旧東海道夫婦二人旅

今年(H24)65才になるEiさんと、少し年下のYumiさんの熟年夫婦が歩く旧東海道二人旅で、平成26年1月に京都三条大橋に立つことを目標にしています。 若年性認知症(意味認知症)のYumiさんとの旅なので、どのような展開になるのか分かりませんが、結婚40周年と二人の人生の思い出として旧東海道を夫婦二人で歩く旅に出発しました。私とYumiさんを街道で見掛けたら声を掛けて下さい。よろしくお願いします。

東海道

【天候】晴れ・風強し
【宿場】(15)蒲原宿⇒(16)由比宿⇒(17)興津宿⇒(18)江尻宿
【行程】歩行距離=16.44㎞ 総距離=168.85㎞

新蒲原・五十嵐商店角⇒(2.567㎞)⇒037由比一里塚⇒(4.315㎞)⇒038西倉沢一里塚⇒(3.392㎞)⇒
薩埵峠⇒039興津一里塚⇒(5.065㎞)⇒040江尻一里塚⇒(1.10㎞)⇒新清水・水神社前
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第10回旅の宿場)
01 10回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体ルート(第10回)
 第10回の旅のルート
 (新蒲原・五十嵐商店角 ⇒ 新清水・水神社前)
第10回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日
  〔※②〕=平成29(2017)年12月23日

【旧東海道の旅】

《序章》
前回(第8回~第9回)の旅から一泊二日の行程で旅をすることにしました。
しかし、Yumiさんの足裏に水膨れが出来てしまったり、旅の疲れが残ったりしたするので、思い切って一日の歩く距離を減らすなど、計画を全面的に見直し、今回の旅で歩く距離を、
初日(12月1日)=薩埵峠上道を歩く17.23㎞を中道の16.44㎞に0.79㎞減少
2日目(12月2日)=安倍川BS停までの14.76㎞を静岡・江川町交差点までの12.18㎞に2.58㎞減少
と、二日間で3.37㎞減らすことにしました。
二日間で約1時間程度の減少ですが、少し楽になると思います。
行程の見直しで、来年の平成25年11月の三条大橋到着は再来年に延期することになりますが、その時は東海道の旅に合せて京都の宿泊施設に予約して「紅葉」を楽しみたいと思います。
《移動》
山手線は土曜日の早朝でも都心部の人の動きは早く、電車は通勤ラッシュ並みのように混んでいて、途中の駅まで座れませんでした。
06時48分、品川駅着
01-① 品川駅
乗る新幹線の出発まで時間の余裕があるので、前回(第9回)と同じようにYumiさんのトイレを済ませておこうと「トイレは」と聞ていたのですが、「大丈夫」と云われてしまいトイレに行かずにそのままホームで待つことにしました。
07時04分、新幹線・品川駅発(こだま633号)
乗車した新幹線は、ほぼ満席状態で品川駅を出発し、小田原の手前から富士山が見れればと思いながら車窓から眺めていましたが、残念ながら積乱雲に覆われていて眺めることができないまま三島駅に着いてしまいました。
三島駅で東海道線に乗り換え、ひと駅先の沼津でまた乗り換え、Yumiさんの座る座席だけでも何とか座席を確保したいとし急ぎ足で階段を上り下りして乗車し、座席を確保しましたが、いやはや忙しい移動でした。
08時34分 新蒲原駅着
02-① 新蒲原駅
新蒲原駅の構内でトイレ(※)を済ませ、改札を出た処でザックの荷作りをして旅に出発しました。
※トイレ
トイレに行く時は、私がYumiさんのザックを預かり、ポシェットは外さないように話します。
過去に何回もトイレの中に荷物を置き忘れてきて冷や汗をかいたりしたので、必ず入る前に注意しています。
08時47分、新蒲原駅前発
昼食を食べようと考えている薩埵峠の途中にある「くらさわ屋」まで2時間以上あるので、前回の到着地で出発式をする前に、前回見落としていた史跡を見学することにしました。
《前回(第9回)の補足》
 ※吉田屋(なまこ壁と内部に柱がない家)=右側
04-① なまこ壁の商家
内部も見学させて頂きました。
 ※問屋場跡
03 問屋場跡
【=旅=】
08時54分、新蒲原・五十嵐商店角(出発地)

05 五十嵐商店角(出発地)
ここから西木戸跡までの約500mの間は、史跡が続いています。
まず、出発地点から10歩も歩かないところに、前回昼食を食べた旅籠「旧和泉屋」があり記録に残しました。
08時56分、お休み処・和泉屋(右側)
06-2② 旧旅籠・和泉屋
和泉屋から約20m歩くと、右側に本陣跡と書かれた標板が掲げられていました。
08時58分、平岡本陣跡(左側)
07-③ 西本陣跡(平岡家)
本陣跡は、現在も人が住んでいるため中に入ることはできないため、外の道路から記録に残しました。
また、本陣跡より約100m手前に東本陣(多芸家)があったそうですが、見落としていました。
本陣跡から約50m歩くと交差点があり、その角に街道スタンプ所がありましたが、スタンプがなかったので押印できませんでした。
そして、交差点を渡った先の左側に「手作りガラスが使われている総けやき造り」の磯部家がありました。
09時00分、磯部家(左側)
08-① 手作りガラスの家
磯部家から約90m歩くと、若宮神社参道入口の先(蒲原郵便局の先)の右側に高札場跡碑が建っていました。
09時03分、高札場跡碑(右側)
09-② 高札場跡
高札場跡の斜め向かい側に、御殿道の碑が建っていました。
09時04分、御殿道の碑(左側)
10-① 御殿道跡の碑
碑の横から南に下る道を御殿道と称されており、正確な位置はわかってはいないが、かつてはこの辺り一帯のかなり広い範囲に御殿(天正10年に武田を滅ぼした織田信長を接待するために建てられた)が建っていましたが、寛永11年(1634年)の家光上洛以降、蒲原御殿は使用されなくなり、背後の山を「御殿山」と称し、御殿道とともに名残りを残している。
道碑の真向いに、町家を洋風に改築した歯科医院がありました。
09時05分、旧五十嵐歯科医院(右側)
11-① 旧五十嵐歯科医院邸
歯科医院から約40m歩くと、右側に格子戸の前に標板が建てられた志田家がありました。
09時07分、志田家(左側)
12 志田邸
志田家は蒲原宿内で米・塩・油等を扱っていましたが、江戸後期には醤油の醸造も手がけるようになり、昭和初期まで「やまろく醤油」の商品名で製造・販売されていました(この醤油工場は東海道の宿場内でほぼ当時のまま現存・公開されている唯一の工場と言われ、日本における初期の工場として「東海道町民生活歴史館」が公開しています。)。また、母屋である主屋は嘉永7年11月(1854年)の安政地震で大きく被災しましたが、直ぐに修復し(安政2年(1855年))、現在に至っています。そして、主屋内は店の間・中の間・居間・と続き、「通り土間1列型」の典型的な町屋形式で、土間境に欅(けや木)の柱を使い、これを「差し鴨居・差し敷居」で繋いでいます。
扉を開けて中に入ると説明される方がおりましたが、先を急いでいたのと、興味がわかなかったので、直ぐに失礼しました。
志田家から約90m歩くと、右側に「格子戸の美しい家」と書かれたパネルが掲げられた家がありました。
09時13分、格子戸の家(増田家)=右側
13-① 格子の家・増田家
増田家から約40m先を左折し、さらに約150m歩くと県道396号に突き当り、その左角に西木戸跡がありました。
09時16分、西木戸跡(左側)
14-① 西木戸跡
蒲原宿に残る江戸時代~明治時代の頃の町並みを眺めながら、旅を楽しみました。
その中で、蒲原宿のスタンプ置き場があったのですが、スタンプが誰かが持ち去ったのか、置いてありませんでした。
街道スタンプがあったら記念に押そうとインク台を持参していたのですが、スタンプがなくては押せません。
残念でした!!
ここで一服休憩し、水分を補給して英気を養い、薩埵峠目指して出発しました。
突き当たった県道396号を右折し、東海道線と並行して旅をします。
〔Yumiさんの霊感〕=2回目
街道を歩き始めて少しすると、
 Y=お父さん、この道は初めてじゃないよね
 E=今日が初めてだよ
 Y=初めて?
 E=この景色、知っているの?
 Y=うん
第5回旧東海道夫婦二人旅(平成24年6月30日)の梅沢旧道の醤油醸造元付近と同じように、夢の中で先に今日の情景を見ていたようですが、私は「そう」と答えただけで、それ以上触れることはしませんでした。
そして、約1㎞歩くと、イルカが素材のイルカスマシを売っている秋田屋がありました。
09時40分、鮮魚・秋田屋(右側)
15 鮮魚・秋田屋
丁度、開店したところで、ご主人に「イルカスマシがあったら見せて頂けませんか」とお願いすると、案内して見せて下さいました。
私は、ここだけしか売っていないイルカスマシ(他でも売っているますが調理方法が違う)なので、イルカスマシ、生桜えび、生しらすを注文し、宅急便で送ってもらうことにしました。
月曜日に宅急便で届くので、食べるのが楽しみです。
お店を出て街道を歩き始めると、私達の前を祖父と子供の二人の街道ウォーカが歩いていました。
09時55分、蒲原駅前(右側)
16 蒲原駅
この二人とは蒲原駅で駅舎をバックに写真を撮りに寄っていた時に追いつきましたが、私達より歩くスピードが早く次に会ったのは、由比本陣公園内の広重美術館でした(それ以降、会うことはありませんでした)。
蒲原駅前から約700m歩くと東名高速の高架があり、高架下を潜り約220m歩いた先の川を渡った右側に清酒「正雪」の醸造元の、神沢川酒造の大きな煙突がそびえていました。
10時07分、神沢川酒造前(右側)・・・写真左は※②に撮影
051 神沢川酒造 
17 神沢川酒造(清酒・正雪)
神沢川酒造の少し先の左側に東海道道標があり、その約210m先の道路左側に、日本橋から37番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。
10時07分、東海道道標・由比宿(左側)
18 東海道道標・由比
10時10分、037由比一里塚跡
19-① 由比一里塚跡
この先から東枡形跡で、道が進んで行くと通行止めのように感じるようにできており、枡形道の終わりに昔の商家のたたずまいを残している志田邸がありました。
 ※②=東枡形跡
049 枡形道  049-1 解説
10時13分、志田邸(左側)=現在は取り壊されてありません(H29.12.23確認)
21-① 商家・志田家
志田家は昔の東木戸跡で、屋号「こめや」を名乗り昔の商屋の面影を残している。
入口を入ると帳場、階段などが残っており、
スタンプが置いてあったので、持参した用紙にスタンプを押しました。
志田家を出て約70m歩くと、右側に御七里役所之跡がありました。
10時15分、御七里役所之跡碑(右側)
22-① 御七里役所之跡
御七里役所は、江戸時代西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に、七里飛脚という直属の通信機関を持つものがあり、ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡です。
同家では江戸和歌山間584㎞
に約七里28㎞毎の宿場に中継ぎ
役所を置き、5人1組の飛脚を配置した。
主役をお七里役、飛脚をお七里衆といったそうです。
御七里役所之跡から約130m歩くと、右側に由比宿交流館があり、その隣りに由比本陣公園があり、入口は立派な門が建てられていました。
10時17分、由比本陣跡(右側)
23-② 由比本陣跡
公園の立派な門をくぐると本陣跡碑があり、公園内には井戸の名残り跡、広重美術館が建っていました。
 ※井戸の名残り跡
24 由比本陣・井戸
広重美術館は、東海道を歩くウォーカ必須の場所なので、入館料(500円)を支払って観ました。
25-② 広重美術館・入場券
広重の作品や版画の作り方などをゆっくりと見たいと思いましたが、昼食の予約をしているため、我慢して先を急ぎました。
由比本陣公園を出ると道路の真向い(反対側)に由比正雪が生家の染物屋の正雪紺屋があり、その数軒先に由比宿おもしろ宿場館がありました。
10時27分、正雪紺屋(左側)・・・写真は※②に撮影
044 正雪紺屋  044-2 染め粉かめ
正雪紺屋は、江戸時代初期から400年も続いている紺屋(染物屋)で、由比正雪の生家と言われており、藍甕(かめ)や神棚、染物道具、用心篭中などの道具や仕事場が昔のまま残されていました。
10時29分、おもしろ宿場館(左側)
27 由比宿おもしろ宿場館
おもしろ宿場館の入り口に、弥次さん、喜多さんのおどけた人形があったので、Yumiさんに「写真を撮ろうよ」と話したら「私はイヤです」と拒否されてしまい、私だけ撮ってもらいました。
広重美術館や由比宿の史跡は、急ぎ足になってしまいましたので、後日改めて観に来たいと思います。

おもしろ宿場館から約30m歩いた右側に、加宿問屋場跡があり、標板が建てられていました。
10時31分、加宿問屋場跡(右側)
28 加宿問屋場跡
10時32分、羽根ノ屋脇本陣跡(右側)
29-① 脇本陣跡(羽根ノ屋)
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒あり、そのうち江戸時代後期になる頃、徳田屋に代わって羽根ノ屋が勤めたそうです。この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根の屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本 陣を願い出たことが史料に残っています。
由比川橋を渡ると桜えび通りとなり、その通り沿いに菓子・春埜があり、休憩の時に食べようと店に立ち寄り、たまご餅(10個入り・735円)を買いました。
10時40分、春埜(右側)
30 菓子。春埜(たまご餅)
桜えび通りの終わり近くで街道は右折するのですが、道らしい道がなく(階段のみ)通り過ぎてしまいました。
しかたなく、そのまま由比駅前まで歩いて旧街道に出ようとしましたが、あるのは狭い階段だけです。
地図を良く見ると左が海、右が山なので、ここにきてやっと道の構造が分かり、先ほど右折する場所にあった階段を上がればよかったのかと思いましたが、戻るより先に進もうと、由比駅前の階段を上がり旧街道に出て少し歩くと寺尾沢橋(歩道橋)があり、薩埵峠まで3㎞の地点に着きました。
10時57分、寺尾沢横断歩道橋
道はここから上り坂になり、約350m歩くと右側に街道時計が設置されていました。
11時03分、街道時計(右側)
31 街道の時計
時計から約200m歩くと、右側に名主の館小池邸がありました。
11時05分、名主の館(小池邸)=右側・・・写真右は※②に撮影
32-③ 名主の館・小池邸 034-1 小池邸屋内
江戸時代の村役人、村方三役(名主・組頭・百姓代)というのは、村落内の行政を行っていました。その代表を、東国では「名主」、西国では「庄屋」と呼んでいたようです。
この時代、領主側の支配機構と、百姓側の接点として、村役人の中ではもっとも重要な役割を担っていたのが名主でした。名主は、村内でもっとも家格の高い百姓であり、また知識層でもありました。
主な仕事は、年貢の取立・管理・戸籍事務・諸書類の作成や他村・領主との折衝など、村政全般を取り扱っていたので、学識が必要とそれていました。
名主の館は、中にベンチなどがあり休憩ができるようになっていて、多くの人が入っていましたが、私とYumiさんは中に入らず記録だけ残し先に進みました。
小池邸から数軒歩いた左側に、あかりの博物館がありました。
11時06分、あかりの博物館(左側)
33-① あかり博物館
薩埵峠への上り坂はだらだらと続き、途中で富士山が見える場所がありましたが、積乱雲で富士山は見えません。
この先の薩埵峠に着いた時は見えればと思いながら、昼食を食べる「くらさわ屋」に向かいました。
11時10分、薩埵峠への道
34-① 富士山見えず
くらさわ屋は、旧街道に面した駿河湾の眺望の良い場所にあり、お店は開店したばかりのようで、私達が最初のお客だったのか好きな場所に座わらせて下さいました。
折角のご厚意なので、景色が良く見える場所に座り、由比名物の「桜えびかき揚げ定食」(@1,575円)を注文しました。
11時14分、くらさわ屋着(昼食)=左側

35-④ くらさわ屋店内
駿河湾を眺めたりしながらのんびりと配膳を待っていると、待っていた定食が運ばれてきました。
 ※桜えびかき揚げ定食
35-⑤ 桜エビかき揚げ定食
かき揚げはつけ汁ではなく塩だけで、天ぷらに少し掛けて食べましたが、カリカリしていて抜群の美味しさでした。
機会があったらまた食べたいと思います。
11時49分、くらさわ屋発
薩埵峠に向けて街道沿いの民家を見ながら歩いていると、「松永」姓の表札の家が多いことに気が付きました。
松永姓の家が終わる辺りの左側に、民家の脇に本陣跡の碑が格子戸にパネルが掲げられていました。
11時57分、間の宿・川島本陣(左側)
36-① 間の宿・川島本陣 030-1 解説
家の表札を見ると「川島」姓で、家の方がいたので聞いてみると、「我が家は180年位前(江戸時代の後期)からの短い期間でしたが、この先の柏屋さんはもっと古いです」よ、話して下さいました。
11時58分、間の宿・柏屋脇本陣(左側)
37-④ 明治天皇御小休所跡
脇本陣の少し先で道は分岐するのですが、分岐する手前の左側に望嶽亭・藤屋が、その斜め前の右側に日本橋から38番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
11時59分、望嶽亭・藤屋(左側)
39 望嶽亭・藤屋 028-2 歴史的資料
望嶽亭は、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった所で、明治元年3月7日、幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われ、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったと言われています。当時と変わらない建物、部屋のたたずまいとピストルが歴史を物語っているようですが、立ち寄ることなく先に進みました。
12時00分、038西倉沢一里塚跡(右側)

38-① 西倉沢一里塚跡
この一里塚は、薩埵峠の東登り口に位置しており、ここからの上り坂は一段と厳しくなりました。
40 薩埵峠への上り坂
坂を上がって行く人は私達以外はおらず、薩埵峠から下ってくる人ばかりです。
由比からの上りは富士山を背にして歩くので、富士山を眺めながら下る方が多くなるのも当然かもしれません。
富士山を眺められる辺りで振り返って見ると、青空が広がっているのですが、富士山の高さのところだけ積乱雲が続々と発生し、富士山が覆い隠されて見えません。
41-① 薩埵峠道標
上る途中の道の両側の急斜面には、みかん畑が続いているのですが、途中でガラガラ、ガラガラと何かが走る金属音が聞こえてきたので何だろうと思っていると、老夫婦が乗ったモノレールが急斜面を下ってきました。
その情景を見たら、とても歩けるような斜面でないので、モノレールは必需品と思いました。
何とか富士山が見えるようにと心の中で祈りながら峠を登っていくと、峠の駐車場があり、その一角に碑が建っていました。
12時24分、薩埵峠山之神遺跡(左側)
42-① 山之神遺跡
ここから100mくらい歩くと鉄板でできた展望台(1人用)があり、富士山を眺めましたが、残念ながら眺望は叶いませんでした。
12時27分、薩埵峠展望台(右側)

43-① 薩埵峠展望台
同じ展望台では、母子3人が雲が切れるのを待っていましたが、積乱雲はその後も続いていたので、見れたのかな?
H25.01.04 再訪(富士山を眺望)
以下のブログURLでご覧になれます。
  
http://eiyumi-tokaido.blog.jp/archives/21934620.html
12時33分、薩埵峠碑(東屋休憩所)=左側
44-① 薩埵峠
峠道は、碑の先から平坦な道となり、富士山が見えると云われる辺りで積乱雲が切れるのを、菓子・春埜で買った「たまご餅」を食べながら少し待ちましたが、積乱雲の湧き上がり方が凄くとてもなくなりそうもないので、富士山の眺めをあきらめ歩き出しました。・・・写真右は※②に撮影
45-① 薩埵峠道標・興津側 018 薩埵峠からの富士山
そして、10分程平坦な道を歩くと、今度は急勾配の下り階段が始まりました。
46 薩埵峠の下り坂
道は急傾斜を階段で降りるようになっており、それを下って行くと、進行左側に東屋とトイレのある休憩所が見えてきたので、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと、「大丈夫」と云うので、立ち寄らないでそのまま進みました。
※②=薩埵峠からの下り            ※東屋 
014 薩埵峠上り 013 休憩所東屋
道は、この先で十字路になり、右折=上道、左折=中道となるので、左折して中道を進みましたが、車は白髭神社から先の道が細いため通行禁止になっていました。
※②=分岐
012 薩埵峠上り分岐
左折して約120m歩くと白髭神社があり、さらに約50m歩くと海岸寺の入口があり、約80m先を左折して東海道本線のガードを渡ると国道1号(富士由比バイパス)に突き当り、バイパスと並行して約260m歩くと、興津橋の手前で上道からの街道と一緒になりました。
13時09分、興津橋
旧街道は、興津橋を渡り切った右側の小さい階段を下りるのが正規なのですが、階段を見落としてしまったため、少し先を戻る形で旧街道に合流しました。
※②=見逃した分岐
009 興津川橋分岐
合流したところから約500m歩くと再び国道1号に合流し、約250m歩くと興津中町交差点に着きました。
13時25分、国道50号線の起点(興津中町交差点)=右側
47-② 国道50号始発点
交差点を渡った右側に、国道50号線起点の碑が建っていました。
興津中町交差点から約300m先の「興津中町西」交差点の右角に、身延山に通じる道の道標が建っていました。
13時30分、身延山道道標(興津中町西交差点)=右側
48-① 身延山道道標 007 身延山道道標
この交差点の先に一里塚跡があるということなので、注意深く歩くとともに、近くの人に場所を聞くと、聞いた先に日本橋から39番目の一里塚跡があり、民家の前に石碑が建っていました。
13時34分、039興津一里塚跡(右側)
49-① 興津一里塚跡
一里塚跡碑を過ぎ、興津宿公園でひと休みして久しぶりにたい焼きを食べようと、興津駅入口交差点の先にあるたい焼き屋さんに向かいました。
しかし、店に入るとたい焼きは売り切れており、焼きあがるのに30分近くかかるとのことだったので、買わずに店を出て先に進みました。
約180m歩くと沢瑞川を渡り、その先に興津宿公園がありました。
13時45分~13時57分、興津宿公園着(休憩)
50 興津宿公園(道標)
《アクシデント》
公園の入口近くでスタンプを押すために、持参したインクをザックから出そうとしていた時、地図や資料類が風に飛ばされて道路まで飛んでしまいました。
Yumiさんと二人でなんとか全部を集めて歩道に戻ろうとした時、私の靴が何かに引っ掛かりそのまま歩道にドサッと倒れ込んでしまい、右脇の肋骨付近の強打、右手の指・手のひら・右足のひざを擦りむいてしまいました。
倒れたところが交番の目の前だったので、交番の警察官が救急箱を持って駆けつけてくれ、手の指と手のひらにバンドエイドを貼って、応急処置を施しました。
擦り傷は多少の痛みは残りましたが、右脇の肋骨付近の痛みの方が強く、深呼吸ができないくらいの痛みが続きました。
強打した処の痛みはしばらく続き、深呼吸は4日目ぐらいからできるようになりました。
ひと段落した処で、アクシデントを起す原因となった興津宿のスタンプを押して、公園を後にしました。
公園を出て約100m歩くと、右側の民家の前(道路の反対側は潮屋)に東本陣跡があり、石碑が建っていました。
13時59分、興津宿本陣跡(右側)
51-① 興津宿・東本陣跡
東本陣跡から約40m歩くと道路反対側(進行左側)に鈴与研修センターがあり、入口脇に一碧楼水口屋脇本陣跡があり、石碑が建っていました。
14時02分、水口脇本陣跡(左側)

52-① 水口脇本陣跡
脇本陣跡から約60m先の道路反対側(進行右側)の山梨自動車商会(オートバイなどの販売店)の前に、西本陣(手塚屋)の跡があり、木製パネルが掲げられていました。
14時03分、興津宿西本陣跡(右側)

53 西本陣跡
興津宿公園を出て、道路を挟んで本陣跡と脇本陣跡の史跡があり、交差点がなかったので、左右を確認して二人とも走って道路を往復しました。
手塚屋本陣跡から約500m、東海道線に沿って歩いていると、右側の高台に清見寺の建物が目に入りました。
《清見寺》
14時10分、清見寺(右側)
54-① 清見寺・山門
清見寺は、街道から東海道本線のガードを潜った先の高台に本堂があり、東海道線の手前に山門がある非常に珍しい寺院なので、本堂まで上っていきたかったのですが、Yumiさんに行く気がまったくないので、しかたなく階段を上った山門で我慢することにしました。
境内の中を東海道線が走っている珍しい寺院だったのですが、歩き旅の時は興津で怪我をしたりして気分的に滅入っていたこともあり、高台にある本殿まで行きませんでした。
機会があったら見たいと思っていたので、思いを実現することができました。
※①=清見寺(門前)
101 清見寺・入口
駐車場の右の上り道を歩くと、階段の先に東海道線の踏切が見えました。
 ※①=境内の中の踏切
102 踏切を渡る参道
踏切を渡って本殿に向かって階段を上っていると、電車が来ることを知らせる踏切の警報音が聞こえ、歩くのを止め電車を待ちました。
待っている位置からは、どちらの方向から電車が走って来るのか分かりませんでしたので、どちらにも対応できるようにしていると運良く左から走ってきたので、「Yumiさん」とカメラに顔を向けさせ急いでシャッターを押しました。
 ※①=境内内の踏切を通る電車
103 踏切が閉まる参道
寺院の境内を電車が走る写真を撮ることができ、来た甲斐がありました。
 ※①=徳川家康が接ぎ木したと云われる梅の木
104 家康接木の梅
東海道線を挟んで山門があり、↓この山門は高台側(東海道線を越えたところ)
 ※①=山門
105 清見寺・山門
東海道線の上を歩いて越し、旧東海道に下りてきました。
清見寺を出て約170m歩くと、左側に西園寺公望の老後の住まいだった坐漁荘がありました。
14時15分、坐漁荘(左側)
55-④ 坐漁荘・縁側
坐漁荘に入りベンチに座って庭を眺めていると、管理人の方が来られ、「西園寺公望は大臣になる人の推薦をしていたので、大臣になりたい人が水口脇本陣に泊まって、ここに通っていたんですよ」と、当時の話しを聞かせて下さいました。
また、旧街道を旅していると話すと、静清バイパスを通る道を丁寧に教えて下さいました。
街道は静清バイパスの下を潜り、歩道のないカーブしている東海道線の跨線橋を越えて行くと、ひと際目を引く一本松が立っていました(庵原川の手前)。
14時45分、生き残りの一本松(左側)
56-① 生き残り一本松
一本松の手前より越した方が写真が撮りやすいと考え、歩いてきた方向に向けてシャッターをきりました。
するとカメラの電池交換を知らせる表示が出ましたが、電池切れを待つことにして予備電池には交換しませんでした。
旧街道は、辻町交差点で分岐して右側に進むのですが、分岐するところに松並木を伝える「細井乃松原碑」が建っていました。
14時59分、細井乃松原跡(左側)
57-① 細井乃松原107 細井乃松原
写真を撮ろうとするとカメラの電池が切れてしまい、持参している予備電池と交換していると、Yumiさんが「お父さん、富士山が見えるよ」と云うので、Yumiさんが指さす方向を見ると、薩埵峠の時に覆っていた積乱雲がなくなり、富士山の頂上部が見えました。
折角の機会なので写真を撮りましたが、撮影者の技量が低く、写真に写っていませんでした。
 ※①=細井乃松(左側)
歩き旅の時に富士山が見えたので、同じ場所から富士山を撮ろうと車を停めましたが、残念ながら雲に隠れて見れませんでした。
106 細井乃松原からの富士山
細井乃松原跡から一里塚跡を見落とさないように注意して歩き、約500m歩いた左側に篠原自転車店の直ぐ先の十字路の角に日本橋から40番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
15時11分、040江尻・辻一里塚跡(左側)
59-③ 江尻一里塚跡碑
注意して歩かないと見落としやすいので、史跡を確認したい人は気を付けて下さい。
一里塚跡から約400m先のJR清水駅入口の江尻東交差点を過ぎ、さらに約600m歩くと今日の到着地である水神社前に到着しました。
15時26分、水神社前着(到着地)
60-① 新清水・水神社前(到着地)
水神社の前で、到着式(到着パネルを掲げて写真撮影)を行い、今日の旅を終了しました。
【ホテル】
神社の脇を流れる巴川で釣り人がハゼを釣り上げているところを見ながら歩き、宿泊を予約しているリバーサイドホテル玉川に向かいました。
15時30分、ホテル着
チェックインが早かったので宿泊客はまだ来ていないようです。
他の客が来る前にお風呂に入ろうと共同風呂を確認すると、鍵を掛けて個室利用が出来るようになっていました。
予約した段階では分からなかったのですが、ホテルの考えとして個室利用を提供しているようで、狭い浴室で交代でシャワーを浴びることを考えると嬉しい限りです。
フロントに確認すると個室利用OKとの回答があり、広々とした浴室でのびのびと湯に浸り満足しました。
《夕食》
外に食べに行こうかと考えていたのですが、ホテルは元々が割烹店であったことや、予算を云ったら気持ちよく受け入れて下さったので、ホテルで食べることにし食事の予約をしました。
私は他にも食べる人がいると思っていたのですが、指定された食堂に行ってみると、用意されていたのは私達の分だけでした。
料理は、少ない予算の中で良く作って下さり、味は一級品でした。
61-① ホテル・夕食
Yumiさんとビールで乾杯し、出されたものを食べていると、ホテルのオーナーが来られ、旧東海道の話しをいろいろと聞かせて下さり、楽しいひと時を過ごすとともに、二人とも満腹になって部屋に戻りました。
《足のケア》
医師に処方して頂いたシップ薬、パテックス、冷却シート等を持参し、膝、ふくろはぎ、足裏に貼り、Yumiさんは足裏水膨れの処置(皮膚軟膏を塗布し、消毒布をテープで止める)を施しました。
前回の旅の時に行ったケアの結果を基に準備してきましたました。
それぞれの処置は、足の疲れが取れ、筋肉痛などもなく、それなりに効果的だったので、次回も同じようにケアの準備をして対処したい思います。
早朝の起床、旅の疲れ、ほどよい酔いなどで、21時前にはベッドに横たわって寝ていました。
【次回の予定】
明日の第11回の旅は、「新清水・水神社前~静岡・江川町交差点」の12.18㎞を歩きます。
途中に追分羊羹の老舗があったり、到着地には駿府城公園があるので、時間があったら散策したいと思います。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
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【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/ 


