【天候】晴れ・風強し
【宿場】(26)掛川宿⇒(27)袋井宿⇒(28)見付宿
【行程】歩行距離=16.422㎞ 総距離=249.37㎞

西掛川駅入口⇒(0.65㎞)⇒055大池一里塚⇒(4.468㎞)⇒056久津部一里塚⇒(4.427㎞)⇒
057木原一里塚⇒(4.177㎞)⇒058阿多古山一里塚⇒(2.70㎞)⇒磐田・東町交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第16回旅の宿場)
11 16回宿場
 ↓

旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第16回
 第16回の旅のルート
 
(西掛川駅・入口 ⇒ 磐田・東町交差点)
第16回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
05時30分、起床

昨日と同じようにホテルのモーニングコールで起こされる前に、今日もYumiさんのトイレ通いで、4時すぎに目を覚まし朝を迎えました。
洗面所でまず歯磨きをします。
ところが、Yumiさんはホテルの歯磨きをどのように使えば良いのか分からないため、私が封を開けて使えるようにして歯を磨き、洗顔はホテルで頂いた液体ソープが昨日の分だけしかなかったため、浴室のボディーシャンプーを代用して洗ってもらいました。
今日の旅は、東海道の中間点である「東海道ど真ん中茶屋」を通ります。
昨年の3月に日本橋を出発して、16日目で全体の半分のところまで来ました。
考えてみれば約250㎞、中断することなく良くここまで歩いてきたと、Yumiさんを誉めてあげたいと思います。
今日の旅は、平坦路なので膝痛の心配は少ないのですが、舗装路の歩きと距離を考え昨日と同じように、認知症主治医のK先生に処方して頂いたシップ薬をYumiさんの両膝の両側と、両足のふくろはぎに貼り、私も両足のふくろはぎに貼り、足のケアをしました。
着る物は、下着類と靴下(内側)を新しいものに替えた以外は、同じ物を着ました(着替えは1回分しか持参していませんでした)。
全ての着替えが終わってから目薬の点眼と血圧測定を行い、荷物をザックに入れ出掛ける支度を整えてから、ホテル提供の朝食を食べに行きました。
今日の朝食は、カレーが出されていたので、少しご飯を多くして食べました。
食事を終わり、部屋に戻ってトイレを済ませ、ひと息ついてからチェックアウトしましたが、チェックインした時に会員割引を適用していなかったと、返金(15%程度)がありました。
支払った金額を疑っていなかったので、お金が返ってくることは有難く、「そうですか」と素直に受け取りました。
07時32分、ホテル発
《移動》
掛川駅南口から北口に抜け、木造駅舎を保存する運動が行われているJR掛川駅を眺め、隣りの天浜線・掛川駅に行きました。
 ※JR掛川駅
01 JR掛川駅舎
天浜線は、旧国鉄の二俣線を引き継いだ天竜浜名湖鉄道が運営する天竜浜名湖線の略称で、静岡県の掛川駅から天竜二俣駅を経由して滋賀県湖西市の新所原駅までの67.7㎞を、ディーゼル車で走っています。
駅舎はJR掛川駅の隣りにあり、階段を上った所に改札口となっており、ダイヤは昼間が1時間に1本、朝・夕の通学・通勤時間帯が2~3本の運行になっている。
 ※天浜線掛川駅
03 天浜線掛川駅
 ※天浜線掛川駅ホーム

