【天候】雨(大雨注意報・発令中)
【宿場】(47)関宿⇒(48)坂下宿⇒(49)土山宿

【行程】歩行距離=13.86㎞ 総距離=429.92㎞
関ロッジ入口(新所町信号先)⇒(2.55㎞)⇒103市瀬一里塚⇒(3.81㎞)⇒104元坂下一里塚⇒(4.60㎞)⇒105山中一里塚⇒(2.90㎞)⇒道の駅あいの土山

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第31回旅の宿場)
20 31回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (〇31=今回の旅区間/〇30まで=完歩区間)
全体 第31回
  第31回の旅ルート
   (新所町信号先 ⇒道の駅・あいの土山)

第31回ルート
【旧東海道の旅】
《トイレ通い》
5時30分、起床
Yumiさんのトイレ通いは起床するまでは数回でしたが、身支度を整えてから通った回数は覚えていませんが、「え、また」の状態が関ロッジを出るまで続きました。
《身支度》
外で宿泊した時の歯磨きや洗顔は、これまで何回も経験しているのですが、Yumiさんの記憶回路には残っていないようで、歯磨きの準備、持参した洗顔石鹸の準備など、全て介護が必要です。
今日の洗面は、
 ・Y=歯磨き・・・(E)髭剃り
 ・Y=洗顔・・・(E)歯磨き
 ・Y=ブラッシング・・・(E)洗顔
で進み、洗面の後、血圧測定と目薬点眼(朝・夕の2回)を行いました。
血圧測定では、加圧した後、加圧量が不足していると(血圧の状態で)測定途中で、ブルル、ブルルと再加圧します。今までも再加圧することが時々ありましたが、昨日の朝に引き続いて2日連続のため血圧が高くなっているのか少し心配です。
目薬点眼をした後、少し目を閉じた状態を保ってから、身支度になりました。
身支度は、Yumiさんの足ケアーから始め、
 ①.椅子に座らせて両足に塗り薬を付ける
 ②.膝の両側にシップ薬を貼る
 ③.ピチピチのスポーツタイツを穿く(私も手伝う)
これ以降はYumiさん一人で着てもらいますが、着るものを一つ一つ私に確認しながら着るので、私の身支度はなかなかはかどりません。
Yumiさんは、身支度が整うとお化粧を行い、その間に身支度を整えました。
ザックの荷造りは寝る前に行い、朝使う血圧測定器・記録帳・化粧道具・洗面道具・救急用品等を、ひとつ一つビニールに入れ雨天対策を講じました。
07時00分、朝食
朝食は7時30分を30分早めて7時に変更し、テーブルに並べられたご飯、味噌汁、数種類のおかずを見て「これ、大好きなの」と云って、美味しそうに食べていました。
一方、雨の状態は食べながら窓の外を眺めると激しい降雨状態で、これは合羽を着ないと無理と判断し、朝食後に部屋に戻りザックから合羽を取り出し着用しました。
街道旅では傘と合羽はザックに入れてありますが、通常は少しでも荷物を軽くするため合羽は簡易なものにしているのですが、箱根峠と鈴鹿峠の時だけは山歩きになるため、万一の時を考えて山用のゴアテックス合羽を持参しました。
私の勘が当たり箱根峠の時に引き続いて鈴鹿峠も雨天となり、ゴアテックス合羽が大活躍することになりました。
《移動》

07時42分、ホテル発
001 関ロッジ玄関
フロントで精算を済ませ、外に出ようとすると同じ街道ウォーカの男性(一人)がおり、
 E=鈴鹿峠越えですか?
