【天候】晴れ
【宿場】(52)草津宿⇒(53)大津宿

【行程】歩行距離=9.95㎞ 総距離=472.37㎞
手原駅・駅入口交差点⇒(2.10㎞)⇒114目川一里塚⇒(4.20㎞)⇒115野路一里塚⇒(3.65㎞)⇒116大萓一里塚(瀬田駅・一里山二丁目交差点)

【ルート図】
  ↓宿場(黒囲みが第35回旅の宿場)
07 35回宿場
  旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第35回
  
第35回の旅ルート
  
(JR手原駅・駅入口交差点 ⇒ JR瀬田駅・一里山二丁目交差点)
第35回ルート
【再訪】
 中山道旅で草津~瀬田を旅し、夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を補完しました。
  
〔※①〕=平成30(2018)年10月15日
【旧東海道の旅】
《準備》
05時30分、起床

《トイレ通い》
03時30分頃からYumiさんのトイレ通いが始まり、起床するまで6回行く中で、最後の2回はパットを持ってきて大便が付いた状態を私に見せ
Y=こうなの
E=大便の後、拭いていないの?
Y=分からない
(しかたないので、トイレに連れて行き、便座に座らせウォシュレットを行い)
E=これ(ウォシュレット)、使ってる?
Y=してない
E=そう。じゃ、お尻を拭いておいで
と話し、トイレを出ました。
ここでウォシュレットの使い方を教えても、覚えるまでの道のりを考えると、使わなくても良いかなと考え、説明するのは止めました。
意味認知症(左側頭葉の海馬が萎縮)にアルツハイマー(前頭葉の海馬が萎縮)が加わったのかと、気持ちが落ち込みました。
《身支度》
ホテルで宿泊した時の歯磨きや洗顔は、これまで何回も経験しているのですが、Yumiさんの記憶回路には残っていないようで、歯磨きの準備、持参した洗顔石鹸の準備など、全て介護が必要です。
今日の洗面は、
歯磨き(E=髭剃り)を終わると、そのまま出て行こうとするので洗面に戻し、持参した石鹸を渡すと洗顔を始め(E=歯磨き)、洗い終わると顔を拭くタオルが分からず、タオルを渡しました。
洗顔が終わるとまた出て行こうとするので、洗面に戻しブラシを渡すと、自分でブラッシング(E=洗顔)を行いました。
Yumiさんには、私の洗面が終わるまで起きたままの状態で待っていてもらい、着替えをしました。
身支度は、Yumiさんの足ケアーから始めシャツを着る前に、コソプド点眼液を点眼、少しして血圧を測定(手首式)、そしてアイファガン点眼液を点眼しました。
これ以降はYumiさん一人で着てもらいますが、着るものを一つ一つ私に確認しながら着るため、私の身支度はなかなかはかどらず、結局Yumiさんの着替えが終わってからの着替えることなりました。
身支度が終わったところでザックの荷造りを行い、出発する準備を整えました。
※毎朝、服用する私の薬とYumiさんのサプリメントをYumiさん預けると、「これ、どうするの?」と同じことを聞かれたので、「次は云わないでよ」とYumiさんに云いましたが、4回目も聞いてきました。
6時55分に朝食会場に行き、7時からバイキング形式の朝食となり、Yumiさんの介護を行いながら配膳し朝食を食べました。
そして食後、部屋に戻りトイレを済ませてから出発しました。

《ホテル出発》
07時35分、ホテル発

001 東横イン三宮2
《移動》
今日は、ルミナリエを見た三宮駅から出発地の手原駅まで移動します。
07時50分、JR三宮駅発
003 JR三宮駅ホーム
09時06分、JR草津駅着
改札を出てコンコースの「うばが餅屋」に立ち寄り、「うばが餅」(12粒・500円)を買いました。
うばがもちは、広重、北斎の浮世絵や各種の名所図会にも描かれている『うばがもちや』で、この商品名は広辞苑にも記載されており、「あんころ餅の一種。滋賀県草津の名物。」とあります。
※うばが餅は、食べるところに写真を掲載しています。
草津駅で草津線に乗り換え、手原駅に向かいました。
09時24分、草津線草津駅発
09時29分、手原駅着
005 手原駅・改札口