【序章】
12月1日の「第10回旧東海道夫婦二人旅」で由比宿~薩埵峠をYumiさんと歩いたのですが、
 ●由比宿=史跡を見落としたり、時間の関係で見学を割愛した
 ●薩埵峠=富士山が雲に隠れて眺められなかった
と、心残りの部分があったので、車ですが改めて行くことにしました。
朝起きて富士山を眺めると雲一つない状態です。
「これなら秀麗富士が眺められる」と直ぐに出掛けたかったのですが、それよりYumiさんの目の治療を優先する必要があり、眼医者の診察を受けようと連絡していると、正月休みで診察していないことが分かり、急遽支度して出掛けました。
眼医者の休みがもっと早く分かれば、6時30分頃には家を出発することが出来ていました。
07時50分、自宅を出発
【薩埵峠】
富士山を見るなら午前中と云われているので、少しでも早く到着したいと考え朝食を食べないで家を出発しました。
家を出て途中のコンビニでサンドイッチとジュースを購入し、車の中で食べながら車を走らせました。
今日から仕事始めの会社もありますが、交通量はさほど多くないので一般道を走り、東名高速厚木ICから高速道路に入り、清水ICに向かいました。
高速道路は御殿場ICを過ぎると走る車の量が減少し、100㎞/hくらいで走れることができました。
また、車窓から見える富士山は雲が多少出てきておりましたが、雲に隠れることなく綺麗に見えています。
時間とともに雲が出てきやすいので、御殿場から新東名を走る予定でいましたが、なるべく早く薩埵峠に着こうと従来の東名高速を走りました。
10時15分、東名高速清水IC着
1号線富士由比バイパスを興津方面に走り、興津川橋の先で左折し、薩埵峠手前の山之神遺跡のある駐車場に向かいました。
駐車場に向かう道は、交差が困難な場所が何か所もある狭い道なので、対向車がこないことを祈りながら走りました。
駐車場は、道路脇に車が停まるなど混んでいましたが、運良く奥に1台分の駐車スペースが空いていたので、停めることができました。
家を出てからほとんど休憩なしで走ってきたので、まずトイレに寄ってから富士山を眺めに行きました。
駐車場(山之神遺跡)から見る富士山は、はっきりと綺麗に見えました。
10時30分、山之神駐車場
001 山之神遺跡・駐車場
薩埵峠展望台は、歩いて数分のところにあるので、富士山を見るのを楽しみにしながら向かいました。
 ※展望台手前
003 展望台への道
展望台は数人の人が写真を撮っていましたが、順番に富士山をバックに写真を撮りました。
10時34分、薩埵峠展望台
004 展望台
ここからの眺めはまさに絶景です。
009 展望台デッキからの富士山
眼下に山裾に沿ってJR東海道線が走り、東名高速と国道1号線が交差し、駿河湾の先に富士山を眺める壮大な美しさに、Yumiさんと綺麗だね、来てよかったね、と喜び、場所を変えながら何枚も写真を撮りました。
富士山の眺望を堪能し、展望台を後にしました。
そして、展望台から戻ってくる途中で、みかん(1袋5個100円)を買い、駐車場に戻りました。
【くらさわ屋=桜えびのかき揚げ】
次に向かうのは前回、昼食を食べた「くらさわ屋」で名物の桜えびのかき揚げを食べることです。
由比宿に行く前に、この地方の名物の桜えびをまた食べたいと思い、昨年12月の旧東海道夫婦二人旅の時に食べた「くらさわ屋」に行きました。
駐車場からこの店に行くには、山之神遺跡の駐車場に行くために走った道よりさらに車の交差が難しい細い道を、長く走らなければなりません。
途中で対向車が来たら大変なことになるので、対向車が来なことを心に念じながら下り坂を走っていると、対向車が上ってきました。
「え!!、来たの」と思っていると、運良く対向車と交差することができる場所だったので、事なきを得て助かりました。
道路は、くらさわ屋に行く途中の望嶽亭・藤屋を過ぎると、少し幅が広くなり車の交差が可能となり、柏屋脇本陣、川島本陣を右に見てYumiさんと、ここ歩いたねと話しながらくらさわ屋に向かいました。
11時07分、昼食(くらさわ屋着)=左側
015 くらさわ屋
先客は1人だけでしたので、私とYumiさんは、先月の旅の時と同じ席に座り、その時と同じ「桜えびかき揚げ定食」を注文しました。
018 桜えび天ぷら
私は出された物は残さなかったのですが、Yumiさんは桜えびかき揚げ(2枚)を1/4残してしまいました。
また、前回の時はなかったのですが、お正月ということなのか”みかん”が1つ付いてきました。
急ぐことなくのんびりと食事をし、次の由比宿に向けて出発しました。
私たちが店を出る頃は、店内の席は一杯となり空き席待ちの人がおり、駐車場も満車でした。
11時45分、くらさわ屋発
【由比本陣公園】
由比本陣公園の付近は、先月(12月1日)の旅の時、先を急いでいたため見学を割愛したり、史跡を見落としたりしていたので、もう一度行ってみたいと考えていた場所で、今日は旅をした時に歩いた道を逆方向に車で走り、名主の館小池邸、街道時計台などを眺めながら由比宿に向けて走りました。
由比川の橋を渡った清水銀行の手前(右側)に無料駐車場があり、車を停め史跡見学に出掛けると、駐車場の隣に、登録有形文化財の指定を受けた清水銀行の建造物が建っていましたが、前回の旅では、完全に見落としていました。
11時58分、清水銀行の建物(左側)
020 清水銀行
そして、その少し先に明治の郵便局舎がありましたが、この建物も旅の時に見落としていました。
 ※明治の郵便局舎(現平野邸)=左側
028 明治の郵便局舎(平野邸)
局舎には当時、局長を勤めていた平野氏が代々住んでいるそうで、中に入って写真を撮りたかったのですが、入るのを止め塀の外から写真を撮りました。
その隣りの「おもしろ宿場館」は、旅の時にYumiさんに写真撮影を拒否された「やじさん、きたさん」の像が入口にあり、Yumiさんに脇に立ってと云うと、旅の時に拒否したことは忘れて素直に立ってくれました(認知症のYumiさんは1ケ月前のことは覚えていません)。
 ※おもしろ宿場館
022 おもしろ宿場館
おもしろ交流館の数軒先に、由比正雪の生家と云われている「正雪紺屋」があり、旅の時は外から写真を撮っただけだったので、今日は店の中に入ってみました。
藍染めに使用するカメと藍染め商品が陳列されていましたが、ピンとくるものがなかったので、何も買わないで店を出ました。
次に、道の反対側の東海道由比交流館に行きました。
交流館は、先月の旅の時に外から見ただけで素通りしたため、今日は館内に入って見学しました。
館内には五重塔の模型が飾ってあり、奥に由比宿の街並み模型が展示されていました。
 ※東海道由比交流館(右側)・五重塔
032 東海道由比交流館・五重塔
 ※由比宿街並み模型
034 由比宿街並み模型
ひと通り館内を見た後、公園に出ると広重美術館の脇に顔を出し写真を撮るパネルがあり、セルフタイマーで撮ろうとしましたが、上手くできませんでした。
近くで見ていた方が「撮りましょうか」と声を掛けて下さいましたので、撮影をお願いしました。
 ※由比宿パネル
037
 ※広重美術館
038 広重美術館
その後、由比本陣公園の山門を出て右隣に、馬の水呑み場跡がありましたが、ここは素通りしたので写真におさめました。
 ※馬の水呑み場跡(右側)
031 馬の水呑み場
Yumiさんは、水の中の亀形の石を見て、
 Y=これ亀?
 E=亀だけど石だよ(大笑い
 Y=本物かと思った
亀の形をした石は、本物かと間違えるほどの色合いをしていました。
由比本陣公園の周りの史跡で、旅の時に見落としていたり、素通りしたところをひと通り見て歩きました。
12時50分、駐車場発
【新東名高速を初走行】
時間が早いので、遠回りになりますが、来る時に走れなかった新東名高速を走って帰ることにしました。
ナビをセットすると富士ICから高速に乗る案内でしたが、逆の清水方面に向けて走り、寺尾交差点で1号線富士由比バイパスに入り清水ICに向かいました。
清水ICを入ると約1㎞で清水JCTとなり、ここから新東名高速となり、新清水JCTを東京方面に向けて走りました。
新東名高速は、開通してから日が浅いので、トンネルはまだ排気ガスで黒く汚れておらず、気持ち良く走ることができました。
私の車のナビには、新東名高速の道路地図が入っていないので、道路のないナビ画面の中を進んでいました。
新東名は、御殿場で東名高速と合流し、交通量が増えてきました。
事故の発生で、横浜IC~中井ICで9㎞渋滞の情報があり、途中のSAでの休憩を割愛し、厚木ICに急ぎました。
厚木ICの1㎞手前から渋滞が発生していましたが、停まることがなかったので、比較的スムーズに一般道に出ることができました。
厚木市内では、部分的に渋滞していましたが、私が知っている厚木市内の渋滞よりかなりスムーズに走ることができたと思いました。
相模原から八王子バイパスを走り、北野を経て、我が家に帰ってきました。
帰りも長いドライブになりましたが、壮大な富士山を眺めることができた満足感で、疲れはそれ程感じませんでした。
【感想】
綺麗な富士山が見れて良かった。
家を出る時間は計画していた時間より遅くなりましたが、いろいろな場面で運に恵まれて往復することが出来、楽しい一日を過ごすことができました。


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※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
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【天候】曇り(肌寒い日)
【宿場】(18)江尻宿⇒(19)府中宿
【行程】歩行距離=12.18㎞ 総距離=181.03㎞
新清水・水神社前⇒(3.273㎞)⇒041草薙一里塚⇒(5.152㎞)⇒042長沼一里塚⇒(3.752㎞)⇒
静岡・江川町交差点⇒(番外編)駿府城見学
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第11回旅の宿場)

02 11回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体ルート(第11回)
 第11回の旅のルート
 (新清水・水神社前 ⇒ 静岡・江川待ち交差点)
第11回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日

【旧東海道の旅】
《ホテル》
昨晩は、早い時間に就寝したのですが、4時頃からYumiさんのトイレ通い(認知症の常同行動)が始まり、トイレに行く間隔は約15~30分で、眠りたくてもベッドに横たわっているだけで、熟睡できません。
トイレに行く回数が多いのは本人も大変でしょうが、一緒に寝ているこちらもたまりません。
 E=Yumiさん、なんとかならない
 Y=・・・が出るの
 E=寝てられないよ
 Y=ゴメンネ
そんな会話をしているうちに、セットした目覚ましが鳴りました。
05時50分、起床
目覚ましの音で起床し、まずYumiさんの旅支度を終わらせ、ほぼ終わりかけた頃から私の支度を始めました。
支度が終わってから持参した血圧計で、Yumiさんの血圧を測定すると少し高い(上が140台)数値でした。
その後、着替えた下着や靴下、髭剃りや化粧道具、血圧計などをザックに入れて荷造りを行い、7時前に食堂に行きました。
食堂に行くと数組の宿泊客が既に食事を始めており、私達の食事が用意された時には15人位の人に増えていました。
ホテルで提供された和食の朝食を食べ、部屋に戻ってトイレなどを済ませ、チェックアウトするとオーナーが写真のシャッターを押して下さり、昨晩からのお礼を云ってホテルを後にしました。
07時53分、ホテル出発
01 ホテル(リバーサイドイン玉川)
出発する前に、オーナーから旧街道は、水神社からの川沿いの道ではなく、銀座通りだということと、江尻宿東本陣の場所を教えて下さいました。
《移動》
出発直前にホテルのオーナーから旧街道の道を教えて頂いた道が私が思っていた道と違うのですが、出発地は変更したくなかったので、昨日到着した水神社の前で出発式を行いました。
【=旅=】
07時58分、水神社前(出発地)
02 新清水・水神社前(出発地)
出発地はオーナーに教えて頂いた場所ではありませんでしたが、旅の道はオーナーに教えて頂いた道を歩くことにし、水神社から約90m戻り、銀座通りの交差点に戻りました。
07時59分 銀座通り交差点
03-① 新清水・銀座通り入口
日曜日の早朝で、街路は閑散としており、道の真ん中で写真を撮ることができました。
銀座通りを約110m歩くとスナックエマルジョン前に、江尻宿のスタンプ台がありインクも使用できる状態でしたので、記念に押印しました。
08時02分、江尻宿街道スタンプ台(右側?)
04 江尻宿・スタンプBOX
 ※東(寺尾)本陣跡
銀座通りの途中に東(寺尾)本陣跡があると出発前にオーナーから教えられ、また案内地図にも記されていたのですが、史跡を見付けることができなかったのですが(付近を2往復して探しました)、ここで時間を費やすわけに行かないので、諦めて先に進みました。
※①=寺尾本陣跡(左側)
細井乃松原から移動する時、寺尾本陣のことを思い出し、急遽歩き旅の時に宿泊したホテルに立ち寄り、オーナーの方に場所をもう一度教えて頂き本陣跡を探しに行きました。
本陣跡のある場所は、一方通行のため稚児橋を渡る手前を左折して柳橋方向に走ると、柳橋の少し手前の川沿いのブロック塀に本陣跡のパネルが埋め込まれていました。
※歩き旅の時は、巴川に架かる柳橋の手前を右折して10~20m先の左側(ブロック塀)。
108 江尻宿・寺尾本陣跡
スタンプ台から約280m(銀座通り二つ目の信号)歩くと五差路となり、ここを左折して巴川に架かる稚児橋を渡ります。
08時10分、稚児橋(左側)
06-② 稚児橋・河童像
稚児橋には、銀座通り側の橋柱に男の河童像、渡った側の橋柱に女の河童像が、橋の中央に河童のモニュメントが飾ってありました。
また、橋を渡った左側には、河童の腰掛け石碑が建っていました。
08時14分、河童の腰掛け石(左側)
07-① 河童のこしかけ石
河童の腰掛け石から約190m先(信号二つ目の交差点)を右方向に進み、さらに交差点から約180m歩いた右側の岩崎麹店の前に東木戸跡があり、石碑が建っていました。
また、交差点を過ぎた左側に「東木戸跡まで100m」の案内板が掲げられていました。
ただ、私は最初、この石碑を見つけることが出来ず、少し先まで行ったところで場所を聞くと、50~60m戻った辺りと教えられて戻り確認しました。
08時21分、東木戸跡碑(右側)
08 江尻宿・木戸跡
木戸跡から約650m(県道197号を横切る)歩くと、左側に赤い暖簾と赤いシャッターの「追分羊羹」本店があり、店舗手前の左角に追分道標が建っていました。
08時29分、追分道標(左側)
09 追分道標
08時30分、追分羊羹本店(左側)
10 追分ようかん本店
追分羊羹本店は、定休日(日曜日)でしたが、開店日でも時間が早くて買えませんでした。
寒い日でしたが、Yumiさんを見ると汗をかいていたので、
 E=汗をかいているからこれを(チョッキ)を脱いで
 Y=寒いのよ
と、いつものごとく不満の声が出ましたが、汗をかいているので、「寒くなったらまた着るから」と話し納得してもらいました。
また、毛の帽子も暑いようなので、私の野球帽をかぶってもらいましたが、こちらは
 E=良く似合うよ
 Y=似合う?
 E=大丈夫
と、ニコニコ顔で被ってくれました。
認知症患者を相手にするのは大変です。
さて、追分羊羹本店から約350m歩くと橋があり、その手前左側に追分碑が建っていました。
08時38分、追分碑(左側)
11-① 追分碑
橋から約130m先の東海道線と静鉄清水線を潜って通る工事中の道路を右に見ながら、この辺りの情景も少しすると変わるんだろうなと思いながら歩くと東海道線の踏切があり、踏切を渡って約400m歩くと右側にセブンイレブンがありペットボトルを買いました。
そして、コンビニから約90m歩くと、左側に上原堤の池があり立ち寄りました。
08時52分、上原堤(左側)
12-② 上原堤
池は、周回できるようになっており、散歩している人もいました。
私達が立ち寄った時、「この池でボートに乗り、隣りに遊園地(現在はイオンになっている)があって遊んだよ」と、何十年か振りに訪れて、昔を懐かしく思い出しながら歩いている人に出会いました。
私も子供の頃、カブト虫やクワガタ虫を採りに行った林が武者小路実篤の大きな家が出来て採れなくなったことや、白百合女子大学が出来る前にあった津村薬草園など、昔懐かしく思う場所が幾つかありますが、「この方もきっと自分の中に残る情景を思い出されているんだろうな」と、思いながら別れました。
上原堤から街道に戻ると直ぐに右側に静鉄清水線の狐ケ島駅があり、駅入口から約350m歩くと左側に上原地蔵堂がありました。

08時58分、上原子安地蔵堂(左側)
13-① 上原子安地蔵堂
地蔵堂から240m歩くと、清水有度第一小学校があり、学校の脇で休憩することにしました。
9時03分~9時07分、休憩
清水有度第一小では、100人以上の人が集まって防災訓練が行われており、それを眺めながら休憩することにし、水補給と昨日買ったたまご餅を食べました。
休憩を終わり約240m歩くと県道407号に合流し、さらに約130m先に日本橋から41番目の一里塚跡(草薙一里塚)があるとのことのでしたが、見落としてしまい「草薙一里山」バス停を一里塚の代わりにしました。
09時13分、041草薙一里塚跡(右側)
14-① 草薙一里塚(バス停を代用)
ところが家に帰り再確認すると、草薙一里塚跡は清水銀行草薙支店の敷地内の道路沿いに一里塚跡の石碑が建っていることが分かり、再訪して撮影しました。
 ※①=草薙一里塚跡
109 草薙一里塚跡
そして、一里塚跡碑の手前に「狸八相縁起」の狸像が建っていました。
 
※①=狸八相縁起
111 狸八相縁起像
一里塚跡から約900m歩くとスーパーシズテツの駐車場の前に、草薙神社のコンクリート造りの大鳥居が建っていました。
 ※①=草薙神社大鳥居(左側)
112 草薙神社・鳥居
私は、地図に書き込んだ付近にもあると思い写真を撮らなかったのですが、地図に書き込んだ辺りにはなく撮っておけば良かったと思いましたが、後の祭りでした。残念!!
09時25分、草薙駅前
旧街道は、草薙駅前信号を左折し、約50m先の最初の小さな十字路を右折します。
右折すると住宅地となりましたが、両側には造園屋さんが連なっており、その中の一軒の庭先に「ダイコン」が干してありました。
 
※民家のダイコン干し(右側)
15 大根干し(県立美術館近く)
昔は良く見た風景ですが、最近はほとんど目にすることはなく、住んでいるところではまったく見ることはなくなったので、記録に残すことにしました。
ダイコン干しの家から約50mで、静鉄清水線「県立美術館前駅」からの道があり、そのまま横切って約100m歩くと左側に東光寺がありました。
09時38分、東光寺(左側)
16 東光禅寺・山門
境内に大きな石のテーブルとベンチがあるので、休憩も考えて立ち寄りましたが、逆に風邪を引きそうな寒さだったので、境内を見ただけで失礼しました。
そして、東名高速の下をくぐり、タクシー会社を左に見ながら右折し、県道407号を渡った先に県総合運動場駅がありました。
出発してからトイレに行っていないので、駅のトイレを借りようと線路を渡って駅に行くと、無人の自動改札の出入り口のため、また線路を渡り直して街道に戻り、戻った側から右折して50mほど行くと、切符売り場のある駅舎があり、トイレもあったのでお借りしました。
※要は最初から踏切手前の切符売り場に行ってトイレを借りれば良かったのです。
話しを戻して、駅舎から約200m歩くと、東海道線を地下道で潜るのですが、地下道に入る手前に記念碑が建っていました。
10時00分、旧東海道記念碑(右側)
17-② 旧東海道記念碑
写真を撮り終わると、Yumiさんが右足のくるぶし付近が痛いと云うので見てみると、平坦な舗装道路をトレッキングシューズで歩いていたため、足首を保護するカバーが当たるようです。
赤くなった部分に薬を塗り、ガーゼを当ててテープで止める処置を施しました。
道はここから東海道線を地下道で潜るのですが、線路の下の部分で車が交差出来るようになっているため、鉢合わせしないように侵入する時から警笛を鳴らしながら通っています。
 ※東海道線の地下通路(車も走る)
18 東海道線地下通路
私とYumiさんが歩いた時も、前からも、後ろからも警笛を鳴らしながら走っていました。
地下道を出たところで地図を確認し、線路に沿って戻る感じで街道は続いています。
Yumiさんは、処置を施して歩き始めましたが、まだ痛むということなので、地下道から出た処で再度処置しました。
10時28分、静鉄清水線古庄駅前(古庄交差点
国道1号線古庄交差点を左に進み、次の長沼交差点を斜め右に進むと右側に久應寺があり、その先に一里塚があります。
草薙一里塚を見落としているので、注意深く左右を探しながら歩いていると、街道右側のごみ集積所になっているところに、日本橋から42番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。

10時38分、042長沼一里塚跡(左側)
19-① 長沼一里塚跡
注意深く歩かないと、石碑が小さいので見落としてしまいそうです。
長沼駅を渡ったところに玩具メーカーのバンダイの工場があり、ガンダムの人形が飾ってあるとのことでしたが、子供もいないので立ち寄ることなく通過しました。
静鉄線の脇を並行して歩き、国道1号線に出たところで、手元に用意した地図の旧街道を歩けないことを知りました。
旧街道と示された場所にはショッピングセンターが建っており、国道に出てくる道もなくなっていました。
そのため国道1号線をそのまま歩き、柚木交差点に行きました。
柚木交差点を左折し、JR東海道線のガードを潜った先の階段を上り、跨線橋を渡って50m程歩いた右側に道標が建っていました。
10時58分、曲金・東海道道標(右側)
20 東海道道標・曲金
道は、曲金交差点で左に沿って進み東海道線をくぐって、また国道1号線に出ました。
東海道線をくぐる道は、狭いのに自転車がスピードを出して走ってくるので危険です。
国道一号線春日一丁目交差点の角に碑が建っていました。
11時08分、見附跡碑(右側)
21-① 府中宿・東見付跡
ここから伝馬町通りに入り、今日の到着地まで一本道です。
横田町東交差点、つつじ通りを通り過ぎた先の左のホテルアーバンイン静岡を目印に歩きました。
伝馬町通りの歩道には、東海道をモチーフにしたタイルが埋め込まれていました。
 ※府中宿・東海道モチーフタイル(左側の歩道)
22 府中宿・タイル画
11時24分、華陽院(右の木は家康お手植えのミカンの木)=右側
23-① 華陽院
ホテルの先を右に入った線路沿いに、徳川家康の祖父の後妻だった人が祭られている寺院がありましたが、入口が分からず、結局寺院を一周してから境内に入りました。
そして寺院から元のホテル前に戻り、道標の前でパチリ。
11時29分、久能山東照宮道碑(左側)
24-① 久能山東照宮道道標
久能山東照宮道碑の先に本陣碑が道路の右と左に建っており、車の往来を確認しながら道路を行ったり、来たりと横切りましたが、意味の分からないYumiさんは、私に云われて必死になって右や左に横切っていました。
11時34分、下伝馬本陣・脇本陣碑(左側)
25-① 下伝馬本陣・脇本陣跡
11時36分、上伝馬本陣・脇本陣碑(右側)

26-① 上伝馬本陣・脇本陣跡
そして、上天馬本陣・脇本陣跡碑の少し先のビルの前に、西郷隆盛と山岡鉄舟が会見した跡碑が建っていました。
11時39分、西郷・山岡会見之史蹟(右側)
27-① 西郷・山岡会見之史跡
そして、碑の目と鼻の先が、今日の到着地の江川町交差点です。
29 江川町碑
江川町交差点は、地下道で繋がっているため、次回のことも考えてNTTビルの角で到着式(撮影)を行うため、出口の方向を記憶して、到着式(パネルを持っての撮影)を行う出口に向かいました。
11時45分、静岡・江川町交差点着(到着地)
28-① 静岡駅・江川町交差点(到着地)
【散策=駿府城公園】

《昼食》
初めての街で、どこに何があるのか分からないので、人の沢山いる方に地下道で行こうする途中で、チラシを配っていた人に飲食店のある方角を聞き、昼食を食べに行きました。
居酒屋が連なっている辺りで、入りやすい雰囲気の店に入りました。
昼時でしたが、待つことなくテーブルに付き、注文しました。
料理は、勤め先の外食で食べ馴れているものと同じでした。
《駿府城公園》
天気は曇り空で、寒気の影響なのか底冷えする寒さの中、昼食を食べた店舗を出て地下道を横切り、公園側に出ました。
公園に向かう人通りはほとんどなく、城代橋を渡って東御門から公園に入りました。
 
※城代橋
01-① 城代橋
 ※駿府城(巽櫓)
02-① 駿府城・巽櫓
 ※東御門

03-② 東御門
公園の中は、城の跡地を平坦にしただけで、史跡はほとんどない公園でした。
 ※公園石碑
04 駿府城公園碑
途中で、色付いた紅葉と銀杏を背景に写真を撮り、トイレに寄って城外に出る処まで戻ってきました。
 
※公園内の紅葉
05-① 公園の紅葉
城外に出る東御門まで来て、旅に使った地図や資料を綴ったバインダーがないこと気付き、トイレに走って戻ったのですが、Yumiさんも一生懸命に私に付いて走ってきました。
幸いにもトイレの手洗いの棚に置き忘れており、「あった!!」とホッとして手に取りYumiさんの処に戻りました。
再びトイレに戻ってきたので、先ほどと同じ道を歩いてもつまらないと、別の道を歩いて公園内を一周しました。

06-① 二の丸水路
公園には、天守閣跡のパネルが建っていただけで、他には観るものはありませんでした。
 
※天守閣跡碑
07 天守閣跡
 ※静岡県庁・正面玄関
08 静岡県庁正面玄関
【帰路】
到着地付近は、横断歩道がなく地下道で繋がっており、静岡駅までも地下道を歩いて行きましたが、初めての道で次回の出発地点になるため、曲がり角などをメモしました。
また、新幹線の改札を一度通ったのですが、乗ろうと考えている列車の時刻まで約20分あるので、改札口に戻り自由席から指定席への変更可否を確認すると出来るとのことなので、みどりの窓口で差額を支払って指定席に変更してもらいました。
そして、新幹線ホームのベンチでザックの荷物を整え、残っていたたまご餅を食べ少しの間、ゆっくりと寛ぎました。
13時37分、静岡駅発
30-① 静岡駅ホーム
新幹線は70%ぐらいの乗車率で、さほど混雑している感じはしませんでした。
31 新幹線・車内
下車駅の新横浜まで45分と短い時間でしたが、少し寝ることができました。
新横浜で降り、横浜線に乗り換え
最寄り駅に戻り、途中のスーパーに立ち寄って夕食の食材を買って帰りました。
【次回の予定】
《次回に向けて》
〔Yumiさんの靴〕
Yumiさんは、トレッキングシューズで歩きましたが、平坦な舗装路の歩き旅だったため、足のくるぶし辺りが擦れてしまい旅の途中で2回手当てをしました。
また、靴下を二重履きしたのですが、前回水膨れした反対側の足裏の皮が剥けてしまいました。
そのため、靴はウォーキングシューズ、靴下は厚手のものを一枚にしようと思います。
〔史跡〕

HPで史跡の場所を確認して地図に書き込んでいるのですが、場所が違っていたりするので、自治体から頂いた資料をもっと活用しようと思います。
特に、史跡を探すのはYumiさんが当てにならないので、私一人で行わなければなりません。
地図に書き込んだ手前から左右をキョロキョロするのですが、見付けられないことが多々あります。
そのため、道路のどちら側にあるのか、どの辺りにあるのかは、史跡に出会う重要な情報なので、きちんと調べようと思います。
《次回の旅》
次回の旅は、年明けの平成25(2013)年1月12日㊏に第12回の旅で「静岡駅・江川町交差点~藤枝・岡部支所前交差点」までの13.97㎞を旅します。
この旅では安倍川餅老舗の石部屋、安倍川橋の渡り、鞠子でとろろ汁の老舗の丁子屋、宇津ノ谷峠手前の御羽織屋(陣羽織や十団子)など、時代を味わえる場所が沢山あるので、老舗で食べたり、景色を眺めたり、史跡を見学できるので楽しみです。
また、旅は到着地近くの民宿旅館に宿泊し、翌1月13日㊐も「藤枝・岡部支所前交差点~島田・本通り2丁目交差点」を一泊二日で歩く予定です。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ・風強し
【宿場】(19)府中宿⇒(20)丸子宿⇒(21)岡部宿
【行程】歩行距離=13.97㎞ 総距離=195.00㎞

静岡・江川町交差点⇒(1.68㎞)⇒043府中一里塚⇒(3.78㎞)⇒044鞠子一里塚⇒(3.015㎞)⇒
045宇津ノ谷一里塚⇒(3.895㎞)⇒046岡部一里塚⇒(1.60㎞)⇒岡部支所前交差点
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第12回旅の宿場)

12 12回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体ルート(第12回)
 第12回の旅のルート
 (静岡・江川町交差点⇒岡部支所前交差点)
第12回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月12日
  〔※②〕=平成26(2014)年 9月13日
【旧東海道の旅】

《移動》
04時30分、起床

身支度を整え、ザックの荷物を再確認の上、
朝食、トイレなどを済ませて家を出発し、まだ氷点下の厳しい寒さの中、自転車で最寄り駅に行き、電車を乗り継いで東京駅に移動しました。
07時22分、東京駅着
01 東京駅新幹線ホーム
東京駅は大勢の人が行き交っていて、さすが東京駅だなと思いながら人とぶつからないように歩き、新幹線の改札口に行きました。
ところが新幹線の改札に切符をいれると「ピンポーン」と警告音が鳴り、駅員が切符を見て「東海道新幹線は向こうです」と注意されてしまいました。
東北新幹線はJR東日本、東海道新幹線はJR東海と別れているのですが、田舎から出てきた者にはどの改札も同じだろうと切符を投入した時は思っていました。
「不便だな」と不便さを感じながら東海道新幹線の改札を通ってホームに行きました。
ホームに着いた時は発車の30分以上前と早かったため、自由席(1~5号車)の乗り口に並んでいたのは数人だけでしたので、Yumiさんを連れてトイレに行きました。
発車10分くらい前に乗車するひかり号が入線してきましたが、乗車前に並んだのは15人程度だけだったので、時期によって差はあるのでしょうが、最寄り駅で乗る電車の時間をもう少し遅くらせても大丈夫のようです。
今日はひかり自由席の乗車状況が分からなかったので、少し早くに家を出発していました。
また、車内でYumiさんと交互に写真を撮っていると、通路反対側の方が「シャッター押しましょう」と云って二人の写真を撮って下さいました。
 ※新幹線車内
03 新幹線車内
08時03分、東京駅発
乗車した車両の乗車率は60%くらいで、停車した品川駅と新横浜駅で乗車してきて90%くらいの乗車率になりました。
今日は天気が良いので、車窓から富士山が眺められるかなと期待感をもって乗っていると、期待どおり小田原に近づくと富士山が大きく見えるようになり、三島~新富士の間はさらに大きく眺めることができました。
 ※新幹線車窓からの富士山
06 車窓からの富士山
急いでカメラを用意してャッターを押しましたが、新幹線のスピードが速く、電線や建物等々が入ってしまうなど、思うような写真が撮れませんでした。
また、実際に見えた富士山はもっと大きかったのですが、写真になると小さくなっていて残念です。
09時06分、静岡駅着
東京駅を発車して約1時間、下車駅の静岡駅に到着しました。
ここから出発地の江川町交差点に移動するのですが、地下街から地下通路を通って行きます。
前回の帰りに道案内を記しておいたのですが不安になり、途中で道を尋ねると斜め左の方に行ってしまうところだったので、教えて頂いて助かりました。
地下通路から地上の御幸通りに出てそのまま直進し、今日の出発地である江川町交差点に着きました。
【=旅=】

09時16分、江川町交差点(出発地)
07 静岡・江川町交差点(出発式)
交差点付近は、店舗がまだ開店時間前だったため、人通りはほとんどありません。
江川町交差点でいつものとおりYumiさんに看板を掲げてもらい出発式を行い、出発しました。
江川町交差点を出発し約170m歩いた呉服町交差点を右折した時、静岡駅でトイレに立ち寄らなかったことを思い出し、交差点から160m先の左側にコンビニ(セブンイレブン)があり、Yumiさんを連れて店内に入りトイレをお借りしました。
トイレに入ってスッキリした気分となって約140m歩くと、伊勢丹がありその角に札の辻跡碑が建っていました。
09時27分、府中宿・札の辻碑(左側)
09 府中宿・札の辻跡
伊勢丹を右に見て左折し、七間町通りを進む頃になると温かくなってきたので、Yumiさんはアウタージャケット、私はフリースを脱いで衣服調整しましたが、Yumiさんからは特に不満の声は出ませんでした。
静岡市内の旧街道は、伊勢丹の角から約450m先の、昭和通りの七間町交差点を過ぎてから2つ目の十字路(クチーナの前)を右折し、約210m先の新通りを左折(左角・疋野商店)して安倍川方向にジクザクして歩きます。
これは、駿府城を守る防御のためにクランク形に作ったのでしょう。
新通りを安倍川橋に約500m歩くと本通り「本通八丁目交差点」に出る十字路があり、ここを右折して旧東海道から一時離れ本通りの「本通り八丁目交差点」を渡り、渡ったところを左方向(安倍川橋方向)に約50m歩くと、左側に日本橋から43番目の一里塚跡に標板が建っていました。
09時45分、043府中一里塚跡(左側)
10 府中一里塚跡(043)
跡碑は、道路に面しているため、「一里塚」を写真に入れるために、車が通る間隙をぬって車道に出てシャッターを切りました。
碑面が歩道向きになっていれば、危険を冒して車の間隙をぬいながら写真を撮らなくてもよいので、自治体には考えてほしいと思います。
私とYumiさんは、一里塚碑の処を直進して「本通九丁目交差点」を旧東海道に向かって左に渡り新通りに戻りました。
本通り九丁目交差点から新通りに戻った十字路から約500m歩くと、弥勒交番があり交番の横に安倍川の川会所跡碑と安倍川架橋の碑があり、交番先先隣りの弥勒公園の中に由比正雪の墓碑、明治天皇小休止跡碑が建っていました。
09時54分、川会所跡(右側)
12 川会所跡(安倍川)
  安倍川架橋の碑(右側)
13 安倍川架橋の碑
09時57分、由比正雪の墓(右側)
14 由比正雪の墓
  明治天皇小休止跡(右側)
16 明治天皇小休所跡
この弥勒公園で、女性4人組の街道ウォーカに出会いましたが、お互いに顔を見合わせただけで特に言葉を交わすことなくそれぞれの動きを続けましたが、考えて動くことは同じで、石部屋でまた一緒になりました。
09時59分~10時09分、休憩(石部屋)=左側・・・写真右は※①に撮影

17 石部屋113 石部屋
弥勒公園の左斜め前に、安倍川もちの元祖である石部屋があり、開店したところで今日の一番客になり、先ほど出会った女性4人組も続いて入ってきました。
店に入ったところで女性4人組の話しを聞くと、3人は東京からこだまで来たようで、今日は岡部まで歩いて東京に帰るとのことでした。
石部屋には、安倍川もち(あんこ・きなこ各5個=@600円)とからみもち(わさび醤油で食べる=@600円)がありましたが、Yumiさんと二人なので、安倍川もちだけにしました。
人数が3~4人以上いたら両方を注文して、食することができると思います。
私とYumiさんは、安倍川もち1皿を注文し、昔の人もこのようにして食べたのかなと思いながら、老舗のもちを味わいました。
  ※安倍川餅
19 安倍川もち(一つ食べました)
※①=安倍川餅(右)・からみ餅(左)
114 安倍川餅とからみ餅
からみ餅はわさび醤油を付けて食べるのですが、Yumiさんは2つぐらい食べたらいらないと云い出し、私がほとんど一人で食べました。
石部屋を出ると、直ぐ左脇に安倍川義夫の碑が建っていました。
※①=安倍川の義夫の碑(左側)
115 安倍川の義夫の碑
安倍川の義夫の碑は、安部川に橋がなく、川を渡るには人夫を雇うのが一般的であった1738年(天文3年)、江戸へ出稼ぎに出ていた漁夫が紀州(現和歌山県)へ戻る途中、自力で安部川を渡った際に仲間と稼いだ150両の大金を落としてしまいました。 たまたま居合わせた人夫が財布を拾い、漁夫を追いかけ、財布を届けてくれたので、お礼を漁夫が人夫に渡そうとしても頑なに受け取りません。 困った漁夫が奉行所から渡してもらうよう取り計らっても受けとらない。 とうとう奉行所は漁夫にお礼を戻し、人夫に報奨金を渡したそうです。
この美談を後世に伝えようと 昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志によって碑が建てられたと記されていました。
そして義夫碑から約70m歩くと、全長490mの安倍川橋が架かっていました。
10時11分、安倍川橋
21 安倍川橋(東側)
歩・車が分離した舗道を歩きながら川の上流方向、下流方向を、キョロキョロと眺めて歩き、天気が良いので橋を渡った所で後ろを振り返ってみると、美しい富士山を眺望することができました。
  ※安倍川橋西交差点の左脇からの富士山(白丸)
23 富士山の眺望(安倍川橋西側)
旧街道は県道を安倍川橋西交差点を真っ直ぐ進み、ここから約1.1㎞歩くと手越原交差点があり、ここで1号線に合流しますが、約240m先の佐渡交差点でまた1号線から分岐して左に進み、交差点から約70m歩くと右側に佐渡地蔵堂が建っていました。
10時36分、佐渡地蔵堂(右側)
25 佐渡地蔵堂
地蔵堂の直ぐ隣りに無人販売所があり安価だったのですが、荷物になるので眺めるだけで通り過ぎました。
  ※無人販売所(全品100円です)
27 無人販売所
地蔵堂から約400m歩くと丸子交番のある交差点があり、右側の丸子交番に沿って(道路の反対側の左側は静岡銀行)歩き、静岡丸子郵便局、そして道路反対側の左側の長田西小学校を通り過ぎた先の信号を真っ直ぐ渡った先の右側に道標が建っていました。
10時50分、丸子宿道標(右側)
28 丸子宿道標
そして、そこから約60m先の右側の道路沿いに、日本橋から44番目の一里塚跡があり、石碑が建っていました。
10時52分、044丸子一里塚跡(右側)