 男=この天気なので今日は取り止め、関から貴生川に行き、平坦な草津辺りから歩こうと思います
 E=あー、そうですか
 男=じゃ、先に
と云って、合羽を着て雨の中を歩いて行きました。
取り残された私は、「このままもう一泊して明日歩くか、旅を止めて東京に帰るか、またはこのまま出発するか」と迷いましたが、「何とかなるだろう」と意を決して鈴鹿峠を越えることにし、関ロッジ玄関で記録の写真を撮って出発しました。
傘を差し、出発地(新所町信号先)に向かいましたが、「もう一晩泊まって明日歩こうか」、「このまま東京に帰ろうか」など、気持ちはまだ揺れ動ていました。
しかし、決断がつかないうちに今日の出発地(昨日の到着地)に着いてしまい、やっと気持ちが固まりました。
【=旅=】
07時53分、
関ロッジ入口・新所町信号先(出発地)
004 観音山公園入口(出発地)
雨の中、出発式の看板(右側中央のスタンプは関ロッジで押印しました)をYumiさんに掲げてもらい写真撮影の出発式を行い、土山宿を目指して出発しました。
約50m先(上の写真の車の所)の国道1号(合流)を右折し、約260m先の市瀬信号から約80m(?)くらい歩いた左側にフェンスで仕切られた駐車場があり、その中にお祀りするような感じで、転び石がありました。
08時00分、転び石(左側)
006 転び石
直径2m程の石で、「弁慶のころがし」と云われ、何度片付けても街道に転び出たという伝説があります。
転び石から約170m(?)先の右にオークワ流通センターが、正面にガードレールがある手前の道を右折します。
08時03分、分岐(国道1号)
008 分岐(右折)
右折して約150mで道は左折し、そして約70mで右折とクランク形に進み、さらに130m行って右側(市瀬常夜燈)と国道を渡った左側(西願寺の前)に常夜燈が建っていました。
08時08分、市瀬常夜燈(国道手前右側)
009 市ノ瀬常夜燈
08時10分、常夜燈(国道を渡った左側・西願寺前)
011 常夜燈(西願寺脇)
この先で国道を右側に渡り、走って来る車から水しぶきを受けないよう気を付けながら、また水溜りを避けるようにして雨降る国道脇の歩道を歩いていると、日本橋から427㎞の距離標が建っていました。
08時22分、427㎞距離標
013 427㎞標識
国道の脇を流れる川(鈴鹿川?)は、茶色に濁った濁流となっていました。
08時27分、濁流の鈴鹿川(?)
014 鈴鹿川の流れ
濁流写真から約5分歩いた弁天橋手前の右側(一段高い草むらの中)に、弁財天社の石碑が建っていました。
08時32分、弁財天社石碑(右側)
015 弁財天社石碑
弁天橋を渡って約50m先の左側に、日本橋から103番目の一里塚跡があり、石柱が建っていました。
08時33分、103市瀬一里塚跡(左側)
016 103市瀬一里塚碑
この一里塚跡は、弁天橋から約50m先の左側にあるのですが、右側を歩いているので約100mで右折することに気を取られてしまうため、途中の反対側(左側)にある一里塚の石碑を見過ごしてしまう可能性があり、要注意の場所です。
私も少し通り過ぎたところで一里塚に気が付き、「Yumiさん、道路を渡るよ」と声を掛けて反対側に渡り、モデルになってもらいました。
Yumiさんは、何んで渡るのか理解していない状態(認知症の症状が進行していて、理解できない状態になっています)ですが、私に置いていかれないようにと、往年の快足(昔は陸上のリレーの選手)を発揮して道路の反対側に渡りました。
国道の左側には歩道がない上に、トラックなどの車が猛スピードで走ってくるなど危険なので、急いで写真を撮り左右を確認して右側の歩道に戻りました。
08時35分、分岐(国道1号)=右折
018 分岐(右折)
街道は、市瀬一里塚跡の約50m先、中津橋手前で右折し、国道1号と平行して鈴鹿川(?)を左に見ながら歩きます。
右折して直ぐ左側に雨宿りできそうな場所があり、Yumiさんに声を掛けて小休憩を取りました。
靴(ウォーキングシューズ)は防水スプレーを掛けてあったので二人とも靴の中は濡れていない代わりに、帽子は写真を撮るたびに雨に濡れるので、私のはつばからポタポタ状態、Yumiさんはビッショリになっていました。