手原駅は、東経136度の子午線が走っており、駅前にそのモニュメントが建てられているというので、記録を残しました。
09時33分、東経136度の子午線

006 東経136度子午線(手原駅前)
【=旅=】
ここから約120m先の稲荷神社手前の交差点が、今日の出発地です。
出発地が記された看板を、Yumiさんが掲げているところを写真に収める出発式を行い、今日の旅をスタートしました。
09時36分、手原駅入口交差点(出発地)

009 手原駅入口交差点(出発地)
出発地から約200m先の右側(民家の前)に、東経136度子午線の標柱が建っていました。
09時41分、東経136度子午線の標柱(民家の前)
013 東経136度子午線
私はもう少し出発地に近いところと思っていたので、「見逃したかな」と思った矢先に標柱があり、「あったー」という感じでした。
子午線の標柱から約20m先の左側に白壁の豪邸が、右側に連子格子の家が建っており、両家とも川崎家でした。
 ↓白壁の豪邸(川崎家)

016 白壁の豪邸
 ↓連子格子の家(川崎家)
017 連子格子の家
旧家から約130m歩いた右側のマンション(メゾンジョイ)手前の右入り道路の角に道標が、その数m先に田楽茶屋跡がありました。
09時46分、道標(右側)

018 道標
 ↓田楽茶屋・すずめ茶屋跡(右側)
020 すずめ茶屋跡(田楽茶屋)
茶屋跡から約120m歩くと県道55号の交差点となり、右を見ると国道1号を越えた先に家具・インテリアのプラスカーサがあり、建物の後ろにVサインしている白い像が建っていました。
 ↓プラスカーサに建っている白い像(右側)

022 vサインの像
交差点を過ぎて左を見ると上鈎池があり、交差点から約70m歩いた左側に、足利9代将軍足利義尚の鈎の陣碑が建っていました。
 ↓上鈎池(左側)

023 上鈎池
09時55分、足利義尚鈎の陣跡(左側)

025 足利義尚の鈎の陣
九代将軍足利義尚
鈎の陣所跡は、室町幕府が応仁の乱を境に勢力が衰え社会は乱れ、近江守護職佐々木高頼が社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため時の将軍足利義尚は長享元年(1487年)10月近江へ出陣し鈎に滞陣した。滞陣2年している時に病となり延徳元年(1489年)3月に25歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西に約300mの永正寺の一帯です。
立場跡から数軒隣りの民家の庭(道路沿い)に、目川田楽・古じま屋跡がありました。
10時29分、田楽茶屋・古じま屋跡(右側)

038 田楽茶屋・こじま屋跡
菜飯田楽は豊橋で食べましたが、江戸時代に全国ブランドだった目川立場の菜飯田楽が、現在は一軒もこの地に無いのはちょっと残念です。
さらに約220m歩いた右側に田楽茶屋・京いせや跡が西岡宅の前に建っていました。
10時33分、田楽茶屋・京いせや跡(右側)

040 田楽茶屋・京いせや跡
茶屋跡碑から約70m歩くと分岐となり右方向に進むのですが、分岐左角に現代の茶屋が建っていました
 ↓分岐(右方向・左が茶屋ほっこり庵)=左側

042 分岐(右方向)
10時36分、ほっこり庵=左側(入口は分岐を左に入った処)
043 ほっこり庵
 ↓ほっこり庵(分岐手前の左側)
045 ほっこり庵(横)
 ↓芭蕉句碑=左側(分岐を左折し、ほっこり庵の隣り)
047 芭蕉句碑
句碑を見て分岐に戻り、右方向に進み約250m先の東海道新幹線ガードを潜り、さらに約220m歩いた右側のホワイト急便(クリニーング店)手前に領界石が建っていました。
10時47分、領界石(従是東照領)=右側

049 従是東照領碑
石碑から約90m先の右側の民家の前(斜め左側に山田プロスポーツ整体院)に、老牛馬養生所址がありました。
10時51分、老牛馬養生所址=右側
051 老牛馬養生所跡
老牛馬養生所は、栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎすることを止めるようと呼びかけ、天保12年(1841年)四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。
石碑から約160m歩くと栗東市から草津市に入る市境標識柱が建っていました。
10時53分、市境標識(栗東市から草津市)
053 草津市市境標識
市境から約50m歩くと分岐となり、左側の道を歩き土手に上がりました。
 ↓分岐①(左側)

