旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

カテゴリ: 東海道

旧東海道を歩くことは、4月に結婚40周年を迎えるのにあたり、何か思い出に残ることをしたいと考えていた矢先、山歩きで常に相談しているN氏から、「今度、旧東海道の東下りに参加することになった」と伝えられたことが引き金となり、Yumiさんと二人で歩くことを決めました。
そして、旅の途中、N氏と東海道の何処かで、すれ違えたら「素晴らしいな」と夢も描きました。

私は今年(H24)65才を迎え来年(H25)の3月31日で、長きに及んだサラリーマン生活を終え、自遊人の年金生活に入ります。
相方のYumiさんは、私より少し年下で、着物着付けをこよなく愛する、心の優しい、穏やかな女性です。
そのYumiさんは、4年前の平成19年11月に乳がんの手術を受け、抗がん剤の治療を受けている最中の平成20年12月に「認知症」と診断され、病名を云われないまま2年を経過しました。
そして、平成23年1月に受診した病院(3ケ所目)で、「意味性認知症」と診断され病名が確定し、平成23年2月に介護認定調査を受け、平成24年6月現在は「要介護2」です。
※その後のYumiさん
平成27年1月の区分変更認定調査で要介護4となり、平成27年4月に階段で転倒し頭蓋骨骨折で入院したのを契機に、歩行困難となり要介護が5になりました。
幸運にも平成27年6月に第一希望として考えていた特別養護老人ホームに入所することができ、在宅介護だったYumiさんの介護から手が離れ、自分の時間を持てるようになりました。
また、意味性認知症が含まれる前頭側頭葉変性症が平成27年7月に難病指定となり、医療費助成(医療費が2割負担)を受けられるよう申請し、東京都から認定証の交付を受けました。
★意味性認知症
「前頭側頭葉変性症の中の1つで、症状は言葉や物の意味語議がわからなくなる意味記憶障害で、話していることがちぐはぐになり会話がうまくできなくなります。
進行すると、前頭側頭型認知症と同じような精神行動障害(無為や常同行動、脱抑制など)が目立つようになり、日常生活をする上で支障をきたすようになります」
《解説情報》 以下のアドレスをクリックするとご覧になれます
・前頭側頭葉変性症 つくしの会 カテゴリー「病症情報」・・・私が会長を務める介護者団体です
  http://yamatosakura2016.blog.fc2.com/

【街道旅】
東海道の旧道を歩くといっても、全く知識がありません。

しかし、自力で資料を収集して完歩するところに今回の目的があるので、インターネットなどで資料の収集を始めました。
旧東海道のルートは、Uソリューションズが作成した「5街道 Googliマップ 東海道編」と「東海道一里塚」。
日本橋から箱根峠は、国交省東京国道事務所と横浜国道事務所が作成した地図を基本に、先人の方々が苦労して集められたHP情報を組み合わせて収集することにしました。

そして、箱根峠から先は旧東海道が通っている自治体に、旧東海道に関する資料の提供をお願いすることにしました。
また、旅は歩くだけではなく面白くないので、先人が残して下さっているHP情報を使わせて頂くことにしました。

さて、京から出発する東下りは既に1月から始まっているため、私もなるべく早く出発しなければなりません。

ところが、一日の歩く距離、全体の行程をどうするか等、いろいろと考えなければならないことが多々あり、計画は一進一退を繰り返し、なかなか全体の工程が決まりません。
そこで、3月11日に日本橋を出発、再来年1月に三条大橋に到着することを目標として定め、準備を始めました。
《旅の基本的な考え方》
・加入している山の会の低山ハイキングや、ウォーキングに参加しながら歩く。
・三島までは日帰り、そこから先は1泊2日、または2泊3日で歩く。
・7月と8月は、体力の負担を考えお休みする。
・前日の午後5時発表の日本気象協会予報で、降雨確率が40%以上の時は予約ホテルの対応により順延する。
これらを基本に詳細な計画を立てていくことにしましたが、夫婦二人の気ままな旅なので、準備に汗を流しますが、他の人に気兼ねすることなく自由に計画を変更して、無理なく、楽しい旅をしたいと思います。
皆さん、ご支援程よろしくお願いします。

さあ、京・三条大橋を目指して、出発です。

【街道旅のご案内】
【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/archives/5293030.html


【天候】曇りのち晴れ
【宿場】日本橋⇒(01)品川宿⇒(02)川崎宿

【行程】歩行距離=19.72㎞ 総距離=19.72㎞  
基点・日本橋⇒(8.445㎞)⇒002品川一里塚⇒(5.335㎞)⇒003大森一里塚⇒(3.944㎞)⇒004六郷一里塚⇒(2.0㎞)⇒川崎・砂子交差点
【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第1回旅の宿場)
11 1回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間)
全体ルート(第1回)
 ↓
第1回旅のルート
 
(日本橋・国道元標前 
⇒ 川崎駅・砂子交差点)
第1回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
我が家にとって大イベントである「旧東海道夫婦二人旅」の出発の日が近づくにつれて、緊張してきました。
また、出発する今日は、東日本大震災が発生してから1年目に当たり、意識してこの日に合せたわけではありませんが、偶然の一致に旅の途中で出会う人との絆を大切にしたいと思います。 
前日までに山行で使用しているチェックリストを基に、準備を整えて出発の朝を迎えました。
スタートとなる第一目は、品川駅か大森海岸駅までを考えていましたが、箱根峠までの距離を考え、少しきつい距離になりますが川崎駅の「砂子交差点」まで歩くことにしました。
日本橋駅は毎日通勤で使っている駅で、日本橋は毎日渡っているところなので、緊張することなく通勤しているときと同じ気分で基点に立ちました。
【=旅=】
07時56分、日本橋(出発地)

01 日本橋元標
※H27.11.26 再訪=道路元標(右側)
001 道路元標
 ※里程標(右側)
03 日本橋からの里程表
 ※日本橋・親柱(右側)
04 日本橋基点
「いざ出発」ということで周りを見渡すと、他に誰もいない静かな旅立ちである。
私とYumiさんが今日、旧東海道の旅に出立することを知っている人は、ほとんど居ないので当然ですね。
今日の行程は当初、大森海岸駅までにしていたのですが、箱根峠までの行程(6日)を考え少し気負って川崎駅の「砂子交差点」まで旅をすることにしました。
道路元標レプリカの前を出発し、旧東海道の旅に出立しました。
道路元標レプリカから約45m歩いた日本橋中央部の道路に道路元標が埋め込まれていました。
H27.11.26 再訪=道路元標(道路中央)
003 埋設されている元標
※道路元標(道路中央に埋め込まれている原版)
002 道路に埋設の元標
日曜日の朝で歩いている人が少ない日本橋を渡ると、右側に日本橋由来碑が建っていました。
H27.11.26 再訪=日本橋由来碑(右側)

004 日本橋由来碑
004-1 日本橋由来碑・解説
日本橋由来碑から約130m先の日本橋交差点を渡り、さらに約350歩くと東京駅八重洲中央口に通じている日本橋3丁目交差点があり、道路中央の分離帯の東京駅寄り(右側)に「八重洲」の語源になったヤン・ヨーステン碑が建っていました。

08時10分、ヤン・ヨーステン碑(右側)
06 ヤンヨーステン記念碑
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷辺りに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といい、のちに「八重洲」と書かれ明治5年に町名となったそうで、平成2年(1989年)に日蘭修好380周年を記念して碑が建てられました。
碑のところで左右を見ると車が走ってこないので、そのまま道路を横切り日本橋3丁目交差点に戻り、交差点を渡って進行方向左側に移りました。
交差点から約350m歩くと日本橋まで1㎞の距離標(右側を歩いていたため)が建っていました。
H27.11.26 再訪=1㎞距離標(右側)
005 国道1号1㎞距離標
距離標からそのまま右側を約200m歩くと、高架の高速道路手前の下に江戸歌舞伎発祥の地碑と京橋大根河岸青物市場跡碑が建っていました。
H27.11.26 再訪=柄゛歌舞伎発祥の地(右側)
006 江戸歌舞伎発祥の地碑
H27.11.26 再訪=京橋大根河岸青物市場跡(右側)
007 京橋大根河岸青物市場跡
道路反対側の警察博物館前の交差点を進行左側に渡り、高速道路高架手前の左側に京橋擬宝珠の親柱が保存されていました、
08時17分、京橋の親柱碑(左側)
08 京橋の碑
そして高速道路高架を潜った左側に「煉瓦銀座の碑」と「煉瓦とガス燈」が建っていました。
H27.11.26 再訪=煉瓦銀座の碑・煉瓦とガス燈(左側)009 煉瓦銀座の碑・煉瓦とガス燈
煉瓦銀座の碑から約250m歩くとティファニーの前で、旅に出て最初のつまづきをしました。
資料でティファニーの前に「銀座発祥の地碑」があると記してあったのですが、碑がどこにあるのか分からず、ティファニーと隣りの文具の伊東屋本店の辺りをウロウロ探し回り、清掃していた人(女性)に尋ねると「その辺りにあるのでは」とつれない返事。

それならと、目をもう一度見開いて周りを見渡すと、目の前にありました。

失礼致しました。

08時27分、銀座発祥の地碑(左側)
10 銀座発祥の地碑
約250m先の銀座4丁目の交差点を渡り、約170m歩くと5丁目交差点を渡り、元松坂屋デパートの前に現一橋大学の前身である「商法講習所跡」があり、跡碑が建っていました。
H27.11.26 再訪=商法講習所跡(左側)
012 商法講習所跡(現一橋大学)
そして銀座6丁目交差点と銀座7丁目交差点を渡り、その先の銀座8丁目交差点に架かる首都高速を潜った先の左側に「新橋の碑」があり、その隣りに「銀座の柳の碑」が建っていました。
08時41分、新橋の碑(左側)


13 新橋の地碑
 ※銀座の柳の碑(左側)
14 銀座の柳の碑
出発して約2.2㎞歩き、時間も9時近くなり体が温まって汗をかき始めてきたので、衣服を調整するためダウンジャケットの下に着ていたセーターを脱ぎました。
すると直ぐに「寒い、寒い」と、Yumiさんお得意の言葉が発せられ少し角(つの)が出てきましたが、汗をかいて風邪を引くよりも良いと考え「寒くなったらまた着るから」と、我慢してもらいました。
衣服調整と休憩を終え気分も新たに出発して新橋駅前交差点を渡り、JRのガードを潜った先の左側(銀座柳の碑から約550m)に赤い鳥居の日比谷神社が祀られていました。
H27.11.26 再訪=日比谷神社(左側)
015 日比谷神社
地下を都営浅草線が走る国道15号(第一京浜国道)を歩きながらYumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」と云うので、都営浅草線大門駅に立ち寄ることにしました。
09時02分~09時07分、大門駅(トイレ休憩)
大門駅で駅員に「トイレを貸して頂きたいのですが」とお願いすると、「どうぞ」と気持ち良く拝借させて下さいました。
トイレを済ませてスッキリして約400m歩くと金杉橋があり、この辺りが日本橋から約4㎞地点となり、最初の一里塚があったのではないかと記されていましたが、最初から一里塚はなかったという説もあり、どちらが正しいのか分かりませんが、私は高輪大木戸の内側になるので、最初から設置されなかったのではないかと思います。 
※001金杉橋一里塚(標示なく確認できず)

金杉橋付近の写真を撮ろうと思っていたのですが、すっかり忘れてしまい気が付いたのが約500m先になってからだったので、そのまま先に進みました。
H27.11.26 再訪=金杉橋付近
017 1里塚跡(金杉橋付近)
金杉橋から約1㎞歩いたJR田町駅手前の左側に三菱自動車ビルがあり、ビルの前に西郷隆盛と勝海舟が会見した跡碑が建っていました。
09時23分、西郷・勝会見の地碑(左側)
15 西郷・勝会見の地碑
会見が行われた場所は、明治維新前夜の慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁の勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「西郷・勝会談」の行われた薩摩屋敷があった場所です。
会見の碑からそのまま真っ直ぐに約450m歩くと(途中、左側に田町駅あり)札の辻交差点があり、第一京浜国道(国道15号)に沿って歩道橋を渡りす。
H27.11.26 再訪=札の辻
100 札の辻
札の辻は江戸時代の高札場跡で、三辻(三差路)の一角を利用して高札が掲示されていました。
また、札の辻は江戸時代初期の元和2(1616)年に芝口門が設けられ、江戸正面入口としての形式が整えられた処ですが、宝永7(1710)年に江戸入口と高札場は高輪大木戸に移されました。
札の辻の歩道橋を渡り、約650m歩くと左側の高輪センタービル(日本トムソン本社の先隣り)があり、その前に大木戸跡碑が建っていました。
09時40分、高輪大木戸跡(左側)
17 高輪大木戸跡
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源で、享保9年(1724)に現在の地に移されました。江戸の南入口として道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉門して通行止めして治安の維持と交通規制を行っていた。
碑は国道に向いて建っており、国道からは垣根があって読めず、道側からは裏面となり、何とも不親切な建て方の碑で、
何故この向きなのか不思議です?


大木戸跡から約230m歩くと泉岳寺交差点(地下は都営浅草線・泉岳寺駅)があり、交差点を渡って赤穂義士のお墓がある泉岳寺があり、参拝に立ち寄りました。
9時48分~10時05分、泉岳寺(右側)
20 泉岳寺正門
参拝者は途切れることなく続き、私は線香(100円)を購入してお供えしましたが、
Yumiさんの記憶から赤穂浪士のことは消えていました(寂しいですね)。

H27.11.26 再訪=泉岳寺・本堂
024 泉岳寺・本堂
H27.11.26 再訪=泉岳寺・首洗井戸
025 泉岳寺・首洗い井戸
H27.11.26 再訪=泉岳寺・浅野長矩の墓
028 浅野長矩の墓
H27.11.26 再訪=泉岳寺・大石内蔵助の墓
029 大石内蔵助の墓
H27.11.26 再訪=泉岳寺・赤穂義士の墓所図
030 泉岳寺・墓地配置図
境内をとおり赤穂義士の墓所を見に行くと、Yumiさんはお線香の匂いが嫌いなので、何回も「早く行こう」と急かされましたが、ひと通り墓前で参拝しながらひと回りしました。
泉岳寺を出て交差点にもどり、交差点を左折し約1.1㎞歩くと左側にJR品川駅前がありました(歩行は途中の交差点で、進行左側に移動)。
10時17分、JR品川駅(左側)
22 品川駅
駅前から約300m歩くと上り坂となり、上ったところに新八ツ山橋交差点があり、ここで国道15号(第一京浜)から別れ左折し真ん中の道を進むのですが、踏切もない路面の線路をそのまま渡るのに抵抗がありましたが、旧道ではないので急ぎ路面の線路を渡って旧道に入りました。
旧道に入ると解説の看板が立っていて、説明を受けているグループがありましたが、そのまま先に進みました。
10時26分、品川宿ガイド絵図(左側)
23 品川宿ガイド
品川宿の入口に、「右 品川宿」碑が建っていました。
※品川宿碑(左側)
25 品川宿入口の碑
品川宿は、江戸4宿の一つで、東海道五十三次の最初の宿駅として発達しました。
品川宿に入ると直ぐの右側に「お休み処」があり、「東海道品川宿 まち歩きマップ」(@50円)を売っていたので購入するとともに、街道スタンプを押印しました。

購入した宿場案内図は詳細に記してあるので、とても参考になりご推奨です

25-1 まちあるきマップ
品川宿に入って直ぐのお休み処は土・日のみ開店で、平日の場合は品川宿交流館で販売されています(H27.12.06の情報=表紙の色は青になっています)。
お休み処を出て直ぐの左側に北品川どうぶつ病院があり、角に問答河岸の碑が建っていました。
H27.11.26 再訪=問答河岸の碑(左側)
034 問答河岸跡
かって河岸先に波止場があり、3代将軍徳川家光が東海寺に入る時、沢庵和尚が出迎えて問答をした故事にちなみ建てられたそうです。
 将軍=海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に
 和尚=大軍を率いても将(小)軍と云うが如し
問答河岸の碑から約60m先のマンション「ロイヤルガーデン品川」の処に土蔵相模跡がありました。
H27.11.26 再訪=土蔵相模跡碑(左側)

033 土蔵相模跡
土蔵相模跡は、高杉晋作、伊藤博文など、幕末の志士たちが密議をした高級大妓楼として知られた相模屋の跡で、その後「さがみホテル」となり現在はマンションになっています。
また、名前
の由来は、ナマコ壁を持つ土蔵づくりから「土蔵相模」と通称されていたそうです。
東海道品川宿は町づくりに力を入れており、電線を地中線化して電線が見えないようにしたり、街道沿いに造られた公園には東海道各地の松を植えるなど、旧東海道を町興しにしようとする意気込みが伝わってきました。

※品川宿の町並み
26 品川宿の町並み
※星野金物店(右側)=善福寺入口手前
101 星野金物店
土蔵相模跡から約250m歩くと台場横丁があり、その先の左側に品川宿の松と一緒に、日本橋から2番目の一里塚跡碑が建っていました。
10時39分、002品川一里塚(左側)

28 品川宿(一番宿)
一里塚碑から約230m歩くと左側奥に聖蹟公園があり、公園の入口に本陣跡碑が建っており、公園内には明治天皇が行幸した記念として聖蹟碑と本陣跡のパネルが建てられていました。
10時46分、品川宿本陣跡碑(左側)
32 品川宿本陣跡
本陣跡は、品川三宿の中央に位置し、東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、外国使節などの宿泊、休憩所として大いに賑わったところです。明治3年(1870)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用されましたが、明治13年(1880)に明治天皇の行幸の時の行在所となったため、聖蹟公園として跡地は命名されている。
H27.11.26 再訪=聖蹟公園内の碑
037 品川宿本陣跡
本陣跡(聖蹟公園入口)から約40m先の山手通りを渡り、さらに約60m歩くと左側に品川宿交流館が建っており、観光物産とともに東海道品川宿「まち歩きマップ」が販売されています。
H27.11.26 再訪=品川宿交流館
039 品川宿お休み処
交流館から約50m歩くと黒川が流れる品川橋が架かっており、橋を渡って約140m進むと右側に品川宿の街道松として浜松市の方から寄贈された樹齢80~90年のクロマツが「浜松宿の松」として植樹されていました。
H27.11.26 再訪=街道松「浜松の松」=右側
042 街道松の広場
浜松の松から約160m歩くと右側に「三島宿の松」が植樹された小公園があり、公園で休憩しました。
10時57分、街道松「三島宿の松」=右側
043 街道松の広場
10時57分~11時03分、三島の松公園(休憩・トイレ)
公園内のベンチに座り、水分補給とお菓子(スポーツ羊羹)を食べ、英気を養って公園を出発しました。
そして公園から約270m歩くと右側に、松岡畳店がありました。
松岡畳店は創業が安永8(1,779)年で、現在の家屋は大正4(1915)年に建て替えられたものだそうです。
H27.11.26 再訪=松岡畳店(右側)
044 松岡畳店
松岡畳店からジュネーブ平和通り(プラタナスの並木)を横切るなど、250m歩いた右側に品川寺(ほんせんじ)があり立ち寄りました。
11時09分、品川寺(右側)
35 品川寺正門
品川寺には、品川区の天然記念物である幹周5.35m、樹高約25m、推定樹齢約600年という巨木(イチョウ)がありましたが、写真を撮るのを忘れて通り過ぎてしまいました。
H27.11.26 再訪=大いちょう(境内右側)
048 大いちょう
048-1 解説
※品川寺・本堂
049 品川寺・本堂
品川寺を出て京急の鮫洲駅を過ぎ、約600m歩くと昼食を食べようとしていた「そば処吉田」が右側にありました。
私の地図の見方の見誤りが原因で、今日2回目のウロウロをしてしまい、ここでも目と鼻の先のところで場所を聞いてしまいました。
お恥ずかしい次第です。
11時32分~11時52分、昼食(そば処吉田)=右側
37 そば処 吉田家
お店は11時30分を過ぎたところだったので空いており、私は天ざる、Yumiさんは天ぷらそばと、好きなものを食べるのが一番!!と思い注文しました。
店のご主人に旧東海道の旅に出ましたと話したら、「頑張って」と激励して下さり、店前でシャッターを切って下さいました。

腹ごしらえしたので、さあ、再出発です。

そば処吉田から約300m歩くと京急・立会川駅に行く十字路があり、旧街道の十字路を右折して約70m先の右側に坂本龍馬像が北浜川児童公園の入口に建っていました。
H27.11.26 再訪=坂本龍馬像(右側)
051 坂本竜馬像
江戸時代、立会川駅近くの旧東海道浜川橋から海沿いの地域は、土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所で、土佐藩は黒船来航時、防衛のため屋敷内に砲台を築き、19才の龍馬が砲台要員として加わったという説が残っているそうです。
旧街道の十字路に戻り、右折して先に進むと、約20mでなみだ橋として有名な浜川橋が架かっていました。
11時55分、なみだ橋(浜川橋)
40 なみだ橋
浜川橋は、立会川が海に注ぐこの辺りの地名から名付けられましたが、別の名を「なみだ橋」といいます。
慶安4年(1651)に鈴ヶ森に刑場が設けられ、ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親戚の人達がひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから「なみだ橋」と呼ばれるようになったそうです。
12時06分 鈴ヶ森刑場遺跡跡(右側)


42 鈴ヶ森遺跡
刑場遺跡は何となく薄気味悪く、記念の写真を撮って早々に離れました。
102 鈴ヶ森刑場跡
この先から第一京浜を歩くのですが、時間とともに気温が上昇し、長袖シャツになって歩きましたが、暑いヨーの世界でした。
当初の終了予定地の大森海岸駅を横に見ながら通り過ぎ、約600m歩いた平和島口交差点の次の交差点を第一京浜から分岐して左側に進みました。
街道沿いの大森・美原通りは、旧東海道の道幅を比較的往時のまま残しており、町興しに向けてか史跡の標識や看板を作成するなど、旧街道の街並みを整備していました。
 
↓街道沿いに建てる看板を準備(大森・美原通り)
47 大森・美原通り
そして、環7を渡ったところから約400m歩いた左側に、日本橋から3番目の一里塚跡碑が新しい標板になって建っていました。

12時43分 003大森一里塚(右側)

49 003 大森一里塚
一里塚碑の先の大森警察署前交差点で第一京浜と合流し、再び国道沿いを歩きます。
第一京浜を約1.8㎞歩くと、高架線に向けた工事中の京急蒲田駅が左側にあり、箱根駅伝で有名な蒲田の踏切も近いうちに様相が一変するでしょう。
13時11分、京急蒲田駅・踏切(右側)

52 京急蒲田駅の踏切
京急蒲田駅を過ぎた辺りが日本橋から16㎞地点で、道路脇に国道の管理区域仕切りの看板が掲げられていました。
 
 ↓国道管理区域標識(左側)
53 道路管理区域区切り標
この辺りにきてYumiさんの足の具合が悪くなり、街道沿いの空き地に入って治療することにしました。

空き地に入り、T病院で処方して頂いた湿布薬を持参していたので、痛むところに貼り、足を動かすと何とか歩けそうなので先に進むことにしました。
今日は沢山歩いて来たので、この先の六郷神社の境内で休憩をしようと考え、街道沿いのセブンイレブンに立ち寄りおやつを仕入れました。
13時49分、六郷神社・本殿(左側)

56 六郷神社神殿
 六郷神社に入ると、境内には休憩できる場所がなく、しかたないので国道に面した鳥居の下で一服休憩をすることにしました。
13時51分~14時02分、休憩(六郷神社鳥居脇)
58 六郷神社入口
鳥居の縁石に腰掛け、コンビニで買ったお団子を食べると、休憩とお団子パワーでYumiさんも元気がでてきました。
また、足の具合も良さそうです。
ところが私が失態を演じてしまいました。
それは、鳥居の直ぐ隣りに建っていた一里塚碑を見落として出発してしったのです。
直ぐに地図に書き込んでおいた日本橋から4番目の一里塚跡に気が付き、慌てて戻り記録に残しました。
14時05分、004六郷一里塚跡碑(左側)

60 004 六郷一里塚
六郷一里塚跡を出発すると直ぐ左に山田金作商店があり、店の前から国道と並行して歩く旧道が左に分岐しているので、左側の細い道を歩きます。
この六郷の細い道は、大森・美原通りとともに旧東海道の道幅を残す数少ない道だそうです。
国道に平行する旧街道は六郷土手交差点で国道と合流して、多摩川に架かる新六郷大橋を渡ります。
14時11分、新六郷大橋(東京側)=左側
62 六郷大橋(東京側)
六郷の渡しは、旧東海道における八幡塚村と川崎宿の間を結ぶ重要な渡船場でした。北条記に武田信玄の侵入を阻止するため六郷橋を焼き落としたと記述があり、慶長5年(1600)に家康が架橋し、慶長18年(1613)頃にも架け替え工事が行われました。しかし、貞享5年(1688)の洪水で流失してから架橋しなくなり、渡船が用いられるようになったそうです。
後ろに東京・大田区、前に神奈川・川崎の違う景観、河川敷からの歓声などを聞きながら、多摩川からのほどよい風を浴びて歩くのは、爽快です。
キョロキヨロとしながら橋を渡ると、右手歩道の橋柱に、渡し船の模型が飾ってありました。
14時21分 新六郷大橋(川崎側)=左側

65 六郷大橋(川崎側)
渡し船の模型を見ながら、江戸の頃はこのような舟で行き来していたのだろうなと、思いを巡らせました。
橋を渡ると川崎宿で、低い住宅が多かった東京側とは違い、高層マンションが立ち並ぶ街並みに一変しました。
橋を渡り第一京浜の下を潜り本町交差点方向に向かって街中を歩くと、本町一丁目の交差点を渡った先の左側に、川崎宿の田中本陣跡のパネルが建っていました。
14時29分、川崎宿・田中本陣跡(右側)

68 川崎宿(田中本陣跡)
歩道が1m位と狭いのと、多くの人が歩いているため、合間をぬって写真撮影しましたが、「スイマセン」と「ありがとうございました」を連発しながら無事完了しました。
本陣跡から約350m歩くと砂子一丁目交差点があり、さらに約100m歩いた砂子交差点が今日の到着地です。
14時37分 砂子交差点到着
我が家にとって歴史的なゴールでしたが、人が多くてゆっくり感傷に浸っていることはできません。

また、人が多く、到着式の写真を撮ることがなんとなく恥ずかしく感じ、次回の出発式の時に撮影することにして、我が家にとって歴史的な旅の初日は終わりました。

 交差点からJR川崎に出て帰りの電車に乗りましたが、乗った電車で二人とも爆睡しました。
【次回の予告】
次回(第2回)は3月31日(土)に「川崎駅・砂子交差点から東戸塚・福寿歩道橋入口までの18.54㎞」を旅する予定です。


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  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 

 

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/

 

【天候】晴れのち曇り
【宿場】(02)川崎宿⇒(03)神奈川宿⇒(04)保土ヶ谷宿⇒(05)戸塚宿
【行程】歩行距離=18.54㎞ 総距離=38.26㎞  

川崎・砂子交差点⇒(2.1㎞)⇒005市場一里塚⇒(4.255㎞)⇒006東子安一里塚⇒
(3.860㎞)⇒007神奈川一里塚⇒(4.822㎞)⇒008保土ヶ谷一里塚⇒(3.207㎞)⇒
009品濃一里塚⇒(0.3㎞)⇒東戸塚・福寿歩道橋入り口
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第2回旅の宿場)
07 2回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第2回)
 ↓
第2回旅のルート
 