そのため、水分補給をして少し休もうと思っていたのですが、Yumiさんが早く行こうと急かせるので、数分の休憩で出発しました。
  
雲に隠れた山々①(浄化センターと超泉寺の間)
019 雨中の景色
  
雲に隠れた山々②(浄化センターと超泉寺の間)
020 雨中の景色
出発して約200m(浄化センターの手前)歩くと上り坂となり、約500m先の右側に超泉寺があり、トイレに立ち寄り社殿の屋根の下でザックを降ろして休憩しました。
08時50分~08時59分、休憩(超泉寺)=右側
021 超泉寺
道は鈴鹿峠に向けて、ダラダラとした上り坂になっています。
超泉寺を出て約270m歩くと右側に坂下郵便局があり、その約80m先に分岐があり、右側の上り道を進みました。
09時08分、分岐(直進)
022 分岐(右)
上り坂を歩いて行くと沓掛地区となり、連子格子の家が残っていました。
街並みが終わる辺りで道が分岐し、進む右の道の左側に東海道五十三次の宿場標柱が建っていました。
09時14分、東海道五十三次宿場標柱(日本橋)=左側
023 五十三次標柱
  東海道五十三次宿場標柱(丸子宿付近)=左側
027 五十三次標柱・丸子
標柱は、分岐した処から再び合流するまでの約170mの間に建っていて、左側に鈴鹿馬子唄会館、右側に鈴鹿峠自然の家が建っていました。
09時17分、鈴鹿峠自然の家=右側
028 鈴鹿峠自然の家
鈴鹿峠自然の家は、昭和13年(1938)に坂下尋常小学校として建築され、昭和54年に廃校となり青少年の研修施設として利用されるようになった国指定の登録有形文化財です。
街道は東海道五十三次標柱が終わる所で合流し、さらに550m先に河原谷橋がありました。
09時26分、河原谷橋(下の橋)
032 河原谷橋(下乃橋)
河原谷橋は、沓掛と坂下の境界で、下の橋ともいいます。
ここから坂下宿が始まり、約270m先の公民館車庫前に松屋本陣跡がありました。
坂下宿には、難所の鈴鹿峠を控え、江戸時代後期には大竹屋・松屋・梅屋の本陣と小竹屋脇本陣がありました。
特に大竹屋は間口13間半(約24m)、奥行25間(約45m)あり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹、小竹、宿がとりたや小竹屋」と唄われたように、数多くの大名家も宿泊する東海道随一の大店として世に知られていました。また、大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、公家や文化人の歌に詠まれている。賑わいを見せていたこれらの建物は明治以降に全て取り壊され、現在は跡地に石碑を残すだけになりました。
09時33分、松屋本陣跡
034 松屋本陣跡
松屋本陣跡から数十m先の左側のゴミ捨て場の横(右側の前田屋商店の斜め手前)に、大竹屋本陣跡があり石柱が建っていました。
09時34分、大竹屋本陣跡(左側)
037 大竹屋本陣跡
関宿の前田製菓店の系列(?)の前田屋商店があり「志ら玉」が売られており、鈴鹿峠の手前では最後の自販機が設置されていました。
  前田屋商店(鈴鹿峠の手前、最後の自販機)=右側
036 峠手前最後の自販機(前田屋)
前田屋商店の斜め左前方の左側、中の橋の袂に梅屋本陣跡があり石柱が建っていました。
09時35分、梅屋本陣跡(左側)
039 梅屋本陣跡
中の橋を渡った右側の少し高い所に、小竹屋脇本陣跡がありました。
09時36分、小竹屋脇本陣跡(右側)
041 小竹脇本陣跡
脇本陣跡から約140m歩くと左に細い家並みに沿った道があり、約110m歩いて元の道に戻ると直ぐに右側に金蔵院跡の石垣がありました。
09時41分、金蔵院跡の石垣(右側)
043 金蔵院跡の石垣
金蔵院は鈴鹿山護国寺共武呼ばれ、開基は仁寿年間(851~853)と伝えられる古刹です。江戸時代初期に将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が小休止している。参勤交代の大名は山門前で駕籠から降りることが通例とされていました。慶安3年(1650)の洪水後に古町から現在の場所に移り明治初年に廃寺になり、石垣はその当時の名残りとして残っていました。