05 天浜線
 ※天浜線・車内
07 天浜線・車内
ホテルを少し早く出発したので、トイレを済ませ、乗車券を買って待合い室で待っていると、折り返しになる列車が発車する5分前に着いたので、車内で出発を待つことにしました。
この列車には、この先乗る機会があるのかどうか分からないので、思い出に車内で記念撮影などして過ごし、私達の他に数人が乗っただけで出発しました。
07時54分、掛川駅発
07時59分、西掛川駅着
【=旅=】
08時00分、天浜線・西掛川駅入口発(出発地)
ホームから階段を降り、昨日と同じ場所で出発の看板を持って出発式(撮影)を行い、旅立ちました。 
09 西掛川駅入口(出発地)
朝から風が吹いているので、帽子の耳当てを出して飛ばないようにして、歩きました。
約400m歩くと左側の連祐寺の角に、日本橋から55番目の一里塚跡があり、碑が建っていました。
08時08分、055大池一里塚跡(左側)
11 055大地一里塚
大池一里塚は、手前の葛川一里塚と同じように榎ではなく松が植えられていたようです。
出発して約200m歩くと数は少ないのですが、街道の両側が松並木(大池松並木=Eの命名)になっていました。
08時13分、大池松並木(両側)
13 松並木(掛川)
松並木が終わり、掛川バイパスの手前の右側に、曽我鶴の萩の蔵酒造の醸造元がありました。
100年以上続いた名門の酒造でしたが、平成10年に一度閉場し、平成16年に再開したとのことです。
私は、若い時に日本酒で痛い思いをした経験から、人に勧められない以外は口にすることを極力減らしてきたので、日本酒のことは良く分かりませんが、今度掛川に来た時は立ち寄るか、掛川の夜の街で飲みたいと思います。
 ※萩の蔵酒造(右側)
15 萩の蔵酒造
萩の蔵酒造を過ぎた先で、同年輩ぐらいの男性2人組の東海道ウォーカに会いました。
今日は、掛川から浜松まで(約30㎞)歩く予定で、昨日は約40㎞歩いて疲れたと云っていましたが、年齢を感じさせない健脚に、ビックリしました。
また、話しを聞くと、一人は四国八十八か所お遍路を終え、もう一人の人は進行中で、東海道より優先してお遍路を完遂するとのことでした。
二人は、掛川バイパスと交差する沢田IC南で左折して行こうとするので、パイパスを潜った先の沢田IC北の信号を左折するのが街道だと思いますと伝えると、二人は後から追いついてきました。
街道は、少し先でバイパスと別れ、右方向に進み、東名高速道路の下を潜り、橋を渡った先の右側に寺院がありました。
08時35分、仲道寺(右側)
17 仲道寺(東海道ど真ん中寺)
善光寺の境内に220年前に本堂を建立し、東海道ど真ん中の寺と云っている仲道寺がありました。
男性二人組は、話しながら歩くだけで、特に写真を撮ったりすることもないので、Yumiさんと交代しながら写真を撮っている私達とは違うため、先に歩いて行きました。
08時39分、掛川・岡津~原川松並木
20 松並木(岡津~原川)
岡津・原川の松並木は、掛川市内で、松並木として江戸時代の面影を残す状態で唯一残っているのですが、松食い虫の被害で減少しているようです。
松並木でYumiさんと写真を撮っていると、今度は男性若人ウォーカ2人が追い越して行きました。
松並木を過ぎた左側に、本尊の阿弥陀仏は足痛薬師如来と呼ばれ、旅する人が餅を供えて道中足の痛みに悩まされないように祈願した金西寺がありましたが、私とYumiさんは参拝することなく境内で写真を撮って旅に出発しました。
08時44分、金西寺(左側)
25 金西寺
08時46分、間の宿・原川(左側)
26 間の宿・原川
金西寺を出ると、直ぐ横に「間の宿・原川」の標板が建っていました。
間の宿は、休憩は出来るのですが、宿泊は前後の掛川宿か、袋井宿の許可がないと宿泊が許されなかった宿場で、原川は掛川宿と袋井宿の中間にありました。
間の宿原川で金西寺にお供えする薬師餅が売られ、茶屋や酒屋などが立ち並んで賑わっていたそうですが、現在はその面影もありませんでした。
街道はこの先で袋井バイパスに合流し、瀬川の同心橋を渡り、渡ったところでバイパスの反対側を進むようになるのですが、袋井バイパスは道路の分離帯がブロックされているため、橋を渡ったところでは左に渡れません。
私達を追い越して行った若人2人が、バイパス(右側)を直進しているのが見えましたが、私はそのままでは先の交差点まで行かないと渡れないので、橋を渡った所を右に下る道を進み、バイパスの下を潜って旧街道に出ました。
08時56分、袋井宿絵碑(左側)
29 袋井宿・絵碑
そして旧街道を約200m歩いた左側に、横面に東海道の絵が描かれた駕篭形の大きな箱が置いてありました。
09時02分、駕篭形のゴミ集積庫(国本付近)=右側
31 駕籠形のゴミ箱
駕篭形の箱が珍しく、Yumiさんと写真を撮っていると、ゴミ収集車がきて私達が退くのを待っていました。
最初、私は何で待っているのだろうと思いもう一度ゴミ収集車を見て、初めてこの駕篭形の箱がゴミ集積庫であることを理解し、急いで場所をあけました。
このようなゴミ集積庫は今まで見たことがありませんので、すばらしいアイデアだと感嘆しました。
駕篭形の集積庫が置いてある場所は、袋井バイパス国本交差点から入ってきた処で、先ほど掛川の松並木の処で私達を追い越して行った若人2人が、国本交差点の方から歩いてきて、特に挨拶を交わすこともなく足早に通り過ぎて行きました。
そして駕篭形のゴミ集積庫から約100m先に、袋井に入って最初の松並木があり、東海道の雰囲気を味わいながら旅を続けました。
9時04分、袋井の松並木(その①)
32 松並木(袋井)
 ※行書東海道絵碑(左側)
35 行書東海道絵碑
松並木が終わり、JA遠州の倉庫を左の見ながら約100m歩いた右側に、赤い鳥居が建っていました。
09時10分、富士浅間宮赤鳥居(右側)
36 富士浅間宮
 ※富士浅間宮碑
38 富士浅間宮碑
富士浅間宮は、807年に坂上田村麻呂が富士浅間神社から分霊を移したと云われる古社で、赤鳥居は参道の入口です。
本殿は離れたところにあるので、参拝せずに通りすぎました。
この先から二度目の松並木が始まり、200mほど続いていました。
09時13分、袋井の松並木(その②)
39 松並木(袋井)
松並木を過ぎた左側に袋井東小学校があり、一里塚跡がありました。
09時22分~09時27分、056久津部一里塚跡(休憩)
 ※進行左側の碑
41 056久津部一里塚跡(左側)
 ※進行右側の碑
44 056久津部一里塚跡(右側)
左側の一里塚跡は、小学校の敷地に柵が設けられて復元塚の頂部に松が植樹され、石碑が建てられていました。
右側の一里塚跡は、四角柱(鋼製)に一里塚跡が記されていました。
この扱いの差は、敷地などのことが理由としてあるのでしょうが、復元するのなら両方してほしいなと思います。
この一里塚で写真を撮ったりして休憩していると、朝方の四国お遍路組の二人とまた出会いました。
 E=また会いましたね
 男=小学校の裏のお寺(妙日寺)で、トイレと休憩をしていました
 E=トイレがあるのですか
 男=使わせてもらいました
また、一緒に歩くことになり、私とYumiさんは後ろを歩くことにしました。
5分程歩いた辺りからトイレに行きたくなり、地図に載っているTSUTAYAでトイレを借りることにし、四国お遍路組の二人に挨拶して別れました。
09時37分~9時41分、トイレタイム(TSUTAYA)
トイレに行く時は、Yumiさんがザックをトイレの中に忘れないようにするため、私が預かります。
そのため、私は自分のザックを背負ったままYumiさんのザックを片方の肩に掛けてトイレに行くので、トイレに行くのも大変です。
しかし、過去に何度か見ず知らずの女性にトイレの探索をお願いした経験があるため、昨年の後半から一緒の時はどこに行ってもこのようにしています。
トイレを済ませ、また街道に戻り、七ッ森神社を過ぎた処から松並木が始まりました。
09時46分、袋井の松並木(その3)
46 松並木
松並木は約100m続き、その先の新屋交差点で県道(東海道)と合流するのですが、街道は新屋交差点を左折し、約10m程右折(ふとん店の前)するのを間違えて、ふとん店の後ろを右折してしまい、ふとん店の周りを一周することになりました。
09時49分、道標(右側)
49 道標
そして、街道に戻った一つ先の十字路の右角に、常夜灯が建っていました。
09時58分、新屋の秋葉山常夜灯(右側)
52 新屋の秋葉山常夜燈
街道は、この先の袋井市役所の前に出て、道路を横切り市役所総合センターの後ろを周るようにマップは出来ているのですが、市役所が建てた道案内は市役所の前の道路を左折し、袋井市役所南交差点を渡って右折するようになっていました。
私はYさんが作成したマップを優先し、市役所総合センターの後ろを周る道で進みました。
10時05分、袋井宿碑(左側)
55 袋井宿・天橋
 
