【天候】晴れ・風強し
【宿場】(15)蒲原宿⇒(16)由比宿⇒(17)興津宿⇒(18)江尻宿
【行程】歩行距離=16.44㎞ 総距離=168.85㎞
新蒲原・五十嵐商店角⇒(2.567㎞)⇒037由比一里塚⇒(4.315㎞)⇒038西倉沢一里塚⇒(3.392㎞)⇒
薩埵峠⇒039興津一里塚⇒(5.065㎞)⇒040江尻一里塚⇒(1.10㎞)⇒新清水・水神社前
【ルート図】
↓宿場(黒囲みが第10回旅の宿場)
↓旧東海道の旅・進捗状況
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
↓第10回の旅のルート
(新蒲原・五十嵐商店角 ⇒ 新清水・水神社前)
【再訪】
夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日
〔※②〕=平成29(2017)年12月23日
【旧東海道の旅】
《序章》
前回(第8回~第9回)の旅から一泊二日の行程で旅をすることにしました。
しかし、Yumiさんの足裏に水膨れが出来てしまったり、旅の疲れが残ったりしたするので、思い切って一日の歩く距離を減らすなど、計画を全面的に見直し、今回の旅で歩く距離を、
初日(12月1日)=薩埵峠上道を歩く17.23㎞を中道の16.44㎞に0.79㎞減少
2日目(12月2日)=安倍川BS停までの14.76㎞を静岡・江川町交差点までの12.18㎞に2.58㎞減少
と、二日間で3.37㎞減らすことにしました。
二日間で約1時間程度の減少ですが、少し楽になると思います。
行程の見直しで、来年の平成25年11月の三条大橋到着は再来年に延期することになりますが、その時は東海道の旅に合せて京都の宿泊施設に予約して「紅葉」を楽しみたいと思います。
《移動》
山手線は土曜日の早朝でも都心部の人の動きは早く、電車は通勤ラッシュ並みのように混んでいて、途中の駅まで座れませんでした。
06時48分、品川駅着
乗る新幹線の出発まで時間の余裕があるので、前回(第9回)と同じようにYumiさんのトイレを済ませておこうと「トイレは」と聞ていたのですが、「大丈夫」と云われてしまいトイレに行かずにそのままホームで待つことにしました。
07時04分、新幹線・品川駅発(こだま633号)
乗車した新幹線は、ほぼ満席状態で品川駅を出発し、小田原の手前から富士山が見れればと思いながら車窓から眺めていましたが、残念ながら積乱雲に覆われていて眺めることができないまま三島駅に着いてしまいました。
三島駅で東海道線に乗り換え、ひと駅先の沼津でまた乗り換え、Yumiさんの座る座席だけでも何とか座席を確保したいとし急ぎ足で階段を上り下りして乗車し、座席を確保しましたが、いやはや忙しい移動でした。
08時34分 新蒲原駅着
新蒲原駅の構内でトイレ(※)を済ませ、改札を出た処でザックの荷作りをして旅に出発しました。
※トイレ
トイレに行く時は、私がYumiさんのザックを預かり、ポシェットは外さないように話します。
過去に何回もトイレの中に荷物を置き忘れてきて冷や汗をかいたりしたので、必ず入る前に注意しています。
08時47分、新蒲原駅前発。
昼食を食べようと考えている薩埵峠の途中にある「くらさわ屋」まで2時間以上あるので、前回の到着地で出発式をする前に、前回見落としていた史跡を見学することにしました。
《前回(第9回)の補足》
※吉田屋(なまこ壁と内部に柱がない家)=右側
内部も見学させて頂きました。
※問屋場跡
【=旅=】
08時54分、新蒲原・五十嵐商店角(出発地)
ここから西木戸跡までの約500mの間は、史跡が続いています。