29 丸子一里塚(044)
一里塚跡碑は、交通量の多い狭い道路の道路沿いに建っているため、一里塚跡碑の写真を撮るのは危険な場所でした。
そして、一里塚跡から約200m歩いた右側の丸子幼稚園と元丸子簡易郵便局の間に、丸子宿・江戸方見付跡に碑が建っていました。
10時56分、東見付跡(右側)
32 丸子宿江戸方見付跡
見付跡から約240m歩くと、左側に歴史を感じる「しらい酒店」がありました。
11時03分、しらい酒店(左側)
34 しらい酒店
しらい酒店は立ち寄らなかったので、店の内部などのことは分かりませんが、外観は年代を感じさせるものがありました。
このしらい酒店を過ぎると、丸子宿の中心部となり、約200m先の左側に脇本陣跡
11時06分、脇本陣跡(左側)
35 丸子宿・脇本陣跡(進行左)
脇本陣の直ぐ先の右側に、問屋場跡と丸子宿・本陣跡があり、
11時07分、問屋場跡(右側)

36 丸子宿・問屋場跡
11時08分、丸子宿・本陣跡(右側)

37 丸子宿・本陣跡
本陣跡からさらに約100m歩くと、右側に丸子宿・脇本陣跡と明治天皇小休止跡があり、
11時10分、脇本陣跡・明治天皇小休止跡(右側)

39 丸子宿・脇本陣(進行右)
脇本陣跡の道路を渡った反対側に鞠児学校跡
11時11分、鞠児学校跡(左側)

41 鞠児学校跡(明治)
そして、学校跡から道路を反対側に戻ったところにお七里役所跡の跡碑と、連続して跡碑が建っていました。
11時12分、お七里役所跡(右側)

40 お七里役所跡
お七里役所跡を過ぎ、右にカーブした先の右側に、芭蕉句碑と十返舎一九の東海道膝栗毛碑が並ぶように建っていました。
11時14分、芭蕉句碑(右側)

42 芭蕉の句碑
11時14分、十返舎一九 膝栗毛碑(右側)
43 十返舎一九の碑
2つの碑の隣に、とろろ汁で有名な丁子屋がありました。
《昼食》
11時14分、丁子屋着(右側)
44 丁子屋
障子戸を開けて中に入り、店の人に奥の座敷間を案内されましたが、靴を脱ぎたくなかったので、入口脇のテーブル席にしてもらいました。
食事を注文し、配膳を待つ間にYumiさんをトイレに連れて行きながら、その帰りに店内に展示されている400年の歴史を物語る品々を見て回りました。
そして、席に戻ると、注文したとろろ汁(丸子定食)が並べられていました。
  ※丸子定食
46 丸子定食
Yumiさんはとろろ汁が好物ですが、私は生タマゴととろろが大の苦手なのです。
そのため丁子屋に来るまでどうしようか考えていたのですが、ここに来る人はとろろ汁を食べに来るので、私も食べてみることにしました。
麦入りのご飯にとろろ汁をかけて食べてみると、思いのほか食べ易く、味も良く、残さずに全部食べてしまい、美味しいものを食べると、自分の食わず嫌いが恥ずかしくなります。
勿論、Yumiさんも残さずに全部食べました。
11時44分、丁子屋発
店を出ると、道路を渡った右側に丸子川の碑があり、丸子川に架かる丸子橋を渡った右側に、京方見付跡碑と高札場跡碑が建っていました。
11時45分、丸子川の碑(右側)
48 丸子川の碑
11時46分、京方見付跡・高札場跡(右側)
49 丸子宿・京方見付跡・高札場跡
丁子屋に着く前から風は吹いていたのですが、店を出る頃からは一段と強くなり帽子が飛びそうなので、耳当ての部分を出して飛ばないようにして約1㎞歩くと国道1号に合流し(赤目ケ谷交差点)、交差点の手前に188㎞の距離標識が建っていました。
12時00分、188㎞ポイント(左側)
51 188㎞ポイント
この距離表示は、日本橋からの国道1号線の距離ではなく、旧東海道の距離なのです。
交差点から旧街道は標識の先を左に入り約250m歩いた左側に、日本紅茶発祥の地(丸子紅茶)の看板が、水車の脇に掲げられていました。
12時04分、日本紅茶発祥の地(左側)

53 日本紅茶発祥の地案内
日本紅茶の発祥の地を聞いて、答えられる人は何人いるかな?
一つ知識を得ることができました。

54 丸子紅茶
旧街道は国道1号と並行し、約450m先の右側にレストラン東海道が両方の街道の間にあることが地図に記されていましたが、倒産したのか建物はありませんでした。
そして取り壊された建物付近から約50m歩くと、岡部町に残る「三本の名残りの松」のうちの一本が立っていました。
12時11分、名残りの松(左側)
56 名残りの松
  ※名残りの松・解説
55 名残りの松碑
名残りの松の先に「あかめがやおはやしほどうきょう」があり、この先の歩く方向を考えこの歩道橋で1号線の反対側(進行右側)に渡りました。
歩道橋を渡ったところで名残りの松の方を見ると、父親と男の子の2人が歩いているのが見えましたが、親子連れは歩道橋を渡らずにそのまま真っ直ぐ歩き、宇津ノ谷歩道橋を渡ってきました。
私とYumiさんは歩道橋を渡ったところで国道1号と別れて川沿いの側道を歩いていると、Yumiさんが寒いというので脱いでいたアウタージャケットをザックから出して着せて、約300m歩くとまた国道1号に合流し、そこから約800m歩くと宇津ノ谷歩道橋があり、先ほどの親子連れが渡ってきました。
〔045宇津ノ谷一里塚〕=跡碑確認できず
宇津ノ谷歩道橋の辺りが「045宇津ノ谷一里塚」のあった場所と史跡の資料に書かれていたので、
 E=一里塚碑はありませんでしたか?
 男=何もなかったですよ
と、一里塚跡は確認できませんでした。
宇津ノ谷歩道橋から約300m歩くと、「道の駅・宇津ノ谷峠」がありましたが、親子連れは立ち寄らずにそのまま先に行き、私とYumiさんはこの先の道の駅でトイレ休憩を取ることにしました。
この親子とは、この先で出会うことはありませんでした。
12時36分~12時39分、休憩(上り線道の駅宇津ノ谷峠)
※①=道の駅「宇津ノ谷峠」(左側)

116 道の駅・宇津ノ谷峠116-2 道の駅・案内板
街道はこの先で右折して上り坂を道なりに進むと、道が分岐する江戸・大正の分岐点に着き案内板が建っていました。
12時46分、江戸・大正の道分岐(右側)
58 江戸・大正の分岐
私達は、集落を通って宇津ノ谷峠の登山道に入り、出世街道から坂下地蔵堂に出る道を旅します。
また、風が強いため、この分岐のところで帽子の止め具を取り付けました。
この集落には、豊臣秀吉から羽織を贈られたことから名付けられた御羽織屋があり、この地方の名産品である「十団子」が売られているというので、立ち寄りました。
御羽織屋の前で写真を撮っていると、一人旅の男性が「写真を撮りましょう」と声を掛けて下さったので、お願いしました(この後、私がこの方を撮ってあげました)。
12時50分、御羽織屋(右側)
60 御羽織屋
一人旅の男性と別れ店内に入り十団子を買うと、応対したおばあさんが、お土産にみかんを2つ下さいました。
豊臣秀吉から贈られた羽織や、徳川家康から拝領した茶碗を見せてもらおうかと思いましたが、この先の宇津ノ谷峠道の方が気になり、また改めて見に来ようと思い云わずに店を後にしました。
※H26.09.12 再訪=御羽織屋(右側)
118 御羽織屋・入口
歩き旅と違う入口から奥に入ると戸が閉まっていたので「見れないのかな」と思っていると、家の中に人がいる気配がしたので閉まっている戸を開けると、説明するおばあさんが座っていました。
「入ってもいいですか?」と聞くと、「どうぞ」と云われ、靴を脱いで座敷に上がり、入場料の@200円を置いてある箱に入れ、「陣羽織」にまつわる伝記や陣羽織を修繕した話しを聞かせて下さいました。
ひと通り話しを聞き、おばあさんの了承を頂いて写真を撮らせてもらいました。
  解説のおばあさん
119 説明するおばあさん
※①=(写真左)羽柴秀吉陣羽織、(写真左)家康拝領の茶碗:台左・15代慶喜拝領の茶碗:台右
120-2 秀吉拝領の陣羽織120 展示品120-3 徳川家康拝領の器
集落の道は、私とYumiさん、それと一人旅の男性の三人だけしかおらず、シーンと静まりかえっていました。
  宇津ノ谷集落の通り
62 宇津ノ谷集落(後方・丸子川橋)
御羽織屋を出て峠に向かう道は、階段状の上り坂になっており、最初の分岐を左に上ると道標が建っており、道標に明治のトンネルまで300mと比較的近かったので、見に行くことにしT字路を左方向に上りました。
121 宇津ノ谷峠への登り階段122 分岐
12時58分、明治トンネル入口(この時はトンネルの入口で戻りました)

63 明治のトンネル入口

明治トンネルの中は、灯りが付いて明るくなっており、出口も見えました。
この道を通れば峠を通らずに早く、そして楽に岡部宿に行けるのですが、それは旅の目的ではないので、先ほどのT字路の道標の処に戻りました。
《明治のトンネル》
御羽織屋のおばあさんに明治のトンネルを見学してくる間の駐車(御羽織屋の隣りの駐車場)の了解を頂き、御羽織屋から5~6分の明治のトンネルに行きました。
 ※①=明治のトンネル入口(丸子宿側)
123 明治トンネル入口
 ※①=トンネルの内部
125 トンネル内⑤
 ※①=トンネルの出口(岡部宿側)
124 トンネル出口側
13時01分、宇津ノ谷峠登り口(左側)
65 宇津ノ谷峠登り口
  宇津ノ谷峠の登り道
67 峠道
峠道は竹が茂った坂道ですが、約200m進むと先ほど見に行った明治トンネルや、宇津ノ谷集落を眼下に見下ろす展望台に出ました。
13時05分、宇津ノ谷峠展望台
69 展望台
碑の後ろは崖になっており、Yumiさんに「これ以上行ったら落ちます」と怒られながら写真を撮りました。
 明治のトンネル入口付近(峠道からの眺め
70 明治のトンネル入口の眺め
坂道はさらに続き、峠の地蔵堂跡の石垣を右に見ながらさらに登って宇津ノ谷峠に着きました。
13時11分、峠の地蔵堂跡の石垣(右側)
71 峠の地蔵堂跡
峠を越すと、反対側から登ってきた4~5人の人と交差しながら滑らないように下っていくと、舗装路に出ました。
後で分かったものですが、この舗装路は明治のトンネルに繋がっている道でした。
《道を間違える》
しかし、この時は間違えることがないようなところで、何を考えたのか舗装路に出た処をそのまま真っ直ぐに下らずに、右に入れる狭い道をみかん畑の方に下ってしまいました。
道を少し下ると、道が無くなり急斜面になったので、間違えたと思いYumiさんを助けしながら元の道に戻りましたが、バカみたいなことをしてしまいました。
元の道に戻ると道の案内図があり、舗装路をそのまま下って行けば良かったので、良く確認すればと反省しました。
舗装路を下って行くと、左に砂利の小道のある分岐があり砂利道の方に行くと、髭題目碑を見ながらさらに下ると、つたの細道との合流点に着きました。
13時27分、髭題目碑の下(左側)
73 髭題目碑(後方)
  宇津ノ谷峠の下り
75 宇津ノ谷峠の下り
13時31分、旧東海道・つたの細道合流点

76 道標(左=旧街道・右=つたの細道)
矢印の道が旧東海道で、矢印の方向に下り、つたの細道は写真右下の道。
旧東海道とつたの細道の合流点から約60m歩くと右側に、坂下地蔵堂がありました。
13時32分、坂下地蔵堂(右側)

78 坂下地蔵堂
地蔵堂を過ぎて旧街道を進むと、静岡方面の標識に沿って国道1号の下を潜って道路の右側を歩くと、上り線の道の駅があり、休憩することにしました。
13時38分~13時48分、休憩(上り線の道の駅宇津ノ谷峠岡部)=右側
79 道の駅・宇津ノ谷峠
 ※①=道の駅・宇津ノ谷峠(右側)
116 道の駅・宇津ノ谷峠116-2 道の駅・案内板
道の駅には食事ができる場所があり、峠を越えてきた疲れを癒すため、水分補給と御羽織屋で買った十団子で英気を養うことにしました。
旧街道は、道の駅がある廻沢口交差点で、国道1号を右折して県道208号を進み岡部宿に向かいますが、強い風が依然として吹いていたので、Yumiさんの健康を考えマスクを付けてもらいました。
廻沢口交差点から約1.3㎞歩くと、左側に「東海道岡部宿案内板」が建っており、この辺りが一里塚があったと云われてる場所というので、記録に残しました。
14時08分、046岡部一里塚跡(左側)
80 岡部一里塚(碑はない)
岡部宿案内板(一里塚)から約50m歩くと、右側の階段を上ったところに十国坂観音堂がありましたが、立ち寄らずに通り過ぎました。
十国坂観音堂から約100m歩いた右側の道路沿いに、「枡形跡」の石碑が建っていました。
14時11分、枡形跡(右側)
82 枡形跡
枡形跡碑から約260m歩くと左側に那須野商店があり、ここで県道と分岐して右折し、約100m先の三叉路を左折、そして約100m先で再び県道に合流し、県道を渡って約50m歩いたところに史跡の旅籠がありました。
14時20分、大旅籠柏屋着(左側)
84 岡部宿大旅籠・柏屋
この旅に出る前に藤枝市に連絡し、入館割引券(20%引き)を頂いたので、使わせて頂きました。
旅籠の中は土間から見るのは見学無料なのですが、時間の余裕があったので、靴を脱いで施設の案内をして頂きました。
85 旅人気分
江戸時代に実際に使われた展示品は、昔の生活を偲ばせるものばかりで、大切に保存してほしいと思いました。
86 大広間
また、敷地内では踊りなどの催し物が行われていましたが、無料の甘酒だけ頂いて少し観させて頂きました。
14時40分、大旅籠柏屋発
大旅籠柏屋を出ると直ぐ隣りに岡部宿・内野本陣跡がありましたが、工事中で碑も建っておらず、ガードフェンスに本陣跡の看板が架かっているだけでした。
14時45分、内野本陣跡(左側)
88 岡部宿・内野本陣跡(工事中)
本陣跡地に併設されている岡部宿公園でトイレと水分補給を済まし、約170m歩くと左側に火の見やぐらが建っている消防団の車庫前を左折しました。
012 旧東海道
そして分岐から約60m歩くと、小野小町が自分の姿を映したと云われる橋がありました。
14時49分、小野小町姿見の橋
89 姿見の橋
姿見の橋から約120m歩くと右側に弘法大師堂が建っており、お堂の脇に高札場跡碑が建っていました。
※②=弘法大師堂(右側)
010 弘法大師堂
※②=高札場跡(右側)
007 高札場跡
弘法大師堂を過ぎると旧街道は県道208号に合流しそうになるのですが、県道に出ないで左に進むと左側に白壁に黒塗りの格子戸の立派な家が建っていました。
※②=ゴン中山さんの実家(左側)
この辺りでは異様に感じる建物があり写真に収めてから表札を見みると「中山儀助」。
ひょっとしたらと確認したらサッカーで有名なゴン・中山雅史さんの実家でした。
005 ゴン中山の実家
実家の脇には、ゴンプロジェクトと記された「ゴン企画」(白丸印)の建物が建っていました。
006 ゴン企画(有)事務所
そのまま歩くと、右側に三輪医院の駐車場、小林製畳店の真向いに、問屋場跡碑が建っていました。
15時01分、問屋場跡(左側)
91 問屋場跡
※②=ミニギャラリー(右側)
問屋場跡碑の斜め前の右側に、ミニギャラリーと記された屋台が設置されていました。
013 ミニギヤラリー
ミニギヤラリーから約250m歩いた今日の到着地である岡部支所前交差点に出る手前左側に、枡形跡の石碑が建っていました。
15時06分、枡形跡(左側)
93 枡形跡
旧街道の岡部の街並みを見ながら歩いてきましたが、枡形跡の直ぐ先で突き当りとなり右折したところに、岡部支所前の交差点があり、今日の旅の到着地に着きました。
※②=岡部支所前交差点手前分岐(右折➡左折の枡形)

014 旧東海道道案内
15時07分、岡部支所前交差点着(到着地)
96 右の車の道が旧街道
交差点の角でYumiさんに到着地を記した看板を掲げてもらい今日の到着式を行い、宿泊する場所に向かいました。
【宿泊】
《予約までの経緯》
当初は到着地からバスで藤枝まで行ってビジネスホテルに泊まる予定にして予約したのですが、FAXにYumiさんの状態を記して送信すると予約OKの回答があり、ビジネスホテルを解約して民宿に泊まることにしました。
ビジネスホテル以外のところに泊まるのは2年振りで、この2年間におけるYumiさんの認知症の進行状況を考えると、不安をかかえながらでの宿泊となりました。
15時12分、民宿着
民宿は普通の一軒屋で看板もなければ案内もなく、外からは分かりません。
駐車場の奥と聞いていたので、奥にある建物に行くと女将さんとバッタリと出会い、名前を告げるとニッコリと笑い「どうぞ」と案内して下さいました。
案内された部屋は16畳ほどの広さがあり、今日は私達だけの宿泊とのこと。
予約する時にYumiさんが要介護2の認知症ということを通知しておいた方が良いだろうと考えて知らせたので、女将さんが他の人を泊めない方が良いと判断したようで、申し訳ないことをしたとお詫びしました。
《入浴》

さて、民宿に着き、まずトイレの場所を教え、部屋でユカタに着替えていると、風呂の案内があり汗を流しに行きました。
風呂の大きさは我が家の風呂と同じ位の大きさで、浴槽に二人で入るのは無理そうなため、一人ずつ交代で入りますが、Yumiさんは一人では入浴できないため、
 ①.先に浴槽に入れ、その間に私が洗う
 ②.Yumiさんが出たら洗い布にシャンプーを付けて渡し、Yumiさんが洗っている間に私が浴槽に入る
 ③.Yumiさんの体のシャンプーを流す
 ④.Yumiさんの洗髪をする
 ⑤.Yumiさんを浴槽に入れ、その間に私の洗髪を行う
 ⑥.体は自分で拭きますが、どの順番で着たらよいのか分からないので、着る物を順番に渡す
の介助をして入浴を終えました。
なお、髪用のシャンフーとコンディショナーが切れていたので、ボディーシャンプーで洗髪をしました。
今日の汗を流し、部屋でホットカーペットに横になってテレビを見ていると、女将さんから夕食の案内があり食堂に行きました。
《夕食》 17時40分~19時30分
食堂に行って女将さんにビールを注文し、Yumiさんと乾杯。
食堂はリビングで食事しているのと同じで、配膳された料理をYumiさんもニコニコしながら食べ始めました。
特に、女将さんが作った野菜スープは抜群の味で、Yumiさんも美味しいを連発しながら食べていました。
私は野菜スープを食べる時、もう一度温めてもらえば良かったと後悔しました。
また、途中から女将さんも会話に加わり、楽しい時間を過ごすことができました。
《贈り物》
私がリビングに飾ってある切り絵を見ていると、
 女将=気に入ったものがありますか?
 E=Yumiさん、気に入ったものある?
 Y=水仙がいい
 女将=差し上げますので家に飾って下さい
 E=(辞退したのですが)家のリビングに飾らせて頂きます
 女将=明日、持ち帰れるようにして上げます
 E=ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます
と、考えてもいなかった贈り物を頂くことになり、長居した食事を終え部屋に戻りました。
《夜のトイレ》
部屋に戻り、Yumiさんの目薬の点眼と血圧測定を行い、トイレに行く時は起こすように話して、21時に床に着きました。
Yumiさんは、明け方になると必ずトイレに行くのですが、新しい所は行き方が分からなかったり、戻って来れなかったりするので、私を起こすように話したのですが、最初は私を起すことなく一人で行って戻ってきたようです。
一人で行けたんだと思っていると、次は一人では行けません。
二度目は私が後から付いていくと、トイレではなくリビングの方に行こうとするので行き方を教え、戻る時も部屋と反対の風呂の方に行こうとするので、声を掛けて部屋に連れ帰りました。
三度目も、ほぼ二度目と同じ状況と、私もゆっくり寝ていられません。
トイレに行く道順は、
 ①.部屋のふすまを開けると廊下で、左に2m歩き
 ②. 左折
 ③.2m先に横引き扉
 ④.2~3歩先に横引き扉 ⇒ トイレ
とすぐ近くなのですが、Yumiさんには遠い所なのか、行き方が覚えられないのです。
今回の経験で、ビジネスホテル以外は、宿泊できないことが分かりました。
また、女将さんの気配りには感謝のひと言です。
【次回の予定】
次回の第13回の旅は、1月13日㊐に「岡部支所前交差点~島田・本通り2丁目交差点」の15.69㎞を歩きます。
途中、著名な史跡はありませんが、チェックしてきた史跡は見落とさないように気を付けて旅をしたいと思います。
また、島田には旧東海道ではありませんが、ギネスに登録された木橋「蓬莱橋」があるので、行き方の下調べをする予定です。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れのち曇り
【宿場】(21)岡部宿⇒(22)藤枝宿⇒(23)島田宿
【行程】歩行距離=15.69㎞ 総距離=210.69㎞
岡部支所前交差点⇒(2.78㎞)⇒047鬼島一里塚⇒(3.971㎞)⇒048志太一里塚⇒(4.073㎞)⇒
049上青島一里塚⇒(4.062㎞)⇒050島田一里塚⇒(0.80㎞)⇒島田・本通り2丁目交差点
【ルート図】
 ↓宿場(黒囲みが第13回旅の宿場)

13 13回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体 第13回
 第13回の旅のルート
 (岡部支所前交差点⇒島田・本通り2丁目交差点)
第13回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  
〔※①〕=平成26(2014)年 9月13日
【旧東海道の旅】
《序章》
今日は民宿を出て数分先の出発地に移動し、島田・本通り2丁目交差点までの15.69㎞を旅します。
天気が良いので、気持ちの良い旅が出来そうです。
《準備》
5時30分、起床
トイレで起きた5時頃に暖房エアコンを点けたので、起きるころの寒さが少し和らいでいました。
Yumiさんを連れて洗面所に行き、Yumiさんの歯磨き(歯ブラシに歯磨き粉を付けて渡す)⇒洗顔⇒整髪(ドライヤーでYumiさんの整髪)を行い部屋に戻りました。
※Yumiさんが歯磨きをしている時に髭剃りを行い、洗顔の時に歯磨きと洗顔を行い、最後は一緒に終わるようにします。
朝の身だしなみを整え、旅に出掛ける支度を整え(下着と靴下以外は昨日と同じものを着ました)、私が布団をたたみ、Yumiさんが寝間着を片付け、ホットカーペットに座りTVを見て朝食を待ちました。
朝食は7時頃にお願いしていたので、7時少し前に食堂に行くと支度が整っており、久し振りに温かいご飯と味噌汁の朝食(我が家は基本的に朝食はパン食)を食べました。
美味しい食事なので、自然と食欲がそそられますが、お腹が大きく膨らむとこの後の旅が大変になるので、食べる量を自重しました。
お土産に切り絵を頂き、女将さんにお礼を云って民宿を後にしました。
7時55分、民宿発
【=旅=】

ホテルから今日の出発地に移動し、出発地の看板をYumiさんが掲げ、「ハイ、パチリ」と写真を撮って出発式を行い、「さあ、行くよ」と声を掛け出発しました。
08時00分、岡部支所前交差点(出発地)
06 岡部支所前交差点(出発地)
交差点を渡った左側に五智如来公園があるというので、まず最初に立ち寄りました。
08時01分、五智如来公園
08 五智如来公園と秋葉常夜燈

  ※①=五智如来像(右側)
127 五智如来像
公園の入口に冠木門があり、門を潜った正面に五智如来像(
ごちにょらいぞう)があり、向かって右から
 ●阿弥陀(あみだ)如来=慈悲と知恵の象徴、戌年と亥年の守護仏
 ●釈迦(しゃか)如来=真理のこの世の体現者である応身物(おうじんぶつ)
 ●大日(だいにち)如来=命の原点、密教の総帥、 未年と申年の守護仏
 ●阿閦(あしゅく)如来=誘惑に打ち勝ち、恨みを除く
 ●宝生(ほうしょう)如来=永遠の釈迦の働きを象徴
で、1705年に、駿河田中城城主の内藤豊前守弌信(ぶぜんのかみかずのぶ)の姫君の病(話しができない)が治り良縁に恵まれたお礼」として、家老の脇田次郎左衛門正明が寄進したものだそうです。
私とYumiさんは冠木門のところで、写真を撮って失礼しました。
快晴の冬の朝日を浴び、寒いと云うより爽やかな空気で気持ちの良い旅立ちとなり、五智如来公園から約400m歩くと、岡部宿の松並木がありました。
08時08分、岡部町松並木(右側)
10 岡部宿松並木
松並木は約450m続き、松並木を保存するために50㎝位のブロックで保護するなど、大切に保存していることが伝わってきました。
松並木を過ぎると藤枝バイパスの内谷新田交差点があり、交差点を渡って斜め右方向に進むと、渡った左角に領界碑が建っていました。
08時17分、従是西巌村領の碑(左側)
12 従是西厳村領内碑
領界碑から約400m歩くと、右に入る細い道の角に「横内陣屋跡入口」の標識と「川会所跡碑」が建っていました。
08時22分、川会所跡(朝比奈川)=右側

13 川会所跡(朝比奈川)
横内陣屋跡は、街道から少し入ったところにあるので見に行ったのですが、途中で気持ちが変わり割愛して元の旧街道に戻りました。
※①=横内陣屋跡(右側)
再訪した時、標柱に沿って奥まで行きましたが、一番奥に住んでいる方から「陣屋跡に関わるものは何もないよ。あるのは入口のところの柱だけだ」と云われ、「陣屋入口」の標柱を記録に残しました。
126 横内陣屋跡
そして直ぐ近くの川会所跡から約400m歩くと、岡部宿名残りの松の2本目が立っていましたが、写真は撮り損ねてしまい、併せて3本目の名残りの松も見落としてしまいました。
2本目の名残りの松があるという処の先に国道1号と交差する仮宿交差点があり、道路は渡れないため歩道橋を通って国道1号を横切ると、歩道橋を降りた右側に「田中藩領西傍示石」が建っていました。
08時34分、田中藩領西傍示石(右側)
14 従是西田中領傍示石
傍示石から約300mで国道1号に突き当たったところ(左側はシルエット自動車)に、日本橋から197㎞の距離標が建っていました。
08時35分、197㎞距離標(左側)
15 197㎞ポイント
 E=Yumiさん、200㎞だよ。よく歩いてきたね
 Y=私は好きで歩いているのではありません
   お父さんが歩くというので一緒に歩いているのです
 E=何を怒っているの?
 Y=歩くのは、好きじゃないんです
   お父さんが歩くから一緒に歩いているんです。
何が原因で怒っているのか「???」ですが、何か気に入らないことがあるのだろうと「そうですか」と云ってそのままにしておきました。
旧街道は、距離標の少し先の「八幡交差点」で国道1号に出ることなく、V字形に斜め左側に進み、約290m歩いた左側の民家(エムロードA)の前に、日本橋から47番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
08時43分、047鬼島一里塚跡(左側)
16 鬼島一里塚碑(047)
出発して約1時間歩いたら体も少し温かくなってきたので、「Yumiさん、温かくなってきたからマフラーを外そう」と話すと、何も云わずにマフラーを外しました。
八幡橋のたもとの古い小さい東海道の道標から約400m歩くと左側に鬼島の立場跡碑があり、さらに約180m歩いた右側に須賀神社がありました。
08時46分、立場跡碑(左側)

18 鬼島の建場
09時00分、大楠の木(須賀神社)=右側
20 大楠木(須賀神社境内)
神社は古い社が1つと狭い境内があるだけの小さい神社でしたが、狭い境内の片隅に大きな楠の木(県指定の天然記念物)がありました。
二人でお賽銭を上げ、Yumiさんの病気完治と今日の旅の無事を須賀神社の神様に御祈願しました。
旧街道のルートマップは、この先のホームセンターのところのでT字路となり、ここを右折して隣のしずてつストアに沿って直進するようになっていたのですが、造成されたりして少し変わっていました。
現在は、しずてつストアの前を通ってそのまま1号線水守交差点を渡って左に進み、静岡マツダに沿って右折し、20m位先を左折するようになっていました。
新ルートに沿って進むと、天理教の施設付近に木戸門跡があると資料に記されていましたが、領主番所跡の碑がありましたが、木戸門跡は確認できませんでした。
09時16分、領主番所跡(右側)
22 領主番所跡
領主番所跡の先あたりから藤枝の商店街となっていて、歩道に「市の木・松 市の鳥・うぐいす 市の花・ふじ」の絵柄入りタイルが埋め込まれていました。
09時23分、藤枝市のタイル(左側)=コヤマラジオの先
24 藤枝市のタイル
また、大手交差点を左折した付近に大手木戸口跡、問屋場跡があると、藤枝市から頂いた資料に記されていたので、史跡を探しましたが見付けることができませんでした。
旧街道に戻る前、気温の上昇と旅歩きで汗が出るくらいになってきたので、私はフリースを、Yumiさんはアウタージャケットを、それぞれ脱ぐことにしました。
Yumiさんは「脱ぐの」と少し不満そうでしたが、「寒くなったら、また着るから」と話し、納得してもらいました。
大手交差点を渡った所から約400m歩くと、右側に白子由来記の看板が左側に立て掛けられており、これを見ながら商店街を歩くと、右側の蓮生寺の入口に秋葉常夜燈とベンチがあったので、一服休憩(3分)しました。
09時35分、白子由来記碑(右側)
25 白子由来の碑(看板)
09時39分~09時42分、休憩(秋葉常夜燈:蓮生寺)=右側
26 秋葉常夜燈(蓮生寺入口)
その少し先に千歳交差点があり、その先の和菓子屋は「きんつば」が美味しいと聞いていましたが、今日は素通りすることにし、店の角を左に入った所の大慶寺に向かいました。
ここには、天然記念物の「久遠の松」があるのです。

09時51分、久遠の松(大慶寺)=左側

28 久遠の松(大慶寺)
寺院に通じる路地を進むと、正面に「久遠の松」がそびえており、威風堂々とした立派な松だなあと思いながら、写真に収めました。
街道に戻り、約140m歩くと左側に柴田医院があり、医院の道路反対側の歩道に「上本陣跡」のタイルが、約40m先の交番付近の歩道に「問屋場跡」のタイルが、それぞれ埋め込まれていました。
09時58分、藤枝宿・上本陣跡(右側)
31 藤枝宿・上本陣跡
本陣跡と問屋場跡の碑は、最初見付けられなかったので、近所の方に聞きました。
近所の方が「今、人のいる辺り」と教えて下さいましたので、云われた辺りを探しましたが、見付けられずにいると、教えた方が来られて、「これですよ」とタイルを指され教えて頂きました。
歩道は工事中で、工事用のガードフェンスの足場などが史跡のタイルの上にあったりして、見付けることが難しかったということもありましたが、タイルで史跡が表示されているとは考えなかったので、ビックリしました。
10時00分、問屋場跡(右側)
32 藤枝宿・問屋場跡
本陣跡のタイルを確認し、旅を続けると、約10分先の瀬戸川に架かる勝草橋を渡った直ぐ右側に、日本橋から48番目のフェンスに囲まれた一里塚跡がありました。
10時09分、048志田一里塚跡(右側)
33 志田一里塚跡(048)
一里塚跡碑の先に観光案内板が建っていて、一里塚の向かい側を約100m行ってところが田沼街道の終点と記されていたので、道標などがあるのかなと思い寄り道をしてみましたが、時間と労力を費やしただけで、何も見付けられませんでした。
この頃になって歩き旅に気を取られ、出発してからトイレに行っていないことに気が付きました。
しかし、この辺りにはコンビニもないので、そのままスーパーやコンビニを探しながら旅を続けていると、街道から少し外れたところにスーパー(パロー藤枝店)を見付け、立ち寄ることにしました。
スーパーのトイレを拝借し、二人ともスッキリしたところで、歩き旅をまた続けました。
旧街道に戻り、青木交差点を渡り(歩道橋がありましたが、左右を確認して横切らせて頂きました)、左側に小さい祠が祭られた津島神社あり、それを横に眺めながらスーパー西友を過ぎた先の交差点を渡った角に、さわやか住宅という会社があり、その脇にベンチがあったのでひと休みしました。
10時44分、休憩(さわやか住宅・ベンチ)

35 さわやか住宅㈱のベンチ
ベンチの処に立て看板があり、「しばしの休憩、店内のトイレ利用、飲み物も用意している」などと街道の旅人には嬉しいことが書かれていましたが、なんとなく店内には入りづらかったので、ベンチだけ使わせてもらいました。
旅をする人には有難い看板とベンチです。
有り難うございます。
私とYumiさんは、ザックを外し、持参したお菓子と飲み物で小腹と喉を潤しましたが、日蔭と北風で体が冷えてきてしまい、5分ほどの休憩で出発することにしました。
休憩を終え、ザックを背負って出発し、約160m歩くと左側に田中藩領傍示石、さらに約170m歩いた十字路の左角に六地蔵、そして約300m歩くと左側に追分の碑が建っており、それらを過ぎた前方に松並木が見えてきました。
10時52分、田中藩領傍示石蹟(左側)
37 田中藩領傍示石
10時57分、六地蔵(左側)
38 六地蔵
11時00分、追分の碑(左側)
39 藤枝宿・追分の碑
11時05分、瀬戸新屋の松並木