そして石垣の隣りには、人の身代わりになってくれると云われている身代わり地蔵がありました。
09時42分、身代わり地蔵
045 身代わり地蔵
お地蔵様から約20m歩くと如来堂橋(上の橋)があり地図に記していたのですが、降雨の中で濡れないようにして持つことに気を取られ(言い訳)、見落としてしまいました。
如来堂橋(上の橋)から約300m先の右側に、岩家十一面観世音菩薩が祀ってあり、清滝もあるので見に行きたかったのですが、雨が少し強く降っていたのと、Yumiさんが「先に行く」と云うことで、割愛しました。
09時47分、岩家十一面観世音菩薩碑(標高=224m)=右側
046 岩家十一面観世音菩薩碑
菩薩碑の前で国道と合流しますが、側道を真っ直ぐに進むと右側の分電盤の手前に右に上っていく階段があるのですが、この道は東海自然道で東海道ではありません。
鈴鹿峠の手前で、細い山道なので、東海道らしい雰囲気があるのですが、ハイキング用に出来ている道のようです。
048 分岐(直進)
国道1号の側道を歩きましたが、途中の右側に「日本橋から104番目の104元坂下(荒井谷)一里塚があった」と史料に記されていましたが、特に石碑などはないらしいので、雨中を理由に探すことなく素通りしました。
そして菩薩碑から約600m歩くと分岐があり右側の登り道を進みました。
09時58分、分岐(右側)
049 分岐(一番右を上る)
最初、真ん中の道かなと思いましたが、鈴鹿峠を考えると上りだろうと思ったのと、片山神社の社標が見えたので、一番右側の道を上りました。
  ※片山神社社標(左側)
050 片山神社標柱
カメラのレンズに雨粒が付いたりするので、タオルで拭き取るのですが、ズボンに入れているタオルが濡れていて綺麗に拭き取れないため、ザックの中から新しいタオルを出そうと思っても、取り出せる場所がないため「撮れてればいいや」と諦めて撮影を続けることにしました。
街道は、片山神社の石柱を過ぎると鬱蒼とした林となり、鈴鹿峠が近づいてきた感じになりました。
分岐から緩やかなコンクリート造りの上り坂を約240m歩くと、小さな川が流れていました。
10時04分、琴の橋
052 琴の橋
琴の橋は、桐の橋ともいい、かつて天皇家の秘宝の一つに和琴の鈴鹿があり、鈴鹿川に架かる桐の橋板から作られたことからこの名があり、平家物語にも登場しています。
橋から約120m上り道を歩くと左側に片山神社があり、神社に向かう石段がありました。
10時08分、片山神社入口(左側)
053 片山神社入口
晴天だったら階段を上って参拝したいと思いましたが、今日はとてもそのような気持ちではないので、そのまま通り過ぎました。
入口の脇に、薙刀の碑が建っていました。
10時08分、鈴鹿流薙刀術発祥の地碑(左側)
055 鈴鹿流薙刀術発祥の地碑
薙刀の碑の横に常夜燈が並んで建っていました。
10時09分、常夜燈(左側)
056 常夜燈
常夜燈は、燈籠坂に並んでいて、延享元年(1744)、文化11年(1814)、享保2年(1717)、安政6年(1859)と刻まれているそうです。
片山神社を境に急な上り坂となり、灯篭が並んでいることから名付けられた灯篭坂となり、
 ①.ジクザクの九十九折りの山道(灯篭坂)
 ②.コンクリートの階段(国道1号を越える)
 ③.平らな台地(芭蕉句碑があったようですが見落としました)を横切って右手前方の階段を上る
 ④.ジクザクの山道
 ⑤.緩やかな上り道
と、水溜りを避けながら鈴鹿峠の頂点を目指して歩きました
  片山神社の階段上り口方向の眺め
057 鈴鹿峠道(片山神社からの上り)
  峠道(実際は写真以上に荒れていました)
058 馬の水飲み場
水溜りというより、川の流れのようになっていて、靴の中に水が浸みてくるかと思いましたが、防水スプレー(以前に吹き掛けたもの)の効果か、大丈夫でした。
  鈴鹿峠からの眺め(晴天の時、眺めたい!!)