まず、出発地点から10歩も歩かないところに、前回昼食を食べた旅籠「旧和泉屋」があり記録に残しました。
08時56分、お休み処・和泉屋(右側)
和泉屋から約20m歩くと、右側に本陣跡と書かれた標板が掲げられていました。
08時58分、平岡本陣跡(左側)
本陣跡は、現在も人が住んでいるため中に入ることはできないため、外の道路から記録に残しました。
また、本陣跡より約100m手前に東本陣(多芸家)があったそうですが、見落としていました。
本陣跡から約50m歩くと交差点があり、その角に街道スタンプ所がありましたが、スタンプがなかったので押印できませんでした。
そして、交差点を渡った先の左側に「手作りガラスが使われている総けやき造り」の磯部家がありました。
09時00分、磯部家(左側)
磯部家から約90m歩くと、若宮神社参道入口の先(蒲原郵便局の先)の右側に高札場跡碑が建っていました。
09時03分、高札場跡碑(右側)
高札場跡の斜め向かい側に、御殿道の碑が建っていました。
09時04分、御殿道の碑(左側)
碑の横から南に下る道を御殿道と称されており、正確な位置はわかってはいないが、かつてはこの辺り一帯のかなり広い範囲に御殿(天正10年に武田を滅ぼした織田信長を接待するために建てられた)が建っていましたが、寛永11年(1634年)の家光上洛以降、蒲原御殿は使用されなくなり、背後の山を「御殿山」と称し、御殿道とともに名残りを残している。
道碑の真向いに、町家を洋風に改築した歯科医院がありました。
09時05分、旧五十嵐歯科医院(右側)
歯科医院から約40m歩くと、右側に格子戸の前に標板が建てられた志田家がありました。
09時07分、志田家(左側)
志田家は蒲原宿内で米・塩・油等を扱っていましたが、江戸後期には醤油の醸造も手がけるようになり、昭和初期まで「やまろく醤油」の商品名で製造・販売されていました(この醤油工場は東海道の宿場内でほぼ当時のまま現存・公開されている唯一の工場と言われ、日本における初期の工場として「東海道町民生活歴史館」が公開しています。)。また、母屋である主屋は嘉永7年11月(1854年)の安政地震で大きく被災しましたが、直ぐに修復し(安政2年(1855年))、現在に至っています。そして、主屋内は店の間・中の間・居間・と続き、「通り土間1列型」の典型的な町屋形式で、土間境に欅(けや木)の柱を使い、これを「差し鴨居・差し敷居」で繋いでいます。
扉を開けて中に入ると説明される方がおりましたが、先を急いでいたのと、興味がわかなかったので、直ぐに失礼しました。
志田家から約90m歩くと、右側に「格子戸の美しい家」と書かれたパネルが掲げられた家がありました。
09時13分、格子戸の家(増田家)=右側
増田家から約40m先を左折し、さらに約150m歩くと県道396号に突き当り、その左角に西木戸跡がありました。
09時16分、西木戸跡(左側)
蒲原宿に残る江戸時代~明治時代の頃の町並みを眺めながら、旅を楽しみました。
その中で、蒲原宿のスタンプ置き場があったのですが、スタンプが誰かが持ち去ったのか、置いてありませんでした。
街道スタンプがあったら記念に押そうとインク台を持参していたのですが、スタンプがなくては押せません。
残念でした!!
ここで一服休憩し、水分を補給して英気を養い、薩埵峠目指して出発しました。
突き当たった県道396号を右折し、東海道線と並行して旅をします。
〔Yumiさんの霊感〕=2回目
街道を歩き始めて少しすると、
Y=お父さん、この道は初めてじゃないよね
E=今日が初めてだよ
Y=初めて?
E=この景色、知っているの?