40 瀬戸新屋の松並木(歩いてきた方向に向けて)
道の両側で10本くらいと本数は少ないのですが、街道に松並木があると気持ちが和み、街道にピッタリの構図なので、これからも大切に保存してほしいと思います。
松並木をすぎると、右側の亀や濱中商店から約110m先の左側に「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」の案内看板が建っており、立ち寄りました。
11時09分、千貫堤・瀬戸染飯伝承館(左側)
41 千貫堤・瀬戸染飯伝承館
千貫堤は、田中藩が大井川の氾濫から村民を守るために江戸時代の初期に造った堤防で、当時のお金で千貫掛かったところから名付けられたと云われています。
また、瀬戸染飯は、くちなしの実で黄色に染めたおこわとのことだそうですが、伝承館で販売していないのは残念です。
伝承館なので、販売してほしいと思いましたが、人があまり来ないから売らないのかな、とも思いました。
伝承館は、質素な小さい建物の中に写真や道具が飾れており、記帳ノートがあったので二人の名前を記しましたが、今日の記帳は私達二人が最初でした。
また、スタンプがあったので、今日の到着地で掲げる用紙に祈念の押印をしました。
街道に戻り約30m進むと、右側の石野モータースの隣に茶屋跡の碑が建っていました。
11時17分、染飯茶屋跡碑(右側)
43 染飯茶屋跡
石野モータースから約270m歩くと、交差点を過ぎたバス停付近に田中藩領傍示石が建っていました。
11時23分、田中藩領傍示石蹟(左側)
44 田中藩領傍示石
そろそろお昼近くになり、
 Y=お腹が空いた
 E=食事ができる処がないかと探しているんだよ
 Y=ないね
ということで、少し我慢してもらい、旅を続けました。
田中藩領傍示石蹟から約850m歩くと瀬戸橋があり、橋を渡った左側に明治天皇小休息の碑が建っていました。
そして、その少し先に松並木があり「上青島松並木」と命名しました。
 ※上青島松並木(勝手に命名)
45 松並木
そして松並木が終わった先(瀬戸橋から約160m)の左側に、日本橋から49番目の一里塚跡があり、石柱が建っていました。
11時40分、049上青島一里塚跡(左側)

47 上青島一里塚(049)
跡碑の周りは、ガードレールと駐車場だけの閑散とした場所でした。
一里塚跡から約650m先で旧街道と1号線が合流(一里山交差点)するのですが、約50m手前に食事処の看板が建っていたので昼食に入ることにしました。

《昼食》
11時45分、そばお食事処「さんし」着

店舗は、ごく普通のお店で、いろいろなメニューが掲げられていました。
Yumiさんに食べたいものを聞くと、何でもいいと云うので、店主にお奨めはありますかと聞くと、ごはんが美味しいと云われていると云うので、天丼を注文しました。
天丼は、海老や野菜などの天ぷらが盛られ美味しかったです。
※食べる方に気が行ってしまい、写真を撮るのを忘れました。
天気は晴れて、さらに温度が上昇してきたので、店を出る前に、私はチョッキを脱ぎ、Yumiさんはフリースをチョッキに着替えました。
 E=ご馳走様でした。美味しかったです。
 店主=気を付けて
と声を掛けられ、「有り難うございます」と返事して店を後にしました。
12時22分、そばお食事処「さんし」発
街道は、昼食を食べた店から約50m歩くと1号線と合流する一里山交差点で、約350m先に藤枝市から島田市に入る市境標識柱が建っていました。
12時27分、市境標識柱(藤枝市から島田市)
49 島田市境標識
昨日から静岡市から藤枝市を歩き、そして日本橋から200㎞以上離れた島田市に来ました。
継続することは凄いことだなあと思いましたが、まだ先があるので、思いに浸る暇もなく歩き始めました。
歩き旅は、この先で右方向に進むため、1号線を車の往来を見ながら左から右に横切り、六合駅入口に通ずる交差点(市境標識柱から約600m)を斜め右に進みます。
そして、道悦島西交差点(六合駅入口交差点から約550m)でまた1号線と合流し、栃山橋東信号で進行左側に渡って約30m先の左側に、昭和天皇の碑が建っていました。
12時49分、昭和天皇御巡察之碑(左側)

50 昭和天皇御巡察碑
旧東海道を歩き旅をしてきた中で、明治天皇が小休息した場所の碑は数多く見てきましたが、昭和天皇に関する史跡(碑)を見るのは今回が初めてです。
街道は、栃山川に架かる栃山橋を渡り、御仮屋交差点を左方向に分岐して本通りを進みます。
旧街道を外れることなく旅を続けていると、北風が吹き始めYumiさんが寒いと云うので、チョッキを脱いでアウタージャケットを着ました。
 Y=(ピンク色のフリースを着ると思っていたようで)え、これを着るの?
 E=この方が風が入らなくて温かいよ
 Y=ふーん
と云って、そのまま黙って着ました。
御仮屋交差点から約950m歩くと本通り7丁目交差点があり、交差点から約170m先の右側(虎岩文具店の前)の街道沿いに、日本橋から50番目の一里塚跡があり、石柱が建っていました。
13時13分、050島田一里塚跡(右側)
52 島田一里塚(050)
この一里塚の碑も書かれている面が街道側に建っているので、車が通らなくなった間隙をぬって写真を撮りました。
危ない思いをしながら写真を撮り、約300m先の本通り5丁目交差点の手前左側に、二つの碑が並んで建っていました。
一つが刀匠島田顕彰之碑、もう一つが問屋場跡碑。
13時16分、刀匠島田顕彰之碑(左側)
54 刀匠島田顕彰碑
※島田宿問屋場跡(左側)
56 島田宿・問屋場跡
本通り5丁目交差点を渡り、約60m先の交差点手前の左側に、吉村鯛焼屋がありました。
13時20分、吉村鯛焼屋(左側)
58 吉村鯛焼屋
私は、ここで鯛焼きを買って、新幹線で食べようと考えていたので、途中でのお菓子の購入を控えていました。
店は新しいビルで、鯛焼き屋とは思えない店内に、5人くらい並んで焼き上がるのを待っていました。
Yumiさんは1つで良いと云うので、約10分待って3つ(@120円)買いました。
おやつに食べる鯛焼きが入った袋を持ちながら、次の史跡巡りに向かいました。
店の前の交差点を渡った反対側を左に進むと、遊歩道となっている「おび通り」があり、通りの入口にカラクリ時計台が建っていました。
13時32分、カラクリ時計台(右側)
61 カラクリ時計
時計台の下に、下本陣(置塩家)跡碑が建っていました。
13時32分、置塩家下本陣跡(右側)
59 島田宿・下本陣(置塩家)跡
下本陣跡から約40m先に、道路を渡った右角に天野屋呉服店があり、中本陣(大久保新右衛門家)跡碑が建っていました。
13時34分、大久保家中本陣跡(右側)

62 島田宿・中本陣(大久保家)跡
そして、約30m先のホテル三布袋の前に、上本陣(村松家)跡碑が建っていました。
13時36分、村松家上本陣跡(右側)

64 島田宿・上本陣()跡
上本陣跡から約100m歩くと、本通り2丁目交差点となり、今日の到着地に着きました。
到着地の交差点角で、到着の看板を掲げ、写真を撮って今日の旅を終了しました。
13時39分、島田・本通り2丁目交差点着(到着地)

66 島田・本通り2丁目交差点(到着地)
【帰路】
到着地の交差点から約320m歩くと、JR島田駅です。
13時45分、島田駅着
67 島田駅
駅舎やロータリーは新しくなっており、駅舎を背景に写真を撮って駅に向かいました。
また、世界一の木製架け橋である蓬莱橋は、温かくなる4月頃になったら見に行こうと思います。
13時54分、島田駅発(静岡駅着、14時20分)
静岡駅までの普通列車は3両編成で、藤枝駅まで乗っていた高校生が多く、座席はほぼ塞がっていました。
14時48分、静岡駅発(新幹線こだま)
列車に乗るまで時間があるので、ホームのベンチに座り、先ほど買った鯛焼きを食べました。
あんこがたくさん詰まっていて、食べた後も甘ったるさがなく、さすが人気の商品だなと思いました。
こだまの車内は空いていて、自由に選べる状態でした。
曇っていた空は晴れ渡り、車窓から富士山が綺麗に見えるのでシャッターを何回か押しましたが、新幹線が早く、思い通りの写真は撮れませんでした。
 
※車窓からの富士山
72 車窓からの富士山
15時40分、小田急・小田原駅発
15時36分に小田原駅に着き、新幹線から小田急線に乗り換えましたが、ホームに降りると快速急行が発車するところで、運良く乗ることでき、最寄り駅に帰ってきました。
【総括】
今回の旅は、二日間で29.7㎞と30㎞弱の短い歩き旅でしたが、Yumiが1日目に足裏が少し痛いと云っただけで、事故に遭うこともなく風は吹いていましたが、天気にも恵まれ無事に終わることができました。
Yumiさんは履いているウォーキングシューズが馴染んできたこともありますが、足の筋肉が丈夫になってきたこともあると思います。
この先、大きな高低差がない状態がしばらく続く見込みなので、問題なく歩けると思います。
《旅の思い残し》
正月に再度訪れた薩埵峠と由比宿の時と同じように、石部屋で食べた安倍川もちと食べられなかったからみ餅を買い、御羽織屋で見られなかった秀吉から拝領の御羽織、徳川家康から拝領の茶碗を見せて頂いて、十団子を買い、今度は写真をしっかりと残したいと思います。
【次回の予定】
次回は、2月9日~2月11日の三連休を利用して二泊三日で旅をしたいと考えています。
Yumiさんが認知症を発症してから蓼科の山荘を除いて、知らない旅館やホテルに2泊する旅行をしたことがないので、体力的にどうなのか、病気は大丈夫か不安なことは多々ありますが、決行することにしました。
そのため、旅だけでなく1日目の2月9日は金谷宿・金谷一里塚までにして、掛川でレンタサイクルを借り掛川城を見学したいと思います。
Yumiさんの病状は、少しづつ進行しているので良くはありませんが、旅を続けられる状態にあるので、街道で私達を見掛けましたら、声を掛けて下さい。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ
【宿場】(23)島田宿⇒(24)金谷宿
【行程】歩行距離=5.47㎞ 総距離=216.16㎞

島田・本通り2丁目交差点⇒(5.47㎞)⇒051金谷一里塚

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第14回旅の宿場)
09 14回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )
全体 第14回
 第14回の旅のルート
 
(島田駅本通り2丁目交差点⇒051金谷一里塚跡)
第14回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月13日

【旧東海道の旅】

《序章》
今回の旅は、3連休を利用して3日間歩くことにしました。
初日の今日は、大井川を渡って金谷までの約6㎞と少なくし、残りの時間は掛川に移動してレンタサイクルを借り、掛川城を観光することにしました。
Yumiさんが認知症を発症してからは蓼科の山荘を除いて、旅館やホテルに2泊する旅行をしたことがないので、体力的にどうなのか、病気は大丈夫かと不安なことが多々ありますが決行することにしました。
《準備》

今回は同じホテル(東横イン・掛川新幹線南口)に二泊するので、ホテルで1回洗濯することにして着替えの持ち物を少なくし、洗濯物を干す携帯用ハンガー(靴下と下着用)を持参し、残りはホテルのハンガーで対応することにしました。
また、2日目の金谷宿~小夜中山~日坂宿は、コンビニや食事をする店舗がないようなので、山行の時と同じように昼食を持参する必要があり、お湯を入れるテルモスを持参することにし、その他の荷物は前回と同じ物を準備しました。
《移動》
4時30分、起床
目覚ましの音楽で目覚め、身支度を整えながらYumiさんの両足の膝の両側に、認知症の主治医に処方して頂いたシップ薬を貼りました。
これは、明日の小夜の中山越えを考えて山歩きウォーキングで試した結果、効果があると思えたので今日から貼ることにしました。
着替えを終え、朝食、トイレなどを済ませ準備万端(この時は高度計をしていないことに気が付いていません)整えて家を出発し、まだ氷点下の厳しい寒さの中、自転車で最寄り駅に向かいました。
〔忘れもの〕
準備万端整えて家を出発したと思っていたのですが、最寄り駅に着くと山歩き用に購入し、毎回使用している高度計時計を手首にはめていないことに気が付きました。
Yumiさんは「私の時計を使えばと」優しく云ってくれましたが、3日間のことを考えると時計は必要と判断し、急いで往復すればなんとか間に合うだろうと思い、Yumiさんに「家に帰ってくるから、お父さんが戻るまてでここを動かないでね」と話し、Yumiさんがこの場所から動かないことを心に念じながら家に戻りました。
家に戻り、忘れた高度計時計を取って全速力で自転車を走らせて駅に戻ると、Yumiさんは私に云われたとおり動くことなく同じ場所で待っていてくれたので、まずはひと安心しました。
さて、電車ですが、改札を入ったところで乗る予定にしていた電車は発車してしまい、予定していた新幹線には間に合わなくなり、東京駅8時03分発の新幹線ひかり号に乗ることになりました。
東京駅新幹線ホームに着き自由席5号車の乗車口に並ぶと、4人の人が並んでおり(入線5分前)、5~6番目の私達は楽々と二人席に座ることができました。
8時03分、東京駅発
新幹線の車内は、品川、新横浜と徐々に混雑し、5号車はほぼ満席の状態で静岡駅に到着しました。
なお、今日の富士山は雲が掛かっていて上部は見えませんでしたので、写真は撮りませんでした。
また、乗降駅の階段に近い自由席車両は混雑することが分かったので、今後の自由席(指定席料金を節約するため)に乗車する時の参考になりました。
静岡で新幹線を降り、島田に行くため在来線ホームに行きましたが、在来線は車両が短く(3~5両)、どの位置にドアの部分が停まるのかが分からないので、ホームに並んでいる人に聞いて電車を待っていました。
01 静岡駅・在来線ホーム
9時22分、静岡駅発

電車は座ることができ、前回の旅で歩いた場所を思い出しながら車窓からの景色を楽しんでいましたが、Yumiさんは何を考えて乗っていたのかは分かりません。
9時50分、島田駅着
島田駅では出発地点に行く前に、駅に隣接している駐輪場に行きました。
理由は、4月に蓬莱橋を観光する予定にしており、その時に借りるレンタサイクルについて事前情報を得るためです。
係員の人に借り方などを教えて頂くとともに、蓬莱橋のことを聞くとパンフレットを持ってきて「今日は行かないのですか」と聞かれたので、「まだ寒いので、温かくなった桜の時期にまた来ます」と答え、親切な対応にお礼を云って失礼しました。
次に、創業290年の老舗の清水屋に立ち寄り、名物の小饅頭を今日のおやつとして仕入れました。
 ※清水屋
02-1 島田・清水屋
 清水屋名物・小饅頭
02-2 清水屋・小饅頭
計画した新幹線(品川発7時34分のこだま号)だと、店舗の開店時間よりかなり早い時間に着いてしまうため、買うことが出来なかったということが分かり、高度計を忘れ家の往復でひと汗かきましたが、結果として良かったという気持ちになりました。
そして、この清水屋の2軒先が、今日の出発地となる本通り2丁目交差点です。
【=旅=】
10時00分、本通り2丁目交差点発(出発地)
03 島田・本通り交差点(出発地)
前回の到着した付近で、Yumiさんに看板を掲げてもらい、出発式(撮影)を行いました。
出発式の後、最初に道路の反対側に建っている芭蕉の句碑に立ち寄りました。
10時02分、芭蕉句碑
04 島田・芭蕉句碑
そして約100m先の駅西通りを渡った先の右側に帯祭りで有名な大井神社があり、石の太鼓橋と平橋が境内入口にあり、平橋を渡って境内に入りました。
10時06分、太鼓橋と平橋
05 大井神社・石の太鼓橋と平橋
10時06分~10時16分、大井神社
静寂な境内を歩き、拝殿に参拝し、Yumiさんの病気平癒(意味認知症と緑内障)と今回の旅の安全を祈願しました。
 大井神社・拝殿
07 大井神社・本殿
境内には島田名物の帯まつりの人形模型があり、「Yumiさん、ここに立って」と顔が見えるようにしてもらうと、「撮るの」と云いいながら人形模型の後ろに立って顔を出してもらいました。
 ※帯踊り人形
06 大井神社境内
今年の10月初旬に開催されるので、時間があったら立ち寄ってみようかなと思います。
気温は、朝の氷点下の状態からかなり上昇してきており、Yumiさんの首筋を触ると汗をかいていたので、寒くなったらまた着るからと説明しフリースを脱いでもらいました。
大井神社を後にして、島田酒販の先の右側に、時の鐘(今は除夜の鐘の時だけ)の梵鐘がある大善寺に立ち寄りました。
10時22分、大善寺・時の鐘(後方の櫓)
09-1 大善寺と鐘
時の鐘を告げた梵鐘は、境内の奥に吊るされていました。
大善寺を出て交差点(大善寺前)を渡ると、右前方の山の斜面に「茶」の樹文字が見えてきました。
「茶」の文字は、粟ケ岳(標高532m)山頂付近の斜面に、ヒノキを茶文字に植林して作られているようで、茶の木でないのが残念ですが、ヒノキは高木の常緑・針葉樹で一年を通して緑で、高木ということから選ばれたのでしょう。
街道は、特種東海製紙工場に沿って歩くと、信号の先に大井川川越遺跡を示す標識が掲げられているところで、分岐しています。
10時31分、道標
10 藤枝宿・金谷宿境標
分岐を左に進み少し行くと、江戸時代の屋号を掲げた家が立ち並び始めました。
10時36分~10時47分、大井川川越遺跡
 ※塚本家(右側)
11-1 大井川川越遺跡・塚本家
上段の間(他の部屋より20㎝高くなっている)が現存している家です。
 ※十番宿跡(右側)
12 十番宿跡
※①=十番宿・宿内(右側)
022 十番宿・内部
反対側のお土産屋の男の人が「撮りましょう」と声を掛けて下さいましたので、当時の人足を模した人形を入れて撮ることをお願いしたらYumiさんに「怖いから嫌だ」と云われてしまい、人形のいない場所に移動して撮って頂きましたが、男の人は苦笑いしていました(お土産を買わなくてすいませんでした)。
 ※札場跡(左側)
14 札場跡
※①=仲間の宿(左側)
019 仲間の宿・全景
 ※川会所跡(右側)
13-1 川会所跡
 ※復元・川会所跡(右側)

16 -1 川会所復元建物
 ※復元・川会所跡・室内
16-3 川会所復元建物内部
 ※大井川川越遺跡碑(川会所敷地内)
15 大井川川越遺跡碑
旧青年男女が階段に座り、陽だまりの井戸端会議を楽しんでおり、復元川会所跡の隣りに島田大堤跡がありました。
※①=島田大堤(右側)
023 島田大堤
島田大堤は、慶長の大洪水で大井川の堤防が決壊したために作られたもので、それ以降は大井川が氾濫することはなくなったそうです。
島田大堤から数十m先の左側に、朝顔の松公園がありました。
10時48分、朝顔の松(左側)

17-1 朝顔の松
朝顔の松公園の中に、柵で囲われ解説パネル付きで大切に保存されていました。
そして、公園の前に島田市博物館があったので、立ち寄りました。
10時50分~11時05分、島田市博物館(右側)
18-1 島田市博物館
島田市観光課から資料を送付頂いた中に、博物館の割引券(2割引き)が同封されていたので、今回使わせて頂きました。
博物館は、1階が川越遺跡の展示、2階は絵画展が開催されていましたが、ゆっくりと観る時間がなかったので、15分程で館外に出ました。
Yumiさんは展示物にはまったく興味を示すことなく、トイレを済ますと帰るモードになっていました。
絵画を見るのが好きだったYumiさんだったのですが、・・・寂しい限りです。
博物館を出ると、目の前は大井川の土手です。
 ※大井川河川敷き(左側)・・・この後、後方の大井川鉄橋を渡ります

19 大井川の眺め
※①=大井川鉄橋の眺め
026 大井川鉄橋
広々とした河川敷や遠くの山々を眺めながら土手上の道路を歩き、大井川橋東交差点に着きました。
11時14分、大井川橋東交差点
富士川より長い大井川橋を渡る前に記念撮影し、東海道屈指の難所とされ「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われた大井川を渡り始めました。

20-1 大井川・鉄橋
橋の上から見る大井川は、上流のダムで堰き止められているため、細々と流れているという印象で、右に国道1号線、新東名高速、左に東海道線、新幹線を眺めながら、私の数メートル後ろをYumiさんが歩きました。
長い橋の中程で写真を撮ったりしながら、昔は川の中を歩いて渡った難所の大井川を、現代は歩いて渡りました。
21-1 大井川・中間点
11時27分、東町交差点(大井川橋西側)
大井川橋を渡った交差点を左折して土手道を歩きながら東の方を見ると、真っ白な富士山がちょこんと顔を出していました。
大井川橋の後方に富士山(白丸)
22-3 大井川と富士山
街道は、土手道を少し歩くと右側に旧東海道を示す看板があり、それに沿って右折して土手下に出ました。
土手下の道を少し歩いた処の八軒屋橋から金谷側の川越しだそうですが、案内絵図があるだけで、島田の川越遺跡に比べ、金谷の川越遺跡はあまり整備されていないようです。
11時33分、金谷宿川越し場跡(左側)
23-1 金谷宿・大井川川越遺跡
街道をそのまま真っ直ぐ進むと、大井川鉄道の踏切があり、蒸気機関車の始発駅である新金谷駅が100mくらい先に見えました。
11時38分、新金谷駅前
24 新金谷駅舎
新金谷駅前に「金谷川越し資料館」があるということなので、街道を左折して新金谷駅前に行き、辺りを見渡しましたが、資料館の看板は見付かりませんでした。
そして、駅に目を向けるとSLが止まっていたので撮りに行くと、近くで写真を撮るのでしたら入場券を買って下さいと云われました。
改札からでも写せるかなと思いながらSLを見ると、人が乗り込んでいる途中です。
駅員に発車時間を聞くと「45分です」と云われ、時計を見ると11時40分、あと5分で出発です。
Yumiさんに早くおいでと急き立てて、先ほど渡った踏切手前の線路脇に行き、そこでSLが通るのを待つことにしました。
 ※近づく蒸気機関車
27-2 近づく蒸気機関車
 ※通り過ぎる蒸気機関車
27-3 通り過ぎる蒸気機関車
SLは、観光バスの遅れから約5分ほど遅れて走り出し、今日最後のSL運行を偶然の巡り合わせで見ることができました。
《昼食・その1》
さて、時間も昼になり、当初は菜めし田楽(大根の葉を混ぜたご飯)のよし善で食べる予定にしていたのですが、SLを見た辺りに住む旧乙女に聞くと、良い返事をしないで別の店を教えてくれたので、そちらに行くことにしました。
教えられた店に行くと、男性2人と3人組の2組が先客としていました。
店に入りましたが、店の女将は知人らしき3人組との個人的な会話が忙しく、こちらのことはお構いなし。
しばらく待ちましたが、先客の3人組と会話はするのですが、こちらには何の声もかけてこないので、「注文は」と調理場に声を掛けると、やっとおしぼりが出され「時間が掛かりますけど」と、食べなくても結構との態度に、他で食べようと店を出ました。実に気分の悪い店でした。
《昼食・その2》
新金谷の街道沿いには食事処がなく、金谷の街に入りました。
金谷の街は、人通りがほとんどない静寂そのものので、緩い上り坂になっていました。
食事処を探して歩いたのですが、店舗がありません。
とうとう今日の到着地の金谷駅の近くまで来た時、スナック憩の入口に食事の案内看板が見えたので、ここで食べることにしました。
《昼食》
12時17分、スナック憩(左側)着
28 金谷宿・スナック憩
 E=食事できますか?
 店主(美人女将)=できますよ
 E=(Yumiさんに確認して)とんかつ定食を2つ
 店主=今日はどちらまで
 E=金谷駅までです
 (食べながら)
 E=新金谷駅でSLを見てきました
 店主=SLが新金谷発になって、金谷は寂れました。人が歩いていないでしょう
 E=いないですね
   それと食事する処がなくて困りました
 店主=金谷で食べられる処は、ここともう少し下の店の2軒だけよ。他は全部やっていない。
 E=そうですか。ところで本陣はこの先ですか?
 店主=もう通り越していますよ。2~3分坂を下った(戻った)ところにありますよ
 E=え、そうなんですか。食べる処を探していて、見落としていました。ありがとうございます
とお礼を云って、店を出ました。
12時48分、スナック憩発
地図の書き込んだ史跡の場所が間違っていたため、4分ほど後戻りして山田屋本陣跡に行きました。
12時52分、山田屋本陣跡(右側)
29-1 山田屋本陣跡
山田屋本陣と柏屋本陣の間に佐塚書店(佐塚本陣跡)がありましたが、史跡の案内標識はありませんでした。
そして、金谷駅に向かって直ぐのバス停の前に、柏屋本陣跡がありました。
12時55分、柏屋本陣跡
(右側)
30-1 柏屋本陣跡
柏屋本陣跡から少し坂を登ると食事をしたスナックの道路真向いに役所跡がありました。
12時58分、お七里役所跡
(右側
31-1 お七里役所跡
昼食を摂ったスナック憩で教えて頂かなかったら、そのまま見落としたままで終わるところでした。
金谷の坂をさらに数分上ると街道が左折する角に、一里塚の看板が建っていました。
13時02分、051金谷一里塚跡(到着地)
33-1 金谷一里塚(到着地)
今日は、ここが到着地です。
到着の写真を撮って終了しました(この時は到着式の看板なしで写真を撮ってしまい、翌日の出発の時に看板を掲げて撮りました)
【移動】

一里塚から金谷駅までは直ぐでしたが、大井川鉄道の金谷駅の駅舎に入ってしまい、駅舎の売店の方に教えて頂き乗車するJRの金谷駅に行きました。
13時05分、金谷駅着
34 金谷駅
ジバングで購入した切符は磐田まで購入してあるので、その切符で改札を通り掛川方面に行く反対側に、地下道を潜って移動しました。
掛川方面のホームに着いた時、到着式の看板を掲げた写真を撮っていないことに気が付きましたが、戻る時間がないので明日の朝、一里塚を出発する時に改めて撮ることにしました。
13時13分、金谷駅発
電車は3分程遅れて到着し、掛川に向かいました。
掛川までは2駅ですが、駅間の距離が長く14分です。
13時30分、掛川駅着
掛川駅新幹線南口を出て、レンタサイクルを事前に予約しておいた「サイクルランドちゃりんこ」に行きました。
【観光】
《レンタサイクル》
13時36分、サイクルランドちゃりんこ着
44-1 レンタサイクル
名前を告げると自転車は用意されていて、代金を支払い自転車を借りました。
料金は1台・500円で、貸し出し時に1,000円支払い、返した時に500円戻るとのことでしたが、最初に1,000円の支払いでした。
このお店は、スポーツサイクルが主体のため、ママちゃりタイプの自転車は、予約した時に1台しかないと云われ、後はスポーツタイプになるとのことでしたが、私が乗るスポーツタイプも一本ハンドルの普通の自転車を用意してくれました。
自転車の荷台の籠にザックを入れようとしましたが入らないので、背中に背負って走ることになり、サドルの高さを調整して出発しました。
13時42分、サイクルランドちゃりんこ発
《掛川城》
掛川の道は初めてです。
店舗を出て直ぐに、JRのガードを潜るアップダウンがあり、Yumiさんの安全を確認しながらゆっくりと走りました。
お城までの道は、クランク形に走るだけの分かりやすい道でしたので、地図に気を取られることなく走ることができました。
13時53分~14時56分、掛川城見学
掛川城の手前でトイレを済ませ、入口の階段脇に自転車を停め、入場(@400円)しました。
35-5 掛川城
  ※武者姿武士
36-2 武士と一緒
白壁の城に天守閣の綺麗なお城で、ボランティアの武士装束や忍者装束の人がおり、目を楽しませくれました。
また、城内に入り、狭い急階段を上って天守閣まで行き、遠くの景色を眺めました。
 ※天守閣
37-1 天守閣
37-3 掛川城・天守閣
 ※御書院上の間
42-2 御書院・上の間
 ※天主丸・霧吹き井戸
38-1 天守丸・霧吹き井戸
 ※腰曲輪跡
40 腰曲輪跡
 ※山内一豊具足
41-1 山内一豊具足
 ※掛川城御殿跡
43 掛川城・御殿
その後、城の隣にある御殿に行き、江戸時代の階級別の部屋を見学し、城の庭で清水屋で買った「小饅頭」を食べ、陽だまりの中、小饅頭と持参したボトルのお湯で、のんびり過ごしました。
ひと休みした後、掛川城を出て、サイクルランドちゃりんこに戻り、自転車を返却しました。
15時03分、サイクルランドちゃりんこ着
【ホテル】
サイクルランドちゃりんこからホテルの東横INNまでは、10分程度の一本道で、ゆっくりと歩きホテルに到着しました。
ホテルは15時からチェックインできるようにしておいたので、チェックインを済ませて部屋に入り夕食までの間、デジカメの充電、血圧・目薬・服用薬等の準備、明日の着替えの準備などを行い、その後はベッドに寝転んで体を休めました。
《介護用ルーム》
ホテルはツインルームで予約したのですが、途中で車いす利用者向けの部屋があることを知り、電話でYumiさんの状況を話すと、「OK」との返事を頂きお願いしました。
車いすは使用していないので、介護保険証(要介護2)の写しを持参し、フロントの方に提示して確認して頂きました。
部屋はトイレも浴室も車椅子が入れるようにできており、Yumiさんを介護するにはとても便利でした。
私は、車椅子は利用していませんが、Yumiさんの入浴介助を考えるとこの部屋を利用させて頂く必要があると判断し、予約する時に利用のお願いをさせて頂こうと思いました。
【夕食】

食事は、ホテルの近くに食事処がないので、掛川駅北口(ホテルは南口)の飲食街に行きました。
最初に入った居酒屋は、女性十数名の予約客が店の真ん中を占領するようにセットされ、この後の騒音を考えるととても寛げないと思い、店の方にお詫びして店を出ました。
特に決めている店はなく、駅から離れるのも嫌ということで、一番身近な駅前の「甚八・駅前店」に入りカウンター席に座りました。
46-1 居酒屋・甚八駅前店
 ※甚八駅前店の箸置き
46-3 居酒屋・甚八駅前店の箸置き
まず、中生ビールを注文し、Yumiさんと今日の無事を祝して乾杯しました。
この後、焼き鳥、盛り合わせ刺身等々を食しながら、焼酎も飲み腹を満たしました。
また、Yumiさんも注文した中生ビールを一杯、一人で飲み干しました。
最近、飲む機会が増えているので、飲めるようになってきたようです。
この店でYumiさんの隣に座った男性客が歴史資料を見ながら飲んでいました。
この時は知るよしもありませんでしたが、翌日、日坂宿の入口でバッタリと出会うことになるのです。
夕食後、ホテルに戻り、服薬、点眼(2種)、血圧測定を行ってからシャワーを浴び、今日の汗を流しました。
シャワーの後、明後日(11日)に履く靴下(2枚重ねの内側)と下着類を手洗いで洗濯し、持参したハンガーとホテルのハンガーに掛けて干し、それから就寝しました。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ
【宿場】(24)金谷宿⇒(25)日坂宿
⇒(26)掛川宿
【行程】歩行距離=16.785㎞ 総距離=232.95㎞

051金谷一里塚⇒(4.352㎞)⇒052小夜中山一里塚⇒(4.355)⇒053伊達方一里塚⇒(4.128㎞)⇒
054葛川一里塚⇒(3.95㎞)⇒西掛川駅入口

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第15回旅の宿場)
10 15回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
 
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間 )

全体 第15回
 第15回の旅のルート
 
(051金谷一里塚跡⇒西掛川駅入口)
第15回ルート
【再訪】
 夫婦二人旅の時、見落としたりした史蹟や分岐などの記録を再訪して補完しました。
  〔※①〕=平成26(2014)年 9月13日
【旧東海道の旅】
《序章》
2日目の今日は、宿泊した掛川から金谷にJRで移動し、昨日の到着地である(金谷宿)金谷一里塚跡 から (日坂宿)~ (掛川宿)西掛川駅入口までの16.8㎞を歩く旅です。
今日のハイライトは、箱根峠に次いで厳しい道と云われている、日坂宿・小夜の中山峠越えです。
日坂宿には、茶畑はあっても食事処がないと聞いているので、昼食の用意をして出掛けます。

《ホテル》

05時30分、起床
設定していたホテルのモーニングコールで起床しましたが、Yumiさん恒例のトイレ通いで、4時すぎからウトウト状態で朝を迎えました。
洗面所での歯磨きは、歯ブラシが入っている袋を破って使えば良いのですが、Yumiさんはそれがわからないので、私が封を開けて使えるようにする必要があります。
また、化粧品は持参したのですが、洗顔用は持参しなかったので、洗顔はホテルで頂いた液体ソープで洗い、洗顔後の化粧水も頂いたものを使いました。
私は、出張の時に使用していた髭剃りと化粧水を持参していましたので、次回からはYumiさんの洗顔用のクリームを持参しようと思います。
さて、今日は箱根東坂に次いで厳しいと云われている小夜の中山峠越えがあるので、Yumiさんが途中で膝痛を発生しないように、K先生に処方して頂いたシップ薬を両膝の両側と、両足のふくろはぎに貼り、私も両足のふくろはぎに貼りました。
着る物は、下着類と靴下(内側)を替えた以外は同じ物を着ました。
荷物は、今日も同じ部屋に宿泊するので、今日使わない物は置いておくようにし、逆に昨晩コンビニで調達した今日の昼食(おにぎりと豚汁パック)をバックに入れました。
全ての着替えが終わってから、目薬の点眼と血圧測定を行い、ホテル提供の朝食を食べに行きました。
1階のホールに着くと同時に食事解禁となり、バイキング形式の朝食を食べましたが、Yumiさんは何をどうしてよいのか分からないので、私が自分のものとYumiさんのものを取ってあげました。
旅を積み重ねているうちに、認知症の症状が進んでいることが分かるようになっています。
残念ですが、現実ですから致し方ありません。
京都まで頑張ってねの心境です。
また、ホテルが提供する食事は、食材の種類は少ないのですが、贅沢を云わなければこれで十分かなと思います。
食事を終わり、部屋に戻ってトイレを済ませ、ひと息ついてからホテルを出発しました。

07時35分、ホテル発

ホテルの中は、温かく小春日和でしたが、一歩外に足を踏み出すと、冷たい風に思わず「おー!!寒い」の一声。
マフラーを首に巻き寒風の中、掛川駅に向かいました。
07時52分、掛川駅発
08時06分、金谷駅着
掛川駅から在来線で金谷駅に移動し、昨日の到着地である金谷一里塚跡に向かいました。
【=旅=】