(J
R川崎駅・砂子交差点 ⇒ JR東戸塚駅・福寿歩道橋入口)
第2回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
当初、3月31日(土)で計画していたのですが、天気予報が雨模様とのことだったので急遽、今日に順延しました。
幸運にも
本日の天候は、旅日和です。
《移動》
04時15分、起床
セットした目覚まし時計の音楽で起床し、いつもと同じ動きで出掛ける準備を進め、Yumiさんに声を掛けて家を出発しました。
05時45分、自宅出発
自転車で公園内を横切り、最寄り駅に行き、乗り換えをしながら
今日の出発地である川崎に向かいました。
07時19分、JR川崎駅着
川崎駅に着くとYumiさんがトイレに行きたいというので、駅のトイレを探しましたが分からないので、京急川崎駅のトイレを借りることにして、京急川崎駅の駅員さんにトイレ使用をお願いすると、気持ち良く快諾下さり、トイレの場所を教えて下さったり、改札内に入れて下さいました。
トイレも終わりスッキリした二人は、親切な駅員さんにお礼を云って、前回ゴール地点の砂子交差点に向かいました。
出発地の砂子交差点に立ち出発式(出発の看板を掲げて写真撮影)を行いたかったのですが、なかなか良いシャッターチャンスがなく、撮れたのは構えてから3分後でした。
【=旅=】
07時34分、川崎駅・砂子交差点(出発式)
01 川崎宿 砂子交差点 出発記録
出発式の後、砂子交差点を渡った左側に川崎信用金庫本店があり、佐藤惣之助の記念碑が建っていました。
07時38分 川崎信金・佐藤惣之助生誕の地碑(左側)
03 佐藤本陣跡? 佐藤惣之助レリーフ
佐藤惣之助は大正時代に活躍した詩人で歌謡曲の作詞家として有名で、代々本陣職を務めてきた佐藤家の生まれで、昭和54年(1979)に生誕地に建てられました。
私はここが佐藤本陣と思っていたのですが、本陣跡は川崎信金の向かい側で、現在はコンビニが入っているビルの窓ガラス内に説明板があるとのことです。
《佐藤本陣》
川崎宿にあった3つの本陣(大名や公家専用の大旅館)の一つで、別名を惣左衛門本陣と云われ、門構え、玄関付き、181坪の建物だったそうです。幕末には14代将軍家茂が、京に上る祭に宿泊したことで知られています。平成19年(2007)に説明板が設置されました。
川崎信金本店前から約1.2㎞歩くと、京急本線の踏切に出る手前右側に芭蕉句碑が建っていました。
07時59分、芭蕉句碑(右側)
05 松尾芭蕉句碑
芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵を立ち、郷里の伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」に託しました。
芭蕉は同年10月、大坂で「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句を残し、51歳の生涯を閉じました。
句碑の先の京急の踏切を渡り左に八丁畷駅を見ながら西口前を通り、南武線のガードを潜り約900m歩いた処に市場橋バス停があり、その近くに日本橋から5番目の一里塚跡碑が左側に建っていました。
08時16分、005市場一里塚跡碑(左側)
08 市場一里塚
市場一里塚は、江戸より5里目の塚で、明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ左側の塚が現存し、昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたそうです。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」の碑が建立され、平成元年(1989)に横浜市地域文化財として登録されました。
一里塚から約350m歩くと鶴見川に近代的な鶴見川橋が架かり、たもとに桜が咲いていましたので、水分補給を兼ねて小休憩を取りました。
08時25分、鶴見川橋
13 鶴見橋手前
鶴見川橋は、徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)頃に架けられたと云われており、東海道とほぼ同じ歴史があります。大正末期頃までは鶴見橋の名前で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋(六郷橋が架かる多摩川は元禄元年の大洪水以降は渡し船)で、長さ25間、幅3間と云われていました。
鶴見川橋を渡ると、直ぐ左側に鶴見橋関門旧跡碑が建っていました。
08時32分、鶴見橋関門旧跡碑(左側)
15 鶴見橋関門旧跡
鶴見橋関門は、安政6年(1859)6月、横浜開港とともに外国人に危害が及ばないようにするため、横浜への主要道路筋の要所に、開門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まるため、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅4間(約7m)を除き左右に杉角材を立て、大貫を通し、黒渋で塗られていました。
東海道は、鶴見川橋を渡った跡、鶴見駅東口入口交差点を直進し、その先のT字路分岐を左に道なりに進み、右に鶴見駅前郵便局を見て、鶴見駅に行く交差点を直進すると京急鶴見駅(西口)に出るので、そのまま駅下を真っ直ぐに進み東口に出て、さらに道なりにそのまま真っ直ぐ進みます。
そして約600m先の第一京浜国道の下野谷町交差点を渡り、約160m歩くと鶴見線の国道駅のガードを潜ります。
国道駅のガードを過ぎると、道の両側には鮮魚・海産物店が立ち並び市場のような感じで、キョロキョロと
店舗を眺めながら歩きました。
住んでいる処にはない景観で旅に出て知ることができたので、機会があったら、また来たいと思いました。
魚市場を過ぎると、右側の民家の塀(下がブロックの塀)に「生麦事件発生現場標板」が掲げられていました。
09時08分、生麦事件発生現場標板(右側)
19 生麦事件発生現場
この辺りは進行左側にはキリンビール横浜工場となっており、第一京浜国道に合流する生麦一丁目交差点の約200m手前の右側に生麦事件碑が、新しい社の中に祀られていました。
09時16分、生麦事件碑(右側)
20 生麦事件碑
生麦事件は、文久2年(1862)8月21日午後2時、薩摩藩の島津久光が護衛として同行する江戸に赴く大原勅使一行の行列を横切ろうとしたイギリス人一行を生麦で殺傷した事件で、薩英戦争の契機になりました。
明治16年、鶴見の黒川荘三が遭難の碑を私費で建立しました。
生麦事件碑を過ぎ、生麦一丁目交差点で第一京浜国道に合流し、ここからしばらく国道を歩きます。
約500m歩くと子安通り交差点があり、この辺りに日本橋から6番目の一里塚があったと云われていますが、確認できませんでした。

09時35分 006東子安一里塚(標示なく確認できず)
川崎を出発してから2時間、トイレ休憩を取っていないので、Yumiさんに声を掛け日石G/Sでトイレをお借りしました。
トイレを貸して頂こうと店舗に入りましたが、給油などが忙しそうだったので、そのままトイレをお借りしました。
ガソリンスタンドを出て国道に戻り道路沿いに建ち並ぶマンション群を眺めながら国道の左側を約2㎞歩くと出田町交差点があり、ここで進行方向右側に渡りました。
交差点を渡り、オランダ領事館跡碑が建っているという神奈川通り東公園を探しましたが、公園の場所が分からなかったので、そのまま先に進み神奈川地区センターを目指しました。
神奈川地区センターは交差点から約850m先の左側にあるベンツ販売店を手前を右折し、約90m先の2本目の十字路の左側にあり、神奈川宿の模型が展示されていました。
10時15分、横浜神奈川地区センター(神奈川宿の模型)=右側
22 神奈川宿模型
地区センターは土足禁止のため入口で靴を脱ぎ、入場者名簿に記帳をして中に入ると、窓際にケースに入った模型が展示されていました。
私は、ここに神奈川宿に関する資料が数多く展示されているのだろうと思い込んでいたので、いささか肩透かしをくった感じになり、早々に失礼しました。
街道に戻り、約300m歩くと川幅の狭い滝の橋があり、橋を渡ったところを右折した伊豆屋材木店があり、店舗の前に本陣跡の標板が建っていました。
10時30分 神奈川宿青木本陣跡碑(右側)
24 青木本陣跡標板
第一京浜に戻り、中央市場入口信号を過ぎ、右側の幸ケ谷小学校に沿って約110m歩くと、宮前商店街入口のアーチがあり右折します。
右折して宮前商店街を約300m歩くと、鉄道(東海道線、横浜線、京急本線)と第二京浜国道を跨ぐ青木橋交差点に架かる歩道橋を渡たり、左の仁保ビルの手前を右折しました。
右折して約80m歩くと右側に大網金刀比羅神社があり、参道入口の鳥居前に日本橋から7番目の一里塚跡があり跡碑が建っていました。
10時46分、007神奈川一里塚跡碑(右側)
26 神奈川一里塚跡
Yumiさんに「お参りして行こう」と声を掛け、階段を上って本殿に向かいました。
 ↓大網金刀比羅神社・本殿(右側)
28 大網金刀比羅神社
一里塚から約290m歩いた上り坂を上りきった右側(マンション・グリーンテラス横浜の手前)に神奈川台関門跡碑が建っていました。
10時57分、神奈川台関門跡碑(右側)
30 神奈川台の関門跡
神奈川台の関門は、開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス 総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難しました。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化し、神奈川宿の東西にも関門が作られました。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門で、明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止されました。
季節は4月になりましたが、日陰に入ると風が冷たく感じられ、Yumiさんは着たり、脱いだり忙しく、
時間も11時頃で歩き始めて3時間30分経過するため、関門碑から約300m歩いた「かみだい橋」を渡ったところでザックを降ろし休憩しました。
11時03分~11時08分、休憩(かみだい橋)
ザックを担ぎ、約280m歩くと首都高速三ツ沢線西口ランプ入口があり、それを左に見ながらさらに約550m歩くと宮谷小学校入口交差点があり、交差点を渡って左に少し歩くとYNビルとK1ビルがあり、ビルの間の細い道を約60m歩るき分岐を右に進みました。
分岐から約750m歩くと賑やかな商店街となり、今までの静けさが嘘のような賑わいでした。
元気のない商店街が多くなっているなか、ここ「松原商店街」は別世界のような人出で、歩くのも大変です。
並んでいる商品を見ると、驚くような安さで、量もあり、人が集まる基本の形です。
買って帰りたかったのですが、荷物を持ってこの先歩くのは嫌だったので、キョロキョロと眺めるだけで通り過ぎたのですが、写真を撮っておけば良かったと思いました。
商店街を通り過ぎた松原商店街入口交差点に来ると、今までの喧噪が嘘のような静けさとなり、交差点を渡ったところでYumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」と云うので、相鉄天王町駅に向かいました。
相鉄線のガードを潜り、右側の天王町駅でトイレをお借りし、駅前の広場に出るとウォーク団体の人達が縁石に座って昼食を食べていました。
11時49分、
旧帷子橋跡レプリカ
31 旧帷子橋レプリカ
旧帷子橋は、安藤広重の版画(東海道五十三次)によって広く世に知られており、近年までこの場所に残存していましたが、帷子川改修および相模鉄道の立体化などによってその姿は消滅しました。そのため、冬至の面影を残すため記念碑がされました。
私とYumiさんは保土ヶ谷駅近くの「そば処桑名屋」で蕎麦を食べる予定のため、帷子橋のレプリカを写真に撮り先に進みました。
ここから環状1号の幅広の道を約800m歩くと、保土ヶ谷駅に向かう分岐があり街道は右の細い道を進みます。
そして約170m歩くと右側に横浜帷子郵便局があるので、手前左側のケントパレスを左折し、突き当りを右折すると桑名屋がありました。
12時06分~12時46分、昼食(そば処桑名屋)=左側
34 そば処 桑名屋
ここの店主は旧東海道に造詣が深く、食後に会う予定のYさんとは懇意の方だそうです。
店主に挨拶すると、2階に地元の中学生が作った保土ヶ谷宿の資料が展示してあるので見て下さいと紹介され、待つ間、2階の展示物を見せて頂きました。
 ↓保土ヶ谷宿①
36 保土ヶ谷宿展(桑名屋2階)
 ↓保土ヶ谷宿②
37 保土ヶ谷宿(桑名屋2階)
良く出来ていたのでゆっくりと見たかったのですが、この後にYさんと会う約束があるので、先を急がせて頂きました。
また、食べたお蕎麦は香ばしい香りのする美味しいお蕎麦でした。
〔帽子がない〕
桑名屋を後にして歩き始めると、Yumiさんの帽子がないことに気が付き
E=Yumiさん、帽子は?
Y=ないの。何処にいったのか分からない
E=Yumiさん、何処に行ったのではなく、蕎麦屋に忘れたのではないの?
Y=???
はっきりと忘れた場所が分からないため、Yさんとの待ち合わせがあるため、新しい帽子を購入することでYumiさんも了承したので、そのまま進むことにしました。
街道に戻り、約200m先の東海道線を越えた先で国道1号に突き当り、信号を渡ったところに保土ヶ谷宿の軽部本陣跡がありました。
12時57分 保土ヶ谷宿・軽部本陣跡(左側)
38 保土ヶ谷宿・軽部本陣跡
軽部本陣は、初代苅部清兵衛がこの諸役を命じられ、代々清兵衛を名乗りました。苅部氏は小田原北条氏の臣苅部豊前守康則の子孫。三代吉重の室妙秀尼は樹源寺を開き、8代悦相は苅部姓と帯刀を永代許された。10代悦甫は横浜が開港されると町の責任者である総年寄りを命じられ、横浜町の発展に尽力しました。11代悦巽のとき明治3年に本陣が廃止され、軽部姓に変更しました。
本陣跡は、改修に向けた工事のためか、柵で仕切られていて見学することはできませんでした。
本陣から約100m歩くと左側に、旅籠・本金子屋跡がありました。
13時01分、旅籠・本金子屋跡(左側)
41 旅籠屋・本金子屋跡
この先の一里塚跡が、Yさんとの待ち合わせ場所です。
Yさんは旧東海道など五街道のマップをネットに公開しており、私はYさんが作成した旧東海道マップを旅で使うことから知り合い、一里塚のところで会うことになりました。
Yさんと会う時間が近付いてくると、ドキドキしながら歩くと、遠くにYさんの姿を確認しました。
13時06分、008保土ヶ谷一里塚跡碑・上方見附跡(左側)
43 保土ヶ谷一里塚
Yさんとは初対面でしたが、周りには人がいなかったのですぐ分かりました。
お互いに歩み寄り、挨拶をかわし、Yさんから保土ヶ谷一里塚の資料を頂いたり、説明を頂いたりと歓待して迎えて下さいました。
13時10分~13時25分、Yさんとの出会い
45 横溝さん(保土ヶ谷一里塚)
ところが、Yumiさんはまったく興味を示すことなく「早く行こう」と催促があり、この先に箱根駅伝で有名な権太坂(旧街道は駅伝とは違う道)が控えているので、15分程でYさんと別れました。
Yさんは、初めて会う私にいろいろとご心配やご配慮下さり、そのご厚意に甘えさせて頂きました。
Yさん、ありがとうございました。
さて、Yさんと別れ旧街道はこの先で右方向に進むため、サテンで右側に渡り保土ヶ谷二丁目信号で国道1号と分岐して右に進みました。
分岐から約750m歩くと元町ガードのT字路に突き当り、信号を渡ってから左に進み小さい川に架かる橋を渡って約80m歩くと右斜めに上っていく道があり、旧街道の権太坂になりました。
江戸時代の権太坂は、約1.5㎞続く箱根に次ぐ難所で行き倒れも多かったようですが、現在の権太坂はそれなりの傾斜はありましたが、イメージの方が強すぎたようです。
坂の途中の右側に光陵高校、左側の権太坂小学校を眺めながら権太坂を上りると、登り切った少し先を右折したところに「菓匠栗山」(横浜銀行境木支店の近く)があり、今日のおやつ用に「権太餅」と「団子」を購入しました。
資料で菓匠栗山から数分のところに「投げ込み塚」碑があるとのことで見に行ったのですが、ものの見事に見過ごしてしまい、かなり坂を下ったところで、「どうも見過ごしたようだね」と来た道を戻ると、
道の角から直ぐの左側に碑が建っていました。
14時09分、投げ込み塚(左側)
47 投げ込み塚碑
投げ込み塚は、権太坂を上り、突き当たった境木中学のところを左折して約50m先の左側にあり、新しい石碑が建っていました。
そして、権太坂の二番坂を上りきった横に、行き倒れなどで亡くなった死人を投げ込む井戸があったと伝えられており、井戸は今の塚があった辺りにあったそうで、昭和36年(1,961年)に発掘した時は多数の人骨が発見され、旅人の霊を慰めようと碑が祀られました。
投げ込み塚から5分程歩くと、右側に「境木地蔵尊」があり、境内で菓匠栗山で買った権太餅と団子をおやつに食べましたが、普通の味でした(また買いますかと聞かれたら?です)。
14時14分~14時27分、休憩(境木地蔵尊)=右側
48 境木地蔵尊入口
地蔵尊を出た処が品濃坂のT字路となっている分岐で、信号を渡った右側に東海道の道標が建っていました。
14時28分、東海道道標(右側)
50 旧東海道道標
ここから戸塚方面に向けて細い下り坂になっていて約500m歩くと、昔の面影をそのまま残す品濃一里塚跡がありました。
14時34分、009品濃一里塚跡(左・右)
 ※進行左側の一里塚
53 品濃一里塚
 進行右側の一里塚
55 品濃一里塚
品濃一里塚は日本橋から9番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間にあります。塚は、旧東海道を挟んでほぼ東西に二つあり、地元では一里山と呼ばれていた。東の塚は平戸村内、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚には榎が植えられていたようです。
進行右側の塚は塚の手前を右に上ると全体を見ることができ、進行左側の塚は塚の先を左に入り裏に回り込むように歩くと全体を見ることができます。
このように当時の形で残っている一里塚は、県内ではここだけで、昭和41年に県の史跡に指定されました。
旅に出て、始めて旧街道の面影を残す一里塚に出会い、歴史を感じました。
《Yさん推奨の史跡》

保土ヶ谷一里塚で出会った時に、Yさんから推奨された史跡に立ち寄るのを忘れたことに気がつきました。
Yumiさんの疲れもあり、申し訳なく思いながら割愛して先に進むことにしました。
そして住宅地みたいな道を約300m歩くと、今日の到着地である東戸塚駅に通じる福寿歩道橋入口に到着しました。
14時44分、東戸塚駅・福寿歩道橋入口(到着地)
58 福寿歩道橋入口
【帰路】
Yさんから史跡の推奨と共に、福寿歩道橋入口からもう少し先に行くと桜の綺麗な場所があり、今朝は富士山も綺麗に見えていたとの情報を頂いていたのですが、歩道橋入口に着くのを待っていたかのようにポツリポツリと雨が降ってきました。
こうなるとYumiさんは帰りモード100%となり、急いで到着式(到着地で看板を持って写真を撮る)を行い東戸塚駅に向かいましたが、急いでいたので到着式の看板を掲げるのを忘れてしまいました。
 ※福寿歩道橋・後方が東戸塚駅
59 福寿歩道橋入口(終了地点)
福寿歩道橋から東戸塚駅に抜ける通路は、上がったり、下がったりして初めての人には分かりづらい通路だったので、次回のことを考え複数の店舗の方に、通路が開く時間と東戸塚駅から福寿歩道橋までの道順を聞きましたが、分かる人は居ませんでした。
地図とネットで、調べないとダメのようです。
14時55分、JR東戸塚駅着
15時03分、JR東戸塚駅発
東戸塚駅でトイレに入り、電車に乗ってからは今日歩いてきた方向を車窓から眺めながら私は乗っていましたが、Yumiさんは何を考えて乗っていたのかな・・・・・。
東戸塚から横浜経由武蔵小杉で南武線に乗り換え、自宅に帰りました。

明日は、山の会のお花見山行です。
【次回の予定】
次回(第3回)は4月28日(土)に「東戸塚・福寿歩道橋入口から茅ヶ崎一里塚跡までの20.31㎞」を旅する予定です。
茅ヶ崎には親戚の叔母が住んでおり、出来れば茅ヶ崎駅付近で逢えたらと思っています。

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  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/



【天候】晴れ
【宿場】(05)戸塚宿⇒(06)藤沢宿⇒(07)平塚宿
【行程】歩行距離=20.31㎞ 総距離=58.57㎞
東戸塚・福寿歩道橋入り口⇒(3.8㎞)⇒010戸塚一里塚⇒(4.053㎞)⇒011原宿一里塚
⇒(4.143㎞)⇒012遊行寺一里塚⇒(4.181㎞)⇒013辻堂一里塚⇒(4.129㎞)⇒
014茅ヶ崎一里塚
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第3回旅の宿場)
28 3回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)

全体ルート(第3回)
 ↓
第3回の旅ルート
 
(J
R東戸塚駅・福寿歩道橋入口 ⇒ 茅ヶ崎駅・茅ヶ崎一里塚)
第3回ルート
【旧東海道の旅】
《移動》
07時40分、JR東戸塚駅着

前回(4月8日)と同じ時間の電車で移動し、東戸塚駅に到着しました。

東戸塚駅でトイレを済ませ、Yさんからメールで送って頂いた東戸塚から福寿歩道橋までの地図を片手に出発しました。
07時43分、東戸塚駅前バス停
01 東戸塚駅前
最初に、Yさんからご推奨された
源義経公が祀られている白旗神社に向かいました。
バス停先の東戸塚駅前信号を渡り、洋服のコナカの前を左に進み、次の信号右手前の急階段を上りました。
急階段を上って先を見ると、神社の裏手が柵で仕切られており、神社に行くには階段を降りて反対側に行かなければなりません。
急階段を下りて、神社までの坂の往復とYumiさんが行くのを嫌がっていたのを理由に、Yさんには申し訳なけなく思いながら参拝を割愛させて頂き、福寿歩道橋に向かいました。

福寿歩道橋は、急階段を下りたところの信号を進行方向反対側(右側から左側)に渡り、環2平戸信号手前を左折し、少し先の階段を上がったところにありました。
歩道橋に上り、福寿歩道橋を渡ると左側に福寿観音が祀られていたので、今日の道中のご加護と、Yumiさんの病気全快(意味認知症と緑内障)をご祈願しました。
07時53分、福寿観音(左側)
02 福寿観音
今日の出発地の福寿歩道橋入口で出発式を行えなかった時のことを考え、福寿観音のところで今日の出発式の看板を掲げたところの写真を撮りました。
また、旅名は「旧東海道テクテク夫婦旅」で、「旧東海道夫婦二人旅」にはまだなっていませんでした。
【=旅=】
07時55分、東戸塚・
福寿歩道橋入口(出発地)
03 第3回出発記録(福寿歩道橋脇)
前回終了した歩道橋入口は、人通りがあり、出発式で写真を撮っていると通行の邪魔になるため、場所を少しずらして出発式を行い出発しました。
出発地には荷物の整理や準備体操をする場所がないので、少し先
の空き地でザックを整え、足のストレッチを行いながら「今日は、歩く距離が長いからね」とYumiさんに話しましたが、どこまで理解できたかは?です。
空き地を出発して左に柴田農園を見て約300m歩くと道は右に曲がるのですが、右に曲がらずにほぼ真っ直ぐに階段を下りると福寿歩道橋の下を走っていた道路を跨ぐ歩道橋があり、歩道橋を渡り左に階段を降り、下りた処を右折、直ぐ左折とクランク形に歩き、約210m先の県道218号を横切り、そのまま約210m歩くと川沿いとなり、川に沿って約400m歩くと東戸塚駅入口交差点があり国道1号に突き当りました。
旧東海道は、国道1号東戸塚信号を横切り国道1号の左側を歩く赤関橋信号の手前で国道1号に合流赤関橋信号で国道1号と別れ左に分岐約280m先で国道1号に合流と、国道1号を出たり入ったりしながら歩きました。
秋葉立体入口先で合流した国道1号を約750m歩くと、左側にコンビニ(ファミマ)がありトイレをお借りしました。
08時45分、ファミリーマート(左側)
店員の方に
E=トイレをお借りしたいのですが
店=(笑顔)どうぞ
Yumiさんをトイレに連れていき、二人ともスッキリすることができました。
ありがとうございました。笑顔で対応されると、こちらまで、明るくなります。

コンビニを出て約80mのところで、カメラがないことに気が付き、走ってコンビニまで戻り店員の人に「デジカメの届け物ありませんでしょうか」と聞きましたが、「ありません」との回答。
「誰かが持っていったのかな」と思いながら、荷物を改めてみると出てきました。
私の物忘れが原因でした。

コンビニから約100m歩くと左側に大きなモチノキが見えました。
08時53分、益田家のモチノキ(左側)
04 益田家のモチノキ
 ※モチノキが立っている益田家
06 益田家のモチノキ前
モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で。高さは3~8mに達し、4月頃に黄緑色の群生した花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟する。この樹皮から鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから親しまれている木です。
益田家に植えられているモチノキは国道1号の旧東海道に面し、樹高18m、目通り2.4m、根回り3.1mの雌株と、0.75mほど離れた樹高19m、目通り3.2m、根回り4.9mの雌株の2本である。
モチノキは相模モチの愛称で郷土の人達から愛され、馴染まれてきたこの2本のモチノキは、稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、旧東海道に麺してきたという歴史的背景から県指定の天然記念物に指定されている。
益田家から数十mで道路は右に行く国道1号(1号も直ぐに国道と戸塚バイパスに分岐)と、左に行く旧東海道に分岐し、分岐したところにパネルが立っていました。
08時57分、不動坂標板(右側)
08 旧東海道・不動坂
また、この辺りには大山道道標が立っているというので、近所の方や不動坂交番で聞きましたが、誰も分からず仕方なくそのまま通り過ぎました。
大山道道標=不動坂信号の100m手前を右に入ったところにあるそうです・・・現物は未確認
不動坂信号から約400m歩くと短い橋が架かる十字路となり、橋の手前を右に曲がり約160m歩くと舞岡入口信号で国道1号にまた合流しました。
舞岡入口信号を渡たり、右側のブリヂストン横浜工場に沿って約270m歩くと、ダイエー隣りのレストラン「フォルクス」の前に江戸方見附跡のパネルが建っていました。
09時14分、江戸方見付跡(右側)
10 江戸方見付跡
見附は江戸時代、戸塚宿で町並を形成し20町19間を宿内とし、その両側に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とし、貴賓の送迎はこれから行われ、大名行列もこれより隊列を整えたそうです。
※H26.09.11 再訪=江戸方見付跡(左側)
進行左側のダイソーの建物の壁に埋め込まれていました。
001 戸塚宿・江戸見附跡
《2つの失態》
見附跡を過ぎてから、
(1)010戸塚一里塚(左側)
見附跡が右側にあり、そのまま右側を歩いてしまったため、約300m先の左側にあるコンビニ(セブンイレブン)の先10mの国道沿いに建っている日本橋から10番目の「戸塚一里塚跡」のパネルを見落としてしまいました。
※H26.09.11 再訪=戸塚一里塚跡碑(左側)
003 戸塚一里塚跡
(2)浮世絵で有名な大橋(吉田大橋交差点)
戸塚一里塚跡のパネルから約70m先に、安藤広重が戸塚宿の浮世絵に描いた吉田大橋があったのに、史跡が何もないごとくに写真を撮ることなくそのまま素通りしてしまいました。
※H26.09.11 再訪=吉田大橋
007 吉田大橋
吉田大橋を渡り、国道1号を約550m歩くと、開かずの踏切で有名なJR戸塚駅の踏切に突き当りました。
09時31分、戸塚駅踏切
13 JR戸塚駅踏切
踏切に着いて時は踏切が閉まっており、開かずの踏切と聞いていたので、かなり待たされるのかなと思って電車が通る写真を記念にしようとYumiさんを入れた写真を撮ると、その直後に遮断機が上がり私の写真は撮らずに踏切を渡りました(残念)。
内田本陣跡
踏切を渡って戸塚駅前(西口?)のバスセンター信号付近に、内田本陣跡があったとのいうので跡碑を探しましたが、見付けられませんでしたので、再度跡碑の場所を確認し、スルガ銀行横浜戸塚支店前の道路沿いにパネルが建っていました。
※H26.09.11 再訪=内田本陣跡碑(左側)
009 戸塚宿・内田本陣跡
内田本陣は、間口18間(32.8m)、奥行14間(25.5m)で、畳数は152畳もあったそうで、本陣は現在の戸塚郵便局の場所にありました。戸塚郵便局はもともと内田家が営んでいた特定郵便局だったそうです。
バスセンター信号から約290m歩いた右側の戸塚消防署の手前に、澤邊本陣跡碑が建っていました。
09時47分、澤邊本陣跡(右側)
14 澤邊本陣跡(後ろ住宅は現在居宅)
跡碑が建っている後ろの家の表札が見えたので、近くに行って確認すると「澤邊」と書かれており、ご子孫が在住しているのでしょう。
江戸時代の建物が現代の建物に変わっていましたが、本陣の跡地を守って今日まで持ちこたえるだけでも大変だっただろうなと、ご子孫のご苦労とともに時代の流れを感じました。
本陣跡から約500m歩くと八幡神社の先に、源頼義、義家父子が建立したと伝えられる富塚八幡宮が右側にありました。
09時58分、富塚八幡宮入口(右側)
17 富塚八幡宮
富塚神社の周囲は富塚という古墳になっていて、戸塚の語源となっています。
Yumiさんに「お参りしていく?」と聞くと、「階段を上るのは嫌です」と断られてしまい、階段上り口で写真だけ撮って先に進みました。
神社入口先から約180m歩くと、左側のファミレスサイゼリア戸塚店の前に上方口見付跡のパネルが建っていました。
10時02分、上方口見付跡碑(左側)
19 上方見付跡
この後、大坂の上りに入り、急ぐことなく国道1号を歩いていると、松並木が見えてきました。
旧東海道を忘れてしまうような現代の国道を歩いていたので、松並木を見て「東海道を歩いているんだなと」と思いデジカメを構えましたが、途切れることなく走ってくる大型トラックなどで、シャッターチャンスがなかなか難しく撮れませんでした。
Yumiさんの歩きが遅くなり、私との距離が開くので、
E=どうしたの?
Y=足が痛くて歩けない
E=どこが痛いの?
Y=(左の足を指差して)ここ
E=痛いの?
Y=痛い?
狭い歩道では治療が出来ないので、治療する場所を探すと左側にトランクルームの置き場があり、早速トランクルームの裏に行きました。
Yumiさんの靴と靴下を脱ぎ、左の足裏を見ると皮が剥けていたので、私のザックから救急品(山行用に一式取り揃えいつも持参している)を取り出し、ガーゼとバンドエイドで治療を施しました。
第1回の旅は履きなれたウォーキングシューズだったのですが、3月末(第2回の旅の直前)に旧東海道の旅用に新しいウォーキングシューズを購入し第2回の旅から履き始めたのですが、旅の時にできた足裏の水膨れが治らないうちに、今日を迎えてしまったようです。
治療して少し歩いたところで具合を聞くと「大丈夫」との返事なので、そのまま旅を続けることにしました。
そして高齢者専用住宅「クラシック・コミュニティ横浜・そよ風」の先の左側に、お軽堪平戸塚山中道行の場碑が建っていました。
10時21分、お軽勘平戸塚山中道行の場碑(左側)
21 お軽勘平石碑
東海道はここから大坂を下りとなり、国道の分離帯に松が植樹されていたので記録に残しましたが、大型トラックが入ってしまい技量が不足していました。
10時36分、大坂上の松並木(中央分離帯)
23 大坂松並木
大坂を下り、吹上信号から約200m歩くと、左側に日本橋から11番目の原宿一里塚跡がありました。
10時45分、011原宿一里塚跡碑(左側)
25 原宿一里塚
 崖の上に一里塚の説明板
24 (011)原宿一里塚
一里塚の付近には茶店などがあったことから「原宿」と呼ばれるようになったらしい。原宿一里塚は、明治9年(1876)10月に里程標の杭を立てる時に不要となり取り払われました。その後、一里山の名を残し、一里塚のあったところに標柱を建てて名残りとしている。
この辺りは日陰げなしの炎天下となり、景観のない国道沿いの舗装路を歩くつまらなさも旅かと思いながら歩きましたが、汗ふきふき、ペットボトルで水分補給しながらの旅となりました。
一里塚跡から約2.7㎞国道1号沿いに歩くと、藤沢バイパス出口信号の分岐となり、旧東海道は左の県道30号を進みます。
この先から両側に青々とした樹木が立ち並ぶ道場坂(遊行寺坂)の下りとなり、日陰のない国道沿いに比べ気分的に癒されました。
 