059 鈴鹿峠からの眺望
晴天だったらさぞかし綺麗だろうなと思う雲に隠れた鈴鹿の山々を眺めながら(眺めるゆとりはありませんでしたが)緩やかになった道を歩いていると、「鏡岩まで150m」の標識が見え、道標が建っていました。
10時24分、鈴鹿峠(標高=378m)
069 鈴鹿峠標識
鈴鹿峠の標識は確認できませんでしたが、平坦地になっていたので、勝手にこの場所を峠にしました。
鈴鹿峠は、
三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する東海道の峠で、標高は357m。古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2年(886)に開通したとされている。鈴鹿山は、本来は三子山のことを指しているようですが、今昔物語や和歌などに登場する鈴鹿山は、鈴鹿峠越えを指しているものが多いようです。緩やかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話しが伝えられ、江戸時代には箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました。
片山神社を過ぎた処からジグザグの急坂になり、次はコンクリートの階段、最後は急坂でしたが、片山神社からの標高差が約100m位かと思うので、晴天時であればさほどきつく感じることはないと思いました。
今日は、大雨注意報が発令されている状況での峠越えだったので、周りを見る精神的なゆとりもなく、ただ峠を越えただけになってしまいました。
さて、峠の道標に記されている鏡岩ですが、山の師匠であるNさんから「立ち寄るべし」と指示を受けていたので、
雨が降っていましたが見に行きました。
12時29分、鏡岩
063 鏡岩
鏡岩は、硅岩が断層によって擦られて露出面が鏡のように輝いていたと云われ、鈴鹿の山賊が往来する旅人をこの岩に映して危害を加えたので、「鬼の姿見」と云って伝えられています。昭和11年に県指定天然記念物に指定されました。
雨が降っていたので、上から見ることは止め、鏡岩の左隣りの岩まで行って峠にもどりました。
峠から約100m歩くと林が終わり、その左角に三重県と滋賀県の県境標識が建っていました。
10時35分、県境標識(左側)
070 県境石柱
石標には、右滋賀県、左三重県と記されており、峠を越えたことを祝したかったのですが、雨中だったこともあり感慨にふけるひまもなく、先に進みました。
県境を後にして先に進むと「鈴鹿峠路傍休憩地」と書かれた看板が建っていたので、座るベンチがあるのかと思って立ち寄ったら公衆トイレのみで少しガッカリしましたが、ザックを降ろして立ち休憩を取りました。
10時39分~10時48分、鈴鹿峠路傍休憩地(右側)
074 鈴鹿峠路傍休憩地
トイレを済ませ、タオル交換したり、水分補給して出発すると、休憩地の直ぐ横に万人講大石燈籠が建っていました。
10時49分、万人講大石燈籠(標高=373m)=右側
075 万人講大石燈籠
万人講大石燈籠は、江戸時代中期、四国の金毘羅宮参りの常夜燈として建てられたもの。高さ5.44mもある巨大なものだが蟹坂古戦場跡
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍政を盛りかえし、さらに北伊勢の軍政を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍政五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
道なりに歩いていると国道1号と合流する少し手前に、「甲賀市境」の標識が建っていました。
10時53分、甲賀市境標識(右側)
078 市境標識
道はこの先で右折して国道1号に合流して国道沿いを先に進むと、日本橋から434㎞の距離標が建っていました。
11時00分、434㎞距離標
081 434㎞標識
標識から約50m先に地下道に入る所があり、地下道を通って国道の右側に移動しました。
地下道から出て約350m先の右側(道の角)に、鳥居と常夜燈が建っていました。
11時07分、鳥居と常夜燈(右側)