08時12分、051金谷一里塚跡(出発地)=右側
金谷一里塚跡で、最初に昨日の到着式(看板を持って撮影)を行い、続いて今日の出発式を行いました。
01 金谷一里塚(出発地)
街道は一里塚跡の付近は、上り坂になっており、ガードを潜って金谷駅の裏側を道なりに上ると不動橋があり、坂はここから一段と上りがきつくなり約180m歩くと国道473号線に出るのですが、この上り道が金谷坂です。
国道に出て道路を渡った左側に石畳入口の看板があり、それに沿って右折すると石畳道が見えてきました。
08時17分、東海道石畳入口(右側)
03 東海道石畳入口
金谷坂石畳(上り坂)は、平成3年に地元の有志が一人一石運動で、71,000個の石を使い430mを復元したもので、一つ一つの石に思いが込められているのですが、見るのは良いのですが、歩くのは大変です。
08時20分、金谷宿石畳上り口
05 金谷坂石畳入口
石畳に入ると直ぐの右に「金谷宿お休み処石畳茶屋」がありましたが、時間が早くまだ閉まっていましたので、写真だけ撮って先に進みました。
08時21分、石畳茶屋(右側)

07 石畳茶屋
ここで夫婦2人連れと出会いましたが、撮影を申し出たら断られ何となく話しづらくなり、会話を交わすことなく石畳坂の上り頂上の芭蕉句碑のところで別れ、夫婦は先に歩いて行きました。
 
金谷上り坂石畳(石畳茶屋の先)
08 金谷坂石畳
旅紀行を少し戻して、石畳茶屋から約210m石畳道を上ると右側に石畳六角地蔵堂があり、すべらず地蔵尊が祀られていました。
08時28分~08時33分、すべらず地蔵尊(右側)=休憩
09 すべらず地蔵尊
すべらず地蔵尊は、人の足元を守ってきた「滑らない山石」に「すべらず」、「ころばず」進むようにと、多くの受験生、商売繁盛の願掛け参拝者が来ているとのことですが、今日は1組の夫婦だけでした。
歩きづらい石畳の上り坂を歩いてきて少し汗ばんできたので、私がインナーダウンとフリース、Yumiさんがインナーダウンを脱いで、衣服調整をするとともに小休憩しました。
石畳の上り坂はこの先約210m続き車の通る道に出て、平坦な舗装道路になりました。
08時37分、金谷上り坂・出口からの眺め
10 金谷坂頂上からの石畳
金谷坂石畳が終わっり(頂上)アスファルト舗装になった道を左に約30m歩くと、右側に芭蕉の句碑が建っていました。
08時38分、芭蕉句碑(右側)

11 芭蕉句碑
 芭蕉句碑
13 芭蕉句碑・解説
句碑のところでUターンして約350m真っ直ぐ進むと、右側に「諏訪原城址跡」の案内看板があり見に行きました。
08時49分、諏訪原城址跡(右側)
14 諏訪原城址跡碑
諏訪原城は武田勝頼が徳川家康と戦うために馬場信房に作らせた城で、国指定史跡になっています。
全体を見る時間がないので、諏訪神社に参拝し、空堀跡、大手口跡など、街道から近いところだけ見て失礼しました。
08時51分、諏訪神社・本殿(右側)

16 諏訪神社・拝殿
08時53分、大手口跡
17 諏訪原城址
諏訪原城址を見た後、街道に戻り約130m歩くと県道と交差し、県道を横切ると菊川坂石畳(下り坂)の入口になっていました。
08時57分、菊川坂石畳入口(下り坂)
18 菊川坂石畳入口
菊川坂石畳は、金谷坂石畳と同様に平成13年に有志の力で、611mの石畳の道ができたそうです。
石畳の道は、上り坂以上に下り坂は歩きづらく、足を滑らせて捻挫しないように注意して歩きました。
 菊川坂下り石畳
20 菊川坂石畳・下り坂
途中で前日見た粟ケ岳の「茶」文字がさらに大きく見えるようになり、「Yumiさん「茶」の字が見えるよ」と声を掛けましたが、返ってきたのは生返事の「そう」だけでした。
 
粟ケ岳の茶文字(その1)
22 粟ケ岳の茶文字
菊川坂の案内看板のある十字路、車の通る十字路を過ぎた先に、道の真ん中に杭が建てられ有志が作った菊川坂石畳(611m)が終了しました。
09時11分、菊川坂石畳出口
23 菊川坂石畳
そして、その先の161mの石畳が、県指定遺跡になっている「江戸時代後期の石畳」で、石畳の終わった処の左側に、菊川辻の道標が建っていました。
09時13分、菊川辻の道標(左側)
24 菊川辻の道標
道標の先に流れている菊川に架かる高麗橋を渡り、約220m歩いた右側に間の宿菊川の里会館がありましたが、開店前で扉が閉まっていたので立ち寄れませんでしたので、トイレだけ使わせて頂きました。
09時19分~09時24分、間の宿菊川の里(右側)=休憩

27 間の宿・菊川の里
 宗行卿詩碑・日野俊甚歌碑(右側)
26 宗行卿詩碑
間の宿菊川の里会館から約100m先の四群橋を渡った所を左折し、道路を横切り15段ほどの階段を上った処から、標高差155m、1.2㎞の箭置(ヤオキ)坂の上りで、小夜の中山越えが始まりました。
右側の上り道を上って、夫婦二人旅の時に写真を撮った場所とほぼ同じ場所で、
09時27分、箭置坂(上り坂)発=上って来る方向を向いて
29 箭置坂の上り
私達の前も後ろも街道ウォーカを含めて誰も歩いていません。
天気はピーカン照りの快晴で、勾配のきつい坂道を上っていると自然と温かくなり、Yumiさんが着ていた厚手のチョッキを脱いで衣服調整をしました。
※①=箭置坂(上り坂):小夜の中山=これから上る方向を向いて
027 小夜の中山
と、再訪の時、撮る方向を変えて写真を撮りました。
箭置坂を上り始めて約700m歩くと、右側に日坂宿・菊川宿の里分岐の標識が建っていました。
09時43分、日坂宿・菊川の里分岐の標識(右側)

31 菊川の里・日原宿分岐の標識
標識から約100m歩くと右側に中継機場があり、ここを通り過ぎると、一段と勾配がきつくなってきました。
左に茶畑だけが見える坂道で、景色を見る楽しみがない分、上りの辛さだけが残ります。
 ※小夜の中山の眺め
30 箭置坂からの眺め(茶畑)
Yumiさんに「もう少しだよ、頑張れ」と励ましながら歩いていると、進行方向からエンジン音が聞こえてきたので、何をしているのだろうと思いながら約450m歩くと、峠の頂上にある久延寺に到着し、小夜の中山越えの半分(上り)が終わりました。
山歩きでこの程度の坂道は常に歩いているのですが、やはり上り坂は疲れます。
09時50分、久延寺(右側)
33 久延寺
久延寺は、伝説・夜泣き石物語の石、山内一豊が徳川家康を接待した茶亭跡、家康手植えの五葉松が有名な寺院だそうです。
 夜泣き石伝説の石
35 小夜の中山・夜泣き石
 茶亭跡
38 茶亭跡
久延寺の境内に建っていた史跡を記録に残し、山門を出て道路の反対側の空き地で、エンジンが沢山並べられエンジンが音が響いていました。
 E=エンジンの修理をしているのですか?
 男=農機械のエンジンを掛けて、楽しんでいるのです
着ているつなぎ服の背中を見ると、「・・・・・楽しむ会」と書かれていました。
農機械を使う地域ならではの趣味で、この場所なら周囲に気兼ねすることなく、思い切ってエンジンを掛けて楽しむことができるようです。
 農機械のエンジン音を楽しむ会

41 農機械エンジンを楽しむ会
そして、久延寺の隣に子育て飴で有名な「扇屋」がありました。
09時56分~10時10分、扇屋(右側)=休憩
42 扇屋
扇屋は江戸時代創業の峠の茶屋で、夜泣き石伝説にちなんだ子育て飴(砂糖を使わずに麦芽だけで作られた琥珀色の水飴)を食べたいと思っていたのですが、店が閉まっていました。
扉のところに「土・日・祝だけ10時ごろに開店」と書かれていたので、店の前の縁台に座って待つことにしました。
ところが10時を過ぎても開店しないので、農機械エンジンを動かしている人に尋ねると、「掛川から来るので遅れているようですね」とのことでした。
もう少し待ってみようと思い、その間に斜め前方(左側)に建っている「西行法師の歌碑」を見に行きました。
10時07分、西行法師の歌碑(左側)
44 西行歌碑
歌碑から扇屋に戻ってきましたが、いつ来るか分からない状態で待っていることもできないので、またの機会にしようと思い扇屋を出発しました。
10時10分、扇屋発
扇屋を過ぎると街道は緩やかな下り坂になり、右斜め前方を見ると粟ケ岳の「茶」文字がさらに大きく見えました。
 粟ケ岳の「茶」文字(その2)=右斜め前方
46 粟ケ岳・茶文字
扇屋から約250m歩くと三叉路があり、左角に日本橋から52番目の一里塚跡があり標柱が建っていました。
10時14分、052佐夜鹿一里塚跡(左側)
一里塚跡には小さな塚があり、その前に石碑が建っていました。
47 佐夜鹿一里塚
一里塚跡から130m歩くと左側に神明神社があり、さらに約130m先の左側に鎧塚があり、街道から少し上った所に塚碑が建っていました。
10時21分、鎧塚(左側)
51 鎧塚
街道はほぼ一直線の下り坂で、周囲は茶畑です。
鎧塚から約450m歩くと、右側に小さなお社だけが祀られた白山神社があったので、Yumiさんと一緒にお賽銭を奉納して参拝しました。
10時29分、白山神社(右側)

54 白山神社
参拝を終わり歩いてきた方を見ると、一人の女性が歩いてくるのが見えました。
女性の歩きは早く、白山神社から約300m先の涼み松・芭蕉句碑で写真を撮っていると、追いついて一緒になりました。
 E=今日は、どちらまで
 女=掛川まで歩きます
 E=金谷からですか?
 女=そうです
 E=じゃあ、一緒ですね
   ところで、扇屋は開店してましたか?
 女=いえ、開いていませんでしたよ
 E=そうですか。私達も少し待っていたのですが
などの会話をしながら少しの間、一緒に歩きました
10時38分、涼み松碑・芭蕉句碑(左側)
56 涼み松
涼み松で写真を撮ろうとすると、女性が「撮りますよ」と声を掛けて下さいましたので、お言葉に甘え二人の写真を撮ってもらいました。
女性は、そのまま先に歩かれて行き、私とYumiさんは芭蕉句碑を見てから出発しました。
 芭蕉句碑(左側)
59 芭蕉句碑
句碑から約450m歩くと左側に夜泣き石碑があり、さらに約10m先の右側に広重絵碑が建っていました。
10時44分、夜泣き石碑(左側)
61 夜泣き石碑
夜泣き石は、街道の真ん中にあったのですが、明治元年に明治天皇御東上の時に街道脇に移されたそうです。
10時47分、広重絵碑(右側)
63 広重絵碑
絵碑は、建っている辺りで、安藤広重が「東海道五十三次・日坂」を描いたことを記すために建てられたようです。
この付近の下り坂の傾斜は緩やかで、箱根峠から三島に下る箱根西坂を思い出しながら歩いていると、茶畑で茶の木の上を二人の男の人が電動剪定機持って茶の木の先端部分を刈っているところに遭遇しました。
 茶の木の剪定作業(右側)
66 茶の育成
 E=今されているのは、何のための作業なんですか?
 男=新芽の伸びを揃えるためだよ
 E=そうですか
私は、茶畑に沢山の柱上の回転扇が設置されているのを見て、Yumiさんと「送風のためかな」、「充電のためかな」などと回転扇の使い道について話しながら歩いてきたので、
 鉄柱の回転扇(白丸)
67 茶の育成・霜除け扇
 E=柱に付いている回転扇は、何に使うのですか
 男=霜除けです。
   茶の木に霜が付くと芽がダメになってしまうので、温度が2~3℃になると自動的に回転して
   、霜が付かないようにしているんですよ
と教えて下さいました。
東海道を歩くようになって、いろいろな物を見たり、聞いたりして新しい知識が増えてきましたが、Yumiさんは残念ながら、歩いた所の部分が少し記憶に残っている程度のようです。
街道は、約250m歩いた左側にある稲荷大明神を過ぎた先から、急坂が始まりました。
10時56分、小夜の中山の急坂
68 二の曲りの急坂
写真では坂の傾斜が分かりませんが、かなりの急こう配です。
坂は、一度緩やかになった後、沓掛付近でさらに急こう配となり、二の曲がり付近では車は上れない傾斜角度(先人のHPには28.5度と書かれていました)です。
Yumiさんの膝痛は、下り坂でいつも発生するので、「足、大丈夫?」と状態を聞きながらの下りとなりましたが、K先生に処方して頂いたシップ薬の効能は抜群で、Yumiさんは膝痛を起こすことなく下り切ることができました。
下り坂を下っていると、二の曲がり急下りの終わる直前の左側に、絵碑が建っていました。
11時05分、広重絵碑(左側)
71 日坂の絵碑
ここで夫婦二人連れと会いましたが、お互いに声を掛けることなく二人連れは先に歩いて行きました。
絵碑を過ぎたところで、二の曲り坂を上って行こうとする車に状況を聞かれたので、「車は上れないですよ。バックして下りてくるようになると思います」と伝えると信用しなかったようで、横道から来た農器具運搬車に乗った老夫婦に、同じように聞いていましたが、どのような会話をしたのか分かりません。
そして、日坂バイパスの下を潜ったところで、この老夫婦の車が走ってきて、
 夫=どこまで行くの
 E=今日は掛川まで行きます
 夫=そうかい。気を付けていきなはれ
 E=ありがとうございます。先ほどの車は、どうされましたか?
 夫=あの坂は車では上れねえ、やめとけといったよ
 E=そうですよね。元気に過ごして下さい
 夫=ありがとう
と和やかな会話をして別れました。
県道を渡ると、江戸から25番目の宿場であった日坂宿です。
宿に入って間もなく秋葉常夜燈があり、その少し先の右側に本陣跡と記した門が建っていました。
11時10分、日坂本陣跡(扇屋片岡家)=右側
74 日坂本陣跡
本陣跡には、立派な門が建っていて、ここから日坂宿の街並みが始まりました。
そして、本陣から5軒先の右側に問屋場跡があり、標板が建てられていました。
11時11分、問屋場跡(右側)
77 問屋場跡
問屋場跡の3軒先が旅籠・池田家。
11時12分、旅籠・池田家(右側)
78 日坂宿・池田屋
池田家のところで写真を撮っていると、昨日の夜、居酒屋「甚八・駅前店」で、Yumiさんの隣に座って歴史資料のコピーを読みながら一人で一杯飲んでいた男性と出会いました。
 E=あれ、昨晩の方では?
 男=あー、・・・を注文した方ですか
 E=そうです
二言、三言の会話で別れましたが、まったくの偶然でした。
男の人は資料コピーを持って調べているようで、自転車に乗って別の処に行かれました。
私達は先に進むと、池田家の隣に脇本陣だった黒田屋がありました。
11時14分、脇本陣・黒田屋(右側)
80 黒田屋脇本陣跡
※①=かえで屋(手前)と藤文(奥)=右側
046 日坂宿・商家
11時18分、藤文(右側)

82 藤文
045 藤文・解説
日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七の自宅で(藤文は屋号)、大切に保存されていたので店の中を見学したまでは良かったのですが、庶民の旅籠だった萬屋の写真を撮った直後にハプニングが発生しました。
11時20分、旅籠・萬屋(右側)

85 万屋
042 萬屋・解説
《ハプニング発生=デジカメを破損》
藤文を出て、4軒先の萬屋に向かう時にデジカメを路上に落としてしまい、壊れてしまいました。
私が地図等の資料を整理するために、Yumiさんにデジカメを預けたのですが、Yumiさんが持ち替えようとした時に落としてしまったようで、「ばか」と少し怒りましたが、壊れたものは元にもどらないので、しょうがないと諦め先に進みました。
***この先、掛川七曲りまで歩き旅では写真が撮れなくなり、再訪で撮りました***
萬屋は、江戸時代に建てられた素泊まりの旅籠で、岡部宿の大旅籠柏屋に立ち寄った時に、案内をして下さった方から見ることを奨められた旅籠でしたが、デジカメを破損した直後だったので、ゆっくり見る気分になれませんでした。
11時25分~11時30分、旅籠・川坂屋(左側)
037 川坂屋
江戸時代の面影を遺す建物で、室内に入ることができたのですが、デジカメ破損のショックから立ち直れないでいたことと、靴を脱ぐのが嫌だった(実は靴下が擦り切れていたのです)ので、外からだけ見学しました。
また、敷地内に茶室が復元されているとのことでしたので、裏庭に行って見せて頂きました。
帰りに茶と歴史の里日坂のスタンプを宿場図に押印して、旅籠川坂屋を後にしました。
11時31分、高札場跡(右側)
川坂屋を出て坂を下る途中の右側に高札場跡がありました。
031 高札場跡
高札場跡を過ぎると古宮橋が架かっており、橋のたもとに下木戸跡があり、碑が建っていました。
 ※①=下木戸跡(右側)
034 下木戸跡
相伝寺の山門入口手前に、天保10年(1839)に建てられた秋葉常夜燈が残っていました。
場所は高札場の近くだったように記憶しています(間違っていたらごめんなさい)。
 ※①=秋葉常夜燈(右側)
047 秋葉常夜燈
常夜燈から約100m先の左側に、三河屋と屋号が記された看板が掲げられた民家の前に碑が建っていました
 ※①=書家・成瀬大域出生の地碑(左側)
052 成瀬大域出生の地
書家の碑の直ぐ先に右側へ行く道があり、その分岐付近に若宮神社の祠がありました。
 ※①=若宮神社(右側)
055 若宮神社・秋葉常夜燈
若宮神社はお社の後ろの山頂に祀られているので、そこまで行かなくてもお参りできるように造られたお社のように思います。
また、お社の横には、先ほどの秋葉常夜燈と同時期に建てられた秋葉常夜燈がありました。
そして、秋葉常夜燈から約100m歩くと国道1号に合流し、道路を渡った左側に事任八幡宮があり、歩道橋を渡って行きました。
 ※①=日坂宿近辺のお祭りでした

030 日坂宿・祭の山車
11時38分、事任八幡宮(左側)
 ※①=事任八幡宮・参道
058 事任八幡宮・参道
言の葉で事を取り結ぶ己等乃麻知媛命など4神を祀っており、境内には夫婦杉がありました。
 ※①=夫婦杉
059 夫婦杉
多くの人が木に触ったり、書かれていた通りに木の周りを回ったりしていましたが、私は迷信じみたことは嫌いなので、Yumiさんと拝殿に行きお賽銭をご奉納して手を合わせ参拝しました。
 ※①=事任八幡宮・本殿

066 事任八幡宮・本殿
 ※①=大クスノキ
063 大クスノキ
参拝を終わり昼食の場所を何処にしようか探していると風が強く吹き始めてきたので、風除けが出来る場所を探しましたが適当な場所がありません。
そのため、境内外のトイレに立ち寄ってから、食べる場所を探しながら旅を続けました。
すると八幡宮から約70m先の県道沿いの左側にベンチが置いてあり、食べる場所には良いかなと考え、そこに荷物を下しました。
【昼食】
11時50分~12時04分、昼食
今日の昼食は、おにぎり(私=3個、Yumiさん=2個)と豚汁です。
豚汁カップが風に飛ばされないように、手で押さえながら持参したテルモスのお湯を注ぎ、おにぎりと一緒に食べました。
ボトルのお湯は、朝ホテルのポットで沸かしたお湯を入れてきたので、かなり熱い状態でした。
おにぎりは、簡単にカバーを取ることが出来るように出来ているのですが、Yumiは取り外すことができません。
そのため、私がすぐにカバーを外せる状態にしてYumiさんに渡すのですが、世話の焼ける・・・です。
食事なので、ゆっくり寛ぎながな食べたいのですが、風がビュービュー吹いているので、15分程で出発することにしました。

ここからしばらくは、史跡のほとんどない、車道沿いの歩きになりました。
県道に沿って(右側)岩瀬コンクリート、(左側)みどり茶屋、(左側)ガソリンスタンドと、約900m歩くと国道1号掛川バイパスの八坂ICの交差点があり、1号掛川バイパスを横切り1号線に入ります。
1号線を約180m歩いた左側に塩井神社があり、ここで街道は1号線から別れて左側に進み、約450m歩くと左側に大頭龍神社がある交差点となり、その右角に日本橋から53番目の一里塚跡があり石碑が建っていました。

12時20分、053伊達方一里塚(右側) ※①
069 伊達方一里塚跡
歩き旅の時は、ここで父親と娘の二人連れに会いましたが、ここでも言葉を交わすことなく、二人連れは先に歩いて行きました。
私とYumiさんは、デジカメが壊れてしまったため、一里塚跡碑で写真を撮ることなく、ただ眺めるだけで通りすぎました。
デジカメがある時と、ない時の違いを感じるのと、旅の記念にはデジカメが必要と考え、掛川に着いたらカメラ店を教えてもらいデジカメを買うことにしようと思い、これからの道中で探していこうと思いました。
さて、旅ですが、一里塚跡碑から約180m先の1号線に合流する手前(右)に、道標がありました。
12時25分、慶雲寺道道標(右側) ※①
071 慶雲寺道道標
街道は、道標の先で国道1号と合流し約120m歩くとまた左に分岐しますが、国道1号と分岐する少し手前に日本橋から224㎞の距離標が建っていました。
 ※①=224㎞距離標(左側)
072 224㎞ポイント
国道1号と分岐した街道は、約200mもするとまた合流と、合流と分岐を繰り返しながら進みます。
12時40分、225㎞距離標(左側)
12時52分、226㎞距離標(左側)
と、何もない1号線を、強風に帽子が飛ばないように押さえながらこの区間は、時速5㎞と少しハイペースで歩いてしまいました。
226㎞距離標を越した左側に榛葉食堂があり、たこ焼きが売っていたので、「Yumiさん、食べる?」と聞きましたが、昼食後一時間も経過していないのか「ううーん」と生返事でしたので、「この先で何かおやつでも買おう」と云うと、元気な声で「そうね」と返ってきたので、そのまま通り過ぎました。
旅は、国道1号の本村橋交差点で、左に分岐して約600m歩くと左側に伊達医院があり、その手前の十字路を右折して旧東海道を離れて国道1号沿いにあるセブンイレブンに向かいました。
セブンイレブンに行った理由は、①おやつを買うこと、②家電量販店の場所を聞くためでした。
13時10分、セブンイレブン掛川成瀬店(左側)
 E=デジカメを買いたいのですが、近くに売っているところはありませんか?
 店=この近くには家電量販店はありません
 E=旧道沿いは、どうですか
 店=ないですね
との回答に、おやつにシュークリームを買って店を出ました。
がっかりしながら旧東海道に戻り、また旅を続けました。
ところが、国道1号沿いのセブンイレブンに行ったことで、史跡の道標を見過ごすしてしまいました。
本来は、国道1号の本村橋交差点で左に分岐し、約810m歩くと左側にJA掛川市西山口支所があり、その支所の前に道標が建っています。
 ※①=大頭龍権現道標・福天権現道標(左側)
074 道標
道標を過ぎ街道を約500m歩くと右斜め前に「金の豚掛川店」のある交差点なり、交差点を真っ直ぐに渡って約30m歩くと橋の親柱が馬の顔形になっている馬喰橋が架かっていました。
13時24分、馬喰橋 ※①=馬喰橋の馬顔の親柱(左側)
077 馬喰橋(馬顏親柱)
そして馬喰橋を渡った左側の橋のたもとに、日本橋から54番目の一里塚跡があり碑が建っていました。
13時25分、054葛川一里塚跡(左側) ※①
079 葛川一里塚跡
葛川一里塚は、江戸時代は隣りの増田村にあり、榎ではなく松が植えられていたそうである。
一里塚跡から約400m歩くと、掛川の七曲りの入口に着きました。
曲がる角が7ケ所あることから名付けられ、街道ウォーカも良く間違えるところであると記しされていたので、資料を整えてきました。
13時31分、掛川七曲り入口 
※①=七曲り
最初は、角皆染物店前の三叉路の一番左を進みます


081 掛川七曲り・入口
①進学予備校の前を右折
083 掛川七曲り①
②秋葉常夜燈(写真:車の左側)の前を左折
085 掛川七曲り②
③T字路を右折(角から2軒目右にそねめんがある)
087 掛川七曲り③
④左の割烹・魚林の前を右折
088 掛川七曲り④
右に七曲りの案内看板が建っている
089 掛川七曲り・標識
 ※七曲り解説標板(右側)
090掛川七曲り標識
⑤七曲り標板の先の十字路を塩沢機械店に沿って左折
093 掛川七曲り⑤
⑥最初の十字路(真向い左にディリーヤマザキ)を右折
094 掛川七曲り⑥
⑦桂花園(真向い左)の前の十字路を左折
095 掛川七曲り⑦
と、間違えることなく歩きました。
13時42分、掛川七曲り出口(カメラ店に立ち寄った時間も含む)
《デジカメの購入》
掛川七曲りの出口手前でカメラ店があったので、立ち寄りました。
デジカメを落として壊してしまったことを話すと、店では売っていないけどFカメラならあると、場所を教えて下さいました。
場所は掛川城大手門の前とのことなので、急いでカメラ店に向かいました。
 E=(壊れたデジカメを見せ)落として壊れてしまいましたので、新しいデジカメを購入したい
 店=壊れてますね
 E=この店は七曲り出口近くのカメラ屋さんで、紹介して頂きました。
   何か機会がありましたら、購入したことをお伝え頂けると助かります
 店=(店舗の位置を確認し)あー、あの店は、私どもの親戚です
 E=あー、そうですか
と、云いながら、いくつかのデジカメを見せて下さいました。
私は、壊れたデジカメが気に入っていたので、同じメーカーにしたいと思ったのですが、今使っている電池が使えないことや、値段が少し高かいと云う理由で、店主が奨める安い方のニコンを買うことにしました。
私は、充電しないと使えないかなと思っていたら、少しは使えるとのことでしたので、店主に初期設定をお願いして、すぐ使えるようにして頂きました。
デジカメを購入したことで、気掛かりなことが一つ無くなり、気分的に楽になりました。
《再出発》
早速、店の前の掛川城・大手門の前で、テストを兼ねて撮りました。
14時03分、掛川城・大手門(右側)
86 掛川城大手門
撮った感じはそれほど悪くないので、これから活用しようと思います。
さて、旅を続けようと街道にもどると、交差点の角に白い壁の古風的建築の掛川信用金庫があり、記録に残しました。
14時05分、掛川信用金庫(右側)
88 掛川信金
連雀西交差点の次の中町交差点の角に、お城をモチーフにしたような清水銀行がありました。
14時09分、清水銀行(右側)
90 清水銀行
街道は、中町交差点から南西郷~十九首と約750m歩くと、十九首には平将門以下19人の首塚があるとのことで立ち寄ろうと、街道を歩きながら探したのですが分からず、首塚なので見学しなくても良いかとそのまま通りすぎました。
十九首から逆川を渡った先で国道1号に合流する二瀬川交差点があり、交差点の左角に日本橋から230㎞の距離標が建っていました。
14時27分、230㎞距離標(左側)
92 230㎞ポイント標識
南からの強風を正面から受けながら、1号線を約550m歩き大池橋を渡ったところの大池橋交差点の左角に秋葉街道入口の道標が建っていました。
14時35分、秋葉街道起点標板(左側)
93 秋葉街道起点標
橋を渡ったところで街道は左折するのですが、正面を見ると家電量販店のケーズデンキの赤い看板が見えました。
値段はケーズデンキの方が安いのでしょうが、自然の流れの中での対応でしたので、特に高い買い物をしたという思いはしませんでした。
大池橋交差点を左折して県道を真っ直ぐ進むと、信号のある交差点を渡ってガードを潜ったところに今日の到着である天竜浜名湖線の西掛川駅入口がありました(大池橋交差点から約450mです)。
14時45分、西掛川駅入口着(到着地)
96 西掛川駅入口(到着地)
【移動】

西掛川駅は、天竜浜名湖線の駅で、ホームは階段を20~30段くらい登った上にあり、待合い所はありますが無人駅でトイレはありません。
そのため、トイレは、駅前にある公園の公衆トイレを使うことになります。
また、電車は1時間に1本の運行(朝・夕は2~3本)で、1両編成という本当のローカル線です。
 ホームと天浜線

99 西掛川駅・天浜線電車
西掛川駅を到着地にしたのは、翌日の歩く距離との兼ね合いからですが、このようにな機会でないと乗れない電車なので、自分ながら良い計画になったと自画自賛する思いでしたた。
さて、乗る電車は15時34分発で、約50分待つことになるため、Yumiさんを連れて駅前の公園に行きトイレを済ませてから駅の待合い所に行きました。
駅の待合い所には2人の先客がいましたが、10分後に来た浜名湖方面に行く電車に乗っていきました。
ベンチに座って電車を待っていると、少しづつ人が増え、電車が来る少し前に若い男女が10人くらい来たので、賑やかになりました。
15時34分、西掛川駅発

101 西掛川駅標
定刻通りに来た電車は、ワンマンバスと同じで、後部から券を受け取って乗り、前部で支払って降りる形式でした。
座席は、車両の前後がベンチ形式、後はボックス席になっており、乗車率は約30%でした。
私とYumiさんは、ボックス席の空いている席に座り掛川駅までの2駅ですが、ローカル線を味わうことができました。
15時39分、掛川駅着
15時46分、ホテル着
ホテルは、昨日に引き続き掛川駅南口の東横INNに泊まり、部屋も同じでした。

【夕食】
部屋に入り、ひと休みする前に、明日使う地図などの資料および下着類の準備、ザックの荷造り等を行いました。
また、昼の目薬の点眼を忘れていたので、急いで点眼(一日3回の2回目)をしました。
17時30分頃、ホテルを出て食事に行きました。
昨日は、居酒屋に行ったので、今日は食事を主にしようと考え、掛川駅構内にある食事処に入りました。
扉を開けて中に入ると、女性ウェータが指示した席に座って、注文取りに来るのを待っていたのですが、待てどもフンでもなければスンでもないので、そのまま何も云わずに店を出ました。
何処にしようかと考え、ホテルでもらったチラシに書いてあった店に行ってみようと決め、その店に向かいました。
《キッチン大衆》
その店は駅の近くにある「キッチン大衆」という店で、女将さんが一人で切り盛りしていました。
店には、先客が1人おり、私達が二番目の客でした。
まずビール(瓶ビールのみ)を注文し、女将さんが奨めた牛筋を注文し、Yumiさんにはてんぷら定食+おでんを注文しました。
その他に単品を幾つかを注文し、最後に焼きそばを頼みました。
Yumiさんは生ビールを全部飲み、お茶を出してもらい、私はビールの他に焼酎を飲み、満腹感を感じて帰りました。
この店は、この場所で長年営業しているため、いろいろな話しを聞かせて頂きました。
家族的な雰囲気の中、和やかなひと時をすごすことができ、帰りには女将さんがYumiさんを抱きしめて何か話していました。
また、掛川に来た時は、立ち寄りたいと思います。
結果論ですが、最初に入った店で食べなくて良かったと思いました。
ほろ酔いで外にでましたが、途中の寒さで、ホテルに戻るころにはほろ酔いは無くなっていました。
部屋に戻り、夜の点眼(2種)、シャワー、血圧測定など、日々行わなければならないことを全て行い、翌日のモーニングコールの予約をしてベッドに入りました。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
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※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ・風強し
【宿場】(26)掛川宿⇒(27)袋井宿⇒(28)見付宿
【行程】歩行距離=16.422㎞ 総距離=249.37㎞

西掛川駅入口⇒(0.65㎞)⇒055大池一里塚⇒(4.468㎞)⇒056久津部一里塚⇒(4.427㎞)⇒
057木原一里塚⇒(4.177㎞)⇒058阿多古山一里塚⇒(2.70㎞)⇒磐田・東町交差点

【ルート図】
 ↓
宿場(黒囲みが第16回旅の宿場)
11 16回宿場
 ↓

旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第16回
 第16回の旅のルート
 
(西掛川駅・入口 ⇒ 磐田・東町交差点)
第16回ルート
【旧東海道の旅】
《準備》
05時30分、起床

昨日と同じようにホテルのモーニングコールで起こされる前に、今日もYumiさんのトイレ通いで、4時すぎに目を覚まし朝を迎えました。
洗面所でまず歯磨きをします。
ところが、Yumiさんはホテルの歯磨きをどのように使えば良いのか分からないため、私が封を開けて使えるようにして歯を磨き、洗顔はホテルで頂いた液体ソープが昨日の分だけしかなかったため、浴室のボディーシャンプーを代用して洗ってもらいました。
今日の旅は、東海道の中間点である「東海道ど真ん中茶屋」を通ります。
昨年の3月に日本橋を出発して、16日目で全体の半分のところまで来ました。
考えてみれば約250㎞、中断することなく良くここまで歩いてきたと、Yumiさんを誉めてあげたいと思います。
今日の旅は、平坦路なので膝痛の心配は少ないのですが、舗装路の歩きと距離を考え昨日と同じように、認知症主治医のK先生に処方して頂いたシップ薬をYumiさんの両膝の両側と、両足のふくろはぎに貼り、私も両足のふくろはぎに貼り、足のケアをしました。
着る物は、下着類と靴下(内側)を新しいものに替えた以外は、同じ物を着ました(着替えは1回分しか持参していませんでした)。
全ての着替えが終わってから目薬の点眼と血圧測定を行い、荷物をザックに入れ出掛ける支度を整えてから、ホテル提供の朝食を食べに行きました。
今日の朝食は、カレーが出されていたので、少しご飯を多くして食べました。
食事を終わり、部屋に戻ってトイレを済ませ、ひと息ついてからチェックアウトしましたが、チェックインした時に会員割引を適用していなかったと、返金(15%程度)がありました。
支払った金額を疑っていなかったので、お金が返ってくることは有難く、「そうですか」と素直に受け取りました。
07時32分、ホテル発
《移動》
掛川駅南口から北口に抜け、木造駅舎を保存する運動が行われているJR掛川駅を眺め、隣りの天浜線・掛川駅に行きました。
 ※JR掛川駅
01 JR掛川駅舎
天浜線は、旧国鉄の二俣線を引き継いだ天竜浜名湖鉄道が運営する天竜浜名湖線の略称で、静岡県の掛川駅から天竜二俣駅を経由して滋賀県湖西市の新所原駅までの67.7㎞を、ディーゼル車で走っています。
駅舎はJR掛川駅の隣りにあり、階段を上った所に改札口となっており、ダイヤは昼間が1時間に1本、朝・夕の通学・通勤時間帯が2~3本の運行になっている。
 ※天浜線掛川駅
03 天浜線掛川駅
 ※天浜線掛川駅ホーム