※遊行寺坂
27 道場坂
《3つ目の失態》
012遊行寺一里塚跡碑
資料に坂の途中に、012遊行寺一里塚跡があると記されていたのですが、見落としてしまいました。
012遊行寺一里塚があると思いながら歩いていたのですが、左側に諏訪神社への上り階段、右側に遊行寺の入り口となり、遊行寺に着いて「012遊行寺一里塚跡」を見落としたことに気が付きました。
※H26.09.11 再訪=遊行寺一里塚跡碑(右側)
遊行寺坂の途中(進行右側)に関野ホームズの看板があり、看板の約10m手前の草木が茂る道路沿いに「一里塚碑」のパネルが建てられていました。

013 遊行寺一里塚跡
 012 遊行寺一里塚跡・解説
010 藤沢宿・遊行寺一里塚跡
遊行寺の直ぐ手前左側に諏訪神社が祀られていることは旅の時に確認していたのですが、写真を撮っていなかったので、参道入口だけ記録に残しました。
H26.09.11 再訪=諏訪神社(左側)
014 藤沢宿・諏訪神社入口
11時39分、遊行寺(右側)
29 遊行寺
 ※本堂横の八重桜
31 遊行寺境内の桜
遊行寺の境内には、日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などがあり、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっているとのことでしたが、桜の時期も終わり咲いていたのは八重桜1本だけだったのと、境内には売店もなく(花より団子を期待していたのですが)閑散としていたので、本堂に参拝し一服休憩しただけで先に進みました。
私とYumiさんは、遊行寺坂沿いの入口から境内に入り、正門から本通りに出ましたが、旧街道は遊行寺坂を下り、遊行寺信号の約110m先右側のイイジマ薬局の処を右折し、約60m先の突き当り(本通り)を左折する曲尺手(かねんて)の道を進みます。
そして、遊行寺はイイジマ薬局のところを右折して、突き当たった本通りを右に進むと、正門を潜って境内になります。
私とYumiさんは、正門を潜り本通りを歩くと境川に赤い橋の遊行寺橋が架かっていました。
11時49分、遊行寺橋
32 遊行寺橋
遊行寺橋は、昔「大鋸橋(だいぎりばし)」と呼ばれ、橋の直ぐ近くに江の島一の鳥居が置かれていて、江戸時代に描かれた浮世絵にこの場所がよく登場していたそうです。
遊行寺橋を渡り、約20m歩くと国道467号に突き当りので右折し、約130m歩くと右側に時代を感じる格子戸となまこ壁造りの桔梗屋用紙店がありました。
11時51分、桔梗屋用紙店(右側)
33 桔梗屋用紙店前
桔梗屋から約160m歩くと、道路の反対側(左側)に豊島屋本店があり、道路を横切り立ち寄りました。
豊島屋は、1,849年創業の老舗の和菓子屋で、現在は目立たない小さい、古い感じの店舗構えですが、今をときめく鎌倉の鳩サブレ「豊島屋」は、この店の流れをくんでいる店です。
豊島屋本店でお土産の羊羹とおやつの「柏餅」を買い、店の前の道路を横切り進行右側に渡りました。
渡って直ぐのところ(道路の反対側に藤沢本町郵便局)ところに、藤沢宿蒔田本陣跡の標柱が建っていました。
12時00分、蒔田本陣跡(右側)
35 蒔田本陣跡
本陣跡碑から約400m歩くと右側にマンション「藤沢本町パークホームズ」があり、マンション脇の細い路地を入って行くと、奥の右側に義経の首を洗ったと伝えられる井戸がありました。
12時07分、義経首塚・首洗い井戸(右側)
37 義経首洗い井戸
さて、昼の12時を過ぎたので昼食にしようとYumiさんに話すと、「当たり前よ」と怒られましたが、今日はどこで食べるか決めてないので、これから探さなければなりません。
白旗信号、小田急江の島線を跨ぐ伊勢山橋を渡り歩くと、中華料理店、ファミレス(ロイヤルホスト)、マクドナルドがあり、久し振りに食べたいと思い「マクドナルド」(白旗信号から約450m先の右側)に入りました。
12時18分~12時40分、昼食(マクドナルド)=右側
39 マクドナルド(昼食)
昼時なので混んでいるかなと思いながら店に入ると、少し並ぶ程度で直ぐに食べられそうなので、Yumiさんを座らせ定番のテリヤキバーガーセットを注文し、涼しい室内で寛いで食べました。
お腹が空くと穏やかな精神状態でなくなる二人ですが、昼食を食べお腹が膨らみ休息も取れたので、穏やかな精神状態になり到着地を目指して出発しました。
マクドナルドから約500m歩くと県道43号は左方向に曲がり、旧東海道は少し右よりの細い道に進みます。
この道は約110mで左に曲がり、約70mでまた県道43号に合流するので、真っ直ぐ歩いてしまう方もおられるようですが、このようなところは旧道に拘りたいと歩きました。
合流すると直ぐに引地川に架かる引地橋を渡り、引地橋西信号から約300m歩くと右側にメルシャン藤沢工場があり、「試飲できるのかな」と思いながら通り過ぎ、羽鳥中学前信号から約1.1㎞歩くと四ツ谷交差点に着きました。
四ツ谷信号を渡り進行右側を約40m歩くと、道路の分岐のところに大山道道標が建っていました。
13時13分、四谷不動・大山道道標(右側)
41 四谷不動
大山道道標は、東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられた道標で、大山不動尊の下、正面に大山道、両側面に「これより大山みち」と記されています。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。
江戸町人の大山参詣は盛んで、四谷辻には多くの茶屋が立ち並んでいたそうです。
大山道道標から約170m歩くと、右側に日本橋から13番目の一里塚跡があり標柱が建っていました。
13時20分、013辻堂一里塚跡碑(右側)
46 辻堂一里塚
一里塚の辺りから松並木が点在し始め約500m歩くと、藤沢市から茅ヶ崎市に入る市境標識が建っていました。
13時29分、茅ヶ崎市市境標識(右側)
48 茅ヶ崎・松並木
茅ヶ崎市に入ると松並木は、赤松町、本村町三丁目、茅ヶ崎二丁目などに点在し、東海道の雰囲気を味わいながら歩くことができました。
市境標識から約800m歩くと、上野寛永寺から移転した石燈籠がある上正寺が右側にあり、休憩を兼ねて立ち寄りました。
13時41分~13時52分、上正寺(休憩)=右側
51 旧寛永寺石灯籠(上正寺)
山門を潜って境内に入り、境内の隅の石に座り、豊島屋本店で購入した柏餅を食べ、涼しい木陰で英気を養しないました。
そして、この休憩の時に、茅ヶ崎に在住している親戚の叔母さんに連絡し、茅ヶ崎駅改札口で待ち合わせすることになりました。
上正寺から茅ヶ崎駅までどの程度の時間を要するのか分からないため、叔母さんに場所から判断してもらうことにし、上野寛永寺から移転された石燈籠を記録に残し寺院を後にしました。
この時点で茅ヶ崎一里塚は進行右側と思い込んでいたため、木陰ができる道路左側ではなく、日差しが強く当たる右側を歩いてしまいました。
また、途中からウォーキングする団体と一緒になり、ガヤガヤ、ワイワイの喧噪となったため、静かに歩きたいと思い少しスピードを上げて歩くことになりました。
上正寺から点在する松並木やJR相模線を跨ぐ橋を渡りながら約2.9㎞歩くと、日本橋から14番目の茅ヶ崎一里塚跡がある「茅ヶ崎一里塚」信号に着きました。
信号に着いて辺りを確認すると、進行右側にあったのは一里塚のパネルだけで、一里塚跡と石碑は道路の反対側(左側)にあり、一里塚跡のある左側に交差点を渡り、今日の到着式を行いました。
14時31分、014茅ヶ崎一里塚跡(到着地)=左側

58 茅ヶ崎一里塚
茅ヶ崎一里塚は日本橋から14番目の一里塚で、塚は高さ1.5m、直径7~8mで、植え込みの中に一里塚碑が建っており、現在は松・榎・桜が各2本植樹されています。
上正寺を出発して進行方向右側の日差しの強い歩道を歩いてきましたが、到着してみたら一里塚は左側にあり、事前に塚の位置を良く確認しておけば良かったと思った時は、すでに遅しでした。

【再会】
到着式を行い、約300m離れたJR茅ヶ崎駅に向かい、エスカレータでデッキに上がり改札口で親戚の叔母さんに出会いました。
叔母さんはすでに改札口に来ており、昨年11月に私の母の納骨の時に会って以来です。
叔母さんはYuniさんの病状のことを、私の兄弟から聞いて知っていたようで、Yumiさんがあまりにも元気だったので、驚くとともに喜んで下さいました。
叔母さんが思っていた病状は、一般的なアルツハイマー性の認知症だったようで、Yumiさんの認知症は言葉に障害が起きる意味認知症のため、外見ではまったくわからなかったようです。
叔母さんとお茶でも飲もうと思い駅近くのスターバックスに入ると、コーヒーをご馳走しようと思っていたら、逆にご馳走になってしまいました(ご散財をお掛けしました)。
 
↓茅ヶ崎駅スターバックスにて
61 叔母(谷田部シズコ)さん(茅ヶ崎駅コーヒー店)
私や叔母さんの近況や、Yumiさんの病気のことなどを話し、短い時間でしたが、楽しいひと時を三人で過ごすことが出来ました。
【帰路】
15時24分、茅ヶ崎駅発
茅ヶ崎駅改札口で叔母さんに見送られ、藤沢から小田急に乗り換え家に帰りました。
また、Yumiさんの足は大坂で治療してから痛いと云うことなく旅を終えることができましたが、この先のこともあるので、帰宅してから足の治療を忘れずにしっかり行いました。

【次回の予定】
次回(第4回)は、6月10日(日)に「茅ヶ崎一里塚から二宮駅入口交差点までの15.37㎞」を旅する予定です。
梅雨の時期なので、晴れてくれたら良いのですが・・・・・。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【天候】晴れ
【宿場】(07)平塚宿⇒(08)大磯宿
【行程】歩行距離=15.37㎞ 総距離=73.94㎞
014茅ヶ崎一里塚⇒(4.50㎞)⇒015馬入一里塚⇒(4.19㎞)⇒016大磯一里塚⇒(4.33㎞)⇒017
国府本郷一里塚⇒(2.35㎞)⇒JR二宮駅入口交差点
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第4回旅の宿場)
001 4回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第4回)
 第4回の旅ルート
 
(J
R茅ヶ崎駅・茅ヶ崎一里塚交差点 ⇒ 二宮駅・駅入口交差点)
001 第4回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
前日に装備チェックリスト(忘れ物の忘備のため)で持ち物や着る物の準備を行い当日の朝を迎えました。
04時25分、起床
目覚ましの音楽で目を覚まし、直ぐに寝室の窓を開けて天気の確認を行うと、心配無用の好天でホッとしました(これは毎回同じです)。

山行と街道旅に出掛ける時の朝の支度は同じで、起床⇒体重測定⇒洗面⇒Yumiさんの両足ケア(塗り薬を塗布)⇒着替えを行い、Yumiさんが着替えをしている時、それを横に見ながら自分の足ケアの薬塗布⇒着替え⇒持ち物の再確認を行います。
そして先に着替えたYumiさんが朝食の支度をします。
私は山行や街道旅の時は、腹持ちの良いお餅を所望するのですが、お餅が好きでないYumiさんに拒否されてパン食になります。
認知症を発症してから料理のレパートリーが少なくなったり、作る速度が遅くなるなど、私が手伝うことが増えてきています。
Yumiさんが用意した朝食を食べ、トイレなどを済ませて出発しました。
《移動》
05時50分、自宅発
東海道の旅のために購入したウォーキングシューズを履いて家を出発し、自転車で最寄り駅に向かいました。
樹木に覆われた公園の中を、早朝の冷たい空気を受けながら走るのは実に気持ち良く、同年輩以上の方々が思い思いに走ったり、歩いたりしてしている姿を眺めながら最寄り駅に着きました。
最寄り駅で電車に乗り、途中で電車を乗り継いで出発地の茅ヶ崎に向かいましたが、乗り換え駅で電車を待つ時間を利用して、ICカードにチャージしホームのベンチに座って電車を待っていました。
 ※乗り換え駅のホーム
03 小田急多摩センター駅ホーム
《忘れ物》
電車が入線してきたので乗る準備を始めると、地図や行程等の旅の資料を綴ったバインダーがありません。
「どこに置いてきた」と動いたところを思い出し、先ほどICカードにチャージした時と思い、チャージ機のところに急ぎ戻りました。
Yumiさんには「すぐ戻るから」言って動いたのですが、一人になると不安になるのか、何が起きたのか理解できないまま、私の後を追いかけてきました。
幸い、地図などの資料一式を綴ったバインダーは、そのままの状態で置かれており事なきを得ましたが、予定していた時間の電車に乗れなくなったため、出発地の茅ヶ崎駅には予定していた時間より約25分遅れて到着しました。
08時26分、茅ヶ崎駅着
【=旅=】
下車した茅ヶ崎駅でトイレを済ませ、出発地の茅ヶ崎一里塚交差点に向かい、出発地を記したパネルをYumiさんに掲げてもらい、第4回の出発式を行いました。
08時37分、014茅ヶ崎一里塚跡(出発地)=左側
07 出発地(茅ヶ崎一里塚)
今日も暑い日になりそうな感じがする中、まだ朝の涼しい爽やかな時に出発しました。
国道1号の茅ヶ崎警察署前信号、南湖入口信号を通り一里塚跡から約1.7㎞歩くと、安藤広重の東海道五十三次の風景版画にも描かれた「南胡の松原左冨士」で有名な、千川に架かる鳥井戸橋がありました。
09時03分、南胡の左富士(左側)
08 南胡の左富士=鳥井戸橋
天気は晴れて青空なのですが、山並みは積乱雲に覆われて富士山にはご対面できませんでした。
東海道のうちで京に向かって左手に富士山を見ることができる場所は、ここ(茅ヶ崎・南湖)と吉原(静岡)の二か所が有名で、茅ヶ崎の名所となっていたので残念でした。
鳥井戸橋を渡り約600m歩くと、国道1号に交差して新湘南バイパスの下を流れる小出川がながれ、橋の手前の茅ヶ崎西インター信号の左側に旧相模川橋脚が保存されている池がありました。
09時14分、旧相模川橋脚(左側)
13 旧相模川橋脚
大正12年(1923)9月と13年1月の大地震で7本の橋脚が地上に露出し、その後地下に埋もれていた3本が発見されました。
相模川は鎌倉時代にはこの辺りを流れていましたが、川筋の変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま約700年を経て、再び地上に露出しました。
橋長は少なくとも7m(4間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられています。
小出川に架かる橋を渡り約1.1㎞歩くと、新田入口信号があり、信号のところに茅ヶ崎市から平塚市に入る市境標識が建っていました。
09時33分、市境標識(茅ヶ崎市⇒平塚市)=左側
15 平塚市境標識
市境から約100歩く相模川(馬入川)に架かる馬入橋となり、右手に大山、左手に相模湾の河口が見えました。
馬入橋を渡って真ん中辺りに来ると、日本橋から62㎞の距離標が建っていました。
09時38分、62㎞距離標(左側)

19-2 相模川橋=62㎞ポイント
Yumiさんと交代で写真を撮っていると、一度通り過ぎた自転車の男性が戻ってきて、「シャッター押してやるよ」と云ってYumiさんと二人の写真を撮って下さいました。
旧東海道の旅に出て今日で4日目ですが、始めて声を掛けて頂きました。
馬入橋を渡り、工業団地入口信号を過ぎると次の馬入交差点で旧東海道と国道1号が分岐し、分岐したところの左側に、日本橋から15番目の一里塚跡の石碑が建っていました。
09時48分、015馬入一里塚跡(左側)
20 馬入一里塚
一里塚跡で、帽子を脱いでバンダナに変えるとともに、約5分休憩し、平塚駅近くの紅谷町公園の中に祀られているお菊塚を目指しました。
1.0㎞先の平塚駅前交差点を過ぎ、そこから約200m歩いた右側の三井住友銀行の次の十字路を左折し、2本目の十字路右折、最初の左に入る路地を進むと紅谷町公園があり、公園の中にお菊塚碑が建っていました。
10時12分、お菊塚碑(左側)
23 お菊の碑
伝承によると、お菊は平塚宿役人真鍋源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあり切り殺したと伝えられている。
一説によると、旗本青山主膳の家来がお菊を見染めたが、お菊が云うことを聞かないので、その家来が憎しみのあまり家宝の皿を隠し、主人にお菊が紛失したと告げたため、お菊は元文5年(1740)に手討ちにされてしまいましたが、お皿は後日発見され、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったそうです。
お菊塚から旧東海道に戻り市民プラザ前信号から約170m歩いた平塚市民センター手前右側の駐車場入口に、江戸見附跡碑が建っていました。
10時19分、平塚宿江戸見附跡(右側)

25 江戸口見付跡碑
慶長6年(1601)幕府は東海道に宿駅の制を布き、平塚宿はその当時から宿駅となり、入口に見附と称する塚を築き、城門に擬して石垣を積み、上に芝を張り、大きさは縦2m、横2.5m、高さ1.5m程で、街道を挟み北側と南側にあり、宿の東端であったことから江戸方見附と云われました。また、見つけの外を棒端といい、「従是西 江川太郎左衛門 御代官所 東海道平塚宿」と書かれた標柱などが建っていたそうです。
江戸方見附跡から約350m歩くと、右側に茅本酒店があり店の前の道路脇に脇本陣跡の石柱と解説パネルが建っていました。
10時26分、平塚宿脇本陣跡(右側)
28 平塚宿脇本陣跡
脇本陣は、享和年間(1801~1803)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830~1844)には24軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
そして、脇本陣碑から約100m歩くと右側に山口屋茶舗があり、店の前の道路脇に高札場跡の石柱と解説パネルが並ぶように建っていました。
10時27分、高札場跡(右側)
29 平塚宿高札場跡
高札とは、幕府や領主の法令や通達を書き記した木札で、その木札を掲示する場所として各宿場や村々に設置されていました。通常、土台部分は石垣固め、その上を柵で囲こみ、高札を掲げる部分には屋根が付いていたそうです。
高札場は24軒町のこの地に建っていて、長さ二間半(約5m)、横一間(約1.8m)、高さ一丈一尺(約3m)で、この高札場には、平塚宿から藤沢宿か大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
高札場跡碑が建っていた道路の反対側に東問屋場跡碑が建っていたので、Yumiさんに待っていてもらい車の合間をぬって道路を横切り写真を撮って記録に残しました。
10時28分、東問屋場跡(左側)
30 平塚宿東組問屋場跡
中央の白丸=道路の反対側で待つYumiさん
右の白丸=高札場跡碑
慶長6年(1601)、東海道の交通を円滑にするため伝馬制度が布かれ、伝馬の継立するところを問屋場といい、問屋主人・名主・年寄・年寄見習い・帳附・帳附見習い・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人などが10余人以上が勤務していました。
平塚宿でも問屋場が置かれましたが、寛永3年(1635)に参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量が激増し伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出、慶安4年(1651)に許可され問屋場を新設しました。
従来からの問屋場を「西組問屋場」、八幡新宿の問屋場を「東組問屋場」といい、両問屋場は10日目交替で執務したそうです。
東問屋場跡碑の写真を撮り、Yumiさんの待つ道路の反対側に戻り先に進みました。
そして、約50m歩くと
3年前に東海道の旅で平塚宿を通った親子のことをHPで知り、平塚宿に来た時に同じ写真を撮って三年後の写真を送信したいと思っていました(帰宅後、写真を送信させて頂きました)。
看板は、三年の間、厳しい風雨にあったようで、かなり傷んでいました。
さぶちゃん
居酒屋から約60m歩くと右側に神奈川相互銀行平塚支店があり、入口手前に加藤本陣の石碑が建っていました。
10時32分、加藤本陣跡(右側)
31 平塚宿・加藤本陣跡碑
平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、現在の場所に間口約30m、奥行約68mの規模で建っていました。東に門と玄関があり、天皇や将軍大名などの御在所は上段の間でした。
記録によると、14代将軍家茂は文久3年2月と元冶2年5月の二回ここで休憩し、明治元年10月と2年3月の二回、明治天皇が東京行幸と遷都の時に、ここで小休止されたと残っている。
本陣跡から約160m歩くと分岐となり、西中町交番の右側の細い道を進むのですが、分岐になる処の右側に消防団の建物があり、その右角に西組問屋場跡の石柱が建っていました。
10時35分、西組問屋場跡(右側)

34 平塚宿西組問屋場跡
解説は「東組問屋場跡」を参照
西組問屋場跡碑がの近くの消防団の脇を右折して約130m歩くと、左側に要法寺があり、寺院の右側の公園のような敷地の中に、石柱で囲まれて「平塚の碑」が建っていました。
10時41分、平塚の碑(右奥)
38 平塚の塚碑
江戸時代の天保11年に幕府によって編さんされた「新編相模国風土記稿」に里人の云い伝えとして記されました「桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした天安元年(857)2月、この地で逝去したため柩をここに埋葬し、墓として塚が築かれました。その後、築いた塚の上が平になったので、里人はそれを「ひらつか」と呼んだとことが「平塚」という地名の起源となっているそうです。
平塚の碑から消防団のところまで戻り、消防団の建物に沿って分岐を右に進み、約350m先で国道1号に合流しました。
合流したところを左折し約90m歩くと古花水橋交差点があり、先ほど分岐した道路を渡ったところに上方見附跡の標柱が建っていました。
しかし、私とYumiさんは交差点を渡ってしまってから標柱を確認したため、写真を撮らずに通り過ぎてしまいました。
国道1号の進行右側を約300m歩くと、花水橋東信号があり橋の手前右側の階段を上がったところに平成の一里塚碑が建っていました。
10時53分、平成の一里塚碑(右側)
39 平成の一里塚
平成の一里塚は、江戸時代の道標となった一里塚を現代に蘇らせようと作られたもので、東海道の新しい道標として、また歩行者の休憩場所として整備されたそうです。
平成の一里塚の隣りが花水橋東交差点で、ここから右前方にお椀を伏せたような高麗山が見えました。
10時54分、高麗山(花水橋からの眺め)=右側
41 高麗山(後方)
高麗山は、平塚市と大磯町に跨る大磯丘陵の東端にある標高168mの山で、広葉樹の自然林が残り、21世紀に残したい日本の自然100選に選ばれています。
そしてもっと有名なのが、安藤広重の東海道五十三次の「平塚宿・縄手道」で、高麗山の姿が描かれていることです。
高麗山を右手に眺めながら花水川に架かる花水橋を渡り、花水橋信号から約150m歩いた次の高麗信号を越えた右側の道路脇に、茅葺屋根に連子格子と年代を感じさせる家が建っていました。
10時59分、茅葺屋根と格子戸の古民家(右側)
43 かやぶきの家(66㎞ポイント)
H26.09.11 再訪=茅葺屋根と格子戸の古民家
016 古民家(車内から)
茅葺屋根の古民家は日本橋から66㎞地点で、道路の反対側(進行左側)に66㎞の距離標が建っていました。
古民家から約180m歩くと右側に高来神社に通じる道がありましたが、立ち寄るのが億劫になりそのまま素通りし、約270m歩いて化粧(けわい)坂が始まる化粧坂信号に着きました。
街道はここで国道1号は左に、旧東海道は右側を進みます。
そして、化粧坂信号を過ぎて直ぐの右側に、そば処「車屋」があり、昼食に立ち寄りました。
11時05分~11時32分、昼食(車屋)=右側
45 そば処・車屋
少し早いかなと思いながら入りましたが、これが大成功で、入った時は好きな場所に坐れたのですが、少しすると続々お客がと入店してきて、私達が食べる時にはほぼ満席になっていました。
蕎麦屋さんですが、海老天が2本入っているというので、天丼(海老天が2本=@1,100円)を注文しました。
Yumiさんは大好物の海老天が入っていたので、ニッコリと満面の笑み。
天丼は揚げたてのカラッとしたエビ天で美味しかったのですが、蕎麦屋さんなので、次回来た時は天ざるを食べたいと思います。
店を出て直ぐの左側に黄色壁の民家があり、入口のところに虎御前の化粧井戸がありました。
11時32分、虎御前の化粧井戸(左側)