055 分岐(左の上り道)
分岐を細い左側に入り、土手を上り、そのまま道に沿って進み1号線の上を通り、約70m先に旧草津川に架かっている橋を渡ります。
 ↓分岐②(左折)

056 分岐(左折)
渡った所のT字路を、右折します。
 ↓分岐③(右折)

057 分岐(左側)
右折すると二又になっている道を、左に進みます。
左に進んだ道の左側に石燈籠が建っていました。
11時01分、横町道標(左側)

058 横町道標
横町道標は、草津宿の江戸方の入り口であった草津川の堤上建つ火袋付石造道標です、高さ約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816年)3月に建てられました。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました。
坂を下り、約400m歩くと左側に草木栄久堂があり、店の前からカラー舗装になっていました。
 ↓カラー舗装

060 カラー舗装047 東海道
カラー舗装を約160m歩くとT字路となり、東海道と中山道の合流・分岐地の追分(右側角)がありました。
追分を東海道は進行左折、中山道は右折します。
※街道の分岐(草津追分)=写真右の緑矢印が進行方向
065 分岐(東海道と中山道の合流点)046 街道合流点
東海道が合流点に達する手前の左側に、道路元標が設置されていました。
 ※①=道路元標(左側)
048 道路元標
そして合流点の左側に堯考法師歌碑が建っていました。
 ※①=堯考法師歌碑(左側)
049 堯考法師歌碑
 中山道トンネル・・・写真右は※①に撮影
065 合流点から見た中山道043 草津川トンネル出口
11時11分、追分常夜燈道標(右側)・・・(写真右)※①に撮影
061 追分道標045 追分道標
追分常夜燈道標は、「京」から「江戸」に向かって書いてあるので、「右 東海道いせみち」、「左 中山道のみち」となっている。
多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大坂をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので高さは一丈四尺七寸(4.45m)で火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上は度々の風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。
また、追分常夜燈道標の道路向かい側に、高札場跡がありました。
11時13分、高札場跡(右側)・・・(写真右)※①に撮影
063 高札場跡044 草津宿高札場跡
追分を左折して約40m歩くと、右側に、草津宿本陣跡があり立ち寄って見学しました。
11時15分~11時35分、草津宿本陣跡
066 草津宿本陣
草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。いつの頃からか材木商も営むようになり、田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。
本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿を良く留めているとして、昭和24年(1949)に国の史跡に指定されました。
私とYumiさんは、受付で入館料(@200円)を支払い、館内を見学しました。
 ↓上がり座敷(玄関から入った処)

068 本陣土間
 ↓畳み廊下(館内の通路)
070 本陣内の通路
 ↓風呂場(五右衛門風呂が当時を偲ばせる)
073 湯船
 ↓上段の間(殿様の部屋)
074 上段の間
 ↓当時の食事
076 本陣食事の見本
本陣をひと通り見学し、草津宿の街並みを眺めながら歩きました。
本陣(田中七左衛門)を出て田中九蔵本陣跡を探したのですが、見落としてしまいました。
ところが家に帰ってきて写真を見たら、本陣跡らしき石碑(白丸)が写っていました。

077 本陣の町並み(右の石碑は本陣跡?)
本陣跡の斜め向かい(進行左側)に、脇本陣藤屋与左衛門跡で現=吉川芳樹園があり、壁に標板が掲げられていました。
 ※①=脇本陣藤屋与左衛門跡(現吉川芳樹園):左側
052 脇本陣(藤屋与左衛門)跡
吉川芳樹園の先隣りが脇本陣仙台屋茂八跡で、現=ベーカリー&カフェがあり、店の右脇に標石が建っていました。
 ※①=脇本陣仙台屋茂八跡(現ベーカリー&カフェ):左側
053 脇本陣(仙台屋茂八)跡053-2 標石
脇本陣仙台屋から小路を挟んだ約30m先が田中九蔵本陣跡のようですが、標識が建っていないため正確な場所が分かりませんでした(地場の人に聞いたのですが)。
資料ではお食事処はり茂あたりとのことで、どうも間違った場所を撮ってしまったようです。そのため、写真の掲載は割愛します。
さて、田中本陣跡の見学を終え食事出来そうな店を探して左右をキョロキョロしながらゆっくりと約50m歩くと、左側にスナック「トリコロール」があり昼食に立ち寄りました。
11時38分~12時03分、昼食(トリコロール)

