説銘板が建っていました。
11時10分、佐屋代官所跡(右側)
代官所跡の左斜め前のゲートボール場のある公園の角に、三里の渡し跡碑が建っていました。
11時11分、佐屋三里の渡し跡(到着地)
昨日と今日の2日をかけてJさんと二人で歩いた佐屋街道の旅は、三里の渡し跡に到着して完了しました。
【帰路】
三里の渡し跡を記録に残した後、芭蕉が元禄7年5月に江戸から故郷伊賀に帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まったおりに水鶏(くいな)の鳴き声をきいたことを詠んだ処に建てられた「くいな(水鶏)塚」に立ち寄って佐屋駅に行くことにしました。
順路は、代官所跡前の十字路に戻り、
①.十字路を右折し、約130m須依交差点方向に戻り、右折
②.約110m歩くとT字路となり、左折
③.約140m先の十字路を右折
④.約20m歩いた右側
入口に「くいな塚」と彫られた石柱があり、解説標板や芭蕉句碑が建っていました。
※水鶏(くいな)塚=右側
《昼食》
芭蕉句碑のくいな塚から名鉄尾西線の佐屋駅に向かいながら昼食を食べる店を探しましたが、食事ができる店がなく佐屋駅に着いてしまいました。
駅前に停まっていたタクシーに食事出来る店を聞くと、駅前の道路を渡って約50m右方向にある「喫茶あすなろ」だけと教えて頂き、食べに向かいました。
※昼食=喫茶・あすなろ
店に入り乾いた咽喉を潤すため「ビールありますか?」と聞くと、「アルコール類は置いていません」と云われ、昼食にハンバーグ定食を注文しました。
注文した定食は美味しいと云うほどのものではなく、また店の雰囲気も暗く長居するところではないと感じ、空いたお腹を満たしただけで店を出ました。
12時11分、佐屋駅発
改札口で乗り換え方法を確認してホームに行くと、直ぐに電車入線の放送があり、電車が来ました。
何処行きの電車か分からずに乗ったので、車内で
・電車の行先
・名古屋駅に早く行く方法
を聞くと、電車は各停のため、須ケ口で急行に乗り換えると早く行けることを教えて頂き、Jさんに話し須ケ口で乗り換えることにしました。
12時42分、名鉄名古屋駅着
名鉄名古屋駅で下車し、私はJR名古屋駅のロッカーに入れてある荷物を取りに行き、Jさんは帰りの新幹線の切符を買うため、待合せ場所を決め別々に動くことにしました。
Jさんと合流し、少し早かったのですが、新幹線ホームで缶ビールとおつまみを買って自由席乗車口に並びました。
13時27分、名古屋駅発
乗車する「ひかり520号」は名古屋駅を出ると、小田原駅、新横浜駅、品川駅に停まるだけで東京駅に着きます。
入線してきた新幹線は比較的空いており、Jさんと二人シートに座り、直ぐに缶ビールで乾杯し、旅の疲れを癒しました。
新幹線は順調に走り、定刻通りに東京駅に着きましたが、富士山は帰りも眺めることが出来ませんでした。
15時10分、東京駅着
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旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
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旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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