※袋井宿人形
58 袋井宿人形
袋井市役所総合センター横の道路を渡った左に、袋井宿碑が建っており、碑の右側の橋を渡った右側に東海道ど真ん中茶屋がありました。
10時06分~10時21分、東海道ど真ん中茶屋(右側)=休憩
61
日本橋を出発してから16日目に、中間点の茶屋に到着しました。
この茶屋は初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出茶屋ノ図」をモチーフに建てられた茶屋ですが、茶屋に入るとボランティアの方々が出迎えて下さり、お茶を出したり、写真を撮ってくださったりと、温かく迎えて下さいました。
《ビックリ》
茶屋の人に絵巻物ガイドやチラシを頂きながら、記帳するためにノートを見て”え!!”と声が出てしまいました。
この旧東海道夫婦二人旅で、Yさんのルートマップと同じように道標として活用しているHP「風の吹くまま」の平次隊長、佐武隊員が前日(2月10日)にこの茶屋に来ていたのです。
HPで掛川まで旅してきたことは知っていたのですが、まさか直前に同じ処を旅していたとは思ってもいなかったので、記帳を目にした時は驚くとともに、歩く場所は多少違いますが、同じ東海道を同じ時に歩いていることが分かりとても嬉しくなるとともに、平次隊長と佐武隊員が元気に歩いていることを考えたら「頑張ろう」と元気が蘇ってきました。
二人のエネルギーが、茶屋に残されていたようで、私が貰い受けました。
温かいお茶を頂いてひと休みしたので出発しようと茶屋を出た処で、ボランティアの方が「写真を撮りましょう」と声を掛けて下さいましたので、初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出屋茶屋ノ図」の絵碑の前でお願いしました。
 