078 スナック・トリコロール(昼食)
 ↓店内
080 店内
店内に入ると、若いカップルと私達だけで、何種類かのメニューからハンバーグランチ(@600円)を注文し、ひっそりとした店内で寛ぐことができました。
食事を済ませ草津宿を約60m歩くと左側に、くさつ夢本陣がありました。
12時05分、くさつ夢本陣
081 くさつ夢本陣
建物がひっそりとしていたのと、食事直後だったので立ち寄らないで通過し、約60m先の左側の草津宿街道交流館に立ち寄りました。
12時07分~12時13分、草津宿街道交流館・・・写真右=※①で撮影
083 草津宿街道交流館056 街道交流館
 ↓館内(駕篭に乗ってみました)
085 館内・展示の駕籠
Yumiさんは、重いお尻を降ろすのも、持ち上げるのも大変で、写真を撮る前後はYumiさんのヨイショ、コラショの声がしていました。

外に出て約80m歩くと左側に太田酒造があり、酒造所の前に草津政所跡がありました。
 ↓太田酒造(左側)

087 太田酒造058 太田酒造
江戸城を作った太田道潅から名付けたのか「道潅」という銘柄で販売しているようです。
酒造には立ち寄らないで店の前を通り過ぎようとしたら、草津政所跡の標板が建っており、解説に「太田家は江戸城を築城した太田道灌の遠祖で、代々問屋場の総取締役を勤め、草津の政所と呼ばれた」と記されていました。
12時15分、草津政所跡

088 草津政所跡
太田酒造から約200m歩くと、立木神社前交差点で、交差点手前の左側に商人宿で庵看板を掲げていた野村屋があったと云うのですが、標識がないため場所が確定できませんでした。
そのため、写真は撮らずに立木神社に向かいました。
神社前交差点を渡り、右側の赤い鳥居を潜って境内に入り、史蹟を見学しました。
12時21分、立木神社

090 立木神社
境内に道標があり、Yumiさんの病気完治と旅のこ加護をご祈願するため、本殿に詣でてお賽銭をご奉納し、声を出してご祈願しました。
 ※①=(写真左)本殿と鹿の狛犬
060-3 本殿
 ウラジロガシ(滋賀県指定自然記念物)

092 ウラジロガシ062 ウラジロカシ
 ↓道標(現追分道標の先代道標)
094 石造道標(境内)061 石造道標
街道沿いの鳥居を潜り約160m進むと矢倉橋手前の交差点があり、ここが草津宿の京口で黒門が建てられた処で、左折した約10m先の左側に解説標板が建っていました。
 ※①=草津宿京口(黒門跡)・黒門解説
063 黒門跡解説
063-2 絵図
交差点から約20m進むと草津川に架かる矢倉橋があり、渡って進みました。
12時30分、矢倉橋・・・(写真右)右方向の眺め=※①で撮影
099 矢倉橋064-2 右方向の眺め
矢倉橋を渡り約150m歩くと、小路十字路の右角に化粧地蔵が祀られていました。
 ※①=化粧地蔵(右角)
065 化粧地蔵
化粧地蔵から約20m進むと右側に吉川宅があり、玄関前に「小さなパン屋さん」の看板が架かっていました。
12時35分、小さなパン屋さん(右側)=日曜日だけ開店

101 小さなパン屋
開店は、毎月第4日曜日だけという、個人の方が趣味で運営しているお店のようです。
パン屋さんから約30m先の右側に、銘酒天井川の蔵元の古川酒造がありました。
 ※①=古川酒造(右側)
067 古川酒造
古川酒造から約120m歩くと、右側に瓢泉堂があり、敷地角に矢橋道標が建っていました。
12時39分、矢倉道標(右側)