Y=うん
第5回旧東海道夫婦二人旅(平成24年6月30日)の梅沢旧道の醤油醸造元付近と同じように、夢の中で先に今日の情景を見ていたようですが、私は「そう」と答えただけで、それ以上触れることはしませんでした。
そして、約1㎞歩くと、イルカが素材のイルカスマシを売っている秋田屋がありました。
09時40分、鮮魚・秋田屋(右側)
丁度、開店したところで、ご主人に「イルカスマシがあったら見せて頂けませんか」とお願いすると、案内して見せて下さいました。
私は、ここだけしか売っていないイルカスマシ(他でも売っているますが調理方法が違う)なので、イルカスマシ、生桜えび、生しらすを注文し、宅急便で送ってもらうことにしました。
月曜日に宅急便で届くので、食べるのが楽しみです。
お店を出て街道を歩き始めると、私達の前を祖父と子供の二人の街道ウォーカが歩いていました。
09時55分、蒲原駅前(右側)
この二人とは蒲原駅で駅舎をバックに写真を撮りに寄っていた時に追いつきましたが、私達より歩くスピードが早く次に会ったのは、由比本陣公園内の広重美術館でした(それ以降、会うことはありませんでした)。
蒲原駅前から約700m歩くと東名高速の高架があり、高架下を潜り約220m歩いた先の川を渡った右側に清酒「正雪」の醸造元の、神沢川酒造の大きな煙突がそびえていました。
10時07分、神沢川酒造前(右側)・・・写真左は※②に撮影
神沢川酒造の少し先の左側に東海道道標があり、その約210m先の道路左側に、日本橋から37番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
10時07分、東海道道標・由比宿(左側)
10時10分、037由比一里塚跡
この先から東枡形跡で、道が進んで行くと通行止めのように感じるようにできており、枡形道の終わりに昔の商家のたたずまいを残している志田邸がありました。
※②=東枡形跡
10時13分、志田邸(左側)=現在は取り壊されてありません(H29.12.23確認)
志田家は昔の東木戸跡で、屋号「こめや」を名乗り昔の商屋の面影を残している。
入口を入ると帳場、階段などが残っており、スタンプが置いてあったので、持参した用紙にスタンプを押しました。
志田家を出て約70m歩くと、右側に御七里役所之跡がありました。
10時15分、御七里役所之跡碑(右側)
御七里役所は、江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に、七里飛脚という直属の通信機関を持つものがあり、ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡です。
同家では江戸和歌山間584㎞に約七里28㎞毎の宿場に中継ぎ役所を置き、5人1組の飛脚を配置した。
主役をお七里役、飛脚をお七里衆といったそうです。
御七里役所之跡から約130m歩くと、右側に由比宿交流館があり、その隣りに由比本陣公園があり、入口は立派な門が建てられていました。
10時17分、由比本陣跡(右側)
公園の立派な門をくぐると本陣跡碑があり、公園内には井戸の名残り跡、広重美術館が建っていました。
※井戸の名残り跡
広重美術館は、東海道を歩くウォーカ必須の場所なので、入館料(500円)を支払って観ました。
広重の作品や版画の作り方などをゆっくりと見たいと思いましたが、昼食の予約をしているため、我慢して先を急ぎました。
由比本陣公園を出ると道路の真向い(反対側)に由比正雪が生家の染物屋の正雪紺屋があり、その数軒先に由比宿おもしろ宿場館がありました。
10時27分、正雪紺屋(左側)・・・写真は※②に撮影
正雪紺屋は、江戸時代初期から400年も続いている紺屋(染物屋)で、由比正雪の生家と言われており、藍甕(かめ)や神棚、染物道具、用心篭中などの道具や仕事場が昔のまま残されていました。
10時29分、おもしろ宿場館(左側)
おもしろ宿場館の入り口に、弥次さん、喜多さんのおどけた人形があったので、Yumiさんに「写真を撮ろうよ」と話したら「私はイヤです」と拒否されてしまい、私だけ撮ってもらいました。
広重美術館や由比宿の史跡は、急ぎ足になってしまいましたので、後日改めて観に来たいと思います。
おもしろ宿場館から約30m歩いた右側に、加宿問屋場跡があり、標板が建てられていました。