※出屋茶屋・絵碑(右側)
64 袋井出茶屋絵碑
袋井宿は街道沿いに史跡や絵碑など、観光客誘致に力を入れていることが、他の自治体を旅して来るととても感じます。
 
※袋井宿・絵図
68 袋井宿・解説絵碑
10時25分、東本陣公園(右側)・袋井宿場公園(左側)
65 袋井宿・東本陣跡
本陣跡に復元された門、少し先の左側に問屋場があった宿場公園が、整備されていました。
10時28分、問屋場跡(左側)
70 問屋場跡
袋井宿場公園を出て、静橋北交差点を渡り、約150m歩いた橋のたもと左側に高札場跡がありました。
10時33分、高札場跡(左側)
72 高札場跡
橋を渡った先の十字路の左角に、葛飾北斎が袋井宿を描いた絵碑が建っていました。
10時40分、北斎絵碑(左側)
74 葛飾北斎絵碑
北斎の絵を堪能した後、袋井中学校北交差点の先に袋井西小学校があり、校門に「東海道どまん中西小学校」の看板が「袋井市立袋井西小学校」の看板と一緒に掲げられていました。
10時45分、東海道どまん中西小学校(左側)
76
袋井市は、寺院、学校、その他で東海道のど真ん中にあることを街全体で活用しているので、思い切って「東海道ど真ん中市」変更したら面白いのではないかと思いました。
10時47分、澤野医院記念館(左側)
78 澤野医院記念館
学校の隣に、江戸時代の末期に開院し、昭和9年に病棟が建築され、江戸末期からの医療建築が見られる澤野医院があり、無料で見学(土・日のみ)できるようになっていました。
建物は白亜の建物で、ひときわ目立っていたので、館の中に入ったのですが、靴を脱着して観ることなく外から写真を撮って先に進みました。
10時50分、寺沢家長屋門(右側)
81 寺沢家長屋門
旅をする前の準備で史跡のチェックで漏れていた、明治元年に建てられた長屋門の家がありました。
旅をしていて目を引く建物でした。
11時01分、木原松橋道標(右側)
84 木原松橋道標
街道は少し先で県道(東海道)に合流し、県道を川井交差点、川井西交差点を通り、左の中古車センター先の分岐を右にに入った先に、日本橋から57番目の一里塚跡があり、碑が建っていました。

11時10分、057木原一里塚跡
 
※右側の跡碑
86 057木原一里塚跡(右側)
 