083 鳥居と常夜燈
鳥居は何処の神社のものか分からない上、地中深く埋もれていたので、異様な感じを受けました。

鳥居・常夜燈から約450m先の山中交差点を過ぎ、交差点から約170m先の宮川橋を渡り約100m歩いたところに、日本橋から435㎞の距離標が建っていました。
11時19分、435㎞距離標
084 435㎞標識
1㎞手前の距離標には記されていなかったのですが、大津まで50㎞と表示されている標識を見て、ゴールが目前に迫ってきたことを感じさせられました。

距離標を後に、国道1号を約550m歩くと左側に十楽寺があり、その少し先に木造建屋のバス停(十楽寺前)があり、バス停を利用して昼食を食べることにし、Yumiさんを促して道路を横切りバス停の中に入りました。
11時27分~11時47分、昼食(十楽寺バス停)
086 十楽寺前バス停
昼食を何処で食べようかと考えていた矢先だったので、思いがけない施設に巡り合いホッとしました。
バス停の中にはベンチが付いており、ザックを置いて食べるのに丁度良い広さでした。
088 バス停の中
ここで昨日、関宿の森川菓子店で購入したパンと前田製菓で購入した志ら玉を、今朝関ロッジで出掛ける時に買った缶コーヒーで昼食を食べました。
志ら玉は、薄い生地でアンコを包んだ餅菓子で、とても美味しく感じました。
雨は止むことなく降り続いていますが、一時より小降りになったように感じの中、国道を元の右側に渡り、旅を続けました。
バス停前から約350m歩くと山中西交差点の手前に分岐があり、右に進みました。
11時51分、分岐(山中西交差点手前)=右方向
091 分岐(右)
分岐を入った左側に、土山碑が建っていました。
11時53分、土山碑(左側)
092 土山石碑
碑から約260m先の右側に、地蔵堂がありました。
11時55分、地蔵堂(右側)
094 地蔵堂
このお地蔵様は衣装をまとっていると地図に書き込んでいたのですが、見落としてしまいお地蔵様の衣装は確認できませんでした。
地蔵堂から約170m先の右側の民家の庭に、鬼瓦が並べられていました。
  
鬼瓦が並ぶ家(右側)
096 鬼瓦
新名神高速の高架下を通り、国道1号に合流した右側に一里塚公園があり、道標、馬子唄碑が建っていました。
12時04分、檪野観音道道標(右側)
097 道標(檪野観音道)
12時04分、鈴鹿馬子唄之碑(右側)
099 鈴鹿馬子唄之碑
100 馬子唄像
12時05分、105山中一里塚跡
101 105山中一里塚跡
一里塚碑を探しましたが、見当たりません。
しかたなく一里塚公園の石碑を一里塚跡とし、日本橋から105番目の一里塚として記録に残しました。
ここで国道1号に合流して右側を約350m歩くと、日本橋から437㎞の距離標が建っていました。
12時11分、437㎞距離標
103 437㎞標識
距離標から約350m先に猪鼻交差点があり、交差点を右折し、右に進まないで真っ直ぐ行くとT字路の突き当りとなり、T字路を左折し、約160m行った右側の民家の庭先に、中屋跡の石柱が建っていました。
12時17分、旅籠・中屋跡(右側)
104 旅籠・中屋跡
碑の脇に、明治天皇が休息された跡碑が建っていました。
この少し先から上り坂となっており、約100mで国道1号に合流しました。
  上り坂を歩くYumiさん
107 1号合流手前の上り坂
合流から約450mでまた国道と分岐し、右側に進みました。
12時26分、分岐(右に榎木の大木あり)
108 分岐(右のカラー舗装)
分岐を入って直ぐ右側に榎木の大木が2本植えられており、その奥に小さいお宮の白川神社が祀られていました。
12時28分、榎木(右側の公園内)
112 榎の大木
12時28分、白川神社(奥の右側)・(標高=288m)
113 白川神社
今日は参拝する機会がなかったので、参拝するためお宮の前に立ってお賽銭を奉納しようと賽銭箱を探すと、お宮の脇にぶら下がっていた小箱しかなかったので、お賽銭箱としてご奉納しました。
参拝は、Yumiさんの病気の全快(意味認知症・緑内障)と東海道夫婦二人旅のご加護を声を出してご祈願しました。
声の大きさは普通のしゃべる大きさですが、参拝した後が清々しいので、周りに人がいない時だけ声を出して参拝しています。