10時31分、加宿問屋場跡(右側)
10時32分、羽根ノ屋脇本陣跡(右側)
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒あり、そのうち江戸時代後期になる頃、徳田屋に代わって羽根ノ屋が勤めたそうです。この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根の屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本 陣を願い出たことが史料に残っています。
由比川橋を渡ると桜えび通りとなり、その通り沿いに菓子・春埜があり、休憩の時に食べようと店に立ち寄り、たまご餅(10個入り・735円)を買いました。
10時40分、春埜(右側)
桜えび通りの終わり近くで街道は右折するのですが、道らしい道がなく(階段のみ)通り過ぎてしまいました。
しかたなく、そのまま由比駅前まで歩いて旧街道に出ようとしましたが、あるのは狭い階段だけです。
地図を良く見ると左が海、右が山なので、ここにきてやっと道の構造が分かり、先ほど右折する場所にあった階段を上がればよかったのかと思いましたが、戻るより先に進もうと、由比駅前の階段を上がり旧街道に出て少し歩くと寺尾沢橋(歩道橋)があり、薩埵峠まで3㎞の地点に着きました。
10時57分、寺尾沢横断歩道橋
道はここから上り坂になり、約350m歩くと右側に街道時計が設置されていました。
11時03分、街道時計(右側)
時計から約200m歩くと、右側に名主の館小池邸がありました。
11時05分、名主の館(小池邸)=右側・・・写真右は※②に撮影
江戸時代の村役人、村方三役(名主・組頭・百姓代)というのは、村落内の行政を行っていました。その代表を、東国では「名主」、西国では「庄屋」と呼んでいたようです。
この時代、領主側の支配機構と、百姓側の接点として、村役人の中ではもっとも重要な役割を担っていたのが名主でした。名主は、村内でもっとも家格の高い百姓であり、また知識層でもありました。
主な仕事は、年貢の取立・管理・戸籍事務・諸書類の作成や他村・領主との折衝など、村政全般を取り扱っていたので、学識が必要とそれていました。
名主の館は、中にベンチなどがあり休憩ができるようになっていて、多くの人が入っていましたが、私とYumiさんは中に入らず記録だけ残し先に進みました。
小池邸から数軒歩いた左側に、あかりの博物館がありました。
11時06分、あかりの博物館(左側)
薩埵峠への上り坂はだらだらと続き、途中で富士山が見える場所がありましたが、積乱雲で富士山は見えません。
この先の薩埵峠に着いた時は見えればと思いながら、昼食を食べる「くらさわ屋」に向かいました。
11時10分、薩埵峠への道
くらさわ屋は、旧街道に面した駿河湾の眺望の良い場所にあり、お店は開店したばかりのようで、私達が最初のお客だったのか好きな場所に座わらせて下さいました。
折角のご厚意なので、景色が良く見える場所に座り、由比名物の「桜えびかき揚げ定食」(@1,575円)を注文しました。
11時14分、くらさわ屋着(昼食)=左側
駿河湾を眺めたりしながらのんびりと配膳を待っていると、待っていた定食が運ばれてきました。
※桜えびかき揚げ定食
かき揚げはつけ汁ではなく塩だけで、天ぷらに少し掛けて食べましたが、カリカリしていて抜群の美味しさでした。
機会があったらまた食べたいと思います。
11時49分、くらさわ屋発
薩埵峠に向けて街道沿いの民家を見ながら歩いていると、「松永」姓の表札の家が多いことに気が付きました。
松永姓の家が終わる辺りの左側に、民家の脇に本陣跡の碑が格子戸にパネルが掲げられていました。
11時57分、間の宿・川島本陣(左側)
家の表札を見ると「川島」姓で、家の方がいたので聞いてみると、「我が家は180年位前(江戸時代の後期)からの短い期間でしたが、この先の柏屋さんはもっと古いです」よ、話して下さいました。
11時58分、間の宿・柏屋脇本陣(左側)
脇本陣の少し先で道は分岐するのですが、分岐する手前の左側に望嶽亭・藤屋が、その斜め前の右側に日本橋から38番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
11時59分、望嶽亭・藤屋(左側)