05 天浜線
 ※天浜線・車内
07 天浜線・車内
ホテルを少し早く出発したので、トイレを済ませ、乗車券を買って待合い室で待っていると、折り返しになる列車が発車する5分前に着いたので、車内で出発を待つことにしました。
この列車には、この先乗る機会があるのかどうか分からないので、思い出に車内で記念撮影などして過ごし、私達の他に数人が乗っただけで出発しました。
07時54分、掛川駅発
07時59分、西掛川駅着
【=旅=】
08時00分、天浜線・西掛川駅入口発(出発地)
ホームから階段を降り、昨日と同じ場所で出発の看板を持って出発式(撮影)を行い、旅立ちました。 
09 西掛川駅入口(出発地)
朝から風が吹いているので、帽子の耳当てを出して飛ばないようにして、歩きました。
約400m歩くと左側の連祐寺の角に、日本橋から55番目の一里塚跡があり、碑が建っていました。
08時08分、055大池一里塚跡(左側)
11 055大地一里塚
大池一里塚は、手前の葛川一里塚と同じように榎ではなく松が植えられていたようです。
出発して約200m歩くと数は少ないのですが、街道の両側が松並木(大池松並木=Eの命名)になっていました。
08時13分、大池松並木(両側)
13 松並木(掛川)
松並木が終わり、掛川バイパスの手前の右側に、曽我鶴の萩の蔵酒造の醸造元がありました。
100年以上続いた名門の酒造でしたが、平成10年に一度閉場し、平成16年に再開したとのことです。
私は、若い時に日本酒で痛い思いをした経験から、人に勧められない以外は口にすることを極力減らしてきたので、日本酒のことは良く分かりませんが、今度掛川に来た時は立ち寄るか、掛川の夜の街で飲みたいと思います。
 ※萩の蔵酒造(右側)
15 萩の蔵酒造
萩の蔵酒造を過ぎた先で、同年輩ぐらいの男性2人組の東海道ウォーカに会いました。
今日は、掛川から浜松まで(約30㎞)歩く予定で、昨日は約40㎞歩いて疲れたと云っていましたが、年齢を感じさせない健脚に、ビックリしました。
また、話しを聞くと、一人は四国八十八か所お遍路を終え、もう一人の人は進行中で、東海道より優先してお遍路を完遂するとのことでした。
二人は、掛川バイパスと交差する沢田IC南で左折して行こうとするので、パイパスを潜った先の沢田IC北の信号を左折するのが街道だと思いますと伝えると、二人は後から追いついてきました。
街道は、少し先でバイパスと別れ、右方向に進み、東名高速道路の下を潜り、橋を渡った先の右側に寺院がありました。
08時35分、仲道寺(右側)
17 仲道寺(東海道ど真ん中寺)
善光寺の境内に220年前に本堂を建立し、東海道ど真ん中の寺と云っている仲道寺がありました。
男性二人組は、話しながら歩くだけで、特に写真を撮ったりすることもないので、Yumiさんと交代しながら写真を撮っている私達とは違うため、先に歩いて行きました。
08時39分、掛川・岡津~原川松並木
20 松並木(岡津~原川)
岡津・原川の松並木は、掛川市内で、松並木として江戸時代の面影を残す状態で唯一残っているのですが、松食い虫の被害で減少しているようです。
松並木でYumiさんと写真を撮っていると、今度は男性若人ウォーカ2人が追い越して行きました。
松並木を過ぎた左側に、本尊の阿弥陀仏は足痛薬師如来と呼ばれ、旅する人が餅を供えて道中足の痛みに悩まされないように祈願した金西寺がありましたが、私とYumiさんは参拝することなく境内で写真を撮って旅に出発しました。
08時44分、金西寺(左側)
25 金西寺
08時46分、間の宿・原川(左側)
26 間の宿・原川
金西寺を出ると、直ぐ横に「間の宿・原川」の標板が建っていました。
間の宿は、休憩は出来るのですが、宿泊は前後の掛川宿か、袋井宿の許可がないと宿泊が許されなかった宿場で、原川は掛川宿と袋井宿の中間にありました。
間の宿原川で金西寺にお供えする薬師餅が売られ、茶屋や酒屋などが立ち並んで賑わっていたそうですが、現在はその面影もありませんでした。
街道はこの先で袋井バイパスに合流し、瀬川の同心橋を渡り、渡ったところでバイパスの反対側を進むようになるのですが、袋井バイパスは道路の分離帯がブロックされているため、橋を渡ったところでは左に渡れません。
私達を追い越して行った若人2人が、バイパス(右側)を直進しているのが見えましたが、私はそのままでは先の交差点まで行かないと渡れないので、橋を渡った所を右に下る道を進み、バイパスの下を潜って旧街道に出ました。
08時56分、袋井宿絵碑(左側)
29 袋井宿・絵碑
そして旧街道を約200m歩いた左側に、横面に東海道の絵が描かれた駕篭形の大きな箱が置いてありました。
09時02分、駕篭形のゴミ集積庫(国本付近)=右側
31 駕籠形のゴミ箱
駕篭形の箱が珍しく、Yumiさんと写真を撮っていると、ゴミ収集車がきて私達が退くのを待っていました。
最初、私は何で待っているのだろうと思いもう一度ゴミ収集車を見て、初めてこの駕篭形の箱がゴミ集積庫であることを理解し、急いで場所をあけました。
このようなゴミ集積庫は今まで見たことがありませんので、すばらしいアイデアだと感嘆しました。
駕篭形の集積庫が置いてある場所は、袋井バイパス国本交差点から入ってきた処で、先ほど掛川の松並木の処で私達を追い越して行った若人2人が、国本交差点の方から歩いてきて、特に挨拶を交わすこともなく足早に通り過ぎて行きました。
そして駕篭形のゴミ集積庫から約100m先に、袋井に入って最初の松並木があり、東海道の雰囲気を味わいながら旅を続けました。
9時04分、袋井の松並木(その①)
32 松並木(袋井)
 ※行書東海道絵碑(左側)
35 行書東海道絵碑
松並木が終わり、JA遠州の倉庫を左の見ながら約100m歩いた右側に、赤い鳥居が建っていました。
09時10分、富士浅間宮赤鳥居(右側)
36 富士浅間宮
 ※富士浅間宮碑
38 富士浅間宮碑
富士浅間宮は、807年に坂上田村麻呂が富士浅間神社から分霊を移したと云われる古社で、赤鳥居は参道の入口です。
本殿は離れたところにあるので、参拝せずに通りすぎました。
この先から二度目の松並木が始まり、200mほど続いていました。
09時13分、袋井の松並木(その②)
39 松並木(袋井)
松並木を過ぎた左側に袋井東小学校があり、一里塚跡がありました。
09時22分~09時27分、056久津部一里塚跡(休憩)
 ※進行左側の碑
41 056久津部一里塚跡(左側)
 ※進行右側の碑
44 056久津部一里塚跡(右側)
左側の一里塚跡は、小学校の敷地に柵が設けられて復元塚の頂部に松が植樹され、石碑が建てられていました。
右側の一里塚跡は、四角柱(鋼製)に一里塚跡が記されていました。
この扱いの差は、敷地などのことが理由としてあるのでしょうが、復元するのなら両方してほしいなと思います。
この一里塚で写真を撮ったりして休憩していると、朝方の四国お遍路組の二人とまた出会いました。
 E=また会いましたね
 男=小学校の裏のお寺(妙日寺)で、トイレと休憩をしていました
 E=トイレがあるのですか
 男=使わせてもらいました
また、一緒に歩くことになり、私とYumiさんは後ろを歩くことにしました。
5分程歩いた辺りからトイレに行きたくなり、地図に載っているTSUTAYAでトイレを借りることにし、四国お遍路組の二人に挨拶して別れました。
09時37分~9時41分、トイレタイム(TSUTAYA)
トイレに行く時は、Yumiさんがザックをトイレの中に忘れないようにするため、私が預かります。
そのため、私は自分のザックを背負ったままYumiさんのザックを片方の肩に掛けてトイレに行くので、トイレに行くのも大変です。
しかし、過去に何度か見ず知らずの女性にトイレの探索をお願いした経験があるため、昨年の後半から一緒の時はどこに行ってもこのようにしています。
トイレを済ませ、また街道に戻り、七ッ森神社を過ぎた処から松並木が始まりました。
09時46分、袋井の松並木(その3)
46 松並木
松並木は約100m続き、その先の新屋交差点で県道(東海道)と合流するのですが、街道は新屋交差点を左折し、約10m程右折(ふとん店の前)するのを間違えて、ふとん店の後ろを右折してしまい、ふとん店の周りを一周することになりました。
09時49分、道標(右側)
49 道標
そして、街道に戻った一つ先の十字路の右角に、常夜灯が建っていました。
09時58分、新屋の秋葉山常夜灯(右側)
52 新屋の秋葉山常夜燈
街道は、この先の袋井市役所の前に出て、道路を横切り市役所総合センターの後ろを周るようにマップは出来ているのですが、市役所が建てた道案内は市役所の前の道路を左折し、袋井市役所南交差点を渡って右折するようになっていました。
私はYさんが作成したマップを優先し、市役所総合センターの後ろを周る道で進みました。
10時05分、袋井宿碑(左側)
55 袋井宿・天橋
 
※袋井宿人形
58 袋井宿人形
袋井市役所総合センター横の道路を渡った左に、袋井宿碑が建っており、碑の右側の橋を渡った右側に東海道ど真ん中茶屋がありました。
10時06分~10時21分、東海道ど真ん中茶屋(右側)=休憩
61
日本橋を出発してから16日目に、中間点の茶屋に到着しました。
この茶屋は初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出茶屋ノ図」をモチーフに建てられた茶屋ですが、茶屋に入るとボランティアの方々が出迎えて下さり、お茶を出したり、写真を撮ってくださったりと、温かく迎えて下さいました。
《ビックリ》
茶屋の人に絵巻物ガイドやチラシを頂きながら、記帳するためにノートを見て”え!!”と声が出てしまいました。
この旧東海道夫婦二人旅で、Yさんのルートマップと同じように道標として活用しているHP「風の吹くまま」の平次隊長、佐武隊員が前日(2月10日)にこの茶屋に来ていたのです。
HPで掛川まで旅してきたことは知っていたのですが、まさか直前に同じ処を旅していたとは思ってもいなかったので、記帳を目にした時は驚くとともに、歩く場所は多少違いますが、同じ東海道を同じ時に歩いていることが分かりとても嬉しくなるとともに、平次隊長と佐武隊員が元気に歩いていることを考えたら「頑張ろう」と元気が蘇ってきました。
二人のエネルギーが、茶屋に残されていたようで、私が貰い受けました。
温かいお茶を頂いてひと休みしたので出発しようと茶屋を出た処で、ボランティアの方が「写真を撮りましょう」と声を掛けて下さいましたので、初代広重が描いた「東海道五十三次袋井出屋茶屋ノ図」の絵碑の前でお願いしました。
 
※出屋茶屋・絵碑(右側)
64 袋井出茶屋絵碑
袋井宿は街道沿いに史跡や絵碑など、観光客誘致に力を入れていることが、他の自治体を旅して来るととても感じます。
 
※袋井宿・絵図
68 袋井宿・解説絵碑
10時25分、東本陣公園(右側)・袋井宿場公園(左側)
65 袋井宿・東本陣跡
本陣跡に復元された門、少し先の左側に問屋場があった宿場公園が、整備されていました。
10時28分、問屋場跡(左側)
70 問屋場跡
袋井宿場公園を出て、静橋北交差点を渡り、約150m歩いた橋のたもと左側に高札場跡がありました。
10時33分、高札場跡(左側)
72 高札場跡
橋を渡った先の十字路の左角に、葛飾北斎が袋井宿を描いた絵碑が建っていました。
10時40分、北斎絵碑(左側)
74 葛飾北斎絵碑
北斎の絵を堪能した後、袋井中学校北交差点の先に袋井西小学校があり、校門に「東海道どまん中西小学校」の看板が「袋井市立袋井西小学校」の看板と一緒に掲げられていました。
10時45分、東海道どまん中西小学校(左側)
76
袋井市は、寺院、学校、その他で東海道のど真ん中にあることを街全体で活用しているので、思い切って「東海道ど真ん中市」変更したら面白いのではないかと思いました。
10時47分、澤野医院記念館(左側)
78 澤野医院記念館
学校の隣に、江戸時代の末期に開院し、昭和9年に病棟が建築され、江戸末期からの医療建築が見られる澤野医院があり、無料で見学(土・日のみ)できるようになっていました。
建物は白亜の建物で、ひときわ目立っていたので、館の中に入ったのですが、靴を脱着して観ることなく外から写真を撮って先に進みました。
10時50分、寺沢家長屋門(右側)
81 寺沢家長屋門
旅をする前の準備で史跡のチェックで漏れていた、明治元年に建てられた長屋門の家がありました。
旅をしていて目を引く建物でした。
11時01分、木原松橋道標(右側)
84 木原松橋道標
街道は少し先で県道(東海道)に合流し、県道を川井交差点、川井西交差点を通り、左の中古車センター先の分岐を右にに入った先に、日本橋から57番目の一里塚跡があり、碑が建っていました。

11時10分、057木原一里塚跡
 
※右側の跡碑
86 057木原一里塚跡(右側)
 
※左側の跡碑
88 057木原一里塚跡(左側)
木原一里塚は、右側の一里塚跡碑、その約50m先に左側の一里塚碑が建っていました。
右側の一里塚跡碑は、ペイントが剥がれて読める状態ではないので、予備知識がないと見落とすと思います。
しかし、当時はこの右側の標柱の辺りに一理塚があったのを考えると、一里塚碑が分かるように明示してほしいと思いました。
右側の一里塚跡碑に比べ、約50m先の左側にある一里塚跡碑は、塚も復元され、榎が植えられ、周りも綺麗に整備されていました。
一里塚跡から約100m先の右側に許禰神社があり、境内入口左に木原畷古戦場の跡碑がありました。
11時15分、許禰神社(右側)
91 許禰神社
11時16分、木原畷古戦場跡(右側)
92 木原畷古戦場跡
木原畷の戦いは、武田信玄が木原に陣を張り、浜松城の徳川家康の偵察隊と衝突した戦いです。
古戦場の跡碑の横に、徳川家康が腰掛けたという石(一段高い石)がありました。
しかし、石は新しいので、本当に今から400年前の石なのかなと?思い、写真だけ撮って座りませんでした。
11時18分、木原大念仏発祥の地(右側)
95 木原大念仏発祥の地・道標
街道は、この先で県道(東海道)と合流し、袋井市と磐田市の市境となり、袋井宿から見付宿に入りました。
11時25分、磐田市境標柱(左側)
97 磐田市境標柱
磐田市は、サッカーのジュビロ磐田の本拠地ですが、見落としているのか看板などは見えません。
西島交差点を過ぎたところで、Yumiさんに「食べられるところがあったら、お昼にしよう」と話し、辺りを見渡すと手打ちうどんの店が見えたので、道路を横切りその店に向かいました。
《昼食》
11時30分、昼食(三州庵西島店)=右側
98 三州庵西島店
 ※注文した天ぷらうどん

99 てんぷらうどん
昼食で入った店は、手打ちうどんのチェーン店で、天ぷらうどんを注文しました。
《Yumiさんの食事の注文》
Yumiさんにメニューを見せて食べたいものを聞いても、どれにするか決められなくなっているので、私がYumiさんに確認して同じものを二つ注文します。
何故、同じものを注文するかと云うと、違うものを注文するとYumiさんが必ず「私もそれが良かった」と云うからです。
以前は、「だったら云いなよ」と怒ったのですが、最近はそのことが分かっているので、基本的に二人が好きなものを選んでYumiさんに聞くようにしています。
《手打ちうどん》
店内にはまだ誰も入っておらず、開店直後の一番客だったようです。
うどんは関東で食べ慣れているものより細く、麺は手打ち独特のこしの強さを感じることなく、どちらかと云うと「きしめん」を食べているような食感でした。
私は、また食べると聞かれましたら、?というのが食べた感じでした。
昼食を摂り、到着地に向けて再び出発しました。
11時58分、三州庵西島店発
風はビュー、ビュー吹いており、帽子が飛ばされないように耳当てを出したり(耳当てを出すと帽子の押さえになるため)して歩きましたが、太田川に架かる三ケ野橋を渡る時は、帽子を手で押さえながら向かい風との戦いで、Yumiさんも大変そうでした。
12時06分、三ケ野橋
100 強風の三ケ野橋
橋を渡った処で堤防に沿って左折し、直ぐに右側の階段を下りて進んだのですが、堤防が防風の役目となったのか風は少し和らぎました。
 
※古道への道
101 江戸の古道への道
 ※道標・三ケ野(左側)
102 三ケ野道標
そして、堤防を下りて100m程歩くと、三ケ野の松並木がありました。
12時11分、三ケ野松並木(左側)
103 三ケ野松並木
本数は少ないので、枯れないで東海道の面影を残してほしいと願うばかりです。
松並木が終わり、小さな橋を渡ると木々が蔽い茂った、上り坂になりました。
12時14分、明治の道・みどりのトンネル
104 明治の道・緑のトンネル
写真以上に実際は薄暗いので、「夏は涼しいだろうな」と思いながら今日の旅で、初めての坂を上りました。
坂を上りきった左側の三ケ野公会堂の処に、いくつかの碑が建っていました。
12時21分、明治の道道標(左側)
109 明治の道・道標
12時21分、鎌田山薬師道・道標(左側)
110 道標
 ※車井戸之跡(左側)

106 車井戸之跡
江戸時代、坂の上には井戸がなく、坂の下まで水を汲みに行っていたので、鎌田の金剛院が車井戸を掘ることになり、1847年に「従是鎌田山薬師道」の道標が建てられたそうで、時代の経過を感じる道標です。
また、車井戸の碑は、掘られた車井戸の跡に建てられたようです。
住宅や工場が立ち並ぶ中を進んでいると、病院の前に虹のマークの薬局があり、写真を撮ろうかどうか考えているうちに、交通量の多い薬局の前の十字路を渡って、通り過ぎてしまいました。
街道は、十字路を渡った処から下り坂となり、下ったところの養護学校の前に格子戸の家がありました。
12時35分、格子戸の家(右側)
111 格子戸のある家
両側で10本位の松並木を過ぎると国道1号に合流し、その右側の小高い丘の上に「遠州鈴ケ森」の看板が見えたので、Yumiさんには内容を話さすと立ち寄らないと云うので、話さずに立ち寄りました。
12時43分、遠州鈴ヶ森(右側)
113 遠州鈴ケ森跡
江戸時代の処刑場の跡で、日本左衛門の首が晒されたと云われており、国道沿いから階段を上ると小さい碑が建っているだけで、説明板などはありませんでした。
Yumiさんは、ここがどのようなところなのか分からないで、モデルになっています。
さて、国道に戻り少し先のガソリンスタンドの前で、分岐した道を右に進み、富士見町東交差点の手前を渡った左側に、三本松御旅所と書かれた看板が建てられていました。
12時48分、三本松御旅所(左側)
115 三本松御旅所・神輿の休憩所
御旅所は、神輿巡航の時に休憩する場所で、垣根で囲われていました。
Yumiさんに「ここで写真を撮ろう」というと「嫌です」と断られてしまい、撮ったのが上の写真で撮っている間、私の横にいました。
御旅所から約300m先の左側に秋葉山常夜灯、その少し先の坂の手前を右に入った処に、元門と元天神道の道標が建っていました。
12時53分、秋葉山常夜灯(左側)
116 秋葉常夜燈
12時56分、元門と元天神道碑(右側)
117 元門之跡
見付天神につながる道が元天神道で、江戸時代初期は見付天神社への参道でした。この元天神道の入口付近を元門と呼ばれ、見付天神裸祭りの時は、清めの榊が2本立てられるそうです。
街道は、この先から下り坂となり、愛宕神社の裏手にある阿多古山一里塚跡に行く道を探しながら歩いていると、坂を下りきってしまいました。
下ったところで、近くにいた人に聞くと、横の階段を上がったところと云われ階段を上り、愛宕神社の裏の愛宕山に向かいました。
愛宕山といっても小高い丘で、頂上に一里塚跡碑が、そしてその横に国土地理院の愛宕山(標高=31.0m)の三等三角点(写真=Yumiさんの左下)が設置されていました。
13時02分、058阿多古山一里塚跡(左側)
121 阿多古山一里塚
 ※一里塚跡碑・三等三角点

123 一里塚碑と三角点(愛宕山)
 ※愛宕神社
125 愛宕神社
愛宕神社の境内から階段を降り、街道に戻って道路が合流する右側に、木戸口跡がありました。
13時07分、見付宿木戸口跡(右側)

126 木戸口跡
街道は見付宿場通りとなり、中川橋を越えると、右側に見付宿の石柱が建てられていました。
13時17分、東海道見付宿碑(右側)
128 見付宿碑
見付宿碑の前の道路を越えた静岡銀行見付支店の前に、問屋場跡の碑が建っていました。
13時19分、問屋場跡(右側)
129 問屋場跡
問屋場跡先のT字路の信号を渡った道路反対側の予備校の隣りに、見付宿脇本陣跡がありました。
13時20分、見付宿脇本陣跡(左側)
130 見付宿・脇本陣跡
脇本陣跡から真っ直ぐ北井上小路交差点を渡り、直ぐに交差点を右に渡って、左に進んだ右側に本陣跡がありました。
13時22分、見付宿本陣跡(右側)
132 見付宿・本陣跡
本陣跡から最初の路地を左に入った処に、見付宿公園があり、トイレに寄りました。
公園内には、見付宿の顔写真用の人形があったので、
 E=Yumiさん、顔出して
 Y=えー、するの?(と、云いながら顔を出すのですが、顔出しが少ないので)
 E=もっと、前に出して
と云って撮ったのが下の写真です。
13時23分、見付宿公園(右側)
134 見付宿人形
公園の裏に、明治8年に開校した日本最古の木造擬洋風建築の小学校で、明治16年に2階部分が改築され現在の形になっている、旧見付学校がありました。
13時26分、旧見付学校(右側)
135 見付旧学校
入場は無料で、受付に寄ってパンフレットと旧赤松家の案内チラシを受け取り、靴を脱いで草履に履き替え学校の中に入りました。
教室は、明治の頃の机の並び方になっていたので、「Yumiさん、座ったら」と云ったら、何も云わずに座りました。
 ※明治の教室
137 教室
その他に雛飾りや5階の太鼓楼なども見学し、外に出ました。
学校の裏に幕末に開設された磐田文庫がありましたが、立ち寄りませんでした。
玄関のベンチに座り、靴を履いたのですが、ここでYumiさんが手提げ袋を置き忘れました(この時は気が付いていませんが)。
学校に入る階段の下で写真を撮り、次の史跡に向かいました。
公園を抜け見付宿場通りに出て、右折して直ぐの右側に脇本陣跡がありました。
13時42分、見付宿脇本陣・大三河屋門(右側)
145 見付宿・脇本陣(大三河屋門)跡
大三河屋は旅籠でしたが、1805年に脇本陣となりこのような門構えになったそうです。
門は、その後旧中津川家に移築され、平成19年にこの場所に移築復元されたそうです。
《忘れ物》
この史跡から約100m歩いたところで、Yumiさんが持ち歩いていた手提げ袋がないことに気が付き、
 E=Yumiさん、手提げは?
 Y=手提げ?
 E=今日、持って歩いていた黒のバックだよ
 Y=あ、ない
 E=学校で靴を履いた時じゃない?
といい、急いで旧見付学校に戻りました。
学校入口の階段の近くまで来て、靴を履いたベンチを眺めると、黒いバックが見えましたので、
 E=Yumiさん、あったよ
 Y=あー、よかった
 E=取りに行っておいで
と云って、Yumiさんに取りに行ってもらいました。
忘れ物を取って、また同じ見付宿場通りを歩き、姫街道の起点となる交差点に向かいました。
13時55分、姫街道起点(右側)
148 姫街道起点
姫街道は、江戸時代以前の徒歩時代における、主要街道の別ルートの一部に対する呼び名だそうである。
この見付宿からの姫街道も、東海道の脇街道で、浜名湖の北側~本坂峠~御油宿に至る60㎞の街道です。
(写真の右に写っている道路が、姫街道です)
姫街道入口を左折して磐田駅方向に約100m歩いた右側に、木戸跡がありました。
13時58分、木戸跡(右側)
150 木戸跡
磐田駅に一直線に作られた天平(てんぴょう)通りを磐田駅に向かって歩き、磐田南高校を通り越した右側に国分寺があり立ち寄りました。
14時10分、国分寺(右側)
152 国分寺
国分寺を出て天平通りを渡った反対側に、天平年間(728~748)に遠江国司の桜井王が国府の守護として勧請したと伝えられ、境内の建物は江戸時代に建造された由緒ある「府八幡宮」があり、立ち寄りました。
14時13分、府八幡宮(左側)
154 府八幡宮
Yumiさんと拝殿に進み、お賽銭を奉納し、Yumiさんの病気平癒と旅のご加護をご祈願しました。
ところがこの写真を撮った時、デジカメの電池が充電の合図を知らせ始めたので、到着地で写真を撮るまで電池を持たせたいと、撮影を極力減らすことにし、府八幡宮は1枚だけの写真で我慢しました。
府八幡宮から天平通りに戻り旅を続けていると、歩道にサッカーのジュビロ磐田に所属した選手の手形や足形が、サインと一緒に石板で埋め込まれていました。
14時26分、武田修宏さんの足形とサイン(右側)
155 ジュビロ磐田・武田修宏の足形
サッカーは嫌いではないのですが、ジュビロ磐田で知っている選手はほとんどいないので、石板で埋め込まれている選手で知っていたのは、ほんの数人でした。
その中で知っていた、武田選手の石板を撮影しました。
今日の到着地は、武田修宏さんの足形とサインの石板が埋め込まれている1つ先の、東町交差点です。
交差点に表示がないので、地元と思われる方に地図を見せて、間違いないことを確認し、到着式(撮影)を行いました。
14時29分、磐田駅・東町交差点着(到着地)
156 磐田・東町交差点(到着地)
この写真を撮ったところで、電池の容量が無くなり、撮影ができなくなりました。
間一髪のところで、到着地の写真を撮ることができ、助かりました。
電池は昨晩充電しておいたのですが、今日は多くの写真を撮ったのと、新しく購入したばかりで予備電池を持っていなかったので、運良く終わって助かりました。
【帰路】
到着地の東町交差点から磐田駅は、駅前信号を渡った先にあり、思っていたより近く感じました。

13時32分、磐田駅着
事前に購入しておいたジバング切符で入場し、ホームで電車を待ちました。
13時41分、磐田駅発(掛川駅着、14時55分)
磐田駅から掛川駅までは、袋井、愛野の3駅で、車両は3両編成でしたが、前回の島田からの乗車に比べ空いていたので、楽に座ることができました。
私は、掛川駅までの十数分の間、外の景色をぼやーと眺めながら、ここを2日掛けて歩いたのかと、少し感傷気分に浸っていました。
15時03分、掛川駅発(新幹線こだま)
掛川駅で在来線から新幹線への改札を通り、新幹線のホームに行きました。
自由席に乗るためホームを眺めると、既に各ドアとも7~8人の人が並んでいたのて゜、4号車(自由席は1~7、13~15号車)に並びました。
入線して来たこだまの車内を見ると思いのほか混んでいます。
座れるか心配になりましたが、運よく3人掛けの席が空いていたので、座席を確保し、ザックを網棚に上げ、お菓子を食べたり、綺麗に見える富士山を見たりしてのんびり過ごすことができました。
16時06分、JR小田原着
16時11分、小田急・小田原発
16時06分に小田原駅に着き、新幹線から小田急線に乗り換えました。
5分あればと思っていたのですが、JRの改札口を出た後に後ろを見るとYumiさんの姿がありません。
どこ行ったと改札口を見ると、JRの駅員に乗車券が出てこないことを云っているところでした。
私は、小田原までの乗車券なので出てこなくて当然なのですが、今回の旅では必ず改札口で乗車券が出てきたので、今回も出てくるものと思っていたようです。
私は、駅員さんに「出てこなくて良いのです。ご迷惑をかけました」と云ってお詫びし、Yumiさんに「無くてもいいんだよ」と話し、小田急の乗り換えを急ぎました。
パスモを移動の途中で用意させ、改札を過ぎると出発の案内放送があり、Yumiさんを急かせて電車に乗り途中で乗り換えながら、最寄り駅に着きました。
最寄り駅に着く前に、途中で食事を済ませて帰ろうということになり、家の近くでビールで乾杯し、食事をして帰りました。
19時30分、自宅着
【旅の総括】
《新幹線のトイレ》
旅を「磐田駅」近くで終わり、掛川駅まで在来線で移動し、掛川駅から新幹線に乗りました。
新富士駅を過ぎたところで、Yumiさんに「トイレは?」と聞くと「行きたい」というので、Yumiさんを連れてトイレにいきました。
残念ながら、今のYumiさんは一人で、新幹線のトイレは使えないのです。
まず、女性用のトイレに入って鍵を掛けてもらい、その間に私も小用を済ませ、戸口のところでYumiさんを待っていました。
 E=大丈夫?
 Y=大丈夫
と返事があって扉をあけようとしたら、「どうやって開けるの」といいながら鍵を探している感じです。
扉に付いているマークを見ると赤と青の中間だったので、とっさに青マークになるよう動かすと鍵が外れ、扉が開きました。
本当は、このように開け方が分からなくなることがあるので、鍵を掛けないで私が外で見ていたりするのですが、未施錠だと未使用表示となり人がきてしまいます。
今後、新幹線に乗った時はどうするか、考えたいと思います。
《Yumiさんの頑張り》
今回の旅は、3日間で38.7㎞と40㎞にも満たない旅でしたが、ホテルに2泊したり、3日間歩いたりと、初めてのことがいくつかありました。
今回の旅では、新金谷で蒸気機関車を見ることができたり、きつい上り・下りの小夜の中山越えがあったり、デジカメを壊したり、東海道ど真ん中を通過したり、HP風の吹くままの作者が直前を旅していたり・・・と、いろいろなことがありました。
このようなハプニングが、旅の楽しさであり、思い出だと思います。
Yumiさんは、2日目に足裏が痛いと云いだしたので、洗浄綿やテープ等で足裏の痛い部分を治療し、3日目も痛いのを頑張って歩き通してくれました。
事故に遭うこともなく、風には悩まされましたが、3日間とも天気に恵まれて終わることができました。
今回の旅で、東海道のど真ん中を通過できたことは、今までの積み重ねの結果なので、これからもYumiさんと楽しく旅を続け、認知症でも東海道を完歩して三条大橋に立てることを実証したいと思います。

【次回の旅】
次回は、今回の到着地である磐田・東町交差点 ⇒見付宿 ⇒ 浜松宿 ⇒舞阪宿 ⇒ 新居宿 ⇒ 新居町・駅前信号まで、一泊二日の旅をする予定です。
次回は、天竜川を渡り、浜名湖を眺めながらの旅になりますので、ウナギや餃子など地場産品の美味しいものを食べたいと考えています。
どこか、ご推奨のお店がありましたら、教えて下さい。
お願いします。
なお、値段は年金生活になる懐中で、対応できる処をお願いします。

応援メールやブログのコメント(返信をご希望の場合)は、以下のメールをご利用下さい。
  専用メール  
eiyumitokaido@yahoo.co.jp

【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】晴れ・風強し
【宿場】(28)見付宿⇒(29)浜松宿
【行程】歩行距離=13.37㎞ 総距離=262.74㎞

磐田・東町交差点⇒(1.92㎞)⇒059宮之一色一里塚⇒(4.79㎞)
⇒060安間一里塚
⇒(4.46㎞)⇒061馬込一里塚⇒(2.20㎞)⇒(番外編・浜松城)
⇒浜松・伝馬町交差点