白川神社を出て、約550m先のガードを潜り、
115 ガード下をとおる
ガードから約80m歩いた右側に、古戦場跡がありました。
12時41分、蟹坂古戦場跡(標高=269m)
116 蟹坂古戦場跡
蟹坂古戦場は、
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍政を盛りかえし、さらに北伊勢の軍政を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍政五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
古戦場跡から約300m先に海道橋が新たに架かり、橋の手前右側に橋の高札が建てられていました。
12時49分、海道橋の高札跡(右側)
122 海道橋高札
12時50分、海道橋
120 海道橋
海道橋を渡った所から約100m先の右側に高札場跡がありました。
12時52分、高札場跡(右側)
124 高札場跡
高札場跡から約10mで、田村神社の参道となり鳥居が建っていました。
12時53分、田村神社参道
126 田村神社参道
街道は鳥居の前で左折し、国道1号を横切って道の駅・あいの土山の横を通り、土山宿に入っていくのですが、私は道を間違えて鳥居の前を通り過ぎて、神社の角を左折して国道に出てしまいました。

街道から見ると右側、間違えた道を歩いた私から見ると左側に、綺麗に整備された公園がありました。
128 和風公園
12時56分、道の駅・あいの土山前(標高=251m)
129 あいの土山
本来は、左側に写っている歩道橋を渡るのですが、私達は車が通らない時に横切って反対側に移動し、歩道橋の袂にある高橋商店に立ち寄り、名物の「かにが坂飴」(@750円)をお土産に購入しました。
13時00分、高橋商店(かにが坂飴)
130 高橋商店
131 かにが坂飴
この時点では、まだ計画どおり今日の予定地までの旅を続けるつもりでいたのですが、道の駅(あいの土山)で少し休憩しようと思い施設の中でザックを降ろし、濡れたタオルを交換したり、帽子を拭いたりして休憩しました。
ザックを降ろしひと息つき、この先雨の中の旅を続けるかどうかを考えながら外を眺めると、再び雨足が強くなっており、宿泊する旅館からも電話が入っていたことなどから、このまま旅を続ける気持ちが急に薄くなり、休憩した道の駅・あいの土山を今日の旅の到着地にすることに変更し、宿泊を予約しているあや乃旅館に電話を入れ、車での迎えをお願いしました。
旅館から約20分で着くというので、到着式の看板を持って外に出て、軒先を利用して到着式を行いました。
13時11分、道の駅・あいの土山(到着地)
132 あいの土山(到着地)
【帰路】
《移動》
134 あいの土山(館内)
施設の中に入るとトイレに行きたいと云うので、Yumiさんを一人で行かせるのは不安でしたが、トイレの場所を教え一人で行ってもらいました。
Yumiさんの姿が見えなくなるまで後ろ姿を見送り、旅の後片付けをしながらYumiさんが戻ってくるのを見ていると、元の通路を戻ってきたのでホッとしました。
※初めての通路を一人で歩いてトイレに行くと、迷子になる危険がある状態になってきています。
私とYumiさんが着ている合羽の色(E=黄緑色、Y=ピンク色)を伝えベンチに座って待っていると、旅館の女将さんの父親が迎えにきて下さいました。
13時30分、あいの土山発
旅館に向かう道(国道1号)は、明日歩くコースの近くなので、「こうゆう所を歩くのか」、「意外と距離があるな」などを思いながら車窓から眺めていましたが、Yumiさんはコックリ、コックリしていました。
また、明日の朝のことについて
 ①.朝食はおにぎりにしていただけないでしょうか
 ②.旅館を6時30分頃に出発して、あいの土山まで送って頂けないでしょうか
と話すと、「旅館に着いたら話して下さい」と云われ、回答は持ち越しになりました
13時50分、あや乃旅館着

女将さんのにこやかな出迎えを受け、Yumiさんの病状(予約時に連絡しておいた)を考慮して下さったのか、1階の部屋に入りました。
《ハプニング》