望嶽亭は、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった所で、明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われ、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったと言われています。当時と変わらない建物、部屋のたたずまいとピストルが歴史を物語っているようですが、立ち寄ることなく先に進みました。
12時00分、038西倉沢一里塚跡(右側)
この一里塚は、薩埵峠の東登り口に位置しており、ここからの上り坂は一段と厳しくなりました。
坂を上がって行く人は私達以外はおらず、薩埵峠から下ってくる人ばかりです。
由比からの上りは富士山を背にして歩くので、富士山を眺めながら下る方が多くなるのも当然かもしれません。
富士山を眺められる辺りで振り返って見ると、青空が広がっているのですが、富士山の高さのところだけ積乱雲が続々と発生し、富士山が覆い隠されて見えません。
上る途中の道の両側の急斜面には、みかん畑が続いているのですが、途中でガラガラ、ガラガラと何かが走る金属音が聞こえてきたので何だろうと思っていると、老夫婦が乗ったモノレールが急斜面を下ってきました。
その情景を見たら、とても歩けるような斜面でないので、モノレールは必需品と思いました。
何とか富士山が見えるようにと心の中で祈りながら峠を登っていくと、峠の駐車場があり、その一角に碑が建っていました。
12時24分、薩埵峠山之神遺跡(左側)
ここから100mくらい歩くと鉄板でできた展望台(1人用)があり、富士山を眺めましたが、残念ながら眺望は叶いませんでした。
12時27分、薩埵峠展望台(右側)
同じ展望台では、母子3人が雲が切れるのを待っていましたが、積乱雲はその後も続いていたので、見れたのかな?
※H25.01.04 再訪(富士山を眺望)
以下のブログURLでご覧になれます。
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/archives/21934620.html
12時33分、薩埵峠碑(東屋休憩所)=左側
峠道は、碑の先から平坦な道となり、富士山が見えると云われる辺りで積乱雲が切れるのを、菓子・春埜で買った「たまご餅」を食べながら少し待ちましたが、積乱雲の湧き上がり方が凄くとてもなくなりそうもないので、富士山の眺めをあきらめ歩き出しました。・・・写真右は※②に撮影
そして、10分程平坦な道を歩くと、今度は急勾配の下り階段が始まりました。
道は急傾斜を階段で降りるようになっており、それを下って行くと、進行左側に東屋とトイレのある休憩所が見えてきたので、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと、「大丈夫」と云うので、立ち寄らないでそのまま進みました。
※②=薩埵峠からの下り ※東屋
道は、この先で十字路になり、右折=上道、左折=中道となるので、左折して中道を進みましたが、車は白髭神社から先の道が細いため通行禁止になっていました。
※②=分岐
左折して約120m歩くと白髭神社があり、さらに約50m歩くと海岸寺の入口があり、約80m先を左折して東海道本線のガードを渡ると国道1号(富士由比バイパス)に突き当り、バイパスと並行して約260m歩くと、興津橋の手前で上道からの街道と一緒になりました。
13時09分、興津橋
旧街道は、興津橋を渡り切った右側の小さい階段を下りるのが正規なのですが、階段を見落としてしまったため、少し先を戻る形で旧街道に合流しました。
※②=見逃した分岐
合流したところから約500m歩くと再び国道1号に合流し、約250m歩くと興津中町交差点に着きました。
13時25分、国道50号線の起点(興津中町交差点)=右側
交差点を渡った右側に、国道50号線起点の碑が建っていました。
興津中町交差点から約300m先の「興津中町西」交差点の右角に、身延山に通じる道の道標が建っていました。
13時30分、身延山道道標(興津中町西交差点)=右側
この交差点の先に一里塚跡があるということなので、注意深く歩くとともに、近くの人に場所を聞くと、聞いた先に日本橋から39番目の一里塚跡があり、民家の前に石碑が建っていました。
13時34分、039興津一里塚跡(右側)