103 矢倉道標069 旧姥ケ餅屋跡(立場跡)
矢倉道標は、「右 やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」とある。店舗右の道は「矢橋の港」につながり、そこから船で対岸へと渡っていたらしい。琵琶湖の南端を歩いて回って行くより、こちらの方が近い。しかし比叡山からの強風で渡れない日もあり、逆に歩いた方が早い時もあったようです。そこで室町時代の連歌師・宗長が「もののふの矢橋の船は 速くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠んだらしい。「もののふ」とは武士のことで、「瀬田の長橋」とは瀬田の唐橋である。
瓢泉堂の場所は矢橋立場だった旧姥ケ餅屋跡で、歌川広重の東海道五十三次の草津宿として描かれており、解説標板が掲げられていました。
※旧姥ケ餅屋跡(矢橋立場)=右側
105 矢倉立場(瀬川元宅前)
瓢泉堂から約100m歩くと、右側に愛宕神社が祀られていました。
 ※①=愛宕神社(右側)
070 愛宕神社
愛宕神社から約100m歩くと、右側に吉川家があり、敷地内に化粧地蔵が祀られていました。
 ※①=化粧地蔵(右側)
071 化粧地蔵
化粧地蔵から約90m歩くと、右側に稲荷神社が祀られており、参道に赤い鳥居が建ち並んでいました。
12時46分、稲荷神社(赤い鳥居)=右側
108 稲荷神社・鳥居前
稲荷神社から約210m歩くと、①国道1号の矢倉南交差点で、交差点を左折して渡り、②渡った所を右折して国道に沿って約50m進み
 ①※=分岐:①矢倉南交差点を左折横断 ・ ②右折して国道に沿って進む
073 矢倉南交差点(左に渡る)073-2 渡って右に直進
突き当りを左折して、直ぐ右折するクランク形に街道は進みます。
 分岐(クランク形に進む)

110 分岐(クランク形)
 分岐(突き当りを左折)➡公園に入る
111 分岐(直進右折)073-3 上北地公園に入る
上北地公園に入ると右側に日本橋から115番目の一里塚跡があり、塚跡に石碑が建っていました。
12時52分、115野路一里塚跡
113 115野路一里塚碑(上北地公園内)
公園の入口に東海道の案内図が建っていました。
115 東海道・順路075 公園出口
私とYumiさんは、一里塚跡からかがやき通りを歩いて国道1号の交差点(野路町)を渡らないで、車の合間をぬってかがやき通りを横切りました。
かがやき通りを横切った左側に、東海道の案内標(現在は標板に変わっています)が建っていました。
12時57分、東海道案内標(左側)
116 東海道・案内道標076 東海道案内標
案内標からののみち保育園を過ぎた左側に教善寺があり、門前に東海道解説標板が建っていました。
 ※①=東海道解説標板(左側)
077 東海道解説
解説標板から約50m歩くと、遠藤家の塀の上に、平清宗胴塚(五輪塔)と解説の写真が掲げられていました。
家の敷地内に入らないで史蹟が確認出来るように、遠藤家の配慮で行っているようです。
 ※①=平清宗胴塚(遠藤家)=右側
078 清宗塚(遠藤家)
壇ノ浦の合戦で源義経の捕虜となった平清宗は、鎌倉から京に護送される途中、ここで斬首されたそうで、塚には五輪塔が建てられているようです。
平清宗胴塚の写真が掲げられている処から約120m歩くと、左側に新宮神社の鳥居が建っていました。
 ※①=新宮神社・鳥居(左側)
079 新宮神社・鳥居
鳥居から約350m歩くと、右側に子守り地蔵が祀られていました。
 ※①=子守り地蔵(右側)
080 子守り地蔵
地蔵から約190m歩くと左側にコンビニ(セブンイレブン)があり、ペットボトルを買うために立ち寄り、信号のない交差している県道43号線を横切り、約40m先の川を越えた右側に野路萩の玉川跡がありました。
13時12分、野路萩の玉川跡(右側)

118 野路萩の玉川
081 野路萩の玉川081-3 全景
「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。
源平争乱の時代ここ野路は、数多くの武将の宿陣となり時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」は名歌として世に広くしられている。又、十六夜日記(阿仏尼作)には「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれいつの頃か歌碑も建てられた。

萩の玉川跡から約120m歩くと、地蔵祠が祀られていました。
 ※①=地蔵祠(右側)
082 地蔵祠
地蔵祠から約240m歩くと右側に弁天池があり、突き当りを左方向に約60m進むと、弁天島に渡る参道橋が架けられていました。
13時18分、弁天池(右側)
萩の玉川から約400m歩くと弁天池に突き当り、
120 弁天池
池に沿って約70m歩くと池の中にある弁天島に渡る参道がありました。
13時20分、弁財天参道入口(右側)
123 弁財天参道083-2 弁天島参道橋
デコボコ道の参道を通って、島に渡りました。
弁天島は日本左衛門が追手に追われ、逃げ隠れたと云われており、島の入口に鳥居と島のなか程に古い社が建っていました。
 ↓弁財天鳥居