48 虎御前の化粧井戸
虎御前は平塚の黒部丘にあった遊女宿で生まれ、大磯の長者の家で遊女になりました(室町時代の遊女は芸達者でかなりの知識人として教養を身につけた女性で、売春婦的なものではなかったそうです)。
虎御前に恋した曽我の仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎で、若い頃から父の仇討ちを考え妻を持たずに虎御前に恋をしました。17才で十郎と一緒になり、19才の時に時十郎が仇討ちに行き、その場で切り殺され帰らぬ
人となりました。虎御前は箱根で出家し、高麗山の北麓に今でもある荘厳寺で供養を重ね、53年の人生を送ったと云われています。
その虎御前が、この井戸から水を汲んで顔を洗ったことから、虎御前の井戸と云われています。
虎御前の化粧井戸は、車屋から少し歩くのかと思っていたのですが、黄色壁の建物と頭にあったので、店を出て直ぐでしたが見逃さないですみました。
化粧井戸から約170m歩くと、右側に日本橋から16番目となる一里塚跡があり、標板が建っていました。
11時35分、016化粧坂一里塚跡(右側)

49 化粧坂一里塚
一里塚跡から約180m歩くと東海道線の脇に出て、そのまま線路沿いに進む道と、下って線路を潜る道に分岐します。
旧東海道は下って、竹縄架道橋と書かれた地下道潜って線路の反対側に出ました。
地下道のトンネルを抜けると今までの景色がガラッと変わり、松並木になっているのですが、大きな松の木がいまにも倒れそうな状態で道の上を覆っていました。
11時42分、斜め松(左側)
51 化粧坂の斜め松
写真の倒れそうになっている松の反対側(右側)に、大磯宿江戸方見附跡の標板が建っていました。
11時43分、大磯宿・江戸方見附跡(右側)

52 大磯宿・江戸見付跡
見附跡がある道は、東海道線で遮断されているため、車の往来が少なくのんびりした気分で歩いていると、国道1号に合流しました。
合流したところから約350m歩いた左側に、虎御前ゆかりの虎御石などがある延台寺があり立ち寄りました。
11時55分、虎御前参拝の竜神様(延台寺)=左側
54 虎御前祈願の竜神様(延台寺)
 ※虎御石碑
55 虎御石碑(延台寺)
安元元年(1175)、大磯の山下長者に一人の娘が生まれ、虎池弁財天に願をかけて授かった子だったので、「虎」と名付けられました。この時、弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内に御堂を建て、虎御石と名付けて大切にお祀りしていると、不思議なことに虎女の成長とともに石が大きくなったそうです。虎女は舞の名手として広く天下に知られるほどに成長し、曽我兄弟の兄十郎と恋仲になりました。
十郎が虎女の家で敵方の刺客に襲われた時、この石のお蔭で命が助かったので、「身替りの石」ともいう。曽我兄弟は富士の裾野で父の仇(工藤祐経)を討ち本懐を遂げて死に、虎女は兄弟の最後の地を訪ね「露とのみ消えにしあとを来て見れば尾花がすえに秋風ぞ吹く」と読んで庵をむすんで兄弟の菩提を延台寺で弔ったそうです。
延台寺に来る時は交差点の信号で道路右側から左側に渡りましたが、延台寺を出て次の史跡に行く時は、交差点がなかったので「Yumiさん、渡るよ」と声を掛けて車の合間に横切りました。
延台寺から約110m歩くとそば処古伊勢屋の脇に本陣跡の標板が建っていました。
11時58分、小島本陣跡(右側)

56 大磯宿・小島本陣跡
大磯宿には小島本陣、尾上本陣、石井本陣と3つの本陣があり、各本陣とも建坪230~250坪で、南本町東側にあった石井本陣は早くに閉店しますが、尾上本陣と小島本陣は幕末まで続きました。
小島本陣は北本町に、尾上本陣は南本町地福寺入口付近にあったそうです。

小島本陣跡から約40m歩くと、大磯消防署前信号があり、交差点の右側に中南信用金庫本店があり、建物の脇に尾上本陣跡の石碑が建っていました。
私とYumiさんは中南信用金庫に沿って本陣跡碑を左に見て直進し、島崎藤村が永眠している約40m先の地福寺に立ち寄りました。
12時02分、島崎藤村の墓(地福寺)=右側奥

58 島崎藤村の墓
島崎藤村は、昭和18年(1943)8月21日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中に頭痛を訴えて倒れ、翌8月22日午前零時35分、「涼しい風だね」という言葉を残し、行年71才で永眠され、本人の希望でここに葬られたそうです。
島崎藤村のお墓は境内の左手にあり、隣りには妻の静子さんが永眠しています。
お墓をお参りし、旧東海道に戻る手前で、尾上本陣跡の石碑に立ち寄りました。
12時05分、尾上本陣跡(右側)
60 大磯宿・尾上本陣跡碑
本陣跡から約170m歩くと、右側に「新杵」という菓子屋があり、立ち寄りました。
12時08分、菓子処・新杵(右側)
62 菓子屋「新杵」
新杵は、明治24年創業、4代目を数える老舗の和菓子屋で、吉田茂元首相ご用達の店だったようです。初代が東京の新杵という菓子屋で修行を積み、暖簾分けしてこの地に支店して店を開いたそうで、虎子饅頭や西行饅頭が有名です。
おやつに食べようと虎子饅頭と西行饅頭を注文しましたが、虎子饅頭は売り切れて買えませんでした。
残念!!
しかたなく西行饅頭を買い、店を出て斜め左の照ケ先海岸入口信号を渡り、約250m離れた照ケ崎海岸に海を眺めに行きました。
12時18分、照ケ崎海岸(左側奥)
63 照ケ崎海岸
 ※照ケ崎海岸・砂浜
65 照ケ崎海岸の浜辺
照ケ崎海岸に出て、目の前に広がる海を眺めましたが、陽差しが強く、眩しくて目を開けてられません。
海の近くを歩いているのですが、なかなか立ち寄ることができなかったので、良い思い出を作ることができました。
海岸から元きた道を照ケ先海岸入口信号まで戻り、交差点を左折するのですが、旧東海道は国道1号ではなく直角に曲がり1号より細い方の道を進みました。
この道は、約60mで右に曲がると約70mで国道1号に合流しますので、旧東海道に拘らない人は国道1号を歩くようです。
国道1号と合流すると直ぐ左側に、蒲鉾で有名な「井上蒲鉾店」がありました。
井上蒲鉾店は明治11年創業の老舗の蒲鉾店で、鎌倉にも支店がある行列のできる店として有名です。
私も蒲鉾とさつま揚げを買って帰ろうとしたのですが、相方のYumiさんに「暑いからダメ」と拒否されてしまい、この暑さの中、まだ数㎞を荷物持って歩くのもは嫌だなということもあり、Yumiさんの云うことを素直に聞いて素通りしました。
井上蒲鉾店から国道1号を約130m歩くと、鴫立沢信号の手前左側に鴫立庵があり、立ち寄りました。
鴫立庵は樹木に囲まれた中にあり、その手前に細い川が流れる鴫立沢があり、炎天下からきた私達には清涼となりました。
12時31分、鴫立沢(左側)
70 鴫立沢
鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つで、敷地内に建てられた石碑に銘文「著盡湘南清絶地」から湘南発祥の地とも云われている。
寛文4年(1664)、小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ」(西行法師)
鴫立庵は鴫立沢の直ぐ先にあり、入場料(@100円)が必要なことと、Yumiさんがまったく興味を示さない、庵に入るには靴を脱ぐ必要があるなどから、中に入らずに受付の手前で引き返しました。
鴫立沢信号を渡り、進行方向右側を約210m歩くと島崎藤村邸への案内看板が建っており、そこを右折して向かいました。
右折して約30m先の三叉路を右に進み、約40m先の十字路を左折、約70m歩いた三叉路の右側角に竹柵に囲まれており、左側に休憩できる小さい公園がありました。
12時42分、島崎藤村邸(右側奥)
72 島崎藤村邸
邸は、「静の草屋」と呼ばれ、大正から昭和初期にもともと別荘等に使用する貸家として建築されたもので、昭和16年2月からこの家を借り受けましたが、大変気に入ってその後購入し、亡くなるまで(2年半)過ごしたそうです。
鴫立庵では庵の中を見学しなかったので、島崎藤村の家は、邸内に入りひと通り中を見学しました。
旧東海道に戻り、約90m歩いた大磯中学校前信号を進行方向左側に渡ると、松並木になっていました。
12時50分、東海道松並木(左側)
76 東海道の松並木
 
東海道松並木・解説
74 東海道の松並木碑
東海道松並木の標板には、
「江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました、松並木は、今から約400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主により保護され、約150年前ころからはきびしい管理のもとに立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられたものです。
この松並木はこのような歴史をもった貴重な文化遺産です」
と記されていました。
松並木は、約400m続き、松並木が終わった先の滄浪閣前信号の前に、明治の元勲、伊藤博文の公邸であった滄浪閣があったことを記した石碑が建っていました。
12時57分、滄浪閣跡(左側)
78 滄浪閣
明治の元勲の伊藤博文の邸宅であった滄浪閣が、倒産のため立ち入り禁止になっていたのは、時代の流れとはいえ寂しいものでした。
滄浪閣から約1.3㎞歩くと国道1号と分岐する城山公園前信号があり、国道1号から別れて右折しました。
分岐するところに来るまでは、吉田元首相の家へ見学に立ち寄る予定でいましたが、暑さに負けて疲労感強く、早く休憩したいと思いながらYumiさんに聞くと、「行きたくない」と反対の声が返ってきたので、すぐに同調し見に行くことを割愛してしまいました。
※そのため、東海道の旅を終えた後、車で吉田邸を訪問し、史蹟を見学しました。
H26.09.11 再訪=吉田邸(吉田茂像)=左側
104 吉田像
城山公園前信号を真っ直ぐ全通り過ぎ、数十m先の左側を入ったところにあり、邸内全体を整備中で母屋も取り壊されたままでした。
吉田邸の詳細は、「H26.09.11 番外編 戸塚宿~箱根宿」に掲載しています。
信号から約100m歩くと大磯城山公園の石碑が建っている入口があり、城山公園まで上らずに入口脇の涼しい場所に腰掛けて休憩のおやつタイムにしました。
13時16分~13時27分、休憩(城山公園入口)=右側
81 城山公園入口
照ケ崎海岸に行く前に立ち寄った和菓子の新杵で買った西行饅頭をYumiさんと食べ、水分補給して休憩しました。
西行饅頭は、美味しいお饅頭だったので、また機会があったら食べたいと思います。
休憩を終え、最後のひと踏ん張りとザックを背負い出発すると直ぐにY字路の分岐となり、Y字路の真ん中に時計が掲げられた柱が建っており、その時計柱の左側を進みました。
時計柱から約50m先の本郷橋を渡ると、旧東海道は弧を描くような道になっていて、「小島姓」の表札の家が多く立ち並んでしました。
本郷橋から約650m歩くと、国道1号が直ぐ脇に接近し、旧東海道と平行になった辺りの左側に、日本橋から17番目の一里塚跡があり、標柱とパネルが建っていました。
13時38分 017国府本郷一里塚跡(左側)
83 国府本郷一里塚
国府本郷一里塚は、約200m江戸寄りにあり塚の規模は不明ですが、塚は東海道を挟んで左右一対で、塚の上には榎が植えられていたようです。
現在の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造されたものです。
 ※一里塚付近(歩いてきた方向に向けて)

85 一里塚附近
 国道1号と平行していた旧東海道が国道1号と合流する直前の左側に、大磯町から二宮町に入る町境標識が建っていました。
13時58分、二宮町境標識(大磯町から二宮町)
87 二宮町境標識
町境標識の直ぐ先の国府新宿信号で旧東海道は国道1号に合流し、ここから国道1号を歩くことになり、信号から約1.4㎞歩くと右側に二宮しおみクリニックがあり、その約60m先に塩海橋が架かり、右側の橋のたもとに塩海の名残りの碑が建っていました。
14時04分、塩海(しぼみ)の名残りの碑(右側)
88 塩海の名残り碑
塩海の名残りは、二宮は海に面した村のため、古くから海水による塩の精製が盛んだったことから、二宮町内の地名に塩海(しぼみ)が残っています。『新編武蔵風土記稿』によると「古この海浜にて鹽を精製す、依ってこの名あり」と記されています。
塩海橋から約450m歩くと、今日の旅の到着地になる二宮駅に入る二宮駅入口交差点に着き、交差点を渡ったところで今日の旅の到着の写真を撮り、到着式を行いました。

14時11分、二宮駅入口交差点(到着地)

89 二宮駅入口交差点
今日は、梅雨に入ったとのことでしたが、梅雨の晴れ間の青空に恵まれて旅することができましたが、とにかく暑くて私もYumiさんもバテバテ状態でした。

到着式を行った後、約100m離れた二宮駅に向かい、東海道線、小田急線を利用して、家に帰ってきました。
14時26分、二宮駅発
14時47分、藤沢駅着
15時04分、小田急藤沢駅発
【夫婦の小争い】
今日の道中で、Yumiさんと衣服調整をめぐって、何回か夫婦の小争いがありました。
《衣類の脱着》
薄地の長袖シャツに、長袖のポリエステルパーカー(ユニクロ)を着て歩いていたのですが、パーカーが汗ばんできたため脱ぐように話したのですが、「寒くて風邪を引く」とか、「私とお父さんは違うのだから」と拒絶反応。
今のYumiさんは寒暖機能が低下しているため、汗をかいても一人で衣服調整が出来なくなっているので、私が介助しているのです。
しかし、本人はいたって正常と思っているので、衣服調整ではほとんど意見が相違します。
そのため、私は少し強引ですが、「はい、脱いで」と云いながら脱いでもらいます。
Yumiさんからブーブー文句が出ること、出ること。
今日も、ブーブー文句がしばらく続いていましたが、段々と風が無くなって暑くなってきたので、寒いということがなくなり大人しくなりました。
なお、脱いだパーカーは帰りの二宮駅から藤沢駅に移動する車内で、バックから出して着ていました。
《史跡見学》
史跡などに立ち寄っても全然興味がなく、すぐ先に行こうとなり、パネルや石碑などは写真だけ撮って「はい、次」になります。
小争いになったのは、鴫立庵で靴を脱いで室内に入り、また靴を履くことに「ああ」とか、「こう」とか云って拒否反応を示しました。
私は「歩いているだけでは何の楽しみもないじゃない」と思うのですが、今のYumiさんに云ってもしょうがないと思いながら云ってしまいました。
ところが、云ったことが少し理解したような
反応は示してくれたので、救われました。
次回の旅から、Yumiさんに旅の概要を直前に話しみようかと思います。
結果はどうなるか、お楽しみです。
【次回の予定】
次回(第5回)は、6月30日(土)に「二宮駅入口交差点から入生田駅前までの14.97㎞」を旅する予定です。

梅雨の晴れ間を期待していますが、雨模様の場合は順延します。
どのような旅になるのか、楽しみです



応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/

 

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURでご覧いただけます。
  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/



【天候】晴れのち曇り
【宿場】(08)大磯宿⇒(09)小田原宿
【行程】歩行距離=14.97㎞ 総距離=88.91㎞
二宮駅入口交差点⇒(1.70㎞)⇒018押切坂一里塚⇒(4.41㎞)⇒019小八幡一里塚⇒(3.76㎞)⇒020小田原一里塚⇒(4.19㎞)⇒021風祭一里塚⇒(0.91㎞)⇒入生田駅入口
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第5回旅の宿場)
30 第5回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第5回)
 第5回の旅ルート
 
(J
R二宮駅・駅入口交差点 ⇒ 入生田駅入口)
第5回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》

梅雨の最中で、天気予報が発表される頃からやきもきしながら旅の日を迎えました。
今回の旅は、
①7月中旬に私の白内障手術が実施される
②7月と8月は、真夏の炎天下となるため、街道旅はしない
③9月に箱根の東坂を上る
ということで、雨天にならないことを願っていました。
天気予報は、旅を計画している6月30日は降雨確率は低く、翌日の7月1日が逆に降雨確率が高い予報でした。
《身支度》
起床、4時20分
窓のカーテンを開けて外を見ると、天気はOKです。
今までの旅に出るときと同じ手順で準備を進める中で、今日は先日(27日)の山の会の月例会で教えて頂いた「足の甲に冷温シップを貼る」ことを実施してみることにした。
Yumiさんの足の甲にシップ薬を貼った後、私の足にもシップ薬を貼りました。
また、朝食は先日の富士登山の時、Yumiさんに不評だった焼き餅はやめて、いつもと同じパン、牛乳そして果物にしました。
出発の身支度を整え、トイレを済ませ、乗る予定の電車に慌てないで乗れる時間に家を出発し、自転車で通る公園は多くの人がジョグ&ウォークをしており、私とYumiさんは朝の爽やかな空気を吸いながら軽快に自転車のペタルを踏んで、最寄り駅へ向かいました。
《移動》
最寄駅を定刻に出発し、電車を乗り継いで出発地のJR二宮駅に向かいました。
移動する車窓から見る景色は、前回の旅の帰りに車窓から見たものとはまったく違った感じで、「ここを歩いてきたんだな」と、少し感傷的な気分になりながら窓の外を眺めていました。
まだ、旧東海道の旅は先が長いので、今から感傷的になっていては良くないのでしょうが、感傷的な気分になっていました。
〔胆を冷やす〕
ところが今朝の移動において感傷的な気分で居られたのは僅かで、冷や汗の連続でした。
理由は、Yumiさんが一度ならずも二度も隣りに座っていた人が立つのに連られて、私に関係なく座席を立って下車しようとしたからです。
私は、隣に座っていたYumiさんの動く気配に目を覚まし、Yumiさんが座席から立って下車しようとしているのビックリして、急いでYumiさんの腕を取って引き戻しました。
少し強い調子で注意したので、廻りの人から注視の視線を受けましたが、致し方ありません。
私は強く云ったので、二度は起きないだろうと思っていたのですが、その二度目も起きたのです。
二度目も気が付いてYumiさんの腕を取って引き戻したので事なきを得ましたが、私が寝ていて気が付かなかったら、どうなっていただろうと、背筋が寒くなりました。
私は一緒の時でも気を付けないといけないと心に刻むと共に、それからは寝ないで過ごし、降りる1つ手前で次の駅で降りることを説明するようにしました。
08時21分、二宮駅着
01 二宮駅改札口
二宮駅では、改札を出て駅構内にあるコンビニに行き、ペットボトルを買ったのですが、これは駅に着いてから買うことは考えていたわけではなく、2日前から今日のために冷凍しておいたペットボトルを、家の冷蔵庫の中にものの見事に置き忘れてきたからで、街中を歩く街道ウォークだったのでペットボトルを忘れても何とかなりましたが、山行の時じゃなくて良かったと思いました。
ペットボトルを購入したり、駅のトイレを借りてスッキリしてから出発地点に向かい、
前回の到着地で、恒例となってきた出発式(出発地で出発の看板を掲げた写真を撮る)を行いました。
【=旅=】
08時32分、二宮駅入口交差点(出発地)
 
03 二宮駅入口交差点(出発地点)
二宮駅入口交差点を出発して約200m歩くと松並木があり、私が「二宮松並木」と勝手に命名しました。
08時38分、二宮松並木(右側)
04 二宮の松並木
松並木を過ぎ、吾妻山入口信号から約130m歩くと、国道1号と分岐する道の左側に旧東海道と梅沢旧道の道標が建っており、そこを右に進みます。
08時45分、梅沢旧道道標(旧道入口・左側)
06 梅沢旧道入口
〔Yumiさんの霊感〕
梅沢旧道を約100m歩くと右側に醤油醸造工場があり、工場の前を通りながら
Y=この道通ったことあるよね
E=いや、初めてだよ
Y=ふーん
E=夢の中でこの道を通ったの?
Y=この道、歩いたことあるよ
E=今日、始めて歩く道だよ
Y=そう。この景色知ってるよ
Yumiさんのことを知らない人は、「えー」といいますが、いままでも何回も夢の中で事前に見ていたことが何回もあるので、私は特に驚いたりしませんでした。
事前にこれから行くところのことを夢の中で見ていることを認識させられたのは、昨年の諏訪御柱祭りを見に行った時です。
道路端で木遣りや笛などによる催しを見ていた時、
Y=ねえ、これ見るの初めて?
E=初めてだよ
Y=この景色、見て知っている
とのこと。
霊感の強い人だとは知っていましたが、最初は驚きました。
これ以降、このようなことがいく度もあり、最近は逆にこちらから聞くこともあり、初めてのことを事前に知っていても驚くことはなくなりました。
醤油工場から約150m歩くと右側に、相模新西国三十三観音霊場一番札所で、藤棚も有名な等覚院があり立ち寄りました。
08時49分、等覚院(右側)
07 等覚院の藤だな
藤は、樹齢約400年、樹高2.4mで、元和9年(1623)将軍家光が上洛するとき、等覚寺に駕篭を停めて藤の花を見たと伝えられている。また、寛文の頃、仁和寺宮が関東に下向した時、等覚寺の藤の花を見て「藤巻寺」の別号を与えられたとも伝えられている。
藤は開花が終わって新緑の藤棚に変貌していたので、違った藤を眺めることができました。
新緑の藤を眺めて目の保養をした後、山西信号で梅沢旧道から国道1号に合流し、約450m歩くと川勺神社入口信号の手前で道は分岐し、旧東海道は左側の押切坂に進みますが、分岐したところに日本橋から18番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
9時00分、018押切坂一里塚跡(右側)
09 押切坂一里塚
押切一里塚は大磯宿と小田原宿の中間に位置し、塚は街道を挟んで両側に築かれ、
・北側の塚=約3.6m、上にケヤキが植樹
・南側の塚=約3.3m、上に榎が植樹
だったそうで、周辺には旅人目当ての茶屋や商店か軒を並べ「梅沢の立場」と呼ばれ、大変賑わっていたそうです。
押切坂一里塚から約200m歩くと、左側に入る道の先角の民家の敷地に、本陣跡碑が建っていました。
09時00分、二宮宿・松屋本陣跡(左側)
11 二宮・松屋本陣跡
本陣は和田家が江戸時代に大磯から小田原両宿の間の宿として御休本陣を賜り、代々松屋作右衛門と名乗りました。本陣に保管されている御休帳には、本陣に立ち寄った大名、旗本などの記録がされている貴重なものです。
松尾本陣跡を過ぎると押切坂は急坂に近い傾斜となり、国道1号に合流する手前に道祖神があり、記録に残しました。
 ※道祖神
13 道祖神(松屋本陣の先)
国道1号に合流して約60m歩くと中村川に架かる押切橋があり、橋の上から海が眺められました。
09時11分、押切橋からの海の眺め(左側)
14 押切橋からの海
海は目視では良く見えたのですが、写真は後ろを走る西湘バイパスの橋桁と、技量不足及び低性能のカメラのため、良く写っていなかったのでガッカリしました。
押切橋を渡ると二宮町から小田原市に入る市境標識が建っていました。
09時12分、市境標識(二宮町から小田原市)=左側
15 二宮町と小田原市の境界
中村橋を渡り、坂を上って行くと、相模湾の眺望が広がってきました。
前回の第4回の旅で、大磯の照ケ崎海岸に立ち寄ったので、今日は砂浜に行かなくてもいいですとYumiさんのお言葉があり、海を見ながら旧東海道(国道1号)を歩きました。
旧東海道から海が近くに見れる数少ない景勝地だったので、道路端にでも座ってゆっくり眺めれば良かったと、帰ってきてから思いました。
車坂の下り坂を歩き東前川信号の先の前羽交番(左側)の前付近(右側)に、車坂碑が建っているそうですが、事前に調べた私の場所確認の間違いから碑を確認することができませんでした。
交番から約900m歩いた左側の明治安田生命小田原東(営)から約50m先の西前川信号を右折した先に、山吹色い枠の中に神奈川県と小田原市の水道管を結んだ友情マンホール(緊急連絡管)の大きな蓋が道路に埋められていました。
09時41分、友情マンホール(右側)
17 神奈川県と小田原市の友情マンホール
西前川信号に戻り国道1号を約300m歩くと、右側にのんき亭がありこの辺りから上り坂となりました。
旧東海道は、約70m先の右に上る細い道を上り、家の敷地内を通るようにクランク形に進むんで国府津駅前交差点に出ました。
09時51分、国府津駅前交差点(右側)
19 国府津駅前交差点
交差点の脇にベンチが置いてあり、信号を待つ間のわずかな一服休憩を満喫したのですが、道路の反対側(進行左側)に直ぐ渡るのはもったいないと、少し休憩してから渡りました。
また、交差点には旅人に優しいベンチが設置されていて、助かりました。
国府津駅前信号を渡り進行方向左側を約50m歩くと、左側の建物と建物の間に、御勧堂跡の石碑が建っていました。
09時54分、御勧堂碑(左側)
20 御勧堂碑
御勧堂は、親鸞証人が常陸の国から京都へ帰る途中、7年間住んだ堂で、現在は跡碑のみである。
道路の反対側に、約800年ほど前の嘉禄年間に創建され、親鸞上人によって開基された真楽寺があり、寺院のお堂の中に親鸞上人が石に指先で名字を書かれたという帰命石と呼ばれる2mほどの大きい石があるそうでしたが、立ち寄らずにそのまま左側の歩道を歩きました。
約650m歩くと森戸川に架かる親木橋があり、橋を渡ったところの道路は、進行方向右側には横断歩道があるのですが、左側は歩道橋だけになっていて、歩道橋に魚をモチーフにしたパネルが橋の路面に埋め込まれていました。
10時05分、魚のパネル(親木橋歩道橋路面)=左側
23 魚タイル・クロダイ
親木橋の進行左側には横断歩道がなく、この歩道橋を渡るのでご覧になれます。
歩道橋を降りた辺りから松並木が始まり、約200m歩くと日本橋から79㎞の距離標が建っていました。
10時10分、79㎞距離標(左側)
24 79㎞ポイントの松並木
さらにそのまま進行左側の歩道を歩くと、「小八幡三丁目」信号近くにバス停「一里塚」があり、バス停の約10m手前に日本橋から19番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
10時13分、019小八幡一里塚跡(左側)
25 小八幡一里塚
二宮駅を出発してから、国府津駅入口交差点のベンチで少し休んだだけだったので、空き地に枯れ木の幹が置かれていたのを見つけ、二人で仲良く座ってお菓子タイムにしました。
10時17分~10時22分、休憩
空には青空が広がっているのですが、海からの風が強く、Yumiさんはいつものごとく1枚着こんで「寒い、寒い」を連発していました。
休憩を終え、はま寿司小田原酒匂店の少し手前に、日本橋から80㎞の距離標が松並木の中に建っていました。
10時31分、80㎞距離標(左側)
27 80㎞ほイント松並木
松並木を約110m歩くと酒匂歩道橋があり、歩道橋から箱根連山を眺めようと上ってみましたが、雲と靄で眺望はダメでした。
10時34分、酒匂歩道橋からの眺め
29 酒匂歩道橋からの風景
歩道橋で道路を渡り、進行右側の歩道に降りると、真っ直ぐの電柱の脇に逆弓形に曲がった松があり、面白い構図の景観を眺めることができました。
10時38分、電柱と松(右側)
32 電柱と松
酒匂歩道橋から約800m歩くと、右側に法善寺があり、境内に石塔の五重塔が建っていました。
10時48分、石塔五重塔(法善寺)=右側
33 法善寺の五重塔
法善寺から約450m歩くと「酒匂橋東側」信号があり、酒匂川に架かる約400mの酒匂橋を渡りましたが、先ほどの歩道橋から見た状況と同じで、箱根連山や富士山は眺められませんでした。
10時55分、酒匂橋(山の眺め)=右方向
34 酒匂橋
 ※酒匂橋(海の眺め=左側)
36 酒匂橋からの海
酒匂橋を渡ると右側にトヨタカローラ販売店があり、コンビニのローソンとの間を右折し、細い道を約80m歩いて突き当たった道を右折し、約140m歩いて酒匂川の堤防に出ました。
この辺りが酒匂川の渡し跡らしいのですが、碑もなく、地元の人に聞いても何もないとのことでしたので、この辺りかなと堤防で写真を撮って記録に残しました。
11時09分、酒匂川の渡し跡(?)
37 酒匂川の渡し跡(碑はなし)
酒匂川の渡しは、道中の難所の一つで、古くは舟渡しでしたが、延宝2年(1674)に舟渡しが禁止され徒渡し(かちわたし)制が施行され、冬の時期は冬川と云って仮橋を架けましたが、夏の時期は夏川と称して手引きで肩車や蓮台などによって川越え人足に料金を支払って渡っていました。
そして、明治4年(1871)に制度が廃止され、今日に至っています。
渡し跡からの戻りは、トヨタカローラ販売店の処には戻らず、堤防からの道を真っ直ぐ歩いてビジネス高校前信号に出て、旧東海道に戻りました。
旧東海道はビジネス高校前信号を渡り、そのまま約60m先を直角に右折して進むのですが、この近くに新田義貞の首塚があるというので、立ち寄りました。
こう書くと簡単に跡碑の処に行けそうなのですが、分かりずらい場所にあり、地元の人に聞いてやっと分かりました。
11時21分、新田義貞首塚(街道から入った右側)
40 新田義貞の首塚
碑は鉄柵で囲まれていて、扉は閉まっておりましたので、扉を開けて中に入らせて頂きました。
首塚の場所は、このブログをご覧になった方の一助になればと、以下に道順を記しておきます。
ビジネス高校前信号を渡って約60m歩いてきた処を右折せずに、そのまま突き当たった家に沿って進みます
突き当たった辺りが、「小田原市東町4丁目5-11」と思います
約60m歩くと住宅地の十字路(この辺りが4丁目5-17と思います)があり、ここを右折します
約80m歩くと突き当たって道は左折するのですが、ここを右折して畑地に入ると、右前方に鉄柵が見えます
鉄柵の中に首塚があります
首塚から旧東海道に戻り、常剱寺入口で国道1号に合流しました。
国道1号を約190m歩くと、山王小学校入口信号、そこから約500m歩くと山王橋(手前に信号有り)、橋を渡って約170m歩くと山王橋バス停があり、その先の歩道の道路側に小田原宿碑が建っていました。
10時37分、小田原宿碑(左側)
42 小田原宿碑
宿碑から約50m歩くと「浜町二丁目歩道橋」があり、歩道橋の左側に日本橋から20番目の一里塚跡碑と江戸口見付跡碑が、歩道橋を渡った反対側に江戸口見付跡標柱が建っていました。
11時42分、020小田原一里塚&江戸口見付跡(左側)
44 小田原一里塚
 ※江戸口見付跡標柱(道路反対側)=右側
43 小田原城址江戸口見付碑
小田原一里塚は、日本橋から20番目の一里塚で、天保年中の相模国風土記に「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上に榎樹ありし」と記されています。
また、江戸口見付は、天正18年(1590)に豊臣秀吉との小田原合戦で、町ぐるみ掘や土塁で囲まれていましたが、江戸初期にこれらが壊され東海道を通すときに枡形が作られ、小田原宿から江戸に向かう出口であったため、江戸口見付と名付けられました。
歩道橋の左脇にあった一里塚碑を見落とし、歩道橋で反対側(進行右側)に渡ったら江戸口見付跡の標柱が建っていました。
そして道路の反対側を見ると石碑が見え、慌てて歩道橋を上り、下りしてまた進行方向左側に戻りました。
一里塚跡から約260m歩くと、道路の反対側(進行右側)に梅干で有名な老舗の田中屋を眺めながらさらに80m歩くと「新宿」交差点があり左折しました。
また、旧東海道沿いには、町名石碑が建っていました。
 ※新宿町碑(左側)
46 町碑(新宿町)
 ※万町碑(左側)
47 町碑(万町)
新宿交差点を左折して約110m歩くと、右折する車道があり、蒲鉾を売る店が軒を連ねる蒲鉾街となりました。
立ち並ぶ蒲鉾店を見ながら約270m歩くと、左側に有名な「丸う田代総本店」が建っていました。
11時52分、丸う田代総本店(左側)
48 蒲鉾・丸う本店前
丸うマークの蒲鉾は何回も買ったことがあり、お土産に買っていきたかったのですが、この先何時間も暑いザックの中に入れて置くのは腐ってしまうと考え、店の前で写真だけ撮って先に進みました。
丸う田代総本店から約30m歩くと右側に、小田原おでん本店がありました。
11時53分、小田原おでん本店(右側)
49 小田原おでん
小田原で有名な店舗が続いていましたが、今日は立ち寄ることなく店の前を通り過ぎました。
また、この辺りの街道沿いにも町碑が建っており、歩く側(進行左側)にある町碑は写真に撮り、記録に残しました。
 ※高梨町碑(左側)
50 町碑(高梨町)
 ※宮前町碑(左側)
51 町碑(宮前町)
青物町信号から約110m歩くと、左側に小田原宿・脇本陣だった古清水旅館がありましたが、今は高齢者住宅になっていました。