【ルート図】
 宿場(黒囲みが第17回旅の宿場)
09 17回宿場
 ↓旧東海道の旅・進捗状況
  
(ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第17回
 ↓第17回の旅ルート
 
(磐田・東町交差点
 ⇒ 浜松・伝馬町交差点)
第17回ルート
【旧東海道の旅】
《支度》
〔衣服〕

朝と昼間の寒暖の差がまだ激しいので、Yumiさんの着るものをどれにしようか頭を痛めました。
一番下に撥水性の良いファイントラックの下着、長袖シャツ、純毛シャツにし、その上に着るコートはフリースを脱着するコートにしようかと考えましたが、脱いだ後のザックへの保管などを考え、シャツの上に裏地付チョッキ、インナーダウン、フリース、薄いジャケットにし、薄いフリースを予備に持参することにしました。
私も、一番下にファイントラックの下着を着用し、半袖下着、春用シャツ、裏地付チョッキ、インナーダウン、ジャケットにしました。
〔ザック〕
Yumiさんのザックは、前の週に参加したウォーキングの用具を再点検し、ザックは二室の下段に折り畳み傘、化粧道具、着替え(下着・靴下)等を、上段は脱いだものが入るように空にしました。
私のザックは、横開きができるドウター30㍑の上蓋付きに変更し、上蓋に血圧計、服用薬、髭剃り、整髪セット、予備電池等を入れ、ザックに応急用品、折り畳み傘、着替え(下着・靴下)等を入れました。
〔ポシェット〕
以前は、ウエストバックにしていたのですが、ポシェットの方が使いやすいので、最近は二人ともポシェットにしています。
財布、パスモ、切符(ジバング)、鍵、カメラなどの貴重品類は、全てポシェットに入れています。
Yumiさんはティッシュを沢山使うので、ポシェットが一杯になってしまうため、携帯電話や手帳などの貴重品類は、ザックの中に入れました。
朝は、磯辺巻にして焼き餅を食べることにし、その準備を行い、
4時に目覚ましをセットし、ベットに入りました。
《準備》
4時、目覚ましを知らせるチャイムで、「Yumiさん、旅に出掛けるよ」と声を掛け一緒に起き、いつもと同じ流れで朝の準備を行い、着替えの前に足のケアをしました。
今日の旅は、ほとんどアップタ゜ウンのない道ですが、Yumiさんの膝痛予防にシップ薬を両足の膝の両側とふくろはぎに貼り、塗り薬も膝~足首まで塗り、その後に私の足のケア(シップ薬は両足のふくろはぎのみと塗り薬を膝~足首)をしました。
また、朝食の支度はほとんど私が行い、Yumiさんは入念に化粧をしていました。
Yumiさんはあまりお餅が好きでないのですが、お餅は腹持ちが良いのと、お腹が空いたら途中で何か食べれば良いと考え、お餅があまり好物でないYumiさんにも食べてもらいました。
そして、準備を整え、予定した時間に家を出発し、小田原に移動しました。
《最悪の花粉症》
朝の道中から花粉症の症状が出て、目が痒くて涙目、鼻水がたらたら、くしゃみは5連発、6連発の状態で、ティッシュが鼻のところになかったのは「いつ?」というくらいの状態です。
ティッシュはYumiさんの分も含めて多く持参しましたが、この先足りるのか心配な状況です。
小田原駅でトイレを済ませてから新幹線のホームに行くと、自由席車両の各乗り口は6~7人の人が並んでいたので、こんなに沢山の人が乗るの?と思いながら4号車の乗り口に並びました。
新幹線が入線し、乗車しようとすると誰も扉の前に進まないので、私とYumiが最初の乗車となり、多く人が並んでいたのが数分後に到着する「ひかり」を待っていたことが分かりました。
私は、ひかり号が小田原に停車するとは思ってもいなかったので、乗車待ちの行列が理解できました。
8時03分、小田原発(こだま635号)
こだま号は、各駅で「のぞみ」や「ひかり」の待ち合わせで、各駅とも5分程度停車し下車駅の掛川に到着しました。
途中、三島から新富士間の富士山の眺望を楽しみにしていましたが、薄いもやで鮮明に見えませんでした。
 ※靄に包まれた富士山
004 車窓からの富士山
そして、掛川で在来線に乗り換え、目的地の磐田に向かいました。
静岡県内の在来線の駅は、東京のように電車が停まる位置が明確に明示されていないため、どの番号のところに並んで待ったらよいのか分かりません。
適当に並んでいたら場内放送があり言葉に従って乗り場を替えたら、今まで並んでいた処でも扉が開いていました。
掛川駅に着いた3両編成の電車は、乗車率120%程度の混雑で、とても座れる状態ではありませんでした。
ただ、静岡県内の電車に乗って感じたのは、
 ①.電車の乗り口が、良く分からない
 ②.人の顔を平気で、ジロジロと眺める
です。
特に、人の顔をジロジロと眺められるのは気分の良いものではないので、やめてもらいたいものです。
これは歩いていても同じで、特に年配の人に共通しています。
9時30分、磐田駅着
前回の旅で撮れなかった駅舎を撮影し、駅前の善導寺大クスを出発地に行く前に見に行きました。
 ※磐田駅・駅舎
007 磐田駅
9時34分、善導寺大クス(左側)
008 善導寺の大樟(くす)
大クスの樹は、磐田駅を出ると左側にバスロータリーがあり、バス停の隣りの一段高くなった場所にドーンと立っていました。
大くすの樹を記録に残した後、今日の出発地である東町交差点に行きYumiさんに、出発式の看板を掲げてもらいハイ・パチリと、出発の儀式を行って旅をスタートしました。
【=旅=】
09時37分、磐田・東町交差点(出発地)
010 磐田・東町交差点(出発式)
スタート直後は、きょろきょろと左右を眺めたり、持参した地図と見比べるなどして旅に慣れるため、目と頭のストレッチをしながら歩き出しました。
約650m歩くと右側に中泉公民館があり、公民館の前の道路沿いに、江戸時代、大正時代の中泉の絵図が建っていました。
09時48分、江戸時代・大正時代中泉絵図(右側)
013 江戸&大正の中泉絵図
公民館前から約550m歩くと旧東海道が県道に合流し、合流する交差点の右側に明治35年創業で千年長寿祈願の酒を造っている千寿酒造がありました。
先日(8日)、山の会の仲間と行った東京・福生市の石川酒造と違い予約すれば土・日でも見学ができるのですが、立ち寄れば試飲してお酒を買いたくなるので、数日前に酒造見学したので、今日は我慢して立ち寄らずにそのまま先に進みました。
東京都福生市の石川酒造は、平日のみ見学ができますが、要予約です。
千寿酒造のある交差点から約240m歩くと、右側にパチスロ店JUMBOパークがあり、その屋上から恐竜の頭が見えました。
10時00分、屋上に恐竜(右側)
015 恐竜?
 ※パチスロ店JUMBOパークの恐竜
017 ゲーセンの恐竜
屋上の恐竜を眺めながら店舗を通り過ぎて振り返ると、答えが分かりました。
私は、お店にピッタリの実にユーモラスで、遊び心が一杯なアイデアだと感心しましたが、Yumiさんは「変なの」と云っていました。
JUMBOパークから万能橋交差点を渡り、約250m歩くと日産の販売店があり、それを過ぎた処の下万能バス停の前に、日本橋から59番目の一里塚跡碑が建っていました。
10時08分、059宮之一色一里塚跡(右側)
019 宮之一色一里塚跡
資料では、右に石碑、左に説明板と記されていましたが、左の説明板は確認できませんでした。
右の跡碑は、塚を模した石段を上ったところに、石碑が立てられていました。
一里塚跡碑から約270m歩いた左側に魚勝があり、その手前に木屋で囲まれた常夜燈がありました。
10時13分、秋葉山常夜燈=龍燈(左側)
022 宮之一色秋葉山常夜燈
常夜燈は、木製の建屋の中に石燈籠が置かれており、木屋は平成8年に部分改修し保存されています。
石燈籠は、文政11年(1828年)に作られたもので、竜の彫り物がある竜燈と呼ばれ、数ある灯篭の中でも大変貴重なものだそうです。
木屋は、風除けのために灯篭の周りを板で囲み、上部は灯りが漏れるように格子になっている。
陸の灯台として大活躍し、この先にも数多くの木屋の常夜燈が立っていました。
木屋の常夜燈から約450m歩くと右側にファミリーマートがあり、それを過ぎた左側の久野塗料店の角に「東海道の道標」が立っていました。
10時22分、「東海道と歴史の道」道標(左側)
025 東海道と歴史の道標柱
東海道に残る史跡を大切にしていることが感じる道標です。
道標から約120m先の左側の沿道に、松並木の名残りがありました。
10時24分、宮之一色松並木(勝手な命名)=左側
026 東海道の松
後ろの松から、少し間隔があいた状態で、10本程度の松が立っていました。
松並木を過ぎ、森下交差点の手前で道が分岐し、旧東海道は左に進み森下南交差点を渡ります。
森下南交差点から約300m歩くと右側に若宮神社があり、境内の隣りの森下公園の中に西之宮学校跡の碑が建っていました。
10時33分、西之宮学校跡(右側)
030 西之島学校跡
西之島学校は、明治3年に豪農の熊谷三郎馬が静岡藩士の大久保おろかを招いて開いた私塾で、その後学校になったそうです。
公園から旧街道に戻り約500m歩くと県道262号線の交差点があり、交差点を右折して天竜川橋に向かいましたが、右折する場所を間違えないように気を付けながら歩きました。
地図を見ながら歩いていると、右折する交差点の手前右側に、長森立場跡の碑が建っていました。
10時43分、長森立場跡・長森かうやく跡(右側)
032 長森立場跡・長森かうやく
立場は、江戸時代に街道の途中(宿場の間)に設けられた施設で、休憩所として茶屋や売店が建てられ、賑わったところだそうです。
また、長森かうやくは、江戸時代の前期から山田与左衛門家で作り始めらた家伝薬で、アカギレや切り傷に抜群の効能があるとして旅人の土産品として人気を博していた。
立場跡の先にある交差点を右折し、天竜川を渡る橋に向かいました。
風はだんだんと強くなり、持参している地図が飛ばされないように気を付けて歩くと、天竜川を渡る橋に近づいてきました。
天竜川に架かっている最初の橋は、長森交差点を左折する旧天竜川橋ですが、ここには歩道がないので、そのまま通り過ぎその先の池田交差点を左折しました。
10時50分、池田入口交差点
池田入口交差点を左折したところは風が強いのですが、温度も高くなってきたので、Yumiさんに「チョッキを脱ごう」と云うとブツブツ云うので、「寒くなったらまた着るから一度脱いで」と説得し脱いでもらいました。
また、ここで水分の補給もしました。
10時58分、新天竜川橋
 ※新天竜川橋(右)・旧天竜川橋(左)
038 新天竜川橋(右)と旧天竜川橋
新しく出来た新天竜川橋(隣りの鉄橋は旧道)の歩道は、幅が広くとても歩きやすく出来ていました。
私とYumiさんは、全長が912mの長大橋を向かい風が吹く中、頭を下げてもくもくと歩きました。
また、富士山が見れるかなと思いながら何度か後方を確認しましたが、富嶽を眺望することはできませんでした。
そして、橋を渡り切る約50m手前に、日本橋から250㎞の距離標が建っていました。
11時10分、250㎞距離標(左側)
043 250㎞標柱
東海道の半分を超えたことを証明する距離標になるとともに、意味性認知症(要介護2)のYumiさんが、日本橋から自力で歩いてきた証明書にもなりました。
残念なのは、風が強くて、みだれ髪の写真になってしまったことです。
新天竜川橋と旧天竜川橋の間に小さな公園があり、新橋建設による東海道の歩き方が、いくつか色分けされて記されていました。
11時13分、中野町マップパネル(右側)
046 中野町絵図
私とYumiさんは渡った処を左折して天竜川西交差点を横切り約120m歩くと、六所神社の裏手に舟橋之碑の石碑が建っていました。
11時19分、舟橋之碑(右側)
048 船橋之記の碑
急傾斜を降りて石碑のところで写真を撮り、六所神社の裏手から境内に入りました。
11時20分、六所神社(右側)
050 六所神社
六所神社は、お賽銭を奉納し、Yumiさんの病気完治と旅の御加護をご祈願しました。
いつもは周囲に聞こえないように心の中でご祈願するのですが、周りに誰もいなかったので声を出して(普通の大きさ)ご祈願すると、とても気持ちが良く、清々しい気分になったので、これからは周りに人がいなかったら声を出してご祈願しようと思いました。
神社を出ると中野町道路元標と東海道案内パネルが、右側の六所神社の入口脇に建っていました。
11時21分、中野町道路元標(右側)
053 道路元標
道路元標は、大正9年に各市町村に1ケ所設置され、市町村の起終点を示す道標で、現存する1,600基の一つでだそうで、(当初は12,044基)静岡県内ではこの道標だけが現存しているそうで、貴重な道標です。
 
※東海道案内パネル(右側)
052 東海道案内標識
11時24分、船橋木橋跡(右側)
055 船橋木橋跡
船橋は、橋のない河川に多数の小船を並べて綱や鎖で連結し、その上に板を敷いたものを云うのだそうですが、ここの船橋は、明治7年(1874)、明治天皇行幸の際に掛けられたものです。
船橋は、その後、木橋に掛け替えられたが、これまで渡船しかなかった東海道の往来に大変貢献したと云われています。
最近撮った写真を見ると、Yumiさんが目を閉じたところの写真が増えてきたので、Yumiさんに目を閉じないで、と云って撮るのですが、どうゆうわけか目を閉じた時にシャッターを押してしまいます。
東海道案内パネルの前から約40m進んだ最初のT字路の右角に、銀行跡の碑が建っていました。
11時27分、中野町銀行跡(右側)
=後方の神社は六所神社
057 中野町銀行跡(後方は六所神社)
中野町銀行は、明治3年から昭和3年までこの地で営業していたそうで、現在は住宅地になっています。
そして、銀行跡から約110m歩いた右角に、創業130年の歴史を誇る人気のうなぎ店があり、昼食に立ち寄りました。
《昼食》
11時30分、昼食(うなぎ中川)=右側

062 うなぎ中川・入口
 ※うなぎ重
066 うな重
昼食は、計画した時からここで食べたいと考えていたので、スムーズに入店出来てホッとしました。
店舗に入ると座敷を進められたのですが、靴の脱着を考えて椅子席にさせてもらいました。
椅子席は、一組だけで他が空いていたので、奥の席に座りました。
のんびりしたいのですが、今年最悪の花粉症の症状がでて、目の痒さと鼻水対策に追われながら待っていると、注文したうな重がうなぎの匂いを漂わせて運ばれてきました。
Yumiさんと顔を見合わせてニッコリして、食べ始めました。
うなぎは、昨年の9月(第7回の旅)に三島の桜家で食べて以来です。
中川のうなぎは、柔らかく、たれがほどよく浸み込んでいて、とても美味しものでした。
また、待っている時に「ぶらり東海道の旅」(天竜橋~子安神社付近)のガイドパンフを頂き、午後の旅にとても役立たせて頂きました。
美味しいうなぎを食べ、トイレを済ませてスッキリしてから旅に出発しました。
12時05分、うなぎ中川発
店を出て県道313号を横切り、3本目の路地の右側に軽便鉄道の軌道跡があり、碑が建っていました(うなぎ店から約400m)。
12時13分、軽便鉄道軌道跡碑(右側)
069 軽便鉄道軌道跡
元は浜松鉄道(開業当時は濱松軽便鉄道)という遠州鉄道とは別の私鉄でしたが、戦後に合併し遠州鉄道奥山線となった鉄道の軌道が敷設されていた処である。
軌道跡から約110m歩くと右側に松林寺があり、境内の入口に奥山大権現石碑と東海道お休み処協力隊のベンチがあり、Yumiさんに座って休んでもらいました。
12時15分、奥山大権現石碑&東海道お休み処協力隊ベンチ(右側)
072 東海道お休み処協力隊・ベンチ
このベンチは、休みたいと思ったところに設置されているので、この後も体力を回復するのに大変助かりました。
そして、ベンチの真向いに、高札場跡がありました。
12時17分、かやんば高札場跡(左側)
074 かやんば高札場跡
かやんばとは萱場が訛ったもので、萱場村の高札場だったそうで、現在は高札場にあやかって市民条例が記された高札が掲げられていました。
高札場から約160m先に金原明善生家があり、その手前右側に「村境の碑」が建っていました。
12時22分、村境標柱(右側)
075 村境標柱
そして村境碑のとなりに金原明善生家が、道路を隔てた反対側(左側)に記念館が建っていました。
12時23分、金原明善生家(右側)
076 金原明善生家
 ※生家の展示室
080 室内
生家は無料で公開されていたので靴を脱いで入らせて頂きましたが、無料で公開している上に、立派なパンフを頂き恐縮してしまいました。
代々名主の家で、明治から大正にかけて天竜川の治水や植林に貢献した郷土の偉人の遺品等が展示されており、2階を含めてひと通り見学させて頂き、お礼を云って後にしました。
生家を出発して約200m歩くと、右側に姫街道の道標が建っていました。
12時36分、本坂道姫街道安間起点(右側)
084 姫街道・安間基点
姫街道は、Yumiさんが立っている右側の道で、街道の基点に立った時、どのような道だろうという思いが湧いてきました。
そして、姫街道入口から約30m先の右側に、日本橋から60番目の一里塚跡があり、標柱が建っていました。
12時38分、060安間一里塚跡(右側)
087 安間一里塚跡
四角柱に一里塚が記されていましたが、資料ではフェンスの中でだったので、確認してみると鉄柱を切って現在の場所に移動したようで、元の場所に切り取った跡が残っていました。
フェンスの中では分かりづらい、という声に対応したのかどうか分かりませんが、・・・という感じがしました。
一里塚跡碑から約65m歩くと安間橋があり、これを渡り浜松バイパスの下を通り過ぎると左側に、松並木がありました。
12時47分、薬師町松並木(勝手に命名)=左側
092 東海道の松並木
松並木は左側だけで、10本程度でしたが、東海道の名残りを残し、松並木が終わった先に、最近では珍しい円形の郵便ポストが民家の前に建っていました。
12時51分、円形郵便ポスト(左側)
094 円柱形ポスト
ポストから約200m歩いた左側に、今にも倒れそうになりながら支柱に支えられ、途中でまた上に伸びている生命力のある松が残っていました。
12時54分、生命力のある松(左側)
098 保護の松
そして、松の直ぐ隣りには、江戸時代に宿場と宿場の間の街道などで旅人が休息する場所として、茶屋や売店などが設けられていた立場跡がありました。
 ※立場跡(左側)
096 立場跡
ここの立場には、藤棚があり旅人の目を楽しませていたと記されてました。
街道は、薬師町から天竜川町に入り、天竜川駅入口交差点先の秋葉山常夜燈を道路反対側(右側)に眺めながら、天竜川町西交差点を過ぎ、あすみ接骨院の先のレストラン・ガストの横に和洋折衷の家が右側に建っていました。
13時13分、和・洋折衷の家(右側)
100 和洋折衷の家
私とYumiさんは、道路の左側を歩いていたので、Yumiさんに待っているように伝え、道路を走って横切り写真を撮りに行きました。
Yumiさんを道路の反対側に待たせているので、写真だけ撮ってYumiさんのところに戻ったため詳細は分かりませんが、歴史のある邸宅を感じる家で機会があったら邸内を見せてほしいと思いました。
進行左側の歩道をYumiさんと約250m歩くとコンビニ(サンクス)があり、店内のトイレを使わせて頂いて、おやつ(プリン)を買いました。
13時18分、コンビニ(サンクス)=左側
 サンクスを出た処の交差点角にセブンイレブンがあり、その2軒先の卸問屋・浜松屋の前を通りながら社用車のドアを見ると、実にユニークなロゴマークが目に留まりました。
13時23分、浜松屋のロゴマーク(左側)
101 浜松屋ロゴマーク
5匹のアヒルが魚が入った網を高々と掲げているロゴマークで、創業者が北京ダックをイメージして作ったとのこと、気持ちが和む素晴らしいデザインだと思い記録に残しました。
左側の浜松屋から約210m(2つ先の信号)歩くと、右側に絵図が建っており、急いで道路を渡り見に行きました。
13時25分、浜松宿絵図(右側)
102 浜松宿絵図
絵図は、冬枯れノ図で、浜松宿について
 ●人別=5,964人
 ●本陣=6カ所
 ●旅籠=94軒
と記されており、江戸時代から浜松宿は大きな宿場町で、賑わっていたことが目に浮かびます。
右側の絵図を見て、また道路を左側に渡って戻り佐野歯科医院のところで、浜松市内と思わる付近にそびえ立っている建物を撮ろうとしたら、デジカメの電池が切れてしまい、予備の電池と交換することになりました。
電池を交換しながら浜松市内の方に目を向けると、前方にロケットの胴体部分と思わせる建物が見え、何の建物だろうと思いながら、シャッターを切りました(望遠にして撮影)。
 ※写真中央の高い建物は何?
103 高いタワーは?(アクトタワー)
建物の答えは、浜松城の展望台に行った時に分かりました。
さて、おやつタイムですが、少し先に子安神社があるので、境内でひと休みしようと考え神社に向かったのですが、入口が少し離れていることが近くに行って判明し、神社を往復するのが面倒になり交差点手前のアサヒビルド㈱の前のベンチでおやつタイムにすることにしました。
13時39分~13時48分、休憩(子安交差点手前)=左側
104 子安交差点
おやつタイムを取った場所には、東海道お休み処協力隊が設置したベンチがあり、サンクスで買ったプリンを食べました。
休みたいと思ったところに設置されたいるベンチは、街道ウォーカにとって大助かりのオアシスです。
ありがとうございます。
ベンチでひと休みして、「さあ、あとひと踏ん張り」と出発すると、少し先の子安交差点の左角に「植松の道標」が建っていました。
13時50分、東海道。植松原道標(左側)
106 植松原道標
子安交差点は道路に横断歩道がなく、地下道で渡ります。
地下道は方向をしっかりと見定めておかないと、とんでもない方向に出てしまうので、方向を見定めて地下道に入り交差点を潜りました。
そして、芳川に架かる琵琶橋を渡って約100m歩くと、右側に鳥居が建っていました。
13時57分、蒲神明宮大鳥居(右側)
108 蒲神明宮大鳥居
蒲神明宮は、藤原鎌足十世の孫、越後守静並(えちごのかみしずなみ)が伊勢神宮の神託を受け、この蒲の地を開拓し、美田(みた)550町歩を神宮に寄進し神明宮を創設したと伝えられ、明治6年に郷社(ごうしゃ)に指定されると共に蒲神明宮と改称され今日に至っているそうです。

神明宮入口の鳥居から約700m旅をすると、天神町交差点手前の左側に古い看板が目に入りました。
14時05分、萬屋蒟蒻(こんにゃく)店(左側)
109 蒟蒻店の看板
お店はカーテンが閉まっていたので、店の中は見えませんでしたが、年代を感じさせる建物と看板でした。
店が開いていたら見学したいと思うお店だったので、とても残念でした。
天神町交差点を渡り、約250m歩くと浜松東警察署があり、ここを過ぎた左側に日本橋から61番目の一里塚跡碑が建っていました。
14時10分、061馬込一里塚跡(左側)
110 馬込一里塚跡
一里塚跡には道路沿いに標板が建っているだけで、一里塚を連想するものはありませんでした。
一里塚跡から約210m歩いた右側(相生町交差点を渡りホテル明治屋を過ぎた右角)に、道路の起点を表示する標柱が建っていました。
14時18分、旧笠井街道入口(右側)
115 笠井街道入口
そして、笠井街道入口の標柱が建っている国道152号線の右側から左側に渡り、約110m歩くと左側に旧掛塚街道入口の碑が建っていました。
14時19分、旧掛塚街道入口(左側)
113 旧掛塚街道入口
掛塚街道入口の標柱から約40m先の馬込橋たもと左側に、通行人を監視した木戸跡の碑が建っていました。
14時22分、外木戸(東番所)跡(左側)
117 外木戸跡
馬込橋を渡った道路右側に馬込公園があり、公営のトイレがあるのでYumiさんに聞くと「大丈夫」と云うので、トイレに立ち寄らずに先に進みました。
ここで道路を左側から右側に渡り、道路の右側を進むと静岡銀行の手前に地蔵尊が祀ってありました。
14時30分、夢告地蔵尊(右側)
119 夢告地蔵尊
向かい風と、花粉症と闘いながら板屋町交差点と田町交差点を過ぎ、連尺交差点に着きました。
14時42分、連尺交差点
交差点に着くと15時前と時間的にまだ余裕があるので、急遽浜松城に立ち寄ることにしました。
連尺交差点も地下道を潜って道路を渡るので、方向を見定めて地下道に入りました。
しかし、道がいろいろな方向に出られるようになっているので、案内板を頼りに地上に出ましたが、慣れていない人には迷路の地下道です。
※ 寄り道・・・【浜松城】・・・
浜松城方面の階段を上った処に、大手門跡の碑が建っていました。
14時44分、浜松城・大手門跡(右側)
121 浜松城・大手門跡
浜松城は次回の旅の時に城内を見学する予定にしていたため、浜松城に関する地図や資料を持参していなかったので、停車している車の人(女性)に浜松城への道順を教えて頂きました。
見ず知らずの旅人に親切に応対して下さり、浜松市役所の脇から行く分かりやすい道を教えて下さいましたので、少し遠回りになりましたが、教えて頂いた道でお城に行きました。
《浜松城》 14時53分~15時14分

125 浜松城
浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元(1570)年6月に入城し、17年間在城しました。城は、東西600メートル、南北650メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なっている。家康の後、城主は代々普代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多く、出世城とも云われていた。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されています。
さて、浜松城公園に入り道案内に沿って歩いて行くと、上り坂となり浜松城の撮影ポイントになりました。
天気の良い土曜日の午後ですが、人出は途切れることがない程度でした。
お城の入口で入場料(一人150円)を支払い、中に入りました。
お城の中は、江戸時代の遺品等が展示してあるだけで、掛川城のようなお城の風情は味わうことはできませんでしたが、天守閣の渡り通路からの眺望は、安全のための金網が少し目障りですが、お勧めです。
 ※浜松城・天守閣の渡り通路
130 天守閣・東側
ここで、天竜川町の子安交差点から見た高い建物(ロケットの胴体のような)が、アクトタワーという「地上45階建、最高部(塔屋上ヘリポート)の高さ212.77mの超高層ビル」で、ホテルオークラ直営のオークラアクトシティホテル浜松、多くの企業や店舗が入居する、浜松市のランドタワーでした。
浜松市の大きさを感じさせる建物だと思いました、
ひと通りお城の中を見学し、城内の土産物店で記念のお土産を買ってお城を跡にしました。
 ※浜松城のお土産(コースター)
159 浜松城のお土産
浜松城からの帰りは、来た道ではなく大手門跡碑に向かって、最短距離を歩いて戻りました。
大手門跡碑に戻り、道路を横断するために方向を見定めて連尺交差点を渡る地下道に入ったのですが、途中で方向が分からなくなってしまい、迷いながら地上に出ました。
*****旧東海道に戻る*****
地下道から出ると、右側に谷島屋書店があり、店のショーウィンドウ右側に高札場跡の石碑が建っていました。
15時23分、浜松宿・高札場跡(右側)
136 浜松宿・高札場跡
谷島書店の2軒隣りに浜松蓮尺郵便局があり、営業していたら日付スタンプを押してもらおうとしましたが、土曜日の午後で営業時間外となってしまい押印できませんでした。
そして郵便局から数軒先の浜松信金前の道路沿いに、本陣跡の標板がありました。
15時26分、杉浦本陣跡(右側)
139 杉浦本陣跡
杉浦家は、元亀元(1570)年家康入城と共に名主役に、慶長6(1601)年伝馬制が定められた時、問屋役を命じられた。室町後期から続く古い家柄で、浜松宿本陣6ヶ所の内、最も古い本陣として、建坪が約272坪(約900㎡)あったそうですが、残念ながら他の本陣跡を含めて当時を偲ぶ史跡はありません。
杉浦本陣跡から約20m歩くと、左側(進行方向では右側の歩道)に二つ目の本陣跡碑が建っていました。
15時28分、川口本陣跡(右側)
142 川口本陣跡
川口本陣は、浜松の本陣(6ヶ所)のうちで最も新しく、建坪は約163坪(約540㎡)あったそうです。
まだ浜松宿はこの2カ所の本陣の他にあと2ケ所の本陣跡があるのですが、地下道を潜った道路の反対側にあるため、ここで明日の出発場所を考え到着式を行うことにしました。
15時33分、浜松・伝馬町交差点(到着地)
151 浜松・伝馬町交差点(到着地)
【旅の追加】
到着式を行った後、迷路の地下道を潜って道路の反対側に移動すると、地下道から出た伝馬町交差点のサザンシティ浜松角に、三番目の本陣跡がありました。
15時36分、梅屋本陣跡(左側)
145 梅屋本陣跡
梅屋本陣は、杉浦本陣に次ぐ格式のある本陣で、江戸初期から本陣を勤めていた。
江戸中期の国学者加茂真淵の養子先(婿養子先)だそうです。
伝馬町交差点を渡り、杉浦本陣跡がある道路の反対側を連尺交差点の方に逆戻りしたクリニックの前に、四番目の本陣跡がありました。
15時40分、佐藤本陣跡(左側)

148 佐藤本陣跡
佐藤本陣は、約225坪(約745㎡)の建坪があったそうです。
今日の旅は、ここで終了しました。
【ホテル・夕食】
15時48分、ホテル着
佐藤本陣跡碑の連尺交差点寄りの道を右折し、今日宿泊するホテルに向かい、フロントでチェックインすると、普通の部屋から介護用の部屋に変更されていました。
このホテルに予約した時、介護できる部屋があるということで、介護用の部屋をお願いしました。
その後、介護認定(要介護2)を受けているといっても車椅子を使用していないので、車椅子の人を優先しようと考え一般のツインルームに変更しました。
ところが、その後のホテルとのやり取りで、支配人から車椅子でなくても構いません。もし、当日利用できるようでしたら介護用の部屋に変更しますと云われたことを思い出し、支配人の善意にお礼を云ってご厚意を受けさせて頂きました。
Yumiさんと指定された部屋に入り、ザックなどの荷物の整理、デジカメや携帯の充電、翌日の旅準備をし、お茶を飲んだり、テレビを見たりして夕食までの時間を過ごしました。
《夕食》
ホテルは繁華街の近くなので、沢山のお店が並んでおり、迷った末に山内牧場という居酒屋に入りました。
17時35分、居酒屋「山内牧場」
時間が早かったので、店内は閑散としていたので、個室的な席に案内してくれました。
生ビールを注文し、Yumiさんとまず乾杯。
157 居酒屋・山内農場③
料理は、
 ●付きだし(きゅうりとキャベツの味噌付け)
 ●刺身三点盛り
 ●さつま揚げ
 ●鳥の唐揚げ
と、少し財布の紐を締めて少量にしました。
それぞれの味はとても美味しい店でした。
浜松は「うなぎ」とともに「餃子」が有名なので、中華店に入りラーメンと餃子を食べました。
食べた餃子が浜松餃子かどうか分かりませんが、小ぶりの餃子で固焼きでした。
私もYumiさんも、焼き餃子でも柔らかい方が好きなので、固焼きの餃子は???でした。
お腹が膨らんだので、ホテルに戻りました。
 ↓浜松の繁華街=寒いを連発して歩いていました

158 浜松繁華街
《シャワー》
夕食の後、ホテルに帰り、シャワーで今日の汗を流しました。
シャワーは、私が浴びた後、Yumiさんが浴びましたが、一人でシャワーを使うことが難しいので、私が全て介護しました。
シャワー室は、車椅子が入れる専用のシャワー室になっているので、介護しながらのシャワーは大変助かりました。

今日は持病の花粉症に悩まされました。
明日も天気が良く雨が降ることはないようですが、風が強く花粉が飛ぶようで、明日も花粉症に悩まされるのか、と考えると気が重くなります。
明日の支度の準備を行い、ホテルのモーニングコールとテレビのオフタイマーをセットしてベッドに入りました。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-koushukaido.blog.jp/
※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。

 
http://eiyumi-nakasendo.blog.jp/
※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


【天候】曇りのち晴れ、風強し
【宿場】(29)浜松宿
⇒(30)舞阪宿⇒(31)新居宿
【行程】歩行距離=16.20㎞ 総距離=278.94㎞

浜松・伝馬町交差点⇒(2.42㎞)⇒062若林一里塚⇒(4.35㎞)⇒063篠原一里塚⇒(1.70㎞)⇒
坪井町北交差点
⇒(3.19㎞)⇒
064舞阪一里塚⇒(4.54㎞)⇒新居町・駅前地下道横断歩道信号
【ルート図】
 宿場(黒囲みが第18回旅の宿場)
10 18回宿場
 旧東海道の旅・進捗状況
  (ピンク=今回の旅区間/黒線+ピンク=完歩区間)
全体 第18回
 第18回の旅ルート
 
(浜松・伝馬町交差点⇒新居町・駅前地下道横断歩道信号)

第18回ルート
【旧東海道の旅】

《トイレ》
朝、4時頃に目を覚ましトイレに行くと、入れ替わりにYumiさんがトイレに行きました。
Yumiさんのトイレ通いは、前回の旅の時ほどではありませんが、起きるまでに何回か通いました。
自宅でもトイレ通いはありますが、知らない場所だと不安なのか、通う回数が普通ではありません。
《身支度》
5時30分、起床
Yumiさんのトイレ通いで目を覚まし、うとうと状態でホテルのモーニングコールの音が鳴り、ベッドから出て朝の支度に取り掛かりました。
Yumiさんは、トイレに行った時に、併設されている洗面場を見ているのですが、洗面場がどのようなところなのか分からなくなっており、
 E=顔を洗いに行くよ
 Y=何処に?
 E=こっち
とトイレと併設している洗面場に連れて行き、歯ブラシに歯磨き粉を付けて渡しました。
歯ブラシに歯磨き粉を付けるのは、Yumiさんにやらせたらと思うのですが、やり方を教えても記憶できないので、私が介護します。
Yumiさんが歯磨きをしている間、私は髭剃り(電動髭剃りを持参)をしていました。
洗顔後、昨日の朝と同じように、膝痛対策のケア(シップ薬と塗り薬)を行い、寝る前に用意しておいた服に着替えましたが、下着と靴下(2重の内側)のみ新しいものに替え、それ以外は前日のものを今日も着ることにしました。
朝の支度を整え、ザックの荷造りを行い出発できる状態にして、朝食を食べに1階の会場に行きました。

《朝食》
朝食は7時からと聞いていましたが、少し早い時間から食べさせている処もあるので行ってみると、既に7~8人の人が待機していたので、Yumiさんと空いている席に座り開始を待ちました。
7時にバイキング方式の食事となり食べ始めると、同じテーブルに福島県から来たというご婦人が座り、少し話しをしました。
ご婦人は、東日本大震災で一時避難したこと、多くの方々に支援頂いたことを話しておられましたが、私は今日の旅のことを考えながら話しをしていたので、どのような話しをしたのかよく覚えていませんでした。
また、Yumiさんは「大変でしたね」を何回も連発して相槌を打っていたので、後で「どんな話しだった」と聞くとまったく覚えていませんでした(大笑い)。
食後、福島のご婦人に挨拶し、部屋に戻ってトイレを済ませ、フロントでチェックアウトしてホテルを出ました。
《移動》
07時33分、ホテル発
001 ホテル正面玄関
ホテルを出て今日の出発地に向かったのですが、道を間違えて浜松駅の方に向ってしまい、地図を確認して伝馬町交差点(今日の出発地)に行く道に戻り、迷路の地下道を潜って出発地に立ちました。
【=旅=】
07時44分、浜松・伝馬町交差点(出発地)
003 伝馬町交差点(出発地)
出発地で、出発の儀式(出発地を記した看板を持ったYumiさんを撮影)を行い、旅を出発しました。
今日の旅は、浜松の神社の総社となっている松尾神社に参拝したいと考えていたので、まず松尾神社に向かいました。
松尾神社は伝馬町交差点から約260m先の松尾小路に入った右側にあり、境内奥の左側に本殿が建っており、お賽銭を奉納(投げ入れない)しYumiさんと一緒に、「Yumiさんの病気完治と旅のご加護」をご祈願しました。
07時47分、松尾神社(本殿は奥のお宮の左側)=右側