125 弁財天鳥居
 ↓弁財天・社
127 弁財天・社084-2 堂内
13時22分~13時29分、休憩(弁財天参道入口脇)
128 弁財天桟橋前(休憩)
 ↓うばが餅
130 うばが餅
今朝、草津駅のコンコースで購入した、「うばが餅」をおやつで食べることにしました。
うばが餅は小さいお餅をこしあんで包み、乳首のようにポツンと白いあんが付いており、大きさが一口サイズと小さいので、人によっては6個では少ないかもしれませんが、私とYumiさんには適量でした。
のんびりとした休憩を終え、ザックを背負ってベンチを立ち旅を再開すると、約210m歩くと狼川に架かる橋があり、さらに約210m歩いた大学生協学生会館が終わる辺りに草津宿と大津宿の宿境の常夜燈が建っていました。
13時37分、宿境常夜燈(右側)
131 宿境(草津宿・大津宿)
常夜燈から約150m歩くと右側に学生生協学生会館花梨35があり、その隣りの日本黒鉛工業の工場の道路反対側(進行左側)が土塁になっており、現在は桜が植樹されていますが、昔は松並木だったそうです。
13時40分、土塁(松並木の名残り)
136 ④
右側の日本黒鉛工業瀬田工場を過ぎ、約120m歩いた先の左角に草津市から大津市に入る市境標識が建っていました。
 ※①=市境標識(草津市から大津市):左側
086 大津市境086-2 説明標識
市境標識から約180m歩くと、十字路の左角に白壁の大きな邸宅がありました。
私の能力ではとても住むことが出来ない家なので、住める夢を描くために記録に残しました。
Yumiさんは、「人の家の写真を撮っても生がないでしょ」と現実の話しをしましたが、男は夢を描くから頑張れるので、Yumiさんの言葉は無視して写真に収めました。
 ※①=白壁の邸宅(長野邸):左側
138 白壁の豪邸
白壁の家がある十字路から約70m歩くと、小路の十字路があり左角に道標が建っていました。
 ※①=道標(左角)
088 道標
邸宅から約50m歩くと左側に月輪寺があり、境内の中(?)に明治天皇が休息した跡碑などの石碑群が建っていました。
13時51分、石碑群(左側)

140 石碑群090 東海道標石
月輪寺から約110m歩くと、左側に月輪池があり、池と街道の間に東海道立場跡碑が建っていました。
13時53分、東海道立場跡碑・月輪池=左側
142 東海道立場跡092 月輪池
立場碑から約350m歩くと一里山三丁目交差点となり、斜め左方向に進みました。
 ↓分岐(斜め左方向)

093 一里山三丁目交差点(直進)
交差点から約140m歩くと一里山橋があり、川沿いは桜並木になっており、「桜の頃は綺麗なんだろうな」と思いながら左右の桜並木を眺めながら橋を渡りました。
14時03分、一里山橋(桜並木)

145 桜並木(一里山橋)
橋を渡り、道なりに約280m歩くと学園通りの「一里山二丁目」交差点となり、交差点の左角に日本橋から116番目の一里塚跡があり、塚跡に石碑と標板が建っていました。
14時07分、116大萱一里塚(左側)
149096 120月輪池一里塚跡
一里塚でYumiさんの写真を撮っていたら通りすがりの男の人が、「一緒のところを撮ってあげましょう」と云って撮って下さいました。
今日の旅は、ここが到着地のため、Yumiさんに到着地の看板を掲げてもらって到着式を行いました。
14時09分、一里山二丁目交差点(到着地)

151 一里山二丁目交差点(到着地)
Yumiさんが掲げている看板は「一里山一丁目」になっていますが、これはグーグル地図の表示がこのようになっていたためで、交差点の標示は「一里山二丁目」となっていました。
【帰路】
到着式を行い、450m離れたJR瀬田駅に向かって歩き、国道1号線と学園通りが交差する瀬田駅口を渡り、瀬田駅に着きました。
今日のホテルは、一駅移動して石山駅から5分程のレイアホテル大津石山に予約したので、瀬田駅から石山駅に移動します。
14時20分、瀬田駅