※左側の跡碑
88 057木原一里塚跡(左側)
木原一里塚は、右側の一里塚跡碑、その約50m先に左側の一里塚碑が建っていました。
右側の一里塚跡碑は、ペイントが剥がれて読める状態ではないので、予備知識がないと見落とすと思います。
しかし、当時はこの右側の標柱の辺りに一理塚があったのを考えると、一里塚碑が分かるように明示してほしいと思いました。
右側の一里塚跡碑に比べ、約50m先の左側にある一里塚跡碑は、塚も復元され、榎が植えられ、周りも綺麗に整備されていました。
一里塚跡から約100m先の右側に許禰神社があり、境内入口左に木原畷古戦場の跡碑がありました。
11時15分、許禰神社(右側)
91 許禰神社
11時16分、木原畷古戦場跡(右側)
92 木原畷古戦場跡
木原畷の戦いは、武田信玄が木原に陣を張り、浜松城の徳川家康の偵察隊と衝突した戦いです。
古戦場の跡碑の横に、徳川家康が腰掛けたという石(一段高い石)がありました。
しかし、石は新しいので、本当に今から400年前の石なのかなと?思い、写真だけ撮って座りませんでした。
11時18分、木原大念仏発祥の地(右側)
95 木原大念仏発祥の地・道標
街道は、この先で県道(東海道)と合流し、袋井市と磐田市の市境となり、袋井宿から見付宿に入りました。
11時25分、磐田市境標柱(左側)
97 磐田市境標柱
磐田市は、サッカーのジュビロ磐田の本拠地ですが、見落としているのか看板などは見えません。
西島交差点を過ぎたところで、Yumiさんに「食べられるところがあったら、お昼にしよう」と話し、辺りを見渡すと手打ちうどんの店が見えたので、道路を横切りその店に向かいました。
《昼食》
11時30分、昼食(三州庵西島店)=右側
98 三州庵西島店
 ※注文した天ぷらうどん

99 てんぷらうどん
昼食で入った店は、手打ちうどんのチェーン店で、天ぷらうどんを注文しました。
《Yumiさんの食事の注文》
Yumiさんにメニューを見せて食べたいものを聞いても、どれにするか決められなくなっているので、私がYumiさんに確認して同じものを二つ注文します。
何故、同じものを注文するかと云うと、違うものを注文するとYumiさんが必ず「私もそれが良かった」と云うからです。
以前は、「だったら云いなよ」と怒ったのですが、最近はそのことが分かっているので、基本的に二人が好きなものを選んでYumiさんに聞くようにしています。
《手打ちうどん》
店内にはまだ誰も入っておらず、開店直後の一番客だったようです。
うどんは関東で食べ慣れているものより細く、麺は手打ち独特のこしの強さを感じることなく、どちらかと云うと「きしめん」を食べているような食感でした。
私は、また食べると聞かれましたら、?というのが食べた感じでした。
昼食を摂り、到着地に向けて再び出発しました。
11時58分、三州庵西島店発
風はビュー、ビュー吹いており、帽子が飛ばされないように耳当てを出したり(耳当てを出すと帽子の押さえになるため)して歩きましたが、太田川に架かる三ケ野橋を渡る時は、帽子を手で押さえながら向かい風との戦いで、Yumiさんも大変そうでした。
12時06分、三ケ野橋
100 強風の三ケ野橋
橋を渡った処で堤防に沿って左折し、直ぐに右側の階段を下りて進んだのですが、堤防が防風の役目となったのか風は少し和らぎました。
 
※古道への道
101 江戸の古道への道
 ※道標・三ケ野(左側)
102 三ケ野道標
そして、堤防を下りて100m程歩くと、三ケ野の松並木がありました。
12時11分、三ケ野松並木(左側)
103 三ケ野松並木
本数は少ないので、枯れないで東海道の面影を残してほしいと願うばかりです。
松並木が終わり、小さな橋を渡ると木々が蔽い茂った、上り坂になりました。
12時14分、明治の道・みどりのトンネル
104 明治の道・緑のトンネル
写真以上に実際は薄暗いので、「夏は涼しいだろうな」と思いながら今日の旅で、初めての坂を上りました。
坂を上りきった左側の三ケ野公会堂の処に、いくつかの碑が建っていました。
12時21分、明治の道道標(左側)
109 明治の道・道標
12時21分、鎌田山薬師道・道標(左側)
110 道標
 ※車井戸之跡(左側)