指定された部屋に入ろうとすると、女将さんから「先週お泊りになったSさんからお渡し下さいとお預かりしました」と云って、白い封筒を渡されました。
封筒は、ブログで知り合ったSさんからで、手紙とご夫婦の写真が添えられていました。
手紙には、あや乃旅館に泊まった経緯が記されていました。
このブログを通じて知り合い、メールで私達が泊まる予定のあや乃旅館のことは記しましたが、まさか泊まるとは思ってもいなかったので、手紙を頂いてビックリしました。
Sさんご夫婦は、私達と近い所を旅をしているようですが、この先お互いに事故に巻き込まれることなく、京都三条大橋に立てたらと願っています。
また、手紙にはYumiさんが認知症になるまで一番の趣味として、こよなく愛していた着物着付けについても記されていました。
Yumiさんが元気だったらどれだけ喜んだことかと思いながら手紙を見せましたが、今のYumiさんは何が書かれているのか理解できる状態にはなく、Yumiさんを本当に哀れに思いました。
Sさんからの手紙は、東海道夫婦二人旅の良き思い出として、ご夫婦の写真ともども永久に保存するため、大切に持ち帰りました。
《ザックの整理》
雨中の旅だったので、ザックから荷物を取り出して確認すると、個別にしっかりとビニール袋で防水処理していたため、濡れたものは一つもありませんでした。
また、着ていたものを脱いで旅館のゆかたに着替えてハンガーに掛けて干しましたが、ゴアテックス製の合羽の下に着ていた衣類も汗による濡れ程度で、雨による濡れはありませんでした。
また、ゴアテックス製のウォーキングシューズも防水処理のお蔭で、履いていた靴下も汗で少し湿った程度で雨水による濡れはありませんでした。
なお、ウォーキングシューズの下敷きは、脱いだ後、直ぐに抜き取り乾かしました。
《浴室》
女将さんからお風呂は直ぐ入れますと案内されていたので、着替えなどの用意をして入浴しました。
ビジネスホテルの浴室は、狭くてYumiさんのシャワー介護するのが精一杯ですが、二人でゆったりと浴槽に入れる家族風呂は最高で、Yumiさんと顔を見合わせて「気持ちいいね」とニッコリしてしまいました。
家の時と同じように自力で洗ってもらいましたが、着替えは私に頼りっぱなしの状態だったので、私は裸の状態のままYumiさんに着せたため、終わらせるまで着ることができませんでした。
《夕食》
18時過ぎから夕食となり、食事をする和室に行きました。
  ↓座って直ぐ(料理がまだ出しきれていません)
139 あや乃旅館・夕食①
  ↓ほぼ揃った夕食
142 あや乃旅館・夕食④
瓶ビールで今日の無事の旅を祝して乾杯し、食べ始めました。
料理は家庭的なもので、味付けは我が家にピッタリで、Yumiさんと「美味しいね」と云いながら、二人とも残さず食べました。
また、食事は旅館の家族の方々も別のテーブルで一緒に食べ、食後には女将さんのお母さんが鈴鹿馬子唄の美声を聞かせて下さいました。
民宿的ですが、何とも温かさのある旅館でした。
人によって感じ方は違うと思いますが、食事を含めて温かい「お・も・て・な・し」付き一泊2食(@5,775円)の料金は、年金生活者には有難い料金だと思いました。
そして、写真に撮りませんでしたが(了承なしに掲載できないため)、廊下にはあや乃旅館に泊まられた方々の写真や手紙が一面に貼られていました。
食事が終わり、部屋に戻り横になってテレビを見ていると、Yumiさんはスヤスヤと寝てしまいそうなので、寝る前の目薬を点眼し、血圧の測定を行い私も横になりました。
一生記憶に残る「雨中の鈴鹿峠を越えて、一日雨の中を歩いた旅」は何事もなく無事に終わり、二人とも夢の世界に入りました。
【あや乃旅館情報
〒528-0032 滋賀県甲賀市水口町八坂3-41
 TEL=0748-62-0998 FAX=0748-63-3338
  
 http://www.ayano-ryokan.com/i/

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【街道旅のご案内】

※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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