153 瀬田駅
 ↓瀬田駅ホーム
157 瀬田駅ホーム
14時35分、瀬田駅発
14時37分、石山駅着
石山駅のコンコースは明日の旅で通過するので、ルートを確認していると街道ウォーカの団体が駅前ロータリーを歩いてきました。
明日のルート確認の参考になると思い、団体さんが歩くコースを確認してから、ホテルに向かおうと石山駅のコンコースの階上デッキからホテルの位置を探していると、Yumiさんがトイレに行きたいというので、階上デッキから降りてタクシー乗り場の脇にあるトイレに行きました。
《非常呼び出し音》
トイレの外で待っていると、赤ランプが点滅するとともに呼び出し音が鳴り出しました。
Yumiさんが汚物流しの操作が分からないため非常呼び出し用のボタンを押したようで、近くで客待ちしていたタクシー運転手さんが、「止め方を知っているから大丈夫だよ」と云って下さいましたので、「お願いします」と後処理をお願いしました。
《ホテル》
ホテルでチェックインすると部屋は喫煙室になっているので、「禁煙ではないの?」と聞くと、喫煙室で予約されていますと云われ、「あー、そうですか」と引き下がりました。
部屋の鍵を受け取り、部屋に入って印刷してきたホテル予約の情報を確認すると、やはり喫煙室になっていました。
予約する時に確認しなかったのが原因なので、タバコヤニがする部屋ですが、我慢して過ごすことにしました。
部屋に入ってからがまた大変で、靴の下敷きの乾燥、点眼&血圧の準備、デジカメ&スマホ・携帯の充電、着替えの準備、翌朝の足ケアの準備など、ほぼザックの中味を全部出して行う必要があり、部屋のなか一杯に荷物が広げられました。
《面会者》
部屋で翌日の支度をしていると、携帯にTさん(東海道の旅で知り合った滋賀県の方)から電話がありました。
私が今日と明日の二日間、東海道の旅で歩くことを知っていたので、陣中見舞いの電話かと思い話していると宿泊ホテルを教えてほしいと云うので、ホテルを教えて電話を切りました。
暫くするとフロントから「Tさんがフロントにお見えです」と連絡があり、Yumiさんを連れてロビーに行くと、Tさんがソファーに座っていました。
Tさんとはメールで知り合い、会うのは初めてで、ホテルまで来られるとは思ってもいなかったので、ビックリしました。
東海道の旅や、滋賀県を歩いて感じたことなどを約1時間近く話し、別れました。
その時、手原駅に子午線のモニュメントがあったことを話すと、大津駅にも子午線のモニュメントがありますよ、と教えて下さいました。
明日は京阪電鉄大谷駅まで歩くのですが、予定を代えて大津駅で子午線モニュメントを見て行こうと思いました。
【夕食】
 ↓今日はハイボールで乾杯しました
161 花の舞(夕食)
 ↓牡蠣鍋
163
鍋、刺身、鳥から揚げなど食べたいものを注文し、飲み物を追加するなどお腹を膨らませてホテルに戻りました。
【夕食後】
《シャワー》
ホテルに戻り、浴室兼トイレが狭いので、一日我慢してしまおうか考えましたが、昼間の旅で汗もかいているので、シヤワーを浴びることにしました。
Yumiさんは、家の時と同じように介護してもらいながらシャワーを浴びましたが、終わるころには浴室兼トイレの床はビショ濡れ状態になっていました。
床が濡れないように気を付けたのですが、やはり無理でした。
《出入り口の扉》
室内にトイレがあり、トイレの場所も教え、Yumiさんも使っているのですが、トイレに行く方法を覚えることが出来ず、出入り口の扉(ロックしても開けてしまう)を開けるので、扉の前に椅子、ザック、靴を置いて分かるようにしました。
同じ部屋の中にあって、何回か使っているのに、トイレの場所を覚えられないことが、なかなか理解できません。
寝る前に目薬(日1回)を点眼し、トイレに行けるように室内灯を一部点灯し、ベットに入りました。
その後、シャワーを浴び、明日の旅支度を行い、早々にベッドに入りました。


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【街道旅のご案内】

※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
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この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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