005 松尾神社・入口
参拝後、旧東海道に戻り約170m先の横島ロープを過ぎた右側に、東海道の雰囲気を漂わす理髪店がありました。
07時54分、かみゆい伽羅(右側)

010 かみゆい伽羅
開店していたら店の中を見たかったのですが、時間が早くてまだ開いていませんでした。
かみゆい店から約170m歩くと瀧口歯科医院があり、その手前の右側に、浜松名物の浜納豆の店がありました。
08時00分、浜納豆(右側)
013 浜納豆・店内
時間が早かったので、閉まっているだろうと思っていたら、開店していました。
 E=時間が早かったので、閉まっていると思っていました
 店主=7時30分頃には、店を開けているんですよ
 E=買いたかったので、助かりました
浜納豆は、納豆の一種で、煮た大豆に麹・小麦粉をまぶして発酵させ、塩汁に漬けたのち乾燥して山椒・生姜などの香料を加えたもので、お茶漬けなどに合いそうで、食べたことがない私は、ぜひ買いたいと思っていました。
店主に「お土産には小さいのか、少し量の多いのが良いですよ」と勧められたので、少し量の多い方(610円)を買いました。
お店の商品は、写真の通り、往時のままの陳列棚に並んでいました。
落ち着いた、風情のある陳列を見て、子供の頃を懐かしく思い出しました。
浜納豆の店の直ぐ隣が瀧口歯科医院で、医院の前に文字が消された標柱が建っていました。
何故消したのかわかりませんが、調べた資料には「西番所跡」と記されていたので、西番所跡だと思ういます。
08時03分、西番所跡(右側)
015 西番所跡
文字を消した理由はいろいろあるのでしょうが、早く明示してほしいと思います。
旧東海道は、直ぐ目の前の成子交差点を渡って左折し雄踏街道に入り、約180m先の菅原町交差点を左折します。
菅原交差点を左折する角にレストランデニーズがあり、左側に子育て地蔵尊が建っていました。
08時07分、子育て地蔵尊(左側)
017 子育て地蔵尊
この地蔵尊は、長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれ、戦前は今はありませんが地蔵堂に集まり、7月24日には地蔵盆を盛大に催していたそうです。
地蔵尊の角を左折して約270m歩くと大久保消化器病院があり、その先を左に入った処に「堀留ポッポ公園」があり立ち寄りました。
08時12分、堀留ポッポ公園(右側)
019 堀留ポッポ公園
公園は旧国鉄の引き込み線の跡で、レールをイメージしたタイル歩道を歩くと、蒸気機関車が展示されていました。
 ※蒸気機関車
020 堀留ポッポ公園
私とYumiさんは入ってきた旧街道には戻らないで、蒸気機関車の横を通り、その先の交差点を渡った処を左折し、JR東海道線のガードを潜り西浅田北交差点で旧街道に合流しました。
西浅田北交差点で国道257号線に入り約260m歩くと新幹線のガードがあり、ガードを潜って森田町交差点を過ぎると左側に大きな建物があり目に留まりました。
08時25分、ABC浜松ルーナ店・ソーレ店(右側)
022 ABC浜松(パチスロ)
この店は、パチンコ・スロットの店で、大駐車場を完備してドデーンと建っていました。
新潟に単身赴任した時、パチンコにはまり、パチンコのチン、ジャラを聞くと、自然とパチンコ店に足が向いてしまって素通りできないほどのやみつき状態となり、パチンコ麻薬を抜くためにチン・ジャラの音を聞かないように、遠回りして帰ったことを思い出しながら歩きました。
パチンコやスロットルは、負けが込んで来た時の引き際が大切で、大やけどしない程度にパチ・スロを楽しんでもらいたいと思います。
パチンコ店の前から約300m歩くと道路の反対側の静岡トヨペットを過ぎた先に小さな橋が架かっており、この橋が鎧橋で左側の橋のたもとに史跡の碑が建っていました。
08時29分、鎧橋碑(左側)
023 鎧橋
橋名の由来は、平安時代の頃、比叡山の僧兵が鴨江寺(現浜松)を攻めたとき、鴨江寺側の軍兵はこの辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦い、その後鎧橋と称するようになったと伝えられているそうです。
鎧橋を渡り約330m歩くと左側に、日本橋から62番目の一里塚跡があり、跡碑が建っていました。
08時32分、062若林一里塚跡(左側)
026 若林一里塚跡
日本橋から62番目の一里塚跡は、石碑と解説パネルが建っていました。
一里塚から約70m先に東若林交差点があり、交差点を過ぎた処に北堂(右側)と南堂(左側)の二つお堂がありました。
08時36分、二つお堂
 ※北堂=阿弥陀如来が祀られている(右側)
033 二つ御堂
右側の北堂は、奥州平泉の藤原秀衡が京で病に倒れたと聞いた愛妾が、都に駆けつける途中この地で秀衡死去の知らせを聞き、菩提を弔うために建てたというお堂です。
 ※南堂=薬師如来が祀られている(左側)
030 二つ御堂
左側の南堂は、秀衡死去の知らせは誤報で、病癒えて帰国する途中、愛妾への感謝をこめて、秀衡が建てたお堂である。
そして、北堂の隣りに高札場跡があり、その隣りに馬頭観音がありました。
08時38分、高札場跡(右側)
035 高札場跡
 ※馬頭観音(高札場の隣り)=右側
037 馬頭観音
馬頭観音から約150m先と約250m先の左側に点在する形で、東若林松並木(私が勝手に命名)があり、東海道の名残りを残していました。
08時43分、東若林松並木
038 東若林松並木
  ↑約250m先の松並木=通り過ぎる辺りで、振り返って撮りました
松並木を過ぎた先の交差点(左側に静岡銀行可美支店)から約140m歩いた左側の南部保健福祉センターの前に、可美小学校跡の碑があり、碑のところに植樹された桜が開花していました。
08時50分、可美小学校跡&開花した桜
044 可美小学校跡
 ※開花した桜
046 桜の開花
東京はまだ開花していないので、浜松の方が温かくて早いのでしょう。
桜の開花はまだだろうと思っていたので、思わぬプレゼントを頂いたようで嬉しくなり心が和みました。
Yumiさんに「桜が咲いたよ」と話したのですが、少しだけだったのか「あー、そう」との返事に、拍子抜けしました。
また、約300m先の広隆寺(右側)に入って行く道の角の民家の庭に、夏みかんが沢山の実を付けていました。
08時56分、夏みかん(右側の民家)
047 夏みかん
夏みかんの味は分かりませんが、美味しそうにぶら下がっていたので、Yumiさんの反応は、桜より夏みかんの方が良かったように感じました。
夏みかんが実っていた家から約300m歩くと可美小学校東交差点があり、交差点をそのまま通り過ぎ約150m歩くと本田鉄工所があり、その先の右側に「洋品のワタナベ」がありました。
ここには、東海道53次の手ぬぐい・タオルが売られているらしいというので立ち寄りましたが、品切れで現在は扱っていないとの返事にガッカリしました。
地図と睨めっこをしながら店を探し当てたのに、残念でした。
洋品のワタナベから約170m歩くと、右側に諏訪神社があり参拝に立ち寄りました。
09時06分、諏訪神社(右側)
049 諏訪神社
諏訪神社は、Yumiさんの母親の生まれ故郷が下諏訪の諏訪大社秋宮の直ぐ近くなので、Yumiさんと結婚してから毎年参拝しており、他の神社にはない親しみがあります。
そのため、こちらの諏訪神社も朝の松尾神社と同じように、お賽銭を奉納し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
神社から約100m歩くと右側に増楽郵便局があり、消印のスタンプを押印しようとしましたが、「今日は日曜日だ」と休店のため消印スタンプの押印は出来ませんでした。
今度は、平日に来て、押印したいと思います。
増楽郵便局を過ぎ、約270m歩くと熊野神社参道入口があり、入口を過ぎた右側に高札場跡がありました。
09時12分、高札場跡(右側)
051 高札場跡
右側の可美中学校、その先右側の浜松信用金庫先を過ぎた右側(高札場跡から約350m)に、領界碑が建っていました。
09時18分、堀江領界石碑(右側)
053 堀江領境界石碑
境界石碑から約80m歩いた先の単身者用アパートの前に、高札場跡と秋葉常夜燈跡の標柱が建っていました。
09時23分、高札場跡&秋葉燈籠跡(右側)
055 高札場&秋葉燈籠跡
今日の旅歩きは、ホテルを出発してから約2時間近く経過するので、Yumiさんに「休憩できる場所があったら休もう」と話しながら歩いていると、バス停(高塚)のベンチが目に入り、誰もいないので借用させて頂いて座りました。
09時29分~09時35分、休憩(バス停ベンチ)=右側
ザックからお菓子とペットボトルを出し、食べながらひと休みしました。
休憩しているとバスが走って来るのが見えたので、手で☓印を示して乗らない意思表示をすると、バスは停車しないでそのまま通り過ぎていきました。
Y=そんなこと(私が手で☓印をしたこと)したら怒られるよ
E=乗らないでベンチを使っているのだから、バスに教えてあげた方がいいんだよ
と話しましたが、理解できたかどうかは分かりません。
短い時間ですが、ひと休みして元気になったので、出発です。
高塚駅入口交差点の手前の歩道に、あまり見たことがない鉄蓋がありました。
09時38分、消防車の消火栓蓋(右側)
057 消火栓蓋
旧東海道は高塚駅入口の交差点を過ぎ、その先の広い交差点を渡り約350m歩くと分岐しており、分岐のところに道標が建っていて、右に進みました。
09時44分、東海道・篠原道標(分岐点)
058 東海道篠原道標
分岐して約160m先の左側にローソンがあったので、トイレを借用し、おやつのお菓子を買いました。
09時47分~09時52分、休憩(ローソン)=左側
ローソンを出て、真っ直ぐに伸びた旧東海道を約220m歩くと、左側に立場跡の標板が建っていました。
09時57分、立場本陣跡(左側)
060 立場本陣跡
立場は、慶長6年(1601)に徳川家康が東海道に伝馬制を定めたことにより出来た宿場と宿場の間の休憩所です。ここの篠原立場は通称「本陣」と呼ばれ、大名や公家などが休憩する「本陣」的な役割を果たしたようで、時には宿泊もあったようです。
当時の建物は二階建てであったが、「安政の大地震」(1854)で破損したため、平屋建てに造りかえられたので、その昔、ここにも大地震の被害が及んでいたことがわかようです。
立場本陣から約140m歩くと右側に東神明宮があり、さらに約220m歩いた右側の小野田さん宅の庭先に、日本橋から数えて63番目の一里塚跡があり、標板が建っていました。
10時03分、063篠原一里塚跡(右側)
064 篠原一里塚跡
一里塚跡から約160m歩いた先の左側に、昔の土蔵のある家がありました。
10時06分、土蔵のある家(左側)
066 土蔵のある家
土蔵は年代を感じさせ、今はどのように使われているのか分かりませんが、大変貴重な建物なので、Yumiさんに土蔵の近くに行ってもらい写真を撮りました。
土蔵から約450m程歩いた左側に、袋井宿の澤野医院を思い出させる古い医院の建物がありました。
10時13分、柳本診療所(左側)
067 柳本診療所
医院は、日曜日でお休みなのか、医院の看板がないので営業しているかどうかも不明ですが、史跡指定されても良いような雰囲気のある建物でした。
柳本診療所から約300m歩くと篠原小学校が左側にあり、校門からさらに約600m歩くと、右側に愛宕神社があり参拝に立ち寄りました。
10時23分、愛宕神社(右側)
069 愛宕神社
愛宕神社もお賽銭を奉納し、Yumiさんの病気完治と旅のご加護をご祈願しました。
神社を出て、旧街道を真っ直ぐに約500m進むと、道幅の広い交差点に着きました。
10時31分、坪井町北交差点着
071 坪井町北交差点
この交差点が今日の旅の半分のところで、
これから舞阪の松並木、浜名湖を渡り静岡県と愛知県の県境にある湖西市に入ります。
私の花粉症は、昨日と同じように鼻水がダラダラ、くしゃみの連発、目のかゆみの三重苦で、最悪の状態が続いています。
Yumiさんは、多少花粉症の症状が出ていますが、私と比較したらかなり良い状態で、助かっています。
二人が私と同じ状態だったら、旅どころではなくなっているからです。
この時間になると、気温もかなり上昇しており、Yumiさんの状態を見ると汗はかいていないようですが、汗をかく前に衣服調整することにしました。
10時36分~10時38分、衣服調整
坪井町北交差点から約250m歩くと右側に稲荷神社の参道があり、衣服調整を兼ねて休憩に立ち寄りました。
稲荷神社の処で、私がチョッキを、Yumiさんがフリースを脱ぎ、併せて水分補給し、ひと息ついてまた旅に出発しました。
稲荷神社から約300m歩くと道路の反対側の理容きいがあり、さらに約100m歩いた右側に、秋葉山常夜燈がありました。
10時43分、秋葉山常夜燈(右側)
073 秋葉山常夜燈
常夜燈の石燈籠は、建屋の中にあり、灯りがともるのですが、現代はしめ縄の上に取り付けられた蛍光灯がともるようです。
常夜燈から舞阪の松並木までの間は、見学したいと思うような史跡がなかったので、周りをきょろきょろしながの旅となり、約750m歩くと右側に東本徳寺がありました。
10時52分、東本徳寺前(右側)
日蓮宗の寺院で、本徳寺時代の泉光坊が改称され東本徳寺となった寺院です。
東本徳寺から約130m歩くと、西本徳寺がありました。
10時54分、西本徳寺前(右側)
永徳元年(1381)開創の日蓮宗の寺院で、本徳寺時代の大泉坊が改称され西本徳寺となった寺院です。
西本徳寺から馬郡跨線橋南交差点を過ぎた左側に、春日神社がありました。
10時56分、春日神社前(左側)
永徳元年(1381)秋に、甲斐国の沙門が神仏の深理を人々に悟し、人々が一社の建立を願い、応永2年(1395年)に開かれたようです。
《舞阪の松並木》
春日神社から約140m先の舞阪駅南入口を過ぎ、野寄工業所の前に舞阪松並木の道標があり、ここから舞阪の松並木が始まりました。
11時01分、東海道・舞阪松並木道標(右側)
078 東海道・舞阪道標
松並木は、全長約700mの間に、約340本の松が左右に植樹されており、進行方向左側に五十三次の銅版が石碑に埋め込まれ、右側(Yumiさんが立っている側)に12干支の石像の碑があります。
五十三次の碑と12干支の両方を見て歩くことは、車が頻繁に走る道路を何度も横切って往復しなければならず、とても両方を見ることは難しいので、五十三次の碑を眺めながら歩くことにし、Yumiさんと私の干支の碑だけ見ることにしました。
 ※松並木の始まり
075 舞阪松並木
  ※舞阪の松並木
080 東海道・舞阪松並木
《五十三次の碑》
五十三次の碑の中で、
 ①.東海道の東の起点となる日本橋
 ②.現在いる舞阪宿
 ③.西の起点となる京都三条
の三箇所を写真に残しました。
  ※①.日本橋(東海道の東の起点)
077 松並木・日本橋碑
  ※②.舞阪(江戸から30番目の宿場)
083 松並木・舞阪
  ※③.京都・三条(東海道の西の起点)
085 松並木・京都三条
《干支の碑》
12支の碑は、二人の干支だけを写真に残しました。
  ※Yumiさんの干支
082 干支の碑:虎年
  ※Eiさんの干支
090 干支の碑・亥年
東海道の名残りを残している全長700mの舞阪松並木の終わりに、トイレがあったのでYumiさんに聞くと「寄らなくてもいい」と云うので、そのまま立ち寄らずに通り過ぎました。
浪小僧の像は、舞阪松並木の終わりに、53次碑(京都・三条)の直ぐ先に建っていました。
11時15分、浪小僧の像(左側)
087 浪小僧像
浪小僧は、妖怪で、ある漁師が遠州灘で漁をしていると、網に奇妙な生き物が引っ掛かってきた。それは浪小僧であった。漁師はこれを殺そうとしたが、浪小僧は「命を助けてくれたならば、お礼に雨や嵐の時にお知らせします」と願い出た。漁師はそれを聞いて、海に帰してやった。それ以来、浪小僧が海鳴りで天候を知らせるようになったと伝えられている。
松並木が終わった先の新町交差点で国道1号線が斜めに交差していましたが、旧街道は新町交差点を真っ直ぐ渡ります。
なお、松並木が終了する辺りの史跡は、
 1.五十三次京都三条(左)
 2.浪小僧(左)
 3.12支(亥)・(右)
の順に建っていますが、史跡を整理して掲載するため、見た順序を変更していますので、ご注意下さい。
新町交差点から約110m歩くと、見付石垣が道路の両側に残っていました。
11時22分、見付石垣(両側)
091 見付石垣
見付石垣は、
舞阪宿の東はずれに位置しており、石垣の起源の詳細は明かでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。ここは見張所にあたり、大名が通行の時などには、六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所だそうです。 
見付石垣の直ぐ先の左側にホワイト急便があり、その隣に新町常夜燈と日本橋から64番目の一里塚跡がありました。
11時24分、新町常夜燈(左側)
099 新町秋葉常夜燈(左)
浜松宿内の常夜燈は、石燈籠が建屋の中にありましたが、宿が舞阪宿になると建屋がなくなり石燈籠の常夜燈になりました。
そして、新町常夜燈の直ぐ隣りに日本橋から64番目の一里塚跡があり、石柱が左右に建てられていました。
11時25分、舞阪一里塚跡(左側)
095 舞阪一里塚跡(左)
11時26分、舞阪一里塚跡(右側)

097 舞阪一里塚(右)
一里塚跡から約110m歩くと平野生花店をがあり、生花店を過ぎた路地の左側に仲町常夜燈が建っていました。
11時33分、仲町常夜燈(左側)
101 新町常夜燈(右)
仲町常夜燈は、文化6年(1809年)に舞阪宿の大半を焼き尽くす大火があり、火防の山、秋葉信仰の高まりと、仲町の願いにより4年後の文化10年5月に建立され、高さは台座ともで2.7mだそうです。
仲町常夜燈から約100m先の右側に、宮崎本陣跡がありました。
11時41分、宮崎本陣(宮崎伝左衛門)跡(右側)
104 舞阪宿・本陣跡
舞阪宿には、本陣(宮崎伝左衛門)、本陣の2軒先に相本陣(源間徳右衛門)があり、相本陣の向側に脇本陣(茗荷屋、堀江清兵衛)がありました。
宮崎本陣跡には石碑が建っていましたが、源間本陣跡は何もありませんでした。
宮崎本陣の斜め向かい側に、脇本陣の復元建物がありましたが、昼食後に見ることにして食事をする「魚あら」に向かいました。
《昼食》
11時46分~12時30分、昼食(魚あら)=左側
109 魚あら
この店は、この界隈では有名な店で、休日の昼ということもあり既に満席になっていました。
名前を書いて待っていると、名前を呼ばれ湖が見える窓際の良い席に案内されました。
食事は、いけすで直前まで生きていた海老を使う「活天丼」を注文しました。
112 魚あら・活天丼
活天丼は、海老の他に魚や野菜の天ぷらがのっており、小鉢の岩のりは久し振りに食べたのですが、とても美味しかったです。
二人とも残すことなく綺麗に食べ切り、満腹になって店を出ました。
店を出て、昼食の前に立ち寄らなかった脇本陣に戻りました。
12時32分~12時47分、脇本陣(茗荷屋、堀江清兵衛)=左側
106 舞阪宿・脇本陣
本陣は大名・公家・幕府役人などが宿泊したり、休憩するための施設で、脇本陣は本陣の補助的旅舎で、副本陣にあたります。平常は、旅籠屋を営んでいるが、大通行のときなど、本陣の利用が重なった場合には本陣の代わりをつとめました。脇本陣は、本陣と同じく宿場の有力者が選ばれ、江戸時代中期以降に出現しました。
天保9年(1838年)建築の旧脇本陣「茗荷屋」(みょうがや)の上段の間があった書院棟が残されていた、旧東海道では唯一の脇本陣の遺構なので、この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物が復元されたそうです。
旅の中でもなかなか見学ができない施設なので、ぜひ見たいと思ってここに来ました。
遺構として残っていた書院棟の上段の間は、仕切りもなく座布団が敷いてあり座っても良いみたいなので、交代で座りました。
 ※お殿様が座った上段の間
114 脇本陣・床の間
最初「ダメなのよ」と云ってYumiさんが座らなかったのですが、私が「仕切りもなく、座布団が敷いてあるのだから座ってごらん。怒られたら謝ればいいよ」と云うと、やっと納得して上の写真のとおりに座ってくれました。
脇本陣の建物をひと通り見学し、入口に置いてあった街道スタンプを押印するなど、短い時間でしたが、のんびりとした気分で過ごしました。
ところが、見学を終えて入口で靴を履き直し外に出ると、風が一段と強くなっていました。
昼食を食べた「魚あら」に行く交差点の左角に西町常夜燈が、西町常夜燈の斜め向かいの交差点の反対側に本雁木跡がありました。
12時48分、西町常夜燈(左側)
121 西町常夜燈
12時50分、渡船場・本雁木跡(左側)
124 渡船場・本雁木跡
雁木とは階段状になっている船着場のことで、舞阪では「がんげ」と昔から云っている。
舞坂宿には三ヶ所の渡船場があったが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場(とうかば)、真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木(ほんがんげ)と呼ばれている。
交差点を「魚あら」と反対の右方向に曲がり、約80m歩いた左側に北雁木跡がありました。
12時53分、北雁木跡(左側)
127 渡船場・北雁木跡碑
北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられた浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場後で、明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築され、江戸時代には災害で幾度か修復されたそうです。
北雁木跡の辺りは風が強く、帽子が飛ばされそうなので、Yumiさんも帽子を取って歩きました。
北雁木跡から約170m歩いた右側に舞阪文化センターがあり、ここに街道スタンプが置いてあると調べた資料に記されていたので、立ち寄りましたが「そんなものはありません」とあっさり云われてしまいました。
立ち寄った舞阪文化センターから街道に戻り、浜名湖に架かる最初の橋(橋名は?)を渡る時は、さらに風が強く吹いており、15m以上ではないかと思うくらいでした。
私の花粉症は、台風の襲来のごとく鼻水はダラダラ、目はかゆかゆ状態で、早く旅を終わらせたいという気持ちに、東海道の旅に出て初めてなりました。
橋(橋名不明)を渡り、ホテル開春閣の手前の左側に、赤い社の弁天神社があったので立ち寄ると、境内の一角に正岡子規の句碑が建っていました。
13時06分、弁天神社(左側)
133 弁天神社
 ※正岡子規句碑
134 正岡子規句碑
東海道で、初めて正岡子規の句碑に出会いました。
神社を出た処で旧東海道は国道1号と合流し、信号の先のホテル開春閣を左に見ながら通り過ぎた右側に、弁天島駅がありました。
江戸時代はここから渡し舟で移動していたので、江戸時代の史跡は渡し船が着く新居町駅前までありません。
そのため、浜名湖を吹き抜ける強風にこの後も遭遇するのですが、早く旅を終わらせたいと思ったりしましたが、ここで旅を切り上げようという気持ちにはなりませんでした。
13時10分、弁天島駅前(右側)
137 弁天島駅
浜名湖で釣りをしている人は居るのですが、強風の影響なのか弁天島駅付近では、一人も人を見かけませんでした。
13時15分、中浜名橋手前
140 浜名湖(中浜名橋手前)
浜名湖をバックにした写真ですが、風が強いためマスクを外さないで撮りました。
橋の上は、風の通り道になるのか、強風の向かい風で、頭を下げないと歩けない状態でした。
橋を渡った新弁天の信号の手前に、浜松市と湖西市の市境標識柱が建っていました。
13時17分、湖西市境の標識
142 湖西市境界柱
静岡県最後の市となる湖西市に入りました。
第7回の旅で箱根峠を越えて静岡県に入ってから静岡県を横切る形で旅をしてきましたが、次回の旅で静岡県から愛知県に入りますが、静岡県は大きい県だと実感しました。
旧街道の両側には松が植樹されているのですが、街道から少し離れたところに立っているので、松並木という感じはしません。
新弁天の信号を過ぎた先の右側に新弁天神社がありました。
13時23分、新弁天神社(右側)
143 新弁天神社
新弁天神社は、直ぐ裏を東海道線の在来線と新幹線が走っている小さな神社でしたが、二人でお賽銭を奉納し、定番となった「Yumiさんの病気完治と旅のご加護」を祈願しました。
旧東海道の直ぐ近くを走る電車の本数は、在来線より新幹線の方が多く、猛スピードで走り抜けていきます。
浜名湖の上を走る新幹線の写真を撮ろうかと考えましたが、風が強いのと花粉症で、写真を撮ろうという気が失せていて写真は撮りませんでした。
13時30分、西浜名橋(出発)
145 西浜名橋
浜名湖に架かっている三本目の西浜名橋です。
写真では分かりませんが、湖の波はうねっており、魚釣りにきていた人も「この風ではダメだ」と云って、釣り場から引き揚げてきていました。
今のYumiさんは、撮るための位置を口で云っても、手で指示しても通用しなくなっているため、私が両手で直接Yumiさんの体を動かさないとダメな状態になっているので、傍目から見ると何やっているんだろうと思います。
そのため、この写真を撮る時も私が立つ位置を決めている時に、新幹線が後ろを走り抜けてしまいました。
次に来る新幹線の時間が分からないことと、強風の中で待つのが嫌だったので、新幹線が入った写真を撮ることはできませんでした。
結局、西浜名橋は、6分掛かって渡りました。
13時36分、西浜名橋(到着)
少し後ろを歩いているYumiさんを見ると、ザックに入っているはずのフリースを着ています。
浜名湖を渡っている時、強風から体感温度が下がり一人でザックからフリースを出して着たようです。
私は、そのままにして歩いていましたが、風は南風で北風のように寒くはないことと、温度が上昇しているので、汗をかかなければと思いながら歩いていました。
旧東海道は、弁天島駅前付近で国道1号と合流しましたが、国道の右側を歩いてきたので、距離標を確認することは出来ませんでした。
13時43分、新居弁天入口交差点
交差点に着き、今日の旅もあと約500mくらいの処に来ましたが、直線の先に見える到着地は何故か遠くに感じる今日でした。
ここでYumiさんの状況を確認すると、心配した汗をかいているので、再びフリースを脱いでもらいザックにしまいました。
そして、道路の反対側の湖西警察署の前のガソリンスタンドの前を過ぎ、今日の到着地である「新居町駅前」交差点に着きました。
13時53分、新居町駅前交差点着(到着地)
146 新居町駅前交差点
強風の中、花粉症に悩まされた今日の旅は終わり、Yumiさんに到着の看板を掲げてもらい、到着式の儀式(写真撮影)を行いました。
到着式を終わり駅舎に向かって駅前に出て見ると、次回の出発はもう少し先の「新居町駅前地下道横断歩道」信号の方が良いと判断し、到着地を急遽変更しました。
13時55分、新居町駅前・地下道横断歩道信号着(新到着地)
147 新居駅前(到着地)
変更した到着地の看板がないので、当初に計画した看板を掲げてもらい到着式を再度行いましたが、次回の出発の時に改めて到着式を行いたいと思います。
今日の旅は、16.2㎞を6時間20分(休憩・昼食含む)と、2.56㎞/時と少し早いペースでの旅となりました。
これは午後の浜名湖は江戸時代は水上移動で史跡が無いことと、強い風が吹いていたので、足早になっただと思います。
【帰路】
今日の旅の到着式を終え、新居町駅の駅舎に向かい、Yumiさんにジバングで購入した切符を渡し、改札を通りました。
浜松方面の電車の時刻を見ると14時発のため、「Yumiさん、急いで」と急かせてホームに行きましたが、時間になっても電車は来ません。
ホームで風を避けながら待っていると、Yumiさんが寒いと云うので、フリースをザックから出して着させました。
14時05分、新居町駅発
150 新居町駅ホーム
5分遅れて到着した電車は、二人並んで座ることができる程度の混み具合だったので、新幹線に乗る浜松駅までの間(約15分)のんびり過ごすことができました。
《帽子が見当たらない》
さて、隣りに座ったYumiさんが、ガサガサとザックの中の探し物をしているので、
 E=何をしているの?
 Y=ないの
 E=何が?
 Y=(帽子の仕草)これがないの
 E=ザックの中にないの?
 Y=ないの
 E=帽子は一番上に入れたよ
 Y=ないの
 E=さっきフリース(着ているフリースのことを教えて)を取り出した時に落としたのでは
 Y=分からない
 E=無いものは出てこないし、強い風が吹いているから、どこかに飛んで行ってしまったよ
 Y=ふーん
 E=明日、帽子を買いに行こう
と話して、終わりました。
Yumiさんが春から秋にかけて一番被っていた大好きな帽子だったのですが、探しに行けないので、諦めるしかありません。
電車は、4分遅れで浜松駅に到着し在来線から新幹線に移動しましたが、新幹線は出発した後で、ホームで約30分待つことになりました。
急いで新幹線のホーム行く必要がないため、Yumiさんをトイレに連れて行ってからホームに行きましたが、ホームには数人いるだけで閑散としていました。
ホームのベンチに座ると咽喉が渇いたというので、ペットボトルと暑かったのでアイスクリームを買い、乗車口の処にザックを置き、近くのベンチに座って咽喉を潤したり、アイスクリームを食べて待ちました。
 ※新幹線浜松駅ホーム
151 新幹線・浜松駅
14時50分、新幹線浜松駅発
乗車した新幹線「こだま」号は50%くらいの乗車率で空いていたので、二人掛けに座りましたが、停車駅ごとに乗客が増えだんだん混んできました。
帰りの新幹線の楽しみは、新富士付近の富士山を車窓から眺めることですが、今日の富士山は頂上付近に雲が掛かっていて、眺めは写真のとおり残念でした。
153 車窓からの富士山(三島)
新幹線は強風の中の走行でしたが、遅れることなく小田原駅に到着し、小田原から小田急線に乗り換え、自宅に帰ってきました。
帰る途中、家に帰って夕食を作るのは大変なので、途中の中華店に立ち寄り夕食を食べてから帰りました。
【次回の予定】

次回は、4月に
 ●1日目=自宅から移動し、新居町駅~二川駅
 ●2日目=二川駅~名鉄伊奈駅までの旅
 ●3日目=島田にある世界一の木橋・蓬莱橋を見学
の予定です。
また、二川駅~名鉄伊奈駅の旅の途中で、私達が東海道の旅を始めるきっかけとなった山の師匠であるNさんと出会う予定です。
また、お互いの宿泊が豊橋なので、出会いの乾杯が楽しみです。
この旅の目的の一つにしていたので、今から楽しみです。
これからいろいろな資料を調べて旅の準備を行い、旅に出たいと思います。

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【街道旅のご案内】
※《街道旅-2》 旧甲州道中夫婦二人旅
旧東海道に続き、H26.09.15にYumiさんと二人でYumiさんの母親の故郷である下諏訪を目指してお江戸日本橋を出発し、H28.05.30に下諏訪・中山道合流点に到着するまでの15回の旧甲州道中の旅ブログです。
Yumiさんと一緒に出発したのですが、第2回旅の後、Yumiさんが山行途中で転倒し足首を骨折して一緒に歩けなくなり、第3回旅からEiさん一人で歩くことになりました。
ところが縁があって第8回旅からMさんと二人で旅することになり、踏破しました。
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※《街道旅-3》 旧中山道二人旅
旧東海道、旧甲州道中を完歩し3つ目の街道旅としてH28.09.17にお江戸日本橋を出発し、H30.11.07に大阪・高麗橋に到着するまで39回のEiさんとMさんの旧中山道の旅ブログです。
旅は滋賀・草津で東海道に合流してから京都・山科追分まで東海道と同じ道を歩き、山科追分から京街道(大坂街道)に入り、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の69宿+4宿の旅です。
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※《街道旅-4》 旧日光道中二人旅
H31.01.14に日本橋・国道元標前を出発し、R01.11.04に日光・東照宮に到着するまでの9回の旅ブログです。
この旅は日本橋を出発する最後の旅になるので、日本橋の道路中央に埋め込まれている「道路元標」前で出発式を行って出発しました。
旅の紀行は、以下のURLでご覧頂けます。
 
http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/ 
※《街道旅-5》 旧奥州街道二人旅
江戸幕府の街道奉行が管轄していた五街道の最後の街道としてR02.03.21に宇都宮・日光道中追分を出発し、R02.10.03に福島県白河市女石追分に到着するまでの5回の旅ブログです。
温かくなってから出発しようと計画していたら新型コロナウイルスの感染防止が叫ばれるようになり、3回歩いたところで緊急事態宣言が発出され、街道旅を休止せざるを得ない状況となりました。
※3回までは街中を歩くことなく郊外の街道を歩くため、電車の移動だけ気を付けて実施しました。
なかなか感染者数が減少しない状況でしたが、インフルなどが流行する前に歩こうと相方のMさんと話合い、半年後の10月の天気の良い日を狙って五街道を制覇しました。

旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 http://eiyumi-nikkokaido.blog.jp/  
【みちのく潮風トレイル】
環境省がH23(2011).03.11に発生した東日本大震災からの復興に資するために環境省や青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県28市町村におよぶ関係自治体、民間団体、地域住民の協働で策定が進められ、コースは青森県八戸市撫島から福島県相馬市松浦までの沿岸地域に設定され、段階的な開通を重ねながらR01(2019).06.09に全長約1,025㎞のナショナルトレイルとして全線が開通しました。
山仲間のH氏と男二人で80歳までの完歩を目指してR03.10.16に撫島を出発し、福島県相馬市松浦までのトレイル記録です。
旅の紀行は、以下のURLをクリックするとご覧頂けます。
 
https://michinoku-trail.blog.jp/  


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