11時58分、小田原宿・古清水脇本陣跡(左側)
52 古清水本陣跡
江戸時代末期、宿場には4軒の本陣があり筆頭が清水金左衛門本陣で、本陣は兄が、脇本陣を弟が経営し、清水
金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の把握を行っていました。

本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊に当てられていました。

明治以降、本陣と脇本陣が合併して古清水旅館がありましたが、平成8年に廃業し、平成19年に建物が取り壊され、現在は高齢者専用の賃貸住宅になっており、2階に資料館があります。

古清水旅館跡の直ぐ隣りに、明治天皇が宿泊した小田原宮の前行在所址と刻まれた石碑が建っていました。

11時59分、明治天皇小田原行在所址(左側)

53 明治天皇宮ノ前行在所跡
明治天皇宮の前行在所址碑は、小田原宿で筆頭本陣を勤めていた清水金左衛門本陣跡で、本陣の上段の間があった場所に建っています。

行在所址碑の脇にある「紫陽花」の花が満開でした。

55 明治天皇宮ノ前行在所跡・あじさい

行在所址碑から約60m歩くと、本町交差点となり国道1号と合流し、交差点の左角に「なりわい交流館」がありました。
交流館は昼食後に戻ってきた時に見学するとして昼食を食べるため左側を眺めながら、明治26年創業の老舗である元網元のだるま料理店」に向かいました。

12時07分~12時29分、昼食(だるま料理店)

昼時で店内は一杯でしたが、運よく空いたテーブル席があり、待つことなく座れました。

何をたべようかメニューを見て天丼も考えましたが、元網元が開いた店で、海の近くでもあり「刺身定食」を注文しました。

料理の量は全体的に少ない感じがしましたが、美味しい刺身でした。

また、食後に店舗の写真を撮る予定にしていましたが、ころり忘れてしまい本町交差点近くで気が付いたので、戻って写真を撮るのを諦めました。
13時34分、なりわい交流館(左側)

56 なりわい交流館

なりわい交流館は、昭和7年(1932)に建設された旧網問屋を再整備し、小田原市民や観光客の憩いの場として平成13年(2001)に開館されたお休み処です。

昼食を食べてきたばかりなので、街道スタンプがあるかと思って案内の人に聞いたら「ありません」とつっけんどんに応対され、早々に立ち去りました。

街道スタンプを押印したのは品川宿だけだったので、楽しみにしていたので残念でした。

〔片岡本陣跡〕

このあと、片岡本陣跡、久保田本陣跡を探したが、見付けられませんでした。

資料で史跡の場所を確認すると、本町信号の先の左側にマンション「レアージュ小田原本町」があり、その脇を左に入った右側に「明治天皇本町行在所址」があり、碑の建っている場所に片岡本陣があったと記されていたので再訪して確認しました。
※H26.09.11 再訪=片岡本陣跡碑(左側)

116 小田原宿・片岡本陣跡
旧小田原宿の本陣片岡永左衛門宅跡で、明治11年(1878)11月に、明治天皇が北陸、東海を巡行した時に宿泊されたそうです。

〔久保田本陣跡〕
※H26.09.11 再訪=久保田本陣跡(左側)
片岡本陣跡から約60m先の左側に湯沢自動車商会があり、その隣りの山崎タイル店の辺りに建っていたそうですが、パルネなどの標板が何もなく確認できませんでした。
117 小田原宿・久保田本陣跡?
本町交差点角のなりわい交流館から約140m歩くと、左側に本町バス停(小伊勢屋前)があり、本町の町碑が建っていました。

 本町碑(左側)

57 町碑(本町)

町碑から約110m歩くと御幸の浜信号があり、ここで進行右側に道路を渡り約80m歩くと、道路の反対側(進行左側)に小西薬局がありました。

12時47分、小西薬局(右側)

58 小西薬局
小西薬局を眺めながら約80m歩くと、右側にお城をモチーフにした薬のういろう「透頂香(とうちんこう)」と菓子のういろうの「ういろう本店」があり立ち寄りました。

12時51分、ういろう本店(左側)

59 ういろう本舗

小田原外郎(ういろう)の祖宇野藤右衛門定春は京都外郎家の一族で、中国元朝に宮礼部員として仕えた陳宗敬を祖としています。

外郎家は、霊薬透頂香の製造者として知られ、小田原北条氏の招聘で小田原に居を構えた藤右衛門が京文化を伝達する役割を果たしました。

また、江戸時代に透頂香を売る「外郎売り」は、歌舞伎市川団十郎の出し物として評判となりました。

外郎の店内に入り、今日のおやつに「ういろう」と、お土産に「ういろう羊羹」を買いました。

ういろうでの買い物を済ませて約70m歩くと箱根口信号があり、交差点を右折して旧東海道から外れて小田原城を見に行きました。

12時57分、小田原城(右側)

約170m先の藤棚信号を過ぎて場内に入ると、綺麗な紫陽花が咲いていました。

61 小田原城

城内は二宮神社を見ながら本丸公園に行きましたが、休日ということもあり団体客も多く、ゆっくり見学するという状況ではなかったので、写真だけ撮って城外に出ることにしました。

 小田原城

62 小田原城
小田原城は北条氏の時代、全国屈指の雄大な規模を持った城郭で、構築法は内郭(本丸、二の丸、三の丸)や城下町の周囲に大外郭を設けてこれを保護しながら、内郭の外側に雄大な防御線を張る構えで、総曲輪と呼び、土塁と空堀で作られているところから総掘と云われました。
総曲輪は、氏康の永禄頃に作り始められ、上杉謙信、武田信玄の再度の来攻の経験を生かして次第に拡大され、豊臣秀吉の小田原攻めが始まる直前の天正18年早春に完成したようです。
現在みられる城の石垣は、江戸時代のもので、北条氏の頃の空堀、土塁は、主にJR小田原駅西側の山手に残っています。
箱根口に戻り、交差点を右折して旧東海道を進行右側を歩くと、昼食で最初に候補とした「芳月」の看板がありましたが、店は閉店しているようでした。

この店は小田原城の先にあり、小田原城を見学すると食事の時間が遅くなるため、「だるま料理店」に変更したのですが、大正解でした(※ネットには閉店情報は書き込まれていませんでした)。

箱根口信号から約550m歩くと早川口信号があり、進行方向左側にある大久寺に立ち寄るため、進行左側に渡りました。

そして、東海道線と箱根登山鉄道の高架下を潜って約70m歩くと、左側に大久寺がありました。

13時21分、大久寺(左側)

66 大久寺

大久寺は、小田原城主の大久保忠世が建立した寺で、大久保氏の菩提寺です。
寺院にはあまり立ち入らないのですが、Yumiさんが反対しなかったので、山門から境内に入り墓所を見学しました。
大久寺を出て約80m歩くと「板橋見附」信号があり、信号を渡ると国道1号と分岐する道があり、交差点の右角にベンチとトイレがありました。
とても綺麗なトイレだったので、Yumiさんにも声を掛け利用させて頂き、ベンチで小休憩しました。
また、板橋見付信号付近は、信号の名前のとおり上方口見付跡なのですが、史跡の標板などがないかと辺りを見回しましたが確認することはできませんでした。
板橋見付信号で右に分岐している道を約50m歩くと新幹線のガードがあり、その下を潜ってさらに約550m歩くと右側の少し高いところに宗福院地蔵堂があり、立ち寄りました。
13時42分~13時51分、休憩(宗福院地蔵堂)=右側
69 板橋地蔵尊
ここには鎮守福興大黒尊天という大きな大黒様が祀ってあるのですが、写真を撮ることを忘れてしまい、昼食を食べてからあまり時間が経過していないというのにおやつタイムにし、ういろう本店でかったういろうを食べていました。
境内には、シャボン玉で遊ぶ子供とそれを見守る母親がおり、母親が「もう帰ろう」と声を掛けるのですが、「まだダメ」と子供が拒否し、楽しく遊んでいました。
ほのぼのとした親子の雰囲気で、心が癒されました。
また、境内にミニ三脚を置いてセルフタイマーで写真を撮れる場所があり、今回は真直ぐ撮れました。
地蔵堂の境内でひと息ついて先に進むと、いままで見えていた町並みの景色が、箱根連山の山並みに変わりました。
Yumiさんに「今度はあそこの山を越えるよ」と、目の前に見える箱根連山を指を差して教えましたが、どこまで理解したか・・・・・・です(理解していないと思います)。
地蔵堂を出て約100m先の箱根登山鉄道のガードを潜ると、上板橋信号の国道1号に合流しました。
国道の右側を、左に早川と西湘バイパスを眺め、右側に箱根登山鉄道を見ながら約650m歩くと、高架になっている小田原厚木道路が走っていました。
高架下を潜ったところを右折し、箱根登山鉄道の踏切を渡り、踏切先の二つに分岐した道を左に進みました。
そして直ぐ先の川を渡ったところから約290m歩くと、箱根登山鉄道の風祭駅入口があり、さらに約140m歩くと三叉路があり、その右角に日本橋から21番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
14時11分、021風祭一里塚・小田原道祖神(右側)
71 風祭一里塚
一里塚跡の前をそのまま真っ直ぐ約650m歩くと、右に入って行く道があり春日の局の墓がある紹大寺がありましたが、Yumiさんの「お参りしなくてもいい」との言葉にすぐ同調し割愛しました。
紹大寺に行く道から約220m歩くと、箱根登山鉄道の入生田駅に入る道があり、分岐点で到着式(到着のパネルを掲げて写真撮影)を行いました。
14時27分、入生田駅入口(到着地)
74 入生田駅入口(到着地)
旧東海道の旅でHPを立ち上げている、先人の子供(佐武隊員)が見つけた「丸い石」の写真を撮ろうと注意深く歩きましたが、見つけられませんでした。
見落としていないので次回の旅の時に、再度確認したいと思います。
【帰路】
電車を待つ間、電車のホームで初めて記念写真を撮りました。
 ※箱根登山鉄道・入生田駅
75 入生田駅
14時43分、箱根登山鉄道・入生田駅発
14時54分、箱根登山鉄道・小田原駅着
小田原駅で小田急線に乗り換え、家に帰りました。
14時59分、小田急線・小田原駅発
今日は、歩く距離が少し短かかったので、足の具合も良く終わることができました。
お疲れ様でした。
次回も頑張りましょう。
小田急線に乗って帰る途中、朝の座席を立ったことについて聞いてみたら、記憶にないとのことでした。
そして、帰りに朝と同じようなことが起きないように、座席の角に座わってもらい、私が席を立つまで動かないように話し、下車駅の1つ手前で次の駅で降りることを伝えました。
夫婦二人の5回目の珍道中は、無事に終わりました。
【次回の予定】
次回(第6回)は、「入生田駅入口から芦ノ湖の箱根町バス停までの12.91㎞」を旅する予定です。
標高差が650mある旧東海道の旅で一番厳しい箱根の峠越えを行う山登りのため、山行用の靴で歩こうと思います。
また、山は怖い所なので、準備を整えて臨みたいと思います。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【天候】晴れのち曇り、一時雨
【宿場】(09)小田原宿⇒(10)箱根宿
【行程】歩行距離=12.91㎞ 総距離=101.82㎞  

箱根登山鉄道・入生田駅入口⇒(2.80㎞)⇒022湯本茶屋一里塚⇒(4.39㎞)⇒
023畑宿一里塚⇒(4.42㎞)⇒024箱根一里塚⇒(1.30㎞)⇒箱根町バス停
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第6回旅の宿場)
16 6回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第6回)
 第6回の旅ルート
 
(箱根登山鉄道
・入生田駅 ⇒ 箱根宿・箱根町バス停)
第6回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》
6月30日に旅してから7月中旬に白内障の手術、夏の暑さ対策に私の左足親指の骨折(7月中旬)が重なり、当初計画していた9月1日に旅をする予定を、9月16日に2週間延期しました。
《準備》
骨折したことで、約2カ月半、ウォークを始めほとんど歩いていなかったので、不安な気持ちをもちながら少し早い12日から荷造りを始めました。

ザックや服装は、この時期のすずめ蜂の動きを考え、蜂が好む黒を除くことを第一に考え、私は青色のDeuter製30㍑、Yumiさんは雨の時のことを考え、ザックカバーが備え付けられている私がいつも使っている水色のモンベル製30㍑にしました。
ザックに入れる荷物は、チェックリストを元に1から準備しました。

また、今回の東海道の旅は箱根東坂の上りで山行と同じなので、万一の事故に備えヘッドランプ、非常食、医薬品、ストック、雨具(ゴアテック合羽上下・折り畳み傘)、昼食などを用意しました。
貴重品類は、前日の15日昼間に準備し、寝る前に再度、全部の持ち物について再点検し、朝4時に目覚ましをセットしてベツドに入りました。
04時20分、起床
いままでの5回の旅で権太坂、大坂、化粧坂などの大きな坂がありましたが、
今回の箱根東坂の上りは旧東海道の中で一番の難所と云われているところなので、緊張感をもって当日の朝を迎えました。
起きた時はまだ日の出前なのため、暗くて天気の状況は分かりません。
前日の天気予報どおりの天気を祈りながら、いつも
と同じ段取りで朝の身支度を整え(違うのは、両足のつり防止の手入れが追加)、朝食は前日買い置きした「あんまん・肉まん」を電子レンジで温めて食べました。
また、飲み物は500mlスポーツドリンク2本(1本は冷凍)と麦茶を用意しました。
《移動》
05時25分、自宅発

いままでの5回の旅は、権太坂、大坂、化粧坂などの坂がありましたが、今回の箱根東坂の上りは旧東海道の中で一番の難所と云われているところなので、緊張感をもって当日を迎えました。
起きた時はまだ日の出前のため、天気の状況は暗くて分かりませんが、前日の定期予報を信頼して旅に出る準備を始めました。
靴はウォーキングシューズからトレッキングシューズに替え、少し肌寒さを感じる朝の空気を浴びながら、最寄り駅に向けて自転車を走らせました。
最寄り駅を定刻に出発し、電車を乗り継いで、小田原で箱根登山鉄道に乗り換え出発地の入生田駅に到着しました。
駅でトイレを済ませ、
前回撮影を持ち越した駅の改札口を記録に残しました。
01 入生田駅①
08時02分、入生田駅着
入生田駅では旅に出発する前、先人のHPに掲載されていた丸い石を確認しようと地元の方に聞くと、「その石ならすでに撤去されていて、今はないですよ」と、親切に家まで教えて下さいました。
私は、丸い石の写真を撮って、Subu君に送りたいと思っていたので、とても残念でした。
また、撤去された後の写真を撮っておこうかなと考えましたが、思い出をそのまま残しておいてあげようと考え、撮るのはやめました。
写真を撮ろうと探していた家は、出発地点となる入生田駅入口の前の造園屋さんでした。

【=旅=】
08時13分、入生田駅入口(出発地)
02 入生田駅入口(出発地)②:後ろ進行方向
出発式(Yumiさんが出発地に立って、出発地の看板を掲げて撮影)を行い、芦ノ湖に向けて出発しました。
歩き始めると約100m先に踏切があり、丁度遮断機が降りて小田原行きの電車が走ってくるので、急いでシャッターを押しました。
 ※小田原方向に走る箱根登山鉄道
03 入生田駅踏切①(小田原行き)
箱根登山鉄道は単線のため、入生田駅を見ると箱根湯本行きの電車が走ってくるところだったので、Yumiさんを踏切の近くに立たせてシャッターを押しました。
08時16分、箱根湯本方向に走る箱根登山鉄道
03 入生田駅踏切②(湯本行き
この旅で、このような機会は二度と無いので、良い記念になりました。
天気は青空で、日差しの強さとじめーとした湿度から、歩き始めたばかりですが、汗が噴き出てきてYumiさんも汗を拭いています。
踏切から約220m歩くと国道1号に合流するところの階段を降り、国道の脇の道を約110m歩いてまた階段を上り、約550m歩くと左側の箱根レッカーの先で、1号線に出ます。
この近くに「山崎の古戦場跡」の石碑が建っていると史料のありましたが、工事中で見つけることができませんでした。
合流した1号線の道路沿いを歩いて湯本横断歩道橋を使って反対側に渡らなければいけないのですが、面倒で車の通行を確認すると丁度信号で途切れた時だったので、横断歩道橋を割愛して道路を横切ってしまいました。
そして、反対側に渡って約300m歩くと、早川に架かる三枚橋の三枚橋交差点となり、旧東海道は交差点を左折します。
08時37分、三枚橋
04 三枚橋①
三枚橋のたもとで記念写真を撮り、沖縄地方に超大型の台風が接近している影響で、天候不順の予報が出ているため、先を急ぎました。
約240mほど歩くと、左側にコンビニのセブンイレブンがあり、昼食(おにぎりとジュース)を仕入れるために立ち寄りました。
昼食を仕入れ、約450m歩くと(手前の右側に湯本小学校がある)左側に白山神社が、右側に北条文化の遺産が残る早雲寺があり立ち寄りました。
【東坂の上り】
08時53分
早雲寺(右側)
05 早雲寺入口①
早雲寺は、小田原北条氏の菩提寺で、大永元(1521)年、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により北条氏綱が創建した臨済宗大徳寺派の寺院だそうです。
境内が涼しそうだったので立ち寄りましたが、Yumiさんはまったく興味がなく写真だけ撮りましたが、境内の木々はまだ緑濃く朝の陽射しを浴びてとても綺麗でした。
 
※早雲寺境内
06 早雲寺境内①
街道は、早雲寺を過ぎたあたりから、登り勾配がきつくなってきて、この先の厳しい上りを示唆するようでした。
早雲寺から約350m歩くと、左側に正眼禅寺があり、少しだけ立ち寄りました。
09時03分、正眼禅寺(左側)
07 正眼禅寺①
正眼禅寺は、曽我兄弟の菩薩供養されているのですが、境内を簡単に一巡しただけで失礼しました。
正眼禅寺の先で坂の上りが少し緩くなった右側に静観荘があり、その脇に日本橋から22番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。

09時12分、022湯本茶屋一里塚(右側)
08 湯本茶屋一里塚①
一里塚碑から約110m歩くと新茶屋があり、その前を右側に進んで少し歩くと石畳道になりました。

本橋からここまでの道は、100%舗装道路だったのですが、初めて旧東海道を偲ばせる道になり、旅の雰囲気が出てきました。
 ※石畳道
09 旧道最初の石畳道(湯本茶屋)
石畳の道は猿橋に向かって一度下り、橋を渡ったところから上り坂となるのですが、石畳の道は凹凸があり歩きづらい道だなという感じでした

一度目の上りが終わり国道と合流し、車に気を付けながら国道沿いの上り道を歩きましたが、私とYumiさんは汗でタオルはグッショリ状態になっていたため、南風荘入口のところで休憩を取り、新しいタオルに交換と水分補給を行いました。
一服休憩を取ると気分的に楽になり街道は上り坂ですが、急というほどでもない状態がしばらく続きました。
09時35分、ホテル奥湯本の手前
10 旧道(ホテルおくゆもと手前)
09時47分 須雲川インターチェンジ(箱根新道との合流地点で信号有り)
この辺りの道路は、右・左にカーブしているので、視界の悪い地点が多々あり、車は人が歩いていると思わないで走ってくるので、気を付けないと大変危険な場所です。
須雲川ICから約500m歩くと、左側に鎮雲禅寺がありました。
9時55分、鎮雲禅寺(左側)
11 鎮雲禅寺入口②
鎮雲禅寺は、入口に石碑、その左側に霊泉の滝があり、清流が流れ独特の雰囲気をかもし出している寺院でしたが、階段の上り・下りはきついので境内には入らずに入口で失礼しました。
そして、この先の「女転し坂」から箱根の本格的な上り坂に入りましたが、
この辺りから雨が降ってきたので、持参した折畳み傘を差して歩き始めました(これ以降、雨は降ったり、止んだりが繰り返されました)
旧道の女転し坂は現在通れないため、結構きつい上り坂の国道沿いを傘を差しながら、テクテクと歩きました。
そして、息を弾ませながら約750m歩くと、左側のバス停の前(右側)に割石坂碑があり、右側の石段を上るのですが、入り口から見上げると急坂が続いており、気が滅入りました。

10時13分、割石坂(右側)
12 割石坂入口①
割石坂は、県道732号線の「発電所前バス停」近くの「須雲川自然探勝歩道」の入り口から始まり、「曽我五郎が富士の裾野の仇討に向かう時、刀の切れ味を試すため、路傍の巨石を真っ二つに割り切ったところから名付けられたようです」。
雨は止むことなく降り続いていますが、木立の中ということと、雨の勢いが強くないということで、歩くのには支障はありませんでしたが、石畳の道は滑り易く気を付けながら歩きました。
 ※割石坂の石畳
13 割石坂石畳
また、手持ちの資料と地図が、汗と雨でフニャフニャになってきたので、保護しながらの歩きになりました。
そして背負っているザックが濡れ始めてきたので、割石坂の途中でザックカバーをセットしました。
Yumiさんのザックは、ザック備え付けのため簡単にセットすることができ、私のカバーは外付けでしたが比較的簡単に取り付けることができました。
【旧道を間違える・PARTⅠ】
割石坂から国道に合流した先の千鳥橋下で、国道から左に分岐して歩くのですが、見落としてそのまま国道を歩いてしまい、「大沢坂」は割愛してしまいました。
大沢坂を上った合流地点で、大沢坂を通らない歩いてしまいましたが、戻る気力もなく違う道でも歩いたということで良いでしょうと、勝手に納得しました。
そして、大沢坂の頂上の合流点から約90m歩くと、右側に本陣跡の碑が建っていました。

10時30分、畑宿茗荷屋本陣碑(右側)
14 畑宿本陣碑①
茗荷屋本陣は江戸時代、参勤交代の大名や公家たちが使用した宿泊所で、幕末にはアメリカ総領事のハリスの通辞をしていたヒュースケンも利用したという記録が残っている。建物は大正元年(1912)に焼失しましたが、当時の趣きを残す小川や池がある庭園を見ることができる。明治時代に旧街道の杉並木から伐採し、真ん中をくり抜いた切り株があり、通り抜けると長寿をもたらすといわれているそうです。
しかし、今日は雨模様で、この辺りでは小雨になっていたため、雨の降っていない時に少しでも先に進もうと、立ち寄ることなく記録だけ残し、約270m歩くと日本橋から23番目となる一里塚跡が左右に建っていました。
10時34分、023畑宿一里塚(左・右)
15 畑宿一里塚入口①
畑宿一里塚は、江戸時代の一里塚の形態をとどめた立派な塚で、現在のものは発掘作業で確認できたものを復元したものだそうです。
 畑宿一里塚=左側
16 畑宿一里塚②(左)
 