106 車井戸之跡
江戸時代、坂の上には井戸がなく、坂の下まで水を汲みに行っていたので、鎌田の金剛院が車井戸を掘ることになり、1847年に「従是鎌田山薬師道」の道標が建てられたそうで、時代の経過を感じる道標です。
また、車井戸の碑は、掘られた車井戸の跡に建てられたようです。
住宅や工場が立ち並ぶ中を進んでいると、病院の前に虹のマークの薬局があり、写真を撮ろうかどうか考えているうちに、交通量の多い薬局の前の十字路を渡って、通り過ぎてしまいました。
街道は、十字路を渡った処から下り坂となり、下ったところの養護学校の前に格子戸の家がありました。
12時35分、格子戸の家(右側)
111 格子戸のある家
両側で10本位の松並木を過ぎると国道1号に合流し、その右側の小高い丘の上に「遠州鈴ケ森」の看板が見えたので、Yumiさんには内容を話さすと立ち寄らないと云うので、話さずに立ち寄りました。
12時43分、遠州鈴ヶ森(右側)
113 遠州鈴ケ森跡
江戸時代の処刑場の跡で、日本左衛門の首が晒されたと云われており、国道沿いから階段を上ると小さい碑が建っているだけで、説明板などはありませんでした。
Yumiさんは、ここがどのようなところなのか分からないで、モデルになっています。
さて、国道に戻り少し先のガソリンスタンドの前で、分岐した道を右に進み、富士見町東交差点の手前を渡った左側に、三本松御旅所と書かれた看板が建てられていました。
12時48分、三本松御旅所(左側)
115 三本松御旅所・神輿の休憩所
御旅所は、神輿巡航の時に休憩する場所で、垣根で囲われていました。
Yumiさんに「ここで写真を撮ろう」というと「嫌です」と断られてしまい、撮ったのが上の写真で撮っている間、私の横にいました。
御旅所から約300m先の左側に秋葉山常夜灯、その少し先の坂の手前を右に入った処に、元門と元天神道の道標が建っていました。
12時53分、秋葉山常夜灯(左側)
116 秋葉常夜燈
12時56分、元門と元天神道碑(右側)
117 元門之跡
見付天神につながる道が元天神道で、江戸時代初期は見付天神社への参道でした。この元天神道の入口付近を元門と呼ばれ、見付天神裸祭りの時は、清めの榊が2本立てられるそうです。
街道は、この先から下り坂となり、愛宕神社の裏手にある阿多古山一里塚跡に行く道を探しながら歩いていると、坂を下りきってしまいました。
下ったところで、近くにいた人に聞くと、横の階段を上がったところと云われ階段を上り、愛宕神社の裏の愛宕山に向かいました。
愛宕山といっても小高い丘で、頂上に一里塚跡碑が、そしてその横に国土地理院の愛宕山(標高=31.0m)の三等三角点(写真=Yumiさんの左下)が設置されていました。
13時02分、058阿多古山一里塚跡(左側)
121 阿多古山一里塚
 ※一里塚跡碑・三等三角点

123 一里塚碑と三角点(愛宕山)
 ※愛宕神社
125 愛宕神社
愛宕神社の境内から階段を降り、街道に戻って道路が合流する右側に、木戸口跡がありました。
13時07分、見付宿木戸口跡(右側)