一里塚跡碑を過ぎ、興津宿公園でひと休みして久しぶりにたい焼きを食べようと、興津駅入口交差点の先にあるたい焼き屋さんに向かいました。
しかし、店に入るとたい焼きは売り切れており、焼きあがるのに30分近くかかるとのことだったので、買わずに店を出て先に進みました。
約180m歩くと沢瑞川を渡り、その先に興津宿公園がありました。
13時45分~13時57分、興津宿公園着(休憩)
《アクシデント》
公園の入口近くでスタンプを押すために、持参したインクをザックから出そうとしていた時、地図や資料類が風に飛ばされて道路まで飛んでしまいました。
Yumiさんと二人でなんとか全部を集めて歩道に戻ろうとした時、私の靴が何かに引っ掛かりそのまま歩道にドサッと倒れ込んでしまい、右脇の肋骨付近の強打、右手の指・手のひら・右足のひざを擦りむいてしまいました。
倒れたところが交番の目の前だったので、交番の警察官が救急箱を持って駆けつけてくれ、手の指と手のひらにバンドエイドを貼って、応急処置を施しました。
擦り傷は多少の痛みは残りましたが、右脇の肋骨付近の痛みの方が強く、深呼吸ができないくらいの痛みが続きました。
※強打した処の痛みはしばらく続き、深呼吸は4日目ぐらいからできるようになりました。
ひと段落した処で、アクシデントを起す原因となった興津宿のスタンプを押して、公園を後にしました。
公園を出て約100m歩くと、右側の民家の前(道路の反対側は潮屋)に東本陣跡があり、石碑が建っていました。
13時59分、興津宿本陣跡(右側)
東本陣跡から約40m歩くと道路反対側(進行左側)に鈴与研修センターがあり、入口脇に一碧楼水口屋脇本陣跡があり、石碑が建っていました。
14時02分、水口脇本陣跡(左側)
脇本陣跡から約60m先の道路反対側(進行右側)の山梨自動車商会(オートバイなどの販売店)の前に、西本陣(手塚屋)の跡があり、木製パネルが掲げられていました。
14時03分、興津宿西本陣跡(右側)
興津宿公園を出て、道路を挟んで本陣跡と脇本陣跡の史跡があり、交差点がなかったので、左右を確認して二人とも走って道路を往復しました。
手塚屋本陣跡から約500m、東海道線に沿って歩いていると、右側の高台に清見寺の建物が目に入りました。
《清見寺》
14時10分、清見寺(右側)
清見寺は、街道から東海道本線のガードを潜った先の高台に本堂があり、東海道線の手前に山門がある非常に珍しい寺院なので、本堂まで上っていきたかったのですが、Yumiさんに行く気がまったくないので、しかたなく階段を上った山門で我慢することにしました。
境内の中を東海道線が走っている珍しい寺院だったのですが、歩き旅の時は興津で怪我をしたりして気分的に滅入っていたこともあり、高台にある本殿まで行きませんでした。
機会があったら見たいと思っていたので、思いを実現することができました。
※①=清見寺(門前)
駐車場の右の上り道を歩くと、階段の先に東海道線の踏切が見えました。
※①=境内の中の踏切
踏切を渡って本殿に向かって階段を上っていると、電車が来ることを知らせる踏切の警報音が聞こえ、歩くのを止め電車を待ちました。
待っている位置からは、どちらの方向から電車が走って来るのか分かりませんでしたので、どちらにも対応できるようにしていると運良く左から走ってきたので、「Yumiさん」とカメラに顔を向けさせ急いでシャッターを押しました。
※①=境内内の踏切を通る電車
寺院の境内を電車が走る写真を撮ることができ、来た甲斐がありました。
※①=徳川家康が接ぎ木したと云われる梅の木
東海道線を挟んで山門があり、↓この山門は高台側(東海道線を越えたところ)
※①=山門
東海道線の上を歩いて越し、旧東海道に下りてきました。
清見寺を出て約170m歩くと、左側に西園寺公望の老後の住まいだった坐漁荘がありました。
14時15分、坐漁荘(左側)
坐漁荘に入りベンチに座って庭を眺めていると、管理人の方が来られ、「西園寺公望は大臣になる人の推薦をしていたので、大臣になりたい人が水口脇本陣に泊まって、ここに通っていたんですよ」と、当時の話しを聞かせて下さいました。
また、旧街道を旅していると話すと、静清バイパスを通る道を丁寧に教えて下さいました。
街道は静清バイパスの下を潜り、歩道のないカーブしている東海道線の跨線橋を越えて行くと、ひと際目を引く一本松が立っていました(庵原川の手前)。