畑宿一里塚=右側
16 畑宿一里塚④(右)
 H26.09.11 再訪=宿一里塚(右側)
120 畑宿一里塚
 ※畑宿一里塚・解説
121 畑宿一里塚・解説
左・右の塚写真を撮り、天気の状態も良くないので、甘酒茶屋を目指して先を急ぎました。
一里塚を過ぎても箱根東坂の上り坂が終わったわけでなく、雨模様が続くなか車が行き交う舗装路、東海道で有名な石畳の道、階段道などを歩きました。
私たちの後から上ってきた親子連れ(3人)は、雨具を持っていなかったのでどうするのかと思っていたら、畑宿一里塚の先の西海子坂(さいかちざか)を上った国道との合流点で歩くのを止めたようで、国道を歩いていた私達を追い越して行ったバスに乗っていました。
雨具なしの行程はすこし無謀だなと思っていたので、歩くのを止めたのは正解だったと思います。
 
※西海子坂の石畳道
19 西海子坂の石畳
 ※石畳の構造
17 石畳の解説
ゴツゴツして歩きづらい石畳道の西海子坂を過ぎると、橿木坂となり途中から階段道になりました。
 H26.09.11 再訪=階段道(比較的勾配の緩やかな階段)
122 箱根旧道・歩いた思い出
階段は写真のように勾配が緩やかなものもありますが、足腰の負担を増加させる勾配のきつい坂が多々あり、階段以外の道を歩きたいと思ってもコンクリート製の階段以外に道がないので致し方ありません。
そのため15段くらい上ってひと休みしてまた上ることを繰り返しながら、延々と続く階段の上りを進み見晴橋分岐の橋に着きました。

11時15分、見晴橋分岐
20 見晴橋分岐
ここで反対方向から歩いてきたご夫婦とすれ違いましたが、お互いに挨拶をすることなく行き違いました。
ここからさらに急階段を上ると見晴茶屋がありましたが、階段の往復を考えただけで気持ちが萎え行きませんでした。
11時23分、甘酒橋
21 甘酒橋
甘酒橋の往時は木橋でしたが、現在は木に似せたコンクリート橋でした。
砕石の上を歩く感じで歩きづらい石畳の上り道⇒上り階段⇒国道の上に掛かる歩道橋⇒上り階段を経て、国道沿いのコンクリートの道を少し下ったところに、箱根旧街道休憩所がありました。
11時34分、猿滑坂
22 猿滑坂碑
私の足は久しぶりの山道で、攣る一歩手前の状態になっていたので、Yumiさんにそのことを話すと、「私も同じなの」との返事。
もう少しで着くからとYumiさんを励まして、休憩できる場所を目指しました。
緩やかな追込坂を約180m歩くと、箱根旧街道資料館の建物が見えてきました。
11時50分、昼食(箱根旧街道資料館)=右側
23 箱根旧街道休憩所③
支流館は昼食が食べられる長椅子がいくつか用意されていたので、一角を借りて昼食を摂りました。
おにぎりとジュースと簡素なものでしたが、ゆっくり寛ぐことができました。
また、資料館は、入れ替わり人が入ってきますが、簡単に見学するだけで、食事を摂っているのは私達だけでした。
そして、すぐ隣の甘酒茶屋は、箱根に来ると立ち寄る人が多い、人気スポットのため、多くの人が来ていました。
私達は、これからの水分補給のためにペットボトル(500ml=2本)を買い、写真を撮って出発しました。
12時22分、甘酒茶屋発
24 甘酒茶屋①
甘酒茶屋は、箱根峠の旧街道沿いに佇む一軒の杉皮葺きの建物で、江戸時代初期に創業し、現在12代目だそうです。
旧道は甘酒茶屋
の裏にある道で、また上り坂が始まりました。
24 甘酒茶屋③
Yumiさんはストックを使用しているので、その音が聞こえないので後ろを振り返ると、少し離れて足を引きづって歩いています。
女性なのが、前後に人のいないことを確認しズボンを膝まで上げ、足攣りに効く薬を塗り、再スタートしました。

12時32分、於玉坂碑(右側)
25 於玉坂碑
於玉坂は、関所破りで処刑されたお玉の名前がついたお玉ヶ池が有名ですが、この坂も同じように於玉の名前を付けています。
塗り薬を塗ると少しの間は良いのですが、少しすると今度は反対の足が攣った状態になるなど、権現坂を下った木製の歩道橋まで、右・左の太もも、ふくろはぎと、場所を変えて治療の連続でした。
Yumiさんの辛い状況も分かりますが、凡人の私の口から「何とかならないかね」とグチが出てしまいました。
 ※於玉坂
26 旧街道石畳
12時33分、箱根旧街道道標(左側)
27 箱根旧街道碑①
 ※箱根旧街道道標

27 箱根旧街道碑③
於玉坂から白水坂と続き、日本橋から約100㎞地点となる天ケ石坂となります。
天ケ石坂は、今まで上ってきた坂に比べて傾斜は緩やかなのですが、歩いてきた疲れもあり傾斜の割りにはきつい上り坂になりました。
13時02分、箱根馬子唄の石碑(右側)
28 石碑①
 ※分岐道標
29 旧街道分岐・道標
朝から続いた上り坂は権現坂の頂上でおわり、今度は元箱根に向かって下り坂になりました。
13時21分、権現坂碑(右側)

30 権現坂碑①
私は昼食の休憩、ストレッチ、塩と水で足の状態は保たれましたが、Yumiさんにはきつい山道になりました。
足攣りに効く薬と、山の会で教えて頂いた足攣り対策の塩と水で、Yumiさんの足の状態は良くなりました。
また、甘酒茶屋からの道中は、元箱根から上って来る人で行き交う人が増えましたが、「え!!、この靴で歩くの?」と思う人がいたのでガッカリしました。
歩けないことはないでしょうが、ウォーキングシューズくらいは履いてもらいたいなと思いました。

【旧道を間違える・PARTⅡ】
31 木製の横断歩道橋
権現坂を下った木製の歩道橋の下でYumiさんの足の手当を行った後、
道が左の国道に出る道と、真っ直ぐ進む旧道みたいの道があり、人が真っ直ぐの方から上ってくるので、てっきりこの道だと思って歩いて行くと、道が途中で途切れるようになってしまい、違う道を歩いてきたことに気が付きました。
ここも後戻りができないので、そのまま下って元箱根交差点付近に出ました。

今日、二度目の道間違いです。
この頃になると雨は止んでいました。
国道に建っている赤い鳥居をくぐった左側に、身替り地蔵がありました。
13時35分、身替り地蔵(左側)

32 身替わり地蔵①
身替り地蔵は、鎌倉時代に頼朝の家来、梶原景季(かげすえ)が父の景時と見誤られて背後から斬りつけられた時、その身代わりになって景季を救った伝説が残されています。
身替り地蔵の少し先の左側にセブンイレブンがあり立ち寄り、ペットボトル(2本)とおやつのアイスクリームを買いました。
アイスクリームはどれにするか迷いましたが、今日の努力を称え少し高価なハーゲンダッツにしました。
13時40分~13時55分、休憩(芦ノ湖)

33 芦ノ湖湖畔②
セブンイレブンの前は芦ノ湖なので、そこで食べようと湖畔に出て、階段に腰掛けて芦ノ湖を見ながらアイスクリームを食べました。
芦ノ湖は海賊遊覧船が到着する時で、Yumiさんは「あの船に乗ったことあるね」と、母親を伴って一緒に乗った時のことを思い出したようです。
休憩を終え、セブンイレブンから約170m歩くと、杉並木手前の左に日本橋から24番目となる一里塚跡があり石碑が建っていました。
14時00分、024箱根一里塚(左側)
34 箱根一里塚②
一里塚の先から杉並木が始まり、分岐を左側の遊歩道に進みました。
 ※杉並木
35 箱根杉並木①
右側の国道は車が渋滞していましたが、遊歩道の杉並木を歩く人は少なくノンビリと歩きました。
14時13分~14時27分、箱根関所跡(右側)
36 箱根関所①
関所が設置されたのは、元和5年(1619)で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっていました。そして一般な関所は、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われているが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り調べを行っていたそうです。設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
関所跡は以前に見学して知っているので、今日は史跡の見学を割愛してお土産物店に入り、Yumiさんに寄木細工の髪止めと楊枝入れをお土産に買いました。
Yumiさんは髪の毛を止めるものを探していたので、ニッコリして喜んでいました。
14時30分、箱根本陣はふや跡(箱根ホテル?)=右側
37 箱根本陣:楓並木①
本当がどうか分かりませんが、楓の木をバックに撮影しました。
14時32分、箱根町バス停着(到着地)=右側
箱根新道経由の急行湯本・小田原行きのバス停には長い列ができていて、丁度乗り始めたところでしたので、到着式を行わないで列に並びました。
並んでいた数人は次のバスにするらしく新たに並び直していましたが、私とYumiさんは流れのまま乗り込んでしまいました。
座席は既に満席で、私とYumiさんが最後の乗車になり、バスはすぐ出発しました。
【帰路】
14時35分、箱根町バス停発

箱根湯本駅まで混雑しなければ、箱根新道をノンストップで走り25分で到着するとのこと。
乗りながら、到着式(バス停での撮影)や、乗っても座れないのなら次のバスでも良かったかなと思いましたが、後の祭りとなりました。
到着式は、次回(9月29日)の出発の前に行うことし、到着式の代わりに箱根湯本駅で写真を撮り、今日の閉めにしました。
15時04分、箱根湯本駅
39 箱根湯本駅
15時過ぎに箱根湯本駅に着き、駅員にロマンスカーの予定を聞くと、M駅に停まる列車が発車するのは40分後と聞き、小田原まで登山鉄道の各停電車で行き、小田原で急行に乗り換えて帰ることにしました。
なかなかロマンスカーに乗る機会がないので、この先タイミングの良いがあることを祈るのみです。
家に帰る途中で夕食を摂り、18時30分すぎに家に着きました。
一日、お疲れ様でした。
今日は、シャワーではなく久しぶりに湯船に浸かり疲れを取りました。
【総評】
今日の行程は、距離的には13㎞弱と少なかったのですが、久しぶり山歩きと厳しい上り坂で、Yumiさんは大変だったと思います。
旧東海道の旅で一番厳しい旅になるだろうと考えていた上に、出発する時は快晴だった天候が、数時間後には雨天になる天候の急変で、今までにない厳しい旅になりました。
そのため、旅の途中で何回も足の具合が悪くなり対策を講じた結果、幸いにも効果が発揮され、いつもだと駅の下り階段は大変だったのですが、今日は普通に歩いて降りることができました。
また、今日は汗もたくさんかき、ペットボトルを500ml=6本、350ml=1本飲み、タオルハンカチもEi=サイズ(大)を3枚、Yumiさん=サイズ(中)を3枚使いました。
帰りのバスは、立ち通しでしたが、渋滞もなく案内された時間どおり25分と短い時間だったので、助かりました。
と、いうことで2カ月半ぶりの旧東海道夫婦二人旅は、無事に終わりました。
【次回の予定】
次回(第7回)は、「箱根町バス停から三島広小路駅まで」の14.43㎞の箱根西坂の山下りを行う予定です。
箱根西坂の下り坂は、転倒事故に気を付けるため、今回と同じようにトレッキング用の靴で歩こうかなと思います。
また、次回の旅では、今回割愛してしまった箱根町バス停での到着式と、当日の出発式を行う予定です。
そして、三島広小路駅の手前にある「桜屋」で、うなぎを食べたいと思います。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 

 

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
 


【天候】曇り・晴れ
【宿場】(10)箱根宿⇒(11)三島宿
【行程】歩行距離=14.43㎞ 総距離=116.25㎞
箱根町バス停⇒(3.00㎞)⇒025山中新田一里塚⇒(4.17㎞)⇒026笹原一里塚⇒(4.26㎞)⇒027錦田一里塚⇒(3.00㎞)⇒三島広小路駅前

【ルート図】
 宿場(黒囲みが第7回旅の宿場)
29 7回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第7回)
 第7回の旅ルート
 
(箱根町バス停
 ⇒ 三島広小路駅前)
第7回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》

前回(第6回)の箱根東坂の上り旅は朝は良い天気だったのですが、途中から雨模様となり
・旧道を間違えない
・石畳の道で滑って転ばない
・地図などの資料を濡らさない
・Yumiさんの膝痛対策
などで、旅を楽しみながら歩くということが出来ませんでした。
今回の箱根西坂の下り旅は、天気予報では雨の心配がなさそうなので、富士山を眺めながら旅を味わえたらと思います。
《移動》
03時50分、起床
セットした目覚ましの音楽で起床し、外を見ましたがまだ真っ暗です。
朝食は前回と同じように、前日買い置きしたサンドイッチを食べ、靴はトレッキングシューズをウォーキングシューズに戻し、家を出発しました。
05時15分、自宅発
最寄り駅を定刻に出発し、何回かの乗り換えを行い、小田急線の小田原駅に到着しましたが、乗り換え時間の短い駅では、Yumiさんのザックを私が担いで走るなど、眠気を吹き飛ばされました。
07時30分、小田急線・小田原駅到着
駅前のバス停に着くと一人もいないので、出発前にトイレを済ませておこうと、Yumiさんを連れてトイレに行きました。
07時45分、小田原駅バス停発
01 小田原バス停①
バスは定刻に出発し、旅で歩いた道を走るなどして箱根湯本⇒大平台⇒小湧園⇒元箱根⇒箱根町と進み終点に着きました。
08時45分、箱根町バス停着
初めて乗ったバスですが、渋滞もなく、バス停での停車も少なく、約1時間の快適なバス移動でした。

【=旅=】
バスから降りて最初に、前回(H24.09.16 第6回)の到着式を行いました。
バス停は降りたバス停の隣りにあるので、そのバス停を背景に前回の看板を持って、写真を撮り到着式を終了しました。
次に、今日の出発の看板に変更して、出発式を行いました。
08時45分、箱根町バス停発(出発式)

02 箱根町バス停①(出発地)
バス停を出発し箱根駅伝のゴール地点やミュージアムを右側に見ながら約260m先の信号(箱根関所南信号の1つ先)を右折し、さらに約240m歩くと芦川の石仏群がありました。
08時59分、芦川の石仏群碑(右側)
03 芦川の石仏群附近(道は向坂)
芦川の石仏群は、芦川のはずれ箱根峠にのぼる旧街道の道端には、庚申塔、六地蔵など、いくつかの石仏、石塔がある。江戸時代箱根を越えて、西に東に向う旅人は、恐らく村はずれにあるこの石仏、石塔に旅の安全を祈ったことでしょう。
街道は、その辺りから石ブロックが敷き詰められた道となり、向坂が始まりました。
09時00分、向坂碑(右側)
04 向坂碑
国道1号が上を走るトンネルを潜り、赤石坂を上ります。
09時04分、赤石坂碑(右側)
05 赤石坂碑
09時06分、釜石坂碑(右側)
06 釜石坂碑
石畳で急坂の風越坂と進み、
09時10分、風越坂碑(右側)
07 風越坂碑
最後に一番の急坂である挟石坂となり、箱根峠までの箱根東坂の上り坂はほぼ終わりましたが、最後の挟石坂の急階段は、息が切れました。
09時14分、挟石坂
09 挟石坂碑(フーフー息が乱れている)
 ※挟石坂を上から眺める
08 挟石坂(頂上からの眺め)
挟石坂を上ったところの国道を渡って左に進み、箱根新道からまた旧街道に入り、右方向に歩くと箱根峠交差点に着きました。
09時24分、箱根峠(標高=846m)交差点
10 箱根峠①
箱根峠交差点を渡り、左に進むと右に冠門があり、門を潜って八里記念碑(峠の地蔵)を右に見て、駐車場の角のトイレに立ち寄り、身支度を整えました。
09時27分、箱根旧街道冠木門
11 箱根西坂入口
09時29分、箱根八里記念碑石像群(右側)
12 箱根八里記念碑(峠の地蔵)①
身支度を整え、国道から右方向に進むとNTT箱根高原電話交換所の建物があり、建物の左を通って約350m歩くと茨ケ平に着きました。
09時40分、茨ケ平(左側)
13 茨ケ平①
慶長9年(1604)江戸幕府は江戸を中心に、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道で、最大の難所は小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間で、箱根旧街道と呼ばれました。この街道は、土がローム層で大変滑り易いので、最初は箱根竹の束を敷きましたが延宝8年(1680)に、幅二間(約3.6m)の石畳に改修されました。参勤交替や伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治22年(1889)東海道線の開通や、大正12年(1923)の国道一号線の敷設によって衰退しました。
この辺りは、茨が生い茂っているので、この付近の草原を茨ヶ平というそうです。

道標の三島方向に沿って歩くと、東屋が建っていました。
09時43分、兜石
14 兜石跡碑
兜石の東屋を過ぎると、笹が覆い茂る道となりました。
15 甲石坂①
さらに、笹やぶトンネルとなり、このような道はなかなか味わえないと、キョロキョロと周りを眺めながら歩きました。
15 甲石坂③(やぶトンネル)
笹やぶトンネルを過ぎると甲石坂となり、途中で先に出発していたイベント集団に遭遇しながら歩くと国道1号に合流し、道なりに約400m下ると右側にバス停があり、その先を右折するのですが、その角に日本橋から25番目の一里塚跡碑(標高=755.9m)と接待茶屋跡碑が建っていました。
09時58分、025山中新田一里塚碑・接待茶屋跡碑
16 山中新田一里塚①
 025山中新田一里塚(左側)
16 山中新田一里塚③
 接待茶屋跡碑
17 接待茶屋解説
ここには先客として先程と同じ仲間の集団(20名程)がおり、ワイワイ、ガヤガヤとうるさいので、写真だけ撮って先に石原坂を歩き始めました。
石原坂の途中の右側に、甲を置いたようなかぶと石と念仏石という大きな石がありました。
10時01分、かぶと石(右側)
18 かぶと石①
大きなおむすび形の石で、兜を伏したような形をしていることから、かぶと石」と呼ばれている。また、別の説として「豊臣秀吉が小田原征伐のとき休憩した際、兜をこの石の上に置いたことから「かぶと石」と呼ばれるなったといわれている。
10時09分、念仏石(右側)
19 念仏石①
坂は大枯木坂と続き、国道に出る手前に民家があり、その庭先を通りましたが、コスモスが満開で綺麗でした。
 ※大枯木坂
20 大枯木坂①
10時26分、民家前のコスモス
20 大枯木坂②(民家の花壇)
民家の前をクランク形に歩くと国道1号に合流しました。
20 大枯木坂④(花壇の先を左折)
そして国道を少し歩くと、箱根町から三島市に入る市境標識が建っていました。
10時30分、市境標識(箱根町から三島市)=左側
21 三島市境標識
そして、その少し先に階段があり小枯木坂となりました。
 ※小枯木坂
22 小枯木坂の眺め
この坂は、道幅が広く、石畳も整備されており、神社の参道ではないのと思わせる感じの道でした。
10時33分、
道標(三島宿山中新田)
23 小枯木坂の途中①(山中新田碑)
 ※ぽつんと1本立っていました(花名は?)
24 花の名前4が不明
小枯木坂を約650m歩くと、国道1号に合流する手前の右側に雲助徳利の墓が建っていました。
10時44分、雲助徳利の墓(右側)
25 雲助徳利の墓
お墓は、盃(上)とトックリ(下)が墓面に付いているユニークな墓で、「久四郎」という名前が彫られています。松谷久四郎と名乗り、一説には西国大名の剣道指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入りました。優れた剣術の腕前があったので、雲助をいじめる武士をこらしめたり、読み書きができるので、文字が読めない雲助たちの手紙を読んで雲助仲間から親分以上に慕われるようになったそうです。しかし、普段はお酒を飲んでごろごろしていたので命を縮めることになってしまいました。
Yumiさんに「写真を撮るから横に立って」と云うと、「お墓と一緒の写真はイヤです」と、強く拒否されてしまいました。
お墓を過ぎると直ぐに国道1号と合流し、道路を渡った進行右側に山中城址に行く階段があり、入口に石碑が建っていました。
10時48分、山中城跡入口(左側)

26 山中城址上り口
入口の道路反対側に、「うなぎ竹屋」(H26.04.29で裾野市に移転)がありましたが、昼には時間が早いというのと、有名な三島広小路の桜屋で食べる予定があるので、横に見て通過しました。
竹屋から約350m歩くと、右側に山中城跡に行く駐車場、左側に山中城跡案内所があり立ち寄りました。
《昼食》
10時55分、山中城跡案内所着(左側)
27 山中城址案内所(昼食)
この茶店で名物の「寒ざらし団子」(@400)を買うとともに、朝も早かったので昼食(かき揚げ丼)を摂ることにしました。
ここでは、店主の方と話しをするなど、のんびりと寛ぎました。
11時24分、山中城跡案内所発
《初めての富士山眺望》
案内所を出て、案内所裏手の石畳の坂道を約350m歩くと国道と合流しました。
旧東海道は、約110mでまた国道から分岐して右折するのですが、東海道の旅で初めて富士山を見ました。
11時33分、初めての富士山眺望
29 富士山②(旅で初めての眺望)
全景ではなかったり、頂上付近に雲がかかっていましたが、初めて見れた富士山だったので、なんとも嬉しいひと時でした。
写真を撮って歩きだそうとすると、ノルディックウォーク姿の二人の男性が後方から歩いてきました。
箱根駅伝の全5区を歩き、今日(西坂)と来年1月(東坂)で箱根八里を歩くとのこと。
この旅を始めてから、行き交う人と挨拶することはありましたが、歩いている人と立ち止まって話したのは初めてでした。
《Yumiさんの膝痛》
男性二人が風のごとく歩き去った後、懸念していたことが起きました。
Yumiさんの、膝の痛みが強くなってきたのです。
大枯木坂を下っている時も、少し膝が痛いようなことを云っていたのですが、何とか歩いてきました。
シップ薬を貼り歩き出しましたが、平地や上りはまだ良いのですが、下りは横向き(蟹の伝い歩き)か、後ろ向きにならないと無理な状況です。
前回の箱根東坂の上りで塩を飲ませて乗り切ったことを思い出しましたが、後遺症として血圧が上昇したので、塩を飲ませることを止め、歩くスピードを遅くすることで対応し、Yumiさんが離れないよう後ろを見ながら歩くことにしました。
富士見平の直前で富士山を眺めると、先ほどより大きく眺めることができ、足の痛みを忘れてニッコリしていました。
11時40分、富士見平の手前からの眺め
30 富士見平手前①
富士山を眺めたところから直ぐに富士見平ドライブインに着くと、敷地に芭蕉句碑が建っていました。
11時41分、富士見平芭蕉句碑
31 富士見平芭蕉句碑
富士見平ドライブインの前の国道は、カーブしているので右方向が良く見えません。
いつ車が走ってくるのかわからないので、約100m離れた場所で横断しなければ危険なのですが、面倒臭いので左右を確認し走って渡ってしまいました。
渡った先は上長坂の石畳の下りとなっていて約350m歩くと国道に合流します。
そして合流した国道を約140m歩き、再び国道から左に分岐し、石畳の道を約350m歩くと左側に日本橋から26番目の一里塚碑が建っていました。
12時00分、026笹原一里塚跡(標高=379.6m)=左側
32 笹原一里塚①
 026笹原一里塚跡
32 笹原一里塚②
一里塚を過ぎ、国道1号を横切ると勾配のかなりきつい強飯坂となり、足の膝痛を発生しているYumiさんには辛い下り道となりました。
強飯坂を下り始めると下から上ってくるお婆さんがおり、すれ違う時に「今、採ってきたばかりのミニトマトがあるので、袋はないか」と聞かれ、袋をザックから取り出すと、水を灌ぐ感じでミニトマトを分けて下さいました。
急に云われて、私は流れのままお礼だけ云ってお婆さんと別れてしまい、気が付いた時はお婆さんの姿はなく、「時、すでに遅し」で、写真でも撮ってお礼をすることもできず、自分ながらいい年をして気の利かない自分に恥ずかしくなりました。
笹原一里塚から約750m歩くと左側に「三ツ谷新田入口」の道標が立っており、三ツ谷地区に入りました。
三ツ谷公民館を過ぎると、「軒下の美術館」と看板が掲げられた家の軒下に、写真などが展示されていました。
12時27分、軒下の美術館(三ツ谷地区)=右側

33 軒下の美術館(三ツ谷)
軒下の美術館の作品を眺めながら約290m歩くと、右側に松雲寺があり、一服休憩を含めて立ち寄りました。
12時30分、明治天皇御腰掛石(松雲寺)=右側
34 明治天皇史蹟①
史蹟の手前に、明治天皇が座られた石があり、同じ石に座って正面に見える富士山を眺めさせて頂きました。
35 明治天皇御腰掛石①(実際に座る)
石畳道の次に、炎天下の舗装道路を汗を拭きながらの歩いてきましたが、正面に見える富士山を眺望することができて救われました。
松雲寺を出て歩いていると道路の右側に綺麗に手入れされた花壇があり、その先で右側を見ると富士山が見ええました。
 
※道端の花壇(右側)
36 街道の花壇(三ツ谷)
 ※富士山(写真中央)・・・実際は良く見えています
37 頂上の雲が取れる(三ツ谷)
松雲寺から約850m歩くと分岐となりそのまま直進して左側に、坂放課後児童クラブを見ながらさらに約110m歩くと左側に七面堂碑が建っていました。
12時49分、七面堂碑(左側)
38 七面堂碑
七面堂碑のところを左折(坂幼稚園を左に見る)し、細い階段道を進み、広い道に出たら左に70m進むと「市の山新田」信号があり、約290m歩くと右側に「六地蔵」がありました。
12時56分、六地蔵(右側)
39 六地蔵
六地蔵を過ぎると臼転がり坂となり、国道1号と並列の道を進み、約450m歩くと国道1号の市山新田信号があり、旧東海道は交差点を左に見てそのまま真っ直ぐ進みます。
市山新田交差点から約500m歩くと右側に宗福寺があり、その約50m右側に「駄菓子屋YOU」がありました。
13時10分、駄菓子屋YOU(右側)
40 駄菓子屋YOU(午後はお休みでした)
この店は、先人のHPで知り、通る時は立ち寄ろうと計画していたのですが、「午後はおやすみします」と扉に貼紙されていてガッカリでした。
きっと、私達と縁がなかったのでしょう。
駄菓子屋YOUから約450m歩くと国道1号の三島塚原IC交差点があり、交差点の手前左側に「箱根路の碑」が建っていました。
13時21分、箱根路の碑(左側)
41 箱根路碑①
箱根路の碑の先の国道1号の三島塚原ICを渡ると、初音ケ原松並木(約1㎞の石畳)となり、炎天下から解放されホッとしました。
初音ケ原松並木は、三島市に残っている唯一の松並木だそうです。
 ※初音ケ原松並木入口
42 初音ケ原松並木①
松並木は、国道1号と並行しており、少し歩くと東海道の史跡として保存されている日本橋から27番目となる一里塚がありました。
13時30分、027錦田一里塚(標高=101.6m)=左側
43 錦田一里塚①
もう片方の一里塚跡は、国道1号を越した反対側にあるそうですが、確認はしていません。
暑い中を歩いてきたので、木陰を利用し、昼に買った「寒ざらし団子」と持参した麦茶で、おやつタイムにしました。
木蔭で10分位休憩し、旅を続けました。
平坦な石畳の道を約400m歩くと、右側に全面がガラス張りのレストラン「アサカ」があり、さらに約250m歩くと国道1号五本松交差点があり、石畳道の初音ケ原松並木が終わり、今度は舗装の愛宕坂になりました。
Yumiさんに「最後の坂だよ」と励ましたのですが、膝痛から元気がありません。
13時52分、愛宕坂上
44 愛宕坂①
膝痛で足を少し引きずりながら何とか約350m下って、東海道線の踏切を渡り、長い箱根西坂が終わりました。
東海道線の踏切を渡ってからは、平地の歩きとなり、Yumiさんも普通に歩けるようになりましたが、炎天下で汗が噴き出てきました。
日陰のない舗装路を約150m歩いて愛宕橋、愛宕橋から約400m歩いて大場川に架かる新町橋を渡り、新町橋からさらに約650m歩くと、右側に三島大社参道入口の鳥居に着きました。
三島大社に参拝しようと、鳥居の下を通って参道を歩き、山門を潜り、さらに進んで神殿の前に立ちました。
 