126 木戸口跡
街道は見付宿場通りとなり、中川橋を越えると、右側に見付宿の石柱が建てられていました。
13時17分、東海道見付宿碑(右側)
128 見付宿碑
見付宿碑の前の道路を越えた静岡銀行見付支店の前に、問屋場跡の碑が建っていました。
13時19分、問屋場跡(右側)
129 問屋場跡
問屋場跡先のT字路の信号を渡った道路反対側の予備校の隣りに、見付宿脇本陣跡がありました。
13時20分、見付宿脇本陣跡(左側)
130 見付宿・脇本陣跡
脇本陣跡から真っ直ぐ北井上小路交差点を渡り、直ぐに交差点を右に渡って、左に進んだ右側に本陣跡がありました。
13時22分、見付宿本陣跡(右側)
132 見付宿・本陣跡
本陣跡から最初の路地を左に入った処に、見付宿公園があり、トイレに寄りました。
公園内には、見付宿の顔写真用の人形があったので、
 E=Yumiさん、顔出して
 Y=えー、するの?(と、云いながら顔を出すのですが、顔出しが少ないので)
 E=もっと、前に出して
と云って撮ったのが下の写真です。
13時23分、見付宿公園(右側)
134 見付宿人形
公園の裏に、明治8年に開校した日本最古の木造擬洋風建築の小学校で、明治16年に2階部分が改築され現在の形になっている、旧見付学校がありました。
13時26分、旧見付学校(右側)
135 見付旧学校
入場は無料で、受付に寄ってパンフレットと旧赤松家の案内チラシを受け取り、靴を脱いで草履に履き替え学校の中に入りました。
教室は、明治の頃の机の並び方になっていたので、「Yumiさん、座ったら」と云ったら、何も云わずに座りました。
 ※明治の教室
137 教室
その他に雛飾りや5階の太鼓楼なども見学し、外に出ました。
学校の裏に幕末に開設された磐田文庫がありましたが、立ち寄りませんでした。
玄関のベンチに座り、靴を履いたのですが、ここでYumiさんが手提げ袋を置き忘れました(この時は気が付いていませんが)。
学校に入る階段の下で写真を撮り、次の史跡に向かいました。
公園を抜け見付宿場通りに出て、右折して直ぐの右側に脇本陣跡がありました。
13時42分、見付宿脇本陣・大三河屋門(右側)
145 見付宿・脇本陣(大三河屋門)跡
大三河屋は旅籠でしたが、1805年に脇本陣となりこのような門構えになったそうです。
門は、その後旧中津川家に移築され、平成19年にこの場所に移築復元されたそうです。
《忘れ物》
この史跡から約100m歩いたところで、Yumiさんが持ち歩いていた手提げ袋がないことに気が付き、
 E=Yumiさん、手提げは?
 Y=手提げ?
 E=今日、持って歩いていた黒のバックだよ
 Y=あ、ない
 E=学校で靴を履いた時じゃない?
といい、急いで旧見付学校に戻りました。
学校入口の階段の近くまで来て、靴を履いたベンチを眺めると、黒いバックが見えましたので、
 E=Yumiさん、あったよ
 Y=あー、よかった
 E=取りに行っておいで
と云って、Yumiさんに取りに行ってもらいました。
忘れ物を取って、また同じ見付宿場通りを歩き、姫街道の起点となる交差点に向かいました。
13時55分、姫街道起点(右側)
148 姫街道起点
姫街道は、江戸時代以前の徒歩時代における、主要街道の別ルートの一部に対する呼び名だそうである。
この見付宿からの姫街道も、東海道の脇街道で、浜名湖の北側~本坂峠~御油宿に至る60㎞の街道です。
(写真の右に写っている道路が、姫街道です)
姫街道入口を左折して磐田駅方向に約100m歩いた右側に、木戸跡がありました。
13時58分、木戸跡(右側)
150 木戸跡
磐田駅に一直線に作られた天平(てんぴょう)通りを磐田駅に向かって歩き、磐田南高校を通り越した右側に国分寺があり立ち寄りました。
14時10分、国分寺(右側)
152 国分寺
国分寺を出て天平通りを渡った反対側に、天平年間(728~748)に遠江国司の桜井王が国府の守護として勧請したと伝えられ、境内の建物は江戸時代に建造された由緒ある「府八幡宮」があり、立ち寄りました。
14時13分、府八幡宮(左側)
154 府八幡宮
Yumiさんと拝殿に進み、お賽銭を奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
ところがこの写真を撮った時、デジカメの電池が充電の合図を知らせ始めたので、到着地で写真を撮るまで電池を持たせたいと、撮影を極力減らすことにし、府八幡宮は1枚だけの写真で我慢しました。
府八幡宮から天平通りに戻り旅を続けていると、歩道にサッカーのジュビロ磐田に所属した選手の手形や足形が、サインと一緒に石板で埋め込まれていました。
14時26分、武田修宏さんの足形とサイン(右側)
155 ジュビロ磐田・武田修宏の足形
サッカーは嫌いではないのですが、ジュビロ磐田で知っている選手はほとんどいないので、石板で埋め込まれている選手で知っていたのは、ほんの数人でした。
その中で知っていた、武田選手の石板を撮影しました。
今日の到着地は、武田修宏さんの足形とサインの石板が埋め込まれている1つ先の、東町交差点です。
交差点に表示がないので、地元と思われる方に地図を見せて、間違いないことを確認し、到着式(撮影)を行いました。
14時29分、磐田駅・東町交差点着(到着地)
156 磐田・東町交差点(到着地)
この写真を撮ったところで、電池の容量が無くなり、撮影ができなくなりました。
間一髪のところで、到着地の写真を撮ることができ、助かりました。
電池は昨晩充電しておいたのですが、今日は多くの写真を撮ったのと、新しく購入したばかりで予備電池を持っていなかったので、運良く終わって助かりました。
【帰路】
到着地の東町交差点から磐田駅は、駅前信号を渡った先にあり、思っていたより近く感じました。