14時45分、生き残りの一本松(左側)
一本松の手前より越した方が写真が撮りやすいと考え、歩いてきた方向に向けてシャッターをきりました。
するとカメラの電池交換を知らせる表示が出ましたが、電池切れを待つことにして予備電池には交換しませんでした。
旧街道は、辻町交差点で分岐して右側に進むのですが、分岐するところに松並木を伝える「細井乃松原碑」が建っていました。
14時59分、細井乃松原跡(左側)
写真を撮ろうとするとカメラの電池が切れてしまい、持参している予備電池と交換していると、Yumiさんが「お父さん、富士山が見えるよ」と云うので、Yumiさんが指さす方向を見ると、薩埵峠の時に覆っていた積乱雲がなくなり、富士山の頂上部が見えました。
折角の機会なので写真を撮りましたが、撮影者の技量が低く、写真に写っていませんでした。
※①=細井乃松(左側)
歩き旅の時に富士山が見えたので、同じ場所から富士山を撮ろうと車を停めましたが、残念ながら雲に隠れて見れませんでした。
細井乃松原跡から一里塚跡を見落とさないように注意して歩き、約500m歩いた左側に篠原自転車店の直ぐ先の十字路の角に日本橋から40番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
15時11分、040江尻・辻一里塚跡(左側)
注意して歩かないと見落としやすいので、史跡を確認したい人は気を付けて下さい。
一里塚跡から約400m先のJR清水駅入口の江尻東交差点を過ぎ、さらに約600m歩くと今日の到着地である水神社前に到着しました。
15時26分、水神社前着(到着地)
水神社の前で、到着式(到着パネルを掲げて写真撮影)を行い、今日の旅を終了しました。
【ホテル】
神社の脇を流れる巴川で釣り人がハゼを釣り上げているところを見ながら歩き、宿泊を予約しているリバーサイドホテル玉川に向かいました。
15時30分、ホテル着
チェックインが早かったので宿泊客はまだ来ていないようです。
他の客が来る前にお風呂に入ろうと共同風呂を確認すると、鍵を掛けて個室利用が出来るようになっていました。
予約した段階では分からなかったのですが、ホテルの考えとして個室利用を提供しているようで、狭い浴室で交代でシャワーを浴びることを考えると嬉しい限りです。
フロントに確認すると個室利用OKとの回答があり、広々とした浴室でのびのびと湯に浸り満足しました。
《夕食》
外に食べに行こうかと考えていたのですが、ホテルは元々が割烹店であったことや、予算を云ったら気持ちよく受け入れて下さったので、ホテルで食べることにし食事の予約をしました。
私は他にも食べる人がいると思っていたのですが、指定された食堂に行ってみると、用意されていたのは私達の分だけでした。
料理は、少ない予算の中で良く作って下さり、味は一級品でした。
Yumiさんとビールで乾杯し、出されたものを食べていると、ホテルのオーナーが来られ、旧東海道の話しをいろいろと聞かせて下さり、楽しいひと時を過ごすとともに、二人とも満腹になって部屋に戻りました。
《足のケア》
医師に処方して頂いたシップ薬、パテックス、冷却シート等を持参し、膝、ふくろはぎ、足裏に貼り、Yumiさんは足裏水膨れの処置(皮膚軟膏を塗布し、消毒布をテープで止める)を施しました。
前回の旅の時に行ったケアの結果を基に準備してきましたました。
それぞれの処置は、足の疲れが取れ、筋肉痛などもなく、それなりに効果的だったので、次回も同じようにケアの準備をして対処したい思います。
早朝の起床、旅の疲れ、ほどよい酔いなどで、21時前にはベッドに横たわって寝ていました。
【次回の予定】
明日の第11回の旅は、「新清水・水神社前~静岡・江川町交差点」の12.18㎞を歩きます。
途中に追分羊羹の老舗があったり、到着地には駿府城公園があるので、時間があったら散策したいと思います。
応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
専用メール eiyumitokaido@yahoo.co.jp
【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
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