※三島大社・山門(右側)
45 三島神社②(山門)
14時15分、三島大社・神殿
45 三島神社④(神殿)
大社の参道を通り、境内⇒神殿と進み、Yumiさんと一緒にお賽銭をご奉納し参拝しました。
参拝は、周りに人がいるので、心の中でYumiさんの病気平癒をご祈願しました。
境内には、天然記念物の金木犀が植生されており、開花し始めた所でしたが、大きな樹から強い香りを漂わせていました。
45 三島神社⑤(金木犀)
また、境内では、結婚式を挙げた花婿さんと白無垢の花嫁さんが、幸せ一杯の満面の笑み称えて歩いていました。
14時28分、三島大社発
三島大社を出発し、約270m歩くと右側に三島市中央町別館があり、建物の脇に問屋場跡碑が建っていました。
14時34分、問屋場跡(右側)
46 問屋場跡碑①
問屋場跡から約180m歩くと本町交差点があり、交差点を真っ直ぐ越えた右側に本陣碑が建っていました。
14時38分、
世古本陣跡碑(右側)
47 世古本陣跡碑①
世古本陣跡から交差点に戻り、交差点を渡って右に2軒目の山田園(茶園)の前に樋口本陣碑が建っていました。
14時41分、樋口本陣跡碑(左側)
48 樋口本陣跡碑①
世古本陣と樋口本陣碑は、それぞれ50㎝程の高さのため、座らないと写真が撮れないので、膝痛のYumiさんは座るのが大変でした。
樋口本陣碑から約250m歩くと左側に三石神社があり、境内に「時の鐘」がありました。
14時46分、時の鐘(三石神社)=左側
49 時の鐘①(三石神社境内)
時の鐘のある三石神社を出て、約10m先の右側に蓮馨寺があり、芭蕉老翁の墓があるので見に行きました。
14時49分、芭蕉老翁の墓

50 芭蕉老翁の墓(連馨寺)
老翁の墓から旧東海道に戻り、伊豆箱根駿豆線の踏切を渡ると、右側に今日の到着である「三島広小路駅」があり、Yumiさんに看板を掲げてもらい到着式を行いました。
14時52分、三島広小路駅・駅前着(到着式)
51 三島広小路駅前②(到着地)
Yumiさんが膝痛になり苦労しましたが、何とか旅を終えることができました。
「さあ、うなぎを食べに行こう」とYumiさんに声を掛け、楽しみにしていた「桜家」にうなぎを食べに行きました。
【うなぎ】
「桜家」は、旧東海道に面していて、三島広小路駅から踏切を渡った右側にあり、夕方は行列ができる有名な店と聞いていました。
15時頃なので空いているかと思って店内に入ると、「え!!」と思うくらいお客が入っていて、他の人と相席で座りました。
52 うなぎ桜家(注文品)
鰻は、柔らかく、香ばしく、口の中でとろけるようで、諏訪のk店と変わらないくらい美味しかったです。
【帰路】
15時32分、三島広小路発
53 三島広小路駅ホーム
改札で切符を買い、ひと駅先の終点三島でJRに乗り換え、熱海、小田原を経由して、19時頃に最寄り駅に到着しました。
熱海から西はJR東海の管轄で東日本のパスモが使えないことを失念していたため、三島駅では民鉄の改札から一度改札を通って外に出て、JRの切符売り場に移動して小田原までの乗車券を購入して入場しました。
Yumiさんに切符を入れて改札を通る方法を教えましたが、次回まで覚えていてくれるかな?です。
99%、覚えているのは無理だとおもうので、また教えるようです。
また、駅の下り階段は膝痛のため下るのが難しいため、エレベータを使用して移動しました。
【総評】
今回の旅は、
①天候に恵まれた
②富士山が初めて眺められた
③街道を歩く人との会話
④Yumiさんの膝痛
など、今までにない体験がありました。
次回の旅は、どのような体験をするのか分かりませんが、準備して楽しい旅にしたいと思います。
また、Yumiさんにとっては厳しい旅になってしまいましたので、少しでも楽しい旅になるよう膝の筋肉強化の運動をまた再開したいと思います。
【次回の予定】
次回は、11月10日(土)~11日(日)の一泊二日で、三島広小路駅前・・・東田子の浦駅前・・・新蒲原・五十嵐商店角までの旅をします。
三島から先は、
①日帰り2回の二人分の旅費より、ツインルームで宿泊した方が安い
②Yumiさんの体力負担を軽減する
ためです。
また、男性が加入できる65才になり加入したJR東日本のジバング(30%引き)も活用したいと思います。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/ 

 

【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


天候】快晴
【宿場】(11)三島宿⇒(12)沼津宿⇒(13)原宿
【行程】歩行距離=17.60㎞ 総距離=133.85㎞
三島広小路駅前⇒(1.60㎞)⇒028伏見一里塚⇒(3.133㎞)⇒029沼津一里塚⇒
(4.847㎞)⇒030大諏訪・松長一里塚⇒(4.574㎞)⇒031原・一本松一里塚⇒(3.45㎞)⇒東田子の浦駅前交差点
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第8回旅の宿場)
10 8回宿場
 
旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第8回)
 第8回の旅ルート
 
(三島広小路駅前
 ⇒ 東田子の浦駅前交差点)

第8回ルート
【旧東海道の旅】
《序章》

今回の旅は、11月3日(土)~4日(日)は、旧東海道を三島広小路駅から新蒲原駅まで旅する予定で準備に取り掛かり、ホテルの予約やJRのジバング切符などを用意しました。
ところが、一週間前に日本気象協会の天気予報を見たら土・日とも晴れ一時雨だったので、日程を一週間遅くに変えてしまいました。
天気は、その後秋晴れになる予報に変わりましたが、ホテルもジバングの切符も変更してしまったので、ジバングは手数料を払えば再度変更することも可能でしたが、参加申し込みした山行はタクシーの予約をしているため、キャンセルするとリーダーに迷惑を掛けるので、そのまま山行に参加することにしました。
キャンセルした11月3日~4日の天気は最高の秋晴れで、日本気象協会のホームページに掲載されていた富士山は秀麗そのものでした。
全て私の判断の甘さが原因なので、自戒いたしました。
《準備》
今回の旅から、日帰りの旅から宿泊する旅になります。
これは、早朝に起きて出発地まで移動してから旅するよりも体力的に楽との判断と、費用的に日帰りを2回行うことによる往復の旅費と一泊二日で行う宿泊費・旅費を比較すると、宿泊した方が安価になるという2つの理由からです。
(2人往復交通費☓2回) > (宿泊費=ツインルームと2人往復交通費)
また、旧東海道を歩いた先人から、日帰りは家に帰って次の旅まで体力を回復する時間があるけど、連続の歩きは疲れがとれないから無理をしないようにと、有難い助言を頂きました。
この旅は人と競って行っているわけではないので、計画どおりに進まなくても体調が悪くなったら途中で切り上げて帰ってこようと思います。
《移動》
目覚ましのメロディーで起床。
いつもと同じ流れで準備し、家を出発しました。
早朝の冷気を感じながら自転車で最寄り駅に向かい、電車を乗り継いでJR品川駅に着きました。
9月に加入したジバングで、品川から新幹線を利用して三島経由で出発地の三島広小路に行きます。
私は新幹線に乗車するのは定年後初めてで、Yumiさんはそれ以上に久しぶりです。
〔バインダーが壊れた〕
品川駅でYumiさんがトイレに行きたいというので、Yumiさんのザックを預かって私もトイレに行きました。
ところが、トイレでYumiさんのザックと地図・行程一覧などを綴ったバインダーを便器の前の棚に置き、用を済ませてYumiさんのザックを取ろうとしたところ、ザックの下に置いおいたバインダーを床に落としてしまいました。
バインダーは落ちた衝撃で留め具の部分が壊れてしまい、地図などの資料がバラバラになってしまいました。
私は、急いで壊れたバインダーと地図などの資料を掻き集め、Yumiさんがトイレから出て来る前にトイレの入口に戻りました。
私は、何でこの程度のことで壊れたのだろうと思いましたが、壊れたものは元に戻らないので、新しいバインダーを購入するまで壊れたバインダーで我慢することにしました。
《新幹線》
各駅停車の「こだま」は、ほとんどの車両が自由席ですが、品川からの混雑状況がわからないので、指定を取りました(前日の15時時点で確認したら、指定席は完売で空席なし)。
品川から新幹線を乗るのが初めてで、乗り換えに要する時間が分からなかったのですが、一度経験したので状況は把握できました。
こだま号の自由席に並んでいる人は、それほど多くはありません。
入線してきた新幹線の混雑具合は、前3両はがら空き状態、4~7号車は80~90%と混んでいました。
07時34分、新幹線品川駅出発
01 新幹線
天気は快晴で、新幹線から見えた富士山は綺麗で、これから富士山の眺望が楽しめると嬉しくなってきました。
三島で降り、長い跨線橋を渡って一度JRの改札から外に出て、伊豆箱根鉄道駿豆線の切符を購入し、電車をバックに記念撮影して電車に乗りました。
 ※三島駅(出発前)
03 伊豆箱根鉄道駿豆線・三島駅
8時34分、三島広小路駅着(三島から1駅目)
【=旅=】
駅の改札を出て前回の到着地の駅前で、今日の出発式(看板を掲げた写真撮影)を行い、出発しました。
08時37分、三島広小路駅前(出発式)
05 三島広小路駅前・出発式
出発地から約750m歩くと左側に秋葉神社があり、Yumiさんとお賽銭をご奉納して、「旅のご加護」と「Yumiさんの意味認知症の完治」をご祈願しました。
08時48分、秋葉神社(左側)
07 秋葉神社
ただ、資料で境内に「西見付跡碑」があると記されていましたが、見付けられませんでした。
少し先の境川橋から右を見るとコンクリート製水路の「千貫樋」が見えました(撮影が下手で写っていませんでした)。
08時50分、千貫樋・解説板(右側)
09 千貫樋:解説
Yumiさんに千貫樋のことを手で教えても分からず、また興味も示しませんでした。
境川橋から約850m歩くと、左側の宝池寺の境内に宝池寺一里塚(椀型に改修)、道路を隔てた反対側の玉井寺の境内に玉井寺一里塚(原型の塚)が、良く整備された状態で保存されていました。
09時00分、028清水伏見一里塚跡
 ※宝池寺(左側)
12 029清水伏見一里塚(宝池寺)
 ※玉井寺(右側)
16 029清水伏見一里塚(玉井寺)
旧街道はここのまま真っ直ぐ八幡交差点を直進するのですが、柿田川湧水群を見るため、宝池寺一里塚の横を八幡東交差点に進み、交差点を渡って左に国道1号線を約200m歩くと、右側に柿田川湧水群の入口がありました。
入口を入り、右に進むと第一展望台と第二展望台の分岐があり、近い方の第一展望台に行きました。
展望台というと普通は上の方を考えるのですが、ここは階段を30段くらい下がったところに木製の展望台がありました。
09時12分、柿田川湧水群(右側)
19 柿田川湧水群(第一展望台)
展望台には数人の写真愛好家が、樹木の中にある湧水池から湧き出している湧水を撮影しており、私とYumiさんは木蔭の涼しい展望台で、しばらく眺めてから戻りました。
 ※第一展望台
18 柿田川湧水群(第一展望台)
そして、旧街道に戻る途中の八幡東信号の手前で右側に富士山が見えたので、Yumiさんを立たせてパチリと記録の残しました。
09時20分、富士山の眺望
21 富士の眺望(柿田川湧水群附近)
八幡交差点を左折して、旧東海道に戻り旅を続けました、
09時22分、八幡交差点
八幡交差点から約500m歩くと、右側に「医療センター入口バス停」(東光寺の先)があり、バス停の角を右折して約100m先の長沢八幡神社本殿左手に、源頼朝と義経が対面した対面石が竹垣の中にありました。
09時33分、対面石(長沢八幡神社=右側)
24 対面石
Yumiさんに座ってと云うと「座るのはイヤです」と云って立ったままなので、私が頼朝が座ったと云われる石に座りました。
 ※対面石(頼朝が座ったと云われる石)
25 対面石(頼朝の石に座る)
出発して一時間近く経つので、Yumiさんに声を掛けて神社のトイレに行くと、旧街道ウォーカー(若者2人)が対面石を見にきましたが、特に言葉を交わすことなく私達が先に神社を後にしました。
神社から約100m歩くと、左側に松並木が保存され、黄瀬川橋まで続いていました。
黄瀬川橋は橋の架け替え工事中で、仮設歩道が架けられており、車は橋の手前で迂回させられていました。
この黄瀬川橋からの富士山の眺望はワンダフルでした。
09時43分、富士山の眺望(黄瀬川橋)
26 黄瀬川橋からの眺望
私達より後に神社を出た若者二人組は、私とYumiさんがもたもたと写真を撮っている間に追い越し、もたもたウォーカーの私達が前を見たときには、はるか前方を歩いていました。
黄瀬川から約300m歩くと右側に傍示石があるというので探しましたがないため、たまたま通りかかった近所の方に聞くと、県道380号を戻るとのことだったので、見るのを割愛して先に進みました。
旧東海道は県道380号と合流し、約500m歩くとまた分岐し、旧東海道は狩野川沿いを進みます。
先人のHPで、土手の上を歩くと気持ちが良いと記されていたので、土手を歩くつもりでいたのですが、改修工事中で通行禁止になっていて歩けないため、そのまま道なりに歩き、狩野川に架かる黒瀬橋(沼津警察署の近く)を過ぎた左側に平作地蔵の小祠が祭られていました。
10時08分、平作地蔵(左側)
28 平作地蔵
平作地蔵から約100m先の右側に小公園があり、公園の前に日本橋から29番目の一里塚跡碑と玉砥石碑が並んで建っていました。
10時11分、029沼津日枝一里塚跡(右側)
30 029沼津日枝一里塚
 ※玉砥石碑
32 玉砥石
公園ですが休むベンチがないので、立ち休みしながらペットボトルの水で水分補給を行いました。
小公園から約230m歩くと県道380号に合流し、県道を約250m進むと左側に「川廊通り碑」があり、碑に沿って左折して沼津の町に入っていきました。
10時22分、川廊通り碑(左側)
34 川廊通り
川廊通りに入り、右側の沼津城本丸跡の中央公園を眺めながら道なりに進み、沼津駅前の本通りを左折すると、歩道に「本を読む女性」像の石造りベンチがありました。
10時25分、本を読む女性のベンチ(左側)
35 彫刻のベンチ(進行左)
早速、Yumiさんに座ってごらんといったら、「私が座るの?」とあまり座りたくないような云い方するので、「隣りも女性だからYumiさんが座らないと似合わないよ」と云うと、しぶしぶ座りました。
そして道をそのまま進むと同じように本を読む女性像の石造りベンチがあり、今度は私が座りました。
通横町交差点を渡るため信号待ちしていると、よさこい祭りの身支度をした一団が歩いていました。
今日は、沼津の「よさこい祭り」が開催されるようです(ホテルが満室になった理由が分かりました)。
私とYumiさんは旅があるので見ることなく先に進み、本町交差点を右折すると、道の両側に本陣跡碑が続いて建っていました。
役所から頂いた案内地図には、本町交差点角に間宮本陣跡と記載されていましたが、駐車場で何もありませんでしたが、通りを歩くと左側に中村脇本陣跡碑、将棋センター前に渡辺本陣跡碑、道路の反対側のベルタクシーの前の歩道に間宮本陣跡碑が建っていました。
10時34分、中村脇本陣跡碑(左側)
37 中村脇本陣跡碑
10時36分、清水本陣跡碑(左側)
38 清水本陣跡碑
10時37分、間宮本陣跡碑(右側)
39 間宮本陣跡碑
旧東海道は、静岡銀行の交差点を右折し、次の浅間町交差点を左折して約100m先に沼津城主の菩提寺がありましたが、寺院があまり好きでないYumiさんは「お寺よりソフトクリームが食べたい」と云うので割愛して先に進みました。
お寺に参拝しなかったのが悪かったのか、ソフトクリームを買う予定でいた店は、窓のシャッターが閉まっていて買えませんでした。
Yumiさん、残念!!でした。
また、品川駅のトイレで壊してしまったバインダーは騙しだまし使っていましたが、何とも使いにくいので早く買い替えたいと文具店を探しながら歩いているのですが、なかなか見付かりません。
旧東海道は浅間町交差点から県道163号になり、約1.2㎞先の西間門交差点で県道380号を斜めに横切るように進み、交差点から約450m先の右側に八幡神社があり、傍示杭碑が建っていました。
11時05分、沼津宿西傍示杭(八幡神社=右側)
40 西傍示杭碑
朝が早かったので昼食は少し早く食べようと、Yumiさんと話しながら歩いていると、進行左側に文具店がありました。
早速、文具店に入ってバインダーを購入し、壊れたバインダーの処分をお願いしました。
バインダーの処分は、最初断られたのですが、お願いして引き取ってもらいました。

【昼食】
昼食は、片浜小学校(左側)を過ぎた右側に
①喫茶風の店
②レストラン
があり、Yumiさんに「どっちがいい?」と聞くと、「こっち(喫茶風の店)」と云うので、スナック「山河」に入りました。
11時33分、スナック山河着(右側)
42 スナック山河(昼食)
店には常連の人生の先輩である男女4人が座っており、温かく迎えて下さいました。
Q=どこから
E=三島広小路から東田子の浦まで歩く予定で、旧東海道を歩いています
Q=富士の景色が良いから
E=そうですね。ところで一里塚はどのあたりですか
Q=この先の50m先にあるから、食べる前に見てきたらいいよ
(見に行こうと外に出てら、旧街道旅の男性3人組が一里塚のところにおり、場所が確認できたので食べた後に行くことにして店に戻りました=ここで見掛けた3人組は、この先で歩いているところを見掛けたので、この近くで昼食を食べたのでしょう)。
Q=見てきた?
E=いいえ。食べられやしないかと心配で戻ってきました
Q=ワハハハ・・・
と、楽しいひと時を過ごしました。
昼食は、日替り定食(豚生姜焼き)を注文し、味付けの上手な美味しい定食でした。
12時01分、喫茶山河出発
昼食を食べ終わり、午後の旅に出発しました。
食べる前に確認しておいた一里塚は、喫茶山河を出て約50m歩くと民家の塀の間に、日本橋から30番目の一里塚跡に石碑が建っていました。
12時02分、030大諏訪松長一里塚跡(右側)
43 030大諏訪松長一里塚跡碑
旧東海道は真っ直ぐな道となっており、左には千本松原が続いていますが、千本松原には後で行く予定で、私の後ろ5~6mのところをYumiさんが歩き、私がYumiさんの状況を確認しながら歩きました。
沼津駅の一つ先の片浜駅を右に見ながら約950m歩くとJRの踏切があり、さらに踏切から1.1㎞歩いた原交番東交差点の手前左側に、「白隠禅師生誕地碑(臨済禅中興の祖)」が建っていました。
12時39分、白隠禅師生誕地碑(左側)
45 白隠禅師生誕地碑
生誕地碑から約170m歩くと、左側に渡辺本陣跡碑があり、碑の後ろの家の表札を見たら渡辺姓でした。
12時42分、渡辺本陣跡碑(左側)

47 渡辺本陣跡碑(渡辺家の前)
本陣のご子孫の方がお住まいなのだろうか。
本陣跡から約260m歩くとJR原駅入口交差点、さらに90m先の左側に高島酒造があり、店舗の脇に富士山の霊水が飲めるようになっていました。
12時55分、高島酒造前(左側)
49 高島酒造前
 ※高島酒造 富士山の霊水

50 富士の霊水(高島酒造提供)
蛇口の前には2人の人が、2ℓペットボトルを持参して給水していましたが、驚いたのはペットボトルを10~15本位を車に積んで持ってきていました。
私とYumiさんは、この人達の給水の合間に手汲みで少し飲み富士山の霊水を味わいましたが、味は良くわかりませんでした。
12時57分、高島酒造前を出発
《足が痛い》
高島酒造で一服休憩してから約200m歩いたとこで、Yumiさんの歩きが遅くなっているので聞いてみると、右足の裏が痛いとのこと。
治療できる場所を探しながら歩いていると、永田自動車商会を過ぎた左側に駐車場があり治療することにしました。
治療は認知症の主治医に処方して頂いたシップ薬を貼って処置し、Yumiさんの歩く状態を見るとなんとか大丈夫そうなので旅を続けました。
再び歩き始めて約240m進むと新田大橋があり、事前に調べた資料に「小便小僧の管路」があるとのことでしたが、見つけられませんでした。
新田大橋を渡ったところから約350m歩くと、左側に日本橋から31番目の一里塚跡があり標柱が建っていました。
13時17分、031原・一本松一里塚跡(左側)
51 031原一本松一里塚跡碑
一里塚の標柱は、民家の塀の脇にポツンと建っているだけで、意識していないと通り過ぎてしまいそうです。
《富士山》
この辺りは富士山の眺望が良い地域なのですが、昼前から雲が掛かったりして、頂上が見えたり、見えなかったりの状態が続いており、原一里塚跡碑の先のビューポイントも、今いちの眺望で、これもその時の運と諦めました。
 ※冠雪部分が雲に隠れた富嶽
54 富士の眺望(雲で見えません)
原一里塚跡碑から約550m歩くと左側に小池薬局があり、店舗に沿って左折し、細い路地を約70m進むとこの辺りではここにしかない東海道線の踏切を渡りました。
踏切を渡ったところには建物が建っていなかったので振り返って見ると、富士山の眺望がバッチリの場所(貨物駅にする用地)でしたが、その時は雲が掛かっていて眺望は良くありませんでした。
残念!!
《千本松原》
踏切を渡り、約200m先の県道380号を右折し、約150m歩くと左側に小さい「要石神社」があり立ち寄りました。
13時31分、要石神社(左側)
56 要石神社
神社といっても入口の鳥居(写真を撮った位置)と石柱に囲まれた小さな祠の神社です。
この神社は、探しても見付けられなかった方もいるので、参拝したいと考えていたので、声を出して参拝することができ、とてもさわやかな気分となり、参拝できてよかったと思いました。
参拝の後、そのまま松原の中を歩いたのですが、折角の機会なので土手の上から海が見たいと思い、松原の中を横切りコンクリートで覆われた土手に上りました。
 ※千本松原の遊歩道
59 千本松原
 ※土手からの伊豆の眺め
61 千本松原の堤防からの駿河湾
土手の上から見える駿河湾の海原は広々と広がり、太陽の光で海面がキラキラと輝いています。
 ※これから歩く静岡方面の眺め
63 千本松原の堤防
風もなく、走っている自転車に気を付けながら、少し暑いくらいの土手の上をのんびりと歩きました。
土手を降りて旧東海道に戻る場所を地元の人に聞いたのですが、あまり要領を得なかったので、地図を見ながら自分の考えで進むと、幸運にも道を間違えることなく旧街道(最初に左折した小池薬局から1.2㎞先の小川保険事務所付近)に戻ることができました。
旧街道に戻って前を見ると、約200m先に男性3人組の街道ウォーカーが歩いていました。
この3人は昼食の時、大諏訪松長一里塚跡碑を見に行こうと店(スナック山河)から外に出た時に、一里塚跡碑付近にいた人達で、食事の場所などが違ったり、2時間以上も経過していたのですが、偶然にも私達の前を歩いているところでした。
旧街道を約650m歩くと東海道本線の踏切があり、丁度電車が通過するところで遮断機が降りていましたが、写真を撮るのを忘れてしまいました。
踏切を渡り約250m歩くと、左側に沼津市から富士市に入る市境標識が建っていました。
14時10分、市境標識(沼津市から富士市)=左側
65 富士市境
歩くのを道路の右側に移動し、約350m歩くと県道380号線と合流する東柏原交差点があり、さらに約350m歩くと、右側に六王子神社が祀ってある「東田子の浦駅前」交差点に着きました。
14時23分、東田子の浦駅前交差点着(到着)
到着の看板を掲げた写真を撮り到着式を行い、今日の旅を終わりました。

66 東田子の浦駅入口(到着地)
【移動】
東田子の浦駅前交差点から駅までは約100m。
切符売り場で、沼津駅までの切符を買って改札を通り、跨線橋を渡って沼津方面のホームに行きましたが、乗客は私達以外に一人もおらず閑散としていました。
改札は、Yumiさんに切符を渡すと、私に入れ方の確認をしてから改札を通り、切符は直ぐに取り出せるように私が預かりました。
14時33分、東田子の浦駅ホーム
67 東田子の浦駅ホーム
《紙パック》
電車が来るまでの間、飲料用に持参していた紙パックのジュースを二人で飲んでのどを潤したりして電車の到着を待ち、飲み終えた紙パックをそのままザックに入れて持ち帰ろうとすると、Yumiさんが反対側のホームにゴミ箱があるからそこに捨てるといって、空になった紙パックを持って跨線橋を渡り反対側のホームにあるゴミ箱(写真で少し光っている)に捨てに行きました。
 
※ゴミ捨てに行くYumiさん
69 ゴミ捨てに行くYumiさん
私は「あと3分で電車が来るけど大丈夫」と聞くと、「大丈夫」と云って捨てに行き、捨てる場所を間違えることなくゴミ箱に捨てて戻ってきました。
14時38分、東田子の浦駅発
到着した3両編成の電車は、満席で沼津まで座ることができませんでした。
私はガラ空きの電車を想定していたので満席状態には驚くとともに、車窓からの眺望が素晴らしい富士山も、歩いている時よりも雲が多くなっていて眺望はダメでした。
14時49分、沼津駅着
初めて乗降する駅のため、沼津駅北口に出る方法が分からないで南口の改札に出てしまい、駅員に教えてもらい北口から出て宿泊するホテルに向かいました。
15時00分、ホテル着
ホテルに到着しチェックインしましたが、夕食には早すぎるので、テレビを観ながらベッドに横になって体を休めました。
《夕食》
17時30分過ぎ、ホテルがネットで紹介していた「海老や」に行きました。

73 海老や
今日の沼津は、「よさこい祭り」が開催されているのですが、時間的に早いので祭りの関係の人はいませんでした。
入店した時は2人連れだけだったので静かでしたが、10人の団体客が入ってきた18時過ぎ頃から賑やかになりました。
私とYumiさんは、刺身盛り合わせ、生海老、まぐろぬた、さば味噌などを食べましたが、新鮮でYumiさんも美味しいと云いながら食べていました。
そして、最後に食べた「まぐろとねぎの茶漬け(@600円)」は美味でした。
飲んで、食べて二人とも満腹になって店を出て、ホテルに戻りました。
【ホテル】
ホテルに戻りシャワーで今日の汚れを洗い流しましたが、Yumiさんはシャワーの使い方が分からないため、私がシャワーを使って洗い流しました。
さっぱりしたところで、明日の歩く地図の準備や、荷物の整理を行いましたが、明日は午後から雨模様とのことで、天気が気掛かりです。
天気の回復を祈りつつ、Yumiさんに雨が降ってきたら途中でやめて近くの駅に行くことを話し、ベッドに入りました。
【明日の予定】
明日は、第9回の旅で、東田子の浦駅前交差点から新蒲原・五十嵐商店角までの18.56㎞を歩きます。
途中の富士川橋は、富士山眺望の場所なので、楽しみにしたいと思います。