13時32分、磐田駅着
事前に購入しておいたジバング切符で入場し、ホームで電車を待ちました。
13時41分、磐田駅発(掛川駅着、14時55分)
磐田駅から掛川駅までは、袋井、愛野の3駅で、車両は3両編成でしたが、前回の島田からの乗車に比べ空いていたので、楽に座ることができました。
私は、掛川駅までの十数分の間、外の景色をぼやーと眺めながら、ここを2日掛けて歩いたのかと、少し感傷気分に浸っていました。
15時03分、掛川駅発(新幹線こだま)
掛川駅で在来線から新幹線への改札を通り、新幹線のホームに行きました。
自由席に乗るためホームを眺めると、既に各ドアとも7~8人の人が並んでいたのて゜、4号車(自由席は1~7、13~15号車)に並びました。
入線して来たこだまの車内を見ると思いのほか混んでいます。
座れるか心配になりましたが、運よく3人掛けの席が空いていたので、座席を確保し、ザックを網棚に上げ、お菓子を食べたり、綺麗に見える富士山を見たりしてのんびり過ごすことができました。
16時06分、JR小田原着
16時11分、小田急・小田原発
16時06分に小田原駅に着き、新幹線から小田急線に乗り換えました。
5分あればと思っていたのですが、JRの改札口を出た後に後ろを見るとYumiさんの姿がありません。
どこ行ったと改札口を見ると、JRの駅員に乗車券が出てこないことを云っているところでした。
私は、小田原までの乗車券なので出てこなくて当然なのですが、今回の旅では必ず改札口で乗車券が出てきたので、今回も出てくるものと思っていたようです。
私は、駅員さんに「出てこなくて良いのです。ご迷惑をかけました」と云ってお詫びし、Yumiさんに「無くてもいいんだよ」と話し、小田急の乗り換えを急ぎました。
パスモを移動の途中で用意させ、改札を過ぎると出発の案内放送があり、Yumiさんを急かせて電車に乗り途中で乗り換えながら、最寄り駅に着きました。
最寄り駅に着く前に、途中で食事を済ませて帰ろうということになり、家の近くでビールで乾杯し、食事をして帰りました。
19時30分、自宅着
【旅の総括】
《新幹線のトイレ》
旅を「磐田駅」近くで終わり、掛川駅まで在来線で移動し、掛川駅から新幹線に乗りました。
新富士駅を過ぎたところで、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」というので、Yumiさんを連れてトイレにいきました。
残念ながら、今のYumiさんは一人で、新幹線のトイレは使えないのです。
まず、女性用のトイレに入って鍵を掛けてもらい、その間に私も小用を済ませ、戸口のところでYumiさんを待っていました。
 E=大丈夫?
 Y=大丈夫
と返事があって扉をあけようとしたら、「どうやって開けるの」といいながら鍵を探している感じです。
扉に付いているマークを見ると赤と青の中間だったので、とっさに青マークになるよう動かすと鍵が外れ、扉が開きました。
本当は、このように開け方が分からなくなることがあるので、鍵を掛けないで私が外で見ていたりするのですが、未施錠だと未使用表示となり人がきてしまいます。
今後、新幹線に乗った時はどうするか、考えたいと思います。
《Yumiさんの頑張り》
今回の旅は、3日間で38.7㎞と40㎞にも満たない旅でしたが、ホテルに2泊したり、3日間歩いたりと、初めてのことがいくつかありました。
今回の旅では、新金谷で蒸気機関車を見ることができたり、きつい上り・下りの小夜の中山越えがあったり、デジカメを壊したり、東海道ど真ん中を通過したり、HP風の吹くままの作者が直前を旅していたり・・・と、いろいろなことがありました。
このようなハプニングが、旅の楽しさであり、思い出だと思います。
Yumiさんは、2日目に足裏が痛いと云いだしたので、洗浄綿やテープ等で足裏の痛い部分を治療し、3日目も痛いのを頑張って歩き通してくれました。
事故に遭うこともなく、風には悩まされましたが、3日間とも天気に恵まれて終わることができました。
今回の旅で、東海道のど真ん中を通過できたことは、今までの積み重ねの結果なので、これからもYumiさんと楽しく旅を続け、認知症でも東海道を完歩して三条大橋に立てることを実証したいと思います。

【次回の旅】
次回は、今回の到着地である磐田・東町交差点 ⇒見付宿 ⇒ 浜松宿 ⇒舞阪宿 ⇒ 新居宿 ⇒ 新居町・駅前信号まで、一泊二日の旅をする予定です。
次回は、天竜川を渡り、浜名湖を眺めながらの旅になりますので、ウナギや餃子など地場産品の美味しいものを食べたいと考えています。
どこか、ご推奨のお店がありましたら、教えて下さい。
お願いします。
なお、値段は年金生活になる懐中で、対応できる処をお願いします。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/