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  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/


【天候】曇り(旅の後、雨)
【宿場】(13)原宿⇒(14)吉原宿⇒(15)蒲原宿
【行程】歩行距離=18.56㎞ 総距離=152.41㎞

東田子の浦駅前交差点⇒(0.70㎞)⇒032沼田新田一里塚⇒(4.476㎞)⇒
033依田橋一里塚⇒(5.114㎞)⇒034本市場一里塚⇒(4.204㎞)⇒035岩渕一里塚⇒(3.294㎞)⇒036蒲原一里塚⇒(0.77)⇒新蒲原・五十嵐商店角
【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第9回旅の宿場)
11 9回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第9回)
 第9回の旅ルート
 (東田子の浦駅前交差点 ⇒ 新蒲原・五十嵐商店角)
第9回ルート
【旧東海道の旅】
《ホテル》
06時にモーニングコールをセットしておいたのですが、いつもと同じ起きる時間(05時05分)に目を覚ましてしまいそのままベッドで横になっていましたが、「寝ていてもしょうがない」と思い、「Yumiさん起きるよ」と声を掛けて05時30分にベッドから出ました。
私の疲れはかなり回復しているように感じましたが、Yumiさんはお疲れ気味のようです。
Yumiさんの体調も大切なのですが、同じくらい気になるのは天気です。
カーテンを開けて外を見ると曇り空で、どんよりした暗い感じではなく明るい感じがします。
しかし、テレビの天気予報は、午前は曇り、午後から雨模様と、昨日の夜の予報と同じです。
洗顔&髭剃り後、持参した下着と靴下を新しくし、Yumiさんの身支度を整え、ザッグの荷造りを行い出掛けられる状態にし、7時前にホテル提供の朝食を食べに行きました。
ホテル提供の朝食はバイキング形式のため、Yumiさんに取り皿を渡し、自分で食べたいと思うものを取ってもらうのですが、普通の人と違うのは自分で選べないので私と同じものを取ります。そのため、私もYumiさんが食べそうなものを選んで取ることになります。
Yumiさんを椅子に座らせ、服用薬の水やお茶を用意してから取り皿に盛った朝食を食べ、部屋に戻ってトイレを済ませ、ホテルをチェックアウトして沼津駅に向かいました。
07時18分、ホテルを出発
《移動》
07時32分、沼津発

沼津駅で東海道線に乗り、走る車窓から昨日歩いた街道を眺めていると、曇り空の中に富士山が見えました。
富士山は一部雲が掛かっていましたが、大きな富士山を間近に、そして綺麗に眺めることができました。
07時43分、東田子の浦駅着
【=旅=】

07時45分、東田子の浦駅前交差点(出発地)
01 東田子の浦駅入口(出発地)
東田子の浦駅の改札を出て、昨日の到着地である駅前交差点に立ち、出発の看板を掲げ写真を撮る出発式を行い、旅をスタートしました。
出発地の東田子の浦駅前交差点から約230m歩くと、左側に本陣の跡碑が建っていました。
07時51分、間宿・柏原本陣跡碑(左側)
02 間宿・柏原本陣跡碑
本陣跡碑の真向いに立円寺があり、塀の前に「望嶽の碑」が建っていました。
07時53分、望嶽の碑(右側
04 望嶽の碑
望嶽の碑から約60m歩くと柏原2丁目交差点があり、交差点の右側角に男女一対の小さな道祖神が祭ってありました。
07時54分、男女一対道祖神(右側)
06 男女一体の道祖神
とても愛くるしい道祖神で、記念に残しました。
道祖神から約350m歩いた先の広沼橋を渡った先の左側に、日本橋から32番目の一里塚跡があり標柱が建っていました。
07時59分、032沼田新田一里塚跡(左側)
08 032沼田新田一里塚跡碑
ここは富士山を眺望できるビューポイントと云われているところなのですが、冠雪部分が雲に覆われて眺めることは出来ませんでした。
 ※富士山ビューポイント(右側)
10 雲に隠れた富士山(一里塚の先)
富士山の眺望がダメだったこともあり、アスファルトの道を歩いても無味乾燥なので、左側の細い道を見ると千本松原の方に行けそうなので、左折して千本松原に向かいました。
千本松原の遊歩道を通り過ぎた先にコンクリートで覆われた土手(防波堤)があり、防波堤に出ると駿河湾の眺望が楽しめるのですが、昨日歩いて眺望を楽しんでいるため、千本松原の遊歩道を歩きました。
 ※千本松原の道
11 千本松原
また、千本松原の道に入ったところで、Yumiさんに「温かくなったからダウンジャケットを脱ごう」と話し、脱いでもらいました。
Yumiさんはいつもと同じように「寒い、寒い」と云うのですが、ダウンは少し汗ばんでおり、「寒くなったらまた着るから」と云いながらザックに入れました(ダウンは新蒲原で今日の旅が終わるまで、Yumiさんから要求されなかったので、着ませんでした)。
千本松原の道の方が旅をしている気分になれるので歩き続けたかったのですが、道が行き止まりみたいになりそのまま道なりに進むと、富士マリンプールの手前の旧街道に出ました(千本松原はまだ続いていたので、途中の分岐を間違えたみたいです)。
約200m歩くと「檜」信号があり、県道380号と県道170号が分岐し、旧街道は左側に進む県道170号を歩きます。
県道170号を歩き始めて直ぐ、左側に富士マリンプールがあり、今日はプールで催し物があるみたいで駐車場等の案内をしているいました。
プール入口から約450m歩くと、右側に
大石石材工業があり、店舗前にドラえもん、ピカチューなどの石像が展示されており、何とも和やかな気持ちになりました。
08時24分、大石石材工業(石像)=右側
12 ドラえもん像(大石石材工業)
石材店から約800m歩くと、日本三大だるま市(1月7日~9日)で有名な、妙法寺・毘沙門天があり立ち寄りました。
08時40分、妙法寺・毘沙門天
(左側)
13 妙法寺毘沙門天
階段を上がって境内を通り本堂でお賽銭を奉納し、Yumiさんと一緒に「Yumiさんの意味認知症の完治と今日の到着までの天候」をご祈願しました。
また、寺院にはネパール式目玉塔の地下に150mの洞窟があり、七福神の像や中国陶器、絵画が飾られているそうですが、立ち寄りませんでした。
寺院から約160m歩くと左側にスズキコーポレーションがあり、富士山のビューポイントというので右側にそびえる富士山を眺めましたが、残念ながらここでも富士山を眺めることは叶いませんでした。
08時56分、スズキコーポレーション前(左側)
16 見えない富士山(スズキコーポレーション前)
スズキコーポレーションから約400m歩くと(東海道線と並行)三叉路の分岐となり、右側の「いとう」に沿って右折して約40m進むとJR吉原駅の手前の踏切を渡りました。
08時49分、東海道線踏切
踏切を渡り旧街道を道なりに進み、約350m歩くと「吉原駅北口信号」があり、さらに約150m先の河合橋を渡ります。
河合橋を渡ったところから県道が171号となり大昭和製紙吉原工場に沿って約100m歩いたところの分岐(右側に鈴与富士支店)を左折し、約300m歩くと吉原駅入口交差点となり、ここから国道139号を約170m歩き、富士由比バイパス・新幹線の手前(右側にHonda Cars 富士東)を分岐する県道171号を右進み、バイパスと新幹線ガードを潜り、約350m歩くと左側に左富士神社がありました。
09時08分、左冨士神社(左側)
19 左富士神社
なお、新幹線のガードを過ぎたあたりから左冨士神社の付近に、日本橋から33番目の033依田橋一里塚があったということが資料に記されていたので、左右をキョロキョロ
探しながら歩きましたが、私の目では一里塚跡を見付けることはできませんでした。
一里塚跡を探しながら歩いていると左側に左富士神社がありましたが、神社に参拝することなく境内入口で写真だけ撮って、富士山が進行方向左側に見える「左富士公園」に向かいました。
09時11分、左冨士公園手前の交差点
21 左富士公園の手前からの富士山
富士山は信号機の赤のところに下の方だけしか見えませんでしたが、公園の松(信号右横)の右側が旧東海道なので、進行左側に富士山が見える「左富士」になっていました。
また、交差点に左冨士の解説が記されていました。
 ※左冨士・解説(左側)
22 左富士の解説
09時12分、左富士公園(右側)
25 左富士公園
出発してから約1時間30分が経過し休憩も取っていなかったので、近くの自販機でペットボトルを買って、公園のベンチに座り一服休憩をしました。
公園から道なりに約500m歩くと、右側の新橋製紙を越えたところで分岐し、左方向に進むと平家越橋手前の右側に「平家越しの碑」が建っていました。
09時23分、平家越しの碑(右側)
26 平家越し碑
平家越橋を渡り約450m歩くと(次の信号の先)、右側に東木戸跡碑が建っていました。
09時30分、東木戸跡碑(右側)
29 吉原宿・東木戸跡碑
東木戸跡碑の道路向かい側に蕎麦「てんのぶ」があり、時間によっては食べようと考えていましたが、昼には早過ぎるのと、開店前だったので通過しました。
また、私とYumiさんは、ホテルを出発してからトイレに行ってないので、トイレを探しながら歩きました。
ところが、借りようと思ったガソリンスタンドは休みだったり、小スーパーにはトイレがないようでしたので、東木戸跡碑を記録に残し約160m先の吉原本町駅に向かいました。
吉原本町駅の駅員さんに「すいません、トイレを貸していただけないでしょうか」とお願いすると、「いいですよ」と気持ち良く貸して下さいました。
私とYumiさんは、すっきりして親切な駅員にお礼を云って、先に進みました。
吉原本町駅の踏切を渡って道なりに歩くと、旧街道の両側に多くの商店が立ち並んでいましたが、日曜日の朝ということで人通りはほとんどありませんでした。
また、野口脇本陣(現野口カメラ店)や杉山脇本陣(現おもちゃのキムラ)で本陣の跡碑を探しながら歩きましたが、標柱などの案内を見付けることができず、寂しい感じがしました。
吉原本町の踏切から約550m歩くと、商店街の終わりに近い左側に創業350年の鯛屋旅館があり、入口に本陣跡碑が建っていました。
09時45分、鯛屋旅館(本陣跡)=左側
31 吉原本陣跡(鯛屋)
鯛屋旅館を過ぎ約120m歩くと中央駅交差点を静岡銀行に沿って左折し、さらに約160m先の十字路(右前方角に和田屋)を右折、そして約400m歩くと志軒橋があり、橋の手前右側に西木戸跡碑の標柱が建っていました。
09時54分、西木戸跡碑(右側)
34 吉原宿・西木戸跡碑
志軒橋を渡り、錦町北信号で国道139号に合流し、一つ先の錦町交差点で斜め前方の吉田写真館の前を通ります。
錦町交差点は、国道139号と青葉通りが交差しているので、信号状態で両方を渡り、斜め前方に進みます。
錦町交差点を渡った角に、東海道跡の碑が建っていました。

09時58分、東海道跡の碑
35 旧東海道跡碑
吉田写真館前から約550m歩くと、高島交差点に出ます。
《街道を間違え迷子になりました》
旧街道は、かっぱ寿司を右に見ながら交差点を渡り、
・大村ハイツの約180m先を右折
・約100m先の十字路(右角にMDマンション)を左折
して冨安橋を渡ります。
ところが、高島交差点でかっぱ寿司に沿って港大通り方向に右折してしまったため、全然方向違いの方に向かってしまい、自分がどこにいるのか分からなくなり(迷子になった地点の地図を持っていなかった)、迷子になってしまいました。
ウロウロ探しながら歩いている時、たまたま通りかかった地元の若夫婦に持参している地図を見せると、富士市役所の近く(先ほどの東海道跡の碑の近く)に戻っていることを教えて下さり、男性が「私が分かるところまで連れて行ってあげましょう」と親切に道案内をして下さいました。
私は教えて頂いた場所の地図を見ながら、間違った高島交差点には戻らず、富士市立中央病院前を通り、富安橋で旧街道に合流することにしました。
15分ほどロスしましたが、親切な若夫婦のお蔭で、何とか正規のルートに戻れホッとしました。
10時24分、冨安橋
橋を渡り、信号「塔の木」、信号「総合庁舎北」など約1㎞歩くと、間宿碑が建っていました。
10時38分~42分、間宿碑(休憩)=左側
38 間宿・本市場跡
この頃になると雲はさらに多くなり、富士山の眺望はとても無理な状況になっていました。
間宿碑の近くにベンチがあったので、カメラをセルフタイマーにセットして一緒の写真を撮り、一服休憩をしました。
一服休憩の後、歩き始めると直ぐ(約80m)、民家の前に鶴芝の碑が建っていました。
10時43分、鶴芝の碑(左側)
39 鶴芝の碑
約20m先の小橋を渡り、さらに約180m歩くと県道396号の交差点になります。
交差点はコの字に渡って左方向に進まなければ違反なのですが、左右の車の状況を確認し、信号待ちの間を利用して横切ってしまいました。
県道396号を横切って約160m歩くと、左側に日本橋から34番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
10時49分、034本市場一里塚跡碑=白丸(左側)
44 034本市場一里塚全景
一里塚碑の周りは、手入れが行き届いた花壇になっており、写真は撮り方が下手なので花が綺麗に写っていませんが、実際はとても綺麗でした。
一里塚跡から約650m歩くと、小橋を渡った左側に平垣町公会堂があり、その脇に「札の辻跡碑」が建っていました。
11時00分、札の辻跡碑(左側)

45 札の辻跡碑
札の辻跡から約750m歩くと県道396号に合流し、県道を約80m進むとJR身延線のガードがあり、潜ると柚木駅前にです。
私は、「ここで今日の歩きをやめようかな」と思いましたが、雨がまだ降ってきていなかったので、雨が降らないことを祈りつつ旅を続けることにしました。
柚木駅前から約160m歩くと橋下交差点があり、県道396号をそのまま約150m進むと、右に細い道のある分岐となり、分岐点に道標と常夜燈が建っていました。
11時16分、柚ノ木・道標と常夜燈(分岐点)
47 道標・常夜燈
旧街道は分岐を右に進み、約100m先の小橋を渡り、同じ太さの道を蛇行する感じで約350m歩くと、また県道396号に合流します。
県道396号を約550m歩くと右側に水ジン公会堂があり、その隣りに水神社が祀られており、神社の参道入り口右側に渡船場跡碑と秋葉常夜燈が建っていました。
11時27分、富士川渡船場跡(右側)
48 富士川渡船場跡碑
静岡県に入って最初の大きな川幅がある「富士川」を渡ります。
富士川橋は、
大正13年(1924年)に完成した鉄橋(トラス6連橋)で、橋長が399mです。
11時29分、富士川橋東

49 富士川橋(東)
11時31分、富士川橋の中間付近
52 富士川橋からの富士山眺望
この橋は富士山のビューポイントの場所で、右手後方に雄大な富士山が見えるはずなのですが、今日はあいにくの天気で残念ながら富士山の一部(冠雪部分は見えません)しか眺めることができませんでした。
私は富士山の一部が見えるので写真を撮りましたが、Yumiさんに私の写真を撮ってもらったら、富士山が入らない状態で撮ったので、「あの山(富士山を指差して)を入れて撮って!!」ともう一度撮り直してもらいました。
富士川橋のあたりから見える雲はどんよりとした雲で、いつ雨が降ってきてもおかしくない状況になっていましたので、少し苛ついて強い云い方をしてしまいました。
今日の行程で旅を途中で止める時は、柚木駅か富士川駅に近い所と考えていたので、新蒲原駅まで行かないで富士川駅で終わらせようかとどうか考えながら歩いていました。
富士川橋を渡った富士川橋西交差点を川に沿って右折し、クリーニング店を回り込む形で歩き、上り坂の道を息を弾ませながらクランク形になった道を歩いていると
、道路側溝のグレーチング(鋼製網目ふた)にパネル
が埋め込まれていることに気が付きました。
 ※東海道ルネッサンスのグレーチング
55 岩淵の側溝蓋
グレーチングのふたを眺めながら歩いていると、右側に黒い門構えの小休本陣(常盤家)があり立ち寄りました。
旧東海道を歩いている中で、これほど立派な本陣跡は初めで、史跡としてぜひ後世まで残してほしいと思いました。
11時40分、小休本陣(常盤家)
56 小休本陣跡(常盤家)
案内の方が親切に説明して下さるのでゆっくりと聞きたかったのですが、雨が今にも降り出しそうな空模様だったので、説明書だけ頂き失礼させて頂きました。
今度、ゆっくりと立ち寄らせて頂きたいと思います。
また、案内の方が「女優の常盤貴子さんは、この常盤家の方です」と説明されていたのが印象に残りました。
本陣からそのまま真っ直ぐ約550m歩くと、右にカーブした十字路の手前の両側に、日本橋から35番目の一里塚があり当時の塚が現存されていました。
11時49分、035岩淵一里塚(左側)
61 035岩淵一里塚(左)
 岩淵一里塚(右側)
65 035岩淵一里塚(右)
一里塚は、塚が現存されていてとても立派なものでしたが、塚のある場所が真っ直ぐ歩いてきた道を少し左にカーブした辺りにあり、塚の先は変則的な交差点(往来する車は主に右折して走っていく)になっているなど、見通しの悪い場所にありました。
そのため、車の往来に気を付けながら左側の一里塚を撮影しましたが、右側は車道からでないと撮れないため危険なので、左側の一里塚の前から撮りました。
Yumiさんが私の写真を撮る時は、車の来ない時をねらってシャッターを押すのですが、車が来てしまったり、撮った写真が何処を撮ってるの状態で、それこそ大騒ぎになりました。
いやはや疲れます。
さて、旧街道は、右側の一里塚に沿って右折し、左側の小学校に沿って県道188号を進みました。
一里塚跡から約450m歩くと富士美台公民館が左側にあり、公民館から約120m先の左側に秋葉常夜燈が建っていました。
11時59分、秋葉常夜燈(左側)
67 秋葉常夜燈
秋葉常夜燈から約70m歩くと、右前方に防災倉庫のある十字路があり、十字路を右折しました。
記憶が定かでないのですが、「富士川駅まで〇〇m」と記された標識が建っていたように思います。
もし、右折しないで直進すると約90mで右側に郵便局があり、さらに約120m先の右に行ける道を歩くと旧街道に戻ります。
富士川駅は、十字路を曲がらずに真っ直ぐ進めばよいのですが、雨はまだ降ってきていませんでした。
私は、十字路の手前で、地元の方に新蒲原までの歩程時間を聞くと、「一時間あれば新蒲原に着く」とのこと。
Yumiさんは富士川駅に行きたそうでしたが、私は何とか新蒲原駅まで天気は持ちそうな予感がしたので、十字路を新蒲原方面に向けて右折しました。
12時00分、富士川駅・新蒲原駅分岐の十字路(右折)
新蒲原まで食べる処はないと聞いていたので、Yumiさんに「食べるのが少し遅くなるので、我慢してね」と話して歩き出すと、空腹にはつらい車坂の上り道となり、溜め息ともつかない息を吐きながら歩きました。
車坂の頂上付近はビューポイントと云われていますが、厚い雲に隠れて何も見えませんでした。
《どら焼き》
東名高速のガードを潜り、高速道路に沿って左折して約350m歩くと、左側に「ツル家菓子店(後で昼食に寄った旅籠で出会った女性2人組も、この菓子店で買ったとのこと)」があり、「何か食べられるものを買おう」と入店し、どら焼きを買い歩きながら食べて空腹をしのぎました。
菓子店から約300m歩くとY字路の分岐があり、どちらの道で進んでも新幹線のガードを潜った先で合流します(距離も変わらない)。
旧東海道は右の道を行くのですが、階段の上り、下りがあるので、私達はなだらかな坂道の左の道をいくことにしました。
なだらかな坂を下ると新幹線のガードとなり、ガードを潜ったところからなだらかな坂道を約180m歩くと右の道と合流し、そこから約50m先の右側に、明治天皇御駐輦之碑が民家の前に建っていました。
12時20分、明治天皇御駐輦之碑(右側)
68 明治天皇御駐輦之碑
旧街道は、ここから一段ときつい上り坂となり、上り切ったところ(明治天皇碑から約400m)にフェンスが建っており、その先の崖下に東名高速道路があり、高速道路を見下ろすように並行して約230m歩くと高速道路
を渡り歩く跨道橋が架かっていました。
12時28分、東名跨道橋(右=下り・名古屋方面、左=上り・東京方面)
70 東名跨道橋
東名高速は、日曜日の昼食時間帯なのか、とても空いていました。
跨道橋を渡ると、今度は蒲原に向けて遠くに駿河湾を眺めながら下り坂となりました。
 ※遠くに駿河湾(白丸)を眺めながらの下り坂
71 駿河湾を眺めながらの下り坂
遠くに見える駿河湾を眺めながら約400m下ると、左側に光蓮寺があり、大きな石板の墓が並んでいました。
下り坂は光蓮寺から約100m下るとT字路となり、T字路を右折して約120m歩いた右側の赤い鳥居が建っている脇に、日本橋から36番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
12時38分、036蒲原一里塚跡碑(右側)
72 036蒲原一里塚跡碑
一里塚跡から約160m歩くと諏訪神社上り口があり、その手前右側に蒲原宿の江戸口の入口だった東木戸跡と秋葉常夜燈がありました。
12時40分、蒲原宿・東木戸跡(右側)
74 蒲原宿・東木戸跡碑
 ※蒲原宿・秋葉常夜燈(右側)
75 秋葉常夜燈
※諏訪神社は、下諏訪秋宮を年に数回参拝しているのでとても親しみがあり参拝したかったのですが、傾斜のきつい階段だったり、空腹だったりなどの屁理屈をつけ、神社の階段から眺めて通り過ぎました。
諏訪神社入口から約70m歩くと、右側に
日軽金の導水路がドカーンと設置されていました。
12時42分、日軽金の導水路(右側)
77 日軽金の導水路
導水路は遠くから見たことはありましたが、このように間近でみる機会はないので、眺めていました。
そして、導水路から約80m先の左側に、木屋江戸資料館がありました。
12時46分、木屋江戸資料館(左側)
79 木屋江戸資料館
資料館の周りを歩いてみたのですが、誰もいなかったので(昼休みだったのかな?)何も見ないで先に進みました。
今日の旅ももう少しで終わりです。
木屋江戸資料館から約270m歩くと、右側に出発前まで今日の旅の到着地として計画していた「ヘアサロンカンダ」があり、さらに約80m歩いた右側に、
なまこ壁と寄棟屋根の佐野家(しまづふとん店の手前)がありました。
12時51分、佐野家(なまこ壁・寄棟屋根)=右側
82 なまこ壁(佐野家)
佐野家の斜め前に橋があり、橋のたもとで到着式(到着の看板を掲げた写真を撮る)を行い、今日の旅を終わりました。
12時53分、新蒲原・五十嵐商店角(到着地)
84 新蒲原・五十嵐商店角(到着地)
昼食】
昼食を摂らずに(富士川橋から新蒲原まで食事する処がありませんでした)旅をして来たので、お腹がペコペコです。
二人ともお腹が空いてくると、夫婦間にただならぬ空気が漂ってきます。
そのため、険悪にならない前に何処か食べられるところがないかと探すと、到着地の少し先の右側にある江戸時代の「旅籠・和泉屋」、現在のお休み処「和泉屋」で食べられることが分かり、昼食を食べることにしました。
12時56分~13時31分 昼食(和泉屋)=右側
86 旅籠跡・お休み処
店に入ると、男の旅人さんが出掛けるところで、他に女性2人組の街道ウォーカーが先客としておりました。
食事は軽食しかないと云うので、「五目炒飯(500円)」を注文し待っていると、女将が「江戸時代の階段(急傾斜)を上がって二階もどうぞ」と云われたので、靴を脱いで落ちないように気を付けて二階を見に行ってきました。
 
※二階の客間
89 旅籠の二階
 ※階段(二階からの眺め)
88 旅籠の階段(二階から)の眺め
女性ウォーカー(2人)と挨拶しながら旅の話しをしていると、来る途中にツル家菓子店でどら焼きを買ったと聞き、「私達もそこでどら焼きを買って歩きながら食べてきたんですよ」と、思わぬ偶然に驚きました。
女性2人組は、次回以降のことを考えて由比宿まで歩くと云って、先に出掛けました。
昼食を食べていると、今度は親子4人連れ(子供は小学生高学年の男女)の街道ウォーカーが入ってきました。
話しでは、宮宿(近くに住んでいる)から日本橋を目指していて、宮宿から三条大橋は別途に計画するとのことでした。
食事の後、Yumiさんがトイレに行きたいというので連れて行くと、とうとう雨が降ってきました。
今日は、旅の間は傘を差さずに済んだので、「よかった」と思いながらザックから傘を出し和泉屋を後にしました。
【帰路】
お休み処和泉屋を出て到着地の橋に戻り、橋を渡ったところを川沿いに歩くと、右側に安藤広重の「夜の雪」碑があり立ち寄りました。
13時32分、夜の雪碑(右側)
90 広重「夜の雪」碑
新蒲原駅は、夜の雪碑から川沿いに歩き、県道396号を渡り、駅下のガードを潜った反対側に改札口がありました。
13時36分、新蒲原駅着
ジバングで事前に購入していた切符で改札を通り、東京方面のホームに行きました。
13時41分、新蒲原駅発

電車は3両編成で、そこそこ混んでおり、最初はYumiさんと別々のところに座り、途中から並んで座りました。
三島駅で熱海行きの電車に乗り換えましたが、吊り革を持つのがやっとというくらい混んでいてとても座れるような状態ではありませんでした。
熱海駅で始発電車に乗り換えたのですが、最初に並んだ位置がグリーン車のところだったので、急いで他の乗車口に行き移動して座りました。
小田原駅から小田急線に乗り、途中で電車を乗り換え最寄り駅に帰ってきました。

17時30分、最寄り駅着

【次回の予定】
次回は、
①12月1日(土):新蒲原駅・五十嵐商店角から新清水駅・水神社前=16.44㎞
②12月2日(日):新清水駅・水神社前から静岡駅・江川町交差点=12.18㎞ 
を一泊二日で旅します。
この旅では、①で由比宿から興津宿に行く途中に通る薩埵峠が一番の楽しみです。
薩埵峠は、安藤広重の浮世絵で有名な「富士山の眺望」が素晴らしい処です。
富士山が良く見える冬場に合せて旅の行程を調整した訳ではありませんが、丁度良い時期に巡りあわせとなり、眺望を楽しむことができるのではないかと期待しています。

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  専用メール  

  eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅-】 旧甲州道中旅
H26.09.15に日本橋を出発しましたが、相方のYumiさんが山行途中の転倒による足首の骨折を契機に歩行困難となり、第3回の旅から私一人で旅を再開しました。
そして、第8回の旅からMさんと男二人旅となり、H28.05.30に下諏訪・中仙道合流点に到着しました。旅紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
  http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/  


【街道旅-Ⅲ】 旧中山道二人旅

H28.09.17に日本橋を甲州道中を一緒に歩いたMさんと二人で出発しました。

今年、災難を乗り越えて生きてきた人生の節目の古希(満69才)を迎え、その記念として旧中山道の旅に出発します。

旅は日本橋を出発し、京都・山科追分で京街道に入って東海道57宿の4宿を歩き、大坂・高麗橋にゴールする予定です。

旅紀行は、以下のURLでご覧いただけます。

  http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/

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